2007年12月1日土曜日

71 テセウスの船:同時性と同一性(2007.12.01)

 地質学では同時性と同一性が、悩ましい問題となることがあります。そのような問題を表す言葉として同時異相というものがあります。今回は、同時異相について考えていきます。

 皆さんは、テセウスの船というものを御存知でしょうか。
 テセウスの船は、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシアの著述家プルタルコスが著したギリシアの伝説の中に、登場する話です。
 テセウスは、クレタ島にいたミノタウルスを倒し、アリアドネの糸を頼って迷宮から抜け出しました。そして、助けた若者と共に、船でアテネに引き上げてきました。そのときテセウスらが乗ってきた船が、後の時代まで残されていました。時がたつと共に、船をつくっていた木材が腐ってきたので、新しい木に置き換えられながら、船は保存されていました。このテセウスの船の木材が、順次新しいものに入れ替えられていって、もしすべて新しい木材で置き換えられたら、果たしてこの船は、テセウスの船と呼べるのでしょうか。
 プルタルコスは、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものといえるのかという疑問を投げかけています。このテセウスの船は、同一性を考えるための一種のパラドクスとして知られるものです。
 地質学では、自分が調査している地域内に見つかった同じような地層があったとき、それが同一で連続した地層であることを示さなければならないことがあります。地層の同一性を示すには、いろいろな方法があります。
 例えば、地層を構成する岩石が同じであること、地層から産する化石が同じ種類のものであること、地層の時代が同じであること、上か下の地層で特徴あるものを見つけてそれを鍵にして対比することなど、いろいろな同一性の手がかりから証明していきます。
 しかし、これらの証明法は、間接的で傍証というべきものです。論理的には、同一であることを直接示しているわけではありません。一番確実な証明方法は、一つの地層を、比べたい地点まで、追跡していくことです。一つの地層が見える限り追跡しています。もし露頭が地下で見えなくても、現在の技術をもってすれば、ボーリングなどをすれば、見ることができます。もし断層などがなくて、大地が連続しているならば、地層を追いかけていけば、最終的に目的の地点まで地層が連続しているかどうか確認できるはずです。
 まあ、現実的あるいは技術的にはそのような追跡は困難ですから、両地点の間に露頭をできる限り見つけて、そこで連続性を追いかけることになります。追跡のときに手がかりになるのが、化石や特徴を持った地層です。このような特徴的な地層を、鍵層(key bed)と呼びます。
 鍵層にはいろいろなものが使われますが、一番有効なものとして、特徴的な火山灰層があります。特徴的な火山灰層とは、ある火山のある時代の噴火によって放出されたものという意味です。火山灰の堆積は、地質学的には同時とみなせる現象です。ですから、火山灰の鍵層は、同一時間面つまり同時性を示すものなのです。
 もし、2つの火山灰層に挟まれた地層があるなら、2つの火山活動の間に溜まったものですが、厳密には同時とはいえませんが、かなり限定された期間に溜まった地層とみなせます。ですから、同一性を証明するために、鍵層は非常に重要な手がかりとなります。
 2枚の鍵層があり、その2つの間の地層を比べたとします。地層には特徴的な化石も含まれているとしましょう。ただし、比べたい両地点の間の関係は、不明です。
 さて、2つの地点で地層を比べたところ、2つの鍵層が両地点から見つかりました。しかも、間の地層からも同じ化石も見つかりました。しかし、自然現象では、時々不思議なことが起こります。比べたい地層がみるからに違うものだったのです。さて、この地層は同一といえるのでしょうか。
 地質学的には、同一としていいような証拠があり、しかし同じとするには、地層の内容が違いするぎるという場合です。実は、このようなことは、距離が離れた地層の対比をする場合には、よくあることなのです。
 これは、テセウスの船のパラドクスと似ていると思いませんか。このパラドクスを解くには、地層のでき方を理解していく必要があります。
 一般に一つの地層は、土砂が海底に流れ込んでできます。土砂が流れ込むと、傾斜のゆるい海底では土石の流れは弱まり、やがては流れがとまり、一枚の地層ができます。地層の形成は、短時間に限られた範囲で堆積します。似たように時期に、別の川で発生した土石流が、同じ堆積場に流れ込んだ場合、上の例のような地層の関係ができます。これは、地質学においては、それほど特別な現象ではありません。なぜなら、堆積場がそのような環境であることが多いからです。
 一つの地層に注目すれば、周辺では薄くなってやがては消えていきます。逆に他方の地層が、だんだん厚さを増していくことがあります。このように地層がだんだん薄くなってやがてなくることを尖滅(せんめつ)と呼んでいます。時には、2つの地層が指を組ませたような入り組んだ関係(指交関係)になっていることもがあります。同時代に近くで溜まった地層で、両者の性質が違うものは同時性を持っていますが、同一性を欠いています。このような地層の関係を地質学では「同時異相」と呼んでいます。
 地層とは、無限に続いていくものではなく、どこかでやがては消えていくものなのです。しかし、両者を橋渡しをするような鍵層や化石があれば、同時性を手がかりにして、対比することが可能となります。
 このような地層の同時性と同一性の検証の繰り返しによって、その地域のある時代の特徴を編むことができます。それらの時代ごとの特徴を積み重ねていけば、その地域の地質学的歴史、つまり「地史」が出来上がっていきます。
 テセウスの船は、同一性を考えるためのパロドクスでした。同一性は同一律や自同律、同一原理などと呼ばれ、論理学では正しい思考をするために従うべき基本的な法則の一つとされています。
 同一性とは、AとBがあったとき「A=B」のことですが、古くから哲学では、重要な問題とされています。
 ライプニッツの考えによれば、識別できない2つの個体は存在せず、それを同一とするというもので、「不可識別者同一の原理」と呼んでいます。この原理は、Aの持つ全ての性質をBが持ち、またBが持つ全ての性質をAが持つとき、「A=B」が成り立つというものです。同一性は、神と人間を区別したり、実体を判別したりするために、非常に重要な役割をもってきました。
 一見当たり前のようにみえる同一性も、厳密に考えていくと、いろいろややこしい問題を含んでいることがわかります。テセウスの船のパラドクスへの答えも、考え方によって違ってきます。
 アリストテレスのテセウスの船に対する考えを紹介しましょう。アリストテレスは、事象の原因を4つに分け(四原因説)て考えました。その原因に基づいて解釈すれば、このパラドクスは解ける考えました。
 テセウスの船が「何であるか」(形相因)を考えるのであれば、設計などの本質が変わっていないため、「同じ」とみなされます。「何のためものか」(目的因)という点で考えれば、テセウスが使った船という目的は変わっていないので、「同じ」とみなされます。「誰がどのように作ったか」(動力因)とみれば、最初に船を作った職人と同じ道具や技法を使って修理(部品の置換)をしたのだから、「同じ」と考えることができます。ただ、「何からできているか」(質料因)と考えれば、時と共に材質が変わっているので、全部置き換われば、もはや「同一」とはいえなくなります。
 これが、アリストテレスの答えです。
 地質学では、「何からできいるか」という質料因や「何であるか」という形相因を問うものなので、同時性が保障されたとしても、同一性の証拠になりません。
 「同じ」というのは、一見当たり前のことに思えますが、よくよく考えると、そこには複雑な問題があるのです。

・心の余裕が必要・
いよいよ師走になりました。
今年も残すところ、あと1年となりました。
北海道は例年になく寒い冬を迎えています。
今年は、暑い夏と寒い冬でした。
特に原油の値上げという
北海道にはなかなか厳しい冬になります。
それでもなんとか私たちは暮らしています。
現状を、悲観的に捕らえてしまうのは、
私たちが経済に影響を受けすぎているためではないでしょうか。
経済にだけ極度に敏感になりすぎているようです。
季節の変化や自然の変化に
もっと目を向ける必要があるのではないでしょうか。
自然に目を向ける心の余裕が必要ではないでしょうか。
師走の初めにそんなことを感じています。

