2003年6月1日日曜日

17 過去と記録(2003年6月1日)

 地質学とは、過去の地質現象で、現在に残されているものだけから、解読することが重要な作業となっています。しかし、その過去と記録の関係を考えてみると、どうも一筋縄でいかないもののような気がしてきました。

 現在とは、私たちとって、一度しか経験できないことです。過ぎ去った現在は、過去となります。過去は、2度とは繰り返されません。でも、幸いにも、私たちには、脳内に貯蔵された記憶というものによって、現在に過去を蘇らすことができます。
 しかし、脳内の記憶だけでは、あまりにも儚いものなので、私たちにとって大切なこと、重要なことは、記録として残します。私たち自分自身の最初の記録は、母がつけてくれた母子手帳の記録でしょうか。最近では、超音波エコーによる胎児の映像も残されています。この世に生を受ける前の自分の姿すら記録に残すことが可能なのです。これが私たち自身のはじまりです。
 母子手帳に医者や母が書いた文字から、超音波エコーの記録まで、自分の過去についての記録が残されるようになってきました。技術の進歩によって、親の記憶だけでなく、文字という記録になり、文字から画像となりました。なにも母子手帳だけの話だけでなく、私たちの記録は、写真という画像、8mm、ビデオ、最近ではデジタルビデオでしょうか、動画として、市民でも、よりリアルな記録を残す時代となりました。
 しかし、このような過去の記録でも、2人目、3人目の子供ともなると、記録の量はぐっと減っていきます。そして、結局は、入学式、卒業式、運動会、誕生会などの何らかの行事、事件、出来事があるときの記録となっています。考えてみると自分の記憶も、日常的のものより、非日常的な行事、事件、出来事がたくさん残っています。つまり、記録するという行為自体も、非日常的なことを主となっていきます。
 さて、こんな話からはじめましたが、記録から読み取る過去について考えて見ました。自分の生まれるより以前の出来事、つまり歴史、あるいは、文字ができる以前の歴史、ヒトとしての歴史、生命の歴史、自然界の歴史などを読み取るということは、はたして、どの程度、本当の過去をみているのでしょうか。そんなことをふと考えました。
 日本の歴史、、文明の歴史、人類の歴史、生命の歴史、地球の歴史、なんでもいいです。過去の記録しか残っていない時代を、その記録からたどるとき、過去の実体は、ほんの断片しか残されていません。
 その過去の断片も、記録に残ったものは、幸運であったものか、特別なもの、あるい特異なものであったはずです。いずれにしても、過去がそのまま残ることはありえないのですから、過去とは、「記録」という特殊なフィルターを通してしか見れないのです。
 また、その「記録」が読み取りにくいものであったら、どうでしょう。記録が、古文書、あるいは古代文字、土器のカケラ、骨の破片、地層の中の異変、岩石の中の小さな鉱物に、記録されているものだとしたら、だれでもが読み取れるものでは、ないはずです。特別な訓練を受けた、いわゆる専門家という人たちが、その記録の一部を「解読」できるに過ぎません。
 その「解読」は、完全なものとは限りません。一部しか読み取れなくても、そこから論理、推定、類推、推理、想像、でたらめ、思い込み、などによって、専門家は、ある「解釈」をします。彼らの「解読結果」、つまりあるひとつの「解釈」は、彼らの得意とする方法によって表現されます。
 そして、その「解読結果」が専門的であるなら、わかりやすく解説できる人によって、さらに「解説」されます。それは、教科書だったり、参考書だったり、普及書だったり、新聞だったり、テレビだったり、雑誌だったりします。そして、目に触れやすい、読みやすいメディアとなったものが、多くの人にとって、過去の記録となっていきます。
 過去は、多くのフィルターのもとに、現在の私たちの知るところとなるのです。もし、上で述べたどこかのフィルターに個性や特異性があると、過去の事実、真実よりも、そのフィルター自身を過去として、誤って読み取っていることもあるかもしれません。いや、もしかすると、大部分の過去は、そうかもしれません。自分自身の記憶だって、嫌なことは嫌なまま覚えるのではなく、いちばん気持ちが楽になるように記憶しているはずです。つまり、自分自身の記憶さえ、無意識のうちに改竄されているのです。同じ経験をしたもの同士が同じ記憶をもっているかというと、話してみると、結構違っているものです。
 自分の記憶ですら、そうですから、他人や時間、偶然というフィルターを通った記録が、過去の真実を伝えているとは、到底思えません。私たちの知ることのできる過去とは、このようなフィルターの集積、つまり本当の過去ではなく、虚構としての過去なのかもしれません。私たちは、過去を読んでいるつもりが、実は、フィルターを読んでいるにすぎないのかもしれません。
 ということは、過去を知ることとは、自分自身で、過去の記録を、意のままに、自分にいいように読み取ることが、いちばんの醍醐味かもしれません。こんなことをしても、過去は私たちに何も文句をいうわけではありません。せいぜいフィルターがクレームをつけるだけでしょう。