2001年9月26日水曜日

special2 組織について(2001年9月26日)

 専門的な話です。石ころ(専門的には岩石と呼びます)には、大きく分けて3種類のでき方がある。一つは土砂がたまって固まった堆積岩、もう一つはマグマが冷え固まってできた火成岩、最後はある岩石が熱や圧力で別のものとなった変成岩の3種です。
 このうち変成岩は、もともとあった岩石の構成物である鉱物がまったく別のものに変わってしまったものです。したがってそのつくり(専門的には岩石組織という)は、もとの岩石とはまったく別のものとなるはずです。火成岩や堆積岩にはそれぞれ固有の岩石組織を持っています。そのような組織は、変成作用では消されているはずです。しかし、かなりの高温高圧の変成作用でも、変形が少ない時は、もともとの組織が判別できることがあります。
 岩石は、かなりの圧力や熱が加わっても、一度できた組織はなかなか変わらないということです。これは、社会にもあてはまりそうです。いやまさに社会そのものとも言えます。ある目的で結成された組織は、創世期や発展期は非常に有効化機能したり、変革をできたりします。しかし、老朽化したり疲弊した組織では、機能不全や変革への抵抗が起きます。これは別に珍しいことではなく、よくあることです。会社や各種の団体、行政組織、学会、国家などでしょっちゅう見られることです。では、老朽化した組織をどうすれば変革できるのでしょうか。多分、大変でしょう。
 構成員の大部分が変革を望むというのはありえません。そのような組織はすでに改革されているはずです。構成員は自分の地位、職場、死活問題となるはずです。大変な抵抗が起きるでしょう。このようは状況を打開するには、強力なる指導者のもと、強引に変革をしてしまうか、その組織を解体して、新たに作ったほうが、目的にあった組織が簡単にできるのです。そして、改めてその組織に適切な人間かどうかを判断して、旧組織のエキスパートを再度新組織を加えればよいのです。
 このようなことが簡単にできればいいのですが、なかなかできません。しかし、旧組織は問題があるから、新組織ができるのです。もし、新組織に対抗して旧組織ができれば、それはそれで結果としてはよいことかもしれません。両組織が両立していれば、そこで切磋琢磨してよりよいものになるかもしれません。それは、ケースバイケースでしょう。
 変成岩形成時に、あまりにも圧力あるいは温度が高くなりすぎると、岩石は溶けてしまいます。大量にとけると、それは、マグマとなって、より自分にあった所へと移動をし、火成岩となります。大量に溶けず、変成岩の一部が溶けることもあります。溶けた部分は、そのときの温度や圧力に応じた鉱物の組み合わせによる岩石組織を形成します。それは、火成岩の組織となります。回りの変成岩と比べてやはり違って見えます。これは、外部の圧力や熱によって、マグマになって一旦圧力と熱を消費したからです。
 人間社会の組織の自然の岩石に非常なる類似性を見出すのは「深読み」でしょうか。簡単には組織は壊せません。逆に言えば、だから組織を作るのです。参加者にとって組織が簡単に変化しないから、頼れるのであって、しょっちゅう潰れているような組織には信頼が置けないのです。しかし、つぶすべきときの見極めが大切です。時代や社会が必要としないのに、その組織に固執して、転進をできない人間は、その古い組織とともに消滅する運命にあるのです。そんな人間にならないために、時代や社会の潮流をよく読み、自分の処し方を間違わないことでしょう。べつに要領よく生きることだけが人生ではないのですが、保身を考えるのであれば、よりよく転進をすることも、よりよく生きる処世術ではないでしょうか。

