2009年5月1日金曜日

88 自然の斉一性:自然は信頼できるのか

 自然は斉一的に振舞っているように見えます。斉一的に自然を見なすということは、帰納法に基づいて論を進めることです。斉一説のの正しさを、帰納法を用いては証明できません。自然は、本当に斉一的に振舞ってくれるという前提が成り立つのでしょうか。地球の歴史を、聖書の創世記の記述通りと信じることと、自然の斉一性による科学の成果を信じるとの間には、どんな違いがあるのでしょうか。斉一説と帰納法について考えました。

 ヨーロッパでは、18世紀まで、多くの人が、聖書の創世記こそが、地球の始まりからの歴史を記述したものであると信じてきました。創世記の中には、ノアの箱舟の話として、大洪水が記載されています。この天変地異ともいうべき大洪水によって、自然界には大改変が起こり、一組の種以外のすべての生物や環境が、すべてリセットされた状態になったと考えられていました。当時の多くの科学者たちも、聖書に書かれた天変地異の考えに基づいて、自然を見て、歴史を記述していました。
 実際の自然現象をみると、そのような一度限りの天変地異では説明できない現象も見つかっていました。しかし、天変地異を信じている人は、大洪水でなんとか、説明しようと考えていました。
 たとえば、実際の地層を調べていくと、化石の種類が、地層ごとに大きく異なることがわかってきました。もしそのような生物相の変化が大洪水の天変地異によるとすると、何度かの天変地異が起こらなければなりません。ところが聖書では、ノアの箱舟の記述は、一回の出来事として記述されていました。
 聖書を信じている科学者たちは、天変地異でなんとか生物相の変化を説明するために、聖書にはノアの大洪水が「一度限りの出来事」とは、どこにも書かれていないことに気づきました。ですから、何度も同じような大洪水があってもいいのだ、と考えました。
 今にして思えば、このような考え方は、こじつけにしか見えません。これは、ある考えを信じて疑わないという立場にたってしまうと、その考えに基づいて、なんとか辻褄をあわせてしまうという行為にでてしまった結果でした。当人たちは、間違ったことをしている意識などなかったははずです。
 キリスト教が支配的な社会であっても、素直に自然をみることのできた人もいました。スコットランドのジェームズ・ハットンもその一人でした。ハットンは、現在自然の中で起こっている現象は、過去にも同じように起こっていたと考えました。そこには、神が介在する必要はありませんでした。その考え方で、過去の自然現象を解き明かそうと考えました。これは、斉一説と呼ばれる考え方です。
 斉一説を受け入れれば、現在の現象を調べることによって、過去の現象をも解き明かせるという方法論を手に入れることになります。これは、非常にありがたいし、強力な方法論で、多くの科学者は斉一説を受け入れました。おかげで、地球の歴史を、証拠や根拠をもって、再構築することができるようになりました。
 今では、子供までも、だれも見たこともないはずなのに、白亜紀にはティラノザウルスなど多くの恐竜たちが大地を闊歩していたと信じています。他の時代でも、当時の様子をイメージできるようになりました。
 自分はもちろん誰も見たこともないのに、科学の出した結論を信じることと、聖書の記述を信じること、との間の違いは何でしょうか。聖書を科学というものに置き換えただけなのでしょうか。
 科学と聖書の違いにおいて、実証性あるいは論理的であるかどうかが、重要となるはずです。
 現在の自然現象から、ある規則を発見したとします。たとえば、「雪は白い」という規則だったとしましょう。これを仮説として進めましょう。「昨日降った雪は白かった」、「去年降った雪も白かった」、「自分が記憶している限り、降った雪は白かった」、「お父さんやおじいさんの見た雪も白かった」・・・。このように、その仮説を裏付ける証拠を、つぎつぎといっぱい見つけることができます。ですから結論として、「雪は、いつ降っても白い」、「雪はいつも白い」という一般法則が成り立ちます。これは、多くの科学がとっている手法でもあります。
 さて、この論理は正しいでしょうか。聖書の記述と違って、証拠というべきものが多数あります。証拠があるという点において聖書の記述とは違っています。この論理の進め方は、枚挙的に証拠を挙げて、正しさを証明しようというとする一種の推論の方法です。
 しかしこの推論は、いくら証拠があっても、その説の正しさを保障するものではありません。枚挙的に示すには限界があります。地球上の雪のすべてが、あるいは、過去に降ったすべての雪が白いことを、ひとつひとつすべて正しいことを検証しなければ、終わらない論理手法だからです。その検証過程で、もし一個でも反証、反例が見つかれば、この法則は根底から否定されてしまいます。検証が完結するまでは証明されないという危険性をはらんでいるのです。
 この枚挙的手法の意味するところは、自然をそこまで信頼していいのかということです。信じれば成り立ち、疑えば成り立たなくなります。最終的に、自然を信じる、聖書を信じるという似たような結論になります。
 本当に、明日、赤い雪は降らないのでしょうか。10億年前には赤い雪は降ってなかったのでしょうか。いずれも、証明することは、困難です。未来の雪も過去の雪も、見る、検証することができないのです。
