2008年7月1日火曜日

78 演繹と帰納との狭間:科学の柔軟性(2008.07.01)

 このエッセイで、今まで何度か帰納法と演繹法について、取り上げてきました。今回、再度、帰納と演繹を取り上げて考えていきます。

 以前、このエッセイで、「化石は、過去の生物の一部である」という命題の真偽を明らかにすることは、論理的に不可能だということを示しました。「化石は、過去の生物の一部である」は、多くの人は当たり前だと思っています。しかし、論理的には証明できないのです。
 偽であるという証明は、反例を一つ示せばいいので、簡単です。現在のところ、まだ反例を示されていないので、偽の証明もできていません。一方、真であることを示すためには、すべての化石が、過去の生物であることを示せない限り、証明は終わりません。真であることを示すのは、現実的には不可能なので、真という証明もできないわけです。かくて「化石は、過去の生物の一部である」という命題の真偽は、判定できないということになります。
 ところが、科学では、「化石は、過去の生物の一部である」という命題は、「多分、真である」と扱われています。
 ある時代の貝化石で、現在生きている貝の殻とそっくりなものがあったとします。これを、「化石は、過去の生物の一部である」の一つの証拠(本当は証拠ではありませんが)とします。さらにいろいろな時代の貝化石が見つかり、同じように現生の貝と似ていました。すると証拠は増えいきます。動物の骨の化石でも同じことができたとしました。さらに、植物の葉、種、花粉、プランクトンなどなど・・・。証拠は、いっぱい見つかってきました。
 化石と現在の生物の類似性を示す大量の「真」らしき証拠(傍証というべきもの)によって、古生物学では、「多分、真である」として扱われています。これは、アナロジー(類似)と枚挙的帰納という手法が用いられています。一種の帰納法です。帰納法は前回のエッセイで紹介したように、論理的には、事例をどれだけ増やして(化石と現生生物のアナロジーの枚挙)も、前提が真であっても、結論が真であることは保障されていません。これを「真理保存性がない」と呼んでいます。帰納法という手法は、もともと真理保存性がないという欠点を持っているのです。
 しかし、帰納法は、科学においてて常套的に利用されています。科学における一番重要な場面は、仮説を作る段階です。アナロジーをうまく使えば、似た別のものへも論理を拡大できる可能性があります。また、枚挙的帰納法も、個々の事例を集めて、何らかの一般則を見出すことできます。あるいは、アブダクションと呼ばれる帰納法は、ある事例を、何らかの仮定を立てると上手く説明できるようなものもあります。このように帰納法は、仮説をつくるためには非常に有用となります。つまり帰納法には、正しさは保障されませんが、新しいものを生み出すという、捨てがたい利点があります。
 現実に、科学は、真理保存性がない帰納法に基づいて、進められています。これでいいのかという不安があるのですが、仮説を立てるという利点があるので、今のところ利用されています。
 一方、演繹法は、論理的に正しいことが分かっています。例えば、
・「化石」ならば「昔の生物」である。この石は「化石」である。ゆえにこの石は、「昔の生物」である:一般的に書くと、AならばB、Aである、ゆえにBである、というモードゥス・ポネンスと呼ばれる
・「化石」ならば「昔の生物」である。この石は「昔の生物」ではない。ゆえにこの石は「化石」ではない:AならばB、Bでない、ゆえにAでない、というモードゥス・トレンスと呼ばれるもの
・すべての「地層の中の貝殻」は「化石」である、そしてすべての「化石」は「昔の生物」である。したがってすべての「地層の中の貝殻」は「昔の生物」である:AはBである、BはCである、ゆえにAはCである、という三段論法の一種でバーバラと呼ばれるもの
などがあります。
 これらは、どれも論理的に正しいものです。前提(「化石」ならば「昔の生物」である)が真なら、結論(この石は、「昔の生物」である)も真となります。演繹法においては、真理保存性があるということです。でも、個々で挙げた例を見てもわかるように、論理的に正しいことではあっても、新しいことが何か分かったわけではありません。当たり前のことを、回りくどくいっているに過ぎません。科学的には、演繹法は新しい知見を発見することがないわけです。
 もちろん、何らかの法則や理論がわかっていれば、それを未知のものに適用していくことは可能です。つまり応用する場合には利用できます。しかし、演繹からは、新しい法則や理論を生まれるわけではないのでが、正しさは保障されので応用には便利です。
 演繹法と帰納法のどちらにも長所と短所があって、歯がゆい思いをします。二つをうまく組み合わせて、多くの科学がなされています。帰納法にによって、何らかの仮説を導き出し、その仮説が正しいかどうかを、演繹法によって確認しようというものです。この方法を仮説演繹法と呼んでいます。
 例えば、白亜紀の地層から歯の化石が見つかったとします。その歯の化石と現生の生物とを比べてみると、肉食の爬虫類(例えばトカゲ)の歯のものとそっくりでした。ですから、白亜紀には今のトカゲと似たような「昔の生物」がいたというアナロジーという帰納法による仮説が立てることができます。さらに、肉食の爬虫類、つまり食べる肉食動物がいたのなら、食べられる草食動物もいたはずというアブダクションと呼ばれる帰納法による仮説をたてます。そのような仮説から、同じ時代の地層から餌となった草食動物の化石もみつかっていいはず、という仮説演繹法ができます。
 実際に探してみたところ、草食の爬虫類化石が見つかったとしましょう。この仮説演繹法で、一種の「予言」をおこなったわけです。「予言」のとおり化石が見つかったわけです。仮説が正しかったから、「予言」も正しいという演繹法による真理保存性を利用したものになります。この「予言」は、重要です。いくつも「予言」できれば、それはいろいろな新しい知見を見出せるわけです。帰納法の新しいものを見出す長所と、演繹法の正しさを組み合わせて用いているわけです。これは科学でよく用いられている手法です。
 ここに実は、だまされやすい罠があります。仮説の予言による検証の過程が、実は演繹法ではなく、帰納法になっているのです。帰納法ですから、仮説が検証されたわけではないのです。
 上の話を単純化して書くと、A(仮説)ならばB(予言)である。Bである。ゆえにAである、となっています。A:白亜紀に肉食爬虫類がいればそれに食べられていた草食動物がいるはずだ(仮説)。B:餌となった草食動物の化石が見つかるはずだ。草食動物の化石が見つかった。ゆえにその草食動物は肉食動物の餌であった。というような論理になるわけです。
 AならばB、Bである、ゆえにAであるは、モードゥス・ポネンス(AならばB、Aである、ゆえにBである)でも、モードゥス・トレンス(AならばB、Bでない、ゆえにAでない)でもない、似て非なる論理形式になっています。この仮説演繹法の形式は、正しい演繹法ではありません。
 これは、よく考えるとおかしいことがわかります。草食動物の化石は、見つかったのは事実です。しかし、その草食動物が、必ずしも見つかっている肉食動物の餌であったかどうかわかりません。別の草食動物を食べていたかもしれないわけです。この例のように、仮説演繹法には、反例が存在する可能性があるので、正しい演繹法の条件を満たしていません。ですから、得られた結論は、真とはいえないのです。
 ところが、科学は仮説演繹法を大いに利用しています。なぜなら、科学は現時点で一番もっともらしいものをとりあえず採用していく営みだからです。もし、あとで、間違いであることが判明すれば、修正や訂正、あるいは新しい仮説に乗り換えればすればいいのです。重要なことは、科学には、このような論理的には、解決不可能な困難さを内包しているということを、理解しておくことです。
 科学のこの不確かさが、もしかすると科学の柔軟性といえるのかもしれません。この柔軟さがなければ、この世は科学が解き明かした数少ない真理だけしかありません。不確かさだけで確認されていくことになります。この世は分からないことだらけです。昔正しいとされていた理論だって、今では間違いだというものも、例を挙げるまでもなく、一杯あります。科学とは、現在一番もっともらしいものに過ぎず、よりよいものが現われれば、それちらに趨勢が流れていけるわけです。この柔軟さが、科学の営みの中で、もっとも重要な属性なのかもしれません。

