2016年12月1日木曜日

179 Why think, why try:師走に

 師走は慌ただしいものです。そんな慌ただしさの中、その一年におこったことをいろいろと思い起こしてしまいます。当たり前のことを、初心に戻って、思いを新たにする必要があるのでしょう。そんな当たり前のことを紹介しましょう。

 月刊のメールマガジンを書く時、冒頭の書き出しを考える時、12月は「師走」という言葉を挙げて、いつもばたばたしている自分の書き出しとなっている気がします。しかし、今年最後のエッセイの冒頭はそんなことをやめようと考えていましたが、書き始めると、はやり師走の話題になっています。閑話休題。本題に入りましょう。
 私は、冬のシーズンになると、インフルエンザの予防接種がスタートすると、いち早く受けるようにしています。今年も10月中旬に受けました。大学教員がインフルエンザにかかると、卒業研究を提出する学生に迷惑をかけたり、講義の代行ができないので、補講を多数しなければならないので、やはり学生迷惑をかけてします。そのため、早目に予防接種をして対処しています。それでもインフルエンザにかかることはあるのですが、ただ症状はましになります。
 予防接種というと、ジェンナー(Edward Jenner、1749.5.17-1823.1.26)を思い出します。ジェンナーの研究以前にも、予防接種の先駆的手法はいろいろ試みられていたようです。1796年のジェンナーによってなされた実験が、最初のもと位置づけられます。それは研究の手法に則っているからです。
 天然痘は強い感染力をもっていて、致死率も高い病気です。ところが、天然痘に似た牛痘にかかった人は、天然痘にかからないという現象がありました。それに牛痘のほうが症状も軽く、完治することも知られていました。
 ジェンナーは、牛痘が天然痘の予防に使えるのではないかと、20年近くにわたって考え続けました。ジェンナーは、1787年に自分の子どもに天然痘の接種を試して成功し、1796年に牛痘の接種を使用人の子どもなどに試して、やはり成功しています。その成果は、1798年に発表され、種痘法としてヨーロッパ中にひろまり、現在では天然痘の根絶宣言がだされています。
 このような人体実験は、たとえ身内であっても、倫理的には許されないことです。唯一可能なのは、自分自身を実験台にして試すことだけでしょうか。
 さて、ジェンナーの例でいいたかったことは、種痘にいたる研究過程のことでした。なにか課題があったとき、それを解決するために、2つの大きなステップがあります。新しい答えを思いつき、正しいかどうかを試すことです。ジェンナーでは、牛痘の接種を思いつくこと、それを実証する実験をしていくことです。
 思いつくこと、あるいはひらめくことは、誰にでもできるものではありません。しかし、唯一の道は、常にその課題に取り組み、考え続けていくことでしょう。課題によっては、少しずつ地道な努力を続けることで、解決策が見えてくるものもあるでしょう。あるいは、ある時一気に解決策を思いつくこともあるかもしれません。前者ならば、努力が報われるタイプの課題で、努力を続けていける人て、より大きな努力をした人が、いち早く結果をえられます。後者なら、まずは課題を必死になって考える必要があります。そしてあるとき突然、答え思いつくものです。セレンディピティー(serendipity)とも呼ばれているものです。セレンディピティーは、考え続けた人、誰もがえられるものでありません。でも考え続けないと、セレンディピティーはありません。努力は必要ですが、報われないこともあるので、大変です。
 解決策を思いつくことも重要ですが、次なるステップである試行することも重要です。その試行や検証が難しい場合、大変な作業を伴う場合、事前に大変そうだと想像できそうな場合、ついつい検証作業を躊躇してしまいます。そんなことがあると、解決策を考える時にも影響がでてきそうです。
 当たり前のことですが、生命に関わることや、大変な手続きや手間のかかること、巨大や費用や装置が必要なこと、大きな組織でしなければならないことなど、その実験を躊躇してしまう要因はいろいろありそうです。あるいは、解決策を考える時点で、そのような要因があるものは、除外してしまっているかもしれません。
 さて、研究をするとき、新しいことをはじめるとき、ジェンナーの思考、検証過程には重要な示唆があると思います。ジェンナーのジョン・ハンターのもとで医学の手ほどきをうけました。ジェンナーが実験に踏み切る時、師匠のハンターからの手紙にあった言葉、
Why think, why try
(なぜかを考え、なぜかを試す)
というのを思い浮かべたそうでです。そして、人体実験に踏み切ったそうです。
 課題解決の手法として、考えること、試すことは、当たり前のことです。でも、その当たり前のことをすることが大変な場合があるからこそ、ジェンナーもハンターの言葉の後押しが必要になったのでしょう。
 私も今年の師走にあたり、再度思い起こしましょう。
Why think, why try

・根雪か・
北海道な12月前に、大雪となりました。
11月にも何度か吹雪くことがありました。
珍しく本州にも雪が降りました。
今年は、根雪も早そうです。
でも、天気さえよければ、
まだ溶ける時期でもあります。
冬至まで根雪はまって欲しいのですが、
どうなるでしょうか。

・心を御する・
今年は、忙しかったです。
この職場に来て以来
もっとも忙しい1年となりました。
この忙しさは、あと少し続きそうです。
忙しさの原因は、はっきりしています。
校務の多さと、研究上の成果報告の多さに
由来するものです。
校務は終わっても疲労感が高まりますが、
研究は大変ではありますが、
終われば達成感がでてきます。
このような違いは、自身の心の持ちようだと思いますが、
心はなかなか御するのが難しいものです。

2016年11月1日火曜日

178 南方マンダラ

 秋に和歌山県田辺にいったとき、南方熊楠顕彰館を訪れました。その時、熊楠のマンダラに再会しました。以前にも興味を持っていたのですが、改めてその重要性に気づきました。

 マンダラとは、仏の悟りや聖域、仏教の世界観などを図化したものです。狭義には密教におけるものを意味しますが、いろいろな宗教でもマンダラが作成されており、表現やその表している内容は、広義になっています。英語でもMandalaと示され、漢字では「曼荼羅」と書きます。マンダラは、広くその宗教や思考の世界観を意味しています。
 密教では、金剛界曼荼羅と大悲胎蔵曼荼羅というふたつのマンダラがあり、前者は金剛頂経、後者は大日経と呼び、密教の一番重要な経典に基づいています。ですから、日本の密教の本尊とされる大日如来が図の中心となり、その他の尊像が首位に配置されています。
 なぜ、マンダラの話からはじめたのかいうと、南方熊楠(みなかた まぐす)の文献を読んでいるためです。熊楠の思想の中に、マンダラが重要な意味をもつものがありす。熊楠の名前は聞いたことがある人も多いと思います。奇人変人、博覧強記、民俗学や粘菌の研究者などというイメージは、すでにお持ちでしょうか。その実像は、あまり知られていないかもしれません。少し略歴をみてきましょう。
 1867(慶応3)年5月18日に生まれ、1941(昭和16)年12月29日に、74歳で亡くなっています。和歌山城下で生まれ、和歌山中学校を卒業し、東京の大学予備門(現・東京大学)に入学しますが中退、その後いくつかの学校に入りますが、卒業することなくすべて退学してしまいます。学校は嫌いでしたが、子どもの頃から晩年まで、いろいろな書籍を入手して独習を続けています。覚えるために書き写すことがいいとして、生涯抜書を続けました。このような弛まぬ努力が博覧強記を生み出したようです。野外調査と著作(書翰を書くことも含む)を日夜関係なく続けることが、一生の生活パターンとなっていきます。
 1887(明治20)年、20歳で渡米して、幾つかの学校を経ながらも、すぐにやめて独習に入ります。動植物に興味を持ち、隠花植物の採集をしていきます。その後キューバにも行き、採集しています。1892(明治25)年にはイギリスのロンドンに渡ります。大英博物館に出入りして、図書館などで文献を読み、最新の学問や古典などを独習していきます。そこで西洋学問の方法論や議論の仕方を身につけていきます。1900(明治33)年に帰国し、3年間那智勝浦に住んで後、田辺に住み続けます。
 大英博物館にいた時代に、子どものころや大英博物館の東洋図書目録編纂中に身につけた知識にもとづき、西洋の学問体系にない視点での論説を進めていきます。熊楠の論説した分野は、民俗学や博物学、植物学など幅広く、Natureに多数の論文(約50報)を書き、「ノーツ・アンド・クィアリーズ(Notes and Queries)」にも多数の寄稿(300以上)をしています。
 熊楠の研究業績は比較民俗学で、柳田國男とともに日本の民俗学を起こした中心人物でもありました。柳田が見ていたのは日本の学界でしたが、熊楠は世界の知識人が相手でした。しかし、面白いことに熊楠の思想に根幹には、子どものころに身に着けていた大乗仏教の真言密教に根ざしていたものがありました。その哲学的は深まりは、土宜法龍(どき ほうりゅう)との議論でした。
 土宜は、日本の近代の仏教を代表する学者であり僧侶でした。高野山学林長、仁和寺門跡、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを大きな任務を歴任しました。熊楠はロンドン滞在時代に、土宜と出会い、意気投合し、その間ほんの数日ですが濃密な交流をおこないます。その後、晩年までその交流は続きましたが、会うことは少なかったのですが、多くの書翰が交されました。
 熊楠の科学あるいは学問に関する哲学は、法龍との書簡によって展開されていきました。熊楠は、西洋の科学の限界を察知して、それを乗り越えるためには、東洋思想に古くからある曼荼羅や密教の思考法が有効だという論を展開しました。
 残念ながらその思考は、熊楠存命中に論文や書物として発表されることはありませんでした。土宜法龍との書簡は、一部は熊楠に戻されており、熊楠没後、全集や日記(一部)、書翰集として公開されてきました。さらに、2004年に栂尾山高山寺から新たに熊楠の書翰が発見され、2010年に解読されたものが出版されています。熊楠は日記魔でかなり詳しく日記をつけているのですが、その解読は現在も進行中で、それも今後解読の手がかりとなるでしょう。
 熊楠と私が専門としている地質学とは、全く接点がないように思えるかもしれませんが、関係があるように思えます。熊楠の考えた科学哲学は、実はまだ充分理解していません。いくつか理解したことは、科学の因果関係を重視した還元主義には限界があること、必然である因果ではなく、偶然から生まれる因縁、縁起を考える必要があること、物と心、両者の交わる「事」の重要性、さらにもっと大きく総合化する必要性を述べています。このような展開を考えるとき、大乗仏教の密教などの先哲の深い思索が役立つとしています。
 そのあたりの考えが書翰に、熊楠一流の書き方で綴られています。手紙には図を使って説明しているのですが、「南方マンダラ」とよばれる有名な図があります。ぐちゃぐちゃ線の集まりに見えるのですが、実は深い意図をもって描かれています。線はこの世のあらゆる現象(熊楠は「理事」と呼んだ)を意味して、線が交わるところができると、人ははじめて因果を見出しはじめることになる(可知)いいます。そして線が多数交差する付近を萃点(すいてん)と呼んで、もっとも早く理解が進むといいます。萃点から離れるにつれて、気づきにくく(不可知)なってきます。しかし、交点がなくても、理事はあるはずです。そのような不可知を理解するには、西洋科学の還元的な見方では到達できず、密教の達した金剛や大日のような大きな考えを導入する必要があるといいます。
 熊楠の書翰の書き方は、話題がポンポンと飛びながら展開していくのが基本です。ですからついていくのがなかなか難しい部分もあるのですが、その話題の飛び方が読んでて面白いところ、下ネタ、法龍を小馬鹿にしたような文章もあり、笑みながら読めるとこともあります。そんな中に重要な思索の展開が紛れ込んできます。熊楠の頭のなかではつながっていたのでしょうが、書翰を書き進めながら、思考を深めていったようです。重要な論点を述べていることはわかるのですが、前後の文脈を理解するのが難しくなっています。
 熊楠のこのような思索を調べた研究があるのですが、中沢新一は「森のバロック」を、鶴見和子は「萃点」を、橋爪博幸は「事の学」を、松居竜五は「一切智」をキーワードにして熊楠の思想を読み解いています。また、中沢は熊楠の哲学に関する思索が那智勝浦にた短い時間に集中的に起こったことに注目して、その期間を「星の時間」と呼びました。
 私には多分今後「星の時間」が訪れることはないようです。しかし自分が目指す地質学を進めながら、熊楠の哲学を読み解いていければと思っています。

