2023年5月1日月曜日

256 知足知止:貨、身、名

 城川に来てひと月がたちました。日常生活も落ち着いてきました。あとは、目標を達成するために、日々精進していくだけです。ただし、足るを知ることも、大切にしなければなりません。


 サバティカルがスタートしてから早ひと月が過ぎ、日常の生活パターンもできてきて、落ち着きました。4月下旬には一度調査にもでています。
 来たばかりの4月初旬、新しい環境に慣れるために、いろいろな試行錯誤もしました。北海道の自宅から、必要最低限のものは持ってきたつもりですが、新しい生活がはじまると、やはり足りないものがあります。借りている古い民家にも、不足しているものもあり、気がつくたびに少しずつ買い足して、生活環境を整えてきました。それも4月中旬くらいまでなんとか終わり、日常と呼べる生活ができるようになりました。
 我が家は贅沢を好む風はなく、衣食住、すべてに最低限足りていれば満足できます。私自身も、質素、粗食であっても苦を感じることなく、かなり不自由であっても慣れればなんとかなると思っています。それよりも、やりたいことができる自由、それに時間や精力を使うことを重視しています。
 このサバティカルの半年間は、人生の中でやりたいことのできる充実した時間がとれる、最後のチャンスになります。半年間、研究に集中したいと考えています。四国各地の野外調査をすること、精神的な余裕をもって、静かな環境で、束縛なく自由に思索を巡らせる時間をもつことを重視しています。悔いのない時を過ごしたいと、日々、努力しています。大学にいるときよりも、多くの時間を研究に充てています。
 今回は家内も同伴しているので、週に2度ほどは、近隣に散策に出かけること、健康のために夫婦で温水プールに通って、毎日運動しています。これは、家内のためでもありますが、自身の望むところでもあります。今のところ、順調に日常生活が営めています。
 先日、平日の午後に、大洲の臥龍(がりゅう)山荘を訪れました。山荘にはいくつかの建物がありますが、豪華や華美を求めたものではなく、侘び寂びを重んじたつくりでした。いずれの建物も、粋を凝らし、手間暇を惜しむことなくつくられたものです。静寂なる環境の中で、心地いい時間が過ごせました。
 山荘の中の建物のひとつに、「知止庵」という小さな茶室がありました。そこには音声案内があり、もともとは浴室だったものを、戦後に内部を改装して茶室にしたとのことでした。庵の名称の「知止」とは、ホームページには、陽明学者の中江藤樹の説いた教えからとったとありました。調べると、「知止」のもとは、老子第44章の一節にでてきます。原文と書き下し文は、次のようなものでした。

 名與身孰親 名と身と孰(いず)れか親しき
 身與貨孰多 身と貨と孰れか多(まさ)れる
 得與亡孰病 得ると亡(うしな)うと孰れか病(うれい)ある
 是故甚愛必大費 この故に甚(はなは)だ愛(おし)めば必ず大いに費(つい)え
 多藏必厚亡 多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡う
 知足不辱 足(た)るを知れば辱(はずか))しめられず
 知止不殆 止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず
 可以長久 以って長久なるべし
(私訳)
名と身のいずれが重要だろうか、
身と貨のいずれが大切だろうか
得ると失うのいずれが問題があろうか
これゆえ惜しめば、必ず大きく失う
多くを持てば、必ず多く失う
足るを知れば、辱められず
とどまるをしれば、危うくももならない
もって、長く久しくあるべし

 全体として、貨より身を、身より名を重んじなさいという意味でしょう。なにより、貨への注意、蔵を戒めています。損得やお金に固執したり、蓄財を戒めています。同感です。無駄遣いをする必要もないですが、身や名のために、使うときは使いなさいといっています。
 山間の小さな地域では、人のためには惜しむことなく使うという風習が今も残っているようです。地縁関係を大切にして暮らしていくということでしょう。私の故郷でも、おこなわれていたものです。地縁的な付き合い、風習の考えは、嫌なことだと思っていました。まして、地元を離れたものには、儀礼ばかりで、面倒だし、お金もかかり、できればしたくないと思っていました。
 サバティカルでこの地に暮らすために、郷に行っては郷に従えということで、少しずつ馴染むように努力しています。このような地縁的な付き合いは、もしかすると、貨を惜しむより、名のために有効に使うことを実践しているのではないかと思いました。他者、みんなのために、祝、祝儀として、餅をまいたり、旅人を接待したりします。
 貨より身を重んじた行為、さらには名を大切にしろといっています。考えると、これらの解釈も難しいものです。身とは身体だけでしょうか、心身、そして精神まで拡大していくのでしょうか。身を重んじるということは、身体に苦痛を伴うような禁欲を説いているわけでもなさそうです。また、名とは、名誉のことでしょうか。それとも、自尊心、自己肯定感、アイデンティティまでいくのでしょうか。
 貨、身、名を考えることの重要性はわかります。しかし、まだ腑に落ちていません。老子第46章には、同じような言葉があります。

故知足之足 故に足(た)るを知るの足るは
常足矣 常に足る
(私訳)
故に足るを知るの足るとは、常に足りているということ

 知足とは、本来は人の欲を戒めたものでした。そして、足るを知っているということは、常に足りているというも意味するということのようです。どこまでで足るのか、どれ以上になるとどまるのか、その境目が難しいです。少なくとも我を忘れることなく、冷静に過ごしていくべきでしょう。
 このエッセイでの思索もここでとどめます。なぜなら、このような考えを巡らすことにも、足るを知り(知足)、とどまることを知り(知止)なければならないでしょうからね。

