仏教哲学の重要な概念に「三法印」というものがあります。三法印を知ることは、仏教哲学の方法論と論理構造の理解にも通じています。多様で深い思索が巡らされています。三法印を紹介していきましょう。
ここまで仏教哲学の全体像をみてきて、苦からはじまる理由と、苦からどのように解脱していくかの考え方を紹介してきました。次に、仏教哲学の教えの正しさを証明していく、三法印(さんぼういん)と呼ばれる方法があるので、その内容を見ていきましょう。
まずは、「三法印」の意味をみていきましょう。「三」とはもちろん3つあるということで、「法」とは教えや論理(ここでは仏教哲学の思考法)のことで、「印」とは論理の正しいさの証明や保証のことです。つまり3つの論理で正しいことを証明しているというこです。これは、仏教と他の宗教とを区別する基準となり、仏教哲学におけるもっとも重要な概念ともなります。
その3つ「法印」とは、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)と、簡潔に表現されています。順番にみていきましょう。
まずは、「諸行無常」からです。「諸」は「あらゆるもの」で、「行」はすべての「因(直接的な原因)」と「縁(間接的な条件)」が組み合わさって形成されたもので、この世のあらゆる現象を指します。行には、「変化」自体が本質的に含まれていることになります。「諸行」とは、この世や宇宙のあらゆる現象や物質的、精神的(感情、思考、経験など)な存在と、その変化していく存在となります。
「無常」とは、すべての存在は固定した実体を持たず、絶えず変化し続けるということです。変化は刹那(せつな)ごとに生滅を繰り返しているため、永遠に変わらないものは何一つなく、「常(永続するもの)」などないという意味になります。
抽象的でわかりにくいかもしれません。ある「行」(Aとしましょう)が存在するとします。その行Aは、なんらかの条件によって形成され、存在していることになります。これを「縁起」と呼びます(その詳細は次のエッセイで紹介します)。しかし、条件は永続することなく、変化しても、見方(時期、期間、場所、価値観など)を変えても、行Aも変化し続けていきます。これが「無常」ということになります。無常を認めることで、固定した状態・本質・実体は存在しないという考えが生まれ、「永続」という概念が解体されます。有為法(ういほう)とも呼ばれます。
次に、「諸法無我」です。「諸法」では、「諸行」が拡大されていきます。「諸行」では、条件によって形成された行(有為法)をみていきました。「法」とは、「行」よりもっと広く、この世に存在する有形や無形のすべて、さらに形成されていない法へも適用される概念です(無為法 むいほう)。
変化しない永続する自己(アートマン)、他に依存しない独立した自己、制御の主体としての実体のある自己などを、法では否定します。これは、ウパニシャッドのところで述べた、自己の否定につながります。ただし、自身の経験そのもの、因果が連続しているということは否定しません。それが、「無我」の概念になります。
自己を五蘊(うん)として、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)という要素に分解してきます。「色」とは肉体・物質的要素、「受」とは感覚・感受作用、「想」とは概念・表象・知覚、「行」とは意志・心の形成作用、「識」とは意識・認識作用のことです。五蘊はすべて条件に依存して変化しています。自己とは、一時的に集合したの中心にあるものなのですが、「変わらぬ自己」などというものはなく、「無我」になります。
「無常」と「無我」は、独立したものではなく関係しています。あらゆる行が無常なら、行Aが変化するのも無常です。変化するものは固定された本質を持たず、固定した本質がなければ「永続する自己」もないので、無我もないということになります。
最後に、「涅槃寂静」です。「涅槃」とは、苦しみを生み出す原因(煩悩)が消滅し、解脱した状態を意味します。苦しみを生み出す原因となる渇愛が消え、欲しいものへの執着がなくなり、嫌いなものへの嫌悪がなくなり、無知や迷いの無明であることもなくなり、安らかな涅槃に至ります。
涅槃に至ると、静かで、安らぎや平和な「寂静」になります。寂静は、虚無の状態や死を意味するのではなく、感覚・知覚・思考・経験などは保たれます。苦しみの原因となる執着から完全に自由になった状態を表しています。涅槃寂静は、仏教が目指す究極の状態で、目標としています。
仏教哲学は、苦の認識からはじまります。苦の観察から、条件に依存して変化していく「諸行無常」と捉え、固定した実体となる自己も存在しないという「諸法無我」へと洞察を進めていきます。
これらの三法印の過程を、実践的に体感することで、自己への執着が消え、渇愛の根拠が解体され「涅槃寂静」が現れてきます。この実践によって体得することこそが、仏教哲学の方法論になっていきます。
仏教哲学は実践をともなうので、基本的に個人で成し遂げるべきものです。それを重視したものが上座部仏教になります。一方、悟った人が、他人の苦の救済していくことが大乗仏教になります。その思想をわかりやすく体系化したものが、いろいろと生まれてきて、いくつもの宗派となっていきます。
仏教哲学では、自身の経験(苦)から課題設定(諸行、諸法)をはじめ、課題の探求(無常、無我)して、解体(解脱)するという実践的方法論を示すことによって自己解決(涅槃寂静)していきます。論理的で、実践まで含んだ哲学的方法論は、稀なものでしょう。
冥王代は、直接的な物質的証拠が失われ、固定的な実体を捉えることが不可能な時代です。実体を求めて苦悩していくことになっていきます。仏教哲学の三法印という諸行無常、諸法無我、涅槃寂静への方法論は、冥王代の不可知領域に対しても適用できそうです。
多様な条件が提示された状態(行)が過去にはあり、その時々に自然が繰り返し選択してきた結果(行)が、「現在」をつくっています。また、太古代から現在までの可知領域も、変化しており(行)、可知領域にも不可知が混入しています。そんな不可知が混在している時代は、地球表層環境の変化や流転のプロセスを「無常」と捉えられます。
固定された起源モデルや、可知という前提でつくられた科学的方法論(諸法)への執着を「無我」として解体していく視点も必要でしょう。そのような視点に立てば、不可知は、無数の条件が織りなすシステム全体への「縁起」と捉えていくことができます。
すべてを解き明かすことに執着するのではなく、不可知、つまり知の限界を受容していく必要もあります。仏教哲学は、科学的方法論の限界に立った時、その立ち位置を考えていく指針となりそうです。
・仏壇・
お盆となりました。
我が家には、仏壇が備え付けでありました。
しかし、仏壇内には仏像も位牌はありません。
我が家で亡くなった人はいないからです。
ただし、母と義母の遺影が
置いてあります。
お盆になると仏壇に
遺影の前に
花をお菓子をお供えします。
・お盆・
お盆には、長男が
会社の休みをとって
帰省することが恒例になっています。
ただし、帰省には、
夏フェスにいくという目的もあります。
毎年のことなので、
こちらもそのつもりでいます。