・書翰の文章・
秋に和歌山へ調査に行った時、
田辺にある南方熊楠顕彰館を訪れました。
それまで南方マンダラの存在は知っていて、
いくつかの本は読んでいました。
未読の文献もいつかは手元にありました。
熊楠の哲学は詳しくは知りませんでした。
顕彰館にいって、熊楠を知るにつれて
私が考えている科学の考え方より
熊楠はもっと深く考えていることを知りました。
そこでまずは熊楠に関する研究を
一通り読むことにしました。
今もまだ読んでいるのですが、
主だったものは目を通しました。
現在は、熊楠の書翰を読み進めつつあります。
なかなか難解で手強いです。
でも読んでいて面白いのが救いです。

・読みきれない資料・
南方熊楠に関する書籍類はだいぶ収集しました。
今では古本でしか入手できない
全集や日記、書翰もありました。
土宜以外の書翰など関連のない
資料には手を出していませんが。
それでも、一通り読むのは大変です。
熊楠の研究は本業ではないので、
まずは関連のある部分だけを
ここ1年ほど集中して目を通したいと考えています。
そして自分なりの思索をまとめていければと思っています。
まあ、あとの部分は老後の楽しみにしましょうか。

2016年10月1日土曜日

177 洗心と思遠

 和歌山のある寺を参観したときに、2つの語句が目に入り、心に届き、今も残っています。ひとつは簡単に理解できるものですが、もう一つはわかりやすい言葉なのですが、いまだに答えが出ていません。時間をかけて、これからも考えていくことにしました。

 和歌山に調査にいった時、朝早目に宿をでて、移動をしていくことになっていました。朝から日差しが強く、その日も暑くなりそうでした。そんな道すがら、涼し気な森に囲まれた寺がありました。その寺は由緒正しそうで、少し見学していくことにしました。
 駐車場の近くあった説明文を読みました。すると、この寺は、由良町にある臨済宗妙心寺派の鷲峰山興国寺(もとは西方寺と呼ばれた)で、国指定の重要文化財が3つもあるとのことです。安貞元年(1227年)に建立された、由緒正しき寺で、1258年に法燈(ほっとう)国師が、この寺を禅宗に改宗しました。その後、「関南第一禅林」として、非常に栄え、多くの高名な弟子を輩出したそうです。
 そんな寺の縁起を読みながら、駐車場のすぐ脇にある大きな山門から入りました。山門をくぐると、森に囲まれた緩やかな石畳になった参道を登っていきます。きれいに掃き清められ、手入れの行き届いている様子がわかります。
 小さな流れがあり、そこにかかる橋の欄干に「洗心」という文字が彫られています。「洗心」は、寺の橋や手水(ちょうず)などでよく見かける言葉です。仏教で古くから使われている言葉です。禅の世界では、特によく使われているようです。手水では手と口を清めますが、「洗心」には、心の塵を洗い落とし、清めるという意味があります。手や口を清めるという行為をしながら、実は心も清めているというところが重要だと思います。
 「洗心」はいい言葉です。そして、書かれている場所も、行為を伴っているので、意味もわかりやすいものです。だから、すなおに心に染みてくる言葉ではないでしょうか。
 さて、橋を渡り、清められた気持ちで参道を進みました。まったく人っ気のないお寺でしたが、途中でお参りを終えられた女性が参道を下りてこられました。そして、すれ違う時、笑顔で会釈されました。口元が動いて挨拶の言葉を出されていたようですが、その笑顔と会釈だけで気持ちは伝わりました。こちらも自然と笑顔で会釈を返してしまいます。これは、「洗心」の賜物でしょうか。
 参道を進んで、急な階段を登り、再度山門をくぐると、広い境内とその奥に大きなどっしりとした本堂がありました。本堂の前には広い庭があり、本堂まではまっすぐに伸びた石畳があり、その周囲には砂利が敷かれています。そこもきれいに掃き清められて、手入されている様子がわかります。
 本堂の中には入ることはできなかったのですが、本堂の周りを見ることができました。その時、本堂の裏に建っている開山堂への渡り廊下がありました。その入口の棟木に掲げられた額(扁額、へんがく、といいます)がありました。そこに書かれていた文字が強く心に残りました。
 扁額には、「思遠」と白い文字で明瞭に揮毫(書くこと)されています。「思遠」は、どう読めばいいのでしょうか。その読みは「おんえん」、「おんとう」、「しえん」、「しとう」などいろいろと読みをあててみたのですが、なかなか語呂のいいものがありませんでした。文字通りの意味であれば、「遠くを思う」ということになるのでしょうか。私には、本来の意味だけでなく、読み方すらも、わかりませんでした。
 そして扁額には、雅号でしょうか、署名がありました。署名は、草書でしょうか、くずした文字で書かれていて、読めませんでした。誰の書かもわかりませんでした。
 扁額の「思遠」は、心に残った簡単な言葉なのですが、読みも、意味も、作者もわからない、謎としてさらに心に刻まれました。
 「思遠」に込められた意味は、はたしてどういうものなのでしょうか。
 その後「思遠」という語をいろいろと調べました。津田さち子さんという作家が書かれた「思遠」という本があることを発見しました。この本は「思遠」について書かれているようです。早速、購入して読みました。しかし、この本はエッセイ集で、その一つとして「思遠」と題されたエッセイがありました。本を読んで、作者の津田さんも、この扁額をみて、同じように衝撃を受けたそうです。不思議な縁を感じました。
 まだそれほど情報を得ていないのですが、津田さんの本からいくつかことがわかってきました。「思遠」は「しおん」と読みます。そして、扁額は、仙厓(せんがい)和尚の墨跡(書いたもの)だそうです。
 仙厓は、以前から興味をもっていた僧侶で、少し調べたことがありました。有名な書に「○△□」や「○」(円相図と呼ばれています)があります。円相図には、その横に「これ食ふて茶のめ」という一文が添えられています。仙厓にはこのような判じ物のような書がいくつもあります。しかし、そこには洒落の利いたものが多いようです。
 以前から仙厓和尚にも興味を惹かれていたのですが、ふと立ち寄った寺で、思うわぬ出会があったのです。ただし、その出会いの瞬間は、「思遠」の文字に興味を惹かれたのであって、仙厓に気づいたからではなかったのですが。でも、そこに不思議な縁を感じますが、まあ、仙厓について、別の機会にしましょう。
 「思遠」は、ありふれた言葉のように見えますが、調べても詳しい説明が、まだ見つかっていません。ひとつだけ、東福寺の三門前に四角い形で「思遠の蓮」が生えている「思遠池」があることがわかりました。しかし、蓮や池に使われた「思遠」に、どのような意味が込められているのかは、まだわかりません。津田さんは、長年かかっていろいろ思索され、「思遠」は「非常に優れた仏教への憧れ」と考えられていたようです。
 夏の朝、興国寺を訪れた時、「洗心」と「思遠」という2つの言葉が、心に残りました。「洗心」は、その文字が書かれている所(橋や手水)で、水は洗い清めるという行為の時に目にする言葉です。非常にわかりやすく、心にしみる言葉です。一方、「思遠」は、言葉の意味としては、当たり前のような意味に見えます。この言葉は、この寺だけなく、大きな寺の池にも使われているものです。しかし、この寺では、扁額は名のある禅僧が書いたものにもかかわらず、本堂の裏の別院に渡る廊下というわかりにくいところに、さり気なく掲げられています。その意味もよくわかりません。
 心に残る2つの言葉を紹介したのですが、わからない「思遠」の方が、謎としてずっと心のどこかに居座りそうです。

・熊楠・
最近、南方熊楠に興味をもって
彼の思想をなぞっているところです。
熊楠は、仏教の大乗仏教の密教を
思想の中心に据えています。
彼のような西洋科学に精通した人間が、
西洋科学の弱点を
密教という東洋思想で克服しようとしていました。
気にならないはずはありません。
これまで、仏教あるいは広く宗教は、
科学には、無縁だと思っていたのですが。
熊楠の思想をみていくと、
そうではないように思えてきました。
科学を営み、思索を深めていくには、
哲学的視点が必要になると思います。
私には、その延長線上に
熊楠も仙厓和尚も存在するような気がしています。

・仙厓・
仙厓の言葉には、面白いものがいろいろあります。
その中の一つに、次の有名な言葉があります。

六十才は人生の花
七十才でお迎えがきたら「留守だ」と言え
八十才でお迎えがきたら「まだ早すぎる」と言え
九十才でお迎えがきたら「そう急ぐな」と言え

というのです。
人生は長くて、いくつになっても
生きてすることがるんだという気概を感じます。
仙厓は88歳で遷化(せんげ、亡くなること)しましたが、
少々「急いだ」ようですね。

2016年9月1日木曜日

176 エビデンスレベル:人為の排除

 医学界には、科学的根拠を明瞭にするために、エビデンスレベルという考えが、導入されて運用されいます。自然科学でも、人為を排除する考え方の導入が、必要になってきています。

