2002年3月1日金曜日

02 地質学における時間の不可逆性(2002年3月1日)

 時間感覚とは、人それぞれによって違います。あるいは、同じ人でも置かれた環境や心理的状況によって、時間の流れるスピードは違います。例えば、面白いゲームや本、映画などに熱中してるときには、2時間でもあっという間に感じてしまいます。一方、つまらない会議や講演会、授業、挨拶などでは、30分や15分でも長く感じます。早く予定の30分や15分が終わらないかなと思ってしまい、もし予定より5分でも延びようものなら、とてつも長くなった気がします。
 このような時間の流れは、感覚的なもので、客観的なものではありません。物理学的には、厳密な時間の定義があります。かつては、地球の公転速度や自転速度などの平均太陽日を基準にして時間が決められてていました。現在では、物理的な時間間隔の単位「秒」は、1967年10月パリの第13回国際度量衡総会において「秒は、セシウム133の原子の基底状態における2つの超微細準位間の遷移に対する放射の9,192,631,770周期の継続時間とする」と決められています。この基準による時間は、原子時と呼ばれています。太陽や地球の動きでは、現代科学の必要とする精度が、正確に定義できないために、原子時を使うようになったのです。しかし、かつての恒星時における1秒に合わせて、原子時は定義されています。
 学問の世界では、時間を自由に操ることがあります。素粒子の世界では、1秒の1000分の1の時間でも、長いとされるのに、宇宙の歴史では、1億年の単位が使われているののです。
 時間は、物理的には、自由に切り刻んだり、逆行させたり、止めたり、未来にしたりすることが可能です。しかし、日常的な感覚からすると、時間は一方的に流れて、「現在」を中心とすれば、「過去」と「未来」が厳然として存在します。つまり、不可逆(ふかぎゃく)なのです。不可逆な時間を一番強く感じているのは、地質学という学問かもしれません。
 地質学の対象としているものは、過去のもの(昔の岩石、化石など)か、もしくは現在進行中の現象(火山、地震、プレート移動)です。地質学の時代区分では、一番古い時代を、冥王代(めいおうだい)(45.6~38億年前)、太古代(たいこだい)(38~25億年前)、原生代(げんせいだい)(25~5.8億年前)、顕生代(けんせいだい)(5.8億年前~現在)となります。それぞれの時代は細分されており、顕生代は古生代(こせいだい)(5.8~2.4億年前)、中生代(ちゅうせいだい)(2.4億~6500万年前)、新生代(しんせいだい)(6500万年前~現在)となり、新生代はさらに第三紀(だいさんき)(6500~164万年前)と第四紀(だいよんき)(164万年前~現在)に、第四紀はさらに更新世(こうしんせ)(164~1万年前)と完新世(かんしんせ)(1万年前~現在)となっています。
 過去のものは、時代が古くなるほど、不明瞭となります。つまり、地質学的時代区分の単元の期間が、過去になるほど長くなっていきます。これは、時間を遡ぼるための私たちの能力が足りないのかもしれません。あるいは、時代を遡るほど地質学的記録が消えていくのかもしれません。いずれの場合にしても、私たちの過去を読み取る能力が向上すれば、過去がよりよく読み取れるはずです。でも、古いものほど読み取り誤差が大きくなっていくという原則は崩れそうにありません。
 地質学においては、時間は不可逆に流れ、「現在」が常に原点となっています。だから、過去は時間が遡るほど、情報量は少なくなっていきます。
 不可逆な時間とは、一度限りの再現不能な「流れ」を意味します。川が海へのそそぐ場所(河口)を「現在」としましょう。河口から川を見たとき、下流付近はよく見えます。中流は遠くにかすかに見えます。上流は山が見えますが、流れは見えません。時間の流れとはそんなものです。そして、地質学的証拠、あるいは素材とは、河口付近に転がっている石ころなのです。「上流のどこか」としか分からない石ころから、上流を想像するしかないのです。地質学では、物理学のように川を遡行することはできないのです。河口(現在)から動くことができないのです。上流を遠目に眺めるしかないのです。
 地質学では、石ころの時間記録を読み取り、過去を「見てきたように語る」しかないのです。地質学者とは、1つの石ころから、10の情報を引き出し、想像力で100の物語としていく人達なのかもしれません。その物語が、説得力があるかどうかは、1から10までは技術力で達成できますが、10から100へは研究者の個人の能力である想像力なのです。
 しかし、技術や個人の能力では、いかんともし難い部分があります。それは、1つの石ころを見つけることです。いくら探しても、最上流の石ころは、河口付近にはもともと1個しかないかもしれません。そして、その1個を発見できるかどうかは、偶然の賜物なのです。
 地質学とは、時間を遡ることをその手法としています。ですから、地質学者は近未来を語ることは、苦手としても、遥か彼方の未来を語る力は、一番かもしれません。1000万年や1億年の単位での地球の未来図を、証拠をもって語れるのは、地質学者だけなのかもしれません。例えば、プレートテクトニクスの知識を使えば、現在のプレート移動の速度から、1000万年後や1億年後の大陸の配置を推定することができます。また、プルームテクトニクスの知識を使えば、1億年後や2億年後にその大陸が裂け、海洋ができるかを予測できます。
 素晴らしい能力ではないでしょうか。地質学的時代区分では、「現在」を終わりとしましたが、「未来代(みらいだい)」という不可逆な時間の流れの先には広がっています。
 過去を探る地質学は、その時間遡上能力を、現在から未来に向けることによって、未来を予測する能力身につけていたのです。地質学では「現在は過去の鍵である」という金言がありますが、今や「過去は未来の鍵である」という金言も持つことができるようになっていたのです。

