2026年6月15日月曜日

297 仏教哲学 4:全体像

 仏教哲学のシリーズで、これまでの3編のエッセイは前置きでした。ここから仏教哲学の本題に入っていきます。仏教哲学の思索法の全体像を把握しておきましょう。これは、仏教哲学の概観をつかまえることもなります。


 仏教哲学は、何からはじまり、何を目標に、どんな方法で達成するのか、をみていきましょう。仏教哲学シリーズで展開していく概要の紹介ともなっています。
 仏教では、万人に共通する「経験」からはじまっていきます。「経験」とは、「苦しみ」を意味します。苦しみは、どの時代、どの地域、だれもが経験しているものです。そして、その苦しみからはだれもの解放を望んでいます。仏教哲学では、苦しみからの解放を、論理的に構築され、実践を通しておこなっていきます。
 苦しみからの解放までを、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)という「四聖諦(ししょうたい)」と呼ばれる過程で進めていきます。
 まず、「苦諦」では、苦しみという経験的事実を認定していきます。「集諦」は、その苦しみを観察していくことで、どのようなものかを判断していくことと同じです。
 苦しみも含めて、あらゆるものは変化し、相互作用をし、相互作用自体も変化していきます。すべてが変化し続けることを「縁起」といいます。縁起とは、あらゆるものは複雑な条件が相互作用することで起こり、固定されたものは何もないという考えです。縁起の概念は、不変の実体などないという「諸行無常」の気づきへとつながります。西洋的哲学では、真理の概念や科学的方法論において、不変の因果関係が存在するという前提があります。ところが、仏教哲学では、縁起を認めるので、不変性は否定されていくことになります。
 苦しみを「自己(アートマン)」という概念を導入して、さらに原因を深く追求し、その原因は、「執着(渇愛)」にあるという考えにたどり着きます。自己は、還元主義的分析によって、「五蘊」(身体・感受・知覚・意志・意識)へと分解されます。
 自分の意のままになるはずの自己で、苦しみが生まれることから、「諸法無我」という概念が生まれます。これはデカルトの「我思う故に、我あり(cogito ergo sum)」とは、明らかに異なった結果を導いています。
 執着をなくせば解決できる可能性として「滅諦」が生まれてきます。その道筋として「道諦(どうたい)」があり、戒(かい)、定(じょう)、慧(え)の「三学(さんがく)」で進めていきます。「戒」は道徳・規律のことでさらに3つに分けられ、「定」は集中・瞑想していくことで3つに分けれ、「慧」は知恵のことで2つに分けられています。三学は、8つに細分されることから、「八聖道(はっしょうどう)」と呼ばれています。
 戒によって生活が整い、定(瞑想)が可能になり、瞑想の中で真実の知恵(慧)が生まれるという連鎖構造になっています。これが苦しみを乗り越える滅諦のために実践の方法で、非常に緻密に考えられています。
 苦しみを乗り越えることを「解脱」といい、解脱により理解した全体像を「悟り」といいます。解脱すると、苦しみが解体されるため、安らぎの状態になり、「涅槃(ねはん)」の状態に達したといいます。
 悟りあるいは涅槃も、苦からの解脱という、論理や言語を超えた自身の経験となります。そんな素晴らしい経験なのですが、論理や言語では説明できないものです。なぜなら、そこには自分自身もなくなり(諸法無我)、因果関係も常に変動(縁起)している(諸行無常)ためです。ある人の悟りが、別の人の悟りと同じかどうかを、比べることができません。自身が悟った内容を、自分なりに解釈して、なんとか言語化しても、縁起のためある時点でのものに過ぎません。
 このような仏教哲学の方法論を、不可知領域の解明に利用できないでしょうか。冥王代前期が「不可知」であるということは確認しています。それを細かく解体していくことで、不可知への越境が体験できればと思っています。ただし、「可知」となっても、言語化できるかどうか、また他の「可知」と比較、検証は不能かもしれませんが。
 仏教哲学として、苦、無常と無我と涅槃、縁起、空と色、唯識、不立文字、無記、八正道などの重要な概念を、今後のシリーズで各論として紹介していこうと考えています。