 エビデンスレベル(Evidence Level)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。日本語にすると「証拠の水準」となります。ある仮説を証明するために提示された証拠が、どのようなレベルのものかということです。自然科学の世界では、証拠の水準が話題になることはほとんどありません。証拠の、あるいはデータの精度については議論されますが、その証拠自体の水準が問題になることはありません。データの精度が、その水準を示していることになります。
 エビデンスレベルとは、医療の現場で使われだした言葉です。医療は自然科学とは違って、経験科学的な側面があります。自然科学では、因果関係が明瞭でないと、証拠能力を持ちません。しかし、経験科学では、なにかを為した時、大きな確率である結果が得られるのであれば、その手法は有効となり、利用されていきます。技術開発の現場では、そのようなことがよくにしておこなわれています。
 医学の現場では、治療の効果や副作用などを、臨床による結果を調べる場合には経験の集積がなされていきます。ある治療や、ある投薬をしたとき、その効果を調べようとしたら、人には多様な条件が介在していることと想定されます。あるひとりの患者の症状が好転したとしても、それの全ての人の治療に反映していいのでしょうか。たとえ10名、100名に効果があったとしても、その背後に効果がなかった患者がある比率でいるはずです。それをどのように評価するのかという問題があります。医療は人の生死にかかわることになります。
 医療では、1990年代から、「証拠に基づく医療(Evidence-based medicine、EBMと略されます)」という考えが導入されました。医療の効果を、科学的に示そうという考え方によるものです。
 それまで医療には、ある一人の医者の意見から、ひとつの症例の記載、医学界の合意、はじめての成功例、実験動物での成功例、人での臨床結果、大量の統計に基づく結果など、非常に多様な根拠に基づくものが含まれています。それらの結果は、同じレベルで採用したり、評価するのは問題があります。より精度の高い結果を用いていかなれば、よりよい治療、医療になっていきません。そのような思いで、EBMでのエビデンスレベルが想定されました。
 エビデンスレベルは、1から6の段階に分けて示されています。番号が小さいほど、より強力な証拠となります。
1 ランダム化比較試験
2 コントロールを伴うコホート研究
3 症例対象研究
4 処置前後の比較
5 症例報告
6 専門家個人の意見(専門家委員会報告を含む)
という区分です。少々、専門的な言葉が使われていますが、少し長くなりますが、紹介します。
 「ランダム化比較試験」とは、無作為に集団を選んでいくつかのグループに分け、他の要因による差がないようにしてから、比較していくものです。そこで差がでれば、効果があったとことを証明したことになります。このような比較試験を、多様な地域、民族などでおこない、同じ効果がでれば、その結果まもっと信頼でき、人類全体に拡張できることになります。どんなに2や3の証拠が出てきても、これに勝るものはありません。エビデンスレベル1が示されたら、決着をみたことになります。
 「コントロールを伴うコホート研究」とは、条件を制御しておこなう研究です。ある条件を与えた集団と与えていない集団を定めて(コントロールを伴うという)、一定期間追跡して調査するもの(コホート研究、Cohort Study)です。そこで、ある症例の発生率を比べていくことで、その条件の有効性を示す方法です。無作為でない点が、1と比べて劣る点です。
 「症例対象研究」とは、ある病気を発症した集団に固有の原因を調べていきます。このとき、発症していない集団と比べて、原因究明をしていきます。この研究では、すでに発症してい集団を対象にしているので、過去にさかのぼって調べていくことになります。そこには、先入観や因果関係のない要因が入り込む可能性があります。そして十分に条件がコントロールされず、長期の検証もなされていない点で、1や2に劣ります。
 「処置前後の比較」は、もっともわかりやすものです。処置の前後を比較して効果があったかどうをみるものです。ただし、処置をしてない集団と比較しているわけでないので、本当にその治療による効果かどうかは不明です。
 「症例報告」は、ある症状があっという実例を報告するもので、治療にむすびつくものでありません。
 「専門家個人の意見」というのは、市民にとっては、一見もっとも意義があるように見えますが、その専門家が、エビデンスレベルを承知して語っているのであれば、上で述べたいずれかのものに該当します。権威を持った人が語ると、説得力があるのですが、もしそれが主観に基づくものであれば、根拠がなく逆に危険性でもあります。
 実は、権威をもって人が主観的に述べた意見が、往々にしてメディアにでることがあります。○○医科学博士が語った治療法、○○病院の○○科部長推薦による健康薬など、世間には権威を利用した報道、広告が多数みられます。大手の新聞の医療系の広告欄をみれば、いかにこのようなものが多いかは、一目瞭然です。
 医療では、証拠に基づく医療(EBM)やエビデンスレベルの導入で、科学的正当性を確保しようという方針が定まって、20年近くなります。しかしメディアや現実の医者の対応をみていくと、現状ではまだ普及にいたっていないようです。実際に定着するのは、まだまだ先のようです。
 自然科学でも、このような証拠の水準について考えていく必要があるかもしれません。
 自然科学では、きっちりとしたデータに基づく研究は、ランダムな対象でコントロールされた比較研究になっていることが多くなります。特別な場合を除いて、長期にわたる追跡調査はあまりなされません。
 「症例対象研究」や「処置前後の比較」は、因果関係が定かでないが、有効な方法、いわゆるノーハウのようなものが使用されることはあります。科学技術では、このような場面が生じています。実用化のために、エビデンスレベルにこだわることなく、ただ有効な、効率的なものが証明されていなくても、応用面ではすぐに使われていきます。やがては原因究明がなされ、より定かなものになっていくはずですが。医療とは違って、対人間でない場面が主となります。また実用化するために、いろいろな安全基準という関門があります。
 自然科学において、「症例報告」に相当するのは、最初の記載、発見にあたるものです。存在を確認したという意味で、非常に重要ですが、科学のスタートでもあります。
 「専門家個人の意見」は、自然科学でも存在します。自然災害の発生、例えば地震の予知、火山噴火予知などで、専門家、あるいは似非専門家がよく登場します。それが自分の経験や、いくつかの「症例報告」から、あたかも高いエビデンスレベルをもった理論かのように、「専門家個人の意見」を述べる人がいます。これは、大きな問題です。科学の信頼を損なうだけでなく、不要な不安を社会に及ぼすことになるからです。
 エビデンスレベルの導入で医療から主観は不確かさを除こうという試みは大切です。科学の世界でも導入すべきでしょう。しかし、医療も科学も人が為すものなので、心情や心、主観など、どうしても人為が混在するようですね。

・熊野にて・
このエッセイが届く頃、
私は、和歌山で野外調査をしています。
予約による発行となります。
多分熊野のあたりをウロウロしているはずです。
まあ、天候によりますが。
天候ばかりは、どうしようもありませんが。
1週間ほどの調査ですが、
順調に進んでいることを願っています。

・メディアの魔力・
メディアに出て、科学のことをわかりやすく紹介する
サイエンスコミュニケーターと名乗る人たちが、最近でてきました。
科学をよりわかりやすく伝える役割を持っている人たちです。
それなりの訓練を受けたり、特技として説明が上手な人がいます。
そんな適材適所で科学を伝える人も必要です。
これは、いいことだと思います。
中には、メディアが持たらす栄誉や自尊心をくすぐるような場で
空気や与えられた役割を果たすために
必要以上、専門以外、能力以上のことを語っている人を見かけます。
最初は社会的責任としてメディアにでていたのが
気づいたらコメンテーターの役割を担っている人がいます。
もし、そうならその人の本心はどうなているのでしょうかね。

2016年8月1日月曜日

175 実感と理屈の時間

 時間について考えていきます。地層を素材に、私たちが時間をどのように理解しているのかを見ていきます。どうも実感と理屈、過去の未来には、いくつかの感じ方の違いがあるようです。

 地層を思い浮かべてください。頭に描かれている地層は、砂(岩)の部分と泥(岩)が繰り返されているものだと思います。地層を詳しく見ている方は少ないかもしれませんが、一般的な特徴として、砂から泥へは連続的に変化していき、泥から砂は明瞭な境界があります。これが、日本でよくみられ、多くの人が想像する典型的な地層になります。
 地層は海底で長い時間をかけて固まったものです。ところが、実際に形成されときは、海底を流れ下る土石流(タービダイトといいます)によって、一気にできてしまいます。まず粗い砂が沈み、続いて細かい粒子の砂が、そして泥や粘土の微粒子がゆっくりと溜まってきます。この間、数時間から数日、長くても1、2週間たてば濁っていた水も澄んでいきます。小学校の理科の時間におこなった実験を思い出してください。
 そして、次の土石流が流れてくるまでは何もたまらない状態です。ただし、自然界のことですから、川や海流に乗ってくる細かい泥、風に流されてくる火山灰など、細かい堆積物が少しですが溜まります。その量はほんの僅かです。しかし、流れている時間に大部分は、あるかないかのその薄い層に存在することになります。そして、そこが地層の境界でもあります。このような土石流によってできた地層をタービダイト層と呼んでいます。
 ここで注目したいのは、長い時間が地層の境界に流れ、そこには堆積物がほとんどないということです。海底で地層を形成するような大規模な土石流は、めったにない現象です。数百年、数千年に一度の現象です。つまり地層を構成する大半の物質は、あっという間に堆積し、そして物質がほとんど堆積しない長い期間によって、地層境界ができていることになります。
 このような時間と物質の視点でみると地層とは、不思議なものに見えます。
 さて、今日の話題は、私たちが感じる時間についてです。ここまで述べてきたように、数百年や数千年という長い時間であっても、筋道を立てて話しをすれば、理解できると思います。ただし、その理解は、頭での理解ではないでしょうか。地球の過去の時間は、自分の体感を越えたスケールになってしまい、理解できても実感できないのではないでしょうか。言い換えるとどんなに長い時間であっても、理解することはできます。数年や数十年という時間であれば、体感的にはすごく長く感じます。それを超えると、数百年、数千年、あるいは数億年といえども、数値でしなかいので、長くは感じません。数億年のスケールで考えると、数百年、数千年は短く感じてしまいます。
 人は、日常の時間として1秒、1分、1時間、1日、1年というオーダーで過ごしています。それらの時間は、身近なものとして、実感、体感できます。時間を比較すれば、長短として感じることもできます。実感は、「現在」という時間を、人が心身で感じているからでしょう。ですから、心身で感じる時間は、そう長いスケールにならないでしょう。明らかに過去の長い時間とは違ったスケールでの認識になっていきます。
 さて、未来の時間はどうでしょうか。未来の時間は、まだ体験していなのですが、頭の中では存在しえます。その時間は、理論や、予測、仮説に組み込まれたものなら確実性は高そうです。
 例えば地質学では、プレートの現在の運動と現在の大陸配置から、未来の配置を推定しています。これは、時間軸を過去に向ければ、過去の地質情報から検証可能です。このような過去で検証された未来予測は、ある程度根拠があるように思えます。このような未来予測の信頼性は、その予測手法を過去に延長したら観測事実と一致したという方法が多用されています。
 ただし、地質学に流れる時間は、万年、億年のスケールの時間ですので、これは体感ではなく、理屈での理解となります。
 最近スケールの違う未来予測をよく耳します。地球環境問題においてです。温暖化の未来予測は、「2100年には」とか「100年後には」とかの値で語られます。その数値をみて、私はもう生きていないのではなかいという感想を多く人が持つでしょう。しかし、理性的に考えると、自分の子どもや子孫、ひいては人類の未来のためにという崇高な考えをもつことができます。さらに、自分がいないであろう未来の他者のために、現在を我慢していこうとさえします。このような他愛行動はすばらしいものです。
 長い時間スケールであれば、実感を越えて、理屈で理解していくことになります。理屈で理解する時間は、頭のなかの作業で、過去も未来も同じ長さとして処理できそうです。私たちは、理屈で理解する時間には、過去も未来も同じ長さとして捉えられそうです。
 一方、実感できる時間、たとえば10年は、過去の10年と未来の10年は、同じ長さに感じるかどうかです。私には、過去が短く、未来が長く感じます。理屈での理解であれば、過去も未来も、物理的には同じ10年です。さらにいずれも「現在」にいる自分には、体験不可能な存在です。つまりは、過去も未来の10年も、頭の中で作り上げていくしかない時間なのです。
 ただし、過去は動かせない確定されたものです。ところが未来は不確定で、「現在」の自分の行動によって、変更が起こりうる時間となります。そのような不確定さがあるためでしょうか、実感として未来の10年の方が長く感じのかもしれません。
 10年という時間は、過去と未来では実感という点で、どうも違うようです。同じ時間でも、未来は長く、過去は短く感じるようです。それを前提に考えていくと、先ほど述べた、未来予測という点で問題が生じます。未来予測では、検証材料に過去を用います。過去で検証した結果、この未来予測は正しいとされます。その時の説明は、過去の10年はこうこうで、未来の10年のこうなりそうです、という予測になります。過去10年は短く感じ、未来の10年は長く感じるのです。ですから私たちは未来に対して楽観的になるのかもしれません。
 実感できる時間と理屈で理解する時間があり、スケールの長い時間に対しては理屈で理解し、短い時間は実感に基づいて理解できます。たたし、短い過去の実感では短く感じ、数年、数十年先、100年先は非常に遠く感じているようなのです。未来は短い時間も、長く感じるのです。私たちは、そんな不思議な時間世界の住人なのです。

