人はイメージするという素晴らしい能力をもっています。その能力は、時に効果的は判定を下すことができます。でも、それに現実に適用するには、検証が必要です。私たちが何気なくみている景色から、岩石、堆積岩、地層などに対する、結構正確なイメージを作り上げているようです。そんな例と検証を紹介しましょう。
尾根や山頂付近に向かう山間のハイウエイや観光道路、切り立った海岸の道をゆくと、急な斜面には崖をよく見かけます。多くの人は、そんな道を行くと、崖とは反対の景色をみてしまいます。なぜなら、崖と反対側は、山の裾野や海に向かって開かれ、眺望のよいところになっているからです。
ところが地質学者は、崖を興味深く見ています。なぜなら、崖には、その大地をつくっている岩石が顔を出しているところだからです。慣れてくると、車で走りながらも、岩石の種類や特徴を見分けることができます。
では皆さん、崖というと、どのようなイメージを持たれるでしょうか。私と同じ山道の崖でしょうか。それとも、海岸沿いの崖、郊外の工事中の道路の崖、ダム工事で剥がされた山肌の崖でしょう。いろいろなところで崖を見かけたことがあるはずです。
では、海岸沿いの道路の切り通しで、削り取られたままの崖があるとしましょう。その崖は、どのようになっているでしょうか。想像してみてください。
私は、何層にも連なった堆積岩が傾斜している崖をイメージしました。このような崖のイメージを持った人も多いかもしれません。私は地質学者ですから、日本各地の岩石をみています。岩石が出ているところの多くは、崖になっています。ですから、普通の人よりは、たくさんの崖を見ていることになります。そんな私が、崖というと地層を思い浮かべてしまいました。
さらに、続けていきましょう。堆積岩というと、どのようなイメージが浮かぶでしょうか。皆さんは、崖の地層を思い浮かべたでしょうか。私は、先ほどと同じような崖にでている地層を思い浮かべました。私は、いろいろな堆積岩も見ているのに、地層を思い浮かべてしまいました。堆積岩というと、礫岩や砂岩、泥岩が代表で、それが層を成している状態を想像してしまいました。つまり、私がイメージした堆積岩は、地層という産状を示しているものです。もちろん、地層は、堆積岩の代表的な産状といっていいものです。
この崖と地層に関する私のイメージは、2つの問題があります。「崖といえば堆積岩」と「堆積岩といえば地層」という点です。2つの問題の本質は、その「○○ならば△△」という論理構成が、きっちりとした統計の裏づけがあるのかということです。もちろん、イメージですから、統計なんかに基づいているはずがありません。でも、統計的ではなくても、そのイメージが可能性としてありえるのか、そしてありえるとすると可能性の程度はいかほどかということが問題となるはずです。今回は、人がイメージすることとは、どの程度確かのかを、崖、岩石、堆積岩、地層などを手がかりに考えていこうというわけです。
崖を構成している岩石は、堆積岩以外のものの可能性もあるはずです。たとえ堆積岩であったとしても、その産状が地層をなすとは限りません。この点に少しこだわってみましょう。
まず、崖についてです。崖とは、土や植物などがなく、岩石がむき出しになっているところです。岩石とは、大地、つまり地殻の構成物です。「崖といえば堆積岩」ということは、言い換えると、地殻の構成岩石は堆積岩を主と考えもいいのかということです。「岩石=堆積岩」になっている点が、問題がありそうです。もし、岩石の種類の中で、堆積岩が一番多い種類であれば、近似的に正しいことになります。
では、「岩石=堆積岩」を確認していきましょう。
岩石の種類は、そのでき方によって、火成岩、変成岩、堆積岩に区分できます。
火成岩とは、地下深部でマグマが発生して、そのマグマからできた岩石が、火成岩です。マグマの成分や冷え方、噴出様式などによってさまざまな火成岩ができます。
変成岩とは、他の何らかの岩石(もちろん変成岩でもいい)が、熱や圧力で変化を受け、溶けることなく(溶けるとマグマができ火成岩になります)、別の岩石に変わったものです。ですから、最初から変成岩は、存在できません。別の岩石(もちろんそれが変成岩でもいいのですが)が、変成岩になっていきます。量を考えるときに、変成岩の位置づけが、少々ややこしくなります。大陸にみられる古い岩石は、さまざまな程度の変成作用を受けていることが多くなっているからです。そして、変成岩は、もとをただせば、堆積岩起源か火成岩起源になります。その点に注意が必要です。
堆積岩は、もともとあった何らかの岩石(どんな岩石でもいい)が、砕かれて移動して、堆積し、固結したものです。このようなできかたの堆積岩は、砕屑性堆積岩といいます。砕屑性堆積岩は、堆積岩の起源のすべてでありません。その他に、化学的沈殿によってできたものや、海水の蒸発によってできたもの、生物起源のものなどもあります。また、火成岩と区別が難しいのですが、火山噴火によって飛び散り固まったもの(火山性砕屑岩と呼ばれます)などもあります。
では、火成岩と堆積岩の2つの起源による岩石が、地殻に占める割合は、どれくらいでしょうか。圧倒的に火成岩が多くなります。古い時代の岩石分布している大陸地域では、火成岩およびその変成岩が、8割ほどを占めます。堆積岩起源の変成岩を堆積岩に入れて考えても、2割に満たないほどしかありません。ですから、「岩石=堆積岩」は、間違いであったことになります。
ところが、視点を変えると、違った見え方がしてきます。
まず、大陸全体あるいは面積多い部分だけでなく、イメージをする人が住んでいる日本列島を考えるとどうなるでしょうか。日本列島のデータをみますと、堆積岩は6割弱まで多くなっています。これは、列島の形成プロセスが、堆積岩が多くなる場所だからです。プレートテクトニクスでいうと、日本列島は沈み込み帯にあたり、堆積物がたくさん形成され、それが陸地となっていく場でもあります。日本列島だけでなく、同じような環境で古い時代に形成された地域(カレドニア造山帯と呼ばれている)のデータを見ると、やはり5割強が堆積岩とその変成岩からできていることがわかります。ですから、日本列島で育った私たちの感覚からすると、「岩石=堆積岩」はあながち間違ったものではないことになります。
もうひとつ別の視点から眺めてみましょう。実際の大地を見ていると、岩石がむき出しのところは少なくなっています。では、地表はどうなっているかと考えると、植物が覆っていたり、土壌あるいは砂、土、礫などが覆っています。地球の表面の3分の2を占める海底でも、岩石がむき出しのところは少なく、プランクトンの遺骸が積もってできた泥、陸からの火山灰や細かい泥なからできた堆積物が覆っています。
これらは、固まっていませんから、岩石とはいません。しかし固まれば、すべて堆積岩に分類されるものとなります。現在覆っている堆積物が、実際に固まって岩石になるかどうかは不明ですが、堆積岩の重要な候補が現在形成中であることになります。私たちはそれが大量にあることを見ているのです。たとえ薄くても、地表を覆っている比率(被覆面積)でみると、その量は9割を超えると見積もられています。
以上のように、視点を変えれば、「崖といえば堆積岩」あるいは「岩石=堆積岩」は、あながちでたらめともいえなくなってきました。
次の問題点である「堆積岩といえば地層」について、みていきましょう。これは、堆積岩にはいろいろな産状があるにもかからわず、地層がその主要な産状であるという見方、つまり「堆積岩の産状=地層」が正しいかどうかです。
堆積岩の地層というと、私たちが連想するのは、土砂や泥が固まったものです。これは堆積岩の分類でいうと砕屑性堆積岩になります。たしかに砕屑性堆積岩が地層をなしているのをたくさん見かけます。その量は、堆積岩全体からするとどれくらいでしょうか。
実は、起源の違いによる正確な推計データはないようです。地域によって、つまりその大地の生い立ちによって、堆積岩の種類が変わってくるせいかもしれません。
たとえば、ハワイのような火山活動が活発なところでは、堆積岩といえば、火山性砕屑岩が多くなります。また、乾燥地帯では蒸発岩が形成されていきます。サンゴ礁の発達した海では生物起源の石灰岩が形成されます。急激に大地が上昇しているヒマラヤでは、そこから流れでる川は、大量の土砂を海に運び、厚い地層を形成します。日本のような列島では、火山、地形上昇、沈み込み帯などの地質学的条件から、火山砕屑性堆積岩や砕屑性堆積岩がたくさん形成されます。
地域によっていろいろ地質学的環境を反映して、特徴的な堆積岩からできていそうです。では、産状としては、地層をなすものは、どの程度あるでしょうか。
種類でいいますと、層をつくりやすいのは、砕屑性堆積岩だけでなく、火山性砕屑岩や、沈殿によって出来た堆積岩、蒸発によってできた堆積岩も、層をなすことがよくあります。また、海底にたまった堆積物も固まれば、層をなします。
もちろん、層をなしにくい堆積岩もあります。たとえば、炭酸塩岩の多くは生物起源の石灰岩や、石灰岩から変わったドロマイトと呼ばれる岩石が主となります。しかし、その量は、堆積岩のうち2割程度になると見積もられています。一つの岩石種としては、割合は多いのですが、それでも堆積岩の2割にしかならないわけです。
炭酸塩岩以外の堆積岩には、上で述べたように、層をなす堆積岩が多くなっています。日本列島の堆積岩は、火山性堆積岩や砕屑性堆積岩が多くなっていますから、堆積岩の産状として層になっているのは、比率はわかりませんが、半分以上を占めていると推定されます。つまり、「堆積岩の産状=地層」の可能性としては大きいと考えられます。
以上、「岩石=堆積岩」と「堆積岩の産状=地層」という直感や記憶によるイメージが、根拠があるのかどうか、本当に正しいのか、ということをみてきました。いずれも可能性も、過半数は超えそうで、私たちが抱くイメージはあながち間違っていないようです。
私たちが持つイメージは、どこかで見た見た記憶に基づいてできているはずです。上で見たように岩石や堆積岩、地層に関するものは、その例だったのかもしれません。人は、無意識に情報収集と情報の取捨選択、そして記憶によって情報の総量を経験的に割り出すという、プロセスをとっています。そのプロセスは、かなりの複雑で、手間を要することを、一瞬のうちに行っています。イメージにすべてを依存するのは、危ないのですが、今回のように、かなり有効なときもあるります。その見極めがなかなか難しいところです。
私のような地質学者が車で移動するときは、景色を楽しみながらも、かならず、崖の岩石も観察しています。どんな岩石なのか、岩石の出来た時代はいつか、なぜそこにあるか、次にはどのようなが岩石がでてくるのか、などなど大地の生い立ちに思いをめぐらしています。
私が学生や大学院生の頃は、自分が培いはじめた岩石の鑑定能力と知識を動員して、未知の地域の地質を、ちょっと見ただけでどの程度推定できるかを、結構楽しんでいました。そして、その能力がある程度使い物のになることがわかり、うれしくもありました。
ところが、残念なことに、最近では岩石がむき出しになったままの崖は、非常に少なくなりました。安全や管理上の理由でしょうが、コンクリートで固められたりネットがかかった崖が多くなり、石をみるのもなかなか厄介になりました。でも、むき出しの崖が皆無になったわけではありません。地質学者には、まだ楽しみは残されていますが。
・新学期・
大学は、進級、卒業、入試など、
2008年度末の恒例行事がすべて終わりました。
あとは、教職員の送別会だけです。
4月から新入生を迎えて、新学期が始まります。
また、新しい人々と新しい時間を迎えることになります。
進級して成長した人々と新たな接触を持つことになります。
学校にいると、4月を大きな変わり目と感じてしまいます。
北海道は、桜にはまだ早いですが、
大学ではいち早く春を迎えることができます。
・紀伊半島へ・
北海道では、今年の冬は暖冬で雪も少なく、
春の訪れも早くなっているようです。
私は、3月下旬に紀伊半島へ、1週間出かけます。
とはいっても、実際には、出かける前に原稿を書いて、
4月1日に発行予約する手続きをしています。
ですから、このエッセイを発行する頃は、
まだでかける前になります。
まあ、帰ってきたら、その報告を別のエッセイで紹介します。
興味ある方はそちらを参考してください。
2009年4月1日水曜日
2009年3月1日日曜日
86 バウマ・シーケンス:本質から眺める多様性(2009.03.01)
自然の営みでできた地層は、一見整然と同じものが積み重なっているようにみえます。でも、個々の地層をよくみていくと、二つとして同じものはありません。地層の中に見えた多様性は、実は単純な本質によって形成されていることがわかってきました。多様に見える自然も、本質から眺めると、違った景色にみえてくるかもしれません。
現在、私は、堆積岩と堆積作用について、いろいろ文献を読んでいます。地層の形成過程と時間との関係を考察するという目的です。そのために、最近の堆積学について勉強しなおしています。堆積作用で注目しているのは、タービダイトと呼ばれるものです。
ダービダイトとは、英語のturbiditeをそのままカタカナ書きしたものです。日本語では、混濁流とよばれています。私は、乱泥流と呼んでいたのですが、これは、古い呼び方で、今では使われなくなったようです。タービダイトは、混濁流だけでなく、混濁流によって形成された堆積岩の産状の名称にも使われています。
かつて、深海は、陸や沿岸域が活動的であるのに対して、変化のない穏やかな場所だと考えられていました。しかし、深海底でも、激しい変化が起こることがわかってきたのです。その原因がタービダイトだったのです。
発見のきっかけは、1929年11月18日に起きたグランド・バンクス地震でした。グランド・バンクス地震は、カナダの大西洋にあるニューファンドランド島の南の海底で起きたものです。その地震によって、海底にあった大西洋を横断する海底ケーブルが切断されたのです。原因を究明していくと、地震で発生した混濁流が丈夫な海底ケーブルを切断してしまったのです。
1952年のハーゼンとアーウィンの研究によれば、地震が起きた急傾斜では、混濁流が発生し、そのスピードは時速99km(秒速28m)でした。海底での現象としては信じられない驚異的なスピードです。また、640kmも離れた緩やかな斜面では、混濁流が134時間17秒後に達しています。そこでの混濁流のスピードは、まだ時速21.6km(秒速6m)もあったと推定されています。640kmというと、東京-広島や東京-函館にまで達する距離になります。そこまで、混濁流がかなりの勢いをもったまま達しているのです。
タービダイトとは、大量の土砂が深海底まで流れ込み、そこに土砂がそのまま移動して、たまるものです。時には、すでに深海にたまっていた堆積物を侵食することもあります。ダービダイトは、そのスピード、規模、到達範囲を考えると、深海底を改変する営力として、非常に大きなものといえます。
タービダイトは、多くの土砂がたまっていて構造的に不安定になっている場所で発生します。不安定な場所の多くは沿岸域ですが、発生のきっかけは、例で示したような地震だけでなく、台風やハリケーンなどの暴風雨、土砂で飽和した河川流の流入、河川の土石流などです。
海底でたまった地層も、長い時間の経過と大地の営みによって、地層となって、陸地に上がり大地の構成物になります。そのような地層を観察することで、ダービダイトの実体がわかってきました。
地層のでき方の実験で、よく行われるものとして、ペットボトルに土砂と水を入れ、それを振ってよく混ぜ、静かにおいて置くと、粒の大きな礫が先に沈み、粒の小さい砂が次に、もっと細かい粘土がさらに上にたまっていきます。このような粒子の大きさに応じた並びを、級化層理(gradding、グレーディング)と呼んでいます。