・第二部について・
本エッセイででてきた、仏教固有の概念は
なかなか難しいものです。
それぞれの概念については、
以降のシリーズのエッセイで紹介していく予定です。
一通り仏教哲学の概要と概念がわかれば、
次は、より深い論理性について
考えていければと考えています。
それは仏教哲学シリーズの第二部として
無の論理を集合論的に見たらどうなるか、
仏教哲学にある四区分別から
龍樹の考えた四句否定についての
論理における矛盾と
そのねらいなどについても考えていきます。

・目的を忘れずに・
この仏教哲学シリーズでもっとも重要な目的は、
地質学の不可知領域解明にどう適用していくかです。
これが最終目的なので
見失うことなく、心に留めておきます。
その答えや方法論は、まだ手に入れていません。
今後、仏教哲学を参照して、思索を深めながら、
2、3年かけて考えていくつもりです。

2026年6月1日月曜日

296 深淵なる時間:Deep Time

 地球には、「深淵なる時間」が流れています。「深淵なる時間」を想像しようとしても、想像力の及ばないほどの長さです。ところが、地質学者には馴染みのある「深淵なる時間」です。


 科学的学術論文と文学とは、文体は異なっています。学術論文には、基本的に文学的表現は不要で、客観性をもって記述されていきます。学術論文の読者は、同業の研究者となります。演出として文学的表現も用いられることはありますが、ほんの少しでしょう。一方、文学には、学術的表現のような厳格で無味無臭の文体は、ほどんど使われません。文学の読者は一般市民です。感情や心が動かされる表現となります。
 両者の中間に位置するのがノンフィクションの分野になるでしょう。ノンフィクションは、一般人も研究者も読みます。ここでいう研究者とは、専門的な教育を受けて、専門的な成果を公表している人を考えています。ノンフィクションのテーマの中には、学術的な内容を一般市民にわかりやすく説明するというものもあります。
 ノンフィクションのライターとしては、研究者のこともあり、ジャーナリストのこともあります。研究者にも文章の上手い人がいるので、実際に自身が携わっている研究を紹介していくので、その臨場感がよく伝わり傑作もあります。一流のジャーナリストには、学術的に難しい専門的な内容を、一般市民にわかりやすく説明できる人も多くいます。そのような著書は、多く人に感銘を与えます。
 アメリカのノンフィクション作家にマクフィー(John McPhee)がいます。世界的に影響力を持つ「ザ・ニューヨーカー」誌の看板ライターの一人で、50年以上も寄稿しています。多様なテーマを扱いながら、緻密な取材をして、多数の事実を用いて、小説のように物語を展開していくスタイルのノンフィクションを執筆していました。文学的にも素晴らしい名文となっており、文学作品として高く評価されています。
 マクフィーは、地質学に関するノンフィクションも書いています。その中に、1981年出版の「Basin and Range(盆地と山脈)」があり、1982年には「地殻をたどる旅」として日本語版が出版されています。この著書は、地質学的な叙事詩として「Annals of the Former World(前の世界の年代記)」という一連の作品の第1巻に当たるものです。残念なが、もう入手できませんが。
 マクフィーの文章では、「構造の円環」と呼ばれる特徴があります。「Basin and Range」では、現在の進行している話の中に、突然三畳紀の過去へと飛び、再び車内の会話に戻ったりします。ひとつも物語を、地質学的なデータ、歴史的なエピソード、個人的な描写など、多様なものが、円環ながらか積み重ねられていきます。
 「Basin and Range」は、地質学者デフェイエス(Kenneth Deffeyes)と共に、アメリカ大陸を旅していく物語となっています。
 ニューヨークからサンフランシスコまで続く横断する州道80号線(Interstate 80)を、デフェイエスが運転する車で、西向かって旅をしていきます。道路の露頭に見える地層を、デフェイエスは「地球の歴史を横切る深い切り込み」といい、そこには、数億年前の地層がでていることを説明していきます。地質学の見方は、石ころから、数億年前の火山噴火や海の底を空想する4次元的思索をしていると紹介されます。
 ネバダ州では、現在、東西に引き伸ばされた、脆い部分が壊れ盆地(Basin)に、残った部分が山地(Range)になっています。これが著書のタイトルとなっています。やがて、盆地のある大地(ソルトレイクシティ)は、新しい海が誕生していくことを知ります。プレートテクトニクスによる大地のメカニズムの説明と、それが示す未来像を述べていきます。