・暑くない夏・
大学は試験期間になっています。
幸いまだ、暑くてたまらないような日はありません。
試験を受ける人間には涼しい方がいいのです。
現在まで、暑くてたまらないような日はなく
夜には窓を閉めなければ寝れないほどの日が続いています。
暑いのが苦手な私には、助かります。
でも、農業にはこの天候はどうなのでしょうか。
北海道は農業が重要な産業ですので、少々心配です。

・世情・
最近、天気や内外のニュースなどを
詳しく見る機会がかなり少なくなっているので、
最近とみに世情に疎くなっています。
まあ、それでも日常生活には支障がありません。
社会の動向は大切ですが、
時間に追われる人間にとっては、
「現在」が一番の関心事になります。
そんな人間が、時間や未来の話しをしても
説得力はないのでしょうかね。

2016年6月1日水曜日

173 Local KnowledgeからGlobal Knowledgeへ

 ある地域の知識や文化などローカルノレッジが、広まって世界的な共有知グローバルノレッジになっていくことがたまにあります。地域やコミュニティだけの知識が拡散していくのには、どのような要素が必要なのでしょうか。

 家内は、新聞やテレビのニュース、ワイドショウなどを見ているので、最新の事件や話題(とくに芸能ニュース)をよく知っています。子どもたちとも、芸能ニュースなどの話題で盛り上がったりもしています。それらほとんどの話題に、私はついていけませんが、あまり気にしていません。もちろん私も自分の興味あるニュースや話題は、気にして見ていますが、既存のテレビや新聞などのメディアをほとんど見なくなっています。いつの頃からはわかりませんが、インターネットから、自分の興味ある情報だけを仕入れるようになってきています。
 ある地域、ある民族、あるコミュニティだけで通用する知識や話題、隠語などが、よくあります。同じ言語で話していても、そのコミュニティに属していない人にとっては、たとえ知っている単語であったとしても、文脈がわからないので理解できないものがよくあります。インターネットの発達によって、同好の士が集まるコミュニティ・サイトが多数できると、そのようなコミュニティ発のいろいろな固有の文化が形成されていきます。
 グローバル化が進む世の中ではあるのですが、かたや地域性は深まっています。ただしこの「地域性」とは具体的な場所というより、インターネットなどを介した小さな文化圏というべきものでしょう。このような地域性の強い文化を、ローカルノレッジ(Local Knowledge)と呼びます。
 ローカルノレッジは、通常は地域の知恵という一般の用語でしたが、アメリカの文化人類学者ギアツ(Clifford Geertz、1926〜2006)が、1983年の「ローカル・ノレッジ 解釈人類学論集」という著書で使用したため、人類学のみならず、広く社会科学に大きな影響を及ぼすようになりました。ローカル・ノレッジという用語を、狭いコミュニティや社会だけの知識以上に解釈や意義を広げて用いるようになりました。ここではギアツの考えをなぞるのではなく、私の身近な分野を例にして、原意のローカルノレッジから考えていきましょう。
 ローカルノレッジには、あるコミュニティやマニアだけの世界だけで通じる隠語や独特のやり方、風習などのように、閉鎖的に生き残ったり、消えてしまったりしていくものも多数あります。一方、コミュニティだけが共有していた最先端、あるいは非常にディープな知識から、世間に広まり、人類共通のグローバルノレッジ(lobal Knowledge)として定着していくものもあります。
 古くはアップルなどのパソコンの開発、普及もマニアたちが生み出したローカルノレッジがグローバルノレッジとなったといえます。日本の漫画やアニメも、一部の世代や愛好家が楽しんでいたものが、いろいろな世代に普及し、世界に広まり、やがて定着し、今では日本を代表する文化となっています。またスポーツやゲームなども、多くは一部の愛好家がはじめたものが、多くの人たちが行うようになりグローバル化した、とみなせるのではないでしょうか。
 一部のコミュニティでのみで使われていたローカルノレッジのうち、外にでてきそうもないような知識は、どのような意義をもっているでしょうか。私は地質学を専門としていますが、地質学を例にローカルノレッジについて考えていきましょう。
 地質学というコミュニティ(地域性)には、科学の先端の知識も、古くから使われている知識もあります。地質学を学ぶ学生は、両者を区別なく学んでいきます。もちろん知識は体系化されているものから、経験でしかないものや、理屈もなくただ身につけるべきスキルなどが混在しています。
 抽象的でわかりにくかったかもしれなせん。地質調査における経験からくるいろいろなノーハウのようなものがそれにあたります。例えば、堆積岩や堆積物をこすった時の手触りで、ザラザラだと砂、サラサラだとシルト、スベスベだと粘土や、ハンマーで叩いたりこすったりした時、腐った卵の匂いがすると硫化物やイオウを含んでいるとか、石を舐めた時吸い付くような感じがするとある種の粘土鉱物を含んでいる、などの経験的なローカルノレッジがあります。それは野外調査では、石を見分ける上で重要な知識ですが、これはローカルノレッジで外にでることなく、単に砂(岩)、粘土(岩)があるという記載に落とし込まれていきます。
 また最先端の分析装置によって得られたデータは、その装置や分析の手順は一部は論文に書かれることがあっても、データの出し方や精度を示すためのもので、科学の議論では、ある精度が保証されたデータとしてのみの意味しか持ちません。ただし、その背景には、いいデータを出すために他の研究者には言わない、極意やノウハウが隠されています。私も他の研究者が論文で書いていた手法を自分で再現しようとしたとき、いろいろ苦労したことがありました。どんな最先端で、どんなに苦労しても、データになると多数の数の中に埋もれてしまいます。しかし、幸いなことに、データから導かれた論理は残りますが。
 このような地質学コミュニティにおいて必要なローカルノレッジには、そこで生きていくためには必要ですが、外に出すことのないものがありました。外に出していくべき知識は、普遍性を付与された形式で出すことが、定型化されています。これは科学という、より広いコミュニティが作り上げてきた、効率のよい知識共有化システムです。科学では、ローカルノレッジを、共有すべきグローバルノレッジにするための方法が確立がなされていることになります。
 このような決まったシステムがないコミュニティからでも、新しい知識が生まれてくること(例えば、パソコンやアニメのようなもの)は、すでに述べた通りです。そのとき外に漏れてくるローカルノレッジは、玉石混交の状態であることになります。
 残すべきものかどうか、あるいは実際に残っていくかどうかは、科学のようなシステムになっていないものは、集合知や時間淘汰が重要になってきます。つまりは、「成り行きにまかせる方式」ということです。そうなると、ローカルノレッジからグローバルノレッジへいたるには、多大な手間と時間がかかりそうです。しかしその手間と時間こそが、個人の打算や恣意が排除されていくという効用もあるのかもしれません。
 ギアツはいいます「局地的な事実のなかに広く普遍的な原理をみつけだす職人仕事に属する」と。それぞれのコミュニティに、普遍化する職人はそうそういそうにありません。いろいろな用語が、ある分野の専門家が通常の用法や意味以外に、別の用法や意味を付け加えていくと、その分野では特別な意味をもった用語となります。ギアツの用いたローカルノレッジという用語も、人類学の分野でのローカルノレッジなのでしょう。少々入れ子状態になっていてわかりにくかもしれませんが・・・。
 そのローカルノレッジを、私のような異分野の人間が、意義を見出し、注目して使用していくと、グルーバル化が起こります。これが集合知へとなっていくのでしょう。
 ローカルノレッジが、ローカルで利用され続ければ、洗練され、高度化され、質の向上がおこっていくはずです。それが長い時間、淘汰に耐えて生き残っていれば、グローバル化するチャンスも増えるのでしょう。
 システム化されていないローカルノレッジでは、集合知と時間淘汰が、ローカルからグローバルへの重要な役割を演じるのでしょうね。

・ラニーニャへ?・
いよいよ6月です。
北海道は新緑から初夏になっていきます。
今年の梅雨はどうなるでしょうか。
今年は、変動の激しい冬をすごしました。
春も目まぐるしく変化する気候でした。
今年の夏はどうなるでしょうか。
2014年夏に発生した強いエルニーニョ現象は
今年の春の間に終るとされています。
そのかわり、夏にはラニーニャ現象が発生するようです。
強いエルニーニョが終わって
ラニーニャになると暑い夏となるかもしれません。
そうなると暑さに弱い北海道人はへばってしまいます。
涼しい初夏から、夏の暑さが心配です。

・出張・
6月から7月にかけて、いろいろ出張があります。
教育実習が多数あり、そこに校務での2つと
私事での1泊も加わります。
私事は気分転換になりますが、
旧友との40年ぶりの再会のなので
楽しみではあるのですが、肝臓が疲れそうです。
いずれも肉体的には少々きついものがあります。
こうなると気持ちだけは切り替えて
出張は、気分転換にもなると考えて
行くしかありませんね。

2016年5月15日日曜日

137 小樽:軟石の建物

 石材を使った建築物は、重厚で格調を感じます。石材は重く加工が難しいので、技術も資金も必要になります。その中でも軟石と呼ばれる石材は、柔らかく加工がしやすく、石としての性質ももっています。軟石は、なかなか便利な素材です。