・あなたにとって、宗教と心とは・
 Moさんに宗教について聞かれたことがあります。その答えが以下の内容です。
 あなたの宗教ときかれると、うちの先祖代々の宗教は浄土宗です、と答えます。
 神様はいても良いかもしれませんが、私は、宗教はあまり好きではありません。私は不可知論者です。
 かつて、いろいろ濫読しいるときに、聖書や般若真教、禅の本、各種の神話、古事記、論語などなど、いろいろの宗教書に目を通しました。それはそれで、含蓄もあり面白さもありました。しかし、信じるに足るものでないと確信しました。単に読み物としては面白いと思います。旧約聖書など、SFとして読めばすごいものではないでしょうか。
 そして、たどり着いたのが、不可知論です。そして、科学的精神です。
 でも、私は心の世界を否定するのではありません。いや、私がこの半年間、いや思い越せばもっと長く一番興味を持って時間を割いてきたのは心の問題でした。この心の問題に関して、友人に送った追悼文の中で語っています。長くなりますが、以下で原文のまま、紹介します。
------------------------------------------------
Sa様
 この度は、誠にご愁傷様です。謹んでお悔やみ申し上げます。
 多分、いろいろな人から励ましのメールが行っていると思います。意気を落とさず頑張ってください。
 私は、お悔やみに変えて、自分の経験を話しましょう。
 私の父は、3年前の5月に亡くなりました。1周忌、3周忌が立て続けにあったような気がします。でも、それも1年前。実家は京都の田舎なので、田舎風の昔ながらのやり方で、葬式をしました。初七日まで、毎日人がきて、何らかの行事がありました。毎晩、喪主として立ち会わなければいけませんでした。
 それに、Sa君と同じように、仕事が気になってました。当時、横浜国立大学で非常勤の授業を受け持っていたので、たった1講のために京都-横浜間を新幹線で日帰りをしました。当然、博物館には顔を出しませんでした。でもこんな忙しさも葬式につきもののようで、気を紛らわすという効用もあったようです。
 自分は非常に理性的で、感情に負けない理性を持っていると思っていました。それまで、涙は出なかったのですが、しかし、父の棺を閉める時、焼却炉の前で最後の別れの時、突然自分でもわからないほど、涙が出て止まらなくなりました。
 そのとき、心の隅に追いやられていた理性が、最後の最後に思ったことです。「やっぱり自分にも、どうしようもない感情があったのだ」ということです。それがもしかすると、理性に偏りすぎた私の生き方に対して、最後に父が教えてくれたことかもしれません。
 それはあまりに大きな教えでした。私は、すべてを合理性や理性によって考えることが正しいと考えていました。そして、自分は今までそうしてきたし、他の人も自分と同じように、頑張ったり、望んだりしたら合理的な考え方になれるものだと考えていました。でも、そんな理性的である自分のような人間にもおさえ切れない感情があること、そして当然他人にも同じような感情があることを身をもって知ったです。
 自分にも他人にも、感情を認めることにより、今まで簡単に解決できると考えていたことに、解決不可能な部分があることが、身につまされて教えられたのです。理屈では済まない部分を認知するということです。その土俵でも、ものごとを考えなければならないということです。
 私の興味はそちらに急速に向かっていきました。その内容は、Sa君もご存知の最近の私の世界です。でも、これは、「いくらやっても解決できない」ということが、私の現段階での答です。感情の世界は認めて、やはり合理性の世界を目指すことです。
 つまり、全面解決は求めない。少しでも多くの人の役に立てばと考えるようになりました。
 あと1、2年で、父に宿題も終わりにしようと考えています。大変、長い時間のかかる宿題でした。でも、自分の世界を大きく広げる結果となりました。父に感謝します。
 以上、私の経験と、その後の私の考え方の変化でした。参考になれば幸いです。
------------------------------------------------
以上、Sa君への手紙でした。


