2004年10月1日金曜日

33 科学と心と宗教(2004年10月1日)

 宗教と科学は、なかなか相容れないことがあります。また、心の問題を、なかなか科学的に解くこともこともできません。心の問題は、科学と宗教のどちらに分類されるのでしょうか。宗教と科学は、考え方によっては相容れたり、融合することもあるのではないでしょうか。そんな科学と心と宗教について考えました。

 日本では、科学と宗教の論争がそれほど表立って行われることがありません。しかし、欧米では、キリスト教などの宗教を信じる人が多く、今も生命の起源や生物の進化について宗教家と科学者の論争が行われています。また、生物進化を教えることは問題であるということで裁判になったことも何度もあります。S.J.グールドがエッセイに書いているので、有名ではないでしょうか。
 欧米では、宗教が、政治問題や裁判、時には戦争を引き起こすこともあります。現在、多くの交際紛争や民族闘争の背景には宗教に関係した問題があるではないでしょうか。現在社会においても、宗教は科学と同様重要な役割があるようです。
 ところが、日本人は宗教に関しては、オウム真理教で少し敏感になりましたが、まだまだ無頓着のような気がします。これは、日本の宗教観と欧米の宗教観の違いではなのでしょうか。あるいは、キリスト教やイスラム教などの一神教と、仏教や神道などの多神教による違いなのでしょうか。それとも、単に国民性の違いなのでしょうか。よくわかりません。
 かつては、自然やこの世の真理を探るために、科学も宗教も区別なく考えられてきた時代がありました。共存していたといってもいい時代もありました。しかし、いつのころか、科学が一方的に進歩を続け、科学的方法論が確立されて以来、両者が相容れることがなかなか難しくなってきました。
 ここでいう科学的方法とは、論理性とそれを裏付ける根拠のことです。根拠とは、客観的事実、実物、標本、現象、実験結果など、だれでも手にできる素材、情報、データを基にしたものです。それらの根拠を元に、論理をくみ上げていきます。この根拠によって論理が正しく構築できれば、科学的に論理は成立します。これを科学的方法と私は呼びます。
 ただし、同じ科学的手法を用いても、人によっていろいろな論理が生まれる可能性があります。そんなときは、論理の優劣は、議論によって、根拠の多い少ない、論理の詳細なるチェックなどによって判断されます。ただし、優劣が付かないことも多いですが。
 同じ科学的手法に則っていれば、論理を提唱した研究者のキャリアや肩書きに関係なく対等の立場で議論されるべきものです。科学的方法は、大変フェアで、客観性のある方法です。しかし、実際のところ、科学も人間の営みですから、偉大な学者、著名な研究者の論理や説が、通りやすいことが往々にして起こります。これは、科学の極めて人間的な部分です。まあ、これは今回の論旨とは関係がないので、ここまでとしましょう。
 さて、科学的手法において重要な点は、新しい根拠がでてくれば、古い根拠によっていた論理は、いとも簡単に捨て去られるということです。科学は、常により確からしいものへと新陳代謝をしつづけています。どんなに偉大な研究者の成果でも、捨て去られます。ニュートンやアインシュタインも例外でなく、不備が指摘されています。ですから、科学において真理などというものは、存在しないのかもしれません。
 宗教は、かつては科学と同じような土俵で論争していましたが、現在では、人の心や生き方の指針として重要な役割を果たすようになってきました。私は、宗教が人の心の問題をサポートするという役割において必要だと思います。
 もちろん、上で述べたように同じ土俵で科学と宗教で論争されることもあります。しかし、これは、私にしたら、不毛な論争になりかねないことだと思います。
 こんな例を出しましょう。「幽霊は、いるか、いないか」ということについて「いる」派と「いない」派に分かれて論争することを考えてみましょう。
 「いる」派は、どうすれば「いない」派を説得できるでしょうか。それは、幽霊が「いる」という証拠を、科学的に検証できる、あるは誰もが納得するような論理で提示ですればいいのです。逆に「いない」派は、どうすればいいでしょうか。論理的に「いない」ということを証明するには、ありとあらゆるところやものの中に、「いない」ということを、検証していく必要があります。つまり、この世に幽霊がいないということを示すことは、論理的に不可能なのです。この議論で有利なのは、もちろん「いる」派です。なぜなら、たった一つの幽霊の証拠を見つけてくればいいのですから。でも、それが出せないわけです。ですから、この論争は決着を見ない、不毛なものになってしまいます。
 この議論を、「神がいるかいないか」論争に置き換えると、どうなるでしょうか。もし、神というものが、役に立たない存在であれば、とやかく言うのは無駄なことです。しかし、神は、人間の生活、特に精神性生活、心の営みの中で重要な役割を果たしています。ですから、神は多くの人たちにとって、いようが、いまいが、必要なのです。ですから、いるか、いないかという決着を見ない不毛な論争をするのではなく、お互いに相手の存在理由を認めた上で、共存すべきではないでしょうか。
 生物の誕生の様子や、生物の進化の科学的理論は、まだまだ不十分です。でも、科学はその領域へと手を伸ばしています。心のありかについても、脳の科学はかなり核心に迫っていると思います。かつては神の領域であったものが、今では科学の領域となってしまったものがたくさんあります。
 でも、どんなに分子生物学が進歩して生物を理解したとしても、美しいという気持ちや、それを大切にしたい思い、守りたいという心、共に生きていきたいという願いなどは、科学的論理から導き出せないでしょう。あるいは、人間としてして、もはや手の出せない段階、たとえば、すべての準備が整ったロケット打ち上げを待つエンジニアや宇宙飛行士、故障によって墜落する飛行機の乗客は、何もできません。そんなときある人は神に祈るでしょう。祈っても結果に影響がなくても祈ります。そんな人の振る舞いは、決して科学の領域で、決着の見ないものです。そんな時、人にとって神は必要なのです。だから、多くの人が宗教を信じ、すがっているのでしょう。
 日常的な行動指針として、宗教は重要な働きをします。だれも見ていないとき、悪いことをする心をいさめるのは、自分の心しかありません。日々の地道な努力や、失敗したときの慰めをしてくれるのは心です。そんな心を鍛えてくれるのは、人によっては宗教かもしれません。
 宗教が科学的でないから不要という論理は、短絡的で論理的でありません。科学の世界のある場面では、科学的手法は正しいかもしれません。でも、もっと広く、人間の世界では、その論理は真ではありません。科学は人間が生み出した極めて人間的な営みです。かたや宗教も、極めて人間的な営みです。その点では両者は対等ですし、人によってはどちらかの方が優先するかもしれませんが、いずれか一方で人間の世界が成り立たないのです。人間の心の問題を解決するには、宗教はまだ必要なのです。だから存在し、意義があるのです。
 私の尊敬する科学者である、S.J.グールドやカール・セーガンは、宗教には否定的です。でも、私は、科学と宗教が相容れないものではなく、共存すべきだと考えています。あるいは、宗教を心の営みと呼び変えていいかもしれません。宗教や心を拠り所とするかしないかは、人それぞれです。
 私は、生きる上で宗教を利用しません。私は、地質学者と科学を信奉し、無宗教です。でも、心は理性より人間とって、重要な働きをすると思っています。以前の私は理性至上主義の立場でした。しかし、心の発露というべき感情に左右される自分の理性を経験したことによって、私にも、心の重要性がわかってきました。その延長線に宗教が位置すると思っています。ですから、私は宗教を信じていませんが、宗教の存在とその必要性は認めます。もちろん周りの人が宗教を信じていることも容認します。そして、できうれば、科学の宗教の縄張り争いはやめ、時代と共にその住む領域を変化させながら、共存していけばと思います。