・困難さ・
今回紹介したのは、地質学でも地層だけの話です。
上で述べたように、地層においても、
同時性や同一性を厳密に認定するのは
なかなか困難な検証を必要とします。
火山岩や変成岩では、同時性や同一性は
もっと複雑な様相を呈します。
火成岩の同一性とは何なのか。
変成岩の同時性とはどの現象を指すのか。
なかなか判断できない
一筋縄でいかない困難さがあります。
大地の生い立ちを探るのは、一苦労です。
ですから、それを解いた感激は
何物にも変えがたいものなのです。

2007年11月1日木曜日

70 バウハウスの原則:アンモナイトの渦巻き(2007.11.01)

 アンモナイトの渦巻きには不思議な美しさがあります。かたや人間の作り上げた極地として人工の機能美があります。そんな関係を探っていきましょう。

 だいぶ以前ですが、オーストラリアに行った時、田舎の小さな土産店でオームガイの貝殻を見つけました。私は、それまでオームガイを博物館や本でしか見たことがありませんでした。値段もそんなに高くなかったので、すぐさま「そのノーチラスを下さい」(オームガイは英語でノーチラスといいます)といって買いました。そのオームガイは、自宅の居間に飾ってあります。オームガイは、今ではそれほど珍しいものではないようです。
 オームガイは、南太平洋からオーストラリア近海の水深100m~600mに棲んでいます。その祖先は古生代のオルドビス紀に誕生しましたが、それ以降ほとんど形態的には進化していない、「生きた化石」と呼ばれています。
 オームガイは絶滅したアンモナイトと近縁だと考えられていましたが、最近では、少し違った考え方が出ているようです。アンモナイトは、オームガイよりも、現在のイカやタコに近いとされています。しかし、オームガイと似た生活をしていたと考えられています。
 アンモナイトは、古生代のデボン紀から中生代の白亜紀末まで生きていた海棲の生物です。殻をもつ頭足類ですが、絶滅種です。殻は、オームガイではあまり多様性を持たないのですが、アンモナイトは多様な進化をとげ、1mを越える直径を持つ大きなものも発見されています。こんな大きくて重い殻をもっていて、本当に泳ぐことができたのか心配になるほどです。
 そこには、自然の巧みな仕掛けがありました。普通の巻き貝では内部が一つにつながっているのですが、オームガイやアンモナイトでは多数の小部屋に分かれています。一番外の小部屋を住みかとしていて、奥の小部屋はカラになっていて、その空き部屋が浮力を生み出していたと考えられます。その浮力によって、海中を自由に動き回れたと考えられています。
 さて、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は、規則的で非常に「きれい」に見えます。「きれい」とは、人をひきつける何かがあるということです。その「きれいさ」を科学することはなかなか難しいのですが、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は解明されています。
 オームガイやアンモナイトは成長するとき、常に同じ形(相似形)を保ちながら成長しようとします。うずまき状の曲線として、ある規則性が発生します。その規則性は、対数らせん(螺旋)と呼ばれるものです。対数らせんは、どこで切ってもすべて相似な曲線となります。対数らせんは、黄金比の長方形に内接するものです。
 黄金比とは、最も均斉のとれた美しい長方形といわれるものが持っている比率です。その比率は、長方形の短い方を1とすると、(1+√5)/2(約1.618)という値になります。これはギリシア時代から知られている比率です。少々ややこしい値ですが、詳しく見ると不思議な規則性があります。
 黄金比を持つ長方形は、短い辺を一辺とする正方形を取り除くと、残った長方形もやはり黄金比を持つ、つまり相似の長方形が現われます。それを繰り返していき、正方形の対角線上に滑らかな曲線を引くと、そこに対数らせんが現われます。
 黄金比や対数らせんの「きれいさ」は、多くの芸術家や建築家が無意識に使っています。ギリシャのパルテノン神殿やミロのビーナスには、いたるところに、黄金比が用いられています。また、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にはらせんの構図が用いられています。
 対数らせんは、生物の成長と重要なかかわりがあります。例えば貝の殻や爪、髪、角、甲羅などは、少し伸びても全体としての形が変わらない様に、常に相似形を保ちながら伸びていきます。このような自然界の「きれいさ」の規則性を解き明かせたのは、まだホンの一部にすぎません。
 もっともっと深い何かが自然界のいたるところにあるはずです。そんな自然界の機能美を見る時、私は「バウハウスの原則」というものを思い浮かべてします。
 「バウハウスの原則」というのを御存知でしょうか。バウハウスとはドイツ語のBauhausのことで、Bauとは「建築」という意味で、hausは「家」のことで、「建築の家」という訳になります。
 何のことかわからないと思いますが、バウヒュッテ(Bauhutte)をもじった言葉です。バウヒュッテとは、「建築の小屋」の意味で、中世の建築職人組合のことでした。それをドイツの建築家のヴァルター・グロピウスがもじって、バウハウスというものを用いました。
 バウハウスとは、1919年にドイツのワイマールに設立された美術学校の名前です。この美術学校では、工芸・写真・デザインや建築に関する総合的な教育がされた学校でした。しかし、学校として教育が続けられたのは、1933年まででした。たった14年間しか開校していませんでした。閉校に追いやったのは当時ナチスでした。
 建築は、一般にアーキテクチャーという言葉が使われています。しかし、庶民的な言葉であるバウ(建築)という言葉を使ってるところに、深い意味があります。つまり、芸術あるいは建築は、特権的階級に対してではなく、全ての人に通じ、利用されるものだという意思表示なのでしょう。
 たった14年ですが、バウハウスは、モダニズム建築に大きな影響を与え、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともります。そのようなバウハウスの芸術精神が「バウハウスの原則」と呼ばれるものです。
 「バウハウスの原則」とは一言でいうと、「形は機能に従う」というものです。特権階級が好むような贅を尽くしたような装飾や虚飾を取り去り、機能や構造を追及すれば、そこには自ずから美が生まれるという精神です。
 これは、何も芸術の世界だけではないように思えます。先ほどのオームガイやアンモナイトなどの生物の形態などは、その好例ではないでしょうか。生物の形態には、無駄で意味のないものはなく、何らかの必然性に基づいて生まれているのです。
 先ほど挙げたアンモナイトの対数らせんや黄金比の規則性は、成長しても形が変わらないために生まれた必然でした。それが黄金比というものを利用しているために、「きれいな」渦巻きに見えたわけです。
 自然界には、人が見ても「きれい」と思えるものはいろいろあります。詳しく見ると二つとして同じものはないはずなのに、そこには隠された規則性、機能美があるのです。私たちは、自然界の造形美を科学で解き明かすには、まだまだ時間が必要なようです。「きれいさ」、美とは奥深いものですね。

・オームガイ・
オームガイは、今では南国の日本の土産物屋さんでも
見かけることがあります。
海外から輸入しているのでしょうけれど、
その美しさには、なかなか目が惹かれます。
装飾用に栄えように、磨いて銀色していることがあります。
あるいは半分に切断して、
隔壁をよく見えるようにしているものもあります。
オームガイは自然物ですから、
その美しさはバウハウスの原則に則っています。
しかし、それを見栄えをよくためだけに磨いたり切断するのは、
虚飾の一種ですから、明らかにバウハウスの原則に反します。
しかし、手は加えていますが、
自然の美を強調しているだけという見方もできます。
美とはなかなか奥が深いようです。

・知的パズル・
黄金比は、ギリシアの彫刻家ペイディアスが
初めて使ったといわれています。
黄金比をレオナルド・ダ・ヴィンチも
発見していた記録が残っているそうです。
「黄金比」は1835年にドイツの
数学者マルティン・オームの著書でだったそうです。
美しさを多くの人が古くから知っているのに、
その美しさが数学的に解明されるには、
長い時間が必要だったようです。
アンモナイトの規則性を見ると、
美という、数値では非常に示しにくいものが、
いったん数式として解明されると、
そこには単純で「きれいな」規則性があったということです。
「きれいさ」を追求したら、そこに数学的美しさがあった。
これは、非常に不思議な気がします。
その意外な「きれいさ」を知った時、
多くの人が自然の奥深さに感心するでしょう。
美の解明とは、自然が人類に与えれくれた、
非常に難しい知的パズルのような気がします。