・知足・
ゴールデンウィークの最中に
このエッセイをお送りします。
執務室で通常と変わらず仕事しています。
COVID-19が終わった大型連休なので
多くの人はあちこちを観光したい、
買い物や遊びたいと思っていることでしょう。
自粛した3年は、あまりに長かったです。
そこから開放されるのは、いいことでしょう。
しかし、足るを知ることも忘れてはいけません。

・知止・
私は、ゴールデンウィーク前に調査にでかけ、
後にも調査にでかけます。
COVID-19の自粛とサバティカルによる校務からの開放、
なんの束縛もなく調査に
専念できるありがたさ痛感しています。
なにより休日や祝日など、
人出の多い時期を外して
出かけられるのはいいです。
以前、博物館にいた頃は、
月曜日休みだったので
その時のように混まない状態で
いろいろなところに出かけられるがいいです。
しかし、必要なものことだけにしたほうがいいですね。
あまり羽目を外さないようにしないといけません。
とどまるを知ること(知止)です。

2023年4月1日土曜日

255 沈思黙考できる心の余裕:半年間のサバティカル

 このエッセイが発行される4月1日に、北海道を離れて四国に向かいます。半年間のサバティカルで、愛媛県に滞在します。以前に滞在した西予市で再度過ごすことになります。滞在中の目的を紹介しましょう。


 4月から、サバティカル(研究休暇)で半年間、愛媛県西予市にて研究に専念できる時間がえられました。2010年にも、1年間のサバティカルを、西予市にて過ごしました。1度目のサバティカルからは、12年が経過しています。
 前回のサバティカルの決定にあたっては、いろいろ予定変更がありました。当初、子どもたちも家族全員で、1年間滞在するつもりでしたが、大学での改組よって、サバティカルの申請時期がズレることになりました。その結果、家族状況に変化があり、単身での赴任となりました。
 今回、子どもたちは同居していないので、夫婦で滞在することになります。受け入れ先も、前回の西予市城川地質館から、四国西予ジオパークミュージアムに変わりました。滞在後ジオパーク申請の準備をはじめ、2013年に日本ジオパークになっています。博物館も、西予市城川地質館を更新して、ジオパークミュージアムを新築して昨年春に開館しました。以前、執務していた場所が物置になり、住居も老朽化で立ち入りができないようです。
 12年間もたつと、いろいろなところで変化が起こっています。
 もちろん、露頭や岩石、自然は10年程度では変わらないのですが、人の営みによって変化します。前回の滞在で利用していた施設も、まだ残っているものもあります。変化したものと変化しないものがありそうです。変化していないとはいっても、なにかが変わっているはずです。それは研究テーマとも関連しています。変化を探ることは、いってから楽しみとしましょう。
 サバティカルでは、達成したい研究テーマがあります。申請時にもそのテーマで明記しています。科学教育と地質学、地質哲学で3つの目的で取り組む予定にしています。最後の地質哲学が重要な目的と考えています。
■科学教育:四国西予ジオミュージアムを通じての教育実践
 これは、なにができるか不明ですが、なんらかの貢献ができればと思っています。個人的には、いくつかのメールマガジンで西予の地質に関する教育用エッセイを書くことで貢献するつもりです。
■地質学:古生代、中生代、新生代までいろいろな時代の島弧の付加体、島弧固有の火成岩類の野外調査
 地質学は、野外調査を中心に進めていきます。四国の各地をめぐり、付加体や火成岩類の典型的な露頭を観察していきます。野外調査をもとに、次の地質哲学へと結びつけたいと考えています。
■地質哲学:地質学的時間記録の様式の哲学的思索
 少々難解で抽象的ですが、次のようなことを深く思索していこうと考えています。
 地質学(あるいは、自然現象全般も)において、時間は不可逆で、戻ることも繰り返すこともありません。なぜなら、地質現象はすべて熱力学の第2法則(エントロピー増加)に従っているためです。地質現象は、同じことの繰り返しに見えても、全く同じものはなく、どこか異なっていることになります。少なくとも熱力学的はエントロピーが増加しています。
 エントロピーも複雑な概念です。「乱雑さ」ともいわれますが、いったん乱れたものを、整った元の状態に戻すには、エネルギーが必要になります。このような戻すのにエネルギーが必要な変化は、不可逆となります。もし可逆ならば、エネルギーの増減がないことになり、平衡状態が継続していることになります。それは、変化していない、なにも起こっていないことになります。
 原子や素粒子など微小の世界でまで考えると、変化が常に起こっています。微視的にみると、エントロピーが増加し続けていることになります。熱力学的には、時間とともにエントロピーが増加していることになり、エントロピー増加から、時間が一方向にしか流れないことも導き出せます。これを「時間の矢」と呼んでいます。
 地層は、過去のある時間の記録媒体とみなせます。不可逆な時間の流れで、連続した地層も、実は不連続で不完全なものになります。これも少々説明が必要でしょう。
 タービダイトと呼ばれる地層は付加体では典型的な地層です。日本列島の地層の多くはタービダイト層です。河川の大洪水や海底地すべりなどが起こり、大量の堆積物が、大陸棚に流れ下り、やがて堆積していき、一枚のタービダイト層ができています。堆積にかかる時間は、数時間、極細粒ものでも数日程度で終わります。それ以降、堆積物はほとんどたまりません。
 再度、似たある海底地すべりが起こった時、次の地層がたまります。このようなタービダイト層は付加体の重要な構成物です。地層とは、時間の流れ見ると、ある時点に一気に溜まったもので、その時期以外は記録が残されていません。大半の時間は、地層の境界の物質の欠落したところに折りたたまれています。
 それでも、過去の地球を、直接探れる素材は、地層しかないのです。地層の時間記録は、もともと不完全であるところに、さらに地質学的過程で、多様に破壊されていきます。地下深部だと、変成作用を受け、時には一部が融けてマグマになってしまうこともあります。大地の運動によって断層や破砕が起こります。表層付近では、風化や侵食、変質なども起こります。地層は古くなるほど、このような地質学的改変も、さまざまな程度で、繰り返し加わっていきます。
 地層は、不完全な時間記録媒体で破壊も起こっているのですが、もしその改変の時期や順番がわかれば、それも重要な記録となります。幸い地層の時間は、化石や放射性核種の年代測定で知ることができます。地層を用いれば、時間軸上に過去の出来事が起こった順番に並んでいます。改変も、定量的に読み取れるものは限られていますが、順番は読み取れます。
 各種の地質学的過程が、時間軸上に、断片的で定性的ですが、並べることができます。このよな記録をたくさん集めれば、パタパタ漫画ように、連続して動いているかのように見えます。これが、その地域の地層の歴史となっていきます。各地の歴史をいろいろな時代で、地球全体で集めていけば、地球の歴史となっていきます。
 少々、壮大で荒唐無稽のような話をしてしまいました。島弧固有の地層や火成岩の野外調査を進めることで、断片的な時間記録から、どのようなことが見えてくるのか、哲学的思索を進めていこうと考えています。このような時間記録の解析や考察は地質学固有の思索です。他にも地質学固有の概念もあるはずです。そのような概念を抽象しながら、思索を深めていこうと考えています。
 いろいろ書いてきましたが、なにより静穏な時間、沈思黙考できる心の余裕がえられることが重要だと考えています。

