2011年7月1日金曜日

114 心のビタミン:数学的論理不足

 人にはそれぞれ心にちょっとした満足感を与えてくれるビタミン剤のようなものが必要なのかもしれません。長期にわたってビタミンが不足すると、いつしか心に不調や飢餓感が生まれてくるのかもしれません。そんなときビタミンが欲しくなります。私とってビタミンは、「数学的論理」なのかもしれません。

 小学校で習う算数。そして中学校からの数学。小学校や中学校の間に、苦手意識をもってしまうと、以降、あるいは一生、数学アレルギー、あるいは数字にすら嫌悪感を持つ人もいるようです。幸いなことに、私は苦手意識を持つことなく、数学の問題を解く楽しみ、解けたときの快感などを感じることができ、好きな科目となりました。そして、大学入試でも、数学は得意な科目でした。ただし、数学を専門にするほど興味も能力もないことも、その途上で感じていました。
 その後私は、地質学を研究する道を選んだのですが、野外調査や分析に多くの時間を割くようになり、数学を用いる機会はかなり減りました。ただコンピュータを用いてプログラムを作成する時期が何年かありました。当時は今のように便利なアプリケーションなどない時代で、BASICで必要な計算を自作をプログラムでする時代でありました。
 電卓ではすぐにはできないよう標準偏差や回帰直線を求める計算でも、ササッとプログラムを組んで、即座に結果をみて、検討するようになっていました。ただし、大量のデータ処理や複雑な処理は、多くの時間をかけてプログラムを作成していました。岩石や鉱物の化学分析値を処理したり、年代測定値の計算、重みをつけた最小二乗法や線形計画法による計算、対数軸のグラフや三角図などへのプロットの作画など、ややこしい計算をしなければならないプログラムも作成をしていました。
 複雑な処理において、計算式自体はどんなにややこしくても一度で書き上げて完成してしまえば、プログラム上ではまったく修正することはありません。ただ、コンピュータを操作する上で、データ入力や画面表示、印刷形式などの別の部分のプラグラム作成や修正、改良に多くの時間と労力を割くことになりました。ただプログラム自体は論理的で、0(ゼロ)とO(アルファベットのオー)の間違いや、小数点の位置、入力間違いなど、少しでもミスがあると、正常な動きはしません。複雑になればなるほど、そのデバック作業に多くの時間を費やしました。そして、プログラムがうまく作動したときには、数学の難問を解いたときと同じような快感を得られました。
 しかし、プログラムも、ほとんど作成しなくなってきました。そんなデータ処理作業が減ってきたこともあるのですが、なによりアプリケーションの性能がよくなり多くのことが処理できるようになってきたこと、パソコンの性能もよくなりアプリケーションでも大量処理が可能になってきたこともあります。
 私が作成した最後のプログラムは、もう6年ほど前になります。地形の数値標高データの用いて計算するものです。計算自体はそれほど難しくありません。ただ大量の処理することと、久しぶりのプログラム作成作業だったので手間どりましたが、なんとか仕上げました。そして実際に処理をしました。作業は大量のデータファイルを繰り返しで処理していくので、全部を処理するのに、パソコンを動かしっぱなしで数日ほどかかりました。サブのパソコンに処理をさせていたので、余計に時間がかかりました。
 データ処理を終わって感激はありましたが、それほどではありませんでした。むしろプログラムの完成の時の方が、感動が大きかった覚えがあります。そのデータは一度できると、同じ処理はもうしなくてもよくなります。ですから、そのプログラムは二度と使うことはないでしょう。
 研究者が作成するプログラムというのは、明確な目的があります。プログラムによる結果が欲しいのです。プログラムとは、その結果を得るための手段にすぎません。そのプログラムで得られた結果、私の場合は処理された地形データが必要なのです。研究の目標は、その先にあるのです。ところが、その先の目標達成を達成しても、満足感が少ないのです。時間をかけて、議論して文章を書き進めれば論文という成果は得られます。なのに満足感が少ないというのは、どういうことなのでしょうか。目標への手段作成に感動し、目標達成にはさほど満足感を得られないという主客転倒の状態は、少々不思議な気がします。これは、私だけの問題でしょうか。
 今では、プログラムを作成して計算をすることもなくなりました。今後もあまりなさそうです。データの管理は専用データベースのアプリケーションで、データ処理は表計算アプリケーションで、グラフの作成はグラフ用アプリケーションで、作図は作図用アプリケーションがあります。表示も印刷もそれぞれのアプリケーションで自由自在に、そしてきれいに処理できてしまいます。
