宗教では、神の存在が前提となっています。古くから、神の存在を論理的に明らかにしていくこと、証明していくことは、神学だけでなく、哲学でも重要な目的となってきました。神の存在証明なんて、できるのでしょうか。
多くの宗教では、神の存在が前提となっており、それはキリスト教のように教典で示されてもいます。宗教として組織や体系が整ってくると、教義や教典に対して、深い考察ができるようになってきます。そこから論理的により「神の存在証明」が試みられるようになってきました。
神学だけでなく、哲学でも、神の存在証明は重要なテーマとなってきました。長年、多くの神学者や哲学者が、いろいろな証明を試みてきました。証明は、大きく存在論的証明、宇宙論的証明、そして目的論的証明の3つに区分されます。以下でその証明の概要を見ていきましょう。
【存在論的証明】
存在論的証明とは、11世紀にアンセルムスが示した方法で、概念を分析していくことで、論理的に神の存在を導き出そうとするものです。
この証明では、神を「それより偉大なものが考えられない存在」と定義します。この定義は、だれもが理解できるので、神は少なくとも知性(理解)の中には存在することになり、「概念としての神」は考えられれます。そして、「概念だけの神」と「実在する神」とを比較していきます。
以降、誤謬法的方法論で証明が進みます。もし神が「概念の中だけに存在する」ならば、同じ性質をもち、さらに「現実にも存在する神」を考えることができます。これは、「実在する神」の方が「概念だけの神」より価値があるはずです。「実在する神」の方が「より偉大なもの」になってしまいます。この結論は、最初の「それより偉大なものが考えられない存在」という定義に反することになります。これは仮定が間違っていたことになります。
そこから「概念だけの神」も、「実在する神」も存在することになる、という証明方法です。
同時代の修道士のガウニロ(Gaunilo)は、この論法を用いれば、架空のものの存在を説明できてしまうことを指摘しました。「概念から存在は出てこない」という直観的な疑問ですが、存在論的証明には、問題があるようです。
地質学の例を示しましょう。「ゴールデンスパイク」と呼ばれる時代境界が定められています。ある時代の境界をゴールデンスパイクとして定義するために、露頭(境界層序タイプ地域および断面、GSSPと略されます)が選定されます。露頭として、地質学的記録は、堆積速度も一定で連続して存在し、生物相も入れ替わりも完全に保存されている「完全な断面」が理想となります。
これに、アンセルムスの論法を適用すると、「完全な断面」の概念が存在すると仮定すると、現実の「完全な断面」が存在しなければ、定義が見させなくなります。したがって、「完全な断面」は地球のどこかに現実に存在するはずです。
ところが、現実の地質学的記録はすべて不完全で、現実の地層で「完全な断面」の存在は証明できません。概念的定義を、現実の実体に投影しても一致するとは限らない事例となります。
カントもこの証明を批判しています。定義から存在を導くのは「存在」を性質(術語)として扱っていることが論理の飛躍だと指摘しました。つまり、存在は述語ではないという論理で批判しました。
先程の例でみていくと、ある時代境界で「完全な断面」という概念を構築したとします。「完全な断面」という定義に「存在」を付け加えたため、それは「完全な断面」という概念が複雑になっただけで、露頭がどこかに実在することを意味しません。概念を精密に定義しても、現実の存在を証明する力はないのです。
【宇宙論的証明】
宇宙論的証明は、中世のトマス・アクィナスによるものが有名です。世界という客観的な事実から出発して、最終的根拠を神に求めるという論法です。直感的、物理的な論法なのでわかりやすいものです。
まず、宇宙には運動や原因があり、事物は存在したり存在しなかったりする(=可能的存在)ものがある、という経験的事実を前提とします。ある結果には原因があり、その原因にもさらなる原因がある、という因果を無限に遡り続けることは、論理的には不可能です。連鎖の起点としての原因となる不動の存在、最初の因果(最初の一撃)となる第一原因、可能的存在を生み出す必然的存在が、必要になります。それが神であるという論理です。
批判もあります。無限に遡るのが、なぜ不可能なのかという点です。数学に「無限」の概念が存在するように、無限の遡及があってもいいはずです。もし無限が適用できるなら、第一原因などのはじまりを設ける必要もないのです。さらに、第一原因が必要だとしても、それが神によるものとは限らず、自然法則やエネルギーの揺らぎなど、別の原因かもしれません。