このペットボトルの地層ができ方と同じようなものが、タービダイトでも形成されます。ただし、タービダイトにはペットボトルと違って、流れがあります。その流れの作用によって、級化層理と上の泥岩の間に、複雑な堆積構造ができます。
ダービダイトを詳しく調べて、最初にダービダイトの概念を整理したのは、バウマ(Arnold H. Bouma)です。1962年に発表した論文では、タービダイトの典型的な堆積構造を示しました。このような典型的なタービダイトは、バウマ・シーケンスと呼ばれています。バウマ・シーケンスは、下から、級化部、下部平行葉理部、斜交葉理部、上部平行葉理部、泥質部という順に並んでいます。
最下部の級化部と最上部の泥質部は、ペットボトルと同じようなでき方です。両者の間にある下部平行葉理部、斜交葉理部、上部平行葉理部が、他の成因の地層とタービダイトとの違いともいえます。
葉理とは、一つの地層(単層といいます)の中に形成されている構造です。細粒の砂やシルト(砂より細かく、粘土よりは粗い粒子)などが並んでいる目に見えるサイズの層構造のことをいいます。その葉理の特徴によって、タービダイトの内部がいくつかに細分されます。
葉理が、地層の面(層理面といいます)と平行なとき平行葉理といい、葉理が地層の面と斜交している場合を斜交葉理といいます。葉理は、その地層を形成した流れの特徴を反映しています。ですから、葉理を調べることによって、タービダイトの形成時の流れの様子を知ることができます。
典型的なバウマ・シーケンスのタービダイトでは、斜交葉理を挟んで上下に平行葉理が形成されてます。
ところが、実際に野外で地層を調査していると、バウマ・シーケンスをもったタービダイトが非常にまれであることがわかります。なぜ、まれにしかないものに、典型的なシーケンスなど成立しえるのでしょうか。それは、タービダイトという流れの特徴を考えれば理解できます。
ダービダイトは、土砂混じりの密度の大きな流体として、重力によって流れていきます。ダービダイトの到達範囲は広く、堆積場が非常に巨大になります。流れの主軸にあたるところでは、混濁流の本体が流れていきます。主軸であっても、流れるにしたがって、礫や砂などの大きな粒子から沈降していき、減っていきます。流れの主軸でも、タービダイトの発生場から離れると、級化層理をつくるような大きさの粒子はなくなっていきます。タービダイトから離れた遠方や、タービダイトの周辺域では、密度の小さい、細かい粒子だけの混濁流になってしまいます。
一つのタービダイトでできた堆積物であっても、級化層理をもったもの、つまりバウマ・シーケンスをもった地層は、混濁流の主軸のある限られた範囲の堆積物だけとなります。それ以外の場所では、下部の級化部の欠けた地層が、広く堆積しているということになります。むしろそのような不完全なタービダイトの方が広く分します。
タービダイトから形成された地層は、連続して積み重なっていても、それぞれの混濁流の流れる方向や規模は、毎回違ってくるはずです。ですから、同じ場所を掘って積み重なった地層を見たとしたら、完全なバウマ・シーケンスを持った地層はまれで、不完全なタービダイトの方が多くなっているでしょう。これが、自然界でバウマ・シーケンスが完全なものが見られない理由です。
タービダイトは、堆積物がたくさん供給され、斜面が埋まって浅くなってしまうことなく、常に深みであるところた厚くたまります。そのような常に沈降する作用が働いているような場所であれば、タービダイトはよく発達します。たとえば、日本列島のような、海溝に沿うようにできている上昇の激しい地域の沿岸が、タービダイトが形成されやすい場所となります。日本列島の西南日本の太平洋側では、かつてのタービダイトでできた地層をたくさん観察することができます。
ある崖でタービダイトの地層を見るということは、過去の海底の断面をみるということになります。たとえ同じ場所だったとしても、その断面は、タービダイトの主軸部だけをみてるとは限りません。あるときは主軸だったとしても、次には主軸から外れていることもあるでしょう。ですから、崖の地層は、どんなに似ているように見えても、二つとして同じものはないのです。
バウマ・シーケンスは、多様性の本質の重要性を示す好例です。もし、バウマ・シーケンスという本質を知らないで、多様な様相を示す地層を見たとしましょう。すると、その地層の多様性に惑わされて、本質を見抜くことが困難になることでしょう。地質学者たちが、バウマ・シオケンスたどり着くまでに長い時間が必要でした。しかし、ある原理や成因に則った本質が理解できれば、一見多様に見える自然現象も、その本質の演繹によって解明できるのです。
・典型的実例・
私は、地層を詳しく見るようになったのは、ここ1、2年です。
また、バウマ・シーケンスの詳細について
知るようになったのも最近です。
思い返してみても、
典型的なバウマ・シーケンスを持つ地層を
野外でみた記憶がありませんでした。
今までの記録をひっくり返してみても、
見た記録もありませんでした。
つまり、バウマ・シーケンスの実物を
少なくとも意識してみたことがないのです。
そうなると、典型的なバウマ・シーケンスを見たいのが人情です。
どこにあるか、これからいろいろ探してみたいと考えています。
・早い春・
いよいよ3月です。
北海道は、2月になって雪は結構降りました
しかし、例年の比べれば明らかに少なく
暖かい日が多いです。
ですから、今年は冬はすごしやすく感じます。
そして多分、春の訪れも早くなりそうです。
北国の人間にとって早い春の訪れはうれしいものです。
現在、私は、堆積岩と堆積作用について、いろいろ文献を読んでいます。地層の形成過程と時間との関係を考察するという目的です。そのために、最近の堆積学について勉強しなおしています。堆積作用で注目しているのは、タービダイトと呼ばれるものです。
ダービダイトとは、英語のturbiditeをそのままカタカナ書きしたものです。日本語では、混濁流とよばれています。私は、乱泥流と呼んでいたのですが、これは、古い呼び方で、今では使われなくなったようです。タービダイトは、混濁流だけでなく、混濁流によって形成された堆積岩の産状の名称にも使われています。
かつて、深海は、陸や沿岸域が活動的であるのに対して、変化のない穏やかな場所だと考えられていました。しかし、深海底でも、激しい変化が起こることがわかってきたのです。その原因がタービダイトだったのです。
発見のきっかけは、1929年11月18日に起きたグランド・バンクス地震でした。グランド・バンクス地震は、カナダの大西洋にあるニューファンドランド島の南の海底で起きたものです。その地震によって、海底にあった大西洋を横断する海底ケーブルが切断されたのです。原因を究明していくと、地震で発生した混濁流が丈夫な海底ケーブルを切断してしまったのです。
1952年のハーゼンとアーウィンの研究によれば、地震が起きた急傾斜では、混濁流が発生し、そのスピードは時速99km(秒速28m)でした。海底での現象としては信じられない驚異的なスピードです。また、640kmも離れた緩やかな斜面では、混濁流が134時間17秒後に達しています。そこでの混濁流のスピードは、まだ時速21.6km(秒速6m)もあったと推定されています。640kmというと、東京-広島や東京-函館にまで達する距離になります。そこまで、混濁流がかなりの勢いをもったまま達しているのです。
タービダイトとは、大量の土砂が深海底まで流れ込み、そこに土砂がそのまま移動して、たまるものです。時には、すでに深海にたまっていた堆積物を侵食することもあります。ダービダイトは、そのスピード、規模、到達範囲を考えると、深海底を改変する営力として、非常に大きなものといえます。
タービダイトは、多くの土砂がたまっていて構造的に不安定になっている場所で発生します。不安定な場所の多くは沿岸域ですが、発生のきっかけは、例で示したような地震だけでなく、台風やハリケーンなどの暴風雨、土砂で飽和した河川流の流入、河川の土石流などです。
海底でたまった地層も、長い時間の経過と大地の営みによって、地層となって、陸地に上がり大地の構成物になります。そのような地層を観察することで、ダービダイトの実体がわかってきました。
地層のでき方の実験で、よく行われるものとして、ペットボトルに土砂と水を入れ、それを振ってよく混ぜ、静かにおいて置くと、粒の大きな礫が先に沈み、粒の小さい砂が次に、もっと細かい粘土がさらに上にたまっていきます。このような粒子の大きさに応じた並びを、級化層理(gradding、グレーディング)と呼んでいます。
このペットボトルの地層ができ方と同じようなものが、タービダイトでも形成されます。ただし、タービダイトにはペットボトルと違って、流れがあります。その流れの作用によって、級化層理と上の泥岩の間に、複雑な堆積構造ができます。
ダービダイトを詳しく調べて、最初にダービダイトの概念を整理したのは、バウマ(Arnold H. Bouma)です。1962年に発表した論文では、タービダイトの典型的な堆積構造を示しました。このような典型的なタービダイトは、バウマ・シーケンスと呼ばれています。バウマ・シーケンスは、下から、級化部、下部平行葉理部、斜交葉理部、上部平行葉理部、泥質部という順に並んでいます。
最下部の級化部と最上部の泥質部は、ペットボトルと同じようなでき方です。両者の間にある下部平行葉理部、斜交葉理部、上部平行葉理部が、他の成因の地層とタービダイトとの違いともいえます。
葉理とは、一つの地層(単層といいます)の中に形成されている構造です。細粒の砂やシルト(砂より細かく、粘土よりは粗い粒子)などが並んでいる目に見えるサイズの層構造のことをいいます。その葉理の特徴によって、タービダイトの内部がいくつかに細分されます。
葉理が、地層の面(層理面といいます)と平行なとき平行葉理といい、葉理が地層の面と斜交している場合を斜交葉理といいます。葉理は、その地層を形成した流れの特徴を反映しています。ですから、葉理を調べることによって、タービダイトの形成時の流れの様子を知ることができます。
典型的なバウマ・シーケンスのタービダイトでは、斜交葉理を挟んで上下に平行葉理が形成されてます。
ところが、実際に野外で地層を調査していると、バウマ・シーケンスをもったタービダイトが非常にまれであることがわかります。なぜ、まれにしかないものに、典型的なシーケンスなど成立しえるのでしょうか。それは、タービダイトという流れの特徴を考えれば理解できます。
ダービダイトは、土砂混じりの密度の大きな流体として、重力によって流れていきます。ダービダイトの到達範囲は広く、堆積場が非常に巨大になります。流れの主軸にあたるところでは、混濁流の本体が流れていきます。主軸であっても、流れるにしたがって、礫や砂などの大きな粒子から沈降していき、減っていきます。流れの主軸でも、タービダイトの発生場から離れると、級化層理をつくるような大きさの粒子はなくなっていきます。タービダイトから離れた遠方や、タービダイトの周辺域では、密度の小さい、細かい粒子だけの混濁流になってしまいます。
一つのタービダイトでできた堆積物であっても、級化層理をもったもの、つまりバウマ・シーケンスをもった地層は、混濁流の主軸のある限られた範囲の堆積物だけとなります。それ以外の場所では、下部の級化部の欠けた地層が、広く堆積しているということになります。むしろそのような不完全なタービダイトの方が広く分します。
タービダイトから形成された地層は、連続して積み重なっていても、それぞれの混濁流の流れる方向や規模は、毎回違ってくるはずです。ですから、同じ場所を掘って積み重なった地層を見たとしたら、完全なバウマ・シーケンスを持った地層はまれで、不完全なタービダイトの方が多くなっているでしょう。これが、自然界でバウマ・シーケンスが完全なものが見られない理由です。
タービダイトは、堆積物がたくさん供給され、斜面が埋まって浅くなってしまうことなく、常に深みであるところた厚くたまります。そのような常に沈降する作用が働いているような場所であれば、タービダイトはよく発達します。たとえば、日本列島のような、海溝に沿うようにできている上昇の激しい地域の沿岸が、タービダイトが形成されやすい場所となります。日本列島の西南日本の太平洋側では、かつてのタービダイトでできた地層をたくさん観察することができます。
ある崖でタービダイトの地層を見るということは、過去の海底の断面をみるということになります。たとえ同じ場所だったとしても、その断面は、タービダイトの主軸部だけをみてるとは限りません。あるときは主軸だったとしても、次には主軸から外れていることもあるでしょう。ですから、崖の地層は、どんなに似ているように見えても、二つとして同じものはないのです。
バウマ・シーケンスは、多様性の本質の重要性を示す好例です。もし、バウマ・シーケンスという本質を知らないで、多様な様相を示す地層を見たとしましょう。すると、その地層の多様性に惑わされて、本質を見抜くことが困難になることでしょう。地質学者たちが、バウマ・シオケンスたどり着くまでに長い時間が必要でした。しかし、ある原理や成因に則った本質が理解できれば、一見多様に見える自然現象も、その本質の演繹によって解明できるのです。
・典型的実例・
私は、地層を詳しく見るようになったのは、ここ1、2年です。
また、バウマ・シーケンスの詳細について
知るようになったのも最近です。
思い返してみても、
典型的なバウマ・シーケンスを持つ地層を
野外でみた記憶がありませんでした。
今までの記録をひっくり返してみても、
見た記録もありませんでした。
つまり、バウマ・シーケンスの実物を
少なくとも意識してみたことがないのです。
そうなると、典型的なバウマ・シーケンスを見たいのが人情です。
どこにあるか、これからいろいろ探してみたいと考えています。
・早い春・
いよいよ3月です。
北海道は、2月になって雪は結構降りました
しかし、例年の比べれば明らかに少なく
暖かい日が多いです。
ですから、今年は冬はすごしやすく感じます。
そして多分、春の訪れも早くなりそうです。
北国の人間にとって早い春の訪れはうれしいものです。
2009年2月1日日曜日
85 激変説と斉一説:宗教の呪縛と開放(2009.02.01)
地球に流れた時間は如何ほどのものでしょうか。その検証はどうすればいいのでしょうか。科学者たちも悩み、議論しました。その背景には強い宗教的呪縛がありました。宗教から科学が解放されるために、多大な苦痛を伴いました。そのような苦労を、歴史の激変説と斉一説の論争から眺めていきましょう。
17世紀後半から19世紀にかけて、ヨーロッパでは、産業革命がおこりました。特に、18世紀には、イギリスでは、石炭運搬のために各地に運河が掘られ、地下の様子を知る機会が増えました。ヨーロッパ各地でも、化石が多数見つかって、知識も蓄積されてきました。そのような知識から、地層の違がっていると、産出する化石も違うこともに気づかれるようになりました。なぜ、地層ごとに違った化石が出てくるのか、という疑問に対する答えが必要になりました。
その答えを出すのは、当時の自然哲学者(今の科学者)たちでした。答えを出すためにいくつもの解釈がなされます。その解釈の違いによって論争が起こります。科学とは、証拠や論理に基づいてなされるはずです。しかし、所詮、人間の営みですから、どうしても、常識や宗教的背景の影響を受けます。そのような影響を物語る論争が18世紀のヨーロッパでで起こりました。
地層ごとの化石の変化をめぐって、激変説と斉一説という2つの説で論争を起こりました。この論争は、地球の創世、あるいは過去の歴史認識に関わるもので、進化論への道を拓いたともいえます。
激変説とは、天変地異説とも呼ばれ、英語ではCatastrophismといいます。この説は、地層の形成や化石の起源を、天変地異によって説明しようとする立場です。
