2013年12月1日日曜日

143 ルクレチウス的直感

 年の瀬は、いつもせわしなく感じます。今年のはじめに考えたことと、達成したことの差を考えると、忸怩たるものがあります。そんな年の瀬には、寺田寅彦がいいかも知れません。100年近く前の知恵ですが、示唆に富んがものがいろいろあります。

 今年も、早、師走を迎えました。私にとって、この1年はあっという間のような気がします。まだひと月も残されているので、いろいろできること、すべきことがあるので、年末までを区切りに、取り組んでいきたいと思っています。でも、この時期になると、どうしても落ち着かなくなります。それでも落ち着いて、我を忘れることなく、淡々と進むべきなのでしょう。そんなとき、寺田寅彦は、どうでしょうか。
 興味を持ったものには、それなりの関心をそそぎ、納得し、なんらかの知識や経験をえることは重要です。何事にも、能動的に取り組むことです。身についた知識や経験は、思わぬところで役立つこともあります。私は、高校の頃、宇宙の起源や海洋学に興味があり、関連の科学普及書をいろいろ読み漁っていました。その後、地質学研究に進んで、高校時代の興味と全く違った方向に進んだのですが、地質学から、科学教育、地質学的素材を用いた哲学などに興味が移っていくと、以前のもっていた広く浅い知識が、役立ってきました。
 多くの人は、このような経験を、多かれ少なかれもっていると思います。寺田寅彦の「科学に志す人へ」(1934年)というエッセイにも「一見雑多な知識が実に不思議な程みんな後年の仕事に役に立った」という一文があります。
 その言葉通り、寺田寅彦は、非常にいろいろなことに興味を持ちました。「X線の結晶透過」という当時の最先端をいっていた研究や、「潮汐の副振動の観測」など地球物理学の「正統派」の研究もしていました。しかし、「金平糖の角のでき方」や「割れ目のでき方」、「椿の花の落ち方」、「墨流し」、「タンポポの実が空中を浮遊する機巧」、「尺八の音響学的研究」(博士論文)など、正統派の物理学で取り上げられないテーマにも興味をもっていました。寺田寅彦の姿勢で一貫していることは、自然への興味と、それを科学にできるまで高めていく姿勢でしょう。それこそが、寺田寅彦の真骨頂ではないでしょうか。一見ヘンテコなテーマですが、その中には先見性のある研究が、いくつも含まれていました。身辺の現象に関する研究は「寺田物理学」と呼ばれるようになりました。
 さて、話しは変わって、LSKです。LSKをご存知でしょうか。売り出し前のアイドルグループでしょうか。それとの危ない薬でしょうか。残念ながら、アイドルグールプでも薬の名称でもありません。LSKを知る人は少ない思います。LSKは、寺田寅彦が名づけたものです。
 「ルクレチウスと科学」(1929)の中で、寺田寅彦は、科学者として持っているべき能力について論じています。古代ローマの詩人であり、哲学者でもあったルクレチウスは、暗いところに差し込む光の中に、ホコリが舞う様子をみて、物質の原子が無秩序な運動をしていると解釈しました。寺田寅彦は、ルクレチウスのこのような直感的な能力が重要だとしています。科学者には、ほかにどのような能力が必要なのかをも論じています。
 科学者として持っているべき能力として、LSKの3つがあるとしました。Lとは、ルクレチウスが持っていたような直観の能力のことです。Sは数理的分析の能力で、Kは実験によって現象を系統化し帰納する能力です。
 LSKを3次元の軸と考えて、定性的にみて能力の高いものが大きな数値を持つ(原点から遠ざかる)とします。研究者は、その能力や業績によって、どこかにプロットされるはずです。LSK空間で、個々の科学者がどこにプロットされるかと考えるものです。
 原点や軸から離れるほど、優秀な科学者であることになります。凡庸な多数の科学者は、原点近くにプロットされます。ただし、、LS面上(K=0)、つまり実験し帰納する能力がなくても、ボルツマン、プランク、ボーア、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ディラックのようは理論系の科学者には偉大な人がいます。LK面上(S=0)、数理的分析の能力がなくても、ファラデーやラザフォードやウードなどのように、実験系の偉大な科学者はいるとしています。
 ところが、SK面上(L=0)の研究者には偉大な人はいないと、寺田寅彦はいいます。つまり、直感力がないと、すぐれた科学者にはなりえないということです。「一見雑多な知識が実に不思議な程みんな後年の仕事に役に立った」と寺田寅彦が述べたのは、このような直感力に由来するものでしょう。セレンディピティ(serendipity)や「ひらめき」とも呼ばれているものに通じているのでしょう。
 雑多に見えるかもしれませんが、いろいろ興味から得た知識は、あるとき直感に姿を変えて、思わぬ成果を得られるのです。あるとき、その直感は、実験や観察の方法に反映され、またある時は法則や理論の発見につながるのでしょう。LSKは、もしかすると、科学者だけの能力評価だけでなく、創造的な仕事全般にいえることかもしれません。
 さてさて、皆さんは、原点からどれくらい離れているでしょうか。
 私の場合を見ていきましょう。実験はしなくなりましたが、野外調査を主として、そのデータや資料を整理を行なっています。一流の地質学者の野外調査と比べると見劣りはしますが、テーマに基づいた調査を、細々とながら継続しています。Kは0ではなさそうです。Sの数理的分析はどうでしょうか。優れているわけではありませんが、数値を扱うのは好きです。図表を用いて見えないものを見つけることが好きです。だいそれた理論を生み出すことはありませんが、0ではなさそうです。ルクレチウス的直感力はどうでしょうか。ひらめいたこともかつてはあります。今でも、少しだけひらめくことがあり、幸福感に浸ることもあります。しかし、その成果たるやささやかのものです。つまり、原点ではありませんが、それほど遠くは離れてはいない、多数の凡庸に一つにすぎないようです。
 「一見雑多な知識」も、もしかすると、そのうち「実に不思議な程みんな後年の仕事に役に立」つこともあるやもしれません。だから、歩みはのろいかもしれませんが、継続することが重要なのでしょう。

・寅彦に続け・
今回のエッセイを、
寺田寅彦に関するものにしようと思ったのは、
寅彦の没した日が、
1935年12月31日だということ、
その年齢に私も達したことを知ったからでした。
もう78年前も前のことです。
一月も早い命日ですが、
今年最後のエッセイは、寅彦の知恵にすがりました。
彼は、日清、日露戦争も経験しています。
45歳のときには関東大震災を経験しています。
今よりもっと動乱の時代を生きていました。
そんな中で寅彦は、科学をおこない、
社会に向けて科学啓蒙をしていました。
彼に勝てはしませんが、
見習って研究を遂行していきたいと思っています。

・師走に思う・
11月の北海道では、
突然の大雪に驚かされました。
その後、暖かい日を挟みながらも
冬が深まってきました。
ただ思いのほか、
快晴の日は少なかったように感じます。
今年、後半の天気の特徴でしょうか。
いい天気があっても、長続きがしません。
残された12月はどうなるかわかりませんが、
穏やかに暮れていって欲しいものです。
そんなことを師走の始まりに思いました。