2006年12月1日金曜日

59 要素還元主義:可能性の低いことも起こる(2006.12.01)

 今回は要素還元主義というものを見てきます。そこに含まれている危険性を考えていきます。

 皆さんはミステリーが好きでしょうか。私は時間がなくて、ほとんど読まなくなりましたが、もともとミステリーは好きでした。家内は、推理小説を読み、テレビのサスペンスドラマもたくさん見ています。私がミステリーが好きな理由は、論理と証拠という、科学と同じような手法で、謎解きがなされるからです。ですから非常に論理的で面白いからです。
 では、架空のミステリーを紹介しましょう。それは殺人事件のミステリーです。
 ある山奥の工事現場で地下を掘り返していたところ、人骨が見つかりました。工事関係者は、もちろんすぐに警察に届けました。警察が来て、付近一帯の詳しい捜査が行われました。
 すると、その人骨は、首が鋭利な刃物で切られて、頭骨と刃物が体のすぐ近くに埋められていました。このような状況証拠から、警察は殺人事件とみて捜査を始めました。ところが、警察の懸命の捜査にかかわらず、事件は解決できませんでした。いわゆる迷宮入りです。
 皆さんは、なぜ迷宮入りしたのか、わかりますか。何が問題だったのでしょうか。情報は上記のものだけです。
 人骨が発見されるとは、死んだ人、つまり死体があったことを意味します。そこには、人の死があったことが確かです。人の死には、いくつかの可能性があります。もしその死が、自殺や自然死なら警察は問題にしなかったでしょう。もし、なんらかの事件による不慮の死であれば、それは殺人事件として、警察が調査をはじめることでしょう。
 殺人事件として、決定的な証拠になったのが、切り落とされた頭骨と、その首を切り取ったであろう刃物が一緒に発見されたということです。
 この単純はところに、どんな誤謬が入るというのでしょうか。現場に残された証拠は、犯人を探るのに重要な役割を持っています。最初の証拠から殺人事件が起こったことを推定して、その推定を裏付けるためにさらに証拠を探し、最終的に犯人にたどり着こうというのです。科学だって同じやり方をします。科学で、証拠から論理が組み立ていくプロセスそのものです。
 さてこのミステリーですが、事実は、もともと近くにあった村が平家の落人部落で、変わった風習があったのですが、その村は廃村となったので、その風習を今では誰も知らなくなったのです。平家の末裔として源氏を打たずに死ぬのは未練だから、せめて武士の無念を示すために儀式を執り行っていたのです。その変わった風習とは、死んだ人の首を切断して、その切った刃物と共に埋葬するというものだったのです。
 もしこんなミステリーを書いたら、読者は皆、怒り出すことでしょう。死体の首を切って埋葬するなんて可能性はほとんどないことだし、そもそもそんな風習は聞いたことがありません。ですから、そんな誰も思いもよらないことを最初から考えて警察は動きません。警察は可能性の一番高い殺人事件としたのです。迷宮入りしたのは、警察の責任ではなく、犯人がいなかったためなのです。
 でも、この架空の殺人事件の真相が、誰も考え付かないことであっても、本当にあったことであれば、仕方がありません。
 私が、このような架空の話をしたのは、科学的に考えていこうとするとき、実は無意識の前提をもっているのではないかという、注意を促すためでした。その「無意識の前提」とは、
・可能性の高いものが起こるはず
・結果と証拠にはならかの因果関係があるはず
というものです。私たちは、このような先入観を持って物事をみてしまっているのです。そして、その先入観を「無意識の前提」として、真実と思い込んでしまうのです。
 「無意識の前提」は、科学の重要な考え方である(要素)還元主義と呼ばれるものでもあります。還元主義とは、「結果は原因から」あるいは「原因から結果へ」というものが、一義的な因果関係で説明できるという考えです。その因果関係とは、法則や規則、あるいは理論などというものです。
 還元主義は、19世紀から20世紀にかけて科学の世界で広く展開されている考え方です。もちろん今の科学も、還元主義でなされています。科学の成したものをみると、還元主義的手法がいかに強力で、私たちに快適さ、便利さをもたらしたかがよくわかります。現在も、一番よく利用されている考え方です。いや、科学的な論文は、還元主義的に書かないと、不備があるとされます。取るに足らない可能性だけを議論して、一番の可能性を無視しているようでは、科学的論文と認められません。
 何か起こった結果があれば、そこには必ず原因が存在するという考えは、当たり前です。逆に、原因がそろっていれば結果は自明となり、きっと起こるということも信じられます。
 還元主義では、何事かを成し遂げたければ、努力すればゴールにいけるということを保障してくれます。ゴールに行けないときは、その原因追求し、原因を克服すれば、きっとゴールは到達できるはずなのです。これは物事を成すときに、非常に重要な動機を与えてくれます。還元主義では、きっとゴールへは行けるという前提があるので、がんばれるのです。
 さらに還元主義では、複雑な現象を解明したいときは、複雑なものを単純化していきます。不要な要素を除き、より根本的な要素だけを選び、さらにどれが主たる原因かを検討していきます。それらの要素の中から、一番根源的な原因を見つけていくのです。このような還元主義が、近代の科学や技術を支えてきたともいえるのです。
 ところが、私たちには知りえない真実、あるいは稀な出来事では、可能性の高いものが起こるという論理が選ばれるとは限らないのです。特に歴史的な現象や事件は、一度だけしか起こらないことです。そこで小さな可能性を選んだことがあったとしたら、私たちは間違った結論をずっと信じていることになるのです。
 あるいは原因究明をいくらしても解明できない場合、そもそも可能性の高いほうに原因がないのかもしれません。だから、いくら可能性の高い方を探しても、答えが見つからないのかもしれません。
 もし可能性の低いものが選ばれた結果も、私たちの信じている科学の体系に混じっていたら、科学とは危ういものに見えてきませんか。
 探しても答えが見つからないときは、答えを探す場所がまったく違っているのかもしれません。真っ先に捨て去った少ない可能性の中に、答えがあるのかもしれません。
 還元主義を使わなければ、科学は成り立ちません。しかし、還元主義にも限界があることを知っているべきです。そして、もし還元主義が行き詰ったときには、捨て去った可能性を省みることもしなければなりません。そして、なにより科学自体には、そのような不備があることを承知して使っていく必要があるのではないでしょうか。

・「早わかり 地球と宇宙」出版しました・
2006年12月1日に「早わかり 地球と宇宙」 という本が発行されました。
見本刷りは11月半ばに入手していました。
12月に入ってから書店に並ぶというのを聞いていたので、
それからメールマガジンなどで紹介しようと考えていました。
しかし、先週町にでかけて書店を見たら、
すでに置いてあったのを見つけました。
そしてメールマガジンの読者からも見つけたという連絡を受けました。
そこで、宣伝を始めることにします。
この本は久しぶりに書いたものであったのと、
今回は出版まで結構苦労したので、満足感はなかなか大きいです。
1年前の10月に出版社には完成稿を入稿していました。
しかし、シリーズで出すということなので、
化学の原稿が出てくるまで作業は止まっていました。
春から本格的な編集作業がスタートしました。
私は、夏休みに主として校正作業をしました。
図版の修正作業に手間取ったり、
ページ変更があり、かなりのページで修正を要したり、
新たにコラムの10ページほど書くことになったり、
最後の最後で縦組みから横組みに変更したりで、
いろいろあわただしかったのです。
それに今年は新学科の授業が始まっていたので、
時間のない中、修正作業をやったので、なかなか大変でした。
夏休みもこの本に忙殺されることになりました。
でも思い入れもそれなりにあります。
資料を提供した方々に献本をしたのだが、なかなか評判はいいようです。
地学に関する本がいくつかでているのですが、
一般の人には、私の書いたものの方が、分かりやすいのではないかと
編集の方ともども自賛しています。
興味ある方は書店で手にしていただければ幸いです。

2006年11月1日水曜日

58 ニュルンベルク綱領:科学の倫理(2006.11.01)

 「許容されうる危険の程度は、その実験で解決されるべき問題の人道的重要さの程度を上回ってはならない。」ニュルンベルク綱領の一節です。今回は科学者の倫理について考えていきます。