当時のヨーロッパでは、聖書に書かれていることは、絶対的なものだと考えられていました。生物は、聖書よれば、神が最初の一週間に一気につくったものです。もしそうなら、ヒトも含めて、どの時代にも同じような生物種がいたことになるはずです。ところが、化石が地層ごとに違っているという事実は、当時のキリスト教的考え方では、説明が困難な問題となります。
そこで登場したのが、激変説です。聖書の創世記に書かれている事件によって、ある時代の生物種を入れ替える(絶滅させる)ことができれば、新たに生物が誕生させることができます。つまり、その事件を契機に、違う生物種を再構成すれば、化石種の変化が説明できます。
幸いなことに、聖書にある「ノアの洪水」がそのようなことを起こせる天変地異になりえます。ただし、問題は、聖書によれば「ノアの洪水」は一度だけの異変であったことです。
そのような異変が何度も起こったと考えたのが、フランスのキュビエ(G.D. Cuvie、1769~1832年)でした。「ノアの洪水」が最後の大洪水とされていました。キュビエは、「ノアの洪水」のような天変地異によって多くの生物は死に絶え、あるものが土砂に埋もれて化石になっていたと考えました。
キュビエは、各地から産する動物化石、とくに脊椎動物化石を研究し、激変説によって古生物種の変化を説明していました。キュビエは、「比較解剖学」の手法を確立したような大御所で、脊椎動物古生物学の祖ともいわれています。化石から、古くから犬や猫、人間はいることがわかっていますが、その骨格には、変異も進化もないし、変種でさえ骨格は近似しています。これは、生物が進化しない証拠だと考えました。また、生物は種として分類され、分類間の中間的な種が存在しないことも、進化の反証となると考えていました。天変地異によって、すべての種が絶滅するのではなく、箱舟に乗って生き残った個体がいたと考えていました。化石の中に現在と同じ種も見つかることも、聖書の記述と矛盾をなくすことができます。
当時の市民は、聖書の信じていました。もちろん、当時の科学者たちの多くも聖書を信じていました。そして、激変説も信じていました。ですから、当時のヨーロッパでは、激変説が主流派となってました。
一方、斉一説(niformitarianism)は、聖書を否定する、いわば異端的な考え方です。
斉一説は、過去の自然現象も、現在みられるものと同じ作用がおこっていたとする考え方です。この説は、18世紀末にハットン(J. Hutton、1726~1797年)が唱えた説です。ハットンは「地球の理論」(1788年)の中で、「自然法則は地球が太陽の一員であるかぎり、過去現在をとおして不変である」と述べています。その考えは、「現在は過去鍵である」で象徴的に表現されています。
斉一説の原理である現在の自然現象は、非常にゆっくりしたものです。少なくとも、生物の進化は観察されません。また、化石がつくられている過程も見ることもできません。ただし、「ノアの洪水」ほのではなくても、大雨が降れば、大洪水が起こります。その洪水によって、大量の土砂が海まで押し出され、その中には生物が閉じ込められることがあることは、経験できます。これは、一枚の地層とその中の化石というものを形成すメカニズムの基本といえそうです。これが、現在に起こっている作用です。
ただし、そのような大洪水は、非常にまれな現象で、各地でみられる大量の地層の連なり、あるいは、地層の侵食、褶曲などを考えると、そこには膨大な時間が介在しなければなりません。
聖書にかかれてている地球誕生は、せいぜい6000年前、最大に見積もっても26万年前です。これくらいの年数では、どう考えても、多数の地層、多様な化石、地層の侵食や褶曲などを起こすには、あまりにも時間が足りなすぎます。
斉一説と激変説の論争は、地球誕生して以来、どれくらいの時間が経過しているかが最大の論点となります。地球の年齢は、年代測定の技術が発展する20世紀後半を待たねばなりませんが、論争の決着はもっと早くみました。
激変説は、当初多くの支持を受けていたのですが、いくつも不都合な点が見つかってきました。化石種だけに見られる絶滅種が、多数見つかってきました。中生代の恐竜のように、今ではまったく見られない種があまりに多く存在しました。また、ケルビン卿(ウィリアム・トムソン、William Thomson、1824~1907)は、灼熱の地球(当時地球はそのような起源を考えていた)から現在の温度まで冷めるまでの時間を計算すると、とてつもなく長い時間(2000万年から4億年)が必要だとしました。などなど、多くの化石、地層、データなどの集積によって、激変説ではどうにも説明できない事実が増えていきました。
1830年代には、ライエル(C. Lyell、1797~1875年)が「地質学原理」という本を出版して、そのような斉一説をまとめました。やがて、斉一説が世に広まり、主流派へと転換していきます。「地質学原理」は科学が目指すべき方向を示していました。斉一説は、地質学のみにとまらず、近代的な科学の確立に重要な役割を果たしました。
「地質学原理」を、若きダーウィンはビーグル号の航海中に携え読んでいました。地球には、十分な時間が流れていたという確信を持ちました。その地球に流れた長い時間を利用して、生物が進化したとする考えが、1859年、ダーウィン(C.R. Darwin、1809~1882)の「種の起源」によって唱えられました。
科学とは、事実から仮説を立て、それを実証するものです。仮説に基づいて、新たな事実を積み重ねていきます。そして、仮説を修正したり、まったく新たな仮説をつくる。科学は、データが少ないときは、常識や従来からの考え方で説明しようとされます。しかし、データが増えてくるとともに、従来の考えの修正や追加では、どうにもならないことになってきます。そして、やがてパラダイム転換が起こります。この18世紀のパラダイム転換は、科学と宗教と分離ということも成し遂げました。以降、科学が科学として独立して独自の道を歩むことができたのです。
こんな繰り返しが、科学の営みといえます。科学のすばらしさは、かつての説を否定するという、自己修正機能を持っていることかもしれません。
・宗教の呪縛・
現在の日本にいると宗教の呪縛の意味をあまり感じることはありません。
しかし、日本でも、キリスト教や仏教を命を懸けて信じ、
その信念を貫いた庶民が多数いた時代もありました。
ですから、日本人が宗教の呪縛がないというわけではありません。
ただ、現在そういう時代に生きているというに過ぎないのです。
今も、宗教に殉じ、命を賭して戦っている人も多数います。
これが人間の性というには、あまりにむなしい気がします。
人類は科学という非常にすばらしい考え方を手に入れました。
宗教の教義自体の真偽を問うのではなく、
宗教と社会、宗教と科学などのあり方に対して
もっとよい考え方は生まれないでしょうか。
誰が何を信じても、共存できる社会は生まれないのでしょうか
・今時の学生気質・
大学は講義は終わり、定期試験が行われています。
2月から3月にかけて入試のはじまります。
大学入学は選り好みしなければ
必ず入れる時代になりました。
ただ、就職は非常に大変になってきています。
大学を卒業しても必ずしも望む職に就けるとは限りません。
せっかく決めた職も内定取り消しも起こりました。
入るに易く出るに難く。
そんな時代になりました。
それでも、職に執着せず、
職を見つけず卒業していく学生も、
かなりの数見かけるようになりました。
人それぞれですが、若い貴重な時間を
有意義に使ってもらいたいと願っています。
17世紀後半から19世紀にかけて、ヨーロッパでは、産業革命がおこりました。特に、18世紀には、イギリスでは、石炭運搬のために各地に運河が掘られ、地下の様子を知る機会が増えました。ヨーロッパ各地でも、化石が多数見つかって、知識も蓄積されてきました。そのような知識から、地層の違がっていると、産出する化石も違うこともに気づかれるようになりました。なぜ、地層ごとに違った化石が出てくるのか、という疑問に対する答えが必要になりました。
その答えを出すのは、当時の自然哲学者(今の科学者)たちでした。答えを出すためにいくつもの解釈がなされます。その解釈の違いによって論争が起こります。科学とは、証拠や論理に基づいてなされるはずです。しかし、所詮、人間の営みですから、どうしても、常識や宗教的背景の影響を受けます。そのような影響を物語る論争が18世紀のヨーロッパでで起こりました。
地層ごとの化石の変化をめぐって、激変説と斉一説という2つの説で論争を起こりました。この論争は、地球の創世、あるいは過去の歴史認識に関わるもので、進化論への道を拓いたともいえます。
激変説とは、天変地異説とも呼ばれ、英語ではCatastrophismといいます。この説は、地層の形成や化石の起源を、天変地異によって説明しようとする立場です。
当時のヨーロッパでは、聖書に書かれていることは、絶対的なものだと考えられていました。生物は、聖書よれば、神が最初の一週間に一気につくったものです。もしそうなら、ヒトも含めて、どの時代にも同じような生物種がいたことになるはずです。ところが、化石が地層ごとに違っているという事実は、当時のキリスト教的考え方では、説明が困難な問題となります。
そこで登場したのが、激変説です。聖書の創世記に書かれている事件によって、ある時代の生物種を入れ替える(絶滅させる)ことができれば、新たに生物が誕生させることができます。つまり、その事件を契機に、違う生物種を再構成すれば、化石種の変化が説明できます。
幸いなことに、聖書にある「ノアの洪水」がそのようなことを起こせる天変地異になりえます。ただし、問題は、聖書によれば「ノアの洪水」は一度だけの異変であったことです。
そのような異変が何度も起こったと考えたのが、フランスのキュビエ(G.D. Cuvie、1769~1832年)でした。「ノアの洪水」が最後の大洪水とされていました。キュビエは、「ノアの洪水」のような天変地異によって多くの生物は死に絶え、あるものが土砂に埋もれて化石になっていたと考えました。
キュビエは、各地から産する動物化石、とくに脊椎動物化石を研究し、激変説によって古生物種の変化を説明していました。キュビエは、「比較解剖学」の手法を確立したような大御所で、脊椎動物古生物学の祖ともいわれています。化石から、古くから犬や猫、人間はいることがわかっていますが、その骨格には、変異も進化もないし、変種でさえ骨格は近似しています。これは、生物が進化しない証拠だと考えました。また、生物は種として分類され、分類間の中間的な種が存在しないことも、進化の反証となると考えていました。天変地異によって、すべての種が絶滅するのではなく、箱舟に乗って生き残った個体がいたと考えていました。化石の中に現在と同じ種も見つかることも、聖書の記述と矛盾をなくすことができます。
当時の市民は、聖書の信じていました。もちろん、当時の科学者たちの多くも聖書を信じていました。そして、激変説も信じていました。ですから、当時のヨーロッパでは、激変説が主流派となってました。
一方、斉一説(niformitarianism)は、聖書を否定する、いわば異端的な考え方です。
斉一説は、過去の自然現象も、現在みられるものと同じ作用がおこっていたとする考え方です。この説は、18世紀末にハットン(J. Hutton、1726~1797年)が唱えた説です。ハットンは「地球の理論」(1788年)の中で、「自然法則は地球が太陽の一員であるかぎり、過去現在をとおして不変である」と述べています。その考えは、「現在は過去鍵である」で象徴的に表現されています。
斉一説の原理である現在の自然現象は、非常にゆっくりしたものです。少なくとも、生物の進化は観察されません。また、化石がつくられている過程も見ることもできません。ただし、「ノアの洪水」ほのではなくても、大雨が降れば、大洪水が起こります。その洪水によって、大量の土砂が海まで押し出され、その中には生物が閉じ込められることがあることは、経験できます。これは、一枚の地層とその中の化石というものを形成すメカニズムの基本といえそうです。これが、現在に起こっている作用です。
ただし、そのような大洪水は、非常にまれな現象で、各地でみられる大量の地層の連なり、あるいは、地層の侵食、褶曲などを考えると、そこには膨大な時間が介在しなければなりません。
聖書にかかれてている地球誕生は、せいぜい6000年前、最大に見積もっても26万年前です。これくらいの年数では、どう考えても、多数の地層、多様な化石、地層の侵食や褶曲などを起こすには、あまりにも時間が足りなすぎます。
斉一説と激変説の論争は、地球誕生して以来、どれくらいの時間が経過しているかが最大の論点となります。地球の年齢は、年代測定の技術が発展する20世紀後半を待たねばなりませんが、論争の決着はもっと早くみました。
激変説は、当初多くの支持を受けていたのですが、いくつも不都合な点が見つかってきました。化石種だけに見られる絶滅種が、多数見つかってきました。中生代の恐竜のように、今ではまったく見られない種があまりに多く存在しました。また、ケルビン卿(ウィリアム・トムソン、William Thomson、1824~1907)は、灼熱の地球(当時地球はそのような起源を考えていた)から現在の温度まで冷めるまでの時間を計算すると、とてつもなく長い時間(2000万年から4億年)が必要だとしました。などなど、多くの化石、地層、データなどの集積によって、激変説ではどうにも説明できない事実が増えていきました。
1830年代には、ライエル(C. Lyell、1797~1875年)が「地質学原理」という本を出版して、そのような斉一説をまとめました。やがて、斉一説が世に広まり、主流派へと転換していきます。「地質学原理」は科学が目指すべき方向を示していました。斉一説は、地質学のみにとまらず、近代的な科学の確立に重要な役割を果たしました。
「地質学原理」を、若きダーウィンはビーグル号の航海中に携え読んでいました。地球には、十分な時間が流れていたという確信を持ちました。その地球に流れた長い時間を利用して、生物が進化したとする考えが、1859年、ダーウィン(C.R. Darwin、1809~1882)の「種の起源」によって唱えられました。
科学とは、事実から仮説を立て、それを実証するものです。仮説に基づいて、新たな事実を積み重ねていきます。そして、仮説を修正したり、まったく新たな仮説をつくる。科学は、データが少ないときは、常識や従来からの考え方で説明しようとされます。しかし、データが増えてくるとともに、従来の考えの修正や追加では、どうにもならないことになってきます。そして、やがてパラダイム転換が起こります。この18世紀のパラダイム転換は、科学と宗教と分離ということも成し遂げました。以降、科学が科学として独立して独自の道を歩むことができたのです。
こんな繰り返しが、科学の営みといえます。科学のすばらしさは、かつての説を否定するという、自己修正機能を持っていることかもしれません。
・宗教の呪縛・
現在の日本にいると宗教の呪縛の意味をあまり感じることはありません。
しかし、日本でも、キリスト教や仏教を命を懸けて信じ、
その信念を貫いた庶民が多数いた時代もありました。
ですから、日本人が宗教の呪縛がないというわけではありません。
ただ、現在そういう時代に生きているというに過ぎないのです。
今も、宗教に殉じ、命を賭して戦っている人も多数います。
これが人間の性というには、あまりにむなしい気がします。
人類は科学という非常にすばらしい考え方を手に入れました。
宗教の教義自体の真偽を問うのではなく、
宗教と社会、宗教と科学などのあり方に対して
もっとよい考え方は生まれないでしょうか。
誰が何を信じても、共存できる社会は生まれないのでしょうか
・今時の学生気質・
大学は講義は終わり、定期試験が行われています。
2月から3月にかけて入試のはじまります。
大学入学は選り好みしなければ