2007年10月1日月曜日

69 価値ある研究者(2007.10.01)

 研究とは本来好奇心に基づくものです。しかし、捻じ曲げられてきているような気がします。独創性を巡る優先権の争いも、そんな表れでしょう。素直に好奇心に基づく研究など、現在では、もはや夢の話なのでしょうか。

 なぜ、研究者は、研究をするのでしょうか。それはもちろん、自分の好奇心にかられて、好奇心を満たすために研究をするのでしょう。研究を続けるためには、好奇心を自分の心の中に持ち続けていなければなりません。
 ところが、職業として研究者になると、好奇心に導かれて自由に好きなだけ研究をすればいいというわけではありません。いろいろな「しがらみ」があります。まず、研究成果を出すことが求められます。その成果に対して、いろいろな評価を受けます。
 その成果や評価によって、研究テーマや手法、方向性が変わったり、好奇心が抑えられたり、捻じ曲げられたりすることが起こってきます。まあ研究者とはいえ、社会的生活を営んでいますから、これは仕方ないことでしょう。
 もちろん、研究成果を社会に反映することは重要です。今まで研究者があまりそのための努力をしてこなかったので、研究成果の社会への還元が重要であると認識されてきました。その成果の重要度を客観的に示すための方法がいろいろ公開されています。たとえば、他の人の論文にどれくらい自分の論文が引用されたかを示す指数(citation index)や投稿した雑誌のランク(impact factorなど)によって判断されます。
 研究者には、自分の意思と関係なく、論文数やその評価が出されます。誰でも、他人が自分のことをどうみているかは、それなりに気になります。できれば、いい評価を受けたいのは、誰でも同じです。そのような評価を良くするために、たくさん論文を書こう、どうせ論文を投稿するならランクの高い雑誌にしよう、などという配慮が働きます。
 もっといえば、いい評価がでるようなテーマ、いい評価のある指導者につく、有能な研究者を集める、研究資金を調達するなど、本来の研究動機とはかけ離れた目的で研究が進むことがあります。若手研究者でいいポストに異動しようと考えている人、先端の研究をする人、多くの研究費をとろうと狙っている人などの、論文数と共にそのような指数なども気にして研究しています。これは、当然の傾向といえるでしょう。そうしないと、仕事も見つからないし、いい研究者も資金も集まらないし、評価も良くなりません。
 研究とはもともと好奇心に駆られて行ったことですから、こんなに面白いことがわかったと、それを世間の人に知らせたい、という非常に単純で純粋な動機があったはずです。今までの好奇心の整理として、成果報告がなされてきたはずです。今や、このような好奇心に基づいた研究はなかなかしづらくなってきているようです。
 研究の評価におて一番重要なのは、その独創性とその優先権です。どんな研究でも、好奇心に基づいて行っていることであれば、その興味を持ったものに、すでに他の人が答えを出しているのであれば、その答えをみれば自分が手を下すことなく好奇心を満たすことができます。
 先行研究を調べることが研究のスタート、つまり好奇心を満たすためのスタートです。今までどれほどのことが知られているのかを、調べなかればなりません。もし、それを怠って、すでに誰かが行っているようなことを、自分の独創的成果として公表すると、自分にとっても人類にとっても無駄なことです。十分調べれはそのようなことはないはずなのですが、科学者が増えていること研究論文数も多くなり、先行研究をすべて調べるとこは不可能になります。時に、すでに成果を出している人がいると優先権を侵害することにもなります。もしその独創性に特許などの利害が絡んでいると、問題は複雑になります。
 最近私は、地質調査や記載における新手法の開発や、地質学や科学の教育にいろいろ工夫を加え、新しい手法や方法論を提示することを中心に研究しています。先月末にも論文を書き上げ投稿しました。その論文では、新しい電子機器の使用による地層記載の新手法を開発することが内容となっていました。
 論文には、先行研究の引用文献が不可欠となります。現在、多くの人が興味を持って研究している分野は、関連した多くの研究があります。今回の論文は、新しい視点での手法開発ですので、ほとんど先行研究がありません。自分自身が以前行った研究も重要な先行研究になります。自分の研究を引用しても、文献が少なくなります。それだけ独創性がある研究(?)のはずなのですが、引用文献が少ないと、「これで大丈夫かな」という不安な気持ちになります。
 自分が興味をもって行った研究の成果を、世間に公開するのが研究論文です。論文とは、人類の知的資産に今までなかった成果を加えることが重要な目的となっています。ですから、今まで誰も出してない独創的なものであるべきです。研究者とは新たな知的資産を加えることが重要な任務であります。
 でも、この独創性や優先権とは何かと考えると、非常に難しい問題になります。
 例えば、ある一人の地質学者が、今までだれも行ったことのないところで、だれも見たことがない化石を発見したとしましょう。誰も見たことのない化石を記載すれば、大発見の非常に高い独創性のある研究成果となります。この化石の記載報告には、先行研究は少ないでしょうから引用文献も、それほど多くないはずです。
 本当にその研究成果は、その研究者だけによるものでしょうか。その地域で地質調査するための経験、化石を記載するための技術、その化石が新発見であると識別する知識などは、彼の独創性によるものではないはずです。つまり、科学者として一人前になるために、多くの指導者の教育を受け、専門の知識や技術を身につけたはずです。そのような経験や知識は、彼自身が生み出したものではなく、人類が長年かかって積み上げてきた知的資産の上になり立っているのです。ですから、彼の独創性は多くの知的資産の元に成り立っています。彼の成果は、その化石を発見して、人類の古生物の知識に新たな化石を一つ付け加えただけにすぎないのです。大発見かもしれませんが、一つの成果に過ぎません。
 新たな知識や独創性に、高低や貴賎があるのでしょう。評価を気にする人にとっては、その高低こそが重要と考えるでしょう。しかし、評価は相対的なものです。長い目で見れば、時間が経過すれば、評価も変化するはずです。今は評価が低くても、後の時代に高い評価が出るものもあります。成果の高低よりも、新たな知識や独創性を一つ付け加えた事実を重くとらえるべきではないでしょうか。
 人類にとって価値ある研究者とは、好奇心を維持し、その好奇心によって新たな知見を得て、それを一つずつ公表し続けている人をいうのではないかと思います。さてさて、私は、そんな研究者といえるのでしょうか?私は、年に数編の論文を書いてますので、数を云々かんぬんいわれることはないと思いますが、好き勝手な研究ばかりしているので、評価は低いんでしょうね。

・秋・
いよいよ10月です。
先週の連休に北海道の最高峰の旭岳に登ってきました。
紅葉が始まっていました。
しかし、登山の翌日の夜には初冠雪があったとニュースで報じられていました。
もし、一日ずれていたら登山はできなかったでしょう。
快晴の天気にも恵まれ、旅館も連泊でき、幸運でした。
その紅葉は一気に平野に下りてきそうです。
近所のナナカマドも色づいてきました。
北海道は、9月中旬まで結構暑かったので、
9月下旬から急激に涼しくなり、一気に秋めいてきました。
体調を壊す人もでています。
我が家では家内と長男が風邪を引きました。
皆さんの地域は、もう秋めいてきましたか。
我が家では、今年の冬に備えて
先週ストーブをオーバーホールに出しました。
考えることは誰も同じなので、整備会社も混んでいます。
しばらく時間がかかりそうですが、今週には出来上がります。
厚着さえすれば、それほど寒くないのですが、北海道では
寒いと暖房が当たり前なので、季節にかかわらず暖房を点けてしまいます。
家全体を暖め凍結を防ぐということもあるのですが、それはいいわけでしょう。