 ゴールデンウィークも終わり、日常の日々が戻ってきことだと思います。ゴールデンウィークは、しっかりと楽しまれたでしょうか。私は、野外調査が熊本地震で中止したため、ポッカリと時間があきました。そのおかげで、研究はだいぶ進みました。一日だけ家内と散策に出かけました。それは、小樽でした。5月2日は月曜日で平日だったのと、大学の講義が振替休日になっていたので、でかけることにしました。
 晴れで散策するにはいい天気でしたが、少々風の強い日となりました。平日で少しはマシかと思ってこの日にしたのですが、さすがに有名な観光地なので、多くの人出がありました。これは人混みが嫌いな私だからの感想で、多分これでも混み方はましで、この時期の休祝日には、もっとごった返していたことでしょう。
 今回の小樽は、まったくの観光で石や地質とは関係がありませんでした。若いころに、小樽周辺の地質の見学(地質巡検と呼んでいます)を何度かしたことがあります。数年前にも、学会の案内で小樽の街に来たことがありました。子どもたちは、小学校の修学旅行でいろいろ楽しんできました。家族旅行の時は、車で通り過ぎたことが何度かありました。ところが、家内は一度も小樽の街を歩いたことがないので、いい機会ですから、散策をすることにしました。
 さて、小樽の街は港街です。港としてのスタートは、札幌の市境の小樽内川にありました。その港、季節風が強い時にはなかなか接岸できないという弱点がありました。季節風が避けられる場所として、現在の場所に移動しました。町や港の場所が、もとあった場所から、移動したのですが、名称もそのまま移動してしまいました。
 港としては、松前藩によってオタルナイ場所という交易所が開かれ栄ました。小樽には、北前船も立ち寄っていました。明治の初期(1880年)には北海道で最初の鉄道も開通し、日本初の本格的コンクリート製の防波堤をもった北防波堤が整備されました(1908年)。19世紀末から20世紀前半にかけて、小樽は、北海道の石炭の積出港として、さらに日露戦争で手に入れた南樺太やロシアとの交易のための、物質の中継地として非常に栄えました。
 小樽は、地形として、南に急峻な山地があり、そこからなだらかん丘陵地になります。小樽の街の前は平坦でなだらかな海岸線ですが、その面積は狭く限られています。周辺には複雑で険しい海岸となっています。
 これらの地形は、もちろん地質の影響を受けてます。険しい山地は安山岩溶岩でできていて、丘陵は火砕岩や火山砕屑岩からできていて、平野は海岸段丘の堆積物、河川による沖積層からなり、複雑な海岸部は安山岩の水中火山岩、水中火砕岩(ハイアロクラスタイトと呼ばれています)からできます。地質が地形をつくっています。
 小樽は斜面から狭い平野しかない港街でした。平地が少なかったところに、急激に商業的に栄えてきたので、手狭になってきました。丘陵を切り崩し、埋立地が作られました。丘陵は流紋岩質凝灰岩で崩しやすい岩石でした。1914年には、埋めて地の中に小樽運河も作られました。当時の小樽(108,113人)は、人口も札幌にも劣らない(102,580人)を要する、大きな商業都市に発展してました。
 しかし戦後になると(1960年代以降)、石炭から石油へのエネルギー転換が起こり、北海道内の炭鉱が各地で閉山し、樺太やソ連との貿易も激減してきました。それに加えて、太平洋側の苫小牧港や石狩湾新港の整備などにより、港町としての発展も衰え、商業都市としての活気が急激になくなっていきました。海運業がさびれるとともに、運河もドブのような状態になり、活気のない街となってきました。
 小樽が発展していた時、巨額の資金を投じて建築された石造りの近代建築や港湾の倉庫などが、急激な商業の衰退によって取り壊すことなく残されていたいました。古いまま残された栄華の残骸が、手を入れて再利用できる有望な観光資源になりました。運河も再整備され、きれいな町並みに生まれ変わったのです。再整備された近代建築の街、小樽は、観光の街として再び繁栄を取り戻してきました。私がいったときも、中国、韓国、台湾などからの観光客が多数来られていました。
 小樽の西洋風近代建築の素材となっているのが、木と石です。倉庫などは木造の大きな空間をつくっていますが、火災予防のために、石材が多数利用されています。木造建築の長所は安いコストと建築期間の短さです。弱点は火災です。倉庫群は、両方を利点をいかして、木造築、石壁というつくりなっています。一方、西洋建築物は費用を惜しまず立派な石材でできています。市内の近代建築の石の多くは、軟石と呼ばれるものからできています。
 軟石とは、軽石や凝灰岩などの火山砕屑物が固化したものです。名前の通り、柔らかい石材で、加工のしやすい素材です。しかも石として特徴も持っていますので、使い道の多い素材だったようです。大谷石に似た岩石ですが、大谷石より細粒で硬度もあり、それでいて通常の岩石より切り出しやすく、軽くて保温性もあり、耐火性もあったので、石材として便利だったのです。
 小樽で使われている軟石には、産地の違いがあり、小樽軟石、札幌軟石、桃内(ものない)軟石などあることがわかっています。小樽軟石は、小樽の北、鉄道博物館の近くにある手宮洞窟周辺と、南にある奥沢村の2ヶ所から切り出されていました。桃内軟石とは、小樽の西の忍路(おしょろ)の近くの海岸沿いにあります。現在、桃岩と呼ばれう海に突き出た岩礁ありますが、かつてはそれに連なる尾根がありました。その尾根が桃内軟石でできていたため、その尾根が現在ではなくなってしまうほど、すべて切りだされてしまいました。札幌軟石は、札幌の南で、なかり奥に入った石山あたりで採られていました。
 石材は便利ですが、使用量が多くなると、木材よりは重いので運送が大変になります。費用もかさみます。ですから、石材は地元のものを使うことが基本的な考え方になります。しかし、権力や資金があると希望する理想的な石材を日本、現在では世界各地から取り寄せられます。権力の象徴は大阪城の城壁の巨大な石材でしょう。信じられないくらい大きな石が、小豆島から運ばれてきました。これは秀吉の権力を象徴するものでしょう。小樽の建築物には、札幌軟石もかなり使われているようです。小樽は急激な発展をしたため、かなり大量に石材が必要とされことと、資金も豊富だったため、札幌の奥地から大量に石材を取り寄せられたようです。
 繁栄した時代の資金力によって作られた街が、栄光の衰えとともにさびれてきました。しかし今では過去の栄華を、観光資源として活かすことで、復活を遂げようとしています。そんな過去の栄華を、小樽の札幌軟石に見ることができます。

・アイヌ・
北海道の先住民であるアイヌの人々は、
狩猟採集で暮らし、文字で記録することがなかったので、
必ずしも詳しい歴史が残されていません。
北海道の自然の中で長く生き抜くための知恵を持ち
北に自然に馴染んだ独自文化をもっていました。
江戸時代の松前藩はアイヌとの交易をし
明治政府は、北海道を西洋の近代化した考え方で開拓していきます。
近代化の波は急激なもので、
その影響でアイヌの文化がかなり消えていきました。
現在では、アイヌ文化は守られるようになってきていますが、
消え去ったものも多数あるかと思います。
アイヌに関する情報はリニューアルした
北海道博物館(旧開拓記念館)で学ぶことができ、
現在、企画テーマ展「アイヌ民族資料を守り伝える力」が
開催されています。
私は、2月に常設展を見学にいったのですが、
再度、企画展を見学したいと思います。

・請負所・
エッセイにあったオタルナイ場所とは
請負所のことを意味しています。
江戸時代、松前藩は函館周辺を領地としていました。
ご存知用に、江戸時代、武士は、米を経済の中心にしていました。
米が取れない松前藩では、
家臣を養うために他の方法が必要でした。
その方法として、家臣に請負所を許可することで
アイヌとの交易による商業収入にて、知行としました。
しかし、武士にはそれほどの商才がないため
商人に仕事を代行させ
その利益を運上金として納めさせることにしました。
それが、場所請負制度で、その地のひとつがオタルナイ場所でした。
小樽も商人が発展させてきた地でした。

2016年5月1日日曜日

172 ポパーのサーチライト

 科学的に考えることは、科学だけでなく、いろいろな場面で重要な役割を果たします。科学的考え方で科学は営まれています。しかし、科学の実験や観察は、本当に科学的に考え方にもとづいているのでしょうか。そこには、人間的な主観や感情は入っていないでしょうか。

 現代社会に生きていくためには、科学的な考え方は、重要です。科学的な考え方は、日本のような経済大国、技術立国では不可欠な能力です。科学的考え方が身につけられるように、教育システムに組み込まれています。小学校でも理科だけでなく、いろいろな教科で科学的考え方を学びます。教育機関では、科学的に考える重要性を常に伝えています。
 学びの場から、社会に出て、日々の業務や生活に追われはじめると、科学的な考え方をしていないことが、多くなるような気がします。しかし、長年学んできた科学的な考え方の重要性は、理解してるはずです。でも、学びの場から離れて長い年月がたつと、ついつい科学的な考え方を忘れてしまい、感覚的、常識的な考え方で済ましてしまうことが、多くなってはいないでしょうか。
 私のように科学の世界に長くいると、普通の人とは違って、科学的な考え方が日常を完全に侵略しています。これは、いいことか、悪いことかはわかりません。私の家族からすると、日常的な考え方からすると、私は少々常識はずれの意見を述べているようです。家内や子どもたちと話していても、私は科学的に考えで対処しようとしますが、彼らは常識的な対処をしようとします。場合にはよっては、相反する考えになることがあります。そんな時、馴れでしょうか、家族は常識的対処を各自で選択することになっています。つまり私の考えは無視されます。なぜなら、そのほうが社会生活で波風を立てないからです。ただし、家族が経験したことがない場面、常識ができていない状況では、私の科学的考え方が役に立つことがあります。
 私も、家族との間に波風を立てるつもりはありません。だから家族の選択は尊重します。私の場合においても、論理的には正しいことや正論でも、社会や日常、常識では、通らないことがごく普通にある経験を一杯しているからです。これが世の習いでもあります。日本の政治を見ていると、その例に枚挙の暇がないでしょう。
 ところで、科学的な考え方とは、どういうものでしょうか。証拠に基づき論理的な結論を得ること、だと私は思っています。証拠と論理に基づいた考え方が、科学的な考え方といえます。簡単にいえば、もっともらしい証拠に基づいて、筋道をたてて考える、といえるでしょう。
 証拠は、自然科学の世界では、実験、観察、観測、シミュレーションなど誰もが再現できるような方法で集められた客観的な情報です。その情報は定量値であったり、定性的なものであったりすることがあります。通常は、再現性があるものが証拠となります。ただし、一度しかない起こらない現象(隕石による大絶滅)、1つしかない証拠(最古の化石、稀な化石)など、再現性のないものも科学の対象にされています。
 論理とは、論理学的に正しいことだけでなく、単に筋道が納得できかどうか、証拠があるかどうか、証拠の強力さなどで優劣が付けられています。したがって、論理には、正しいものだけでなく、現状で一番有力なもの、もっともらしいという人間的の判断に基づくものもあります。そのような確定してない論理では、ある日、全く新しい強力な証拠がでてくると、否定されたり、別の論理に入れ替わることがあります。
 科学的方法は、証拠と論理によるといいましたが、実はこれがなかなか一筋縄ではいかない代物です。自然科学における証拠とは、観察や実験によってえられるデータです。その観察、実験をどう捉えるかということが、実は難しい問題をはらんでいるのです。
 観察や実験をするとき、先入観をもたず、客観的な姿勢でおこなうべきだというのは、だれものが教わり、必要と認めている考え方です。自然が存在し、それを私たちが観察や実験を通じて調べていきます。まずは自然を素直に見よう、先入観を持たずに観察、実験をしようという考えです。存在している自然が、ア・プリオリにもっている属性や情報を、私たちは読み取るだけなのです。まるで、バケツに水が入るようには、私たちは受け入れるだけの存在である、と考えます。これは、よくある考え方です。実験や観察で受け入れたもの(知識)の他にも、理論、法則もバケツに中に入っている、自然に中に組み込まれていると考えます。それを見つけられるかどうかは、私たち側の問題となります。
 カール・ポパーは「客観的知識―進化論的アプローチ」の中で、このような考え方を、「バケツ理論」と呼びました。ポパーは、観察、実験をするためには、「つねに特殊な関心、問い、問題が先行する」といいます。つまり、観察、実験には、観察にいたるまでに問題意識を生み出すための「理論」(なんらかの考え)が、事前に存在するはずだというのです。一種の先入観にあたるものがあるというのです。いいかえると、純粋に客観的な観察、実験などできない、何らかの「理論」が前提としてあるはずだというのです。観察する前に存在する「理論」を、ポパーは「サーチライト理論」と呼びました。
 「サーチライト理論」の「理論」は、ここでは先入観や、仮説というべきでしょう。「いかなる観察をなすべきかをわれわれが学びとるのは、もっぱら仮説からだけである」とポパーはいいます。
 確かに、私たちが観察や実験をするときには、当然何らかの目的をもって、何らかの条件を設定しておこないます。無目的に無条件に観察、実験をすることはありません。観察や実験とは、何か知りたいことがあり、それを解明するためにおこなわれるものですから、「何か」がサーチライトとして利用しているはずです。それがポパーのいう「サーチライト理論」です。
 ポパーの考えが出てくるまで、最初に述べたように、観察、実験は客観的におこなうものとして、客観性を重視していました。ところが、観察、実験には仮説が介在していることが、いわれはじめたのです。仮説には、当然、研究者の主観が混入します。客観性を重視するあまり、観察、実験に主観が混入していることに、今まで気づか振りをしていたのです。「科学は仮定から自由であるとは決していえない」のです。
 ポパーのいうように、すべての科学の実験、観察が、サーチライトが先行しているかというと、私は必ずしも、そうでもない気がします。特に現在の私の研究手法では、そう感じています。私が野外調査にでかけるとき、ある目的をもって、ある地域のある露頭である岩石を観察しに行きます。しかし、時には魅力的な露頭をみつけると、何度もそこを訪れたくなり、実際に何度も通っている露頭がいくつかあります。これは、仮説、理論などなく、感性がそこに行きたいという衝動に生み出すのです。そんなとき、サーチライトではない、バケツの中の何かからの思念が、私に呼びかけている気がします。
 私だけでなく、失敗した実験、予想外の観察結果、予定外の現象、予期せぬ発見など、いろいろなサーチライトの当てていないものがあります。それをうまく捉えることで、思わぬ大発見があります。セレンディピティ(serendipity)と呼ばれているものです。セレンディピティで、思わぬ発見があり、大きな成果が生まれることは、よく知られています。
 科学をおこなうのは人間で、科学的方法は理性的な行為です。そしてすべての分野で、確かに「今日の科学は昨日の科学の上に築かれ」ています。それでも、人間は理性だけで振る舞うものではなく、感性に基づく止むに止まれない行動、振る舞いも、そこには含まれています。
 人間としての科学者のおこなっている科学は、バケツとサーチライトのいずれでしょうか。人間が複雑な思考をするように、科学も複雑な側面をもっているような気がします。いかがでしょうか。

