2006年2月1日水曜日

49 化石:生命と物質の狭間(2006.02.01)

 化石は、過去の生物の姿や形を知り、生活を探り、生物の進化を考えるために重要な証拠となります。そんな化石について、今回は考えていきましょう。

 人は、いつの頃からかは分かりませんが、古くから化石を見出し、化石に関心をもってきたようです。古い記録では、クロマニョン人が化石に興味を抱いていたことは分かっています。それは、遺跡から出土した首飾りに貝化石が使われていることからもうかがわれます。今では、化石というと、過去の生物と誰もが思い描きます。でも、化石が過去の生物であったというのは、正しいのでしょうか。その点について、考えていきましょう。
 学術的な化石の定義は「過去の生物の一部や痕跡」(古生物学事典)となっています。この定義を少し詳しく見ていきましょう。
 まず、「生物の一部」というのは、化石は、生物そのものではありません。ですから、化石とは生物の体の一部だけが、残っているものです。例えば、歯や骨、殻、葉、種、花粉など、長い時間を経ても残りやすいものが石化して、化石となります。まあ、石化していなくても化石と呼びますが。
 次に「痕跡」とは、2つの意味合いがあります。まず、足跡、はった跡、巣穴、食べた跡、排泄物など、生物がつくった、成したものが残っている場合です。生物の体の一部ではないのですが、化石に含めます。もう一つは、もともとは体の一部であったのですが、例えば、貝殻が長い時間のうちになくなってしまったの場合です。もとの化石がなくなっても、その貝の形が地層に残ったり、別の物質や鉱物に置き換わったものも化石としています。
 このようにいろいろなものが化石に入れて定義されています。過去の生物を調べるために化石は、非常に重要な素材です。ですから、化石の定義を広くして、過去の生物を調べる手がかりを増やそうとという配慮されているからです。
 なんと言っても、化石では、過去の生物の一部ということが、重要な点であります。しかし、実はそこが一番問題でもあります。
 過去の生物とは、過去のある時点に生きていたものということです。つまり、化石のとは、過去に生命をもっていたものの一部であったかということです。単純化して書くと、「化石=生命」となります。この命題が正しいかどうか、ということです。
 少なくとも、化石は、現在、生きていません。だですから、現在、化石は生命ではありません。では、今は亡き生命を化石から探ることが可能でしょうか。言い換えると、化石という過去の生物らしき物質に対して、もともとその物質は生命を宿していたかどうかは、どうして調べていくのでしょうか。非常に困難です。現段階では、化石からその答えを出すことは不可能です。生命とは、現在生きている生物だけ有する属性で、死んだものは持ち得ないものだからです。ですから、化石から、過去のその物質に生命を宿していたかどうかを検証することはできません。つまり、知りえない不可知のことがらとなります。式で書くと「化石(不可知)生命」となります。
 生命論は、現在の生物学でも結論の出ていないものです。ですから不可知論的な議論を持ち込むと、訳がわからなくなるので、この方向で考えるのはやめましょう。したがって、以下では、生命よりは実態のある生物というもので、考えていきましょう。
 では、「化石=生物」という命題は本当に正しいのでしょうか。少なくとも、化石は、現在、生命を宿していないので、定義の上では生物ではありません。つまり、「化石≠生物」となります。
 では、化石の定義でもある「化石=過去の生物」という命題は、大丈夫でしょうか。実はこれも、論理的には、化石に対して、かつて生きていたかどうかを問うことになるので、論証不可能です。「化石(論証不能)過去の生物」となります。
 なにか堂々巡りしているようです。多くの科学者が「化石=過去の生物」と認めているのだからいいのではないかという人もいるでしょう。でも、こんな反論があったとしたらどうしましょう。
 今私たちが見ている化石は、すべて自然の営みによってできた、生物と関係のない、無機的産物にすぎないのではないか、というものです。いってみれば「偶然の産物」あるいは「自然のいたずら」で、化石の成因を説明しようという反論です。
 これは、実は、なかなか手ごわい反論なのです。この反論を、完全に否定するためには、化石が過去の生物であったという証拠を出さなければなりません。過去の生物とは、今はもういない絶滅してしまった生物です。絶滅したから、過去の生物なのです。だから、絶滅した生物を出すことはできない相談です。ですから上で述べた論証不可能な命題となります。つまり、「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説を否定しきれないのです。
 ここで出した「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説は、「造形力説」と呼ばれるもので、アリストテレスが唱え、西洋では長く信じてこられた考え方です。この考えは、キリスト教と結びついて、自然のかわりに神が使われていました。化石は、「神の戯れ」や「神のいたずら」と考えられていたのです。この造形力説に立てば、過去の化石として、何が出てきても不思議ではなかったのです。
 この造形力説は、最終的に決着をみていません。つまり、完全に否定されていないのです。ただ、ダーウィンの進化論やハットンの斉一説によって、長い時間をかけて生物は進化してきた、地球は今起こっている現象、作用によって過去も作られたという考えが受け入れられてきました。
 その結果、生物は進化してきた。生物の進化を調べるには、「化石=過去の生物」前提をおけば、化石を調べれば生物が進化してきたという証拠が集まると考えられてきました。化石は、進化論にとって、有力な証拠となりました。しかし、残念ながら「化石(論証不能)過去の生物」のままなのです。
 現在の科学は、この論証不能を切り抜けるために、いくつか苦肉の策を講じています。
 まず、大量の化石と現生生物を多くの観点での比較おこない、似ているという傍証を大量に提示します。その量を持って、「過去の生物であった」と仮定をもっとらしく見せています。量をもって、一見質的に正しいという錯覚を起こさせています。でも、論理的には、論証不能なのです。
 多くの科学者は論証不能なのですが、「化石=過去の生物」という関係を信じています。そして、多分これは正しいのでしょう。ですから、「化石=過去の生物」という関係を前提に築き上げられた体系は大丈夫でしょう。でも、どこかに一抹の不安が残ります。そんな不安を少々することが時々起こります。
 1996年、モージスたちが、グリーンランドにある約38億年前の堆積岩(地球最古の堆積岩)中の燐酸塩鉱物(アパタイト)中の炭素組成を調べて、生命活動の痕跡だと指摘しました。炭素組成とは、バイオマーカー(生物指標化合物)と呼ばれるもので、炭素同位体や化学的に安定(2006.02.01)
 化石は、過去の生物の姿や形を知り、生活を探り、生物の進化を考えるために重要な証拠となります。そんな化石について、今回は考えていきましょう。な炭化水素(炭素と水素の化合物)を、生物の指標にできると考えられているものです。
 このデータが本当の生物かどうかについては、いろいろ議論されました。なにせ、生物どころでなく、化石でもなく、化学組成だけで、過去の生物であったかどうかということを議論するわけです。そんなとき、生物とはなにか、生物の活動とは、何を持って証拠とするのか、などが問い直されます。しかし、これは、なかなか答えのでない、堂々巡りのような議論を生みます。
 この問題は、思わぬことから決着をみました。それは、2002年に出された報告で、モージスたちが分析した岩石は、マグマからできた火成岩で、堆積岩でないことがわかったのです。マグマからできた火成岩から、どんなデータ、証拠が出たとしても、それは生物の痕跡とは認定されません。これによって問題は一件落着しました。
 この例のように、生物の起源や初期の生物を考えるとき、やはり、「化石と生命」や「化石と生物」の関係や根拠ということが問題になります。化石とは、生物とは、生命とはという、原点にもどされるような問いを、どうしても突きつけられます。そんな時不可知論的な問題を考えざる得ない状態になっていきます。古生物学者で最古の生物化石を探すとき、いつもこの点が論点となっていきます。

