2026年7月15日水曜日

299 仏教哲学 5:苦からはじまる

 仏教には宗教的側面だけでなく、哲学的側面があります。この哲学的側面に大いに刺激を受けました。非常に奥の深い思索が繰り広げられ、緻密な論理が構築されています。


 仏教(哲学)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が、一人で創設したものです。体系化は後の弟子たちが進めていきましたが、紀元前6から5世紀ころに、このような深い思索体系や方法論にたどり着いたとは驚きです。以下では、仏教の思索を、西洋哲学に対比するために、仏教哲学と呼びましょう。
 西洋では、ユダヤ教を源流とするキリスト教が、主流の宗教となっています。キリスト教において、神の存在が出発点となります。神が存在し、与えられた啓示を真理として信仰していきます。一方、西洋では、古代ギリシアの時代から、理性を重んじる思索の潮流もありました。両者が相まって、神を理性で基礎づけるため、神の存在を論証しようともしてきました。啓示を前提として、神の存在を証明していく探求は、信仰と理性の境界のせめぎ合いとなり、解決されないまま残ってきました。
 近世になると、デカルトの合理主義による近代的な哲学が生まれてきました。デカルトは、疑わしきものをすべて排除して、最終的に残ったのが「我思う故に、我あり(cogito ergo sum)」となりました。cogito ergo sumを公理として、演繹的論理を重ねて、体系を構築していこうという姿勢です。デカルトには、「経験」は疑わしく、「理性」こそが信頼できるものと考えました。
 イギリスでは、ベーコンが観察、実験、感覚など「経験」を重視する哲学的立場をとりました。人とは、「白紙」の心をもち、感覚的な経験から帰納していくことで、知が形成されるとしました。
 近世になっても神に存在証明は大きな課題となっていました。17世紀のパスカルは、場合分けで合理性を追求して信仰が選ぶことが確率論的に正当だという論証を示しました。カントは神の存在を批判し、理論や理性による神の証明は不可能だと主張しました。ただし、道徳的実践の条件として神へ存在が要請されるとしました。
 西洋の思索では、いろいろな論争がありましたが、正しいもの、あるいは真実が存在していると考えて、そこに向かって進んでいることは一貫していした。帰納法と演繹法、それを組み合わせた仮説演繹法という科学的方法論を用いて進められました。ただし、結論をえやすくするため、還元主義という因果関係を単純化していく方法をとりました。この方法では、真理には誰もがたどり着けると考えました。神の存在証明も、その方法論を用いていました。
 仏教哲学は、「苦」を出発点とします。仏教哲学が苦からはじめるのは、すべての人が苦を経験していることから、確実に存在し、否定できない事実として認識できます。これは、デカルト的理性の公理とも、経験論的ともみなせます。苦は、普遍性を持ち、因果関係を持っているので、その関係を明らかにすることで、苦からの解放を目的とします。苦の解放は、すべての人に適用でき、最優先すべき目的となり、解決のための論理体系や過程も普遍的になります。
 仏教では、苦を階層化して区分しています。基本的な苦として、生まれること、老化、病気、死への恐怖という「四苦」があり、身近で表層的な苦(苦苦、くく)があり(第一層)、次に楽しみや幸せが失われという変容によって起こる苦しみ(壊苦、えく)として、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)があり(第二層)、そしてもっとも深層にある根源的な苦(行苦、ぎょうく)があるのですが、自覚しにくいものになります(第三層)。
 これらの苦から脱却するための方法として、四聖諦(ししょうたい)というものがあります。苦を滅するための実践法(八正道)が「道諦(どうたい)」となります。「聖」とは、「聖者」や「超えた者」という意味で、「諦」とは日本語では「諦(あきら)め」ですが、本来の意味として「審(つまび)らかに見る、観察する」などの意味を持ちます。四聖諦とは、苦という事実を認める苦諦(くたい)、「執着(渇愛)」が苦の原因と知る集諦(じったい)、執着をなくせば苦は消滅する「滅諦(めったい)」となり、それこそが「悟り」となります。
 「苦」というだれもが経験して認識できる課題を出発点にして、「集」として苦の原因を特定し構造的に解体していき、「滅」という解決法を提示し、「道」という解決のための実践の手順を示し、実践すれば悟りに至れるという方法論を示しています。実践過程で、仏教哲学として新しい概念を生れてきます。「自己」を「縁起」の中で、「無常」や「無我」への境地へと向かい、苦からの「解脱」となり、「悟り」、涅槃に至ることになります。
 仏教哲学では、苦から悟りへという手順が示さ、それぞれの人がそれを実践をしていくことが重要になります。仏教哲学の他の宗教と異なる点は、論理的方法論であるだけでなく、実践によって課題解決まで至るところです。このような世界観や方法論は。西洋哲学、西洋宗教にはない特徴だといえます。
 仏教哲学の思考法は、地質学や自然科学の不可知領域へ、どのようにして適用できるのでしょうか。冥王代前期は「証拠の欠如」のため「検証不能」になりました。「証拠の欠如」や「検証不能」は、現時点での状態にすぎす、今後「証拠の存在」や「検証可能」へと変化が起こるかもしれません。さらには、自然科学の不可知領域は、科学の方法論自体の欠陥というより本質なものかもしれません。これについては、今後考察を深めていこうと考えています。

・悟りから宗教へ・
仏教は、非常に人に身近なものを
中心テーマにしており
それをどのように解消していくのかの
方法を提示しています。
ただし、方法の提示であり、
だれもがそれを実践でき、
解消できるとは限りません。
そこで、実践によって克服できた先達の
指導を受け、教えを請うなどという
宗教的色合いが生まれてきます。

・今年の夏は・
本州や九州では、暑い日が続いているようですが、
北海道は、どんよりとした日が続いています。
なかなかスッキリとした夏空にはなりません。
毎日のように、いずれかの時間帯で
曇ったり、雨が降ったりで、
湿気も多い日が続いています。
気温は25℃を越える夏日となっていますが、
朝晩はひんやりとして
比較的快適に過ごせています。