・サクラ・
ゴールデンウィークになりました。
北海道はこれからが桜の見頃となります。
少々寒い日が繰り返しくるのですが、
順調に花の芽が成長しているようです。
桜の満開が今年はゴールデンウィークの最中になりそうです。
少々見られることが少ないときですが、
私は、大学に来ていますので、見ることができそうです。

・熊本地震・
当初、このゴールデンウィーク中に
私は野外調査にでかける予定を組んで、
研究予算を確保し、チケット、宿泊の準備を
すべて終わらせていいました。
その調査地は、熊本から大分にかけての中央構造線で
その周辺に分布する地層を観察する予定でした。
今回に地震で当然それは中止としました。
飛行機とレンタカーはキャンセルできました。
一軒だけは、電話がつながったのですが、
被害を受け宿泊は受けられないということでした。
他のホテルは、電話がつながらずに、
キャンセルができませんでした。
地震から10日ほどたって時、
やっとその他のホテルも電話ができ、キャンセルできました。
すべてのホテルは被害はあったが、
宿泊できる状態にあるとのことでした。
なによりでした。
今は、位置にも早い復興を願っています。

2016年4月1日金曜日

171 Anthropoceneは必要か

 地質学は、地球が経てきた時代を、45億年前から現在まで、いくつもに区分して使っています。地質学は、過去を探る学問でもあるのでが、未来を見通す道具として有用なものになります。

 地質学があつかう時間は、約45億年におよぶ長いものです。そして現実に流れる時間の物理学の扱うように可逆性はないものです。一度きりの現象となります。そんな時間の流れの中で、地球に起こったさまざまな現象を解き明かしていくのが地質学です。
 人類は500万年前にチンパンジーから分かれました。私たち人間にとっては、気の遠くなるような500万年という時間でも、地質学的時間スケールでは500万年/45億年となり、地球の歴史の中で占める割合は、ほんの0.1%ほどにしかなりません。ですから、地質学者は、現在の歴史学があつかっている時代を「つい最近」と考えてしまいます。
 これは、間違った考え方だと思います。時代を区切るとは、時間を区切るに足る根拠が必要なはずです。これまで、時代の区切りは、地球規模の大きな変化が起こった時期に置かれてきました。地球規模の大きな変化とは、環境、生物相、岩相などで、広域に見られる現象です。それぞれの変化は、独自のイベントとして識別され、因果関係や連続性がないものであるべきです。さらに重要なことは、その変化が地質学的記録として読み取れるものでなければなりません。この区切りの考えには、地球における変化に重きが置かれ、時間間隔には左右されないものです。
 これらの条件を満たし、地質学者の合意を得たものが、時代区切りとなります。
 時代区分は、定期的に地質学的根拠の正当性がチェックされ、必要に応じて変更がなされています。時代境界の年代値がより正確になったときなどは、問題もなく、迅速に変更されます。しかし、時代区分の再編や新規の区分の導入には、充分な検討必要になります。それまでの学問の蓄積と継承を考えて、整合性をもっていなければなりません。そのため、全く新しく提唱された時代区分がすんなりと合意されることがありません。そして、今では意味をなさなくなった時代名称(たとえば三畳紀、古第三紀、新第三紀など)も、そのまま残されたまま使用されています。大きな時代区分の提唱、承認には、十分な議論が必要になります。
 そんな中、現在、新しい時代区分が提唱され、議論されています。
 Anthropoceneという言葉を聞いたことがあるでしょうか。Anthropoceneは、新しく提唱された時代区分で、日本語としては「人新世(じんしんせい)」という言葉が使われているようですが、学術的にはまだ正式に認められていないものです。
 Anthropoceneとは、オゾンホールの研究でノーベル賞を受賞したクルッツェン(Paul Crutzen)が、2000年に提唱した言葉です。「anthropo」とは「人間」の意味で、「cene」とは「新しい」という意味です。一番現代に近い、最近の時代を、Anthropocene、人新世として、区分しようという提案です。近年、人類が地球の生態系や環境に大きな影響を及ぼすようになってきたため、新しい地質時代として区分した方がいいという考えによるものです。
 今年1月にはScineceという科学雑誌でも話題になり、1月末には国立科学博物館で人新世にかんする国際シンポジウムがおこなわれ、最近(2015年3月12日)もNature(519号)でもニュースにされています。現在、地質学でもホットな話題となっています。
 人新世は、新生代の第四紀は、更新世(158万年前から)と完新世(1万1700年前から)に区分されるのですが、その次の時代に位置づけられることになります。人新世が確定すれば、スタートの年代で、完新世は終わります。そして、次なる人新世がはじまり、現在の人新世、そして未来へと続きました。地質学的には、時代境界をどこに置くか、識別すべき根拠が地層に残されているか、などが吟味され、研究者の合意が得られれば、承認されていくはずです。
 人新世のはじまりの年代として、いくつかの提案がなされています。古いものから順に示すと、約1万2000年前、AC1610年、AC1964年などの3つが主なものです。
 約1万2000年前は、新石器時代あるいは農業のはじまりとされる時代ですが、完新世と同じ時期なので、これでは完新世の名称変更となってしまいます。現在では、完新世が定着しているので、今までの慣習上、名称変更はあまりしないほうがいいはずです。ですから、この時代区分はないことになります。
 AC1610年は、二酸化炭素の濃度が急激に低下した時期です。18世紀中頃からはじまる産業革命以降、大気中の二酸化炭素は増加していきます。この増加は人為だとされていますので、増加の前の自然状態の二酸化炭素濃度の中に、できるだけわかりやすい区切り見つけて設定しようというものです。二酸化炭素が増加に転じる前にあった、目立って低い時代として1610年を区切りとしようという提案です。
 AC1964年は、人類の核実験の影響に基づく時代区分です。人類は、1945年7月16日、アメリカ合衆国が人類史上初の原子爆弾を製作して実験(トリニティ実験)ました。そして、1945年8月6日に広島で最初の使用されました。この年以降、大気中に人工的な放射性物質が放出されました。1951年までは試験場の付近だけで検出された放射性物質が、1952年から1980年までは、地球的規模で放出され検出されています。1964年にこのような放射性核種(主に炭素14)の濃度が最大値になり、その後急激に減衰していく時代です。実際の地層や氷床から放射性物質が検出されています。
 ただし、炭素同位体による年代測定のデータとして、「今から○○年前」の「今」を、1950年に設定して使用されています。その時代から、大気中の炭素同位体組成が、人為によって変化していくため年代測定に誤差が生じるから定められ、実用されていて、データが蓄積されています。しかし、今回の提案は、1964年です。少々混乱を招く年代設定となります。
 いずれの提案も、人類が地球規模でなしたことが、地層や氷床中の記録として識別できます。どの提案も、それなりの根拠があります。ただ考えるべきは、地質学的に重要性があり、区切りを設けるレベルのものかどうかという判断が必要です。それが地質学的に他の時代と対等の重要性を持つかどうかです。提案されている人新世の区切りが、完新世のもの以上に重要でしょうか。完新世を、その提唱された区切りで終わらせ、人新世を新たに設ける必要性があるでしょうか。その点を十分考えるべきでしょう。
 私は、完新世で十分に用をなすのではなかと考えています。そして、完新世に人新世の意味合いを加え、必要があるならば、細分程度にすべきでないでしょうか。完新世はすでに定着している用語で、流布しています。それを書き換えるのは、今までの時代区分の習慣に馴染みません。
 あまりに性急な時代区分の提唱は、後の学問に大きな影響を与えます。今回の新しい時代区分の導入の機運は、明らかに人類の文明、科学技術至上主義への警鐘を鳴らそうという意図があります。そこには、時代区分における科学的合理性はないように見えます。科学と政治的主義主張は、分離すべきです。地質学で人新世を用語として承認する作業は、今年の国際地質科学連合の国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy)でおこわれるようです。理性的、冷静なる判断を期待しています。
 さて、私には、完新世(あるいは人新世でもいいのですが)に、地質学がもっている重要な機能を適用していくことの方が、重要だと考えています。地質学とは、地球の過去を総合的に(学際的に)記録し、そこから一般則、普遍則を導こうする学問です。その普遍則は、45億年という時間軸を基準に記述されています。地質学が導く普遍則は、古生物から現世生物にも当てはまるものもあるでしょう。大気や海洋循環などの表層環境の変遷、プレートやプルームのテクトニクスなどの地球内部の運動像、太陽や月、隕石などの地球への影響など、長いスケールの時間軸で語られるものもあるでしょう。その区切りの呼び名として、時代名が存在します。
 時代名も重要ですが、底流として存在する思想「長い時間軸で記述された地質現象の普遍則」が重要です。なぜなら、その時間軸を、現在から延長すれば、未来へと伸ばすことができるからです。未来を見通す総合科学的な視座を得ることができるのです。その意味で完新世(人新世)は、人類がなしている現象の未来予測として、重要な意味があります。その点を忘れないようにしたいものです。