・最古の生命探し・
 グーリンランドは、約38億年前の堆積岩がでます。ですから、地球最初の生命を探すのであれば、グリーンランドとなります。ですから、1996年のモージスたちの報告が最初ではなく、過去に何度か調べられています。
 1978年に、ドイツのフラッグは、イースト菌状の丸いものをたくさん見つけ、化石と同定して学名までつけました。しかし、その後、その丸いものは、石英という結晶ができるときに取り込まれた液体であることが判明しました。これが最古の生命発見と間違いの物語です。
 ドイツのシドロウスキーは、グリーンランドの堆積岩から抽出した石墨の炭素同位体組成が、生物起源の炭素であるとしました。しかし、そのような炭素同位体は無機的(生物によらず)に合成できることが証明されました。また、最古の生命の発見は失敗となりました。
 そして、1996年のモージスたちの報告へとつながります。これが3度目の間違いでした。
 多分、今日も誰かが新しい手法や新しい考え方で、グリーンランドの堆積岩を調べていることでしょう。まだ、最初の生命痕跡の発見は聞いていませんが、いつその報告がでるかわかりません。楽しみでもありますが、また決着のみない議論がおこるのではなかというむなしさもあります。でも、プラス思考で、今度こそ確実なものができるのではないと期待していたいものです。

・教員とは・
 大学は、昨年暮れの推薦入試に続いて、これから一般入試がはじまります。国立大学の入試は3月ですが、私立大学は2月が山場です。そこで、応募者がどれくらいか、受験者は、合格者は、入学手続き者はと、数字を見ながら一喜一憂するわけです。
 しかし、そんな数字は事務サイドの関心事で、教員は入学した学生をいかに育てるかが問われているのだと思います。学生たちが、大学を卒業して社会に巣立つとき、この大学で学んでよかった思えるような教育をしてきたいものです。
 でも、すべての学生に対して達成することは困難です。毎年退学者がある一定の比率いることが、その困難さを示しています。これは、私立大学だけでなく、国公立や一流大学でも同じことが起こっています。
 でも、困難だからといって、教員は手の抜くわけにはいかないのです。卒業する学生にはこの大学を選んでよかったと思えるものがきっといるはずだからです。言葉として聞けなくてもいいのです。教員はそんな学生がいることを信じて教育しているのですから。そして、一人でも多くの学生に満足できるように努力するしかないのですね。