・予約配信・
このエッセイは
ちょうど移動にあたっているでの、
事前に書いて、予約配信をしています。
配信を時間指定できるのは助かります。
今ではどこでもインターネットに
繋がるようになりました。
文書を書いて配信するなど
私にはできそうもありません。
予約配信できるのは助かります。

・謙虚に虚心で・
いよいよ西予での新生活ははじまります。
家内には新生活ですが、
私には2回目の生活となります。
2回目の強みは、勝手を知っていることでしょう。
しかし、なまじ昔のことを知っているために、
比べてしまい、良くなったことはいいのですが
悪くなっていることを挙げつらわないか心配です。
謙虚に虚心で生活をはじめましょう。

2023年3月1日水曜日

254 アブダクションの訓練を

 多くの人は、常識的に振る舞い、常識にもとづいて暮らしてます。当然、「バカなこと」はしないほうがいいはずです。しかし、「バカなこと」を意図的にするのは、アブダクションの訓練になっているのです。


 教育で知識や技能を身につけることは重要です。そこで、常識や行動規範を身につけることも重要になります。人として、日本人として、社会人として、大学生、高校生、中学生、小学生として、それぞれの立場で、一定の常識や行動規範を身につけることは、生きていくためには必要でしょう。しかしその常識が、独創的な考えを摘み取る可能性もあります。常識と独創性の兼ね合い、それを教育にどう取り入れるか、なかなか難しい問題です。
 小学校では、授業として道徳が導入されました。道徳では、ひとつの答えがない話題を用いて、人ぞれぞれ、いろいろなの考え方を示して、お互いに尊重していくような授業が展開されています。これは、机上での考え、議論となります。日常生活で行動しようとするとき、常識との兼ね合いで、どこまで実践できるかが重要です。
 独創性を重んじることで、常識外の考えで進めていこうすると、いろいろなトラブルや軋轢が生じます。多くの人は、他者を慮って、忖度して、常識的な行動になっていきます。どんなに独創的なものがあっても、行動に移すとなると、多くのひとは躊躇したり、抑制したりしてしまいます。
 独創的な行動は、他者からみると、少々奇異で「バカなこと」にみえます。すると「バカなことはするな」と注意を受けます。本当に「バカなこと」はダメでしょうか。まだ未熟な人たちへの注意だけでなく、大人でも常識に反することをしたら「バカなこと」といわれます。
 もちろん違法なこと、人に害をなすようなことであれば、その注意は真っ当でしょう。本当に「バカなこと」はムダでしょうか。大きな飛躍、ブレイクスルーは、そのような「バカなこと」からしか生まれないのではないでしょうか。少なくとも常識的な考えからは、大発見、大発明はなかなか生まれません。
 多くの人は「バカなこと」はできません。特に長年、常識に囚われてきた人にとっては、常識を越えること、常識を破ることは、難しいものです。しかし、子どもたちは、簡単に「バカなこと」をします。大人が「バカなこと」と止めてしまうのは、独創性を摘み取るのではないでしょうか。道徳でおこなっているような多様な考えを、周囲の人が受け入れる姿勢が必要でしょう。
 アップル社のMacやiPhoneを生み出したスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)は、2005年6月、スタンフォード大学卒業式辞で
 stay hungry, stay foolish
といいました。有名な言葉ですが、再度見ていきましょう。
 「be hungry, be  foolish」ではありませんでした。beではなく、stayを使ったところが重要でしょう。beとは「そうあること」を意味しますが、stayとは「あり続ける」こと、その状態を維持してくことを意味します。hungryであり、foolishであり続けろといったのです。上で述べたこと「バカなこと」をするのと同じ趣旨だと思います。
 「バカなこと」をしたり受け入れるのは、「アブダクションの訓練」ではないかと思います。科学では帰納法と演繹法を使うのですが、アブダクション(abduction)とは、多くの人が実際にはおこなっているのですが、あまり定式がされず、意識していないものです。
 帰納法とは、多くの事実から法則性を見出すことです。その法則は多数の事実から創造的に見出される独創性のあるものです。しかし、法則性は与えられた事実の範囲から導かれたもので、その事実の範囲外に適用できるかどうかはわかりません。ですから、帰納法から生まれる法則性は、あくまでも仮説になります。仮説がどこまで適用できるのかは、演繹法で調べることになります。このようは仮説の検証過程を「仮説演繹法」と読んでいます。
 適用範囲内では法則性は大いに利用することができます。法則を知っていれば、演繹でいろいろと応用できることになります。このような帰納法と演繹法、両者をつなぐ仮説演繹法は、科学ではごく普通に利用されています。
 演繹を繰り返しても、仮説の適用範囲を広げたり、適用範囲を限定したりすることはできますが、新しい仮説を生み出すことはできません。演繹には創造性が内在されていません。
 では、仮説を思いつく方法が必要になります。それが、アブダクションです。アブダクションとは、いくつかの事実(ときには事実がなくても)から、自由に、法則性を推測していきます。事実や根拠がなくてもいいのです。とにかくなんらかの仮説(作業仮説)を発想していきます。その作業仮説は、演繹で検証したり否定すること、否定されたら再度アブダクションを繰り返せはいいのです。
 アブダクションは考える方法なので、小さなものから、大きなもの、常識的なものから非常識なものまで、いろいろなものがあります。アブダクションは、人のもっとも重要な能力である独創性に直結しているものです。できれば、大きな独創性をもったものが有用です。大きなアブダクションは、「バカなこと」の中にあるのではないでしょうか。素晴らしものを生み出してきたジョブスは、それを大学の卒業生に伝えたかったのではないでしょうか。