地質学では、冥王代が地質時代のはじまりとなっています。ところが冥王代の地質学的記録は、ほとんど残っていません。冥王代の記録の不在は、地質学的な検証が困難な部分であり、それを「神が為した」とするのは、「隙間の神(God of the gaps)」論法に陥ります。科学的に未解決な領域(隙間)を神の存在や介入で説明するのは、論理の飛躍になります。
カントは、この論法は、自然現象を、宇宙の起源という因果へ、という定義域を逸脱した適用をしていると批判しました。
火成岩はマグマから形成され、マグマには熱源が必要です。マグマはマントルの熱によって形成されます。マントルの熱は、地球形成時に蓄えられたものです。地球形成時の熱にも第一原因が必要になります。そのような第一原因として神による、という論理になります。これは、地球の熱源という因果律を、地球形成という異なったカテゴリーへと適用しています。これは、適用範囲を逸脱した転用となります。
【目的論的証明】
最後に、目的論的証明です。古代ギリシアから用いられていた論法ですが、ウィリアム・ペイリーの「自然神学」(1802年)で有名になりました。
複雑で精巧な機械(例えば、時計)は、知的な設計者(時計職人)によって作られたはずです。自然界にあるもの(目や細胞)を観察すると、機械以上に複雑で精巧な秩序や仕組みを持っているものがあります。したがって、自然界には知的な設計者(=神)が存在するはずという論理です。この論理では、経験に基づいた類推(アナロジー)が用いられているため、「時計職人の類推」と呼ばれています。
地質学のプレートテクトニクスは、非常に精巧なシステムとなっています。マントル対流の上昇部に海嶺があり、そこで新しい海洋地殻(海洋プレート)が形成され、海洋地殻は拡大し海洋底を移動していき、やがて海溝で沈み込み、マントル対流の下降流となります。これで、マントル対流が地球内部で一周したことになります。海溝の陸側では島弧地殻が形成され、時間がたてば大陸地殻へと成長していきます。このように地球の営みは、マントル対流によって連鎖的に引き起こされているものが多数あります。
プレートテクトニクスは、適切な速度や、最適なタイミングで機能する精巧なメカニズムにみえます。地質学的営みは、プレートテクトニクスという精巧な仕組みを設計した「偉大なる建築家」が存在するはずです。「偉大なる建築家」として神が存在していたというのが、目的論的証明の例となります。
しかし、精巧さや複雑さに、設計者や知性的存在が必要とするのでしょうか。生物の精巧さや複雑さは、ダーウィンの進化論で、知性の存在という前提が覆されました。また、ヒュームは、機械と自然を類比するの無理があり、機械には失敗作や複数の設計者がいます。それを神に類比していくと、完全性や唯一神を否定していくことになります。
カントは、この3つの証明のうちでは、目的論的証明が最も自然で説得力があるとしています。しかし、神の存在までは証明できない、と考えました。時計があるとすると、それをつくった時計職人がいたことは推論できます。しかし、時計職人が時計の材料を無から創造したことまでは証明できない。秩序ある世界から推論できるのは「世界の建築家」の存在にすぎず、「世界の創造主」の存在は証明できないと、批判しました。自然がどんなに精巧であっても、組み立てた職人がいたことにはなるが、無から創造した知的な設計者はいたことにはならない。
精巧で複雑さマントル対流から生じる地球の営みは、それを組み立てた職人(地球内部の熱による対流)の存在は証明できるが、地球の熱を創造した知的な設計者まで証明できない、となります。
ここまで3つの神の存在証明をみてきましたが、優れた知性をもった多くの賢者たちが、この証明に挑戦してきました。しかし、証明は成功しませんでした。論理的証明とは、人間味や心などが混入してはいけない領域です。その証明を成すのは人間です。また、証明の対象となる神は、その存在を信じたいと思う人も熱心に証明していきます。そうなるとどうしても、人の気持ちや心情が、証明に混入していきます。しかし、冷徹に論理をチェックしたもの哲学者でした。
・速く過ぎた秋・
10月はあまり天気がよくなったようです。
秋の紅葉も十分に味わう前に、
一気に進んでしまったようです。
これは、私自身の術後の体調不良によるため
ほとんど外出することなかったためでもあります。
少しずつ体調も戻ってきているので
11月になれば、自然の変化を
もっと身近に味わうことができるはずです。
・急な上京・
11月上旬、急な私用で
横浜に1泊2日ででかけることになります。
私用なので、妻と一緒です。
航空券も宿泊も、急だったので
かなり高額になりましたが、
必要な所用なので仕方がありません。