2009年1月1日木曜日

84 私は進化しているのか:進化の進化(2009.01.01)

 明けまして、おめでとうございます。今年も引き続き「Terra Incognita 地球のつぶやき」をよろしくお願いします。2009年最初のエッセイとして、ついついやってしまいがちな物言いについて考えていきます。これは自戒の意味をこめて書いています。

 誰もが思い当たると思いますが、「近頃の若い者は・・・」とか「自分の若いときは・・・」という物言いをすることがよくあります。そのような物言いは、年齢を経ると共に多くなっていくように思えます。しかし、よくよく思い返してみると、年をとってから、そのような物言いをしはじめたのではなく、ずっと以前からやっていることのような気がします。
 現役の大学生との会話の中で、大学生からも、「最近の小学生は・・・」や「自分が子供のころは・・・」という物言いを聞くことがあります。自分もたぶん大学生のころも、同じような物言いをしていたのでしょう。ですから、ある程度年齢を経ると、人はだれでもこのような物言いをしてしまうものなのかもしれません。ただ、年齢と共にそのような物言いの頻度は確実に増えている気がしますが。
 さて、「近頃の若い者は・・・」という物言いの問題点は、経験や年齢という年少の者には決して勝ちようがない土俵で、美化した自分自身の記憶と比べています。このような比較は、身勝手なもので、卑怯な手法ではないでしょうか。これを議論の手段とするのは、公正ではありません。
 「自分の若いときは・・・」という物言いは、身勝手な比較になることも多いのですが、別の場面で使われることもあります。自分を貶めて語る場合です。たとえば、「私も若い頃はこんな失敗をよくしたんですよ」とか、「私も若い頃は、無茶なことを・・・」とか「私は若い頃はバカで・・・」などと、自分の失敗例を出して語ることがあります。本音では、粗暴やバカだと思っているわけではなく、そのような物言いで、自分も「そんな弱点をもっていた人間」ということを表出しているのではないでしょうか。
 過去の自分自身を出して自虐的に、誰にもなじみやすい一般論を述べる方法です。でも、自分を本当に卑下しているわけではなく、話を聞いてもらいやすくするという無意識の配慮でしょう。そのような物言いに文句のつけようがありません。もし文句を言うと、相手の昔の所業を責めることになりますし、自虐的な物言いを否定しても険があるだけです。
 このような本音とは違う物言いをして場面がよくありそうです。言葉のあやで、本音は別にあるというといってしまえばそれまでです。しかし、そのような物言いもほどほどにしておかないと、時には本音を忘れ、間違った物言いだけが残っていくこともあります。
 今回の議論は、このような物言いとは逆で、もともとは別の意味だったものが、無意識に本音に近い物言いになってしまう場合の話しです。そのような変移する物言いに含まれる本質について考えていきます。
 科学の世界で、意味がすり替わった例を紹介しましょう。
 生物学では、「進化」は重要な概念です。生物学者の大部分は、進化が自然界で起こっていると考えています。もちろん科学者でない市民も、生物の進化を知っています。しかし、巷間では、進化という言葉は生物界の変化だけでなく、いろいろなものの変化に対して適用されています。文明の『進化』、コンピュータ技術の『進化』、宇宙の『進化』、革新的『進化』、などなど、例を挙げればきりがありません。
 本来、生物学における進化という述語は、一般に使われているものとは違った意味合いで使われます。進化という言葉は、もともとは生物学から転用されたはずです。しかし、進化が使われている場面は、もともとの意味とは違ったものになっています。生物学者も、同様の間違いを犯していることがあります。
 進化とは、英語でevolutionです。もともとはラテン語「evolutio」から由来する言葉で、「(巻物などを)開くこと」という意味でした。そこから、英語のevolutionでは、「(劇などの)時間的な展開」という意味に使われるようになりました。ですから、もともとは、現在の「進化」という意味合いはありませんでした。
 ダーウィンは、「種の起源」の中で、「evolution」という言葉を、最初は使っていませんでした。彼が「進化」の意味合いで使ったのは、「descent with modification」という言葉です。「descent」とは、「家系、系図、血統」とか「世襲、相続」という意味です。ですから、「descent with modification」とは、「変化を伴う系統」という意味となります。翻訳としては、「変化を伴う継承」が使われることが多いようです。
 ダーウィンが「evolution」という言葉を使わなかったのは、ホムンクルス説というものがあり、そこから派生したの前成説の中で使われていたからです。