・祝賀会・
3月になりました。
2月中旬から三寒四温として
暖かい日もありました。
温かい日には雪解けも進んできます。
大学や学校は、卒業の季節になります。
今年からは、学位記授与式とともに
祝賀会も飲食はできませんが、実施されます。
久しぶりの復活する祝賀会となります。
飲食ができないのは残念ですが。

・愛媛のサバティカル・
今年の3月は、いろいろな意味での区切りとなります。
4月からは四国愛媛県に
半年間のサバティカルがはじまります。
今年の4年生が最後のゼミ学生となります。
そのことは学生には伝えています。
コロナ禍のもとで付き合いとなってしまいした。
そんな時代なので、残念ですが、
致し方ないことです。
過去より未来を見ていきましょう。
愛媛での生活にワクワクしていきましょう。

2023年2月1日水曜日

253 論理と実用の狭間

 火成岩の成因に関する因果関係をみてきます。研究では、論理的には正しさが保証されない方法が使われています。マグマだけでなく、自然科学のすべてで起こっていることです。実用を重視しているためです。


 岩石には火成岩と堆積岩、変成岩があるというのは、学校で教わるので、覚えている方も多いでしょう。岩石が3つに分けられているのは、それぞれの起源が異なっているためです。どれほど見かけが似ていても、起源が違えば異なった分類の岩石になります。
 今回は火成岩を題材にします。火成岩とはマグマから形成されたものです。それは事実と多く人が理解しています。例えば、活動している火山で、マグマが流れ出ているのを、映像や画像で見たことがあるでしょう。マグマの存在は、多くの人は知っています。ただし、マグマを調べるのは、危険なのでできません。特別な火山(マグマが定常的に流れてて近づけるところ)で、特別な装備をつけた(耐熱防火服)火山学者が調べることはありますが、一般的にはマグマを直接調べることはできません。
 マグマが固り冷めるのを待てば、火成岩として採取することができます。マグマが固まった火成岩なら、安全に手入できます。マグマと火成岩は対応しているので、火成岩を用いればマグマを調べることになります。
 では、もう少し話を進めていきましょう。マグマは、どうしてできるのでしょうか。
 地下深部で、地球の営みで変動する場所があります。例えば、プレートが沈み込むところやプレート同士がぶつかるところ、プレートが割れて新しいプレートが形成されるところなどが、変動する場となります。そのような場では、通常とは異なった条件(高温、高圧や成分が添加による融点降下など)が現れて、岩石が溶けることがあり、それがマグマとなります。
 溶融条件が継続すれば、マグマがたまっていきます。マグマは、まわりの固体の岩石より体積も大きくなります。膨張で、まわりの岩石(壁岩といいます)に圧力を加え、割れ目をつくっていきます。マグマは周りの岩石より密度も小さいので、浮力が働きます。その結果、マグマは上にできた割れ目にそって上昇していきます。
 上昇していくにつれて、周りの岩石の温度は低くなっていきます。上昇とともにマグマは冷却し、マグマの中で結晶(鉱物)が形成されていきます。温度圧力条件とマグマの組成に応じて、結晶ができるのですが、最初はひとつの種類の結晶ですが、温度が下がるとともに複数の結晶が同時にでてきます。またひとつ結晶で組成が変化すること(固溶体と呼ばれます)もあります。
 マグマの温度低下と形成される結晶の種類や組成の関係は、かなり解明されてきました。例えば、実験室で、岩石を高温高圧状態にして溶かし(マグマの状態)、それを冷却することで、どのような種類の結晶や化学組成になるかを調べる溶融実験があります。化学反応の平衡関係を利用して結晶化の条件を調べることもできます。
 マグマを直接調べることができなくても、これらの方法であれば、多様な火成岩とマグマの関係を調べることができます。つまり、火成岩からマグマがどのような条件でできたのか、を調べることができるようになります。
 さらに話を進めていくこと、火成岩の形成時代がわかれば、その時代のマグマを調べたことになり、時代ごとに火成岩の特徴の変化があれば、火成岩からマグマの時代変化を知ることもできます。
 ここまで述べてきた話には、地質学者が通常に研究している方法です。筋道の通った話に見えますが、考え方や論理にいくつかの飛躍があります。
 まず最初の段階です。時間の流れでみると、マグマ→火成岩の形成順となります。火山で流れたマグマからできた火成岩を採取して調べるということは、時間の流れに沿っています。実際に流れたマグマが固まった火成岩を採取して調べるということ、因果関係がはっきりしたものでした。