必ず入れる時代になりました。
ただ、就職は非常に大変になってきています。
大学を卒業しても必ずしも望む職に就けるとは限りません。
せっかく決めた職も内定取り消しも起こりました。
入るに易く出るに難く。
そんな時代になりました。
それでも、職に執着せず、
職を見つけず卒業していく学生も、
かなりの数見かけるようになりました。
人それぞれですが、若い貴重な時間を
有意義に使ってもらいたいと願っています。
2009年1月1日木曜日
84 私は進化しているのか:進化の進化(2009.01.01)
明けまして、おめでとうございます。今年も引き続き「Terra Incognita 地球のつぶやき」をよろしくお願いします。2009年最初のエッセイとして、ついついやってしまいがちな物言いについて考えていきます。これは自戒の意味をこめて書いています。
誰もが思い当たると思いますが、「近頃の若い者は・・・」とか「自分の若いときは・・・」という物言いをすることがよくあります。そのような物言いは、年齢を経ると共に多くなっていくように思えます。しかし、よくよく思い返してみると、年をとってから、そのような物言いをしはじめたのではなく、ずっと以前からやっていることのような気がします。
現役の大学生との会話の中で、大学生からも、「最近の小学生は・・・」や「自分が子供のころは・・・」という物言いを聞くことがあります。自分もたぶん大学生のころも、同じような物言いをしていたのでしょう。ですから、ある程度年齢を経ると、人はだれでもこのような物言いをしてしまうものなのかもしれません。ただ、年齢と共にそのような物言いの頻度は確実に増えている気がしますが。
さて、「近頃の若い者は・・・」という物言いの問題点は、経験や年齢という年少の者には決して勝ちようがない土俵で、美化した自分自身の記憶と比べています。このような比較は、身勝手なもので、卑怯な手法ではないでしょうか。これを議論の手段とするのは、公正ではありません。
「自分の若いときは・・・」という物言いは、身勝手な比較になることも多いのですが、別の場面で使われることもあります。自分を貶めて語る場合です。たとえば、「私も若い頃はこんな失敗をよくしたんですよ」とか、「私も若い頃は、無茶なことを・・・」とか「私は若い頃はバカで・・・」などと、自分の失敗例を出して語ることがあります。本音では、粗暴やバカだと思っているわけではなく、そのような物言いで、自分も「そんな弱点をもっていた人間」ということを表出しているのではないでしょうか。
過去の自分自身を出して自虐的に、誰にもなじみやすい一般論を述べる方法です。でも、自分を本当に卑下しているわけではなく、話を聞いてもらいやすくするという無意識の配慮でしょう。そのような物言いに文句のつけようがありません。もし文句を言うと、相手の昔の所業を責めることになりますし、自虐的な物言いを否定しても険があるだけです。
このような本音とは違う物言いをして場面がよくありそうです。言葉のあやで、本音は別にあるというといってしまえばそれまでです。しかし、そのような物言いもほどほどにしておかないと、時には本音を忘れ、間違った物言いだけが残っていくこともあります。
今回の議論は、このような物言いとは逆で、もともとは別の意味だったものが、無意識に本音に近い物言いになってしまう場合の話しです。そのような変移する物言いに含まれる本質について考えていきます。
科学の世界で、意味がすり替わった例を紹介しましょう。
生物学では、「進化」は重要な概念です。生物学者の大部分は、進化が自然界で起こっていると考えています。もちろん科学者でない市民も、生物の進化を知っています。しかし、巷間では、進化という言葉は生物界の変化だけでなく、いろいろなものの変化に対して適用されています。文明の『進化』、コンピュータ技術の『進化』、宇宙の『進化』、革新的『進化』、などなど、例を挙げればきりがありません。
本来、生物学における進化という述語は、一般に使われているものとは違った意味合いで使われます。進化という言葉は、もともとは生物学から転用されたはずです。しかし、進化が使われている場面は、もともとの意味とは違ったものになっています。生物学者も、同様の間違いを犯していることがあります。
進化とは、英語でevolutionです。もともとはラテン語「evolutio」から由来する言葉で、「(巻物などを)開くこと」という意味でした。そこから、英語のevolutionでは、「(劇などの)時間的な展開」という意味に使われるようになりました。ですから、もともとは、現在の「進化」という意味合いはありませんでした。
ダーウィンは、「種の起源」の中で、「evolution」という言葉を、最初は使っていませんでした。彼が「進化」の意味合いで使ったのは、「descent with modification」という言葉です。「descent」とは、「家系、系図、血統」とか「世襲、相続」という意味です。ですから、「descent with modification」とは、「変化を伴う系統」という意味となります。翻訳としては、「変化を伴う継承」が使われることが多いようです。
ダーウィンが「evolution」という言葉を使わなかったのは、ホムンクルス説というものがあり、そこから派生したの前成説の中で使われていたからです。
「ホムンクルス説」とはもともと、錬金術の一種で、人工生命体を作る方法があるという考えです。その概念を、生物学が、「前成説」の一部として用いていました。「前成説」とは、精子(あるいは卵)の中にヒトの形をした「ホムンクルス」がすでに入っていて、それが成長してしていくのが生物の誕生であるとするものです。そして成長した個体の精子や卵子にはホムンクルスがいる、という生命が入れ子状になっている考え方です。「evolution」とは、生命とは、精子の中の小人が入れ子状に、次々と世代交代していくという意味の言葉だったようです。
ダーウィンは、「前成説」で使われていた言葉を、「種の起源」で使うという発想にはならなかったのでしょう。
ダーウィンが「種の起源」の中で語った「descent with modification」、つまり「進化」とは、個体の変化がどのように蓄積し継承されていくかということです。「進化」の原因を、「自然選択」だと考えました。
ここで注意が必要なのですが、個体は適応も進化もしません。ただ、自然選択されることで、生き延びやすい個体と生き延びにくい個体が生じるだけです。また、種は淘汰や競争をしません。生き延びた個体の変化が継承されていき、それが新たな種へと導きます。
「evolution」という言葉を、現代風の使い方で世間に広めたのは、社会学者のスペンサーです。スペンサーは、「社会はどんどん複雑なものになる」という考え方で「evolution」という言葉を使いました。そこには、明らかに進化が進歩や発展という意味を持っていました。現代よく使われている『進化』と同じ意味です。
「survival of the fittest」(適者生存)や「struggle for existence」(生存競争、生存闘争)という用語も、スペンサーが用いたものです。ダーウィンは、「種の起源」の後の版で、「自然淘汰」より「生存競争」の方が、「正確な表現」で、「時には同じくらい便利」としています。しかし、スペンサーが用いた「evolution」という言葉には、当初、抵抗を示していました。それは、生物の「進化」には、「進歩」という意味合いはまったく含まれているないはずなので、ふさわしくない用語だからです。
一方、当時のキリスト教的世界では、ヒトは、神に似せてつくられた生き物で、他の種に比べて、もっとも『進化』した種という位置づけでした。この考えは、キリスト教を信じる限り、無意識に受け入れられていた考え方です。ダーウィンの時代の科学者も、ヒトは万物の霊長であると考え、ヒトはその生物種より『進化』していると考えていました。この考えは今も、私たちには心地よい響きを持っています。そして実際、スペンサー流の『進化』は、現在も広く流布しています。
ヒトは他のどの生物より、高度で進歩しているという考えは、ヒトという種にとって、都合のよいものです。多く人は意識せず、「進化」を進歩しているという意味で使います。科学者でも、意識しないときは、「進化」と進歩を区別せず使ってしまうことがあります。
ある時代の社会背景は、すべての思考に影響を与えます。この背景からは、科学者でも、逃れることができません。その背景から逃れるためには、常識に対して強い問題意識を持ちつづけないとなりません。私は、大学で、「生物学で使われる進化には進歩という意味ない」と講義しています。でも、気を許すとついつい背景に飲み込まれます。もともとの定義を知っていて、定義に反する術語の使用は、重要な間違を犯しているわけです。教える立場で、たとえ無意識であろうと誤用するのは、講義で悪癖を流布させていることになります。注意が必要です。生物学を専門にしていない先生の物言いの中に、進化ということばが、進歩という意味合いで使われていることがよく見受けられます。
科学の世界でもこのようなことがおこるのですから、普段使いの語り口におておや、です。無意識に本来の意味からずれてしまうことがよく起こります。気をつけないと、そんな繰り返しが、ずれたままの使用を定着させてしまいます。まして、それが本音に近いずれであったりすると、ますますその傾向は強くなるはずです。
最初に示した例のように、勝ちようがない比較での非難や自虐的な物言いなどは、結局は、自分の本音を棚に上げて語っているのです。「自分のことを棚に上げる」物言いは、褒めらない方法であることは、だれもが知っています。そのような物言いは、決して自分の人間性が良く見えるようにするものではありません。でも、無意識についつい「自分の棚上げ」は行われています。これは、個人レベルでは、自分が賢いと思っていることや、もっと大きなレベルでは、人類は他の生物種と比べてどこかで勝っていると思っていることなど、いろいろなレベルで起こっています。そのような無意識の思い込みを、他人から指摘されると、嫌な思いをします。これは、「自分の棚上げ」がよくないことだと知っているためでしょう。「自分の棚上げ」をなくすことが『進化』となるはずです。
さてさて、このエッセイの内容も「自分の棚上げ」を注意を促しながら、「自分の棚上げ」して語っている節があります。もしそうなら、年頭から物言いで失敗していることになります。今年は、こんな失敗や誤用にくれぐれも注意していきたいと思っています。
・白い正月・
明けましておめでとうございます。
北海道は、白い年明けとなりました。
12月下旬まで雪は積もらず、
まるで秋のような景色の年末を迎えつつありました。
しかし、年末に寒波が押し寄せ、
やっと北海道の冬らしい雪景色になりました。
しかし、余り急激だと生活に支障をきたします。
私の母が暮れに来て25日に飛行機で帰ったのですが、
その翌日の26日から大荒れの天候となり、
交通は大いに乱れ、飛行機も欠航が相次ぎました。
ほんの少しの差で、母の移動は無事できました。
しかし、この激しい寒波は多く人に影響を与えました。
穏やかな正月になるといいのですが。
・ものは考えよう・
昨年、我が家は、誰かが体調不良の時期が次々とあり、
ぱっとしない年となりました。
今年こそは、体調に気をつけて、
無事に過ごしていきたいと思います。
どんなにやりたいことがあっても、
体調不良ではなにもできません。
ですから、まず健康でいることが大事です。
そんな単純なことを気づかされた昨年1年でした。
もし、体調不良がなければ、
健康のありがたさを忘れていたかもしれません。
前向きに考えれれば、病気がちの1年も意義あるものとして
振り返ることができそうです。
今年も、現在の私の健康法である
通勤のための7kmのウォーキングと週末の水泳をかかすことなく、
健康維持に努めていきたいと考えています。
・母の携帯電話・
年末は、子供たちが次々に風邪を引きました。
母が滞在中も、どちらかの子供が風邪で寝ているという状態でした。
残念ながら、母をあちこちに連れて行く予定が
すべてキャンセルになり、母に残念な思いをさせました。
滞在中、母に専用の携帯電話を渡し、
自宅でも持ってもらうことにしていました。
携帯電話は、主として我が家との連絡用です。
それと母が田畑にいるときの緊急連絡用です。
母は、滞在中にかなり練習をしていたのですが、
なかなかその操作は覚えられないようです。
何度も失敗をして、メールを送るつもりが
電話を間違ってならしてしまいます。
帰宅して翌日の朝6時に突然、
携帯電話がなり、驚かされました。
でも、孫たちと連絡を取るために、
なれない携帯電話の操作に毎日四苦八苦しています。
突然の携帯の呼び出し音も、
70歳を過ぎた母の元気な知らせと考えましょう。
誰もが思い当たると思いますが、「近頃の若い者は・・・」とか「自分の若いときは・・・」という物言いをすることがよくあります。そのような物言いは、年齢を経ると共に多くなっていくように思えます。しかし、よくよく思い返してみると、年をとってから、そのような物言いをしはじめたのではなく、ずっと以前からやっていることのような気がします。
現役の大学生との会話の中で、大学生からも、「最近の小学生は・・・」や「自分が子供のころは・・・」という物言いを聞くことがあります。自分もたぶん大学生のころも、同じような物言いをしていたのでしょう。ですから、ある程度年齢を経ると、人はだれでもこのような物言いをしてしまうものなのかもしれません。ただ、年齢と共にそのような物言いの頻度は確実に増えている気がしますが。
さて、「近頃の若い者は・・・」という物言いの問題点は、経験や年齢という年少の者には決して勝ちようがない土俵で、美化した自分自身の記憶と比べています。このような比較は、身勝手なもので、卑怯な手法ではないでしょうか。これを議論の手段とするのは、公正ではありません。
「自分の若いときは・・・」という物言いは、身勝手な比較になることも多いのですが、別の場面で使われることもあります。自分を貶めて語る場合です。たとえば、「私も若い頃はこんな失敗をよくしたんですよ」とか、「私も若い頃は、無茶なことを・・・」とか「私は若い頃はバカで・・・」などと、自分の失敗例を出して語ることがあります。本音では、粗暴やバカだと思っているわけではなく、そのような物言いで、自分も「そんな弱点をもっていた人間」ということを表出しているのではないでしょうか。
過去の自分自身を出して自虐的に、誰にもなじみやすい一般論を述べる方法です。でも、自分を本当に卑下しているわけではなく、話を聞いてもらいやすくするという無意識の配慮でしょう。そのような物言いに文句のつけようがありません。もし文句を言うと、相手の昔の所業を責めることになりますし、自虐的な物言いを否定しても険があるだけです。
このような本音とは違う物言いをして場面がよくありそうです。言葉のあやで、本音は別にあるというといってしまえばそれまでです。しかし、そのような物言いもほどほどにしておかないと、時には本音を忘れ、間違った物言いだけが残っていくこともあります。
今回の議論は、このような物言いとは逆で、もともとは別の意味だったものが、無意識に本音に近い物言いになってしまう場合の話しです。そのような変移する物言いに含まれる本質について考えていきます。
科学の世界で、意味がすり替わった例を紹介しましょう。
生物学では、「進化」は重要な概念です。生物学者の大部分は、進化が自然界で起こっていると考えています。もちろん科学者でない市民も、生物の進化を知っています。しかし、巷間では、進化という言葉は生物界の変化だけでなく、いろいろなものの変化に対して適用されています。文明の『進化』、コンピュータ技術の『進化』、宇宙の『進化』、革新的『進化』、などなど、例を挙げればきりがありません。