・科学的合理性・
時代名称は、科学の進歩とともに変わっていいもです。
いや、変わるべきものです。
やがて歴史が詳細に記述できれば、
完成する日がくるでしょう。
それまでは変わり続けていいのです。
ただし、科学的合理性があればの話です。
人間側の都合で変化をさせれば、
将来の科学できっと修正されるはずです。
その原則も、当然、科学的合理性のはずです。
現在に生きる同時代人として、できれば、
未来人に恥じない判断をしたいものです。

・入学の季節に・
いよいよ4月になりました。
北海道は、例年にない暖かさです。
4月1日が大学の入学式ですが、
今年は、久しぶりに雪のない入学式になりそうです。
新しい学生たちに、会えるのは楽しみです。
彼ら彼女らは、緊張におののきながらも
期待に胸膨らませているはずです。
少しでも緊張を和らげ、
期待に応えるようにしたいと思っています。
大学や学部、学科、それぞれに行事を用意しています。
少しも多くの仲間づくりをして、
一日も早く、馴染んでいただければと思います。

2016年3月1日火曜日

170 ウイルス:源流か支流か

 ウイスルは生物か無生物か。簡単そうであって、実は難しい問題です。そしてウイルスは生物進化の源流にいるのか、それとも支流なのかという、根本的な問題もあります。今回は、ウイルスという存在について考えていきます。

 福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」という著書があります。今回の話題は、「生物と無生物のあいだ」にいるものについて考えていきます。ただし、福岡氏の著書のテーマとは関係はなく、言葉どおり、生物と無生物の境界にいるものを考えていきます。
 私は生物学者ではないので、生物の定義したり、生物と無生物かどうかの判断を直接下すことはできないのですが、常々疑問に思っていることがあります。それはウイルスの生物としての処遇についてです。ウイルスは、まさに生物を無生物のあいだの存在ではないではないか、それも限りなく生物の根源に近い存在ではないかという疑問です。今日はそんな話をしましょう。
 ウイルスとは、核酸(DNA)が殻に入っているだけの存在で、そのままでは生物活動をしないものです。ウイルスが他の細胞の中に入ると、自分のDNAから命令を発し、他の細胞が保持している機能を使って、ウイルス自身の複製を開始していきます。まあ、他力本願な生き方ですが、非常に効率的でもあります。
 ウイルスは、通常の細胞として機能をもっていないこと、ウイルスでいるときは生物活動をしていないことから、生物学者からは、無生物や非生物とされることがよくあります。ウイルスは、生物の定義を満たさない存在なのです。
 私の考えでは、ウイルスは生物としては特異ですが、生物の仲間と考えています。なぜならウイルスを研究しているのは、「生物学者」だからです。これでは、充分な理由にはなっていないですね。いいかえると、ウイルスの研究は生物学的手法が用いられており、生物学的視点でなされ、生物との関係を抜きには語れない存在であります。
 なぜウイルスが地球に存在しているのかは、生物学的観点で考えていくべきでしょう。生物でないとするにしても、生物はこういうものだから、あるいは生物とは進化の上でまったく関係がないとするのなら、無生物、非生物として扱っていいのですが、多分そうはならないであろうと思えます。ウイルスと生物は不可分の存在となっています。無関係の存在というには、あまりに共通するものがありすぎます。生物として扱っていくべきだと思います。私から言わせれば、だから生物学者やウイルス学者が、生物学的手法で、生物学視点で研究していていいのです。
 次にウイルスの誕生の道筋についてみていきます。ウイルスがどのような起源をもつのかということです。ウイルスの起源には、いくつも説があるようですが、大きく3つに分かれます。
 ひとつ目は、かつて普通の単細胞生物であったものから、いろいろな器官や機能を捨て去り、必要最小限のものまで、そぎ落としたとき、ウイルスが誕生したというのです。ウイルスは、生物の究極の姿、進化の極限として生まれたとするものです。生物がまず存在して、そこからウイルスが進化してできたという考え方です。ウイルスは、あるとき生物進化の本流から枝分かれして、本流の生物の痕跡を残していはいるが、支流の袋小路のような末端にあたる、という考え方です。
 二つ目は、他の生物、たとえばバクテリアなどの内部に存在する、自己複製ができるなんらかの器官だけが、細胞の外にでて、それがウイルスになったというものです。細胞内にあるプラスミドやウイロイドなどは、小さくて自己複製する能力をもっています。これらが細胞から飛び出せばウイルスとなれます。この考えも、ウイルスは細胞から派生して誕生したという考えです。生物進化が、洪水のような乱れによって、本流から飛び出した流れが、そのまま三日月湖として残った、進化の飛び地的なところに当たるという考えです。
 三つ目は、ウイルスは生物にとって根源的な存在ではないかというものです。今までの2つの考えとは、進化の時間では、全く逆のところに位置する見方です。前の2つは生物からウイルスが派生してきたと考えられるのですが、この説ではウイルスが生物より先に生まれていたという考えです。ウイルスは生物進化の源流に当たるという考え方です。
 生物の誕生は、最初から細胞として完成していたのではなく、その前にいくつかのステップを経ながら進んできたと考えられています。細胞を構成するためには、遺伝情報を保持しているDNAと、生物活動をおこなうに不可欠なタンパク質が重要なステップになります。もちろん細胞の入れ物となる膜も必要ですが、膜はそれほど難しい課題ではないようです。
 DNAとタンパク質のいずれかでは生物にはなれず、どちも必要になります。タンパク質は、リボ核酸(RNA)によって合成がおこなわれています。RNAは、DNAから情報を読んできて(mRNA)、それにもとづいてタンパク質を合成する(tRNAやrRNA)という一連のプロセスを分担していました。遺伝情報を見ると、一方通行の流れで、上流にDNAがあるという考え方でした。このような考え方は、生物のセントラル・ドグマ(中心教義)と呼ばれています。生物の進化もこの流れの通りにできたと考えられ、生物の誕生は「DNAワールド」からはじまったという考え方です。
 セントラル・ドグマにおいてRNAは、DNAとタンパク質を橋渡しをする上で、非常に重要な役割があります。DNAが主でRNAは従の関係です。ところがRNAには遺伝情報を読むだけでなく、遺伝情報を保持したり、DNAに書き込む機能(逆転写)もあることがわかってきました。DNAより簡単な構造のRNAがあれば、生物の基本的な機能を営めるのではないかという「RNAワールド仮説」が生まれました。
 「RNAワールド」から生物の誕生がスタートすると、次のステップとしてDNAだけが殻にはいった生物の前駆体「DNAレプリコン(replicon)」というものが想定できます。実は、このDNAレプリコンが、ある種のウイルスに近い存在であることがわかってきました。DNAレプリコンから現存するウイスルへの流れが生まれたのではないか、と考えられるようになりました。生物進化の源流となるいくつかの流れうちのひとつとして、ウイルスが位置づけられるのではないかというのです。
 DNAとRNAが、細胞膜に取り込まれ、それぞれの機能分担をするという、複雑なプロセスを経て、生物も生まれてきました。細胞には、自律性があり、安定した生物活動としての代謝、そして効率的な複製ができました。これが私たちへと繋がる生物の起源となります。ウイルスは、その細胞をうまく利用して生きてきたという見方です。
 もしウイルスの誕生がこの三つ目の説だとすると、ウイルスは私たち生物のもっとも源流に近いところに位置する存在なのです。そして「生物と無生物のあいだ」の存在ともなっているのかもしれません。
 さて、ウイルスが生物の源流か支流か、まだ答えは出ていません。私の理屈を越えた願望として、生物の源流としてウイルスが位置づくことが理想です。源流であった方が、得るものが多くなるからです。そうなれば、多様なウイルスに関する研究が、ますます進んでいくことになるはずです。

・冬最後の嵐・
いよいよ3月になりました。
2月末は北海道は警報がでる嵐になりました。
時々雷も鳴るような荒天でした。
春の前に冬に逆戻りのような天気でした。
しかし、今年は雪が少な目です。
とてつもなく暖かい日もあり、
例年にない暖冬となりました。
これも観測史上最大のエルニューニョのためでしょうか。
れこが冬最後の嵐であればいいのですが。

・優先順に・
この時期は、いつもなら、もう少し自分の研究のための
時間がとれる時期なのですが、
今年は校務が多すぎて、忙しい日々を過ごしています。
役職についているために、
研究のために重要な時期に校務に忙殺されています。
年齢的に仕方がないのかもしれませんが
人によって仕事量に差があるのは
納得できないものがもありますが。
誰かに文句をいって、
うさを晴らす時間はないので
仕事に励んだほうがいいようです。
優先順に、次々と仕事をこなすしかないのです。

2016年2月1日月曜日

169 啓蒙するは我にあり

 啓蒙はあまりいい意味あいではないので、使われなくなっています。しかし、ここでは、啓蒙という言葉には、歴史的に重要な意味があり、自分自身に使っていこうと考えています。成人するためには、啓蒙が必要なのです。