2007年9月1日土曜日

68 知の集積:デジタル図書館(2007.09.01)

 古今東西の書籍、雑誌が、いつもで手軽に自由に閲覧できたらいいなと、だれもが思います。それは、まさに人類の知を、手に入れたと同じことになります。ただそこには著作権、営利、費用など、非常に人間的な配慮が必要な問題も横たわっています。今回は、デジタル図書館について考えてみます。

 ある研究者が、何か新しいことを思いついて、そのことについて詳しく調べたり実験をしたりしたとします。その結果、何らかの新しいことがわかったとしましょう。それを成果として公表しようとするのが、研究者としての重要な責務です。
 ただし、成果を公表するときには、いくつか注意すべきことがあります。その成果が、はたしてオリジナリティがあるのかどうか、他人の優先権を犯していないかなどを、よく調べておく必要があります。
 そのために研究者は、先行研究としてどのようなものがあるのか、自分の成果のどのような点が独創的で新しい成果なのかなどを明確にして示す必要があります。まずは、先行研究を十分調べる必要があります。
 先行研究を調べる時、図書館での調べものが重要になります。論文や書籍を実際に当たって、自分の研究に関連する情報を可能な限り集めていきます。そして、誰もそのような成果を出したことがない時、はじめてオリジナリティが生まれ、自分の優先権を示すことができます。
 実際に先行研究を調べることは、非常に労力が必要になります。時には、研究や実験以上に手間がかかることもあります。特に自分にとって新しい分野での研究を始めるときは、その手間は大変となります。
 文献を読む大変さはさておき、文献を手にすること自体に、私は非常に苦労した経験が何度かあります。まずはある重要な先行研究の論文をいくつか読みます。それらの論文に引用されている文献には、非常に重要そうなものが、たいていいくつかはあります。それは、次なる必読文献となります。そのような文献が、自分の属する大学の図書館ですべてそろえることができればいいのですが、どんな大きな大学の図書館でも、すべての文献をそろえるのは不可能です。
 ですから、どこか他の大学図書館が所蔵する文献で調べる必要が出てきます。。近くの図書館なら行けばいいのですが、同じ国内でも、遠くなら入手するのは大変になります。現在では、大学図書館同士の文献の借用、複写サービスがあり、時間はかかりますが、現地に行くことなく論文を手にすることができます。また、文献の豊富な他の大学の図書館で、閲覧するための紹介状も所属大学の図書館は発行してくれます。
 そのような便宜があったとしても、すぐにはそろえられない文献もあります。直接著者に別刷り請求をしたりできればいいのですが、古いものであれば、それを所蔵している図書館に行くしかありません。文献が古ければ古いほど、所蔵図書館は限定されます。優先権は非常に重要な問題ですから、研究の種類によっては、そこまでの努力をしなければならないこともあります。
 もし、世界中の図書館のもっている大量の文献が、デジタル化され、インターネットを通じて、どこからでも、いつでも、いくらでも閲覧することができれば、こんな素晴らしいことはありません。
 このような閲覧システムができたら、今回例にした個人の研究の優先権の確認のためだけでなく、人類の知を、すべての人類が共有できることになるわけです。
 少し前ですが、2007年7月6日、慶應義塾は、Googleが世界規模で展開している「Googleブック検索図書館プロジェクト」と連携するというニュースが報道されました。
 どういう意味があるのかという、慶應義塾図書館がもっている蔵書のうち、著作権保護期間がきれた約12万冊を、デジタル化して、Googleブック検索を通じて、世界に公開するということです。明治初期までの和装本と、明治・大正・昭和前期の図書が、デジタル化の対象となります。その中には、慶應義塾の創始者である福澤諭吉の数々の著書も含まれます。
 「Googleブック検索図書館プロジェクト」とは、Googleが資金と技術、公開の場を提供して勧めているもので、図書情報の集積とデジタル化です。このプロジェクトには、ドイツのバーバリアン州図書館、ハーバード大学、カタロニア国立図書館、ニューヨーク図書館、オックスフォード大学、スタンフォード大学、カリフォルニア大学、マドリード・コンプルテンセ大学、米国の12大学で構成するコンソーシアムであるCommittee on Institutional Cooperation(CIC)、ローザンヌ大学図書館、ミシガン大学、テキサス大学、ヴァージニア大学、ウィスコンシン大学、コーネル大学など、25の機関の図書館が参加しています。今回、日本で最初に慶應義塾図書館がそのプロジェクトに参加したということです。
 Googleブック検索に登録されている書籍は、著作権があるものは、図書カードのような書籍の情報が登録されます。さらに、版権を持つ出版社が提供する書籍の抜粋や数ページを閲覧可能にして、書籍販売を促進をすることも目的となっています。入力された検索語を含む文章の一部を示され、ユーザーが購入するときの参考とできます。著作権保護期間が終わっているものは、全文を見ることができます。
 古い本を大量に保管していのは、古くから続いている図書館です。本を傷めずにスキャンするには、特別装置が必要で、手間も資金も必要です。それをGoogleが提供しているのです。
 日本の文献も、慶應義塾図書館がもっている明治以降だけでなく、もっと古い文献や図書も、デジタル化してもらいたいものです。古い古典に属する文献は、他のプロジェクトで行われています。しかし、データが一元化されていることが望ましいです。
 しかし、データの一元化は、どのような組織がおこなうかは、大きな問題です。現在Googleという民間企業が大規模におこなっています。Googleは御存知のように、インターネットの検索エンジンで急成長した企業です。Googleでは、さまざま新しい試みも行っています。その多くは、ユーザーからは料金をとることなく、企業からの広告収入で利益を出している企業です。
 Googleは世界的な企業で、サーバも安全のために、いたるところに分散して、多重にバックアップもされています。多分、世界でもっとも大きなサーバとデータを保持しているのではないでしょうか。そこに、図書館の書籍情報が加わることは、世界中のユーザーにとって非常にありがたいことです。
 このような大規模な事業は、Googleだからできることなのかもしれません。データベースの構築だけでなく、サーバの維持管理にも膨大な手間と費用、ノーハウが必要になるはずです。いまのところ、このようなことを、採算を考えずにできるのは、Google以外にはないのでしょう。
 どんなに大規模なサーバをもっていたとしても、世界中に関連会社があるとしても、Googleは一企業です。経営が成り立たなくなれば、このような文化的な事業は、終わってしまうかもしれません。倒産すればデジタルデータなど一瞬で消えてしまいます。
 かといって、一国の公官庁に、このよう大規模な国際的なプロジェクトを行うことは、荷が重いはずです。そして何ヶ国にも及ぶデータを、一元管理することは、なかなか困難でしょう。
 以上のような現状を考えると、Googleが進めるのはいいことでしょう。継続性を考えると、それでいいのかという不安もがあります。それがジレンマでもあります。とりえずは、Googleブック検索図書館プロジェクトが進行していくのを見守っていきましょうか。

・ブック検索・
Googleブック検索は
http://books.google.co.jp/
にあります。
しかし、残念ながら、全文閲覧ができるものは、
日本語では、なかなかひっかかりません。
まあ、これから時間が立てば、いろいろ増えてくるでしょうが、
著作権切れの読みものは、青空文庫のほうが、
充実しているかもしれません。
海外の文献は、古いものがたくさん全文閲覧できます。
ダーウィンやニュートンの文献も、見ることができます。
もちろん、このような古典と呼ばれる文献は、
新しい印刷物で読むことができます。
しかし原本を見るというのも時には必要です。
また楽しいものであります。
そのような原本は、古くからある図書館で保管されています。
文献が貴重になればなるほど、一般の閲覧は制限されます。
でも、デジタルであれば、一度記録すれば、
閲覧で痛むことも劣化することもありませんから、
自由にだれでもみることができます。
そのような意味で、Googleのプロジェクトは、非常に楽しみでもあります。