 ニュルンベルク綱領というものをご存知でしょうか。実は、私も最近まで知りませんでした。ここには、重要な内容が書かれています。
 ニュルンベルグ(Nuremberg)は、ドイツのバイエルン州にある都市の名前です。人口約50万人(2004年現在)を擁するニュルンベルグは、バイエルン州の北部のフランケン地方の代表的な都市で、ミュンヘンに次いで大きい都市です。中世から栄えた街で、現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている美しい町並みを残しています。この古い町並みは、第二次世界大戦によってほどんど破壊されたのですが、戦後再建されたものです。
 ニュルンベルクは、ドイツのナチ党の大会を1933年から1938年にかけておこわれたところで、ナチス・ドイツにとっては、中心的な街です。1935年の党大会では、ユダヤ人から市民権を剥奪する法律も、この街で決定されました。戦後になると、ナチの戦争責任に関する裁判は、この街でおこなわれニュルンベルク裁判と呼ばれています。ニュルンベルク裁判では、ナチス・ドイツによるユダヤ人に対する行為を犯罪として裁かれたのですが、人体実験そのものを禁ずるものではありませんでした。
 1947年のニュルンベルク裁判の結果を受けて、研究目的の医療行為において、厳守すべき基本原則を示したものが、ニュルンベルク綱領です。ニュルンベルク綱領は、医学的研究のための被験者の意思と自由を保護する原則を示したものです。
 考えてみると人命に関する医学には、古くから守るべきことが唱えられてきました。医師の倫理・任務についてギリシア神への誓いを立てる「ヒポクラテスの誓い」は、古くからあり、現在も生きています。それにならって看護師の戴帽式や卒業式におこなわれるナイチンゲール誓詞は、1893年ナイチンゲールの偉業を讃え作成された看護師としての必要な考え方、心構えを誓うものです。1964年6月のフィンランドのヘルシンキで採択されたヒトを対象とする医学研究の倫理的原則を示したヘルシンキ宣言、1947年の世界医師会総会でなされたジュネーブ宣言などもあります。
 医者も看護師も、近代社会では、資格をもった人だけがなれる職業です。かつては、そのような資格制度がなくても医者になれました。しかし、医者になるためには、大変な努力をし、勉学をし、技術を磨き、経験をつんだ人だけが、人の治療にあたってきたはずです。
 医療の効果は、たちどころに人の体や命に、その結果として現れます。もし失敗をしたら、遺族が納得してもらえるどうかは、その医者の人間性によるところが大きいのではないでしょうか。そんな最悪の事態も考えた治療が必要となるはずです。まさに医は仁術なのです。
 医学における宣誓は、人の命を大切に思う気持ちから生まれたのでしょう。一方、憎しみ、争い、貧富の差、戦争など、必ずしも人命が最優先にしていると思えないことも人類は行っています。皮肉なものです。
 ニュルンベルク綱領の8に「実験は、科学的有資格者によってのみ実施されなくてはならない」というものがあります。しかし、現実に科学者や技術者になるためには、資格は必要ありません。また、科学において、医者のような誓いをすることはありません。少なくとも、私は知りません。なぜ、宣誓することなく、科学がそれこそ気軽にできるのでしょうか。私は、そんなことを考えたことが何度あります。
 一般に科学に関する職業をしている人を科学者、科学技術に関する職業をしている人を技術者と呼んでいます。医学と違って、科学は基本的には自分の好奇心に基づく行為です。技術も似たような側面がありますが、さらに、より快適に、より便利に、より儲かるようになどの利便性や経済性の追求があります。科学や技術には、直接の対人関係は、医学よりは薄れていきます。
 ですから科学者は宣誓などしないで、興味の赴くまま科学をしていればいいのです。戦争など非常事態のとき、科学や技術は著しい進歩を遂げてきました。飛行機、爆弾、原子力、兵器、レーダーなど、あげればきりがないほど、戦争を契機に生まれたものや進歩してきたものがあります。本当に好奇心だけでなく、国家や政治に左右される使命感、愛国心、敵愾心などによって科学が行われていることも事実です。
 現在の科学には、非常事態ではなくても、人の生存、人類の将来を脅かすような結果を生みだしうることが起こり始めてきました。まさに興味の赴くまま進めたことが、知らないうちに加害者になっているという事態です。さまざまな特性を持つ人工の化合物(例えばフロン、DDT、PCBなど)、遺伝子操作、快適さを生み出すさまざまな装置などなど、どれも好奇心に導かれ、人のためによかれと思って生み出され、考案されたものでしょう。
 もちろん、一人の科学者や技術者だけがそれをしたとしても問題は大きくならなったでしょう。しかしいいものであれば、現在の科学や技術で、大規模、広域、大量におこなうことでになります。それが結果として、人類に被害を与えることがあります。複雑ですがそんな構図が繰り返し起こっています。
 科学者や技術者は、これからの社会では、自分の出した成果、予測、発言にもっと慎重になり、そして責任を持たなければならない時代になってきたのかもしれません。無謀な実験や、明らかに被害を与えるような成果の公表、人に危険な道具の開発など、科学者や技術の行き過ぎを抑止する方法を考えなければなりません。そのためには、科学者としての倫理観を強める必要があります。現在では科学者の倫理や技術者の倫理について、いろいろなところで議論されるようになってきました。
 しかし考えてみると、なにも科学者や技術者にだけ、倫理が必要なのではなく、いろいろな場面で倫理観が問題となります。立派な宣誓や考えがある医学界でも、倫理観のない医者や看護師もいます。これは、近年になって倫理観のない人間が増えてきたのではなく、そのような人は昔も今と同じようにいたはずです。犯罪が起こりそれを裁き抑止するために法律があるのは、倫理観のない人間が常にいることを示しているのでしょう。
 ただ現在は、昔と違い一人の倫理観の欠如の影響が大きくなる場合が増えたように思えます。メディアからの刺激でマネをする犯罪者が急増すること、技術によって大量、大規模、広域に行うことで被害が拡大するなど、現代社会固有の問題があります。ネット犯罪、各種の捏造事件、電話による詐欺事件などは、複雑な要因があるのでしょうが、やはり基本的には一個人の倫理観によって抑止できるものが、抑止できなくなり、現代的なメディアによって被害が拡大しているのでしょう。
 どちらも加害者が人間の行為なのですが、医学と科学の違いは、被害者が人間なのか自然というより大きなものなのかです。被害者が人間であれば人間という種の中での問題です。しかし、被害者が自然や地球全体となれば、人間が責任をとれないものへと広がります。一見人的被害がないく責任がないに見えますが、環境問題のように人間に被害が及びだしたらもう取り返しがつかない状態になっていることもあります。
 科学者も倫理観をしっかりと持つべき時代となってきたのを感じます。
 最後にニュルンベルク綱領の2を示します。「実験は、他の研究方法や手段では得られず、かつ行き当たりばったりの無益な性質のものではなく、社会的善のための実り多い結果をもたらすべきものでなくてはならない。」戒めとしましょう。

・声明・
このエッセイを書いて気づいたのですが、
2006年10月3日金澤一郎日本学術会議会長の名前で
「科学者の行動規範について」声明が出されていました。
しかし、これは近年頻発した科学者の不正事件に端を発しているようです。
声明発表の時期がよくないよくないよう気がします。
もっと以前から問題があったはずです。
もっと素直に科学者という職業が、今や人類だけでなく自然や環境に
大きなダメージを与えるものになっていることを認識し、
その認識に基づいて倫理観の必要性を持たなければならないという
声明として欲しかったですね。
ことが起きたから対処したという観が否めません。
まあ、何もしないよりはしたほうが良いいいわけですから、
みんなで内容を吟味すべきでしょう。
あとは、科学あるいは科学者のあるべき姿として
倫理観を実際にもてるかどうかが問題です。
医師と同じように、その職業によって生み出された結果は、
もはや個人の責任を越えることがあるので、
そんなことを成果を生まないように、
倫理観を持つようになってもらいたいものです。

・冬支度・
いよいよ11月です。
北海道は短い秋が終わろうとしています。
10月後半になって一気に秋が深まりました。
ひと風、吹くたびに、大量の枯葉が舞い散ります。
道路を歩くと枯葉の乾いた音がします。
こんな時期も雪と共に終わります。
先日手稲の山並みに初冠雪がありました。
根雪まではまだですが、街に雪が降るものもうすぐですね。
冬支度が急ぎ足でされています。

2006年10月1日日曜日

57 アリアドネの糸:還元主義の限界(2006.10.01)