 そのような目的毎のアプリケーションの使用によって、今まで苦労していたプログラム作成の作業から開放されたわけです。喜ぶべきことなのでしょう。今や研究上の作業を、手作業でもどるには、もはや不可能なほど、アプリケーションに依存した複雑な作業をこなしています。明らかに生産量は増えています。
 プログラム作成における計算式以外の部分は、本来の研究からすると、枝葉末節の部分だったはずなのですが、実際には多くの時間を割いていました。その完成に、なぜか快感を覚えていました。今やそんな不要な労力はなくなりましたが、その感動も同時になくなりました。
 今まで接したことない画像処理でも、その原理も手法、計算法もよくわからない分野の方法論でも、結果だけ見て納得のいくものであれば、よしとして利用するようになりました。深入りするにはあまりに複雑な世界です。ですから、アプリケーションの中身は、ブラックボックスですませて、結果だけを客観性のあるデータとみなして利用しています。デジタル写真画像は、本当に現実を記録しているのでしょうか。あるいはすべてデジタル化された仮想の世界なのでしょうか。私が用いている画像には、どの程度の仮想が侵入しているのでしょうか。ブラックボックスとなっているため、現実と仮想の割合も分からなくなりました。
 地形データを処理して、景観に反映されている地質や、地形の由来などを題材にしてエッセイを6年以上書き続けて発行しています。かつてプログラムを作成して処理したデータも、この目的のためでもありました。もちろん何本かの論文にも使用しましたが。現在では計算やプログラムもすることもなく、以前処理したデータを地図用ソフトで表示し、いい画角の画像を切り取り、画像の形式変換するだけでルーティン化してしまっています。なん日もかけて大量のデータ処理をした時代が、6年ほど前が、大昔のように感じてしまいます。
 私には今や個人レベルでプログラムする機会はほとんどありません。これからもないでしょう。私が得ていた満足感の根源は、数学的なあるいは論理的な問題に接っし、対峙し、解消することで得られるものだったのでしょう。そんな機会が現在では極端に減った、あるいはなくなってしまったのが現状です。あの快感はもう得られないのでしょうか。その満足感の不足が、潜在的な飢餓感になっているのかもしれません。
 先日、中学2年生の長男が数学検定を受けて、その問題をもって帰りました。数学検定には、計算問題(1次検定)と数理応用と呼ばれる証明や幾何学の問題(2次検定)があります。長男がもって帰った問題を答え合わせを兼ねて解いていきました。計算問題は簡単に解けるのですが、証明問題の方がなかなか手ごわい問題があります。証明問題の途中で疲れて投げ出しましたが、久しぶりに数学を解く苦労と快感を味わいました。
 ここ数年、プログラムをしなかったせいか、どうも数学や論理的問題を解く快感に飢えているようです。一種の頭や心の栄養失調のようです。その快感は私にとっては、体におけるビタミンのようなものでしょう。
 ビタミン補給のために、数学、趣味として数学の勉強をしようかと考えました。そこで、高校数学や整数論、巨大数などの本をデジタルで入手しました。ところが、どうも正面きって取り組む気持ちが湧いてきません。デジタルのせいかと思い、手元にある紙の本を見てみましたが、それなりの興味があるのですが、続けて読み進める気になりません。やはり必要性がないと、なかなか時間をかけて、心を傾けて向き合えないようです。それらの本は開くことはなくなりました。
 数学の問題以上に、私にはこの「論理不足」がなかなか難問です。どう対処していいかは、まだ未解決なのです。

・夏・
いよいよ7月です。
北海道も暑さを感じるようになりました。
例年の夏とは違いますが、
こんな夏もあるのでしょう。
ただここ数日は、湿度が高く
少々蒸し暑い日々が続いています。
大学では、7月一杯が授業で、
8月はじめに定期テストです。
一番暑い時期に定期テストをするのは
いかがなものでしょう。
北海道の大学教室には冷房などありません。
本末転倒のような感じもしますが。
定期テストの後、学生は授業からは解放されます
夏休みは、9月下旬まで続きます。
ただし、教員は定期テストの直後から
採点と成績評価をしなければなりません。
お盆前後は忙しくなります。
まあグチをいっても始まりません。
淡々と与えられた仕事をこなしていきましょう。

・本末転倒・
このエッセイは、当初
ゲーデルの不確定性原理について書くつもりでした。
それについてデータも集め、読み込んでもいました。
しかし、実際に書き始めていくと、
前書きのつもりで書き始めた文章が
ついつい違う方に話が進みだして、
止まらなくなりました。
気づいたら、前書きの何倍もの分量になっていました。
そこで、前書きを本論にして
今回のエッセイを仕上げてしまいました。
これも本末転倒の例なのでしょうね。