 このようないくつかの事例(事実、証拠)から、マグマ→火成岩の因果関係を帰納したことになります。帰納した因果関係に基づいて、火成岩からマグマを調べていくことになります。
 マグマと火成岩の因果関係がはっきりしているものは問題がないのですが、すべてのマグマ→火成岩という関係があるとみなし、火成岩からマグマの性質を調べました。因果関係があるという前提で話を進めてきました。これは確かなでしょうか。
 いくつか事例から帰納した規則性を一般則としました。これは科学ではよく用いられる方法です。そこから、火成岩からマグマを調べるというとき、マグマ→火成岩という一般則を、火成岩→マグマと因果関係を逆にして演繹して利用していることになります。ここには論理に飛躍があります。この因果関係の逆転に問題はないのでしょうか。
 実はこれらは自然科学が潜在的にもっている問題で、解決できないものだとわかっています。帰納には新しい法則を見出す創造性があります。演繹には帰納された法則の適用なので新しいことは生まれませんが、法則の正しさを検証できます。自然界での帰納法は、すべての事例を当たって例外がないことを確認しないと一般則にはできません。法則を演繹ですべての事象で検証するのは、自然界では不可能になります。ここに帰納と演繹の限界があります。
 次にマグマの形成過程についですが、マグマの形成から上昇、火成岩の結晶の過程は、複雑ですが、すべて科学的な必然性はあり、シミュレーションや実験などで起こりそうなことは示されています。自然現象を帰納して一般化して、それを別の場や時代に演繹することを斉一説といいます。斉一説は正しいのでしょうか。
 ある火成岩において、そのような過程が、過去のある場所で起こったと考えていることになります。自然に流れる時間は、エントロピー増大の法則があり、逆転することはできません。エントロピーとは熱力学的に定義される値(熱力学第二法則)ですが、「乱雑さ」とも呼ばれます。時間が経過するとエントロピーも増加していくことから、「時間の不可逆性」を熱力学的に示すものです。すべての自然現象はエントロピーが増加するので、過去に遡ることは、異なった条件を前提とすることになります。つまり、同じ成因で、同じように見える火成岩であっても、時期や時代が異なれば、「似ている」だけであって「同一」ではないことになります。
 科学者は、このような適用限界があるのはわかっています。だからといって、科学を止ることはできません。帰納法と演繹法を用いて、過去に斉一説を適用して現在の科学は進められています。自然科学は実用性を重視します。そこが論理性を重視する数学や論理学とは異なる点でしょう。本来なら論理的に成立しない論理や方法は使えないのですが、実用上、誤差や問題が生じない限り使っていこうという立場です。
 科学者は、論理的には保証されない方法論を用いているという意識を常にもっているべきです。自然現象やえられた事実に謙虚であるべきですね。たとえそれがこれまでの法則に反するものであっても。

・追試・
1月で後期の講義が終わりましたが、
大雪のため、公共の交通機関が大きく乱れました。
定期試験が受けられない学生が多く出てきました。
試験当日の朝、私宛に30通ほどのメールで
大学に行けないという連絡がありました。
大学事務の電話も鳴りっぱなしだったそうです。
これは、追試対象となるので、
多数の追試受験者がありそうなので、
急遽、試験問題を変更することにしました。
成績提出の期限は変更できないので、
来週、一杯、忙しくなりそうです。

・引っ越し・
4月以降、サバティカルで四国に
半年間滞在することになります。
そのために探してもらっていた住居が見つかりました。
住所が決まったので引越し業者を当たったのですが
予約がすでに一杯で
予定通りには引っ越しができないといわれました。
交渉して、なんとか予定通りに
引っ越しをすることができるようになりました。
非常に焦りましたが、調整できて助かりました。
事務的な手続きも、まだ問題が残っています。
順番に対処していかなければなりません。
初めてのことには苦労がつきまといます。

2023年1月1日日曜日

252 可知・不可知の不思議

  明けましておめでとうございます。今回のエッセイは、地質哲学をより深く考えるための指針について考えていきます。南方熊楠の思索が重要な指針になるのではないかと考えています。