 科学は客観的だと考えられています。本当に客観的でしょうか。客観的などというものは、存在しないかもしれません。そんなことを考えて見ました。

 ギリシア神話に「アリアドネの糸」というのがあります。次のような話です。
 クレタのミノス王の子供に、ミノタウロスというのがいました。ミノタウロスは牛頭人身の怪物でした。ミノス王は、迷宮ラビュリントスを作ってミノタウロスを閉じこめました。このミノタウロスが入れられた迷宮は、足を踏み入れたら出ることができないといわれていました。
 ミノス王はアテネ市民に対し、ミノタウロスのエサとして、9年ごとに7名ずつの若者と乙女を生贄を差し出すように命じました。
 それに抵抗するために、アテネの英雄テセウスが立ち上がりました。テセウスは生贄に混じって迷宮に侵入し、ミノタウロスを退治しました。このとき迷宮から出れるように、糸玉を入り口から伸ばしながら進んでいったのです。そして糸を手繰って無事迷宮から脱出しました。
 この糸玉は、ミノス王の娘アリアドネが渡してくれたものです。アリアドネはテセウスに恋していたため、助けるためにしたことです。彼女は、この糸玉を渡し、脱出の方法を教えたのです。
 この神話に基づいて、迷宮から抜けれるための方法を「アリアドネの糸」といわれています。
 さて、話は変わります。
 科学では、観察や実験が研究のスタートです。観察や実験をすることは、完全に客観的な行為だと考えられています。観察や実験なくしては、科学の素材、データ、証拠集めができません。科学では、このような観察や実験で、客観的なデータをとることが重要となります。
 しかし、本当の客観的な観察、実験、あるいはデータなどあるのでしょうか。
 観察するということは、観察している系に、観察者が関与することになります。
 例えば、ある程度知能の高い動物を観察するとしましょう。観察者の存在は、観察対象である動物は、認識するでしょう。すると、動物によっては、観察者を意識した行動をするはずです。
 このような問題点を解決するために、現在の野生動物の観察方法の一つに、観察者が繰り返し動物に接するようにして、動物に観察者を馴れさせるものがあります。最終的には、動物に観察者を意識させない状態にまでしてから、本格的な観察をすることになります。
 しかし、どんなに動物が観察者に馴れたとしても、やはり日常とは違った条件をそこに持ち込んでの観察となります。その非日常的条件に馴れてしまった野生動物は、本当に野生状態といえるのでしょうか。そこから得られたデータは、本当に客観的な観察とはいえないのではないでしょうか。
 地質学では露頭を観察をします。その時、写真をとるのはもちろんですが、重要な露頭ではスケッチをします。なぜなら、スケッチのほうが露頭の特徴を捉えやすいからです。しかし、そのスケッチとは、地質学者の目的に応じてなされます。必要となる地層境界、重要な岩石分布など、目的に応じた取捨選択がなされ、必要なものだけ描き出されます。このとき、客観的ではなく、研究目的に応じた取捨選択は、研究者の主観によるものではないでしょうか。
 また、露頭から、研究室で実験をしてデータを得るために、試料を採取します。その試料は、地質学者の目的に応じたものが、多数ある露頭の中から選択されます。その選択のときに、客観的におこなうとが可能なのでしょうか。高いところより手の届くところ、固くて岩石が取れないところより採取しやすりところからとるはずです。また、実験材料としてふさわしい試料や、経験的にいいデータがでない部分は選択肢から省かれています。もし本当に客観的におこなうなら、露頭全体でもれなく平均的に採取することが理想となります。しかし、現実的には不可能なことです。
 物理の実験でも、客観性を出すために、繰り返し実験をします。そのとき、原因は不明ですが、とんでもない値が出たとしましょう。そのデータは、たいていの場合は、測定ミスとして捨て去れます。特に分析機器を用いた繰り返し測定では、そのような処理が自動的になされることもあります。本当に客観的なら、原因が特定されない限り、すべてのデータは同等に扱うべきではないでしょうか。
 あるいは、ある規則や法則があり、その規則に目的の実験が合っているかどうかを確かめるとき、理想的な状態を考えて行われます。例えば、摩擦や空気抵抗などがないのようなものです。そのような条件で実験を考えないと、本当に知りたい法則が、誤差に埋もれて見つからなくなるからです。目的としない条件で、値を変化させるようなものは、誤差として方程式とのずれがおこっても、仕方がないと考えられます。つまりある程度の誤差は、目をつぶるのです。
 私たちの信じている多くの論理は、このような一見「客観的」にみえる前提の上に成り立っています。しかし、その実体は、主観や誤差などは入らない条件という前提を置いて、論理が組み立てられているのです。これは、明らかに還元主義的な考えです。
 還元主義的な考えでおこなえば、さまざまな未知のこと、複雑なことは排除されていきます。そして、非常に単純化された条件で得られたデータに基づいて、論理が組み立てられます。これでは、ありのままの自然を総体として捉えていないような気がします。
 科学が還元主義的は方法を用いている限り、論理を組み立てやすい条件を選択するに当たって主観が常に混入しているということになります。ですから、科学が客観的などというのは、非常に主観的な見方だということになります。
 しかし、実は科学が発展するには、このような還元主義的な手法をとらなければならないのです。なぜなら、最初に論理を見つけるとき、自然のありのままを総体として捉えようとするには、あまりにも複雑すぎるからです。複雑なものを最初から一つの論理で記述することは非常に困難なことです。ですから、どうしても還元主義的に簡略化した条件で、自然を見るしかありません。これは必要に迫られてやる応急的な方法ともいえます。
 自然という迷宮を知るためには、まずは「アリアドネの糸」として還元主義的な方法が不可欠なのです。還元主義的な方法で一番単純な道として最初の理論をつくっていきます。さらに、アリアドネの糸を手がかりに、迷宮の次の経路へも入ってきます。そんな繰り返しをして、自然の迷宮の奥へはいっていって、少しずつ全体を探っていく必要があります。
 現在の科学は、自然の迷宮のいろいろな部分へ入っていきました。そして、かなり迷宮を解明してきました。しかし、アリアドネの糸では、迷宮の全貌を知るには十分ではありません。イカロスの翼をもって、上空から迷宮の全貌を眺めなければならない時期に来ているのではないでしょうか。そう、自然をありのまま、総体としてとらえる視点です。

・イカロスの翼・
アリアドネの糸の伝説には後日談があります。
糸玉の方法をアリアドネに教えたのは、
迷宮の製作者ダイダロスでした。
そのことを知ったミネス王は怒り、
ダイダロスとその息子イカロスを
迷宮に閉じ込めてしまいました。
しかし、父子は蝋で固めた翼で空へと舞い上がり、
迷宮からの脱出に成功します。
ところが、イカロスは、父の忠告をきかずに
空高く舞い上がりすぎました。
蝋が太陽の熱で溶けてしまい、
海に転落、死んでしまいました。
ですから、上空から迷宮を見るのもいいのですが、
あまり上がりすぎるとよくないという教訓です。
目的を忘れず、我を忘れずにということでしょうか。

・行事の秋・
10月となりました。
北海道では紅葉や初雪の便りを聞くようになりました。
日に日に、朝夕の冷え込みが深まります。
特に快晴の日の朝の冷え込みは格段です。
しかし、そんな日こそ快晴の朝のすがすがしさを味わえます。
昔は運動会といえば秋の行事でしたが、
今は多くの小中学校では、
春に運動会をして、秋には学芸会のようです。
大学では運動会はありませんが、大学祭があります。
しかし、これも春と秋に分かれているようです。
わが大学は秋にあります。
家の近くにある別の大学では春に行われます。
北海道の10月は、短い秋を惜しむかのように
いろいろな行事があります。
そして行事も、秋共にあわただしく過ぎていきます。

2006年9月1日金曜日

56 盲点を見る:背理法(2006.09.01)

 素晴らしいアイディアの思いつくには、数学の世界で使われるているものを使ってみることもいいましれません。

 世の中には素晴らしいアイディアがあります。そんな素晴らしいアイディアに触れたとき、感動してしまいます。そんな素晴らしいアイディアを思いつく人の偉大さを思いながら、そして自分もそんなことを思いつきたいなと考えてしまいます。そんないいアイディアを簡単に思いつくことはなかなか難しいこともわかっています。簡単に思いつけるようなものであれば、感動するようなものにはならないでしょう。
 素晴らしいアイディアを思いつく方法はないでしょうか。一般的な方法はありません。素晴らしいアイディアは、数学の中でたくさん見つけることができます。ですから数学の素晴らしいアイディアをたくさんみていき、そこから上手くいく方法を見つけ出せばいいのです。数学では、そのような方法を一般化していますので、それを利用すればいいのです。
 「素数は無限個ある」という証明に、私が感動したアイディアがあります。
 「無限個ある」ということを証明することは、非常に難しいことです。ひとつひとつことで「ある」ということを証明していっても、無限個あるはずなのですから、証明に終わりがなく、結局は証明できません。つまり正攻法で証明をしようとしても、証明できないのです。
 まあ前置きはこれくらいにして、証明を示しましょう。
(証明)
有限個の素数p1、p2、・・・、pnしかないとする。
そのとき
X=p1×p2×・・・×pn+1
となるような自然数Xの素因数分解を考える。
Xは素数ではないから
p1、p2、・・・、pn
のどれかで割り切れるはずである。
ところがXはどの素数で割っても1余ってしまう。
これは最初の有限個あるという前提と矛盾する。
したがって、素数は無限個ある。
(QED)
どうですか。非常に短い証明ですが、論理的に成立しています。
 この証明方法は、最初に「素数は無限個ある」という命題が成り立たないと仮定しています。ですから、「有限個の素数しかない」という前提から出発しています。その前提で証明のプロセスを進めていき、最終的に矛盾が生じることを示していくのです。
 矛盾が生じたとすれば、どこかに論理的におかしいところがあるわけです。もし証明のプロセスにおかしいところがないのであれば、おかしいのは最初の仮定です。このようにして証明したいないようを否定した仮定が、間違っているということをし示して、証明するという理屈です。
 ここでは、「有限個の素数しかない」という仮定が間違っていることになります。「有限個の素数しかない」が間違いであるのなら、「素数は無限個ある」ということになるという証明です。
 このような証明法を、背理法と呼びます。
 背理法とは、上手くいけば、上で示したような素晴らしいものが生まれます。しかし、これを思いつくのは非常に困難です。なぜなら、人間の普通の考え方からはなかなか生まれないものだからです。逆にいうと数学のような論理の世界だからこそ、思いつけ、素晴らしいと思えるのかもしれません。
 背理法のように、素晴らしい思えるものが、数学の世界にはたくさんあることがわかります。
 別の例を示しましょう。
 ある数列を探るゲームです。ある規則で並べられた3つの数字があります。その規則は、出題者(私)が決めて、私だけが知っているものです。その数字の規則を知るために、質問者(読者)が、自分が考えた規則で作られた数列を提示することができます。出題者は、質問者の数列が正しかかどうか、YesかNoだけで答えるとします。
 ではゲームをはじめましょう。
  2 → 4 → 8
規則にしたがった数列です。
いくつかの質問者の例を示し、私の答えを示しておきましょう。
  4 → 8 → 16:Yes
  8 → 16 → 32:Yes
  2 → 4 → 6:Yes
「おやっ」と思われた方がいると思います。そんな方は、すぐに別の規則を思い浮かべたでしょう。
  1 → 2 → 4:Yes
「なんだ、これは」と思われたことでしょう。
  1 → 3 → 5:Yes
「ああ、もうわからない」となっていませんか。
 私が思い浮かべた規則は、「整数を小さいものから大きいものへと順に並べる」というすごく簡単なものでした。
 このゲームで伝えたかったのは、日常や自然のなかの規則を探ろうとするとき、答えが事前わかっているわけではありません。ですから、答えを得る方法として、なんらかの答え(この場合は規則)を予想して、その答えに合うものを考えて質問すると、例のように単純な規則にたどり着くのは、難しいということです。
 もし上の例のように、2の何乗という規則を思い浮かべて、その規則の範疇で質問をする限り、私はすべてYesと答えます。それで、質問者は2の何乗という規則が正しいと、確信してしまいます。でも、それは、間違った答えなのです。そのんなことをこのゲームで伝えたかったのです。
 可能性をすべて、網羅的に考えないと、正しい答えにはたどり着けないのです。増加する数は、偶数も、2の指数乗も含んでいます。
 正しい答えにたどり着きたいときは、いろいろな規則を想定して、その規則に基づいて質問を繰り返すだけでなく、その規則が間違っている場合、つまりNoとなるような場合を想定して質問すれば、遠回りかもしれませんが、確実にもれなく答えにたどり着くはずです。時には、一番の近道となる場合があるかもしれません。
 このような考え方は、一種の背理法といえます。単純で算数のゲームのような論理の世界でも、このようは背理法を思いつくのは、大変なのに、自然の中の規則性を探るとき、反証性を考慮に入れることは非常に困難です。
 多くの人は、規則にあった正しい場合を前提として、質問をするということが、認知心理学の分野で検証されています。つまり、規則に反するものを考えて、規則を探ろうとするのは、人にとって非常に難しいことなのです。
 数学や論理学で用いられている論理体系を、日常や自然界に用いるのが難しいかもしれません。背理法の他にも、数学的帰納法や対偶などは、なかなか難しい考え方ですが、一種の盲点を取り除いてくれる役割を果たします。何かものごとを探るのに、行き詰ったとき、背理法や帰納法などの方法を用いると、答えを得られることがあるかもしれません。これ上手くいったとき、素晴らしいアイディアとなるかもしれません。でも、それが大変なのですが。