 そして、話題は18世紀のスコットランドのハットンに円環していきます。ハットンは不整合を発見して、地球の年齢が聖書の記述より遥かに古いことを示したことを紹介します。その時、マクフィーは
 Numbers that specify shell depths in the abyss of time
 (時間の深淵に沈んだ貝(化石)の深奥さを示す数値)
という表現をしています。この文章の中で、shell depthsとは、貝殻の厚さだけを意味するのではなく、厚い地層に埋もれた貝化石の長い時間(abyss of time)を意味しています。続いて、
 The mind may checkmate itself at the thought of a thousand years, but it quickly yields to deep time.
 (精神は1000年という時間を考えるだけでチェックメイトに陥るかもしれないが、深淵なる時間に対してはすぐに屈服してしまう。)
という説明をしていきます。
 ここで、「deep time(深淵なる時間)」という言葉を使っています。人間は1000年という時間を考えると、その長さに思考停止してしまいます。ところが、もっと長い「deep time」は、想像をはるかに越えているため、理解することを諦めてしまう、ということです。「deep time」は素晴らしい表現です。つまり、地質学の対象には、人間の想像力の及ばないほどの長時間が流れていることを述べています。
 「deep time」の感覚は、ハットンが1788年に発表した論文の結論部分に、
 The result, therefore, of our present enquiry is, that we find no vestige of a beginning, - no prospect of an end.
 (したがって、我々の現在の探究が導き出した結果は、はじまりの痕跡も見当たらず、終わりの見込みもない、というものである。)
という文章があります。この文章では、地質学がもっている長い時間を象徴的に表現しています。地質学で流れる長い時間は、想像もできないようなものという意味でもあります。
 さらに著書では、当時、提唱されてまもないプレートテクトニクスという学説がパラダイムシフトを起こしていることが示されます。最後に、地質学的な視点によると、日常に見ている風景が、ダイナミックな変化の中では、一時的なものでしかないことを示します。何億年という時間スケールの中では、人間の小ささを感じます。
 マクフィーの著書では、人が自身で体感できる数十年を越えて、1000年になると体感不能になり、思考停止(checkmate)してしまうとしています。さらに、地質学的な時間になると、理解すること、想像することすら諦めねばならず、屈服(yields)してしいます。それを、「deep time」と表現しました。短い単語ですが、その背景を詳しく述べた上での文学的表現での「deep time」はインパクトのある美しい表現です。
 私にはこんな素晴らしい表現はできません。でも、わかりやすく、自身が感動した自然や地質の背景で生じた思索を伝えられればと思っています。ただ、マクフィーより優位に立てる点があります。それは、私が地質学者デフェイエスの側にいる点です。この「deep time」には馴染みあります。露頭の前では、常に感じるている身近な思いになっています。日々、地層と向き合っているということは、常に「deep time」とも向き合うことになります。ただ、マクフィーのような表現はできないのですが。

・最適語探し・
マクフィーの書籍は入手できません。
古本でも探したのですが、入手不能でした。
ただ、大学の図書館に
「ノンフィクションの技法:ピュリツァー賞作家が明かす」
があったので、借りて読みました。
英文タイトルは
「DRAFT NO. 4: On the Writing Process」
(ドラフト第4稿:執筆プロセスについて)
となっていました。
原稿も第4稿までくれば、ほぼ完成ですが、
マクフィーは「最適語探し(mot juste)」を
最後まで続けていきます。
mot justeとは、フランス語の単語です。
そんな最適語探し中で
deep time(深淵なる時間)
も発見したのでしょうね。

・登別・
6月になりました。
北海道は、花が一杯咲く、いい季節です。
以前、チラシ広告で安いパック旅行を見つけました。
一泊だけですが、
夫婦で登別にでかけることにしました。
何度も訪れて宿泊しているところですが、
地獄谷で火山を見るだけでなく、
水族館やウポポイなども興味深い施設もあります。
好きな観光地です。
観光客がどの程度いるかわかりませんが、
のんびりと、無理せず見て回ろうと考えています。