2010年1月1日金曜日

96 人に届くように:科学の意義と責務

 明けまして、おめでとうございます。一昨年につづき昨年も、あまりいい年ではなかったようです。今年こそいい年なりますように祈っています。年頭のエッセイは、昨年から気になっていた科学をする意義、科学者として責務について書くことにしました。明るいものをと考えていましたが、書いていくうちに、重たい話になりました。しかし、これは今後の私の科学する姿勢となりそうです。

 一昨年のリーマンショック以来の不景気で、社会も経済も低迷を続けています。そのような社会状況の一新を期待して、昨年、政権交代が起こりました。新政権は、時間のない中、「事業仕分け」という公開の場での予算内容の検討をおこないました。その内容に関しては、賛否両論だけでなく、さまざまな意見や考えがありました。
 私が所属するいくつかの学会では、事業仕分けによって科学技術に関する予算の縮小や凍結などへの反対の声明や復活のための要請が、会長名で提示され、会員にも賛同を求められました。私は支持する声明も反対する声明も出しませんでしたので、沈黙は賛意を表していることになるのでしょう。私は、消極的に賛成したことになります。もって回った言い方をしましたが、私は条件付ですが、科学や技術に関する予算が、今後も継続することに賛成です。
 大局的に見て、日本のような資源の乏しい国において、科学、技術などの知的資産を充実して、世界の国々に伍する必要があります。日本では理科離れがいわれてはいますが、国際的に見ても、今も十分、民度や教育レベルも高く、国際的にもトップクラスにいることは間違いありません。今でも日本は、世界で科学や技術をリードする任務を負っている国だといえます。
 国家戦略の重点項目として、科学や技術などに関する基礎研究、応用研究に予算を配分すべきだと思います。ですから、科学分野の学界に属するメンバーであるという利害関係を除いても、私は科学や技術の予算を削減するのは反対です。
 その立場であることを前提として、次に話題を進めていきたいと思います。
 以前、私のエッセイの読者から次のようなメールをいただきました。
「岩石の最古年代が分ると、人類にどのような影響があるのでしょうか。」
というものでした。
 地質学者の側からすると、これは重要な成果であると無意識に思ってしまいます。しかし、市民からすると、ごく普通の疑問ではないかと思います。これは非常にシンプルですが、重要な質問だと思います。真摯に受け止め、考え、答える責務があります。
 「最古の岩石の年代が発見された」というのは、科学の成果です。最古の岩石の発見は、地殻の歴史がいつからはじまるか、どのようにはじまったのかを示す重要な情報となります。これが、地質学者の一般的な答えになるでしょう。
 同じ趣旨の質問は、ありとあらゆる知的営み、たとえば、演劇や絵画、音楽、文学などの芸術的成果(作品)にも、エンターテイメントの成果(作品)にも発することができるはずです。そして提示者は科学者と同じように真摯に考える必要があると思います。
 それらの知的営みは、多かれ少なかれ市民に影響をあたえるはずです。たとえば、エンターテイメント作品は、つくられた時点では、楽しんでもらいたい、多くの人に見てもらいたいを思って世に出されたはずです。そして、市民にそのような需要があるから、商業的なエンターテイメントが成立しているのです。そして、エンターテイメント作品は、市民に多かれ少なかれ影響を与えます。
 生死をかけて、その営みに取り組んでいる人々もいるかもしれません。でも、提示者がどんなに思い入れても、その成果(作品)は、他人に生死を分かつような影響を与えることはないはずです。たぶん、多数の市民の生活を左右するほどの影響を与えることすらないでしょう。
 このような知的な営みが、生死にかかわらないから不要かというと、そうではありません。生活から、芸術や音楽、文学、エンターテイメントが消えてしまったら、味気ない生活になっていくでしょう。生活に潤いや豊かさをもたらすことが、役割りとなっています。そう考えると、知的な営みは、人類にとって重要な資産であり、その蓄積こそが文化ではないでしょうか。その蓄積の結果が、文明となっているのではないでしょうか。
 知的営みの中でも、科学や技術は、芸術的な営みと比べると、より生活に密着している場面が多くなっています。たとえば、携帯電話やコンピュータの進歩は、生活を豊かに、便利にしてくれます。このような成果の重要は、だれでもすぐに理解できます。
 コンピュータや携帯電話も、もともとは庶民生活とは全く関係のない、技術者の自己満足の話だったかもしれません。最初のコンピュータや携帯電話が出した成果も、そんなにお金と手間をかけなくても、人が手作業や従来の方法でやったほうが安上がりで、早くできることだったかもしれません。でも、今では、コンピュータや携帯電話でしかできないことだらけになりました。技術も文化や文明を担っているのです。
 技術に比べると、科学、特に基礎的な科学は、その意義が見出しにくくなっているかもしれません。どのような技術にも科学が必要になります。技術の進歩の背景には、科学がなくてはなりません。技術の背景に科学が必ず存在します。技術は科学に実用性を付加したものです。小さな科学と技術の成果の積み上げによって、現在の便利さを作り上げてきたのではないでしょうか。科学は、過去からの積み上げがなければ、進歩はありません。現代の人類の繁栄、豊かさ、安全さは、すべては過去の科学と技術の成果の上に成り立っているはずです。科学は技術の根幹をなしているので、文明社会において必要不可欠です。文明の発展を支えるためには、科学の進歩しなければなりません。