----------------------------------------------------------------------

・私は地質学者として、どんな道を歩んできたのか・
 「地球のつぶやき No. 1」のような経緯で、私は地質学を志しました。とにかく、極普通の大学生として、基礎的な勉強をして、野外調査を調査をしていくうちに、地質学が面白くなってきました。卒論では、まだまだ知りたいことが充分知ることができてないと感じていました。そこで、大学院に進学することにしました。
 これ以降は、Umさんへの手紙の後編です。
------------------------------------------------
 北海道大学の大学院は、募集定員7名に対し、同級生が7人ほど受けたのですが、受かったのは1名だけでした。その受かった人は修士課程終了後、就職しました。北海道大学の大学院がだめだったので、Ni先生の紹介で、岡山大学の大学院を受けることにしました。その理由は、岡山大学の温泉研究所(しかし所在地は鳥取県東伯郡三朝町にある)には、私が卒論でやったの似たテーマをやっているTa先生がいるので、そこなら卒論の延長の研究ができるし、設備も非常によいところなので充分な研究ができところでした。ところで、同級生で他の大学の大学院にいたのは、広島大学に1名(彼は研究者になりませんでした)、東北大学に1名(1年先輩でしたが留年で同級生となった。彼は今大学の教員です)でした。ですから、結局、同級生25人中、研究者として残ったのは、25番目の学生の私だけだったのです。
 研究所での研究生活の話しは、また、長くなるので、省きます。実は、ここで、第1度目の「研究者魂」(研究する心、真摯な心のようなもの)を身に付けました。そして、指導教官であるTa先生とは家族ぐるみの付き合いとなっています。ただ、研究テーマは、日高から中国地方の岩石に変更になりました。
 そして、大切なことは、研究者魂とそれを最優先する生活を送ることです。そのためには、自分を自由に転進させていいし、自分のやりたいことを実現するために、自分で環境は選択していくののだということを学びました。そして、北海道大学を出ることによって、北海道大学を客観的に見ることができました。このような心を身に付けることができたことが、他の大学へ転出した一番の成果でした。
 その後も研究が続けたいので、博士過程に進むことにしました。当時、岡山大学には修士課程しかなかったので、博士課程は別の大学に行かなければなりませんでした。どこの大学でもよかったのですが、一身上の理由(これも話すと長くなるので省略)があって、札幌に行くことにしました。博士論文では、中国地方の岩石の研究をより範囲を広げておこないました。
 博士課程終了後、職が見つからず、北海道大学の研究生をしながら、1年間、地質コンサルタントの委託として過ごしました。その後、このままではいけないと思い、前にいた岡山大学(この時は地球内部研究センターという組織になっていた)に新しく来たNaさんという助手と、新しいシステムを開発しながら、世界一級の研究しようと意気投合しました。私は、札幌でのすべてを捨てて、鳥取県三朝町行きました。そこが、地球内部研究センターというところです。そこで、1年間、研究生として過ごしました。2月で委託はやめて、3月に札幌で、1ヶ月間、地質調査のアルバイトをして半年分の生活費を稼ぎ、8月にも同じように1ヶ月札幌で働いてあとの半年分の生活費を稼ぎました。2年目からは、学術振興会の特別研究員として、研究費と給料をもらって研究生活をしました。
 センターでの研究者生活は、非常に大変でしたが、一級の研究者になるために必要な研究者魂を学びました。その魂とは、一級の目標を設定し、それを目指して適切な努力をすれば、2、3年で1.5流程度にはたどりつけることです。それなりの成果を得られるという実感です。そこには、ゼロからスタートしても、お金も、権威もがなくても、研究者自身の努力とアイディアがあれば、到達できるということです。ここには、そのような魂を持った、それこそ世界一級の研究者がたくさんいたのです。その一員をめざしてがんばったのです。
 センターで行ったことは、世界各地では極当たり前にあったのですが、地球科学の研究室で、極微量のPb(鉛)の同位体測定を精度よく分析できる研究室は、日本にはありませんでした。そこで、精度では世界一級のレベルのPb分析システムを作ることが目標となりました。最初は、部屋の掃除から始めました。そしてきれいな水づくり、きれないな薬品づくりと進み、最終的には世界一級のレベルにまで達していました。それが3年間でできたのです。すごい自身となりました。その論文が日本ある学会では認められず、他の学会の雑誌には掲載されました。そこで、日本の学界の古い体質や努力の足りなを感じました。まあ、これは一部の学会ですが。
 2年間の特別研究生の期間が終わるとき、神奈川県立博物館で、新しい博物館をつくり、世界で2台目となる分析装置(SHRIMPという2次イオン質量分析計と呼ばれる装置)を導入する予定であるので、その操作ができ、研究もできる人ということで、呼ばれて、博物館に来ました。当初から、10年間のつもりで博物館に入りましたが、早10年は過ぎてしまいました。そして、その夢の器械は、バブルの崩壊と共に、夢と消えてしまいました。
 でも、博物館で、私は、科学の研究を続けながら、科学教育というものに目覚め、それも研究として取り組むことにしました。今では、教育が主で、科学が従の状態ですが、私とは満足しています。そして、このようなメールマガジンやホームページを始めるようにあったのも、科学教育という気持ちがあったからなのです。
 でも振り返ると、20歳で地質学を始め、25年の月日が流れました。そして、さまざまな経験をしながら今の自分に至っています。人生とは不思議なものです。そして、面白いです。次にはどんな展開があるのでしょうか。
------------------------------------------------
以上です。

2001年9月20日木曜日

special1 サラとの対話(2001.09.20)