・四国城川へ・
いよいよ9月になりました。
8月の蒸し暑さと比べる、
北海道は乾燥してきてだいぶ涼しくなってきました。
強い日差しの下は暑くても、
日陰を通る風は心地よいものとなっています。
私は、9月2日から6日まで、
愛媛県西予市城川に出かけています。
帰りに東京で別件で1泊します。
城川へ出かけるのは、毎年のことで、
今年もでかけることになりました。
今回は博物館にじっとしていて、
室内作業することになります。
まだ城川は暑いかもしれませんが、
四国の山国の静かな自然を味わって仕事ができます。
それで心がリフレッシュできるはずです。
ただ心配は、私の滞在中、よく台風に見舞われます。
ですから、それだけが気がかりです。

2006年8月1日火曜日

55 一枚の地層に:地球に流れる時間(2006年8月1日)

 以前、沖縄に行ったときに見た地層の写真を、必要があって詳しく見直しました。そんな時ふと、ひとつの地層のでき方から、地球の時間へのいろいろな思いが巡りました。

 地層というの、どんなものを想像しますか。だれもが、どこかで、地層を見たことがあるでしょう。海岸に広がる地層、川底に見えている地層、山の崖に出ている地層、道路の工事でできた崖、どこかで地層をみたことがあるはずです。あるいは、地層で、化石探しをした人、鉱物を探した人、授業で習った人は、地層を詳しく見たことがあるはずです。でも、人それぞれに、思い描く地層は違っているでしょう。
 思い浮かべた地層の様子も、人それぞれでしょう。ある人はその層が水平でしょう。またある人は垂直でしょう。あるいはぐにゃぐにゃに曲がりくねったものかもしれません。しかし、思い浮かべた地層として共通しているのは、何枚もの層が重なったものでしょう。それらひとつひとつの層は、どのようにしてでき、何を物語っているのでしょうか。一枚の地層から考えていきましょう。
 地層とは、どのようなものでしょうか。詳しく見ていきましょう。まず、私の思い浮かべた地層を紹介しましょう。沖縄の東海岸で見た四万十層群嘉陽層とよばれている地層です。この地域の地層は曲がりくねっているのですが、海岸でみた地層を詳しく見ていきましょう。
 海岸の崖で写真にとったものは、水平よりやや陸側に傾いている地層でした。見える範囲はすべて地層の崖です。地層全体の厚さにする、数100mはありそうです。地層の枚数は100枚どころではありません。層の厚さは色々ですが、40~50cmほどの厚さものが多いようです。その中の代表的な一枚の地層をよく見ていきましょう。
 ここで注目した地層は、上の方が粒のあらい砂からできています。砂の部分は、表面が茶色く風化していますが、割れたり新鮮な面を見ると、中は灰色の砂岩となっています。砂岩の部分が地層の大部分を占めています。一番下には、黒っぽい緻密で粒の細かい泥岩からできています。泥岩の部分は、もろくて侵食を受けやすく、くぼんでいます。泥岩の部分は、4~5cmほどで、厚さは場所によって違っていますが、10cmにはなりません。
 砂岩から泥岩の境界は、はっきりしないで移り変わっています。ところが泥岩から砂岩への境界は、明瞭ではっきりと変わっています。ただし、その境界の面は、必ずしも平らではありません。時には砂岩が泥岩をかなり削り込んでいるように見えるところもあります。
 遠めで見ると、このような平均的な様子が、地層から伺うことができます。地層は自然のものですから、このような平均的でないところもたくさんあります。たとえば、地層の厚さはまちまちです。1m近いところもありますし、10cmもないようなところあります。砂岩ばかりの層もありますし、泥岩だけのところもあります。小石がたくさん混じっていることもあります。このように平均的ではないところも、地層にはたくさんあり、多様な様子がうかがえます。
 遠めで見ると、同じような地層が繰り返して連なっているようにみえ、一般的な地層を示すことができますが、近づいて詳しく見ると、どうも一様でないこともわかります。では、このような一見一様にみえる繰り返しで、中身はさまざまな多様性を持っている地層を、どのようにすればつくることができるのでしょうか。
 地層を構成している砂や泥、時には小石は、石が砕かれ、小さくなったものです。そのような作用が行われるのは、陸地です。風化や浸食によって大地を形成している岩石が砕かれてきます。川によって、砕かれた岩石が運ばれていきます。石は小さく砕かれ、やがて砂や泥のような細かい粒になります。
 川は上流から下流に向けて、その作用をしていきますが、川が下流で流れや緩やかになると、大きな粒は運べなくなり、川原に堆積します。下流域では細かい粒だけが運ばれます。ところが海に注ぐ川は、にごった水ではなく透き通っています。ですから、目に見えるような粒は、ほとんど、川が海のたどり着くまでに、川で堆積してしまっているのです。しかし、川原のどこにも海岸で見たような何枚も繰り返すような地層ができていません。ですから、通常の川の営みでは、このような地層ができそうもありません。
 砂や泥、時には小石が運ばれ、地層ができそうなときとは、どのような時でしょうか。すぐに思い浮かべられるのは、洪水や土石流です。激しい洪水や土石流であれば、大きな石でも流してしまうことがでるはずです。洪水や土石流も平野部にでると、そこに川が広がって、土砂を堆積してしまいます。にごった水は海まで達しますが、多くの土砂は平野に堆積します。今ではダムや堤防で平野の洪水は減りましたが、今年の梅雨の大雨のように短時間でたくさんの雨量があり、それが想定以上のものになると、自然の川の営みが復活します。このようにして、扇状地や平野が、形成されていることは、社会科や地理の時間に習ったものです。
 でも、これは土砂が場所によって不規則にたまることができますが、規則正しい地層のようなものや、泥まで整然と溜まるには、どうもいい仕組みとはいえません。また、数mの地層なら洪水の繰り返しでできそうですが、数100mの地層の積み重ねは、できそうもありません。
 砂(時には小石)から泥がゆっくりと溜まるには、土石流や大洪水が、海底まで達し、その後は穏やかに泥を堆積すればいいのです。あるいは、洪水で河口の沿岸に溜まった土砂が、地すべりでさらに深い海に流れこんでいけば、一枚の地層ができそうです。そのような場が、大陸棚にでもあれば、繰り返し地層ができ、数100mの地層の連なりもできそうです。
 地すべりの位置は色々なところで起こるでしょう、地すべりによって土石流ができ、その本体が流れてくれば、小石まである砂がたまり、土石流がおさまれば、やがて泥がゆっくりと沈殿しているでしょう。
 あるいは、同じところで土石流の本体が通ると、すでに溜まっていた地層の上部を削り取ってく行くこともあるでしょう。もし、土石流の少し離れたところを通れば、砂のほとんどない泥だけの層ができるでしょう。
 このような土石流が頻繁に起こるような場所が、今回想定した地層の堆積場所となりそうです。でもそのような土石流が起こり地層が溜まるという事件は、頻繁に起こりそうもありません。大きな地震をきっかけにして海底地すべりが起こったり、未曾有の大洪水で海まで大量の土砂が流れ込むとかの事件です。このような事件は、めったに起きそうもありませんが、長い時間間隔でみれば、きっと起こりそうなものです。ですから、ひとつの場所で考えると、何十年、何百年、あるいは何千年に一度のような出来事によって一つの地層ができることになります。
 海底に流れ込んだ土砂は、一気にたまります。学校の理科の実験で、ペットボトルに土砂と水を入れてかき混ぜると、重い小石や砂が早く沈んで、細かな泥が沈むには時間がかかりまず。でも、数時間、あるいは一晩も置いておけば、泥も沈んで、水は透明になります。海では、ペットボトルより大規模で、波や水の流れがあるため、もっと時間がかかると思いますが、せいぜい数日すれば、溜まるべきものは地層として沈むはずです。
 一つの地層は、大地に流れている時間からすれば、あっという間にできてしまうということになります。大半の時間は、泥と砂の間に挟まれていることになります。ですから、地層とは、テープレコーダーのように時間を連続的に記録しているのではなく、ある事件を記録してカードのようなものなのです。そんな事件の記録カードを積み重ねたものが、地層なのです。
 海底に流れていたはずの大半の平穏な時間は、ほとんど記録されていないのです。これは、過去の記録のされ方としては、ごく普通のことなのです。私たちの昔の記憶もそうなっているます。記憶に残っているのは、自分にとって、事件的な出来事が多いはずです。毎日同じようにしていることや振舞っていることなど、日常ともいうべきことは、ほとんど忘れ去れています。大地の記録も同じなのです。事件によって大地に物質して刻印されたものだけが、記録となります。
 最初に思い浮かべた地層は、上に砂があり、泥へと連続的に変化してきました。ですから、この地層は、もともと溜まった時は上下が逆転します。周辺の地層は曲がりくねっているといいましたが、ここでは地層が完全に逆転しているのです。これも大地に流れている長い時間によって形成されたものです。硬い岩石でも割れて砕けることなく、ゆっくりと時間をかけていけば、地層を崩すことなく、くねくねに曲がったものが形成されるのです。大地の歴史には、短時間のダイナミックさ、長時間のダイナミックさ、そして大半の何もおこらない平穏が時が流れているのです。大地の時間とは、不思議なものです。そんなことを私は地層から感じました。

