2011年6月1日水曜日

113 凡庸性原理

 凡庸さとは、ありふれたことですが、本当に凡庸な存在など存在するのでしょうか。かつて、太陽系や地球、生命、知性に対し、凡庸性が適用されました。その適用は正しかったのでしょうか。今では地球の特異性がみえてきました。凡庸性の行き過ぎた適用だったのでしょうか。凡用性原理について考えていきましょう。

 「凡庸(ぼんよう)」とは、ありふれた並(なみ)のことで、目立つことのない、平凡、平均的なことです。凡庸に当たる英語として、「mediocrity」という言葉があります。この「凡庸さ」が、科学の世界では、重要な意味をもつことがあります。
 凡庸さを原理とした「Principle of Mediocrity」というものがあります。「凡庸性原理」という呼び名はなく、「月並み原理」という訳語が使われることがあります。「月並み」という言葉には、否定的意味がありますが、凡庸にもそれほと肯定的ではない意味合いがあり、同じようなことなのでしょう。私は、タイトルにした「凡庸性原理」が気に入っているのですが、このエッセイの中では、「メディオクオリティの原理」(仮説と呼ばれることもあります)ということにしましょう。
 「メディオクオリティの原理」は、「Principle of Indifference」(平凡の原理)や「Copernican Principle」(コペルニクスの原理)とも呼ばれることもあります。「Principle of Indifference」は、mediocrityを同義のIndifferenceに言い換えたもので、同じ意味になっています。
 注意が必要なのが、「コペルニクスの原理」です。「コペルニクスの原理」は、「コペルニクス的転回」とは違います。「コペルニクス的転回」は、有名な言葉ですが、天動説(地球が宇宙の中心)から地動説(太陽の周りを地球などが回る)という説を提唱したコペルニクスが起こした認識の大転換をいいます。哲学者のカントが用いた言葉だそうで、一種のパラダイム転換を意味する言葉です。
 コペルニクスが地動説で示した重要な意義は、地球は太陽系では特別な天体ではなく、多数ある惑星のひとつに過ぎないということです。この考えを敷衍すれば、地球は、太陽系は、銀河系は特別なものではなく多数のうちのひとつにすぎず、生命は、ほ乳類は、人類は特別な存在ではないことになります。この考えは、「メディオクオリティの原理」そのものです。
 「コペルニクスの原理」という表現は、混乱を招くので、「メディオクオリティの原理」を用いるほうがいいでしょう。
 さて、メディオクオリティの原理とは、その「凡庸さ」を逆手にとって、論理をすすめる方法です。手がかりがまったくない状態でも、「凡庸さ」を根拠に論理をとりあえず展開していくことができます。少々強引なところがありますが、なんとかして、見通しや結果が欲しい時に、まったくお手上げになるよりは、「メディオクオリティの原理」で進むほうがいいわけです。凡庸さ故に、前進できるのかもしれません。
 メディオクオリティの原理が利用された例として、知的生命の存在確率の計算が有名です。知的生命の存在の可能性を、銀河系の天体数(天体の誕生率×文明の存続期間とすることもある)と、知的生命が存在するための様々な要因の可能性(1から0の値)の積としてを求めるものです。要因として、恒星が惑星をもつ確率、生命が存在できる領域(ハビタブルゾーン)に惑星がある確率、生命が発生する確率、生命が知的生命体にまで進化する確率、知的生命体が文明持つ確率、などが挙げられています。これらの要因は、いずれもて不確かで、桁数くらいしかわからないものも、見当すらつかないものまであります。
 銀河には、数千億(我々の銀河は2000億~4000億程度と考えられています)個の恒星があると見積もられています。この恒星には、生命が生存できる可能性の天体はどれくらいあるかを見積もります。ところが、地球外の生命についてはまったく情報はありません。地球外生命や人類以外の知性などの中には、現状の知識では推定不能なもの、信頼のできるデータもないものがいくつかあります。その時、地球や地球の生物、ヒトを参考にしていこうというのが、メディオクオリティの原理です。
 太陽系の形成モデルでは、原始太陽系分子雲から恒星や惑星が必然的に形成される、どこにでも適用してもいい普遍性のあるモデルでした。コンピュータのシミュレーションでも、同じ結果が得られていました。ですから、太陽系での惑星形成は、ごくありふれたプロセスだと考えられました。
 地球生命は、惑星系で水が長期間安定して存在できる環境を前提に発生し、進化し、そしてやがて知的生命であるヒトが生まれ、文明が誕生し、現在の科学技術に基づく社会を生み出しました。この条件を「メディオクオリティの原理」として受け入れ、可能性を推定していくわけです。
 太陽系には大きな惑星は10個ほどあり、そのうち水が存在できそうな天体は2個(地球と火星)ですから、確率は0.2です。そのうち、水惑星の環境が維持できたのは、地球だけで、0.5です。