本来、生物学における進化という述語は、一般に使われているものとは違った意味合いで使われます。進化という言葉は、もともとは生物学から転用されたはずです。しかし、進化が使われている場面は、もともとの意味とは違ったものになっています。生物学者も、同様の間違いを犯していることがあります。
進化とは、英語でevolutionです。もともとはラテン語「evolutio」から由来する言葉で、「(巻物などを)開くこと」という意味でした。そこから、英語のevolutionでは、「(劇などの)時間的な展開」という意味に使われるようになりました。ですから、もともとは、現在の「進化」という意味合いはありませんでした。
ダーウィンは、「種の起源」の中で、「evolution」という言葉を、最初は使っていませんでした。彼が「進化」の意味合いで使ったのは、「descent with modification」という言葉です。「descent」とは、「家系、系図、血統」とか「世襲、相続」という意味です。ですから、「descent with modification」とは、「変化を伴う系統」という意味となります。翻訳としては、「変化を伴う継承」が使われることが多いようです。
ダーウィンが「evolution」という言葉を使わなかったのは、ホムンクルス説というものがあり、そこから派生したの前成説の中で使われていたからです。
「ホムンクルス説」とはもともと、錬金術の一種で、人工生命体を作る方法があるという考えです。その概念を、生物学が、「前成説」の一部として用いていました。「前成説」とは、精子(あるいは卵)の中にヒトの形をした「ホムンクルス」がすでに入っていて、それが成長してしていくのが生物の誕生であるとするものです。そして成長した個体の精子や卵子にはホムンクルスがいる、という生命が入れ子状になっている考え方です。「evolution」とは、生命とは、精子の中の小人が入れ子状に、次々と世代交代していくという意味の言葉だったようです。
ダーウィンは、「前成説」で使われていた言葉を、「種の起源」で使うという発想にはならなかったのでしょう。
ダーウィンが「種の起源」の中で語った「descent with modification」、つまり「進化」とは、個体の変化がどのように蓄積し継承されていくかということです。「進化」の原因を、「自然選択」だと考えました。
ここで注意が必要なのですが、個体は適応も進化もしません。ただ、自然選択されることで、生き延びやすい個体と生き延びにくい個体が生じるだけです。また、種は淘汰や競争をしません。生き延びた個体の変化が継承されていき、それが新たな種へと導きます。
「evolution」という言葉を、現代風の使い方で世間に広めたのは、社会学者のスペンサーです。スペンサーは、「社会はどんどん複雑なものになる」という考え方で「evolution」という言葉を使いました。そこには、明らかに進化が進歩や発展という意味を持っていました。現代よく使われている『進化』と同じ意味です。
「survival of the fittest」(適者生存)や「struggle for existence」(生存競争、生存闘争)という用語も、スペンサーが用いたものです。ダーウィンは、「種の起源」の後の版で、「自然淘汰」より「生存競争」の方が、「正確な表現」で、「時には同じくらい便利」としています。しかし、スペンサーが用いた「evolution」という言葉には、当初、抵抗を示していました。それは、生物の「進化」には、「進歩」という意味合いはまったく含まれているないはずなので、ふさわしくない用語だからです。
一方、当時のキリスト教的世界では、ヒトは、神に似せてつくられた生き物で、他の種に比べて、もっとも『進化』した種という位置づけでした。この考えは、キリスト教を信じる限り、無意識に受け入れられていた考え方です。ダーウィンの時代の科学者も、ヒトは万物の霊長であると考え、ヒトはその生物種より『進化』していると考えていました。この考えは今も、私たちには心地よい響きを持っています。そして実際、スペンサー流の『進化』は、現在も広く流布しています。
ヒトは他のどの生物より、高度で進歩しているという考えは、ヒトという種にとって、都合のよいものです。多く人は意識せず、「進化」を進歩しているという意味で使います。科学者でも、意識しないときは、「進化」と進歩を区別せず使ってしまうことがあります。
ある時代の社会背景は、すべての思考に影響を与えます。この背景からは、科学者でも、逃れることができません。その背景から逃れるためには、常識に対して強い問題意識を持ちつづけないとなりません。私は、大学で、「生物学で使われる進化には進歩という意味ない」と講義しています。でも、気を許すとついつい背景に飲み込まれます。もともとの定義を知っていて、定義に反する術語の使用は、重要な間違を犯しているわけです。教える立場で、たとえ無意識であろうと誤用するのは、講義で悪癖を流布させていることになります。注意が必要です。生物学を専門にしていない先生の物言いの中に、進化ということばが、進歩という意味合いで使われていることがよく見受けられます。
科学の世界でもこのようなことがおこるのですから、普段使いの語り口におておや、です。無意識に本来の意味からずれてしまうことがよく起こります。気をつけないと、そんな繰り返しが、ずれたままの使用を定着させてしまいます。まして、それが本音に近いずれであったりすると、ますますその傾向は強くなるはずです。
最初に示した例のように、勝ちようがない比較での非難や自虐的な物言いなどは、結局は、自分の本音を棚に上げて語っているのです。「自分のことを棚に上げる」物言いは、褒めらない方法であることは、だれもが知っています。そのような物言いは、決して自分の人間性が良く見えるようにするものではありません。でも、無意識についつい「自分の棚上げ」は行われています。これは、個人レベルでは、自分が賢いと思っていることや、もっと大きなレベルでは、人類は他の生物種と比べてどこかで勝っていると思っていることなど、いろいろなレベルで起こっています。そのような無意識の思い込みを、他人から指摘されると、嫌な思いをします。これは、「自分の棚上げ」がよくないことだと知っているためでしょう。「自分の棚上げ」をなくすことが『進化』となるはずです。
さてさて、このエッセイの内容も「自分の棚上げ」を注意を促しながら、「自分の棚上げ」して語っている節があります。もしそうなら、年頭から物言いで失敗していることになります。今年は、こんな失敗や誤用にくれぐれも注意していきたいと思っています。
・白い正月・
明けましておめでとうございます。
北海道は、白い年明けとなりました。
12月下旬まで雪は積もらず、
まるで秋のような景色の年末を迎えつつありました。
しかし、年末に寒波が押し寄せ、
やっと北海道の冬らしい雪景色になりました。
しかし、余り急激だと生活に支障をきたします。
私の母が暮れに来て25日に飛行機で帰ったのですが、
その翌日の26日から大荒れの天候となり、
交通は大いに乱れ、飛行機も欠航が相次ぎました。
ほんの少しの差で、母の移動は無事できました。
しかし、この激しい寒波は多く人に影響を与えました。
穏やかな正月になるといいのですが。
・ものは考えよう・
昨年、我が家は、誰かが体調不良の時期が次々とあり、
ぱっとしない年となりました。
今年こそは、体調に気をつけて、
無事に過ごしていきたいと思います。
どんなにやりたいことがあっても、
体調不良ではなにもできません。
ですから、まず健康でいることが大事です。
そんな単純なことを気づかされた昨年1年でした。
もし、体調不良がなければ、
健康のありがたさを忘れていたかもしれません。
前向きに考えれれば、病気がちの1年も意義あるものとして
振り返ることができそうです。
今年も、現在の私の健康法である
通勤のための7kmのウォーキングと週末の水泳をかかすことなく、
健康維持に努めていきたいと考えています。
・母の携帯電話・
年末は、子供たちが次々に風邪を引きました。
母が滞在中も、どちらかの子供が風邪で寝ているという状態でした。
残念ながら、母をあちこちに連れて行く予定が
すべてキャンセルになり、母に残念な思いをさせました。
滞在中、母に専用の携帯電話を渡し、
自宅でも持ってもらうことにしていました。
携帯電話は、主として我が家との連絡用です。
それと母が田畑にいるときの緊急連絡用です。
母は、滞在中にかなり練習をしていたのですが、
なかなかその操作は覚えられないようです。
何度も失敗をして、メールを送るつもりが
電話を間違ってならしてしまいます。
帰宅して翌日の朝6時に突然、
携帯電話がなり、驚かされました。
でも、孫たちと連絡を取るために、
なれない携帯電話の操作に毎日四苦八苦しています。
突然の携帯の呼び出し音も、
70歳を過ぎた母の元気な知らせと考えましょう。
2008年12月1日月曜日
83 ベリンガー事件と造形力説:化石の認識(2008.12.01)
化石が昔の生き物の一部というのは、当たり前の考え方に思えます。ところが、その考え方にいたるまでには、紆余曲折がありました。その紆余曲折の原因として造形力説があります。造形力説を象徴するようなべリンガー事件が起こりました。それらを紹介しながら化石の認識に関する歴史をみていきしましょう。
化石とは、字のごとく「石に化けてしまう」ことです。何が石に化けるかというと、もともと石でないものです。化石の代表として上げられるのが、貝の殻や歯、骨などがあります。
化石は、英語でfossilと書きますが、ラテン語のfossilisがその語源となっています。ラテン語のfossilisは、「掘り出されたもの」という意味で、現在の化石の意味とはかなり違っています。
もちろん現在では、化石やfossilを「掘り出されたもの」という意味に使われることはありません。今では、小学生でも、化石は昔の生物が石になって発見されたものだ、ということを知っています。その考え方は、直感にあっています。
たとえば、山奥の地層の中から貝化石がでてきたとしたら、どうして山で貝化石が見つかったと考えましょう。貝化石が、今は海に住んでいる貝が持っている殻に似ていることは、誰でも一目見ればわかります。その類似性に注目すれば、この地層自体が海でたまったものであること、そしてその中に海に住んでいた貝も一緒に埋もれてしまったこと、体の身の部分は腐って硬い殻だけが残ったということを、容易に連鎖的推測ができるはずです。この話を子供にしても、十分理解できるでしょう。
昔の人も、同じような発想を持っていました。
中国では、顔真卿(がんしんけい、709~786)や朱子(しゅし、1130~1200)の書いた書物の中に、「化石は過去の生物の遺骸である」という意味の文章があります。ですから、今の同じような化石の認識を持っていたのです。
ギリシア時代にも、タレス(Thales、BC640~546頃)やその弟子のアナクシマンドロス(Anaximandron、BC615~547)は、化石が過去の生物の遺骸であるという考え方をしていました。また、クセノファネス(Xenopanes、BC570~475頃)は、山の地層から見つかった貝化石から、そこがかつて海であったと考えていました。
このように過去の知識人たちは、上で述べたような素直な発想で化石をみて、妥当な推測をしていました。
ところが現在の科学の源流となっている西洋では、そのような認識が長く失われていました。その原因の一つとして、西洋の宗教的背景が挙げられます。化石への間違った認識に至ったのは、宗教の呪縛ともいうべきものがあったためです。
アリストテレス(Aristoteles、BC374~322)は、化石の起源として「造形力説」という考え方を示しました。造形力説は、神秘的な特殊な力によってつくられたという考え方です。化石は、「自然のいたずら」や「神のたわむれの作品」などとする説が中世のヨーロッパでは主流となってのです。
宗教の教義は聖書、それ以外の学問はアリストテレスの考え方が、キリスト教に取り入れられました。この化石の起源の造形力説も、宗教的な背景を支持するものとして、キリスト教が勢力を持っていた間、西洋で主流の考え方として信じられていました。
西洋社会が宗教の呪縛から解き放たれつつあったルネッサンスころには、少しずつ化石の認識が変わってきました。レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci、1452~1519)は、陸で発見した貝化石を、かつて海にすんでいた海生生物が地層にうまり、地殻変動で陸地に上がったという推定をしていました。彼の手記には、その記録が残されています。また、「鉱物学の父」と呼ばれたアグリコラ(G. Agricola、1494~1555)は、1546年に「化石の本性について」を出版して、化石を生物の遺物としていました。
さらに時代が進んで18世紀になると、西洋では産業革命が起こります。それに伴って大規模な土木工事がおこなわれるようになり、各地で化石が発見されるようになりました。それに興味を惹かれる研究者もでてきました。多くの観察事実から化石の正しい認識への道を歩む一方、造形力説を信じている人たちはまだたくさんいました。そんなとき、造形力説の衰退を象徴するようなベリンガー事件がおこりました。
ドイツのヴュルツブルク大学の教授ベリンガー(J. B. A. Beringer、1670~1740)は、三畳紀の石灰岩層に含まれている化石を研究していました。同大学の地理と数学のロデリック教授と大学図書館の司書のエックハルトは、ベリンガー「我々に対しあまりにも横柄で見下した態度をとった」ため、腹を立てたていました。そこで彼らは、ベリンガーに復讐するために、3人の青年を使って、石灰岩を削って偽の化石をつくりました。偽化石をベリンガーが調査で調べそうなところに埋めておきました。
偽化石の中には、クモ、カエル、ハチ、カタツムリ、トカゲや鳥、ナメクジやミミズなど、およそ化石になりそうにないものや、輝く太陽や月、星、彗星の化石、ヘブライ語の文字の化石など信じられないものも含まれていました。
ところが、ベリンガーは、これらすべてを本物と信じて疑問を持たなかったのです。化石の一部は生物の遺骸に由来すると考えていましたが、残りの多くは、「神の気まぐれないたずら」という「造形力説」で解釈していました。また、化石に明に残っていたノミの跡さえ、神がふるったノミの跡と信じていました。一方、ロデリックとエックハルトは、贋作という悪戯が行き過ぎたので、偽造の過程を示したり、偽造した石を送って贋作を知らせたのですが、それすら、自分の手柄を妬んで、貶めるためだと考え無視しました。
彼は、その成果を、1726年に「リトグラフィエ・ヴュルセブルゲンシス」(Lithographiae Wirceburgensis、ヴュルツブルク産化石の石版図集と呼ばれることがあります)を出版しました。
その後すぐに、この贋作事件は発覚し、べリンガーは名誉毀損の訴え、裁判沙汰になりました。ロデリックはヴュルツブルクを離れ、エックハルトも司書をやめざる得ませんでした。べリンガーの名誉は失墜したでしょうが、その後も大学で教鞭をとり続けたようです。
ベリンガー事件の犯人は裁かれ処分を受け、べリンガー人も名誉を傷つけられました。しかし、この贋作事件のそもそもの犯人は、化石が造形力説によって形成されるという考え方がではないでしょう。ある考え方を信じ、それに基づいて行動していくと、たとえその考えが間違っているという証拠が一杯あったしても、見えなくなってしまうのです。「あなたは間違っていますよ」という助言があったとしても、それすら疑ってしまうのです。思い込み、あるいは思い入れには、注意が必要です。常に冷静に、そして公平に周りをみる目が必要です。心しなければなりません。