・夏休み・
北海道はやっと夏らしい暑い日が訪れました。
7月は停滞した梅雨前線の影響で
北海道も雲の多いどんよりとした天気が続きました。
大学も夏休みになり、学生が減り、静かになりました。
でも、教員は汗をたらたら流しながら、
採点と成績の整理に追われています。
でも息抜きのために、私は、
2日~4日はアポイ岳
8日~9日は登別のクッタラ湖
に出かけます。
アポイ岳は7月の連休に調査に行こうとしていたのですが
次男が水疱瘡を発病したので行けなかったものです。
クッタラ湖は、今年の春にいったのですが、
大量の積雪で、いけなかったところです。
今回は、遣り残したところの調査となります。
本当は、8月上旬は忙しい時期なのですが、
定期試験が終わって、やはり少しはリフレッシュしたいので、
出かけることにしました。
しかし、そのために、忙しくなりますが、仕方がありません。
がんばりましょう。

2006年7月1日土曜日

54 過信:科学崇拝の戒め(2006.07.01)

 科学は、非常に役に立っています。それは信頼に足るものです。しかし、科学を過信しすぎることはよくありません。もっといろいろな世界があることも理解しておく必要があるはずです。

 現代において、科学は論理や理性の判断基準として非常に重要な役割を果たしていることは、前回示しました。そして、現代人、あるいは現代社会の科学に対する「信心ぶり」は、まるで新興宗教のごとくみえるという話をしました。
 現代の「科学教」は、圧倒的な実績をもっています。科学技術のここ100年ほどの進歩は、目を見張るものがあります。そして、その科学技術の恩恵に多くの人が与っています。いまや科学技術なしには、日常生活が送れないようになりました。これらかも科学は進歩して、私たちに恩恵を与えてくることでしょう。
 科学を推進する科学者や技術者は、「科学教」の「経典」に、日夜新しいページを書き加え続けています。その経典のページの増加は、留まることなく、いや日増しにスピードが増しているように見えます。
 科学が進歩を続けることによって、社会が発展し、生活が快適で豊かになります。こんな科学の実績は、いたるとこで見ることができます。まるで科学にはできないことがないように思えるほど、科学にはいろいろなことができます。かつてはできるはずのないことでも、科学は実現してきました。
 鳥のように空を飛ぶことは、レオナルド・ダ・ビンチの夢でした。しかし、ダ・ビンチが設計した装置では、空を飛ぶことはできませんでした。今や、強力なエンジンを使えば、金属でできた機体に多くの人を乗せて飛ぶことができます。その延長として、地球外の宇宙空間まで人を運ぶことができるようになりました。夢物語でしか考えることのできなかった月の世界にも、人類の足跡は残されました。
 もちろんまだ、科学にできないこともたくさんあります。マントルまでボーリングして岩石を持ってくること、海底での居住、宇宙空間での定住、他の天体への移住など、長い時間がかかるでしょうが、やがてはきっと実現するでしょう。すでにその一歩は踏み出されているのですから。1万メートルを越える深海にも人はいったことがありますし、原子力潜水艦には、何ヶ月も人が海中で生活しています。宇宙空間に人が常駐する宇宙ステーションがあります。月には人が行きましたが、他惑星にも探査機を送りこみ、詳しい調査が何度もなされてきました。
 科学にできないこと、それは原理が解明されていないとか、技術がまだないためであって、将来はきっと実現していくはずです。それが科学の可能性であります。できないこと、それは不可能を意味するのではなく、目標としてこれから科学が目指していくものなのです。そして人類の叡智は、やがてはそれを成し遂げることでしょう。このような未来予測をすることが、私たちの科学に対する信頼の証でもあります。
 科学をそれほど信頼していながら、それでも多くの人は、科学では解き明かせないこと、科学では決してできないことあることを、うすうす感づいています。それは、何も心霊現象や怪奇現象などではなく、身近な現象でも解明できないことがあることを、人は知っています。
 人間に関する生物学的、医学的側面は、科学が多くのことを明らかにしています。しかし、人間の行為や心理に関することは、どうも不確かです。芸術の分野、人間の心、社会の様子や変化などは、科学ではいまだに解明できないことです。例えば、なぜ私はこの時代のこの場所に存在するのか、なぜ社会は論理的帰結に従わないか、なぜ歴史はこのような経路をたどったのか、なぜ人は同じような過ちを繰り返すのか、などなどです。人文科学や社会学、芸術活動などには、論理ではなかなか解決しきれないものがあることが確かなようです。
 それでも科学者たちは、科学で解明しようと努力を続けています。過去の歴史を如何に解釈しても、歴史が変わるわけではありません。人が間違う仕組みが分かったしても、そして対処したとしても、人の失敗は起こります。とんでもない失敗、事前に想像しえない失敗だって起こります。それも人間の振る舞いなのです。
 ダ・ビンチのモナリザに使われた絵の具の種類がわかっても、モーツアルトがどんな時にどんな曲をつくったのかがわかっても、シェイクスピアの戯曲の文法が分かったとして、その感動が増ことはありません。芸術とは、見たとき、聞いたとき、読んだとき沸き起こる心の動きです。それは科学的な合理性や理性から生まれるものではなく、心を動かす感情なのです。
 科学のメスが入ったとたんに、芸術は味気ないものになります。そんなことをしなくても芸術は十分価値があるのに、切り刻むこと、要素還元主義的に論理で解釈しようとすることで、芸術の豊かさが損なわれていくような気がするのは、私だけでしょうか。
 科学がもっとも得意としている自然の現象、生物の振る舞いなどにも、解明できないことがあります。それらの本質に対して「なぜ」という部分は、わからないことがたくさんあります。例えば、なぜ私たちの宇宙がこのような自然の定数を持つのか、なぜ生物は進化するのか、なぜ生命は私たちの太陽系に誕生したのか、などなど、「なぜ」と問われると、答えられないことが多々あります。そしてそれは、答えが出ない問いのような気がします。
 私たちの科学がまだ未熟だから、解決できないだけなのでしょうか。そうではなく、私には、科学がそれほど万能でないためだと思えてなりません。上で挙げたような例は、科学が答えを出すべき領域ではないような気がします。もし、科学が答えを出せない領域が存在するのであれば、科学が万能ではないことの証明になります。その答えはまだありませんが、人が普段接している領域に、科学が決して解明、到達できない領域があるのかもしれないのです。
 科学が解明できない領域は、多くの人が、それも昔から感じてわかっています。ですから、こんなことは、改めていうまでもないことなのかもしれません。しかし、科学が現代社会の中であまりに多くの比重を占めているから、このような問題を再確認していく必要があるように思うのです。
 特に科学者たちの狂信的な振る舞いには注意が必要です。科学者とは、科学することがすべてであり、科学を生業としている集団です。彼らは、それなりの社会的地位と、待遇を受けています。それは、科学者の努力によるものですが、それは科学自身が、それだけの威力を持っていたからです。その科学の推進者として科学者は社会的評価を得ました。
 科学に打ち込んでいる科学者は、狂信者のごとく、科学的内容はどんなことも信じ、科学的でない、論理的でないことは、信じなくなります。あるいは、否定すらしてしまいます。科学者が、科学以外のものを信じない、認めないのは、個人の自由ですからいいとしても、その姿勢を他人に強要する、あるいは教育と称して若い世代に押し付けることのはいきすぎです。
 何が何でも科学で解決できるという科学者の姿勢は、科学を推進する上で重要な動機となっていることでしょう。しかし、それがすべてで、それが最優先、それが以外は認めないという姿勢は、他の多様性を排除し、他の人の自由を奪いかねません。科学者も、そのあたりのバランスを取れればいいのですが、ついついそのようなバランスを忘れてしまいます。
 科学には、善悪はありません。あるのは結果です。科学は、強力な兵器で強い軍隊を武装する一方、世界平和を推進します。便利な生活を与える反面、ライフラインが途絶えるととたんに不便になります。安全な生活をもたらす一方、テロも起こします。
 善悪のない科学だからころ、うまく操らなければなりません。科学から得られる結果を、バランスよい判断をして扱わなければなりません。そのためには、狂信的な「科学教」信者では、理性的な判断ができない気がします。危ない結果を選択する気がします。広くを価値判断できる視点が必要です。そして、科学が万能でないこと、科学がすべてでないこと、科学で解明できないことがあることも理解する姿勢が必要です。科学への過信が、暴走を生まないことを願います。
 科学が、これからも人間にとって重要な役割を果たすことは確かです。そして科学はこれからも大いに発展していき、私たちの生活を豊かにしていくことでしょう。科学は、さらに多くのことを論理的に解明していくことでしょう。人間は科学を上手く扱える賢さが必要です。時には芸術を楽しむ心のゆとりも必要でしょう。自然の不思議や、美しさを素直に楽しむ心も必要でしょう。
 今回のエッセイは実は、私への戒めのためでもあります。私は、科学者という職業で生計を立ています。もちろん、科学を信じていますが、研究をしていると、日夜、成果を出すこと、良い結果を求めることに心を砕いています。それは、科学の狂信状態とです。ですから、ついつい科学を過信している状態になってしまいます。そんな過信に陥らないように、時々自分を振り返える必要があるようです。