 去年(2000年)7月にグリーンランドに行ったとき、サラという名のグリーンランディックのアパートに6日間民宿しました。グリーンランディックとは、私たちの血縁のあるイヌイット(エスキモー)と同属の人達です。サラと、ある夜、宗教と失われていく文化の話になりました。その対話で感じたことを、少し紹介しましょう。
 今回は、地球と関係ない話ですが、グリーンランドに行ったとき感じた、民族、宗教、文化などについて考えます。
 グリーンランドでは、グリーンランディックのアパートに民泊しました。5泊6日の予定で、グリーンランドの州都ヌークに滞在しました。おばさん(サラ)とデンマークに出かけている娘さん(土曜日に帰ってくる)の二人住まいです。サラの一家は、長女、長男、次女の家族で、お父さんがデンマークにいて、長女はアイスランドに住んでいるそうです。私たちがいた前半は、同居している次女が、デンマークのコペンハーゲンに遊びに行って、留守でした。サラは、15日にアイスランドへ行く予定でした。
 前夜、サラは、コペンハーゲンに夏休みで遊びに行ってた娘が帰って来ると、喜んでいました。夕方、民宿のアパートに帰ってくると、サラが、悲しそうな顔をして、アルコールを飲んでいました。原因は、帰ってきた娘が、帰宅を楽しみに待っていた母親とゆっくりと話しもせず、友達のところに遊びに行ってしまったからです。でも、サラの悲しみは、もっと深いところへと入っていきました。
 サラは、酒を飲みながら、グリーンランディックのビデオを見せながら、いろいろなことを語りました。サラの深い悲しみは、グリーンランディックの文化が薄れていくことでした。グリーンランディックは、グリーンランドを独立国のように考えていますが、実際にはデンマーク政府の助けなしには、やっていけません。
 グリーンランディックたちは、狩猟と魚労生活者でした。グリーンランド各地に、小さな集落を作って、移動しながら生活していました。デンマーク政府は、グリーンランドを統治するために、グリーンランディックを、ヌークやいくつかの都市に集め、教育をします。デンマーク語の教育も当然受けます。グリーンランディックは、自分たちのグリーンランド語を守りたいのに、デンマークからの華やかな情報が、グリーンランディックの街には氾濫しています。
 グリーンランディックの子供たちは、デンマーク語を日常語として操り、デンマークのコペンハーゲンを憧れの地として、やがて、多くのグリーンランディックの子孫たちは街を後にしていきます。当然、時を経るにしたがって、グリーンランディック固有の言語、文化が廃れていきます。
 サラから、日本人の宗教と失われゆく文化について聞かれました。
 宗教については、日本人は、もともとは神道であるが、仏教も受け入れ、近年にはキリスト教の文化も受け入れている。日本人は、一見、多宗教で、各種の宗教的儀式をおこなっているが、実は無神論者(atheistエイシスト)ではないか、と答えました。
 そのときは、英語単語思い出せなかったのですが、私がいいたかったのは、不可知論者(agnosticアグノスティック)だということです。不可知論者なのは、私が、科学を一生の仕事として行っていくつもりであるからだ、と答えました。
 西洋では、無神論者というのは非常にきつく聞こえます。東洋ではそれほどではないのですが、西洋で、無神論者というと、神を信じている人を否定するような立場をとったり、共産主義者のような唯物論者というほど、きつく聞こえるようです。不可知論者というと、神の存在は、人間には知りえないとする立場で、背景に哲学的な立場をもって、そのようなことは議論してもしょうがないとする立場です。知識人には通用する言葉で、歴史のある言葉です。
 そして、失われていく文化に対して、私自身は、サラに聞かれるまで、ほとんど気にとめていませんでした。守るべきか、それとも悲しみながらも、時の流れとしてあきらめるか、未だにサラに答えを示すことができません。

・あなたにとって、文化とは・
 グリーンランディックのサラは、漁労生活を子供時代に経験しています。でも、サラは、野生動物の絶滅は、気の留めていませんでした。
 日本には、自然保護者やナチュラリストとして絶滅動物や自然を守る人はたくさんいます。これは、ヒト以外の種(しゅ)を大切にするということです。
 サラのように、今亡くならんとする文化を嘆き、守ろうとするする人は、日本において、自然保護者より、多いのでしょうか。
 私が、グリーンランドを訪れて、早、1年以上経ちました。このエッセイでも、サラに対する答えは出せませんでした。このエッセイをお読みのかたは、サラに、どう答えますか。もしよろしければ、お聞かせ下さい。