このような贋作事件は、造形力説が生み出したものですが、18世紀には、斉一説やそれに基づく進化論の登場によって、造形力説が終焉を迎えます。その話は、別の機会にしましょう。
・日本の化石・
日本は、中国の影響によって本草学が
古くから伝わっていてました。
本草学の対象に、化石も含まれていました。
しかし、本草学の中には、現在の化石という認識はありませんでした。
ですから、日本では、化石に対する認識はなかったのです。
日本語の「化石」は、平賀源内などによって用いられ、
木や葉の石になったものの俗称だったそうです。
明治初期より鉱山関係者で化石という言葉や認識が
普及し、定着してきました。
日本の化石の認識は、西洋より遅れていたのです。
・師走・
11月の週末に我が大学の推薦入試が行われました。
もうそんな季節になったのです。
大学では、来春のための準備が着々と進んでいます。
そして、大学を目指す若者は、
必死で入試に臨んでいるわけです。
そんなひたむきな若者の姿をみると、
教員の心に響くものがあります。
応えるべき教員も誠意をもって
入試に当たらなければなりません。
そんな忙しさを感じる師走です。
このエッセイが今年の最後の号となります。
今年一年このメールマガジンの購読ありがとうございました。
来年も継続していきますので、よろしくお願いします。
化石とは、字のごとく「石に化けてしまう」ことです。何が石に化けるかというと、もともと石でないものです。化石の代表として上げられるのが、貝の殻や歯、骨などがあります。
化石は、英語でfossilと書きますが、ラテン語のfossilisがその語源となっています。ラテン語のfossilisは、「掘り出されたもの」という意味で、現在の化石の意味とはかなり違っています。
もちろん現在では、化石やfossilを「掘り出されたもの」という意味に使われることはありません。今では、小学生でも、化石は昔の生物が石になって発見されたものだ、ということを知っています。その考え方は、直感にあっています。
たとえば、山奥の地層の中から貝化石がでてきたとしたら、どうして山で貝化石が見つかったと考えましょう。貝化石が、今は海に住んでいる貝が持っている殻に似ていることは、誰でも一目見ればわかります。その類似性に注目すれば、この地層自体が海でたまったものであること、そしてその中に海に住んでいた貝も一緒に埋もれてしまったこと、体の身の部分は腐って硬い殻だけが残ったということを、容易に連鎖的推測ができるはずです。この話を子供にしても、十分理解できるでしょう。
昔の人も、同じような発想を持っていました。
中国では、顔真卿(がんしんけい、709~786)や朱子(しゅし、1130~1200)の書いた書物の中に、「化石は過去の生物の遺骸である」という意味の文章があります。ですから、今の同じような化石の認識を持っていたのです。
ギリシア時代にも、タレス(Thales、BC640~546頃)やその弟子のアナクシマンドロス(Anaximandron、BC615~547)は、化石が過去の生物の遺骸であるという考え方をしていました。また、クセノファネス(Xenopanes、BC570~475頃)は、山の地層から見つかった貝化石から、そこがかつて海であったと考えていました。
このように過去の知識人たちは、上で述べたような素直な発想で化石をみて、妥当な推測をしていました。
ところが現在の科学の源流となっている西洋では、そのような認識が長く失われていました。その原因の一つとして、西洋の宗教的背景が挙げられます。化石への間違った認識に至ったのは、宗教の呪縛ともいうべきものがあったためです。
アリストテレス(Aristoteles、BC374~322)は、化石の起源として「造形力説」という考え方を示しました。造形力説は、神秘的な特殊な力によってつくられたという考え方です。化石は、「自然のいたずら」や「神のたわむれの作品」などとする説が中世のヨーロッパでは主流となってのです。
宗教の教義は聖書、それ以外の学問はアリストテレスの考え方が、キリスト教に取り入れられました。この化石の起源の造形力説も、宗教的な背景を支持するものとして、キリスト教が勢力を持っていた間、西洋で主流の考え方として信じられていました。
西洋社会が宗教の呪縛から解き放たれつつあったルネッサンスころには、少しずつ化石の認識が変わってきました。レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci、1452~1519)は、陸で発見した貝化石を、かつて海にすんでいた海生生物が地層にうまり、地殻変動で陸地に上がったという推定をしていました。彼の手記には、その記録が残されています。また、「鉱物学の父」と呼ばれたアグリコラ(G. Agricola、1494~1555)は、1546年に「化石の本性について」を出版して、化石を生物の遺物としていました。
さらに時代が進んで18世紀になると、西洋では産業革命が起こります。それに伴って大規模な土木工事がおこなわれるようになり、各地で化石が発見されるようになりました。それに興味を惹かれる研究者もでてきました。多くの観察事実から化石の正しい認識への道を歩む一方、造形力説を信じている人たちはまだたくさんいました。そんなとき、造形力説の衰退を象徴するようなベリンガー事件がおこりました。
ドイツのヴュルツブルク大学の教授ベリンガー(J. B. A. Beringer、1670~1740)は、三畳紀の石灰岩層に含まれている化石を研究していました。同大学の地理と数学のロデリック教授と大学図書館の司書のエックハルトは、ベリンガー「我々に対しあまりにも横柄で見下した態度をとった」ため、腹を立てたていました。そこで彼らは、ベリンガーに復讐するために、3人の青年を使って、石灰岩を削って偽の化石をつくりました。偽化石をベリンガーが調査で調べそうなところに埋めておきました。
偽化石の中には、クモ、カエル、ハチ、カタツムリ、トカゲや鳥、ナメクジやミミズなど、およそ化石になりそうにないものや、輝く太陽や月、星、彗星の化石、ヘブライ語の文字の化石など信じられないものも含まれていました。
ところが、ベリンガーは、これらすべてを本物と信じて疑問を持たなかったのです。化石の一部は生物の遺骸に由来すると考えていましたが、残りの多くは、「神の気まぐれないたずら」という「造形力説」で解釈していました。また、化石に明に残っていたノミの跡さえ、神がふるったノミの跡と信じていました。一方、ロデリックとエックハルトは、贋作という悪戯が行き過ぎたので、偽造の過程を示したり、偽造した石を送って贋作を知らせたのですが、それすら、自分の手柄を妬んで、貶めるためだと考え無視しました。
彼は、その成果を、1726年に「リトグラフィエ・ヴュルセブルゲンシス」(Lithographiae Wirceburgensis、ヴュルツブルク産化石の石版図集と呼ばれることがあります)を出版しました。
その後すぐに、この贋作事件は発覚し、べリンガーは名誉毀損の訴え、裁判沙汰になりました。ロデリックはヴュルツブルクを離れ、エックハルトも司書をやめざる得ませんでした。べリンガーの名誉は失墜したでしょうが、その後も大学で教鞭をとり続けたようです。
ベリンガー事件の犯人は裁かれ処分を受け、べリンガー人も名誉を傷つけられました。しかし、この贋作事件のそもそもの犯人は、化石が造形力説によって形成されるという考え方がではないでしょう。ある考え方を信じ、それに基づいて行動していくと、たとえその考えが間違っているという証拠が一杯あったしても、見えなくなってしまうのです。「あなたは間違っていますよ」という助言があったとしても、それすら疑ってしまうのです。思い込み、あるいは思い入れには、注意が必要です。常に冷静に、そして公平に周りをみる目が必要です。心しなければなりません。
このような贋作事件は、造形力説が生み出したものですが、18世紀には、斉一説やそれに基づく進化論の登場によって、造形力説が終焉を迎えます。その話は、別の機会にしましょう。
・日本の化石・
日本は、中国の影響によって本草学が
古くから伝わっていてました。
本草学の対象に、化石も含まれていました。
しかし、本草学の中には、現在の化石という認識はありませんでした。
ですから、日本では、化石に対する認識はなかったのです。
日本語の「化石」は、平賀源内などによって用いられ、
木や葉の石になったものの俗称だったそうです。
明治初期より鉱山関係者で化石という言葉や認識が
普及し、定着してきました。
日本の化石の認識は、西洋より遅れていたのです。
・師走・
11月の週末に我が大学の推薦入試が行われました。
もうそんな季節になったのです。
大学では、来春のための準備が着々と進んでいます。
そして、大学を目指す若者は、
必死で入試に臨んでいるわけです。
そんなひたむきな若者の姿をみると、
教員の心に響くものがあります。
応えるべき教員も誠意をもって
入試に当たらなければなりません。
そんな忙しさを感じる師走です。
このエッセイが今年の最後の号となります。
今年一年このメールマガジンの購読ありがとうございました。
来年も継続していきますので、よろしくお願いします。
2008年11月1日土曜日
82 生きていた証を残すには:存在証明(2008.11.01)
生きているということについて、ここ数回のエッセイで考えています。今回は、「生きていた証」について考えていきます。「生きていた証」と「生きている証」は、言葉としては似ていますが、実はその意味には大きな違いがあります。「生きていた証」を残すことの難しさと重要性について考えていきます。
「80 生きているとは:生命の定義(2008.09.01)」と「81 生命の宿るもの:生命論(2008.10.01)」で、「生きている」ということについて考えてきました。「生きている」とは、生物学的に考えても、なかなか難しい問題でした。そして、哲学的にも同様に難しい問題でした。
ヨーロッパでは、近世まで、宗教を絶対的なものと考えている社会でした。宗教的な社会では、信仰によってのみすべての「真理」が得られると考えられていました。このような1000年以上にわたる伝統的な考え方は、スコラ哲学として体系化されていました。
ところが近世になり、デカルトが「方法序説」(1637)の中で、「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum:ラテン語)という言葉に象徴されるように、「自己を確立しろ」と唱えました。ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」が有名ですが、実は「方法序説」はフランス語で書かれていました。当時の学術書はラテン語で書かれるのが慣例でしたが、デカルトはあえて母国語であるフランス語で書いたのです。「コギト・エルゴ・スム」は、デカルトの親友のメルセンヌ神父がラテン語訳した言葉なのです。閑話休題。
デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の意味するところは、真理の追究を、人間が本来持っている理性(自然の光と呼んだ)によっておこなうべきだという姿勢を表すものでした。それに共感して、宗教から自己を解き放ち、自己の確立が、この時からはじまったのです。
では、自己が確立されると、次に何がおこるでしょうか。それは、「自分は何のために生きているのか」という自己の生存の目的が重要になってきます。つまり、自分が「生きている証(あかし)」を求めるようになるはずです。「生きている証」とは、自分の「存在証明」であり、「生きがい」ともいえます。言い換えると、一種の自己顕示ともなります。
「生きている」とは、物理的、生物学的に考えれば、自分自身のために、自身の肉体を未来においても存続することで、「生」を少しでも永らえる活動といえます。そのためには、食べなければなりません。「食べる」とは、見方を変えると、今の空腹を満たすという意味のほかに、未来に向けて自己の生を永らえるという重い意味もあります。
人が自分自身を生き永らえるための原動力となるものこそが、「生きがい」と呼ぶべきものではないでしょうか。そして、本当の自己の「生きがい」の発見は、自己の確立から始まるのです。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」には、そのような意味があると思われます。
「生きがい」が昂じると、自分が「この世」に生きているという証を、他人に示したくなります。自分の「存在証明」は、対外的に社会に対しておこなうのですが、最終的には自分の心における満足感を得るためのものです。「死」が訪れれば、自分の「存在証明」は、無になってしまいます。
「生きている証」とは、生きている自分自身のためで、個人の生存期間しか保持できないものです。ところが「生きていた証」は、生が過去になってから、つまり当人が死んでからのことです。「生きている証」は、本人の死とともにすべて消えていきます。「生きていた証」は、本人の意志に関わりなく、残ったり消えたりします。そこには、必然だけでなく、偶然も働きます。本人が生きている間に「生きている証」を残す努力をいくらしても、後の時代にまで、「生きていた証」が残るかどうかはわからないのです。
たとえば、ある研究やある作品などとして「生きている証」が示されたものは、後の時代に「生きていた証」として残るかどうかは、本人には判断できません。同時代の人にも判断できません。その時点で、どんなに「生きている証」が評価されていても、10年後、100年後、1000年後に同じ評価が下されているとは限らないのです。100年前の研究や作品、1000年前の研究や作品で、現代に残っているものが、どれほど少ないかを考えれば、「生きていた証」が残ることの難しさがわかります。
逆に本人が生きているときに「生きていた証」としての評価が低くても、後の時代にその重要性が高く評価され、歴史に名を残すこともあります。
ドイツ人の気象学者ウェゲナー(A.L. Wegener, 1880~1930)は、1912年に、「大陸と海洋の起源」のという著書の中で、「大陸漂移説」を唱えました。彼の大陸漂移説の根拠として、大西洋の両岸の海岸線の類似性、氷河や古気候の連続性、南半球の古生代末の化石の共通性などを挙げ、大陸が分かれて現在の位置に移動したことを主張しました。
現在の科学の基準と照らし合わせても、この根拠は立派に通用するものです。
大西洋をはさんで南アメリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線の形が似ているのは、地図を見れば誰でもわかることです。しかし、当時の地質学者たちは、それは偶然の産物としました。
また、氷河の痕跡や古気候も、同緯度、似た標高であれば、氷河はできるし、似た気候帯もできるのだから、それが大陸が移動したという根拠にはならないとされました。
化石は、当時も重要な根拠でした。化石は、現在でも離れたところの地層を対比するために使われる地質学の基本的な手法でもあります。当時の地質学者も、当然両大陸に似た化石があることを知っていました。しかし、大陸は動くはずもない考えていた地質学者たちは、「陸橋説」で説明していました。
陸上植物や陸上動物などが移動するためには、陸地が必要です。海で隔たった大陸で似た化石があるのならば、大陸間を橋のように細くてもいいから一時的に陸地つづきであったと考えたのです。そのような陸地の橋を陸橋と呼んだのです。陸橋説は、地質学ではよく使われている説明方法で、実際に一時的に陸続きなっていた地域もあり、実用的でもありました。実際には、大西洋はあまりに広く、陸橋の証拠もありませんでした。当時は海底の情報がなく、消えた陸橋の痕跡なというような反論をすることもできませんでした。