・アナログ情報・
海外の地質調査を見に行くと、いつも思うのですが、
デジタル化進んだ現代でも、
やはりアナログの情報も多いということです。
そんな地域の地質に関するアナログ情報は、
地元の博物館などの関連施設には、情報がたくさんあります。
その情報は、現地でしか手に入らないものです。
ですから、ある地域での調査は、
現地の野外調査をするだけでなく、
文献や資料の収集も同時にすることになります。
それは大変でもありますが、
知的好奇心を湧きおこすことでもあります。

2007年8月1日水曜日

67 知識と知の会得(2007.08.01)

 インターネット上の情報は簡単に手に入ります。しかし、その簡単さが落とし穴になっているかもしれません。知とは、知識を編集する過程において、手間をかけ深く考えることによって身に付くのではなでしょうか。

 あるテーマについて調べたい時、皆さんはどうしますか。
 例えば、生物の進化について調べることにしましょう。まずは、高校の生物で習ったことを思い出すのではないでしょうか。手元に、高校の教科書や参考書があれば見ることもできるでしょう。もっと詳しく調べたければ、図書館や大きな本屋さんにいって関連する本を探して読むでしょう。
 これは、多くの人が今もおこなっている一般的な調べ方です。最近では、インターネットをうまく使って調べていく人も多くなってきます。インターネットを含むネットワークの検索が、今では調べ物の中で重要な手段を占めているかもしれません。
 IT嫌いの人も、今やネットワークなしで社会生活を送ることはできません。ここでいうネットワークとは、インターネットはもちろん、携帯電話、銀行やカード会社のオンライン、交通網の安全や運行管理のために情報収集など、コンビニエンスストアやスパーマーケット、書店の在庫や流通情報の管理などなど、無駄なく、効率よく情報や物資、人員を移動、管理するために利用されています。その手段も、有線や無線回線、あるいは一般の電話の公共回線から専用回線、海底ケーブル、人工衛星を使うものまでいろいろあります。ですからネットワークを利用しないで生活することは不可能ともいえます。
 でも、ネットワークやITを上手く利用すれば、多くの情報を得ることも可能となります。インターネットなどを利用すれば、大量のそして上質の情報も得ることができます。しかも、ネットワークにつながっているコンピュータや携帯電話さえあれば、検索すれば、それらの情報を手軽に得ることができます。
 学生たちに「進化」というテーマで調べてレポートを書きなさいと指示したとしましょう。ここで架空の2名の学生に登場してもらいましょう。
 ひとりは、コンピュータが好きで、いつもインターネットを渡り歩いて楽しんでいる学生A君です。もう一人は普通の学生です。もちろんコンピュータもインターネットも使えるのですが、必要がないとわざわざ使わない学生B君としましょう。
 A君は、早速レポートのテーマである「進化」についてインターネットを使って調べることにしました。A君は、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」でとりあえず調べました。ここにくれば、かなり専門的な知識が体系的にまとめられていることを、彼は知っています。
 ウィキペディアで「進化」を調べると、A君の予想通り、いろいろ情報が手に入りました。これを利用して編集すれば、レポートはできると考えました。A君は、その充実した内容の文章を、ワープロにコピー・アンド・ペーストし、適当に入れ替えたり、削除したりして、編集することにしました。
 でもこのままじゃ、自分の文章でないとわかっているので、A君は、最初と最後にその情報を読んだときに考えたことを、数行ずつ付け加えることにしました。そして、A君は、あっという間に、専門家も顔負けのレポートが仕上げてしまいました。
 一方、B君は、もともと進化に興味がありました。ですから、彼は、この機会にできる限り進化について調べて見ようと思いました。A君が大学のコンピュータ室にいった頃、B君は大学の図書館にいって、図書館の検索用のコンピュータで調べて、本に当たることにしました。
 実際に私のいる大学の図書館で「進化」をキーワードにして検索すると、図書727件、雑誌26件、論文13件もヒットします。私の大学は文系の大学ですから、理系の文献は極端に少ないのですが、これだけでてくるのです。
 B君は、コンピュータの検索結果のページを次々と繰りながら、大量のリストの眺めながら、大量すぎるリストにうんざりしました。彼は、リストを眺めながら、進化論はダーウィンが最初に考えたと高校時代に習ったことを思い出しました。
 進化とダーウィンについて調べてみようと考えました。キーワードを「進化」と「ダーウィン」の2つにして検索してみました。すると図書で34件に絞ることができました。4ページに減ったリストを調べながら、B君は、ダーウィンは進化論を「種の起源」という本で書いたことも思い出しました。
 そこで、彼は、「ダーウィン」と「種の起源」をキーワードにして検索したら、単行本と文庫本が、この図書館にあることがわかりました。文庫本のある場所がわかり、それを彼は手にすることができました。
 その頃、A君は編集作業を終わり、自分の文章をどこに何に書き加えていこうか考えていました。
 B君は、原典ともいうべきダーウィンの「種の起源」は上中下の3冊になっていました。とりあえず上巻をとりだして、ページをパラパラめくりながら、文字ばっかりで読むのが大変だなと思いました。
 でも、本の扉に書かれたタイトルをよく見ると「自然選択の方途による種の起源」となっていることに気づきました。それをみて、B君は、ダーウィンが自然選択によって生物に変化が起こり、それが新しい種を生み出し、進化をすると考えたのじゃないかなと思いました。上巻の目次をみても、どうもそういうことを書きたかったようだと思いました。
 「訳者まえがき」で、「種の起源」という本は、6版まで書き換えられているけど初版を訳したものだと知りました。次に、ダーウィン自身の書いた「種の起源」の「序言」を読んでみました。すると面白いことが書かれていました。興味が出たのです、関連する内容を訳者の解題でも書かれているので読みました。
 そのころA君はレポートを仕上げて、印刷をしていました。
 B君の興味をもって読んだ内容は、どうも次のようになっていることを知りました。
 ダーウィンは、進化に関するアイディアを1837年い思いついたようです。そのアイディアを1844年に300ページ以上にもなる概要としてまとめ、1857年アメリカの植物学者のグレー宛てにまとめたことを示した手紙を書いていました。その後、完全版とも言うべき、すごい量になるはずの大著の準備をはじめていたようです。
 ところが、1858年、ウォーレスという博物学者が、ダーウィンに論文を送ってきて、ダーウィンの恩師である地質学者のライエルに渡して学会報に出して欲しいといってきました。その論文は、ダーウィンが得た考えと同じ自然選択による進化を書いたものでした。
 ライエルとフーカー博士の計らいで、リンネ学会で1858年7月1日にウォーレスとダーウィンの自然選択が発表され、リンネ学会報の第3巻として印刷されました。ただしダーウィンの報告は、1844年の概要からの抜粋とグレーあての手紙の一部が論文の代わりに印刷されていました。このような配慮のおかげで、かろうじてダーウィンが進化論の考えで先を越されずにすみました。そのため、ダーウィンは、まとまったものを早急に書き上げ出版しなければならなくなりました。大著の準備を一切なげうって、ダーウィンが抄本と呼んでいる「種の起源」が、翌年の1859年11月に出版されました。
 そんな事情が、ダーウィン自身の序論や訳者の解題で紹介されていました。B君は進化論の内容よりも、ダーウィンとウォーレスのアイディアの優先権争いが面白いと思いました。今まで偉い生物学者だと思っていたダーウィンが、自分のアイディアの占有権をめぐってうろたえていることを文章から感じました。人間ダーウィンがそこにいるように思えました。
 なぜ進化論の提唱者としてウォーレスの名前が残ってないのだろうと不思議に思いました。しかし、その方向に進むと話が、進化からはずれるので、さらにダーウィンの「種の起源」について調べていくことにしました。
 そころA君は、印刷の終わったレポートを、大学のレポートボックスに投函をしていました。B君のレポートの作成には、まだまだ時間がかかりそうです。
 A君とB君の調べ方を見ていて、大切なことがいくつかあります。
 第一に、両者とも既存の知識を探していることです。研究者でない限り、自分で生物に進化について調べようという人はいません。誰かがすでに調べたことや、学問の世界で定説になっていることを調べるはずです。そのプロセスが調べることの始まりです。
 第二に、既存の知識を得て、そのデータを元に、自分の考えを作り上げていくのに、両者の違いがあることです。
 確かに見た目には、A君のレポートは充実していて、まとまったものになっているかもしれません。でも、A君はがんばって調べものをしてレポートを書いたのではなく、適切な知識の貯蔵庫があり、それを利用することでレポートを仕上げたのです。A君は既存の知識を得る点のみを要領よくやって、そこに自分の考えらしく見せるために最初と最後に自分の文章をつけて、レポートを終わらせたのです。もともと情報がデジタルですから、編集が楽で、レポーを簡単に終わらせて、出したのです。多分A君は進化について、短時間の一過性のことですから、レポートを仕上げ提出すれば、すぐに忘れてしまうことでしょう。知識は一時的に得たのですが、それを編集しただけで終わらせて、実際には自分の考えを作り上げるプロセスがほどんどなく、自分自身のものにはならないでしょう。
 もし、テーマを出した教員が、ウィキペディアの存在やインターネット内の知識の質を知らなければ、A君はすごくがんばってレポートを書いたと評価するかもしれません。しかし本当は、A君が偉いわけではなく、ウィキペディアがすごいのです。
 一方、B君は、図書館に行っても、カードや図書館の検索システムで調べ、そして本にいきついて、本を広げてどこに自分の必要な知識があるかを調べていきました。これから、自分のテーマをさらに深めるために、必要ならいくつかの本を借り出し、関連する部分を熟読して、重要な部分はメモをしていくはずです。
 B君の調べ方では、行動をともない、それなりの時間が必要となります。A君と比べれば、一見無駄に時間を使っているように見えます。でも実は、調べる行動に時間をかけている間に、B君は考えているはずです。それが実は一番重要な自分の考えを生み出す時間を確保していることにならないでしょうか。断片的に仕入れた知識をどうまとめるのかは、自分がどのようなテーマを持って調べているかによって違ってくるはずです。そのテーマ自体を時間をかけて調べている時に深めていくのではなでしょうか。
 第三に、最終的に知識が知として身に付くか付かないは、どれだけ深く考えたかということに関わるのではないでしょうか。
 A君はいい評価をとるかもしれません。でも本当に考えることをほとんどしなかったので、評価ほどには知識は知としては身に付いてないはずです。
 B君は既存の知識を得る過程で、自分のテーマを絞り、ダーウィンと進化論について考えました。進化に関する多数ある知識の中から、テーマに関係のあるものを選択しました。そして、ウォーレスというダーウィンと同じ考えを持った同時代の人がいること、ウォーレスの論文によって、ダーウィンがあわてて書いた本が「種の起源」であること、本当は文献や事実を多数集めた大著を書きたかったがそれが世に出ることはなかったこと、などの知識を得て、彼は進化論のできかたについていろいろ考えされられたはずです。またレポートを書く時もいろいろ悩みながら長い時間をかけていくはずです。
 A君からすれば、B君は要領の悪い人となります。しかし、今後、A君は進化という言葉を聞いても、書いたレポートのことすら忘れているでしょう。ところが、B君は進化という言葉をきくと、自分が調べた知識だけでなく、そのプロセス、そのとき考えたことを思い出すことでしょう。ダーウィンやウォーレスのことを、人生訓とするかもしれません。そこにこそ、知識から知とするプロセスがあるのではないでしょうか。
 楽して得た知識はなかなか身に付かないということではないでしょうか。急がば回れということでしょうか。