 生命の誕生の可能性は不明ですが、環境が整えば生命が発生できると考えれば、1になります。そうすると火星でも生命が発生できた可能性があります。もし火星には発生せず、地球にだけ発生したとするのなら、0.5になります。今のところ火星の生命の確実な証拠はありません。慎重派なら0.5を、火星生命誕生の可能性を信じる人(楽観主義的立場)なら、1となります。
 このような推定をしながら、知的生命の存在の可能性の概数を求めていくわけです。
 このプロセスにおいて一番重要なことは、残念ながらメディオクオリティ原理を適用してとりあえずの結果がでたとしても、その数値には確かさの保証がないということです。とりあえずの方便(ほうべん)のような手法をとっているので、結果に科学的、論理的に根拠がないのです。
 さらにいえば、そもそも我々の存在が、本当に凡庸さの中にあるのかという疑問です。私たちの太陽系は、本当に当たり前の惑星系なのでしょうか。地球は本当に惑星の中で典型な惑星としていいのでしょうか。
 新たな観測事実によって、私たちの「凡庸さ」の評価が変わりつつあります。近年、太陽系以外の恒星で、惑星がいくつも発見されてきました。いろいろな手法で探査されてきましたが、その中で、多様な惑星系があることが判明してきました。
 最初に見つかったのは、ホットジュピータ(熱い木星)と呼ばれる惑星でした。ホットジュピターとは、公転半径が小さく公転周期が短い木星程度の大きさで、太陽に近いところを回るため非常に熱くなっていると予想される惑星です。
 ホットジュピターの他にも、離心率の大きい、つまり長い楕円軌道をもつ高温期と低温期を繰り返す巨大惑星(エキセントリック・プラネット)も発見されています。ホットジュピターとエキセントリック・プラネットの比率は、これまでに発見された系外惑星で大半(百数十個のうち百個ほど)といっていいほどを占めています。つまり、どうも太陽系のような惑星系はありふれたものではないようなのです。
 現在も探査は継続され、NASAの探査機「ケプラー」は、太陽系外惑星を探す目的で、2009年3月に打ち上げられ、6月には運用が始まりました。10万個の候補から、惑星系、特に生命が存在できる領域(ハビタブルゾーン)での地球型惑星を見つけることが最大の目的となっています。つまり、第二の地球、そして生命や知的生命の可能性が考えられるような惑星を探索することです。
 その惑星の発見は、2010年1月に最初の惑星が報告されて以来、続々と発見されてきました。2011年5月23日までに、11個の惑星系の存在が確認されています。ケプラー探査機以前にも見つかっていた地球外惑星の多くはホットジュピターやエキセントリック・プラネットでしたが、ケプラーによる最初の発見も、ホットジュピターでした。
 ケプラーが発見した惑星の半分は、ホットジュピターです。ただし、生命が存在できる領域にある地球型惑星も6個、発見されています。また、1000個以上の惑星候補があります。そのうち300個ほどが地球程度の大きさの候補だと考えられています。
 見つかっているいずれの地球型惑星も、地球とは似て非なるもので、大きかったり、寒かったり、暑かったりで、そっくりというものはまだ見つかっていません。地球型惑星があまり見つから理由は、遠くの小さな惑星を見つけるのは難しいこともあるでしょうが、もしかすると、地球型惑星は凡庸ではなく、特異な存在なためかもしれません。
 ハビタルゾーンや生命誕生には、それなりの許容範囲があるでしょう。ですが、条件や環境が違えば、たとえ生命が誕生してもタイプが異なったり、違った進化をしたり、全く異質な生態系になっているかもしれません。そんな条件では知性や文明は出現しないかもしれません。
 現在のところ、発見されている惑星には、多様さが目立ちます。もしかすると、多様さこそが惑星系の本質なのかもしれません。そうなると、太陽系という特異な惑星系の中の、特異な惑星として地球が位置づくのかもしれません。地球は、「凡庸」ではなく「特異な」天体であったのかもしれません。我々生命も、ヒトという知的生命も、我々の文明や技術も、特異な存在なのかもしれません。地球外知的生命は、さらに特異で、知的コミュニケーションができるような存在は、同時期には存在しえないのかもしれません。我々は今現在の宇宙では、孤独な存在なのでしょうか。凡庸と特異が間(はざま)が、まだまた埋まりそうにありません。

・運動会・
6月になりました。
北海道は5月中は肌寒い曇天が続きましたが、
5月の最下旬になって、やっと暖かくなってきました。
ただ、からりとした天気がなかなかきませんが。
いよいよ北海道は、運動会のシーズンになってきました。
若葉の頃の運動会でから、天気さえよければ、
清々しくて気持ちのいいものになります。
しかし、天気ばかりは心配しても仕方がありません。

・凡庸と特異の間・
平凡であることがいいのか。
特異であることがいいのか。
2分法で考えるべき問題ではないでしょうし、
現実は折衷てきなものが多いはずです。
ある時は平凡で、別の時には個性的で
あるべきなのかもしれません。
平凡である続けることも、個性的であり続けることも
「特異な個別」ではないでしょうか。
平凡と特異を行き来することこそが、
「凡庸な一般」の特性ではないでしょうか。