 このような斉一説の背景に流れている論理は、帰納法的な思考です。斉一説は、実は、帰納法の手法を用いて証明されています。帰納法が論理的に正しい方法であれば、斉一説も正しいことが証明されます。帰納法が通用するのは、裏切ることのない、信じることができる数学のような世界です。それ以外の世界では、帰納法は論理的に正しいことが証明されていません。もちろん自然界でもです。
 過去に起こった現象で、見ること、あるいは検証できない現象は、もはや証明できないのです。「1億年前に降った雪も白かった」ことを、だれも確かめようがないのです。
 斉一説は、論理的に正しいことは証明されていませんが、自然科学は、このような枚挙的帰納法を正しいものとして進められています。つまり、現在の科学、科学者は、自然を数学のように裏切らないものだと信じているのです。
 物理学の例を考えて見ましょう。ある実験をして、ある規則性を見つけたとしましょう。たとえば、「振り子の周期は、重さや振幅に関係なく、長さによって決まる」という規則性を見つけたとしましょう。検証するために、振り子の長さを変える、錘の重さを変える、ふり幅を変えるなど、いくつも条件を変え、実験をしてみます。実験の結果、「振り子の周期は、重さや振幅に関係なく、長さによって決まる」ということが正しいと検証されたら、規則性は自然界の一般的な物理法則として受けいれられます。これは、いつでもどこもで、振り子は同じように振舞うのだという前提があります。つまり自然現象の斉一性を信じているのです。
 何も、物理学の世界だけではありません。化学も生物学も地質学も、すべて自然の斉一性が正しいことを前提に、学問体系が構築されています。これは、自然の斉一性原理ともよばれている考え方です。枚挙的な帰納法が正しいことを示すために必要な前提として、18世紀の哲学者デヴィッド・ヒュームによって用いられた考え方です。
 自然界は、でたらめに振舞っているのではなく、人間がみつけられるような規則性があり、その規則性のもとに営まれているという、一種の仮定(あるいは願望というべきかもしれません)の上に、現在の科学は成り立っています。今のところ、自然は、裏切ったことがありません。一見裏切ったように見える場合でも、人間の浅はかさで、自然界の規則性の奥深さを理解していなかったのだということに落ち着いています。現代の科学者は、信じるべきものを、聖書の記述から、自然は斉一性原理を内在しているということへ変えました。
 今まではいいともして、今後これが継続するという保障がありません。そのなあやふやに基盤の上に科学が成り立っているのです。
 斉一性原理は帰納法を前提にしています。一方、自然の斉一性原理は、帰納法によって正しさを証明できません。帰納法では、すべてを網羅しなければ証明が完結できないからです。自然の斉一性原理は証明不能なのです。ここに、論理矛盾、あるいは循環論法、パラドックスがあることを、ヒュームは見抜いていました。
 重要な点として、自然界における帰納法は、論理的には完結できませんが、帰納法には間違いを発見する機能を持っていることです。もし、帰納法を適用中に、反例が見つかれば、前提としていた仮定は棄却されます。つまり、科学には、自分自身で間違いを発見し、代替の道を探るという機能をもっています。その代替の道も帰納法で検証すれば、少なくとも今のところ反例はない、一番もっともらしいというものを見出すことができます。これが科学の進歩、発展を生み出すメカニズムともいえます。
 聖書では、書かれた記述を、ただ信じることだけでした。科学は、新しい仮説を唱えるときには、一歩一歩それを検証しながら、歩をすすめることになります。時に、それはまどろっこしく思えることもあります。しかし、そのまどろっこしさが、信頼に足るものを生み出しているのです。
 数学が「不完全性定理」を抱えながら、進められているように、自然科学も斉一性原理という不完全性を持っていることを、理解して進めていくしかありません。現代社会では、科学はなくてはならないものとなっています。今さら科学なしの世界には戻れません。もし自然が斉一性原理を裏切ることがあったとしたら、などという疑問は、そのときなってから考えましょうか。

・知っているということ・
上で述べてきたように、科学の最大の弱点は、
自然の斉一性原理を前提としていることです。
これは、避けることのできない難問です。
しかし、科学は、そんなことを気にしてないかのように
今日も進められています。
科学者で、その論理的欠陥を意識している人、
あるいは知る人は、案外少ないのではないでしょうか。
逆、そんなことを気にしていては、
科学は進まないのかもしれないのですが。
でも、心のどこかにそんな不安があることを
知っている必要はないでしょうか。

・振り替え・
いよいよゴールデンウィークになりました。
わが大学は、曜日の調整のために、
5月2日土曜日は、水曜日の振り替えの授業をすることになっています。
水曜日には、1講目と5講目に講義があります。
もちろん学生も、授業に出てくることになります。
私が学生のころは、このような時期の講義は
休講になっていたような記憶があります。
今では、15回の講義をこなすことが求められています。
授業料にみあった、規定どおりに
講義を提供しなさいということです。
それが本当に学生の教養や能力を
どの程度高めているのかよく分かりません。
現在、教員をしている私たちは、
大学で、のびのびと緩やかな教育を受けてきました。
それが今の学生には、規約どおり、杓子定規に授業をしています。
きっちりと行われた授業分、学生が成長してくれればいいのですが。