・基礎文献・
情報は十分すぎるほどあります。
ダーウィンの進化論は、
ケンブリッジ大学のインターネットのサイトの
The Complete Work of Charles Darwin Online
http://darwin-online.org.uk/
というところに、進化論のすべての版の
文字データと書籍の画像が公開されています。
インターネットのおかげで
ケンブッリジ大学まで行かなくても
基礎文献が入手できる時代になりました。
素晴らしいことです。
進化論が誕生して150年以上もたっています。
でも、生物はどうして進化するのか、
なぜ今のような種構成になっているのか、
いろいろな進化論があるがどうれが本当なのか、
まだまだ解決できないことが多数あります。
本当に生物の進化は解決できるテーマなのでしょうか。
インターネットをいくら探しても
その答えはありません。
考えることによってのみ、答えが得られるはずです。

・秋田青森・
8月1日から7日まで秋田から青森の海岸を巡ります。
何度か訪れているのですが、
最近はしばらくいっていません。
ですから、景観撮影と砂、岩石の標本をとってこようと考えています。
目的は、なんと言っても、その地の自然に直接触れ、
感じることが一番重要なことだと考えています。
さてさて、野外調査となると、天候と問題ですが、
8月の青森はねぶた祭りの混雑も気になります。
これは私にはどうしようもありません。
祭りはさっと通り抜けて混雑を避けようと考えています。
ただ、私は予定通り行くしかありません。

2007年7月1日日曜日

66 本当のこと:真理は本当にあるのか(2007.07.01)

 「本当のこと」とは、どういうことでしょうか。本当のこととは真理と呼べるのでしょうか。哲学的なことではく、実用的に、そして役に立つ「本当のこと」について考えてみました。