・メールマガジンの表示方法・
このメールマガジンでは、地質学的なことに関する少し踏み込んだ議論をしています。
ですから、少々重たい内容で、文章量も多くなっています。
それによって、本文が読みにくいという指摘が、Takさんから、ありました。

この点は、私も気になって、読点ごとや、句点ごと改行をしてみたのですが、
かえってスクロールがおおくて読みづらくなったりしました。
ちなみに、このLetterは、句点といくつかの読点で改行してます。
もし、印刷して読みたい方がおられると、さらに読みにくくなります。

私の週刊メールマガジン「地球のささやき」でも同様の問題に直面しました。
でも、分量が少ないので、Letterの部分だけを、
細かく改行することで、対応させてもらいました。

Takさん、今回もまだ、解決策はでません。
とりあえず、今回は、メーラーで表示を大きくするか、
コピーアンドペーストでワープロにもっていって、見てください。
あと1ヶ月、私の検討します。

読者の方で、いい見本があれば教えていただきたいのですが・・・・


・常識の人・
前回の「オッカムの剃刀」に対して、
Kabさんから、こんなメールを頂きました。
「ニュートンは、一方で錬金術に凝っていた。
当時の錬金術、今は、化け学と見るべきでしょうね。
このニュートンの両面性は、共通点を持つのか?持たない、と観るほうが面白い。
なぜなら、その後の人が、ニュートンの神秘主義、
不合理性の面を切り捨てたことに問題あり、
と観ることができるから。
しかし、ニュートンは、錬金術にも神の手が働いており、
それを発見できると、信じていた、のでしょう。」

それに対して、私はこう答えました。
「ニュートンの物理学と錬金術は、奇異な感じがするかもしれません。
でも、私には、ニュートンも
その時代の常識に生きていた人に過ぎないと思っています。
ニュートン流の物理学を完成させたは、
彼の才が成せる技であるのでしょう。
でも、彼の成した微積分学は、同時期に、同じことを、
全く別途考えていたバロー、メルカトール、ライプニッツなどがいたわけです。
ニュートンが物理学をつくり上げなくても、
10年後あるいは50年後には、同じような成果を人類はつくり上げてきたはずです。

同じような事例が、キャベンディッシュの場合もありました。
孤高研究者であった彼は、業績を公表せず死んでしまいました。
後年、その重要性の気付いたマックスウェル(?)が、
何年もかかってその業績を発掘したそうです。
その業績の中では、他の科学者が発見する何年も前に、
彼が発見していた法則や原理があったという事実が明らかになってきました。
このようなことから、科学というのは、時流や潮流というものがあって、
ある時期に、ある成果が生まれる、という例証になっています。

それが、その時代の知能の質や運によって、
早いか遅いかの違いがあるだけなのかもしれません。
だから、逆にまったく時流にのらない、
役に立つのか立たないのかもわからないが、
なんとなくすごいような理論や原理を見出すのが本当の意味で、天才かもしれません。いや、時代と隔絶しているので、
そのような評価は生まれず、鬼才、変人になってしまうのかもしれません。

以上のことから、ニュートンは、常識の人であったの思います。
だから、物理学においては業を成したかもしれませんが、
化学では潮流が向いてなかったのでしょう。
当時の化学における常識的な範疇にいたわけです。
そして錬金術は失敗に終わったのす。」