 いまや技術は、先進国において日常生活の根幹を担っています。医療や交通など、技術は、生死を分かつ任務をも担っています。ですから、技術はいまや生活にはなくてはならないものとなっています。そして技術の進歩を支える科学も必要不可欠になっています。そのような意味で、どんなささやかな科学や技術の成果も、間接的かもしれませんが、人類の繁栄に役に立つ可能性があると思います。ですから、大切にしていく必要があるはずです。
 実際、科学には、人類の進歩にすぐに役に立たないものも多々あります。特に基礎研究には、そのようなものが多いはずです。それらの中には、今すぐに役に立たなくても、後に役に立つかもしれないものも、多々あるはずです。
 「最古の岩石」も、そのような成果の一つかもしれません。もし、もっと古いものが発見されたら、世界で2番目に古い岩石となり、その学術的価値は半減してしまうでしょう。もっと古いものが見つかれば、3番目、4番目に落ちていくでしょう。最終的に古い時代の多数の岩石の一つとして、基礎データと記録されていくことでしょう。ですから、「最古」などというものは、これはある分野の科学者たちの一時的な自己満足にすぎないようにみえます。ただ、基礎科学は知識、基礎データを積み上げている部分があるので、たとえ3流の成果だとしても、基礎データあるいは初期の試行錯誤の一つとして、一時的でしょうが、その痕跡をとどめていいきます。
 多くの芸術もエンターテイメントも、時間が立てば、忘れられ、消えていくものが多数できてます。一握りの作品だけが、人類の財産として残っていきます。科学も同じ側面をもっています。現在出されている大半の基礎研究と呼ばれる成果は、一時的なもので、100年後、いや10年後には、利用されるようなものは、ほとんどないはずです。
 ただ、科学の成果は、後の時代に、その成果の重要性が見出されることもあります。データは後の時代では使い物にならないくらい精度の悪いものとなるでしょうが、考え方や論理は、後の時代にも活きていくものがあります。できれば、そうなるように願って、科学者は、研究し、成果を出し、公表しているわけです。そして、それらを知的資産として蓄積してかなくてはなりません。
 そこで、国の予算を使って科学するという意味を、再度、問います。
 現代は、失業者が多数いるような社会、明日の生活に困っている人が多数いる時代となっています。つまり生死がかかってる人を前に、生死にかかわりのない基礎研究に、膨大な予算や人材をつぎ込むのか、という疑問に科学者はどう答えればいいのでしょうか。
 あと、数年先、人々の生活に余裕が出てきたとき、再度予算を当ててはだめでしょうか。もし、今すぐ日本がやらかなったら、その成果が他の国の科学者によっておこなわれてしまうことになるでしょう。そうなると、もはやわが国でその研究はする必要がなくなります。人類全体としてみれば、科学は、緩急はあるでしょうが、日本がなくても進んでいくはずです。日本がやらなくても、他の国がその成果をだしてもいいはずです。日本が先頭にいる必要性はあるのでしょうか。特に基礎科学での必然性を主張できるのでしょうか。
 科学的好奇心に基づいた純粋な気持ちだけでなく、科学者の心の中に、「最初」、「最大」、「最古」などの「最」を求め、歴史に名を残したいという欲はないでしょうか。科学者には、多かれ少なかれ、そのような気持ちをもっているはずだと思います。私にもあります。科学者も人間です。好奇心というきれいごとだけで動くという単純なものではないはずです。欲を持つなとはいいません。しかし、科学はきれいごとだけではおこなっているのではないことも、忘れてはいけないと思います。
 その研究は、今本当に、火急のこととして必要としているのでしょうか。今の日本で、日本だからしなければならない必然性を、ぜひとも説明しなければなりません。
 今までの研究の歴史、研究実績、人材、設備などは、今、予算をあてて継続するために重要なアドバンテージでしょう。でも、他の国との共同、競争、自分の業績、今までの研究計画の継続などのしがらみは、個人的な欲ではないでしょうか。そのような欲を除き、本当に科学として、今、この時期に、日本でおこなうべきなのかどうかを、胸に手を当てて考えてみるいい時期かもしれません。欲を排除し、人の生活への手当てをけずっても、すべきことがあるという理由を提示すべきだと思います。
 それでも必要だと思える主張ができた暁には、国はぜひとも予算を出すべきだと思います。ただし科学者は、苦しい生活をしている人にまわすべき費用を自分は使用しているのだという使命感、責務を負っていることを自覚して取り組むべきでしょう。その成果は、科学者集団内での発表で満足することなく、市民に届く努力を継続的にしていく必要があります。科学者には、その主張と報告がまだまだ足りない気がします。少なくとも市民は届いていないと思います。私も、それに心して、これからの科学に取り組んでいきたいと思っています。これが、今年の私の年頭に考えたことです。