 ある人が、今まで誰も見たことがないこともの、例えば生きている恐竜を見たとします。自分自身が見たことですから、恐竜が本当に存在していること、自分は「本当」だと信じているわけです。しかし、その恐竜を見たことがない人にとっては、「現代に恐竜なんでいるはずがない」、「ありえないこと」、「信じられないこと」となり、信じるはずがありません。
 この自分の他人の間には、大きな境界というか壁がありそうです。その壁を乗り越えるためには、どうすればいいでしょうか。
 「本当のこと」というと、あまりに漠然としすぎています。でも、真理というとあまりに哲学的過ぎるような気がします。自分の考えていることが「真理」と呼ぶには、多く人が少々抵抗があるはずです。
 まあ、抵抗していてもしかたがありませんから、「真理」の意味を、国語辞典でひくてみました。
1 本当のこと。間違いでない道理
2 意味のある命題が事実に合うこと
3 論理の法則にかなっているという形式的に正しいこと
これら3つが、真理の意味としてありました。少々複雑な言い回しですが、一応、内容は理解できそうです。でも、整理していきましょう。
 今まで述べてきた「本当のこと」は真理としていいようですが、「間違いでない道理」かどうかは、少々難しい問題です。道理とは、「論理」ともいうべきことです。論理があっているか間違っているかは、論理の構成が正しいかどうかで確かめることができます。
 しかし、スタート、つまり最初の情報や証拠が不確かだと、どんなに論理の過程が正しくても、間違った結果になってしまいます。いってみれば、論理以前の問題が、そこにはあるのです。
 「本当のこと」かどうかは、まず自分の感性、つまり主観的が、あるものことを、今回の例では「生きている恐竜を見た」ですが、それを受け入れられるかどうかがスタートとなります。恐竜の場合、「私は見た」ということが、スタートになります。
 「私は見た」は、自分にとっては主観的なことなので、本当はウソであろうが、マコトであろうが、「本当のこと」と「信じること」さえできれば、スタートすることができます。このスタートを、他人がとやかくいう筋合いではありません。
 実は、これが非常に大切なことだと思います。他人にとっては荒唐無稽なことでも、自分が信じることができれば、「主観的に本当のこと」は存在します。「生きている恐竜を見た」から、「恐竜はいる」と自分は信じることができます。
 新発見も大発見も、すべてここからスタートします。ですから、他人は、ある人の主観に基づく考えを、ヤミクモに否定すべきではありません。まずは聞くこと、そして論理に間違いがないかをよく考えるべきです。論理に間違いなければ、一応論理、道理としては成立しえます。
 そのような「他人の主張を聞く」という土壌がないと、新しいことがなかなか受け入れられませんし、生まれません。進歩や革新的な発見、発明は、案外非常識なことから生まれることがあるからです。
 とはいえ、「主観的に本当のこと」として自分だけが信じていることであっても、できれば他人にも信じてもらいたいはずです。あるいは、自分にとっても信じがたい「生きている恐竜」を見てしまったとき、自分自身でそれが目の錯覚や見間違いでないと納得するためにも、客観的な視点は重要となります。
 客観的に「本当のこと」にするためには、多くの人が信じられるように、できればすべての人が本当だと思えることにすることです。こうなれば、より普遍的「真理」というべきものに近づけるでしょう。もちろん自分自身ももっと信じられるものになるはずです。
 では、「客観的に本当のこと」とは、どのようにして決めたり、評価すればいいのでしょうか。
 その方法として、先ほど示した辞書にあった2つの意味、
2 意味のある命題が事実に合うこと
3 論理の法則にかなっているという形式的に正しいこと
を用いれば、検証できそうです。
 「意味のある命題が事実に合うこと」とは、ある命題(論理)が、「事実」で裏づけされているかどうかを、検討していくことです。論理が「事実」にあっているかを、演繹的に調べていくということです。
 ところが、この「事実」というのが、あいまいなのです。「事実」とは、実物、実験、現象などなんでもいいから、他人が客観的に判断できるための情報があり、それが事実といえる「証拠」なることを示せばいいのです。いくつか一般的な例をみていましょう。
 化石のような実物なら、他人にその実物を示し、自由に調べられるようにしてあげればいいのです。実物さえあれば、誰でも納得するまで検査や分析できます。もし、ひとつしかない化石なら、遠くの第3者が追試や分析しなくても、客観的に正当に評価できる測定値、写真、統計など定量的データを示せばいいのです。もちろん、そこには捏造などあってはなりません。「生きている恐竜」なら、恐竜を見つけて捕まえてくるとか、見つからないのなら、足跡、糞、食い跡、巣や卵の殻など、「生きている恐竜」でないと残せないような実物を探して示すことができればいいのです。もしそのような実物の証拠が見つかれば、自分も納得できますし、他の人も説得できるでしょう。
 実験による「証拠」は、第3者が同じ実験を別のところでして(追試といいます)も、同じ値や結果が出てくるものでなければなりません。つまり、再現性があるものでなければいけないのです。なんらかの現象を証拠とするなら、第3者が追試や分析可能な再現性がある現象でなければいけません。もし、一度しか起きなかった現象なら、実物と同じように、第3者が追試や分析できませんから、客観的に評価できる定量的データを提示したものでなかればなりません。
 証拠の提示とは、再現性のあるものか定量的データによって、第3者が客観的に判断できるようにすることになります。このような証拠があれば、「客観的に本当のこと」にできるようになります。
 次の「論理の法則にかなっているという形式的に正しいこと」とは、あるものごとや考えが、論理という形式を満たせば、それは、「真理」としていい、ということです。
 論理性をもつかどうか、つまり、論理的であるかどうか、という点だけを重視して評価する方法です。これは、比較的簡単に評価できます。論理学のような学問もあり、論理構造をみれば、論理的かどうかを、見分けることができます。
 以上まとめると、「客観的に本当のこと」、つまり「真理」は、
・証拠の提示
・論理性
によって、見分けることができるということです。
 ただしそれは、まさに「真理」という「形式をみたしている」のであって、本当に「真理」かどうかは、長い時間を経て、歴史のなかで、多くの人が検証して、裏づけをする必要があります。
 私は、普遍的に「本当のこと」など、存在しないと思います。なぜなら、「証拠」は、かなり主観的な提示のされ方をします。そして、その「証拠」が「客観的」かどうかは、その「証拠」を見た人が「主観的」に判断します。そこには、残念ながら、論理は介在しません。ですから、前に述べたように「主観」が重要になるのです。
 現状では、どんな「真理」でも、「本当の真理」に近いだけの「一番もっともらしいもの」にすぎないのです。しかし、当面は、それを「真理」とするしかないようです。人は、まだまだ賢くないのですかね。

・露地もの・
6月の北海道は、初夏にあたり、いろいろ行事の多い月でした。
新緑と花々が咲き乱れる季節でもありました。
そして、露地ものの農作物も取れだします。
今年の札幌の6月は、非常に雨が少なかったように思います。
1度か2度は激しく降りましたが、総雨はが少ないように思います。
農作物に影響が出なければいいのですが、少々心配です。
そろそろメロンの季節です。
夕張のメロンは高くて我が家では買えませんが、
他の地域のメロンでも、おいしいものはあります。
それを母や親族に送るようにしています。
ですから、メロンのできも心配です。

・教員も待ち望む夏休み・
大学では7月になると、学生たちがそわそわします。
それは、前期の成績や評価がどうなるか。
自分の出席は足りているのか。
試験はどんなのがでるのか。
などなど、学業に関する心配で、学生はそわそわします。
もうひとつの理由は、8月から9月終わりまでの
2ヶ月に及ぶ夏休みをどう過ごすかが考えているからです。
アルバイトをするのか、どんなアルバイトにするのか、
ふるさとにいつ帰るのか、友人とどこに旅行にいこうか、
ふるさとの友人と会えるのだろうか、
などなど、夏休みのことを考えて、そわそわします。
しかし、一番夏休みの待ち遠しいのは、
学生より教員かもしれません。
私は夏休みでも毎日に研究室にでています。
しかし、授業がなくなり、校務も大半なくなるので、
自分のやりたいことを最優先にできます。
野外調査に出ることもできます。
今までやり残していたデータもやっと整理できます。
ですから、教員は学生以上に
夏休みを待ち望んでいるのかもしれませんね。

2007年6月1日金曜日

65 ものづくりの基本:天地材工(2007.06.01)

 産業革命以降、科学と技術の飛躍的な進歩によって、大変便利で快適な生活を送れるようになりました。その半面、自然や環境に大きな影響を与えるようになりました。そのような科学や技術のありようを考えてみました。