・理性と感情・
今回のエッセイで科学万能ではないという考えは、
実は、1998年5月に父が亡くなった時から生まれました。
父の葬式で喪主をしていて、私の心に生じた事件が、
理性と感情について考えるきっかけになりました。
父の葬儀まで、私は非常に理性的で、
感情に負けない理性を持っていると信じていました。
そしてそれまで過ごしてきたときはそうしてきましたし、そうできました。
しかし、父の棺を閉める時、焼却炉の前で最後の別れの時、
突然自分でもわからないほど、涙が出て止まらなくなりました。
感情に流されていく自分を経験して驚きました。
そのとき、心の隅に追いやられていた理性で最後の最後に思いました。
「やっぱり自分にも、どうしようもない感情があったのだ」ということです。それが、理性に偏りすぎた私の生き方に対して、
最後に父が教えてくれたことだと、今では思っています。
それはあまりに大きな教えでした。
その教えと、今までの理性中心の生き方を、
どう自分の心の中で折り合いをつけるかが、重要な問題となりました。
私は、すべてを合理性や理性によって考えることが正しいと考えていました。
まさに科学の狂信者でした。
自分は今までそうしてきたました。
だから、他の人も自分と同じように、頑張ったり、望んだりしたら
合理的な考え方になれるものだと考えていました。
でも、そんな理性的である自分のような人間にも
おさえ切れない感情があることを気づくと同時に、
当然他人にも同じような感情があることを身をもって知ったです。
自分にも他人にも、感情を認めることにより、
今まで簡単に解決できると考えていたことに、
解決不可能な部分があることが、身につまされて教えられたのです。
理屈では済まない部分を認知するということです。
その土俵でも、ものごとを考えなければならないということです。
その後、私の興味はそちらに急速に向かっていきました。
でも、いくらやっても解決できない問題のよう見えます。
とりあえず私には、理性、合理性、科学の世界を目指すことしかないのです。
しかし、他の人が持っている感情の世界は認めること、
その世界も忘れず受け入れることにしました。
私は、理性と感情の全面解決はできないまでも、理性の象徴である科学を、
少しでも多くの人の役に立てばと考えるようになりました。
このような考えに至るまで、何年もかかりました。
父に宿題は、大変、長い時間のかかるものでした。
でも、自分の世界を大きく広げる結果となりました。
そんな宿題を与えてくれた父に感謝しています。

・夏の予定は・
いよいよ7月です。
そろそろ夏休みの計画が気になる季節です。
今年は、8月一杯は、まとまった夏休みがとれそうもありません。
もともと8月下旬まで大学では、採点、成績評価があり、忙しいからです。
そして、8月下旬には、高校訪問をしなければなりません。
北海道は広いので、泊まりで、いろいろ回らなければなりません。
ですから、8月一杯は身動きができません。
9月には、後期の新しい講義の準備をしなければなりません。
9月中旬には調査があるかもしれません。
9月下旬には、新しい学科の見学会があります。
新しい学科の設立の年なので、いろいろ新しい用事があります。
夏休みは、地質学者にとって稼ぎ時なのですが、それもままなりません。
でも、間を縫って、家族サービスと称して調査をしていきたいと思います。
とりあえずは、7月の連休にアポイ山に登るつもりです。
9月の連休も調査に使いたいのですが、いけるかどうかまだ未定です。
夏休みだというのに、大学教員はなかなか大変なのです。

2006年6月1日木曜日

53 判断基準としての科学:科学教(2006.06.01)