 成人式が1月15日から、1月の第2月曜日(ハッピーマンデー)になっています。2000年より、変わったのでだいぶたちました。今年は、126万人が新成人になったそうです。もともと、成人の日が1月15日にされていたのは、元服の儀がこの日におこなわれたためでした。その日付自体に歴史的、文化的意味がありました。15日の成人式は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としているそうです。ですから、今回のエッセイでも、成人を励ます内容にしましょう。そしてその励ましは、自分にも戻ってくることになります。
 現在、高校や大学では入試の時期を迎えています。今では、高校や大学は義務教育ではありませんが、多くの人が進学するようになりました。かつては、義務教育を終えて社会にでることが、多くの人たちの進路でした。ほんの一部の人たちだけが、進学をして、さらに教養教育や専門教育を受けて、それを活かす道に進みました。
 今では多くの人が大学生として成人式を迎えるようになりました。新しい選挙権制度により18歳が成人という考えもできそうです。すると高校3年生で成人を迎えることになり、大学生は全員成人と扱う必要があるのかもしれません。
 大学への進学率の上昇は、日本社会が豊かになったためだけでなく、複雑化、グローバル化、情報化した現代社会で生きていくためには、多様な技能、教養、専門について学ばねばなりません。それらを身につけるためには、長い教育期間が必要になります。そのための大学教育でしょう。
 多くの大学生をみていると、多様な学生がいるのですが、必ずしも大学で受けた教育が身についてないようにも見えます。わからない時はインターネットで調べ、知識の不足を補い、レポートの作成などはそれなりできます。これも現代社会では、重要な能力でしょう。
 本当に重要なことは、技能、教養、専門ではなく、その先にある力ではないでしょうか。そんな力があまり身についていない気がします。もっと人として本質的な力を身につけることではないでしょうか。そんな力とはなんでしょうか。
 ここまで偉そうに、若き成人を批判的に書いてきたのですが、この批判は、私への戒めともなります。その力が重要なのです。その力について説明していきましょう。
 啓蒙という言葉があります。「啓」は「ひらく」という意味で、「蒙」は「くらい」という意味です。「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」ともいい、蒙昧な状態から、知識などを与えて啓発するという意味です。ですから、あまりいい意味でつかわれることはありませんでした。啓蒙される側が劣ったり、愚かで、啓蒙する側が上位、偉い、権威者のようにして使われることが多くなっていました。そのため、現代ではあまり使われなくなりました。
 「啓蒙」は、英語で「Enlightenment」となり、もともとは「光(light)で照らされること」という意味です。
 西洋の中世では、強力な宗教的支配があったのですが、庶民には神秘主義が根深く残り、魔術や迷信を信じる土壌がまだ強くありました。ルネッサンスの時代でも、その影響はまだ残っていました。しかし、その後の科学の発展や近代哲学の展開により、宗教的権威から離れ、合理性や理性を重んじる考えが生まれました。そのような考えを啓蒙思想と呼んでいます。
 このような時代においては、庶民を啓蒙する必要がありました。17世紀後半にイギリスで生まれた啓蒙思想は、18世紀のヨーロッパにおいて発展していきます。啓蒙思想は、政治や社会まで及び、フランス革命にも影響を及ぼしました。西洋で起こった啓蒙思想は、世界に広がりました。日本でも、明治維新は一種の啓蒙思想的側面もあるのでしょう。啓蒙思想は、近代教育にも影響を与えています。
 現代の文明社会においては、子どものころから教育を受けているので、啓蒙という言葉をあまり使う必要なないかもしれません。しかし、啓蒙は、教育の先にあるものに思えます。
 科学や哲学の進展により、理性や合理性の重要さが強調されるようになってきました。そして、啓蒙はより深い意味を持つようになりました。光で照らされることから、偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味になり、そこから「理性により正しく見る」という意味に用いられるようになりました。
 ドイツの哲学者、カント(Immanuel Kant、1724.4.22-1804.2.12)の「啓蒙とは何か」という文章にあります。カントは、啓蒙とは「それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ」といっています。
 「未成年の状態」とは、自分で考えて行動することができない、「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ない」状態だといいます。そんな状態を「みずから招いた」のです。それは、その人に理性が備わっていないのではなく、「自分の理性を使う決意も勇気ももてないから」だといいます。これは、社会や教育の問題ではなく、「みずからの責任」によるもので、自分自身で未成年の状態にとどまっていることになります。
 未成年から成人するためには、どうすればいいのでしょうか。カントはいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。自分自身にすでに備わっている理性の力を、決意と勇気もって使っていくことです。理性を使うことが成人であることの証なのです。カントのいっていることは、当たり前のことです。「理性を使う」という当たり前のことが実行できるかどうかが、実は重要なのです。
 インターネットからの情報や他人の受け売りを、あたかも自分が述べた意見や考えとしていないでしょうか。メディアから一方的に大量に送られてくる情報に溺れて、自分自身を見失っていませんか。他人の考えを自分の考えと思い込んでいませんか。
 自分自身の理性で考えているでしょうか。判断を、周りの意見に流されず、理性に基いておこなっていますか。理性に基づいた発言、行動をしているでしょうか。理性的に考え、間違った行動をしていませんか。そんな目でみると、私は、自分の未成人さに思い至ります。「啓蒙するは我にあり」
 私たちは、みずからを啓蒙できているでしょうか。成人しているでしょうか。「自分の理性」を使っているでしょうか。私を含めてすべての未成人にいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。

・悟性・
かつてカントなどの哲学書の翻訳では
「悟性」という言葉が使われていました。
今では、日常的には悟性とい言葉はあまり見かけなくなり
理性という言葉になりました。
同じニアンスで使っているでしょうか。
悟性はもともと善の言葉から来ているようで、
対象を理解し概念を把握する力のことです。
一方、理性は、合理性に基づいて判断する力です。
哲学では、理性の意味で用いることが
本来の意味に沿っているようです。

・自戒の言葉・
大学3年生の多くは、成人式のため故郷に帰りました。
久しぶりに会う同級生と旧交を温めたことでしょう。
毎年一部の地域の荒れた成人式が報道されますが、
そんな報道が彼らをエスカレートさせていないでしょうか。
そんなさまざまな思いが巡る中で、
半月遅れの新成人に贈る言葉として書くつもりでしたが、
偉そうに、まさに「啓蒙」的発想で語っていました。
書いているうちに、本来の「啓蒙」の重要性に気づきました。
書いていながら、自分自身の未熟さに思いが至りました。
まさに、「啓蒙するは我にあり」となりました。
この自戒の言葉をエッセイのタイトルとしました。

2016年1月1日金曜日

168 ミネルヴァの梟は、いつ飛ぶのか

 2016年の年頭にあたり、「ミネルヴァの梟」という言葉に関連して、ひとの知恵について考えました。自然科学と人文科学との違いに端を発し、私の考えは、二転三転していきました。そんな思考の流転を紹介していきましょう。最終的には、ひとつのところに落ち着きましたが。

 日本ではあまり梟(ふくろう)を重視していなかったようなのですが、アイヌの人たちは、梟を守り神としています。アイヌ神話では、天神と地神が、この国を統治する神をどうするか、と悩んでいたところに、梟が飛んできて、目を瞬きました。神々はそれで気づいて、沢山の神々を生み出したというものです。そのよな神話に基づき、アイヌは梟(シマフクロウ、コタンコロカムイ)を守り神として大切にしています。アイヌの彫刻にも、梟がよくモチーフに用いられています。我が家の玄関に、4匹の梟がかかっています。
 ヨーロッパでは、梟は知恵の象徴とされています。それをもとに重要な言葉が生まれました。「ミネルヴァの梟」という言葉です。まずは、その語の意味を考えていきましょう。
 ローマ神話にミネルヴァ(Minerva)という女神がいます。この女神は、詩や知恵、技術・職人(医学、製織、商業工芸)などを司っていました。ギリシア神話のアテナという女神に対応していると考えられています。ローマでは、かなり信奉されていたようで、「千の仕事の女神」(goddess of a thousand works)と呼ばれていました。ミネルヴァは、知恵を司る女神でもあったので、古くから彫像などの芸術作品にもなったり、欧米の教育機関や政府、協会、公共機関の紋章や勲章などに取り入れられています。
 ミネルヴァの聖なる動物が、梟(ふくろう)とされていました。その影響でで、西洋では梟は知恵の象徴でもあるとされています。ミネルヴァとともに梟が描かれることも多かったようです。
 西洋では、そのような知的背景があり、それをもとにした有名な言葉として、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」というものがあります。これは、ヘーゲルの「法の哲学」という著作の序文に書かれた文言です。本文に入る前に、哲学とは何かを語っているものです。ヘーゲルのいう哲学とは、「理性的なものの根本を究めること」といっています。当たり前のことをいっているようです。続けて「現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではない」といいます。ものごとの現実的な本質を考えていくということです。
 そして、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」という言葉が用いられます。なかなか含蓄のある言葉なのですが、ヘーゲルは、「哲学はもともと、いつも来方が遅すぎるのである」といいます。そして、「現実がその形成過程を完了して、おのれを仕上げたあとで初めて、哲学は時間のなかに現れる」としています。哲学は現実より遅く、現実が終わってしまった後に、哲学が現れるといいます。それを象徴した言葉として「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」と表現したと考えられています。哲学は現実の本質を把握するためのものなに、現実が終わってしまったあとにできてくるものなのです。自己矛盾をしていように見えますが。
 哲学(知恵、学問)は、時代を総括するものです。ひとつの時代が終わる時、古い知恵が黄昏を迎える時、梟が飛び立つのです。時代に固執しすぎれば、教条的になっていく恐れもあります。梟は活動時間のはじまりである黄昏に飛び立つように、時代の束縛から解き放たれ、新しい知恵を求めるためだ、という解釈もあります。
 ミネルヴァの梟は、哲学者の言葉です。哲学や人文科学は、人の思考や社会の営みから重要なものを抽象していくものです。この言葉を聞いた時、自然科学では、知識や知恵に対して、違った見方、取り組み方をしているので、ミネルヴァの梟は、違った行動をするのではないだろうかと考えました。それでは、どんな行動になるのだろうかと考えました。
 自然科学は、自然から規則性を抽象していくものです。知りたいひと(科学者)の欲求や目的に応じて、自然から知識をえようとします。知りたいことがあれば、目的に応じた手段を用いて、なんらかの知識や知恵を抽象しています。それを公開していくことが、科学の営みといえます。それは、科学の新しい時代や分野の始まりであろう、爛熟期であろうと、衰退期であろうと、過渡期であろうと、新しい情報や知見が継続的に積み上げられています。ミネルヴァの梟は、いつも目を見開いて、知恵を吸収していくのではないでしょうか。梟に寝ている暇がなく、忙しく思えました。
 ここまで考えてきた時、いやいやもっと深く考えると、違ってくるのではないかという思いに至りました。自然科学にも大きな転換期があることに気づいたのです。新しい知識がたくさん積み重なっていくと、従来の原則では説明できないことがあり、それを説明するとき、大きな転換期が訪れるというものです。質的変化やコペルニクス的転回、パラダイム転換などと呼ばれているものです。この考えを取り入れると、実は過去の集積の後に大きな視座の変化が起こります。そんなときミネルヴァの梟は飛び立つのです。パラダイム転換期は、古い分野の黄昏と呼べるのかもしれません。
 さらに、自然科学にかんする深い思索も、やはりヘーゲルのいうように、「いつも来方が遅すぎる」といえそうです。ですから、自然科学の知恵を司る梟も、やはり黄昏に飛び立つのでしょう。
 梟は昼も目を見開き、黄昏にはやはり飛び立つのです。ミネルヴァの梟は、自然科学では、なかなか忙しいようです。
 ヘーゲルはいいます。
 「理性的であるものこそ現実的であり、
 現実的であるものこそ理性的である。」
と。さてさて、理性と現実、なかなか難しい課題です。

・今年もよろしく・
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年も、いろいろ考えたことを
書いていきたいと思います。
このエッセイは、私にとっては、
いろいろな考えをまとめたり、
新しいことを考える時のきっかけに
利用されてもらっています。
私は考えるという行為を、
基本的に一人でおこなっています。
考えをまとめる前に、まとめる途中で、
人に聞いてもらうという行為は
いいきっかけになっています。
そんな場に、今年もしていきたいと思います。
よろしければ、
今年もお付き合いをいただければと思います。

・自分の歩み・
齢を積み重ねるに連れて
少しずつ、肩から力が抜けていくようです。
その意味は、
自分の決めた道を、
自分の歩き方で、
自分の足で、
急がず、焦らず、
しかし休むことなく、淡々と
進むことだと
思えるようになってきということです。
今年もそのように歩みたいと思っています。