 私が担当している大学の実習で、近隣の小学生を集めて、子どもができて、楽しめるイベントを、企画し、実施するというものがあります。イベントでは、科学の原理をつかった実験を2種類することになっています。どのような実験にするのかを、学生全員が案を出して、そのうち4つに候補をしぼりました。実際に4つの実験を試してみて、どれにするかを決めるという手順をとりました。
 それぞれの実験は、本やインターネットで調べたものを参考にして、準備し、おこなうのです。マニュアルどおりにすれば簡単にできそうに見えて、実はなかなか思うようにできません。ダメになった理由を考え、対処しなければなりません。そのような試行錯誤の時、人は、知識や智恵を目いっぱい使っています。そして問題が解決し、実験が成功した時の喜びは、何事にも変えがたいものです。次には、いろいろ工夫をして、よりいいもの、より面白いものを考えていくようになります。
 人は、ものづくりをしている時、一見単調な仕事をしてるいるようにみえるのですが、智恵を使うこと、新しい工夫をしていくことを学んいるのだとわかります。
 そのようなものづくりを通じた一連の学習プロセスは、現代人だけでなく、人がものをつくるということをはじめたときから、生じたことではないでしょうか。つまり、進化してヒトとなった時から、ものづくりと智恵とは密接に関係してきたと考えられます。
 職人、あるいは技術者は、ものづくりの最先端にいる人たちです。彼らは、単に上手にものをつくるだけでなく、よりいいもの、より完成度の高いものを目指して、日夜、努力しているはずです。職人の智恵の結晶ともいうべき言葉があります。「天地材工」というものです。あまり聴きなれない言葉だと思います。
 たて15cm、横15cm、高さ20cmの石に文字の彫りこまれた石印が、中国の福建省から発見されました。その石印には「天地材工」と彫られていました。その石印の横面には、「天有時 地有氣 材有美 工有巧 合此四者 然後 可以 為良」という文が刻まれていました。「天に時有り、地に氣有り、材に美有あり、工に巧有り、此の四者を合せて、然る後に、もって良と為すべし」と読み下せます。
 石に彫られた文は、周禮(しゅらい)の一節をとったものでした。周禮とは、儒家が重視する十三経の一つで、儀礼と礼記と共に三礼の一つとされるものです。周禮は、周王朝時代に書き残したものとされているのですが、実際には戦国時代以降のものと見られています。
 周禮は、官僚制度を記述しています。官職を天・地・春・夏・秋・冬の六官に分け、さらに細分され、合計360の官職について述べているものです。冬官篇はなくなっているのですが、代わりに「考工記」で補われています。その考工記の中に、石印の一節があります。
 石印の文の意味は、次のようなものです。
「天には時(時代や時期、季節)があり、地には気(地域の影響や風土)があり、材料には良好なものがあり、工匠(技術や職人)にはすぐれた技がある。これら4つが合わさったとき、必ずや良いものができるのであろう」
という意味です。
 つまり、天地材工がひとつになったとき、はじめてすぐれたものができるというのです。石印は、職人の心得、あるいは心意気のようなものを彫っていたのではないでしょうか。この考え方は、ものづくりをするときの真髄ではないでしょうか。
 例えば、日本の家屋をみても、地域ごとの特徴のある形式を持っています。それぞれの地で、季節変化や風土に合わせて、職人がその地でとれる最適な素材を用いて、最良の技術を用いて作り上げてきた集大成のはずです。
 ところが、現代の日本の都市、いや世界中の近代都市では、どれも似たようなビルディングになっています。ビルディングの素材は、鉄とコンクリートを主としています。
 かつて日本では、鉄は砂鉄が主たる起源で、産出量はそれほど多くはありません。ですから、鉄は道具のために利用されていました。現在のように大量の鉄が使えるようになったのは、海外の鉄の産地から輸入できるようになったからです。そのためには輸送手段および経済の発達が不可欠です。その背景には科学と技術の発展は不可欠です。
 コンクリートのもとはセメントで、セメントは石灰岩からつくられます。石灰岩は日本にもたくさんある資源です。しかし、石灰岩は、かつては石積みや石材として利用されることはありましたが、加工してセメントにされることはありませんでした。そのためには科学や技術の進歩が不可欠です。
 セメントと鉄によるビルディングは、科学と技術の進歩、そして世界中との交易が活発になったために、可能となったのです。それが全世界で行われるようになったため、都市にはビル群ができるようになったのです。
 現代のコンクリートと鉄の建造物は、天地材工とは、違った思想のもとに造られている気がします。現在の技術とは、世界中を流通する資源を用いて、大型の機械を使ってなされるものです。
 天地材工とは、産業革命以前の農業に基盤を置いた手工業の時代背景の下に生まれています。19世紀前半の産業革命以降、科学や技術が進歩し、効率、経済性、便利さなど追求した結果、量産可能な機械工業が可能となりました。そうなると手工業時代の思想は利用できなくなります。工業時代の新しいものづくりの思想が必要となります。しかし、そのようなものは、まだできていないようです。
 進歩は必要です。技術の粋を集めた建築物は、何年使えるでしょうか、どれくらいもつのでしょうか。法隆寺のように木造でありながら、地震や雨などの湿気に耐えて、1000年以上もつものがあるのでしょうか。ピラミッドや万里の長城のように何千年も残るでしょうか。これらはすべて人力のみによって作り上げられたものです。
 ここで挙げた例は、もちろん例外的なものかもしれません。日本の多くの木造建築は、せいぜい100年しか持たないでしょう。しかし、古来からある日本、あるいは世界各地の住居は、天地材工で作られてきました。
 日本では、100年しかもたない木と紙と土の住居でも、100年すれば、木や紙は植物として復元しています。土は、水の豊かな日本では、土壌として十分形成されます。材料はすべて自然界で循環し復元しています。自然に摂理にかなったものづくりです。これは、天地材工という思想を象徴するものでしょう。
 20世紀後半になって、産業革命以降目指してきた工業化社会が目指す方向性に疑問が生まれてきました。利便性を追求することで生じたいくつも問題が、顕在化しました。人に優しい、本当の豊かさを考えた、環境や自然への負荷に配慮したものづくりが必要だと気づくようないなりました。
 かつての天地材工で象徴されたように、21世紀にふさわしいものづくりの思想転換が必要となったのです。産業革命以降200年間目指してきた科学と技術の集大成として、目指すべきものづくりの思想は、どのようなものでしょうか。
 ビルディングは、工業的に作られて均質な資材、機械、そしてそれを実行する費用があれば、特別な熟練がなくても、天地材工でなくても、どこでも同じ品質で同じ強度のものがつくれます。それが科学や技術のすぐれたところです。職人の手先の技術だけでは、もはや巨大なビルディングはつくれません。大型機械を用い、多くのコストとエネルギーをつぎ込まなければなりません。工業時代の技術は、天地材工という特殊性を排除することを目ざしてきのかもしれません。
 工業時代の是非を問う以前に、結果として現代はそうなっています。これをいまさら否定しては、現代社会はなりたちません。現在の科学や技術は、今までものづくりのためだけに、手順書やマニュアルはつくっていました。しかし、それでは充分でないことに気づいたわけです。
 非常に広範な自然や環境まで配慮した工法を考えるようになりました。そのための知識は増えてきています。知識は蓄積され一方で、要約されることなく、どこを探せはいいのかわからなくなるほどです。
 現代の科学技術の叡智を、天地材工のようなわかりやすい言葉にできないでしょうか。均質な資材、機械、そしてそれを実行する費用によって、同じ品質ものができます。そしてこれに加味して、人間や自然を強く意識したものづくりを目指しつつあります。現代の科学や技術で必要なことは、現代の「天地材工」のような叡智を集約し、ものづうくかかわる多くの人がわかる形にすることではないでしょうか。
 考工記には、上で示した文章の後に「材美工巧 然而不良 則不時 不得地氣也」と続きます。これは、「良質の材料があり、工匠に技があっても、良いものができるとは限らない。時代や適していなかったり、その地の風土があわなかったりするからである」という意味です。
 もしかするとこれは、現代にも当てはまるのではないでしょうか。「時」と「気」とは、時代、季節、風土、気候など、自然や人間と広く解釈して、それらに配慮したものづくりが必要であると読めば、天地材工は今も活きている言葉なのかもしれません。

・6月は・
もう6月です。
北海道はいい季節になってきました。
地元の農作物で路地ものがではじめてきました。
いまはグリーンアスパラがシーズンとなっています。
大学生協の食堂でもアスパラガスを使ったメニューが並んでいます。
北海道は祭りのシーズンとなります。
ヨサコイ祭り、ライラック祭りなどがはじまります。
学校の1年生、新入社員も新しい環境になれて、
落ち着いてきたころかもしれません。
でも、気を抜いてはいけません。
馴れてきたからこそ、充実されていくべきときです。
それを怠ると、進歩は望めません。
これから力を蓄え、実力を付けていく時期です。

・模索の時代・
本エッセイも書いたように
現代のものづくりは、20世紀後半あたりから、
大きな岐路に立っているような気がします。
利潤、快適さ、経済性の追求などの強烈な目的意識から、
人間にとっての本当の価値や豊かさ、
地球や自然全体にとっての総合的な評価などを
深く考えるようになってきました。
どうも人間自身が19世紀から20世紀にかけて
科学と技術を用いて追求してきた価値観が
大きく変化してきているようにみえます。
今はまだ模索の時代です。
19世紀から20世紀へのあまりに急激な変化を振り返り、
もう一度原点に立ち戻る必要があるのかもしれません。
そのものづくりは、なぜ必要なのか、なんのためなのか、
ものづくりによって起こるはずのまわりへの影響を配慮すること、
などなど、昔から人が持っていた心を前面に出して
使うことが必要なのでしょう。
今はその方法を模索をしているのでしょう。