 大学教員として残された在籍期間が、あと2年3ヶ月となりました。今年4月からはサバティカル(研究休暇)で、12年ぶりに愛媛県西予市に半年間滞在します。サバティカルの期間の研究計画は申請時に立てています。校務から開放された期間でもあるので、地質哲学として、より深い思索をしていこうとも考えています。その時の指針になるものとして、南方熊楠の思考が参考になるはずです。
 熊楠は、哲学的思索を論文や書籍でまとめたわけでありません。その思索は、土宜法龍(どきほうりゅう 1854 - 1923)との交換書簡で残されています。現在までに発見されている書簡の総数は152通。その内訳は南方から土宜に宛てたものが73通で、残りが土宜からの書簡です。ただし、これらが書簡のすべてではなく、未発見のものがあることも判明しています。
 土宜は、真言宗を代表する僧侶で、高野山の管長も努めました。1893年の万国宗教会議に日本代表のひとりとして参加しています。その時、ロンドンを訪れ南方熊楠と会い、気投合しました。帰国後も30年間にわたって親交が続きますが、その多くは書簡によるものでした。国内では一度しか顔を合わせていません。その時にも面白いエピソードがあるのですが、別の機会としましょう。
 熊楠にはいくつかの重要な思索があるのですが、ここでは可知・不可知、不思議の見方について概観していきます。このような視座は、科学がなにをどこまで解明できるかにも示唆を与えてくれそうです。
 1893年の書簡内の「事の学」、1897年の「金剛の相承」(このエッセイ独自の名称です)、そして1903年の「南方曼荼羅」について見ていきます。それぞれ象徴的な図があるので、よく取り上げられている思索です。
 まずは「事の学」です。現代の自然科学が物の世界を研究し、物同士の関わりの因果を追求してきました。そこには「心」は介在させませんでした。客観性を担保するためでした。ところが、「事の学」とは、心(精神、心理)の世界と物(物質・現実)の世界との関わりについて考えています。「心界と物界とが相接して、日常あらわる」ものを「事」と呼んでいます。両者が交わると「事」ができ、そこには「因果」があるとしています。熊楠のいう因果は、物同士の因果より、心も関係するもっと大きなものと捉えています。
 「金剛の相承」については、釈迦の悟りについての議論となっています。修行により金剛(真実の知恵で堅固で壊れないもの)を悟った時、その理解した内容を言語したものを真言といいます。真言は、悟った人の理解によるものなので、それぞれ独自の内容になり、その表現の仕方も独自のものになります。したがって釈迦も悟りも釈迦独自の真言となります。
 その説明として、2つの図が並べて示されています。ひとつ目の図は、網の目に直線が交っている交点に数字(1~7)やアルファベット(a~d)が書かれています。この世には大本の真理の体系(金剛)が存在し、それが複雑で多義的であるとき(網の目で表記)、人によって理解したこと(真言)は同じではなく、説明をするときもそれぞれの人固有に言語化されたものになるため、多様な表現(相承)となります。このようなものを、ここのエッセイでは「真言の相承」と呼ぶことにしましょう。
 手紙では、「網の目のごとく、二集まって一となり、一散じて二となるように二倍ずつのものとせる」と多様化していくと書いています。ひとつ目の図の横にも図があり、たんぽぽの綿毛のようなものが3つほど書かれています。「レースをあんだように、百集まりて一となり、また分かれて百となる」と非常に多様な(相承)もの(真言)として表現されていくと、熊楠は書いています。
 さらに、「骨髄は同一でも、方便、軌範等の末事はちがうなり」として、悟りも時代変化があると説明しています。時間経過によって、「c d の外物と混和雑揉せる」ために起こり、「1、2、3と年代もかわり、また後になるほど外物外境の関係もかかわるゆえ」、時代によって「真言の相承」も変化していくといいます。
 「真言の相承」の説明は、複雑な自然現象を考える時にも相通じます。自然現象は未だに全貌を知り得ない「金剛」のもとに営まれているように見えます。研究者によって自然現象の見方、捉え方が異なってきます。そのため、説明の仕方も異なっていきます。見方や説明の仕方の違いは、時代の知識体系、パラダイムなど(外物と混和雑揉)により変化するという意味に捉えることができます。
 自然界の金剛の全体像をどのように捉えればいいのでしょうか。「南方曼荼羅」が参考になります。この曼荼羅図の解釈には「不思議」という言葉が使われています。不思議とは、まだ言葉化できていないことです。
 本来、曼荼羅とは、思想の本質を図化したものです。真ん中に主たる仏を示し、周りに他の仏を配置した、対称性をもった幾何学的にきれいに配置された図です。ところが、熊楠の手紙では、曲がりくねった線が多数描かれています。従来の曼荼羅とは、南方曼荼羅は明らかに異なった独自のものです。
 この世の不思議は「その数無尽なり」で、3次元体に広がっていて、「前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す」としています。不思議には、事不思議、物不思議、心不思議、理不思議、そして大不思議があるといいます。心不思議は心理学が、科学は物不思議を解明しています。物不思議と心不思議が交わり事不思議となります。「物心事の上に理不思議がある」とし、物心事の不思議は、これらは理(すじみち)不思議となっていき、やがて「必ず人智にてしりうるもの」としています。
 「どこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、いかなることをも見出だし、いかなることをもなしうる」ことを意味しているといいます。この図では、多数の線が交わったところを「萃点(すいてん)」と呼び、そこは「いろいろの理を見出だすに易くしてはやい」ところとしています。そこを手がかりに理不思議は調べていけるというわけです。
 南方曼荼羅では、曲がりくねった線の集まりの上に、二本の線が描かれています。近い方の線は、曲がりくねった線と2点で接しており、「人間の今日の推理の及ぶべき事理の一切の境の中で(中略)かすかに触れおるのみ」ですが、この接点が線(理不思議)を探究する手がかりとなるため、「やがてしりうるもの」となります。理不思議な可知の範囲になりうるということです。
 さらに外の線は、「可知の理の外」になり、それが「大不思議」だとしています。大不思議は大日如来に属するもので、別格の不思議だとしています。
 なかなか興味深い思索です。これが、書簡の中で、それも熊楠独自の書かれ方をしているため、難しい表現になっています。知り得たもの(もちろん全てではない)と、知り得ないものを、どう整理していくかについて体系的に示されています。それは密教に中に見いだせると熊楠は述べています。すでに先人が、このような知的探究を深くおこなっていることに驚かされます。
 そのような知恵、思考方法を科学にどう落とし込んでいくかを、サバティカルから今年の1年で考えていくことを、目標としようと考えています。

・南方曼荼羅・
以前、南方熊楠顕彰館を訪れた時、
南方曼荼羅を3D化して
ガラスの中にレーザーで描いた置物が
販売されていました。
線は前後左右上下に広がるといっています。
文字は書かれていませんが、
萃点は示されていました。
萃点の重要性は鶴見和子さんが、
熊楠の思考の重要性は中沢新一さんが
再発見してきました。
その象徴として
南方曼荼羅が有名な図となりました。