地質学者ではなく気象学者だというハンディだけでなく、ウェゲナーの不幸であった点は、当時の地質学者が、そろって大陸漂移説を否定するか無視をしたことでした。反論としては、ウェゲナーの漂移説の最大の問題点である大陸移動の原動力が証明できないことが指摘されました。ウェゲナーはマントル対流を理由としてあげていましたが、証拠がなく説得できませんでした。
ウェゲナーは、大陸漂移説が評価されることなく、1930年におこなったグリーンランドの5回目の調査中に遭難して、50歳で死にました。翌年遺体が見つかりました。ウェゲナーの死とともに、大陸漂移説は正当な評価を受けることなくこの世から忘れ去られたのです。
ところが1950年代に、プレートテクトニクスの出現によって、ウェゲナーの大陸漂移説は復活し、評価されました。今では、当時ウェゲナーを批判した多数の地質学者の名前は歴史から消えましたが、ウェゲナーの名前は歴史に残り、今も彼の書いた「大陸と海洋の起源」は再出版され、何度も翻訳され、多くの人に古典として読まれています。
ウェゲナーの「大陸と海洋の起源」は、自分が生きている間は、非難の矢面に立たせる「生きている証」であったのです。しかし、「大陸と海洋の起源」を書いたからこそ、彼は「生きていた証」として蘇ったのです。同じ本が、ウェゲナーに時間経て批判と賞賛の両方を与えたのです。
「生きていた証」は意図して残ることはできませんが、「生きている証」は意図して残すことはできます。生きている人間にとって、「生きている証」を残す努力はできるのです。人間社会において「生きている証」を残さないことには、「生きていた証」として残る可能性はゼロに近いのです。もし、「生きている証」を残せば、そこには、「意図しない評価」が生じることもあります。だから、私たちは、対外的に自分の「存在証明」を残し続けていかなければならないのです。
ところが自然界は、意図しされた存在証明などありません。そこには意図されない存在証明しかないのです。古生物学という学問は、過去を探る手法として、化石を用います。古生物学では、過去の生物の一部を「生きていた証」として用いて研究をしていきます。化石は、生物が生きていたという証拠になります。生物の死が、科学の素材となるのです。しかし、化石なった生物は、意図して死んだわけではありません。でも、その死が無駄になることなく、存在証明として、私たちの科学で蘇ったのです。死が資料として、本人は「意図しない評価」が生じるのです。古生物学とは、死の蓄積の上に築かれているのです。化石の元になった生物の死は、古生物学にとってなくてはならないものとなっています。
化石は、生物が、その時代に、その地で、生きていたという存在証明です。存在証明こそ「生きていた証」なのです。
・累々たる死・
以前、私は自然史博物館に勤務していました。
博物館には、恐竜の化石、大きなアンモナイト化石、
動物の骨格、剥製、植物の押し葉標本、昆虫の標本など
わくわくするようなものがいろいろありました。
もちろん今も展示されています。
考えてみると自然史博物館とは、死の蓄積、展示所ともいえます。
見事な死体が、子供たちや市民に、
昔の不思議な生物、現在の多様な生物を教えてくれるのです。
展示場でそのような状態ですから、
収蔵庫は、もっと死が満ち満ちています。
累々たる死の山が、彼らが生きていた証として
科学を進めているのですね。
・秋も終わり・
北海道は、いよいよ秋も終わりに近づいてきました。
近隣の山並みにも、初冠雪がありました。
通勤途中の道から、白くなった山並みを見ることができました。
里でも、冷たい風が吹くようになってきました。
例年、札幌市内では、10月下旬から11月上旬に初雪が観察されます。
もう11月ですから、いつ初雪があってもおかしくない状態です。
朝夕の通勤で寒さがこたえるようになって来ました。
冬のコートを着なければならないほど
冷え込みに強くなりました。
「80 生きているとは:生命の定義(2008.09.01)」と「81 生命の宿るもの:生命論(2008.10.01)」で、「生きている」ということについて考えてきました。「生きている」とは、生物学的に考えても、なかなか難しい問題でした。そして、哲学的にも同様に難しい問題でした。
ヨーロッパでは、近世まで、宗教を絶対的なものと考えている社会でした。宗教的な社会では、信仰によってのみすべての「真理」が得られると考えられていました。このような1000年以上にわたる伝統的な考え方は、スコラ哲学として体系化されていました。
ところが近世になり、デカルトが「方法序説」(1637)の中で、「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum:ラテン語)という言葉に象徴されるように、「自己を確立しろ」と唱えました。ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」が有名ですが、実は「方法序説」はフランス語で書かれていました。当時の学術書はラテン語で書かれるのが慣例でしたが、デカルトはあえて母国語であるフランス語で書いたのです。「コギト・エルゴ・スム」は、デカルトの親友のメルセンヌ神父がラテン語訳した言葉なのです。閑話休題。
デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の意味するところは、真理の追究を、人間が本来持っている理性(自然の光と呼んだ)によっておこなうべきだという姿勢を表すものでした。それに共感して、宗教から自己を解き放ち、自己の確立が、この時からはじまったのです。
では、自己が確立されると、次に何がおこるでしょうか。それは、「自分は何のために生きているのか」という自己の生存の目的が重要になってきます。つまり、自分が「生きている証(あかし)」を求めるようになるはずです。「生きている証」とは、自分の「存在証明」であり、「生きがい」ともいえます。言い換えると、一種の自己顕示ともなります。
「生きている」とは、物理的、生物学的に考えれば、自分自身のために、自身の肉体を未来においても存続することで、「生」を少しでも永らえる活動といえます。そのためには、食べなければなりません。「食べる」とは、見方を変えると、今の空腹を満たすという意味のほかに、未来に向けて自己の生を永らえるという重い意味もあります。
人が自分自身を生き永らえるための原動力となるものこそが、「生きがい」と呼ぶべきものではないでしょうか。そして、本当の自己の「生きがい」の発見は、自己の確立から始まるのです。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」には、そのような意味があると思われます。
「生きがい」が昂じると、自分が「この世」に生きているという証を、他人に示したくなります。自分の「存在証明」は、対外的に社会に対しておこなうのですが、最終的には自分の心における満足感を得るためのものです。「死」が訪れれば、自分の「存在証明」は、無になってしまいます。
「生きている証」とは、生きている自分自身のためで、個人の生存期間しか保持できないものです。ところが「生きていた証」は、生が過去になってから、つまり当人が死んでからのことです。「生きている証」は、本人の死とともにすべて消えていきます。「生きていた証」は、本人の意志に関わりなく、残ったり消えたりします。そこには、必然だけでなく、偶然も働きます。本人が生きている間に「生きている証」を残す努力をいくらしても、後の時代にまで、「生きていた証」が残るかどうかはわからないのです。
たとえば、ある研究やある作品などとして「生きている証」が示されたものは、後の時代に「生きていた証」として残るかどうかは、本人には判断できません。同時代の人にも判断できません。その時点で、どんなに「生きている証」が評価されていても、10年後、100年後、1000年後に同じ評価が下されているとは限らないのです。100年前の研究や作品、1000年前の研究や作品で、現代に残っているものが、どれほど少ないかを考えれば、「生きていた証」が残ることの難しさがわかります。
逆に本人が生きているときに「生きていた証」としての評価が低くても、後の時代にその重要性が高く評価され、歴史に名を残すこともあります。
ドイツ人の気象学者ウェゲナー(A.L. Wegener, 1880~1930)は、1912年に、「大陸と海洋の起源」のという著書の中で、「大陸漂移説」を唱えました。彼の大陸漂移説の根拠として、大西洋の両岸の海岸線の類似性、氷河や古気候の連続性、南半球の古生代末の化石の共通性などを挙げ、大陸が分かれて現在の位置に移動したことを主張しました。
現在の科学の基準と照らし合わせても、この根拠は立派に通用するものです。
大西洋をはさんで南アメリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線の形が似ているのは、地図を見れば誰でもわかることです。しかし、当時の地質学者たちは、それは偶然の産物としました。
また、氷河の痕跡や古気候も、同緯度、似た標高であれば、氷河はできるし、似た気候帯もできるのだから、それが大陸が移動したという根拠にはならないとされました。
化石は、当時も重要な根拠でした。化石は、現在でも離れたところの地層を対比するために使われる地質学の基本的な手法でもあります。当時の地質学者も、当然両大陸に似た化石があることを知っていました。しかし、大陸は動くはずもない考えていた地質学者たちは、「陸橋説」で説明していました。
陸上植物や陸上動物などが移動するためには、陸地が必要です。海で隔たった大陸で似た化石があるのならば、大陸間を橋のように細くてもいいから一時的に陸地つづきであったと考えたのです。そのような陸地の橋を陸橋と呼んだのです。陸橋説は、地質学ではよく使われている説明方法で、実際に一時的に陸続きなっていた地域もあり、実用的でもありました。実際には、大西洋はあまりに広く、陸橋の証拠もありませんでした。当時は海底の情報がなく、消えた陸橋の痕跡なというような反論をすることもできませんでした。
地質学者ではなく気象学者だというハンディだけでなく、ウェゲナーの不幸であった点は、当時の地質学者が、そろって大陸漂移説を否定するか無視をしたことでした。反論としては、ウェゲナーの漂移説の最大の問題点である大陸移動の原動力が証明できないことが指摘されました。ウェゲナーはマントル対流を理由としてあげていましたが、証拠がなく説得できませんでした。
ウェゲナーは、大陸漂移説が評価されることなく、1930年におこなったグリーンランドの5回目の調査中に遭難して、50歳で死にました。翌年遺体が見つかりました。ウェゲナーの死とともに、大陸漂移説は正当な評価を受けることなくこの世から忘れ去られたのです。
ところが1950年代に、プレートテクトニクスの出現によって、ウェゲナーの大陸漂移説は復活し、評価されました。今では、当時ウェゲナーを批判した多数の地質学者の名前は歴史から消えましたが、ウェゲナーの名前は歴史に残り、今も彼の書いた「大陸と海洋の起源」は再出版され、何度も翻訳され、多くの人に古典として読まれています。
ウェゲナーの「大陸と海洋の起源」は、自分が生きている間は、非難の矢面に立たせる「生きている証」であったのです。しかし、「大陸と海洋の起源」を書いたからこそ、彼は「生きていた証」として蘇ったのです。同じ本が、ウェゲナーに時間経て批判と賞賛の両方を与えたのです。
「生きていた証」は意図して残ることはできませんが、「生きている証」は意図して残すことはできます。生きている人間にとって、「生きている証」を残す努力はできるのです。人間社会において「生きている証」を残さないことには、「生きていた証」として残る可能性はゼロに近いのです。もし、「生きている証」を残せば、そこには、「意図しない評価」が生じることもあります。だから、私たちは、対外的に自分の「存在証明」を残し続けていかなければならないのです。
ところが自然界は、意図しされた存在証明などありません。そこには意図されない存在証明しかないのです。古生物学という学問は、過去を探る手法として、化石を用います。古生物学では、過去の生物の一部を「生きていた証」として用いて研究をしていきます。化石は、生物が生きていたという証拠になります。生物の死が、科学の素材となるのです。しかし、化石なった生物は、意図して死んだわけではありません。でも、その死が無駄になることなく、存在証明として、私たちの科学で蘇ったのです。死が資料として、本人は「意図しない評価」が生じるのです。古生物学とは、死の蓄積の上に築かれているのです。化石の元になった生物の死は、古生物学にとってなくてはならないものとなっています。
化石は、生物が、その時代に、その地で、生きていたという存在証明です。存在証明こそ「生きていた証」なのです。
・累々たる死・
以前、私は自然史博物館に勤務していました。
博物館には、恐竜の化石、大きなアンモナイト化石、
動物の骨格、剥製、植物の押し葉標本、昆虫の標本など
わくわくするようなものがいろいろありました。
もちろん今も展示されています。
考えてみると自然史博物館とは、死の蓄積、展示所ともいえます。
見事な死体が、子供たちや市民に、
昔の不思議な生物、現在の多様な生物を教えてくれるのです。
展示場でそのような状態ですから、
収蔵庫は、もっと死が満ち満ちています。
累々たる死の山が、彼らが生きていた証として
科学を進めているのですね。
・秋も終わり・
北海道は、いよいよ秋も終わりに近づいてきました。
近隣の山並みにも、初冠雪がありました。
通勤途中の道から、白くなった山並みを見ることができました。
里でも、冷たい風が吹くようになってきました。
例年、札幌市内では、10月下旬から11月上旬に初雪が観察されます。
もう11月ですから、いつ初雪があってもおかしくない状態です。
朝夕の通勤で寒さがこたえるようになって来ました。
冬のコートを着なければならないほど
冷え込みに強くなりました。
2008年10月1日水曜日
81 生命の宿るもの:生命論(2008.10.01)
生命という言葉、なにか生物の違ったニュアンスがあります。生物が実体があるのに対して、生命は生物の中に宿っている目に見えない何かのような意味合いに使っています。生命という不思議なものについて考えていきましょう。
生物の定義は、なかなか難しいものです。前回のエッセイでも取り上げたように、生物なら満たすべき条件を示すことは可能で、多くの生物はその条件を満たしています。たとえば、個体、代謝、複製、進化というキーワードを、必要条件としてして挙げることはできます。
しかし、本当にそれで生物の定義を完全にできたかどうかは、怪しいものです。なぜなら、生物の十分条件を挙げることができていないからです。「生きている」ということは、先にあげた必要条件でだけではすまない、やはり神秘的な部分があります。その神秘的なものを「生命を宿す」などと表現しているのではないでしょうか。生物は「生命を宿す」ものといえます。「生命を宿す」かどうか、つまり生きているかどうかは、直感的にわかるようなものもあるのですが、生死の境界があやふやな生物もいます。
生物も生命と呼ぶと、とたんに曖昧模糊としたものになりそうです。このような疑問は、私だけのものではなく、昔から悩んできたものです。たとえば、「霊魂」という言葉があります。霊魂とは、「身体内にあってその精神・生命を支配すると考えられている人格的・非肉体的な存在」(広辞苑)として、生きているものにあり、死ぬと肉体から抜けていくものと捉えられていました。人間だけに霊魂があるのではなく、生物全部にあるという考え方もあります。
このような生命について考えることを、生命論(あるいは生命観)と呼ばれてきました。もちろん、生命をどう考えるかは、科学の発展によって変わってきます。