・心は手ごわい・
 このエッセイはある読者から、受けた意見に対するものです。
 10年ほど前であったら、私はこのようなエッセイは書かなかったでしょう。なぜなら、かつて私は、宗教が必要悪だと思っていました。聖書や般若真教、禅の本、神話、古事記、論語など教養と思って読みました。経典は科学的でなく、信じるに足るものでないとして、単に読み物として面白いと思うに過ぎませんでした。旧約聖書など、SFとして読めばすごいなどと嘯いていました。
 しかし、父の死を契機として、私は、理性と感情、そして心の問題を考えるようになりました。そして出した結論が、理性(科学)と感情(心)とは一人の人間の中で共存すべきだということでした。そのあたりには、以前のエッセイにも少し書きました。
 宗教を信じること、あるいは無宗教であることは、恥ずべきことでないし、かといって人に強制すべきことでもありません。たとえそれが教師であっても、親であっても、強制すべきではなく、最終的に人それぞれ、自分で判断すべきことだと思います。
 私の場合は、常日頃は理性を重んじて行動し、最終的には自分の心の命ずる判断に従うということが行動指針になりました。どんなに抵抗しても、自分の心は手ごわく、最終的には理性が妥協するしかありませんでした。でも、おかげで、人が見ていようがいまいが、自分の心に恥じないように生きるようになりました。例えば、些細なことでいえば、返ってきたつり銭が多ければ、得した思うのではなく、自分の心は戻すことを選びます。日々のこととしては、つらい毎日を手を抜かずに過ごすための監視役は自分の心です。どんなに結果がうまくいっても、その過程で手抜きをしていれば心は満足しません。正直者が損をすることとわかっていても、正直に生きることを心は選びます。
 私の中で、科学と心の共存を悟ってから、日々心に恥じないように生きることを目指すようになりました。これは、宗教に帰依し、その戒律を守ることに合い通じる生き方ではないでしょうか。ですから、誠実に真摯に日々を生きる手法として、私のように無宗教ですが心を大切にする生き方でもいいし、宗教の教えを守ることによって生きる方法もあると思います。
 Nanさん、少し話題は違いましたが、宗教に対して出した私の結論は、このようなエッセイになりました。いかがでしたでしょうか。よろしければ、ご返事をください。