 「ホムンクルス説」とはもともと、錬金術の一種で、人工生命体を作る方法があるという考えです。その概念を、生物学が、「前成説」の一部として用いていました。「前成説」とは、精子(あるいは卵)の中にヒトの形をした「ホムンクルス」がすでに入っていて、それが成長してしていくのが生物の誕生であるとするものです。そして成長した個体の精子や卵子にはホムンクルスがいる、という生命が入れ子状になっている考え方です。「evolution」とは、生命とは、精子の中の小人が入れ子状に、次々と世代交代していくという意味の言葉だったようです。
 ダーウィンは、「前成説」で使われていた言葉を、「種の起源」で使うという発想にはならなかったのでしょう。
 ダーウィンが「種の起源」の中で語った「descent with modification」、つまり「進化」とは、個体の変化がどのように蓄積し継承されていくかということです。「進化」の原因を、「自然選択」だと考えました。
 ここで注意が必要なのですが、個体は適応も進化もしません。ただ、自然選択されることで、生き延びやすい個体と生き延びにくい個体が生じるだけです。また、種は淘汰や競争をしません。生き延びた個体の変化が継承されていき、それが新たな種へと導きます。
 「evolution」という言葉を、現代風の使い方で世間に広めたのは、社会学者のスペンサーです。スペンサーは、「社会はどんどん複雑なものになる」という考え方で「evolution」という言葉を使いました。そこには、明らかに進化が進歩や発展という意味を持っていました。現代よく使われている『進化』と同じ意味です。
 「survival of the fittest」(適者生存)や「struggle for existence」(生存競争、生存闘争)という用語も、スペンサーが用いたものです。ダーウィンは、「種の起源」の後の版で、「自然淘汰」より「生存競争」の方が、「正確な表現」で、「時には同じくらい便利」としています。しかし、スペンサーが用いた「evolution」という言葉には、当初、抵抗を示していました。それは、生物の「進化」には、「進歩」という意味合いはまったく含まれているないはずなので、ふさわしくない用語だからです。
 一方、当時のキリスト教的世界では、ヒトは、神に似せてつくられた生き物で、他の種に比べて、もっとも『進化』した種という位置づけでした。この考えは、キリスト教を信じる限り、無意識に受け入れられていた考え方です。ダーウィンの時代の科学者も、ヒトは万物の霊長であると考え、ヒトはその生物種より『進化』していると考えていました。この考えは今も、私たちには心地よい響きを持っています。そして実際、スペンサー流の『進化』は、現在も広く流布しています。
 ヒトは他のどの生物より、高度で進歩しているという考えは、ヒトという種にとって、都合のよいものです。多く人は意識せず、「進化」を進歩しているという意味で使います。科学者でも、意識しないときは、「進化」と進歩を区別せず使ってしまうことがあります。
 ある時代の社会背景は、すべての思考に影響を与えます。この背景からは、科学者でも、逃れることができません。その背景から逃れるためには、常識に対して強い問題意識を持ちつづけないとなりません。私は、大学で、「生物学で使われる進化には進歩という意味ない」と講義しています。でも、気を許すとついつい背景に飲み込まれます。もともとの定義を知っていて、定義に反する術語の使用は、重要な間違を犯しているわけです。教える立場で、たとえ無意識であろうと誤用するのは、講義で悪癖を流布させていることになります。注意が必要です。生物学を専門にしていない先生の物言いの中に、進化ということばが、進歩という意味合いで使われていることがよく見受けられます。
 科学の世界でもこのようなことがおこるのですから、普段使いの語り口におておや、です。無意識に本来の意味からずれてしまうことがよく起こります。気をつけないと、そんな繰り返しが、ずれたままの使用を定着させてしまいます。まして、それが本音に近いずれであったりすると、ますますその傾向は強くなるはずです。
 最初に示した例のように、勝ちようがない比較での非難や自虐的な物言いなどは、結局は、自分の本音を棚に上げて語っているのです。「自分のことを棚に上げる」物言いは、褒めらない方法であることは、だれもが知っています。そのような物言いは、決して自分の人間性が良く見えるようにするものではありません。でも、無意識についつい「自分の棚上げ」は行われています。これは、個人レベルでは、自分が賢いと思っていることや、もっと大きなレベルでは、人類は他の生物種と比べてどこかで勝っていると思っていることなど、いろいろなレベルで起こっています。そのような無意識の思い込みを、他人から指摘されると、嫌な思いをします。これは、「自分の棚上げ」がよくないことだと知っているためでしょう。「自分の棚上げ」をなくすことが『進化』となるはずです。
 さてさて、このエッセイの内容も「自分の棚上げ」を注意を促しながら、「自分の棚上げ」して語っている節があります。もしそうなら、年頭から物言いで失敗していることになります。今年は、こんな失敗や誤用にくれぐれも注意していきたいと思っています。