・変化の年・
明けまして、おめでとうございます。
今年こそは、いい年であることを願っています。
私は、今年、いくつかの節目を迎えます。
私の所属する大学の学科が最初の卒業生を出します。
彼らは第一期生として私たち教員と一緒に
学科をつくり上げてきた仲間のような存在であった気がします。
そして、教員として、彼らに
いろいろ教えられること、学ぶことがありました。
また私は、4月から、四国に1年間滞在することになっています。
当初の人生設計では、2年前に家族で行くつもりでしたが、
時期がずれ、単身赴任となります。
単身赴任になったのは、
長男が来春から中学生になります。
中学校は3年間しないので、
転校で別の中学校にいくのは
大変だと思ったからです。
私には変化の年となりそうですが、
その変化を楽しんでいきたいと思います。

・今年もよろしく・
昨年一年の12回のエッセイ、
95回にわたって継続してきた
エッセイを振り返ってみると、
本当に私は成長しているのかという気持ちがしています。
一月に一度は一つのテーマを掘り下げて
考えていきたいと思って、
このエッセイを書いてきました。
このエッセイをメールマガジンとして公開しているのは、
ただ、読者にも、地質学者が、科学や地質学について、
深く考えていくことがどのような視点を
提示するのかということを問うています。
そして、読者がいてくれるということが、
私の継続へのモチベーションとなると考えているからです。
さらに、エッセイの継続、蓄積が
私自身の知的資産となることを願っているからです。
今年も、本エッセイとのお付き合いをよろしくお願いします。