仏教哲学のシリーズで、これまでの3編のエッセイは前置きでした。ここから仏教哲学の本題に入っていきます。仏教哲学の思索法の全体像を把握しておきましょう。これは、仏教哲学の概観をつかまえることもなります。
仏教哲学は、何からはじまり、何を目標に、どんな方法で達成するのか、をみていきましょう。仏教哲学シリーズで展開していく概要の紹介ともなっています。
仏教では、万人に共通する「経験」からはじまっていきます。「経験」とは、「苦しみ」を意味します。苦しみは、どの時代、どの地域、だれもが経験しているものです。そして、その苦しみからはだれもの解放を望んでいます。仏教哲学では、苦しみからの解放を、論理的に構築され、実践を通しておこなっていきます。
苦しみからの解放までを、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)という「四聖諦(ししょうたい)」と呼ばれる過程で進めていきます。
まず、「苦諦」では、苦しみという経験的事実を認定していきます。「集諦」は、その苦しみを観察していくことで、どのようなものかを判断していくことと同じです。
苦しみも含めて、あらゆるものは変化し、相互作用をし、相互作用自体も変化していきます。すべてが変化し続けることを「縁起」といいます。縁起とは、あらゆるものは複雑な条件が相互作用することで起こり、固定されたものは何もないという考えです。縁起の概念は、不変の実体などないという「諸行無常」の気づきへとつながります。西洋的哲学では、真理の概念や科学的方法論において、不変の因果関係が存在するという前提があります。ところが、仏教哲学では、縁起を認めるので、不変性は否定されていくことになります。
苦しみを「自己(アートマン)」という概念を導入して、さらに原因を深く追求し、その原因は、「執着(渇愛)」にあるという考えにたどり着きます。自己は、還元主義的分析によって、「五蘊」(身体・感受・知覚・意志・意識)へと分解されます。
自分の意のままになるはずの自己で、苦しみが生まれることから、「諸法無我」という概念が生まれます。これはデカルトの「我思う故に、我あり(cogito ergo sum)」とは、明らかに異なった結果を導いています。
執着をなくせば解決できる可能性として「滅諦」が生まれてきます。その道筋として「道諦(どうたい)」があり、戒(かい)、定(じょう)、慧(え)の「三学(さんがく)」で進めていきます。「戒」は道徳・規律のことでさらに3つに分けられ、「定」は集中・瞑想していくことで3つに分けれ、「慧」は知恵のことで2つに分けられています。三学は、8つに細分されることから、「八聖道(はっしょうどう)」と呼ばれています。
戒によって生活が整い、定(瞑想)が可能になり、瞑想の中で真実の知恵(慧)が生まれるという連鎖構造になっています。これが苦しみを乗り越える滅諦のために実践の方法で、非常に緻密に考えられています。
苦しみを乗り越えることを「解脱」といい、解脱により理解した全体像を「悟り」といいます。解脱すると、苦しみが解体されるため、安らぎの状態になり、「涅槃(ねはん)」の状態に達したといいます。
悟りあるいは涅槃も、苦からの解脱という、論理や言語を超えた自身の経験となります。そんな素晴らしい経験なのですが、論理や言語では説明できないものです。なぜなら、そこには自分自身もなくなり(諸法無我)、因果関係も常に変動(縁起)している(諸行無常)ためです。ある人の悟りが、別の人の悟りと同じかどうかを、比べることができません。自身が悟った内容を、自分なりに解釈して、なんとか言語化しても、縁起のためある時点でのものに過ぎません。
このような仏教哲学の方法論を、不可知領域の解明に利用できないでしょうか。冥王代前期が「不可知」であるということは確認しています。それを細かく解体していくことで、不可知への越境が体験できればと思っています。ただし、「可知」となっても、言語化できるかどうか、また他の「可知」と比較、検証は不能かもしれませんが。
仏教哲学として、苦、無常と無我と涅槃、縁起、空と色、唯識、不立文字、無記、八正道などの重要な概念を、今後のシリーズで各論として紹介していこうと考えています。
・第二部について・
本エッセイででてきた、仏教固有の概念は
なかなか難しいものです。
それぞれの概念については、
以降のシリーズのエッセイで紹介していく予定です。
一通り仏教哲学の概要と概念がわかれば、
次は、より深い論理性について
考えていければと考えています。
それは仏教哲学シリーズの第二部として
無の論理を集合論的に見たらどうなるか、
仏教哲学にある四区分別から
龍樹の考えた四句否定についての
論理における矛盾と
そのねらいなどについても考えていきます。
・目的を忘れずに・
この仏教哲学シリーズでもっとも重要な目的は、
地質学の不可知領域解明にどう適用していくかです。
これが最終目的なので
見失うことなく、心に留めておきます。
その答えや方法論は、まだ手に入れていません。
今後、仏教哲学を参照して、思索を深めながら、
2、3年かけて考えていくつもりです。