2016年2月1日月曜日

169 啓蒙するは我にあり

 啓蒙はあまりいい意味あいではないので、使われなくなっています。しかし、ここでは、啓蒙という言葉には、歴史的に重要な意味があり、自分自身に使っていこうと考えています。成人するためには、啓蒙が必要なのです。

 成人式が1月15日から、1月の第2月曜日(ハッピーマンデー)になっています。2000年より、変わったのでだいぶたちました。今年は、126万人が新成人になったそうです。もともと、成人の日が1月15日にされていたのは、元服の儀がこの日におこなわれたためでした。その日付自体に歴史的、文化的意味がありました。15日の成人式は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としているそうです。ですから、今回のエッセイでも、成人を励ます内容にしましょう。そしてその励ましは、自分にも戻ってくることになります。
 現在、高校や大学では入試の時期を迎えています。今では、高校や大学は義務教育ではありませんが、多くの人が進学するようになりました。かつては、義務教育を終えて社会にでることが、多くの人たちの進路でした。ほんの一部の人たちだけが、進学をして、さらに教養教育や専門教育を受けて、それを活かす道に進みました。
 今では多くの人が大学生として成人式を迎えるようになりました。新しい選挙権制度により18歳が成人という考えもできそうです。すると高校3年生で成人を迎えることになり、大学生は全員成人と扱う必要があるのかもしれません。
 大学への進学率の上昇は、日本社会が豊かになったためだけでなく、複雑化、グローバル化、情報化した現代社会で生きていくためには、多様な技能、教養、専門について学ばねばなりません。それらを身につけるためには、長い教育期間が必要になります。そのための大学教育でしょう。
 多くの大学生をみていると、多様な学生がいるのですが、必ずしも大学で受けた教育が身についてないようにも見えます。わからない時はインターネットで調べ、知識の不足を補い、レポートの作成などはそれなりできます。これも現代社会では、重要な能力でしょう。
 本当に重要なことは、技能、教養、専門ではなく、その先にある力ではないでしょうか。そんな力があまり身についていない気がします。もっと人として本質的な力を身につけることではないでしょうか。そんな力とはなんでしょうか。
 ここまで偉そうに、若き成人を批判的に書いてきたのですが、この批判は、私への戒めともなります。その力が重要なのです。その力について説明していきましょう。
 啓蒙という言葉があります。「啓」は「ひらく」という意味で、「蒙」は「くらい」という意味です。「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」ともいい、蒙昧な状態から、知識などを与えて啓発するという意味です。ですから、あまりいい意味でつかわれることはありませんでした。啓蒙される側が劣ったり、愚かで、啓蒙する側が上位、偉い、権威者のようにして使われることが多くなっていました。そのため、現代ではあまり使われなくなりました。
 「啓蒙」は、英語で「Enlightenment」となり、もともとは「光(light)で照らされること」という意味です。
 西洋の中世では、強力な宗教的支配があったのですが、庶民には神秘主義が根深く残り、魔術や迷信を信じる土壌がまだ強くありました。ルネッサンスの時代でも、その影響はまだ残っていました。しかし、その後の科学の発展や近代哲学の展開により、宗教的権威から離れ、合理性や理性を重んじる考えが生まれました。そのような考えを啓蒙思想と呼んでいます。
 このような時代においては、庶民を啓蒙する必要がありました。17世紀後半にイギリスで生まれた啓蒙思想は、18世紀のヨーロッパにおいて発展していきます。啓蒙思想は、政治や社会まで及び、フランス革命にも影響を及ぼしました。西洋で起こった啓蒙思想は、世界に広がりました。日本でも、明治維新は一種の啓蒙思想的側面もあるのでしょう。啓蒙思想は、近代教育にも影響を与えています。
 現代の文明社会においては、子どものころから教育を受けているので、啓蒙という言葉をあまり使う必要なないかもしれません。しかし、啓蒙は、教育の先にあるものに思えます。
 科学や哲学の進展により、理性や合理性の重要さが強調されるようになってきました。そして、啓蒙はより深い意味を持つようになりました。光で照らされることから、偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味になり、そこから「理性により正しく見る」という意味に用いられるようになりました。
 ドイツの哲学者、カント(Immanuel Kant、1724.4.22-1804.2.12)の「啓蒙とは何か」という文章にあります。カントは、啓蒙とは「それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ」といっています。
 「未成年の状態」とは、自分で考えて行動することができない、「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ない」状態だといいます。そんな状態を「みずから招いた」のです。それは、その人に理性が備わっていないのではなく、「自分の理性を使う決意も勇気ももてないから」だといいます。これは、社会や教育の問題ではなく、「みずからの責任」によるもので、自分自身で未成年の状態にとどまっていることになります。
 未成年から成人するためには、どうすればいいのでしょうか。カントはいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。自分自身にすでに備わっている理性の力を、決意と勇気もって使っていくことです。理性を使うことが成人であることの証なのです。カントのいっていることは、当たり前のことです。「理性を使う」という当たり前のことが実行できるかどうかが、実は重要なのです。
 インターネットからの情報や他人の受け売りを、あたかも自分が述べた意見や考えとしていないでしょうか。メディアから一方的に大量に送られてくる情報に溺れて、自分自身を見失っていませんか。他人の考えを自分の考えと思い込んでいませんか。
 自分自身の理性で考えているでしょうか。判断を、周りの意見に流されず、理性に基いておこなっていますか。理性に基づいた発言、行動をしているでしょうか。理性的に考え、間違った行動をしていませんか。そんな目でみると、私は、自分の未成人さに思い至ります。「啓蒙するは我にあり」
 私たちは、みずからを啓蒙できているでしょうか。成人しているでしょうか。「自分の理性」を使っているでしょうか。私を含めてすべての未成人にいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。

・悟性・
かつてカントなどの哲学書の翻訳では
「悟性」という言葉が使われていました。
今では、日常的には悟性とい言葉はあまり見かけなくなり
理性という言葉になりました。
同じニアンスで使っているでしょうか。
悟性はもともと善の言葉から来ているようで、
対象を理解し概念を把握する力のことです。
一方、理性は、合理性に基づいて判断する力です。
哲学では、理性の意味で用いることが
本来の意味に沿っているようです。

・自戒の言葉・
大学3年生の多くは、成人式のため故郷に帰りました。
久しぶりに会う同級生と旧交を温めたことでしょう。
毎年一部の地域の荒れた成人式が報道されますが、
そんな報道が彼らをエスカレートさせていないでしょうか。
そんなさまざまな思いが巡る中で、
半月遅れの新成人に贈る言葉として書くつもりでしたが、
偉そうに、まさに「啓蒙」的発想で語っていました。
書いているうちに、本来の「啓蒙」の重要性に気づきました。
書いていながら、自分自身の未熟さに思いが至りました。
まさに、「啓蒙するは我にあり」となりました。
この自戒の言葉をエッセイのタイトルとしました。