・歳のはじめに・
新しい年を迎えました。
年末になると、その年1年間のことを
いろいろと振り返ってしまいます。
そして、新年になると、どうような目標をたてようか
コロナ、政治、社会の状況など
新たな1年を思い描いてしまいます。
4月からはサバティカルがあるので
その時の思索の方針も考えてしまいました。
その思考経過が、このエッセイとなりました。

2022年12月1日木曜日

 251 喉元に熱さがあればリソースは回らない

 2022年も、COVID19の感染爆発が繰り返されました。3年近く感染爆発が繰り返されて、慣れっこになってしまいました。しかし「慣れ」が生じないようです。そこにはどんな理由があるのでしょうか。


 どんなに危機的状況に陥っても、同じ状況が続けば、人は慣れるものです。これは、つらい状態が続いても、慣れることで耐えやすくなり、気持ちに余裕ができます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざ通りのことが起こります。その結果、どんなに大変な状況であっても、慣れることで心の余裕が生まれます。どんな苦境でも継続すれば、心の余裕から、精神的なリソースを他のことに使えるようになります。この仕組みは、非常に優れた機構といえます。
 今年も師走となりました。COVID19の第8波の感染爆発が現在も起こっており、感染者数は非常に高い値で推移しています。特に北海道では、次々と最高記録を更新しています。2020年2月からの2年間のコロナ禍と比べると、最近の感染者数は大変な事態といえます。それなのに騒ぐ人も減っているようで、警告するメディアもなおざり感があります。これは、明らかに「慣れ」という状態に陥っているのでしょう。
 大学でも、学生の感染による担当講義の欠席の届けも、毎日何名も受けています。かなりの数の感染経験者もいます。COVID19が身近にある感じ、いつ感染してもおかしくありません。それでも一時期のような感染への恐怖や緊迫感を感じません。これも明らかに「慣れ」という気持ちによるものでしょう。2022年も感染爆発が繰り返されても、社会活動や大学の対面講義も復活してきました。それもコロナ感染への「慣れ」を促したのでしょう。
 では、「慣れ」た状態になったのであれば、精神的リソースに余裕が生まれたのでしょうか。そしてそのリソースを他に回せたでしょうか。どうも難しかったようみ見えます。どうしてでしょうか。「慣れ」と精神的リソース発生の間には、まだなにか他の要因が潜んでいるのでしょうか。考えていきましょう。
 同じような感染症にインフルエンザがあります。インフルエンザは高熱、節々の痛みや喉など、コロナ感染と似た症状がでます。感染するとつらい思いします。インフルエンザに感染したら、自宅療養となり出勤や登校は禁止になります。COVID19とは日数や対処は違いますが、インフルエンザの危険性は日常化して「慣れ」ています。
 コロナ禍でここ2、3年はインフルエンザの話題も聞かなくなりました。インフルエンザの危機感は日常化していますが、今でのワクチン接種で対処しています。ここ10年ほどインフルエンザにかかったことがありません。それ以前には何年に一度ほどはかかっていましたが、予防接種を受けていたたので、重篤になることはありませんでしたが、やはり闘病はつらかったですが。
 厚生労働省によると、日本では、例年インフルエンザの死亡者は1万人程度と推計されています。例年、インフルエンザの感染が広まっても、自身や身近な人が感染しても、危機感は感じずにいます。これも「慣れ」でしょう。
 今回のCOVID19では、日本の死者数は5万人になろうとしています。年平均にすると1万8000人ほどになっています。感染当初と比べても、死亡者数も感染爆発ごとに増えています。数で見ると、インフルエンザの倍近くの死者がでているので、危険な感染症であることは確かです。例年のインフルエンザでの死亡者数はあまりに話題になりませんが、これも「慣れ」でしょう。
 COVID19ははじめての感染症だったことと、当初から死者も多いことで大きなニュースになりました。加えて、COVID19が次々と変異種が生まれることで、症状も変化してきました。一方、COVID19に対処できるワクチンもでき、接種も進み、対処もしてきました。それでもいまだに感染爆発も繰り返しています。
 すべての感染症でも同じ現象が起こるのかもしれませんが、この3年近くの間、COVID19の感染状況の変化、死者の増加、成否は別に行政も次々と新しい対処もなされてきました。はじめてのことが次々と起こり、そこからの状況も激しく変化する事態となっています。まだ変化の最中なので「慣れ」ができていないのかもしれません。そのために、心の余裕がなかなかできないのでしょう。
 最初に「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざをだしましたが、COVID19は次々と新しい変化が起こっているため、喉元をいったりきたいしているようです。そのため、精神的リソースが他に回せないようです。

・マスク・
以前は、自身が風邪にかかっていない限り
マスクはしまでせんでした。
しかし、現在ではマスクをつけるのが
デフォルト、日常になっています。
研究室と自宅だけが、マスクのない状態となります。
人前に出る時は、マスクをつけた状態が日常となっています。
学生も顔の上側だけで見分けなければなりません。
私は顔識別が苦手なので困ります。

・晴れない気持ち・
今回が今年、最後のエッセイとなりました。
今年はCOVID19の話題は常に流れていました。
それ以外の話題もあったはずですが、薄まっているようです。
今年になって、危機管理レベルや自粛が緩るみ、
社会活動、観光、大学の対面授業などが
復活してきました。
一方で感染爆発も繰り返しています。
インフルエンザの感染爆発があっても、
あまり気にならないのですが、
COVID19はいまだに気にしています。
そして、気分もパッと晴れることはありません。
そんな気持ちの今回のエッセイしました。