西洋では、そのような霊魂の存在を認める立場で、生気論(活力論ともいう)という考え方がありました。生気論は、古くからある考え方で、生物に非物質的な「生命力」と呼べるようなものが存在していて、無機物とは異なった現象をおこすという考え方です。
生命論には、三大問題がありました。
1 無機物からの生物の発生が可能か
2 個体発生は前成か後成か
3 生物の種は不変か、それとも進化するか
の3つです。今では、これら3つの問題は、生物学の問題として解くことになります。かつては、この3つの問題でどの考えをとるかは、キリスト教の教義にかかわる重要な問題でした。キリスト教では、神が生物をつくり(1は生物の発生はない)、個体発生は前成説で、種の不変という立場でした。
1の問題には、2つの側面があります。ひとつは生物の起源と、もうひとつは個々の個体の発生の問題です。
個体発生において、無機物から生物が発生することを自然発生といいます。生物の自然発生については、L.パスツールが1862年におこなった有名な「白鳥のくびフラスコ」の実験によって否定されています。空気だけが出入りする長く細いフラスコを使って行われた巧みな実験です。フラスコの中に生命が自然発生しそうな条件(栄養や環境条件)を与えたのですが、生物は発生しないという実験でした。この実験によって、個体の自然発生がないという決着がつきました。
では、生物は自然発生をしないのなら、神がつくったのかということになります。現代の科学は、それは否定してます。しかし、残念ながら生物の起源について完全な答えは、まだ出ていません。ただ、1936年、オパーリンによって科学的研究の方向性が示され、1953年におこなわれたユーリーとミラーの原始生物の誕生に関する実験によって、生物起源も科学的に探究できる可能性が示されました。以来、いろいろな実験が行われ、生物起源に迫ろうとしています。しかし残念ながら、科学的に生物起源のシナリオは、まだ完成していません。
2の問題の中にあった前成と後成というのは、聴きなれない言葉です。生物の個体発生のときに、成体の原型が卵・精子あるいは受精卵にすでにあるというのが前成で、もともと特別は構造はなく受精後いろいろな器官ができて最後に成体になるというのが後成です。
2に関しては、キリスト教の重要な論理的指針をつくったアリストテレスは、後成説をとっていました。顕微鏡ができて、受精卵の観察ができるようになると、後成説を示す証拠が見つかってきました。ですから、現在の科学では、前成説は否定され、後成説となっています。
3の問題については、ダーウィンの「種の起原」(1859年)よって進化の考えが提示されて以来、科学は多数の化石などの証拠から進化が起こっていることを示しました。
でも、よく考えると、これら3つの問題も、実は生物の必要条件を検討していることになります。科学とは、必要条件を求める行為なのかもしれません。
科学の発展にともなって、17世紀ころの西洋では、生物は一種の機械とみなす「生命機械論」が生まれてきました。生命機械論とは、生物の現象を最終的に物質現象として理解していこうという立場で、今の科学のアプローチと同じものです。
デカルトは、「人間論(1633年に書かれたのですが、この年のガリレイ宗教裁判を知ってその発表を断念しています)」や「方法序説(1637年)」の中で、生命機械論を展開しています。「方法序説」では、動物を「ゼンマイをまいた自動機械」と書いています。ですから、霊魂の存在を議論することなく、生物を機械として解明していこうという考え方でした。魂(アニマ)の存在は認めながら、植物も動物も人体も機械と同様の物体であるとしました。そして、最終的には、科学と宗教を分離しようという主張になります。
その後も、生命機械論は受け継がれ、ラ・メトリーの「人間機械論」(1748年)では人間の霊魂をも否定し、生命機械論を徹底していく立場のありました。当時、このような生命機械論は、少数意見で、反キリスト教の危険思想でもありあまり受け入れませんでした。
18世紀後半から現在まで、生命機械論は還元主義的機械論となっていきます。生命現象は、究極には物理的、化学的現象であり、物理的、化学的法則によってすべて解明できるという考え方です。そこでは、特殊な生命力や霊魂などというものは認めていません。
さらに、F.ウェーラーは1828年に無機化合物から尿素を、A.W.H.コルベは1845年に酢酸を合成しました。それまで生物しかつくりえないと考えられてきた有機物が化学的に合成されたのです。これらの実験によって、ますます、生命力や霊魂などが必要でないということになりました。
19世紀後半に、エンゲルスが弁証法的唯物論の立場での生命観を論じ、その考え方が、20世紀の唯物論者に引きつがれた。そして今の科学へとつながります。
もちろん、そのような考え方に批判的な立場もあります。たとえば、デュ・ボア・レーモンは、機械論的立場を取りながらも、宇宙の究極には不可知の問題が残るはずだとして、単純な唯物論的理解を批判した。20世紀初頭になると、各種の現代的な生命論が現れました。H.ドリーシュは、1899年に生気論に立つことを表明し、「有機体の哲学」(1909年)で新生気論を展開し、動物の調和した現象を成り立たせる超物質的原理が存在するとしました。ほかにも、J.C.スマッツやJ.S.ホールデンの全体論(holism)、ベルタランフィの有機体論などが現代の生命論としてあります。
20世紀後半には情報理論の分野が発展してきて、生物学にも広く適用されてきました。そのから、生物の個体を自動制御機械とみなすような考えもできてきました。たとえば、ウィーナーによる生体を自動制御のシステムと見なすサイバネティックスや、ベルタランフィの一般システム理論、人間を一種の有限自動機械(ファイナイト・オートマトン)とする見方などが、広がってきました。
今後も、生物に関する現象は、科学の進歩によってますます詳しくわかっていくはずです。しかし、やはりどうしても解けない、理解しがたい存在して「生命」は残るような気がします。生物を生物たらしめるなんらかの存在、まさに生命力や霊魂のような存在を認めるか否かの選択に、最終的になりそうです。
・授業スタート・
わが大学も、いよいよ後期の講義が始まりました。
またあわただしい日々が続きます。
わが大学は、他の大学に比べて、
後期のスタートが1週間遅くなっています。
でも、いよいよ講義が始まります。
これが大学の日常といいうべきものでしょうが、
やはり長い休みから講義が始まるときは、
つらいものがあります。
これが重要な本務ですから手を抜くことができません。
・秋・
今年の夏は例年なみの気温でしたが、
9月の中旬から北海道は、
急に冷え込みだしました。
朝夕は寒く、上着がないとすごせないほどです。
まだストーブはつけていませんが、
寒がりの人たちは、もうつけているかもしれません。
ところが、我が家の次男は、まだ半袖でいます。
家内がいくら言っても半袖を着ようとします。
風呂上りには、暑いといって、上半身裸です。
とうとう家内が半袖をすべてしまってしまいました。
本当に暑いのかもしれませんが、
いくらなんでも、半袖はみるからに寒そうです。
風邪をひかなければいいのですが。
生物の定義は、なかなか難しいものです。前回のエッセイでも取り上げたように、生物なら満たすべき条件を示すことは可能で、多くの生物はその条件を満たしています。たとえば、個体、代謝、複製、進化というキーワードを、必要条件としてして挙げることはできます。
しかし、本当にそれで生物の定義を完全にできたかどうかは、怪しいものです。なぜなら、生物の十分条件を挙げることができていないからです。「生きている」ということは、先にあげた必要条件でだけではすまない、やはり神秘的な部分があります。その神秘的なものを「生命を宿す」などと表現しているのではないでしょうか。生物は「生命を宿す」ものといえます。「生命を宿す」かどうか、つまり生きているかどうかは、直感的にわかるようなものもあるのですが、生死の境界があやふやな生物もいます。
生物も生命と呼ぶと、とたんに曖昧模糊としたものになりそうです。このような疑問は、私だけのものではなく、昔から悩んできたものです。たとえば、「霊魂」という言葉があります。霊魂とは、「身体内にあってその精神・生命を支配すると考えられている人格的・非肉体的な存在」(広辞苑)として、生きているものにあり、死ぬと肉体から抜けていくものと捉えられていました。人間だけに霊魂があるのではなく、生物全部にあるという考え方もあります。
このような生命について考えることを、生命論(あるいは生命観)と呼ばれてきました。もちろん、生命をどう考えるかは、科学の発展によって変わってきます。
西洋では、そのような霊魂の存在を認める立場で、生気論(活力論ともいう)という考え方がありました。生気論は、古くからある考え方で、生物に非物質的な「生命力」と呼べるようなものが存在していて、無機物とは異なった現象をおこすという考え方です。
生命論には、三大問題がありました。
1 無機物からの生物の発生が可能か
2 個体発生は前成か後成か
3 生物の種は不変か、それとも進化するか
の3つです。今では、これら3つの問題は、生物学の問題として解くことになります。かつては、この3つの問題でどの考えをとるかは、キリスト教の教義にかかわる重要な問題でした。キリスト教では、神が生物をつくり(1は生物の発生はない)、個体発生は前成説で、種の不変という立場でした。
1の問題には、2つの側面があります。ひとつは生物の起源と、もうひとつは個々の個体の発生の問題です。
個体発生において、無機物から生物が発生することを自然発生といいます。生物の自然発生については、L.パスツールが1862年におこなった有名な「白鳥のくびフラスコ」の実験によって否定されています。空気だけが出入りする長く細いフラスコを使って行われた巧みな実験です。フラスコの中に生命が自然発生しそうな条件(栄養や環境条件)を与えたのですが、生物は発生しないという実験でした。この実験によって、個体の自然発生がないという決着がつきました。
では、生物は自然発生をしないのなら、神がつくったのかということになります。現代の科学は、それは否定してます。しかし、残念ながら生物の起源について完全な答えは、まだ出ていません。ただ、1936年、オパーリンによって科学的研究の方向性が示され、1953年におこなわれたユーリーとミラーの原始生物の誕生に関する実験によって、生物起源も科学的に探究できる可能性が示されました。以来、いろいろな実験が行われ、生物起源に迫ろうとしています。しかし残念ながら、科学的に生物起源のシナリオは、まだ完成していません。
2の問題の中にあった前成と後成というのは、聴きなれない言葉です。生物の個体発生のときに、成体の原型が卵・精子あるいは受精卵にすでにあるというのが前成で、もともと特別は構造はなく受精後いろいろな器官ができて最後に成体になるというのが後成です。
2に関しては、キリスト教の重要な論理的指針をつくったアリストテレスは、後成説をとっていました。顕微鏡ができて、受精卵の観察ができるようになると、後成説を示す証拠が見つかってきました。ですから、現在の科学では、前成説は否定され、後成説となっています。
3の問題については、ダーウィンの「種の起原」(1859年)よって進化の考えが提示されて以来、科学は多数の化石などの証拠から進化が起こっていることを示しました。
でも、よく考えると、これら3つの問題も、実は生物の必要条件を検討していることになります。科学とは、必要条件を求める行為なのかもしれません。
科学の発展にともなって、17世紀ころの西洋では、生物は一種の機械とみなす「生命機械論」が生まれてきました。生命機械論とは、生物の現象を最終的に物質現象として理解していこうという立場で、今の科学のアプローチと同じものです。
デカルトは、「人間論(1633年に書かれたのですが、この年のガリレイ宗教裁判を知ってその発表を断念しています)」や「方法序説(1637年)」の中で、生命機械論を展開しています。「方法序説」では、動物を「ゼンマイをまいた自動機械」と書いています。ですから、霊魂の存在を議論することなく、生物を機械として解明していこうという考え方でした。魂(アニマ)の存在は認めながら、植物も動物も人体も機械と同様の物体であるとしました。そして、最終的には、科学と宗教を分離しようという主張になります。
その後も、生命機械論は受け継がれ、ラ・メトリーの「人間機械論」(1748年)では人間の霊魂をも否定し、生命機械論を徹底していく立場のありました。当時、このような生命機械論は、少数意見で、反キリスト教の危険思想でもありあまり受け入れませんでした。
18世紀後半から現在まで、生命機械論は還元主義的機械論となっていきます。生命現象は、究極には物理的、化学的現象であり、物理的、化学的法則によってすべて解明できるという考え方です。そこでは、特殊な生命力や霊魂などというものは認めていません。
さらに、F.ウェーラーは1828年に無機化合物から尿素を、A.W.H.コルベは1845年に酢酸を合成しました。それまで生物しかつくりえないと考えられてきた有機物が化学的に合成されたのです。これらの実験によって、ますます、生命力や霊魂などが必要でないということになりました。
19世紀後半に、エンゲルスが弁証法的唯物論の立場での生命観を論じ、その考え方が、20世紀の唯物論者に引きつがれた。そして今の科学へとつながります。
もちろん、そのような考え方に批判的な立場もあります。たとえば、デュ・ボア・レーモンは、機械論的立場を取りながらも、宇宙の究極には不可知の問題が残るはずだとして、単純な唯物論的理解を批判した。20世紀初頭になると、各種の現代的な生命論が現れました。H.ドリーシュは、1899年に生気論に立つことを表明し、「有機体の哲学」(1909年)で新生気論を展開し、動物の調和した現象を成り立たせる超物質的原理が存在するとしました。ほかにも、J.C.スマッツやJ.S.ホールデンの全体論(holism)、ベルタランフィの有機体論などが現代の生命論としてあります。
20世紀後半には情報理論の分野が発展してきて、生物学にも広く適用されてきました。そのから、生物の個体を自動制御機械とみなすような考えもできてきました。たとえば、ウィーナーによる生体を自動制御のシステムと見なすサイバネティックスや、ベルタランフィの一般システム理論、人間を一種の有限自動機械(ファイナイト・オートマトン)とする見方などが、広がってきました。
今後も、生物に関する現象は、科学の進歩によってますます詳しくわかっていくはずです。しかし、やはりどうしても解けない、理解しがたい存在して「生命」は残るような気がします。生物を生物たらしめるなんらかの存在、まさに生命力や霊魂のような存在を認めるか否かの選択に、最終的になりそうです。
・授業スタート・
わが大学も、いよいよ後期の講義が始まりました。
またあわただしい日々が続きます。
わが大学は、他の大学に比べて、
後期のスタートが1週間遅くなっています。
でも、いよいよ講義が始まります。
これが大学の日常といいうべきものでしょうが、
やはり長い休みから講義が始まるときは、
つらいものがあります。
これが重要な本務ですから手を抜くことができません。
・秋・
今年の夏は例年なみの気温でしたが、
9月の中旬から北海道は、
急に冷え込みだしました。
朝夕は寒く、上着がないとすごせないほどです。
まだストーブはつけていませんが、
寒がりの人たちは、もうつけているかもしれません。
ところが、我が家の次男は、まだ半袖でいます。
家内がいくら言っても半袖を着ようとします。
風呂上りには、暑いといって、上半身裸です。
とうとう家内が半袖をすべてしまってしまいました。
本当に暑いのかもしれませんが、
いくらなんでも、半袖はみるからに寒そうです。
風邪をひかなければいいのですが。
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