 科学の営みは、既存の宗教とは違います。しかし、多くの人が信じ、頼りにしている点では、科学と宗教は似ている点があります。そんな科学と宗教について考えましょう。

 イスラム教を信じている人が、自爆テロを起こしています。これは、自分達が信じていることの正しさを、自分や他人の命を犠牲にして、世界に示しているのです。これは過去の話ではなく、現在現実に起こっていることです。このような事件のニュースを見聞きするたびに、宗教あるいは信じていることのために命を投げだせる人がいること、そして人間とはそこまで信じることができるのだと感心させられます。宗教や信念が、人間に及ぼす大きな影響を感じずにはいられません。
 日本でも、1995年3月20日、東京の地下鉄でサリンをばら撒く無差別テロが当時のオーム真理教によって行われました。そのときに多くの人は宗教の怖さを考えました。オーム真理教だけでなく、現実には多くの人がなんらかの宗教を信じています。
 ある人から見れば、どんな信念があろうと、人の命を奪うことは、とんでもない行為に見えます。しかし、いずれの例も、その宗教を信じている人には、それらの行為は、正しいことと考えての行動であるはずです。
 私たちから見てとんでもない行為は、本当に「とんでもない」ことなのでしょうか。言い換えると、私たちの価値判断は、いったいどんな基準によるのでしょうか。
 自分たちの属している社会やコミュニティの規則や常識は、統一された価値観をもっている人の集まりでは正しく見えます。しかし、コミュニティから一歩外にでると、その価値判断は怪しくなります。人を殺すことさえ、是、あるいは善となりえるのです。それは、一部の宗教や国やコミュニティの違いだけでなく、同じ国の同じ国民でも、時代が変われば、その価値判断はいとも簡単に変わります。
 かつて日本では、敵と分類された人間は殺すことが是であり、たくさん殺した人は勲章さえもらえた時代があったのです。それは、ほんの60年ほど前のことです。そして、戦争が終わり、平和が訪れ敵がいなくなると、手のひらを返すように、人を殺すことはいけないこととなったわけです。
 宗教と同じように、政治や法律に従った価値判断、常識に従った価値判断さえ、広くみれば怪しいことがあります。もっと視点を拡大すれば、人類のためにということさえ、ホモサピエンスという種だけの価値判断かもしれません。こうみていくと、何を価値判断とすればいいのか、わからなくなります。
 価値というのは、主体が存在してはじめて評価できるものです。主体がいるとその主体に益するものは価値があり、害するものは無価値あるいはマイナスの価値になります。でも、主体が変わったり、主体の状況、環境が変われば価値もいとも簡単に変化することは上で述べたとおりです。ですから、価値というものを判断基準にしては、危ないようです。では、何を判断基準にすればいいのでしょうか。
 人間には、幸い理性があります。理性を基準に考えれば、なにかいい判断基準ができるのではないでしょうか。信じているという点から見れば、この世の中には、宗教とは呼ばれていないのですが、宗教のような理性として科学があります。理性の極致ともいえる科学は、宗教的な側面もあります。
 科学では、論理と証拠によって、合理的に判断を下します。その判断には価値すら入れないことがあります。さらに、科学の素晴らしいところは、その結果を科学自身で書き換えたり、否定することが可能なことです。判断とは、ある時点での論理と証拠による結果にすぎません。別の証拠や論理がでてきて、そちらの方が優れていると判断されれば、過去の結果にこだわることなく変更することが可能なのです。
 今や科学は、現在社会ではなくてはならない存在です。科学を知らない人も、苦手な人も、あるいは科学を批判的な人も、現代社会では科学を利用しなければ生活できない時代にすらなっているのです。しかし利用する気なれば、これほど便利で、楽で、安心が得られ、快適なものはありません。多くの人はその便利さを享受しています。
 科学を否定している人でも、科学なしで生活はできません。たとえ原始の生活をしようとしても、頭脳に蓄えられた知識や智恵を使わなければ生きていません。知識や智恵は、無意識に使ってしまうはずです。しかし、知識や智恵は科学的な背景を持っています。
 また、科学を否定したいという主張を人に伝えるときには、対面して話す時以外は、なにかの媒体を使うはずです。その媒体はどれも科学を利用しています。そうでなければ、科学を否定という自分の主張を多くの人に聞いてもらうことはできません。
 いまや人は、科学抜きでは生活できませんし、現状の豊かで安全な生活は得られません。そのような豊かさを享受することは、科学を信頼することにつながります。ですから、現代社会は、科学という見えない宗教のようなものに基づいて、営まれているように見えます。そうとなれば、現在社会で一番多くの人が信じ、信じることによって救っているのは、科学ではないでしょうか。
 科学者はよく「宗教を信じない」とか「合理的なものしか信じない」ということがあります。これらの言説は、あきらかに「科学教」を信じているという発言とみなすことができるのはないでしょうか。科学者とは、「科学教」の伝道師や求道者ともいえます。研究に没頭する姿は、狂信的とも見えることもあります。
 しかし宗教として科学をみると、少々風変わりです。これといった経典もお題目も儀式もありません。経典に相当するのは各分野での理論や法則かもしれません。しかしそれらですら、現時点で「確からしいもの」、一応「もっともらしく見える」ものにすぎません。科学者は、それを書き換えることを目標として日夜精進しているのです。
 科学とは、証拠と論理という手法だけを決められています。その手法のみによって成立し、営まれている世界です。科学的手法に基づいて、現実に技術が生まれ、より便利なものが生まれています。その便利さが実生活に反映されます。信じること、帰依することで、ご利益は十分すぎるほどあるのです。現代社会はもしかすると、科学に帰依してる時代なのかもしれません。
 この科学教の不思議さは、手法だけではありません。結果に対する判断には、論理性だけで、価値観は含まれていません。価値判断は、最終的にその科学を利用する国、社会、会社、人がするものです。科学の成果は、広く公開することが科学を進める基本です。科学の成果は、だれでも、いつでも、自由に見て利用することができます。
 ですから、悪意をもって科学を使えば、科学は強力な武器となります。それは、ゲリラの自爆テロの爆弾や人を殺すために銃火器になります。大規模な核分裂や核融合の連鎖だって、科学が生み出しました。しかし、それを大量殺戮兵器に使うのも、発電に使うのも使う側の人間の判断に基づきます。
 科学教という現代社会を知らず知らずのうちに取り巻いている新興宗教は、もはや誰もその影響から逃れることできません。でも、科学教に帰依し、うまく使うことさえできれば、これほど役に立つものはありません。人間は科学教をうまく使えるように、もっと賢くならなくてはなりませんね。

・科学と宗教・
科学と宗教の関係は、石黒耀さんが、
「震災列島」(ISBN4-06-212608-7 C0093)
という本で、述べられていた考え方です。
その主張に私も共感しました。
そして、私なりの科学教を考えたものが今回のエッセイでした。
私の論理は、ここで終わりではなく、
科学は必ずしも全幅の信頼がおけるものではない
ということも私は考えています。
その状況をわきまえておくべきである
というのが、私の現在の主張です。
その話は、次回に展開するつもりです。

・光陰矢のごとし・
もう6月です。
1月から数えてもう半年ほどがたちました。
振り返ると1年は、早く過ぎ去るものです。
冬のオリンピックが終わったと思ったら
こんどは、もうワールドカップサッカーが始まります。
月日の過ぎるのが早いです。
まさに光陰矢のごとしです。
こんなことばかりいっていると、年寄りの繰言になります。
早く過ぎようとも、いかにやるべきことをやっているかです。
それこそが問われます。
そう問われても、やっているといえない自分がいます。
つらいところです。

2006年5月1日月曜日

52 循環からの脱出:生命の起源(2006.05.01)

 ニワトリと卵から生命の起源を考えてみましょう。はたして、どこで、どのように結びついているのでしょうか。そこには、不思議な論理と複雑な歴史があります。

 ニワトリと卵はどちらが先か、という問いがあります。ニワトリが先だと答えると、ニワトリは何から生まれるかと聞かれます。すると、卵と答えるしかありません。だから、卵が先ということになります。では、その卵はどうして生まれたかというとニワトリが産むということになり、ニワトリが先という答えになります。これは、同じ質問がぐるぐると回って、決着を見ないことになります。議論が同じところをぐるぐる回っているので、循環論法といえます。
 この循環から脱出するには、循環に入りこんではだめです。ちょっと視点を変える必要があります。時間の流れによる変化や、生物の進化というものを考えていくと、話は変わってきます。
 ニワトリと卵をもう少し上位の概念で考えていきます。ニワトリは子孫を残すことのできる生物と考え、卵は卵という形態から成長する生物とします。これらのどちらが先かという質問に置き換えてみましょう。
 生物の特徴の中で、子孫を残すことは重要なものです。生物とは子孫を残すものいってもいいくらい重要な属性です。ですから生物というものが地球に誕生したときから、子孫を残すという性質をもっていたはずです。逆に、物質が子孫を残せるような機能を持ったとき、それを生物の誕生といえるのかもしれません。
 初期の生物は、自分自身が2つに分裂することで、子孫を残してきました。その方法は自分自身とまったく同じコピー、分身をつくることでもありました。ところがこれでは、まったく同じものがそのまま子孫になります。ですから、環境の変化があると子孫を残せなかったり、他の生物の生存競争に負けると子孫を残すことはできません。これは、生物全体にとっても、いい方法とはいえません。
 まったく同じものを子孫とするだけでなく、時々違ったものが生まれてくる仕組みも組み込んでおくほうが有利となります。それのような変化が蓄積されれば、祖先とは違った種類のものとなりえます。これを進化といます。子孫を残す方法に、このような進化のメカニズムが組み込まれました。
 その後、子孫を残す方法として、同じ種でも別の個体と生命の設計図というべき遺伝子を交換しあうことによって、変化や多様性を生む方法がとられました。現在の細胞分裂で増えるような生物でも、苛酷な環境になってくると、遺伝子を交換をすることがあります。これは、進化を促すためのメカニズムといえます。
 やがて、恒常的にオスとメスという区別をもって生きる種がでてきました。オスとメスが遺伝子交換をすることを前提とした子孫を残す方法です。有性生殖とよばれるものです。ある生物は、合成した遺伝子を卵という形態にして、産むようになりました。すると子孫の量産ができ、生存競争に有利に働きます。
 このように生物の進化をみていくと、ニワトリと卵を象徴するものとして、「子孫を残すことのできる生物」と「卵という形態から成長する生物」がどちらが先かという見方をすれば、ニワトリが先という結論になります。このような視点を変えることで、循環からの脱出をはかることができました。
 では、そのニワトリつまり生物自体はどのようにして誕生したのでしょうか。この問題は長く議論されてきました。宗教や哲学としてではなく、科学として答えを探っていきましょう。
 現在、多くの支持を得ているシナリオは、次のようなものです。
 初期地球の深海底の熱水噴出孔が、生物誕生の舞台です。化学反応によって生物に必要な有機物が形成されます。その中に、ある有機物や分子だけを取り入れ、いらない分子を外に出すという膜ができました。
 その膜の中で、生物としての機能を持つたんぱく質かあるいはRNAが入り込みます。もし、膜の中にたんぱく質が先に入ったなら、多様なたんぱく質の中にRNAをつくる機能を持つものができ、膜の中でRNAが形成され、生物として活動します。またRNAが先なら、RNAはたんぱく質をつくる重要な機能を持っていますから、膜の中の有機物からRNAの機能によってたんぱく質がつくられます。
 いずれにしても、このような化学的な合成段階を経て、つぎに膜が2つに分かれて、増えるという機能を持ちます。その増える機能に、進化するという機能も加えられたとき、生物が誕生したといえます。あとは、増殖と進化によって、多様で複雑な生物が生まれ、多様な環境に進出していきます。
 進化によって生物は、大規模な環境変化があっても、どれかが生き残れば、時間さえかければ、多くの場所にまた進出して元通り生物のあふれる環境となります。このような繰り返しが、地表の広く分布し、多様性を持つ現在の生物になったと考えられてます。
 これは、いってみれば一番ポピュラーな生命起源のシナリオです。これに対して、まったく意表をつく説があります。パンスパーミア説 (panspermia)と呼ばれるものです。胚種広布説と訳されています。
 パンスパーミア説とは、地球の生物は、別の天体から飛来したという説です。誕生の場が地球ではないというのです。ちょっとSF的で信じられないかもしれませんが、科学者がこの説を考えたのです。
 パンスパーミア説は、古くはアルヘニウスが 1908年に提唱しました。最近では、現在版パンスパーミア説というものも提唱されています。パンスパーミア説は、生物は地球外から飛来したというものですが、現在ではその内容は多様で生物の地球外起源説の総称としてパンスパーミア説が使われています。
 パンスパーミア説の起こりは、パスツールの実験がきっかとなりはじまります。
 パスツールは1861年の「自然発生説の検討」という著書で、発酵という作用が微生物の増殖であることを示しました。さらに、牛乳などを熱することで、その中の微生物を殺すことができること(加熱殺菌法とよばれます)を知りました。それまで微生物は、いつでも自然の中で発生していると考えられていました。その考えを否定した、フラスコを使った有名な実験があります。
 フラスコの口を白鳥の首のように長く伸ばし、ほこりが入らず空気だけが出入りするような装置を作成しました。加熱殺菌した肉汁をそのフラスコの中に入れます。長い時間、置いていても、そのフラスコ中の肉汁からは何も発生しませんでした。この実験によって、生物の自然発生説が否定されたのです。そして、今まで自然発生に見えていたものは、細菌によるものであることを示しされました。
 パスツールの研究によって、生物が自然にできることはないということがわかったため、生物の起源が謎となったのです。それを打開するために、地球外に生物の由来を求め、パンスパーミア説が生まれました。
 現代版のパンスパーミア説として、DNAの2重らせんの発見者であるクリックらが1973年に、他の文明生物が地球に生命を打ち込んできたという考えを示しました。ホイルらも1973年に、彗星で発生した生命が、地球に降ってきたという説を出し、今も地球に降っており、病原微生物の一部は地球外生物が含まれていると考えました。
 多くの説は、根拠が不充分であったり、実証されてなかったりで、信頼性が低いのですが、パンスパーミア説は否定されているわけではありません。
 なぜなら、太陽系は、宇宙ではごくありふれた化学成分から構成されており、元素組成に特異性は見られないことから、地球外生命も似たような元素組成でできているかもしれないのです。地球外知的生命が、タネが育ちやすい天体として地球を選び、送り込まれたとしても区別できないのです。
 1996年、マッケイら火星起源の隕石から生物の化石を発見したという報告が出て、大騒ぎになりました。もし火星に生物が発生したなら、地球でも生物はできる可能性もありました。あるいは、それが火星固有の生物なら、火星の生物が地球に飛んできたかもしれません。誰もが認めている火星起源の隕石があるのですから、もっと小さな微生物が火星から飛んで来ることは可能なはずです。現在のところ、火星生物は否定的ですが、今後の火星探査が待たれます。
 火星に生物が見つかっても、パンスパーミア説が否定されたわけではありません。実は、パンスパーミア説を論理的に否定することは難しいのです。証明することは簡単です。証拠を一つでも見つければいいのです。ですから、常にパンスパーミア説は、可能性として残ります。しかし、科学者は地球での自然発生を前提として研究しています。なぜでしょうか。
 そこで、ニワトリと卵がの考え方がでてきます。もし、本当にパンスパーミア説が正しく、地球生物の起源が他の天体だとしましょう。すると、「その生物の起源は」という問いになります。それも他の天体から由来した可能性があるということになり、「その生物の起源は」という問いが永遠と続きます。しかし、宇宙にはビックバンという始まりがありますので、どこかで生物の起源があったことになります。それは、宇宙の誕生のころにあった天体ということになり、それは遠く今は亡き天体ですので実証できそうもありません。それが真実であっても、生物の起源は謎となってしまいます。
 科学ではそんな実証できそうもない謎は扱えません。それなら、実証できる可能性のあるものとして、地球での生物の自然発生を前提として考えることにします。同じ可能性として、パンスパーミア説と地球起源説があるのなら、実証性のある地球起源説をとるわけです。もし、地球起源説で多くの証拠を集めることができれば、パンスパーミア説の可能性はゼロにすることはできなくても、相対的に下げることができます。こんな論理から、生物誕生のシナリオが生まれているのです。
 科学者は、今日も、ニワトリがどうしてできたかを、実証しようとして、研究を続けているのです。