----------------------------------------------------------------------

・私にとって、地質学とは・
 このメールマガジンで、科学や地質学について議論をしました。ここでは、特別号なので、私的なことですが、私が地質学を始めたきっかけを、紹介します。
 Umさんは、「そういうマイナーな学問を敢えて選ばれて専門家になられた小出先生は、どうしてそれを選ばれたのでしょうか。そのきっかけとか、魅力の発端とか」について聞いてこられました。それで、私は以下のような回答をしました。
-------------------------------------------------
 これは、話すと長いのですが、少しお付き合いください。お話しましょう。もしかすると、この文書も特別篇に掲載するかもしれません。ご了承を。
 私は、京都府城陽市(子供の頃は久世郡城陽町だった)生まれです。子供の頃は、田舎の昔ながらの古いしきたりの残る町でした。しかし、伝統やしきたりというのも嫌で、京都のような都会が嫌でした。それがなんとくなく、ずーっと心のどこかにあり、大学を選ぶにあたって、親元を離れたいということが一番にありました。それと大学を選ぶときの選択肢として、都会でない自然があるところ、暑くないところなどという希望がありました。
 できれば国立大学にいきたかったので、国立の1期校(古いですね、昔の7つの帝国大学のことです)の中で選択し、滑り止めとして国立の2期校も受けることにしていました。国公立への進学希望する人の大半は、この選択肢に公立大学を加えてたようなものでした。ですから、私の選択は、ごく普通の選択でだったのです。
 京都大学と大阪大学は通えるので、家を出たいという希望を優先するため、候補からはずしました。東京大学と名古屋大学は、大都会にあるという理由でやめました。そして、九州大学は暑いので消えました。残ったのは北海道大学と東北大学でした。大学で何が学びたいのか、はっきりしていなかったので、漠然と理系の希望しかなったのです。物理学、天文学、海洋学あたりがいいなと漠然と思っていました。ですから、当時、北海道大学は、理類、文類という大枠での学生を募集をしておりましたので、希望に一番かなっていました。
 ところで話は変わりますが、私は京都の公立高校に入ったのですが、その高校は、新設校で第一回入学生という誉れ高き学生となりました。つまり、常に最上級生です。グラントの半分は古墳発掘のため使えないとか、クラブもいくつかしかないとか、などのハンディもありましたが、結構、高校生活を楽しみました。しかし、一番のハンディは、学校が放任主義でした。これは、学生生活を自由に謳歌させる反面、大して受験指導もしていませんでした。ですから、のびのびとした高校生活を送れたのでしたが、いざ大学受験となると、その青春の謳歌のツケがきました。自分自身では、受験の準備はかなりしていたつもりでした。が、受験はことごとく失敗しました。
 第一希望は北海道大学、第二志望は静岡大学で、滑り止めは受けませんでした。うぬぼれが強いというか、世間知らずというか、予備校も塾も行かずの独習の受験でした。
 結局、京都駿河台予備校というところに入って、1年間浪人をしました。1年後の受験で、滑り止めとして東京理科大、立命館大学、京都産業大学を受けて、すべて、受かりました。そして、当時、入学金や授業料の一番安かった立命館大学に入学金を収めた後、1期校として北海道大学を受けました。確実に国立校に入るために、2期校として信州大学を受けることしていました。幸い、北海道大学に受かったので、行くことにしました。
 さて、望みどおり、専攻の未定の理類に入学しました。札幌での生活は、経済的な理由で、大学の寮に入りました。その寮はバンカラで有名な恵廸(けいてき)寮でした。ここは、一部屋5名の共同生活が基本でした。しかし、この経験は何事にも変え難い人格形成に役立ちました。その友人関係は、今も続いています。この寮は教養部学生だけの寮でした。そこでは、まさに、青春を謳歌しましました。私も含めて、寮生は、ガックラン(詰襟の黒の学生服)、高下駄という旧制高校のバンカラ学生さながらのアナグロな服装で日常生活をしていました。この恵廸寮も老朽化のため、一部は北海道開拓村に移築され、解体されました。いまでは、大学院生まではいるりっぱなアパートのような学生寮となっています。
 そんな共同生活の中にも、不満がありました。自分一人時間がなかなか持てないということです。私は、一人になりたいために、選んだのが単独の山登りでした。札幌近郊の低山を一人で、ぽつぽつと登ってました。そのうち、山や自然が好きで、学部では、フィールドワークをするような分野に行きたいと思うようになりました。
 北海道大学では、学部は教養の時の成績順に希望を通しました。私の成績は、中くらいでした。でも、そのような山歩きの経験で、野外調査を主とするような学部学科に行きたいと考えるようになりました。
