2007年10月1日月曜日

69 価値ある研究者(2007.10.01)

 研究とは本来好奇心に基づくものです。しかし、捻じ曲げられてきているような気がします。独創性を巡る優先権の争いも、そんな表れでしょう。素直に好奇心に基づく研究など、現在では、もはや夢の話なのでしょうか。

 なぜ、研究者は、研究をするのでしょうか。それはもちろん、自分の好奇心にかられて、好奇心を満たすために研究をするのでしょう。研究を続けるためには、好奇心を自分の心の中に持ち続けていなければなりません。
 ところが、職業として研究者になると、好奇心に導かれて自由に好きなだけ研究をすればいいというわけではありません。いろいろな「しがらみ」があります。まず、研究成果を出すことが求められます。その成果に対して、いろいろな評価を受けます。
 その成果や評価によって、研究テーマや手法、方向性が変わったり、好奇心が抑えられたり、捻じ曲げられたりすることが起こってきます。まあ研究者とはいえ、社会的生活を営んでいますから、これは仕方ないことでしょう。
 もちろん、研究成果を社会に反映することは重要です。今まで研究者があまりそのための努力をしてこなかったので、研究成果の社会への還元が重要であると認識されてきました。その成果の重要度を客観的に示すための方法がいろいろ公開されています。たとえば、他の人の論文にどれくらい自分の論文が引用されたかを示す指数(citation index)や投稿した雑誌のランク(impact factorなど)によって判断されます。
 研究者には、自分の意思と関係なく、論文数やその評価が出されます。誰でも、他人が自分のことをどうみているかは、それなりに気になります。できれば、いい評価を受けたいのは、誰でも同じです。そのような評価を良くするために、たくさん論文を書こう、どうせ論文を投稿するならランクの高い雑誌にしよう、などという配慮が働きます。
 もっといえば、いい評価がでるようなテーマ、いい評価のある指導者につく、有能な研究者を集める、研究資金を調達するなど、本来の研究動機とはかけ離れた目的で研究が進むことがあります。若手研究者でいいポストに異動しようと考えている人、先端の研究をする人、多くの研究費をとろうと狙っている人などの、論文数と共にそのような指数なども気にして研究しています。これは、当然の傾向といえるでしょう。そうしないと、仕事も見つからないし、いい研究者も資金も集まらないし、評価も良くなりません。
 研究とはもともと好奇心に駆られて行ったことですから、こんなに面白いことがわかったと、それを世間の人に知らせたい、という非常に単純で純粋な動機があったはずです。今までの好奇心の整理として、成果報告がなされてきたはずです。今や、このような好奇心に基づいた研究はなかなかしづらくなってきているようです。
 研究の評価におて一番重要なのは、その独創性とその優先権です。どんな研究でも、好奇心に基づいて行っていることであれば、その興味を持ったものに、すでに他の人が答えを出しているのであれば、その答えをみれば自分が手を下すことなく好奇心を満たすことができます。
 先行研究を調べることが研究のスタート、つまり好奇心を満たすためのスタートです。今までどれほどのことが知られているのかを、調べなかればなりません。もし、それを怠って、すでに誰かが行っているようなことを、自分の独創的成果として公表すると、自分にとっても人類にとっても無駄なことです。十分調べれはそのようなことはないはずなのですが、科学者が増えていること研究論文数も多くなり、先行研究をすべて調べるとこは不可能になります。時に、すでに成果を出している人がいると優先権を侵害することにもなります。もしその独創性に特許などの利害が絡んでいると、問題は複雑になります。
 最近私は、地質調査や記載における新手法の開発や、地質学や科学の教育にいろいろ工夫を加え、新しい手法や方法論を提示することを中心に研究しています。先月末にも論文を書き上げ投稿しました。その論文では、新しい電子機器の使用による地層記載の新手法を開発することが内容となっていました。
 論文には、先行研究の引用文献が不可欠となります。現在、多くの人が興味を持って研究している分野は、関連した多くの研究があります。今回の論文は、新しい視点での手法開発ですので、ほとんど先行研究がありません。自分自身が以前行った研究も重要な先行研究になります。自分の研究を引用しても、文献が少なくなります。それだけ独創性がある研究(?)のはずなのですが、引用文献が少ないと、「これで大丈夫かな」という不安な気持ちになります。
 自分が興味をもって行った研究の成果を、世間に公開するのが研究論文です。論文とは、人類の知的資産に今までなかった成果を加えることが重要な目的となっています。ですから、今まで誰も出してない独創的なものであるべきです。研究者とは新たな知的資産を加えることが重要な任務であります。
 でも、この独創性や優先権とは何かと考えると、非常に難しい問題になります。
 例えば、ある一人の地質学者が、今までだれも行ったことのないところで、だれも見たことがない化石を発見したとしましょう。誰も見たことのない化石を記載すれば、大発見の非常に高い独創性のある研究成果となります。この化石の記載報告には、先行研究は少ないでしょうから引用文献も、それほど多くないはずです。
 本当にその研究成果は、その研究者だけによるものでしょうか。その地域で地質調査するための経験、化石を記載するための技術、その化石が新発見であると識別する知識などは、彼の独創性によるものではないはずです。つまり、科学者として一人前になるために、多くの指導者の教育を受け、専門の知識や技術を身につけたはずです。そのような経験や知識は、彼自身が生み出したものではなく、人類が長年かかって積み上げてきた知的資産の上になり立っているのです。ですから、彼の独創性は多くの知的資産の元に成り立っています。彼の成果は、その化石を発見して、人類の古生物の知識に新たな化石を一つ付け加えただけにすぎないのです。大発見かもしれませんが、一つの成果に過ぎません。
 新たな知識や独創性に、高低や貴賎があるのでしょう。評価を気にする人にとっては、その高低こそが重要と考えるでしょう。しかし、評価は相対的なものです。長い目で見れば、時間が経過すれば、評価も変化するはずです。今は評価が低くても、後の時代に高い評価が出るものもあります。成果の高低よりも、新たな知識や独創性を一つ付け加えた事実を重くとらえるべきではないでしょうか。
 人類にとって価値ある研究者とは、好奇心を維持し、その好奇心によって新たな知見を得て、それを一つずつ公表し続けている人をいうのではないかと思います。さてさて、私は、そんな研究者といえるのでしょうか?私は、年に数編の論文を書いてますので、数を云々かんぬんいわれることはないと思いますが、好き勝手な研究ばかりしているので、評価は低いんでしょうね。

・秋・
いよいよ10月です。
先週の連休に北海道の最高峰の旭岳に登ってきました。
紅葉が始まっていました。
しかし、登山の翌日の夜には初冠雪があったとニュースで報じられていました。
もし、一日ずれていたら登山はできなかったでしょう。
快晴の天気にも恵まれ、旅館も連泊でき、幸運でした。
その紅葉は一気に平野に下りてきそうです。
近所のナナカマドも色づいてきました。
北海道は、9月中旬まで結構暑かったので、
9月下旬から急激に涼しくなり、一気に秋めいてきました。
体調を壊す人もでています。
我が家では家内と長男が風邪を引きました。
皆さんの地域は、もう秋めいてきましたか。
我が家では、今年の冬に備えて
先週ストーブをオーバーホールに出しました。
考えることは誰も同じなので、整備会社も混んでいます。
しばらく時間がかかりそうですが、今週には出来上がります。
厚着さえすれば、それほど寒くないのですが、北海道では
寒いと暖房が当たり前なので、季節にかかわらず暖房を点けてしまいます。
家全体を暖め凍結を防ぐということもあるのですが、それはいいわけでしょう。