よく使う「縁起」という言葉には、仏教哲学で深い意味が込められています。縁起は、西洋的あるいは科学的因果関係を、より深く解明していきます。縁起は、固定された実体も否定していきます。そこから何が見てくるのでしょうか。
「縁起(えんぎ)が悪い」などとして日常的に使っている「縁起」は、仏教哲学で用いられているものです。本来は異なった意味を持っており、仏教哲学では、重要な概念となっています。
縁起とは、すべての事象は、多数の条件が相互依存の連鎖しあいながら起こっていることを意味しています。詳しく見てきましょう。
仏教経典には、つぎのような形で繰り返しの言葉で表現されています。
これがあるとき、あれがある imasmiṃ sati, idaṃ hoti
これが生じるとき、あれが生じる imassuppādā, idaṃ uppajjati
これがないとき、あれはない imasmiṃ asati, idaṃ na hoti
これが滅するとき、あれは滅する imassa nirodhā, idaṃ nirujjhati
わかりやすく、書き直すと、
Aが存在するとき、Bが存在する
Aが生成するとき、Bが生成する
Aが存在しないとき、Bは存在しない
Aが消滅するとき、Bは消滅する
となります。この内容を、原文の「ある」と「ない」を、「存在する」と「存在しない」に、「生じる」と「滅する」も「生成する」と「消滅する」に置き換えていきましょう。すると、
原因Aが存在するとき、Bが結果として存在する
原因Aが生成するとき、Bが結果として生成する
原因Aが存在しないとき、Bは結果として存在しない
原因Aが消滅するとき、Bは結果として消滅する
という当たり前の内容になります。Aが原因でBが結果という西洋的な因果関係として言い換えたことになります。
ところが、このような表現では、仏教哲学でいわんとすることからは、ずれていきます。置き換えとともに、AとBを因果として、一方向的で、線形的な関係と見なすことになります。
仏教哲学では、AとBの「ある」の関係を、単純化せず、Aが「ある」を、ある時、ある条件がたまたま整っていたために、Bが「ある」になったと考えます。「生じる」も「ない」、「滅する」も同様に、変化する条件の中で一時的に成立した関係と捉えます。つまり、因果の間に、変化する条件を考えることで、相互依存する関係を示してことが読み取れます。
似た文章を繰り返すことで、条件が常に変化していることや、変化が一方的でなく、相互に影響を与え合うこと、非線形で複雑で、なおかつ現在見えている関係が一時的なこと、と捉えていきます。
もう少し詳しく見ていきましょう。
仏教哲学では、直線的な因果関係があるはずという科学的方法論の見方を否定していきます。
ただし、因果関係を否定するのではなく、複雑な関係を「縁起」の概念を導入して包含してしまいます。因(hetu)と果(phala)を包み込むように、縁(pratyaya)と起(samutpāda)が関与していると考えます。「縁」は、「因」を助け、現象を成立させる条件や契機となるものです。「起」は、生起することで、現象が立ち現れる動的状態を意味します。「縁」とは条件群が静的で、「起」とは条件群によって現象が現れる動的な生成運動となり、異なった意味を持っています。
仏教哲学では、因果や縁起では、双方向や多方向な関係で、なおかつ相互依存や共起するような、複雑な「網状」構造となっています。因果と縁起も、相互に常に関係しながら変化し、時に生起し消滅していきます。
仏教哲学のある派(アビダルマ仏教)では、複雑な因果を六因・四縁・五果に分類して詳細に分析していきました。結果を生み出す直接的な原因を六因(能作因、倶有因、同類因、相応因、遍行因異熟因)に分け、因が果を生む際に作用する縁を四縁(因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁)に、因と縁によってもたらされ結果を五果(異熟果、等流果、離繋果、士用果、増上果)に分類しました。このような因果に関する考察は、西洋科学では見られない精緻さです。
変化する条件や関係ができると、「実体」が成立することになります。ところが、実体とは、条件や関係から生み出される二次的なものにすぎず、常に変化している「縁起」の中にあります。独立した実体(自性 じしょう、と呼ばれます)は、否定(無自性)されていきます。自性の否定は、固有の本質となる実体も、変化しない永遠不変や独立した存在(例えば、私の本質など)もないことになり、すべての固定された概念を否定し「無我」や「無常」へとつながります。
単純な因果関係を否定し、変化し続ける関係であり、変化が先行するので自性(実体)ないことになります。「有か無か」「生か滅か」といった二項対立や分析的な視点を否定することになります。
自性の否定から、実体は「空(くう)」であることを意味します。条件依存によって成立する「縁起」と、固有の本質(自性)を欠く「空」とは、同じこと意味しています(詳細は、別のエッセイで紹介します)。
苦の認識からはじまった考察が、複雑な縁起を認めることで、苦が自性がなく空であることにたどり着きます。苦も最終的に空であることを理解するために、実践していくことが、解脱への道となります。
縁起の論理を、苦の誕生の解明に適用したのが、十二支縁起と呼ばれるものです。苦の連鎖として、無明(根本的な無知・誤認)、行(無明に基づく意志的形成作用)、識(識別する意識)、名色(心と身体の複合体)、六処(六感覚器官)、触(感官と対象の接触)、受(快・不快・中立の感受)、愛(渇愛・欲求)、取(執着・固執)、有(存在への傾向)、生(誕生・再生)、老死(老い・死・苦しみ)を考えました。
なんらかの条件によって生じた「苦」は、条件を変えることで変化させられるという論理が、解脱の可能性を提供します。特に、無明→行→識の連鎖を断つことが、解脱においては重要になります。
この縁起の考えを、冥王代前期に転用していくと、次のような展開になるのではないでしょうか。
宇宙誕生、銀河の誕生、恒星の誕生など、さまざまな因果や縁起によって、地球誕生へとつながっていきます。さまざまな「因」により「起」として地球誕生に至ります。さらに、誕生直後の地球を「因」として、縁や起がからみ合い、冥王代前期の地質学的変化が進行していきます。地球誕生まで、そして冥王代前期が、たとえ不可知の領域であっても、因果と縁起の概念の適用というメタ的論理が導入可能ではないでしょうか。
地球誕生までの条件は変動していますが、他の学問分野の知見やモデルなどを導入することで、ある程度把握できます。それぞれの条件が異なれば、さまざまな地球が誕生していきますが、その中で「現在の地球」が「起」として固定されていきます。そして、その「起」とした地球を「因」として、「縁」と「起」が作用することで、検証可能な太古代の地球へと達します。このような考えを進めていけば、不可知領域を攻めていけるのではと考えています。まだまだ思索不足なので、もっと深く考えていこうと思っています。
・仏教用語・
仏教用語は、日本の日常語に多数入っています。
因果も縁起という言葉も、よく使われています。
「縁起が悪い」は、何が出来事があった時、
不幸や災いなどをもたらす
前兆や予兆に思えることで、
日常生活における不吉なジンクスです。
今回紹介したように、
縁起とは因果に深く関わった
複雑な内容をもった概念でした。
・防災・
最近警戒レベルが5段階に整理されました。
9月になって日本各地で大雨での
警戒レベル4や5の警報が
何度も出されることになりました。
河川や道路など整備が進められ
かなりの災害は防止できるはずなのですが
それでも災害は起こります。
これは、いたちごっこのようです。
自然は人間の想像を越えてきます。
防災は費用がかかります。
費用の限界が防災の限界となります。
現在の警戒は、早めの避難を促すものなっています。
災害からの最大の対処は、
可能な限り危険からは離れるしかありません。
それが最大の防災となるのでしょう。