・白い正月・
明けましておめでとうございます。
北海道は、白い年明けとなりました。
12月下旬まで雪は積もらず、
まるで秋のような景色の年末を迎えつつありました。
しかし、年末に寒波が押し寄せ、
やっと北海道の冬らしい雪景色になりました。
しかし、余り急激だと生活に支障をきたします。
私の母が暮れに来て25日に飛行機で帰ったのですが、
その翌日の26日から大荒れの天候となり、
交通は大いに乱れ、飛行機も欠航が相次ぎました。
ほんの少しの差で、母の移動は無事できました。
しかし、この激しい寒波は多く人に影響を与えました。
穏やかな正月になるといいのですが。

・ものは考えよう・
昨年、我が家は、誰かが体調不良の時期が次々とあり、
ぱっとしない年となりました。
今年こそは、体調に気をつけて、
無事に過ごしていきたいと思います。
どんなにやりたいことがあっても、
体調不良ではなにもできません。
ですから、まず健康でいることが大事です。
そんな単純なことを気づかされた昨年1年でした。
もし、体調不良がなければ、
健康のありがたさを忘れていたかもしれません。
前向きに考えれれば、病気がちの1年も意義あるものとして
振り返ることができそうです。
今年も、現在の私の健康法である
通勤のための7kmのウォーキングと週末の水泳をかかすことなく、
健康維持に努めていきたいと考えています。

・母の携帯電話・
年末は、子供たちが次々に風邪を引きました。
母が滞在中も、どちらかの子供が風邪で寝ているという状態でした。
残念ながら、母をあちこちに連れて行く予定が
すべてキャンセルになり、母に残念な思いをさせました。
滞在中、母に専用の携帯電話を渡し、
自宅でも持ってもらうことにしていました。
携帯電話は、主として我が家との連絡用です。
それと母が田畑にいるときの緊急連絡用です。
母は、滞在中にかなり練習をしていたのですが、
なかなかその操作は覚えられないようです。
何度も失敗をして、メールを送るつもりが
電話を間違ってならしてしまいます。
帰宅して翌日の朝6時に突然、
携帯電話がなり、驚かされました。
でも、孫たちと連絡を取るために、
なれない携帯電話の操作に毎日四苦八苦しています。
突然の携帯の呼び出し音も、
70歳を過ぎた母の元気な知らせと考えましょう。