 実は、これも話すと長いのですが、寮生活で、こんな楽しい生活を1年半で終わらせるのはもったいないと思いました。そして、留年(落第してもう1年教養部に在籍し寮に残る)計画を立てました。そのために両親も何とか説得しました。そして、必修の科目である語学の単位いくつかを落したのです。2年生の前期(後期からは学部に移行)最後の試験を計画的に受けなかったのです。しかし、なぜか、落とすはずの語学の一つが通ったので、学部移行することになってしまったのです。その先生の好意(もしくは単純なミス)がなければ、もしかすると私の人生が変わっていたかもしれません。それからが大変です。学部に行くことが決まったので、再試験や追試を可能な限り受けて、成績を少しでもあげる努力をしました。そのとき、皆からは、「まさにお前は、落ちこぼれだ」と皮肉を言われていました。しかし、その留年計画の影響と努力不足で、2年間で終わる語学を、3年生の後期まで受けていました。
 学部の一番の希望は、理学部生物学科でした。でも、そこは狭き門で、私の成績では行けそうにありませんでした。私の希望を満たし、かろうじて行けそうなのが、農学部の林学科と理学部の地質学鉱物学科でした。林学科はだめでしたが、地質学鉱物学科は、その年から募集人数を20名から25名に増員していました。その地質学鉱物学科の25番目の学生として、理学部の学部生になりました。
 これが、私が地質学に入った経緯です。ここからさらに、地質を専門とするためにストーリーが始まりました。お聞きください。
 地質学が好きになるきっかけに、Ni先生の出会いと、ビリで移行した負い目がありました。
 まず、Ni先生のとの出会いです。学部に移行すると、学科の新入生歓迎のコンパが盛大に催されます。そこで、先生との出会いがあります。Ni先生です。Ni先生はまだ、助手になったばかりで、非常に新進の研究者としてもアクティブな感じがしました。そんなNi先生と、私と、もう一人の山が好きだという同級生と話しているうちに、日高山脈に地質調査に連れて行ってくれることになりました。私にとっては初めての長期に渡る山登りでした。でも、この日高の2泊3日の地質調査で、山の面白さと地質学の面白さ、そして大変さを実感しました。それ以来、Ni先生とは卒論の指導もしていだき、博士論文まで、面倒見ていただくことになり、現在もお付き合いは続いています。
 もう一つの25番の学生という負い目は、果たしてこんな自分に地質学で卒業論文が書けるだろうかという不安があったのです。皆自分よりできる連中です。なにせ私は25番目の学生ですから。したがって、一生懸命勉強するしかありません。それに、親しくしていたNi先生は、岩石学の実験を担当していましたので、岩石のこともしっかりと知っておく必要がありました。
 でも、地質学はそれまで全く興味がなかったのです。高校で地学も面白いとは思ってもいませんでした。でも、必修で地学はあったので習ってはいましたが、受験では物理と化学で受けました。それに、24番目以上の同級生たちは、地球科学に何らかの興味がある連中だし、頭もよかったのです。基礎的なことを知ってないと付いていけないと思いました。ですから、地質学鉱物学科の講義は、すべてとることにしました。一応、それで、すべての単位が揃うことになっていました。
 あと、近眼が進んでいたのも、勉強するには役立ちました。当時まだ、メガネをしていませんでしたので、黒板が見にくいため、最前列で多くの講義は聞いていました。最前列で講義を聞く。それが、勉強するために、自分に課したことでもありました。最前列だと、うかうか寝てられません。それに、ノートも一生懸命とりました。
 そのような理由が、複雑に絡み合って、卒論は、日高山脈の西部をフィールドとしました。そこで、山を一人で歩く、自由さ、面白さ、それと怖さをしりました。卒論で約3ヶ月山に入っていました。宿泊は、ダムの工事現場の飯場に泊めてもらっていました。しかし、飯場の人は、「今日はどこの沢を調査する」と地図で示しても、地図が読めませんでした。もし沢で転んで動けなくなったら、死んでしまうかもしれません。だから、非常食と非常用テント、防寒シートは常にリックに入れていました。そんな調査をしていくうちに、地質学が面白くなりました。でも、卒論では、まだまだ知りたいことが充分知ることができてないと感じていました。そこで、大学院に進学することにしました。
-------------------------------------------------
 このようにして、地質学への道への入っていたのです。自伝のようになりましたが、これが、私が、地質学を志した理由です。Umさんには、もう少しメールとなっていましたが、ここでは省略しました。
 書いているうちに、もっともっと、あれも書きたい、これも書きたいと思うことが多々出てきました。興味がおありでしたら、別の機会に紹介しましょう。