2022年11月1日火曜日

250 地層の上下判定にある論理性と感性

 論理性と感性とは、異なったものです。論理性は知識を学び、身に着けために実地での体験が重要です。感性を鍛えるにも、実地での経験が必要です。手段は同じですが、相反する結果となっていくようです。

 論理的と口でいうのは簡単です。しかし、物事や発言が、論理的に正しいかどうかを確かめるのはなかなか大変です。論理学という学問があります。言語や文章の概念や言葉を記号にし、数学的演算の規則性を適用していくものです。記号化できる文章や言葉(述語論理といいます)であれば、論理的かどうかを判定することができます。
 このような論理学的作業が、日常生活の場でおこなわれることはありません。会話をしている時など、内容の論理の真偽を考えることはありません。話し手の意図や心情などを汲み取り、意味を考えながら、会話の流れや連続性に注意が向いているはずです。普段、形式的な論理を追求することはないでしょう。論理の真偽より、話しの「内容」を理解したり、その整合性に注意を払っているはずです。直感的、感覚的に対話をしているはずです。
 場合によっては、会話の内容が正しいかどうかを、じっくりと考えて判断していかなければならないこともあるでしょう。しかし、その判断は、論理的形式の真偽ではなく、時には論理形式的には間違っていても、意味している内容の真偽が重要になるはずです。
 内容が正しいかどうかは、証拠や根拠があるかどうか、そして証拠や根拠が正当かどうか、が重要になるはずです。そのような判断を短時間で、会話では瞬時におこなっているはずです。
 高度な判断、多様なプロセスを瞬時にするという訓練が積まれ、できるようになっています。ただし、思考の方法や判断の結果は、人それぞれの知識や経験、視点、思考によって大きく左右されてしまいます。
 そんな例として、水平な地層について考えていきましょう。「この水平な地層は、下の層が先に溜まって、上にいくほどより新しい地層になっている」、と言った人がいたとしましょう。この会話で、話している文章上の形式的論理性を考えることはないでしょう。実物を見て、会話の意味を考え、その内容が正しいかどうかを考えていくことになります。その時、自分が地層を見た直感的判断と合致しているかどうかが、判断基準となります。
 地層に詳しくない人同士の会話なら、それで終わるかもしれません。もし聞いた人が、地層をよく知っているのであれば、「現在の上下は、できたときの上下とは限らない」ということに気づくはずです。多くの人は、地層が海底で堆積し、陸地で見えるようになるためには、地質学的変動を受けていることを知識として学び、理解しているはずです。
 その知識から、変動過程は、ゆっくりとしたものですが、激しいもので、海底に溜まったものが陸地に持ち上がっているということは、その間に激しい変動があったことが、想定できるはずです。水平な地層であっても、海底の堆積状態が、そのまま保存される場合は、稀であることもわかるはずです。その結果、見かけの上下と、形成時の上下の一致は保証されない、と判断できるはずです。自身で気づかなくても、上述の簡単な説明で理解できるはずです。
 地層の現在の上下関係はかりそめののもで、形成時(真)の上下関係は、別の証拠を求める必要があります。真の上下を確認するには、さらに知識と経験が必要になります。
 上下判定には、ひとつの地層内での粒子の大きさの変化、また上下に非対称の構造、地層間では地層境界の状態、境界部の構造などの手がかりがあります。一般的地層の形成モデルをもとに、上下の判定に必要な知識を動員して、野外の地層の上限を論理的に見極めていきます。
 上下の判定のための証拠を探す時、知識とその応用において論理性が発揮されます。その論理性は訓練によって身につけることになります。そして熟練すれば、どんな地層を見ても、上下を判定できる証拠を探すことができるようになります。
 ある露頭では、上下が逆転していることも見抜けます。このような逆転地層は、地層のこと知らない人には、常識に反し、非論理的に見えるかもしれません。しかし、逆転を示す論理と証拠を示せば、納得できるでしょう。これは説明されている人も、論理性を共有しているからです。それは形式的な論理ではなく、証拠や根拠などが正しいと判断する論理的能力を持っているということです。これは広い意味の教養になるのではないでしょうか。
 さらに重要なのは、現在の露頭にある地層に至るには、流れている長い時間と激しい大地の営みがあることに気づくことです。現在の地層の背景にある悠久の時間、激しい変動を感じることは、感性や感慨に当たるもので、論理性から導かれるものではありません。
 地層をより深く理解するためには、感じる感性が必要になります。地層の逆転現象は、地質学的に重要な意味を持つことがありますが、逆転地層から感じる思いを持つためには、実体験をもって感性を鍛えなければなりません。
 論理性を身につけるのとは、異なった訓練が必要になります。まずは、野外でいろいろな地層を見ることで、いろいろな自然に触れることでしょう。そして、多様な地層があること、多様な自然があることを体験し、その感じる力を養っていくことではないでしょうか。
 論理性と感性は目指す方向性は異なっていますが、野外での経験を積むという方法は同じです。

・論理学・
論理学はなかなか難しく、奥深いものです。
原理原則はわかるのですが、
いろいろ公理からの展開や証明など
応用がなかなか難しくて
何度か挑戦したのですが挫折しています。
科学の考察や証明過程には
論理学は必要になるかもしれません。
背理法や対偶は真などを
日常生活で利用することはないでしょう。

・冬近し・
10月下旬から北海道は一気に寒くなってきました。
山はもう何度も白くなり、
峠の雪情報も何度も聞きました。
いよいよ冬がはじまりました。
今年は、紅葉もまだらに進み、
雪虫も大量発生をみていません。
いつもの冬の訪れとは少し違っているようです。
でも、こんな季節の移り変わりもあるでしょう。