・科学哲学・
ここで述べたようなことは、
哲学、特に科学哲学の分野で議論されているものです。
そして、未だに結論がでていない、非常の難解な内容です。
私もまだ勉強中で、全貌を把握している訳ではありません。
ですから、エッセイに間違いを含んでいるかもしれません。
しかし、非常に重要なことを議論しているように思います。
科学者の中には、科学哲学は生産的なく、
科学のアラ探しばかりしているように見えるので
毛嫌いしている人もいるようです。
しかし、論理性を追求する科学であるから、
科学の営み自体も論理的であるべきです。
そして、そのような論理的欠陥をあることを
理解しながら科学するとしないのでは、
大きな転換期への対処が変わってくるかもしれません。
そのような欠陥を知っていれば、
大発見の兆しや、理論の大転換のときに、
科学者として身の処し方を誤ることがないのではないでしょうか。
科学は、上で述べたような論理的欠陥を抱えながら運用です。
ですから、少々乱暴な言い方ですが、
科学とは、どんな仮説もありで、仮説演繹法による予言で
確度を少しでも高めていくことを繰り返すことではないでしょうか。
そして反例がでれば、潔くその仮説は捨て
よりよい新たな仮説を生み出でばいいのです。

・将来の目標・
7月になりました。夏です。
本州はまだ梅雨明けしていないようですが、
北海道は夏らしい爽快な季節となりました。
もちろん晴れて暑い日、蒸し暑い日、雨の日もあります。
このような季節の移り変わりが、
北海道では、より明瞭に感じられる気がします。
大学の講義も、前期もいよいよ終盤となってきました。
学生たちは、定期試験と夏休みのことを
考えるようになって来ています。
私の所属する学科は、設立3年目です。
3年生は実習、1、2年生は集中講義です。
来年には、教員採用試験を受ける4年生ができます。
少々忙しく、落ち着かない夏休みですが、
将来の目標に向かって学ぶ姿はいいものです。