・峠越え・
5月といえばゴールデンウィークです。
ゴールデンウィークを皆さんは、
どう過ごされるでしょうか。
私は、3日から4泊5日で道東の調査に出ます。
移動距離が長く、十分な時間が取れないので、
あわただしい調査になりそうです。
ポイントだけ見るようにして、
道東を急ぎ足で駆け抜けることになります。
しかし、なんといっても心配なのは、雪です。
今年の春は寒く、いつまでも雪が降っています。
4月下旬にも大雪のニュースがありました。
道東行くには、どうしても、北海道の中央部を南北に走る
山脈を越さなければなりません。
その峠には雪が降る可能性があります。
先日車のタイヤをスタットレスから
ノーマルタイヤに変えたばかりです。
調査の都合上、北の方の峠を越えなければなりません。

・しらふの論理・
ニワトリと卵の話をしましたが、
これは非常に2つのものの間を行ったり来たりする単純な例です。
もっと複雑なものがいろいろあります。
循環するのが5、10個となると
もう循環であることが分からなくなります。
酔っ払いの話はこのような複雑な循環をよくすることあります。
まして飲むたびに同じ話題になって循環すると
それは、酔っ払いの繰言となります。
まともな論理でも、一方通行のような流れに見えても、
どこかで循環していることあり、それを見落としていれば、
その論理の流れが正しいかどうか、怪しくなります。
そんな論理の流れを見抜くことは、なかなか大変です。
しらふであるだけではダメで、冷静に論理的でなければなりません。
論理とは、なかなか大変ですね。

2006年4月1日土曜日

51 落とし穴は明るかった(2006.04.01)

 常識がなくては生きていけません。しかし、その常識には正しいことも間違ったこともあります。そんな正否を判別してくれるのが科学でです。しかし、科学の知識も使う人が賢くないと思わぬ落とし穴にはまってしまいます。

 私は、常識の世界に生きています。私だけでなく、多くの人も常識の住んでいることでしょう。常識のある社会でないと、安全が確保されません。多くの人が常識を持っていることが重要です。しかし、常識には思わぬ落とし穴があります。
 常識的に振舞っていれば、安心できます。子どものころから、常識的に生きるように教育されてきました。もしそのような常識のある社会で、自分だけ常識を気にせずに振舞まってしまうと、何かとトラブルを起こしたり、生きづらくなくことでしょう。それに、非常識を取り締まる法律や警察などもあるので、犯罪者にもなりかねません。
 人は、大きく常識を外れなくても、常識的に考えずに振舞ってしまった経験があるはずです。そんな時、自分だけが他の人と違い、恥じをかいたり、損をしたりした経験が、常識から外れる損得を教えてくれます。そんな不安にかられるくらいなら、常識的に振舞ったほうがましです。
 そんなもろもろのことから、私も含めて多くの人は常識的考え、振舞っているのでしょう。
 しかし、その常識が正しいという保障はどこにもありません。もちろん、中には正しさが証明されていることもあるでしょう。しかし、常識的に判断しているとき、深く考えていませんから、そこには思わぬ落とし穴があるかもしれません。
 そんな常識の落とし穴を見つけて正していくのに有効なのが科学です。科学は、論理や証拠によってのみ、構築されています。「そう思う」、「皆そうしている」というような日常的には許されていることでも、科学では許してくれません。常識的判断も科学では通じないのです。ですから、ものごとを深く考えるときには、科学的に考えることが有効です。
 科学が作り上げている知識体系は、論理と証拠によって構築されたもので、信頼に足るものです。しかし、その知識も間違った運用をすると、とんでもないことになります。刃物、ダイナマイトや核融合は、人類の役に立ちますが、人を傷つけることもできます。科学的知識もうまく使えるかどうかが、問題となります。
 それはやはり、知識を使う側である人間が、賢いかどうかでしょう。まあ、大事にいたらなくても、ちょっとしたことでも科学的知識と常識がうまくかみ合わないと、思わぬ落とし穴があります。つまり知っていても、それを運用できなかったり、うまく運用できなければならないのです。
 私は、そんな落とし穴に気づかず、間違っていたことに最近気づきましたので、紹介します。ことの起こりは、視覚障害者の方との話でした。
 私は、なにかを伝えるとき、もし言葉でそれを伝えることができるのなら、イメージする力さえあれば、視覚障害者だろうが健常者だろうが、同じものを伝えられると考えていました。そして、もし伝えたいものが、実在するものでも、常識的なスケールを越えるものであればあるほど、視覚より重要なのはイメージする能力であると考えていました。その考えは今でも変わっていません。
 さて、イメージするとき、具体的な例として地球を用いて説明してきました。地球は大きなスケールなので最適でした。それは、次のような内容からはじまりました。
 地球は丸い球になっています。その大きさは半径約6400kmです。非常に大きなもので、その大きさはなかなか想像できません。もし、地球の大きさを10万分の1にすると、大人が両腕を広げて抱えられるほどの大きさとなります。1.6mの人間の身長を10万分の1にすると、0.016mmになり、砂粒より小さくなります。ちなみに砂の大きさは2mmから0.063mmで、砂より小さな0.016mmは、シルトと呼ばれる粘土の仲間になります。
 この大きな地球は、岩石と鉄からできます。外側が岩石で、内側に鉄があります。岩石の地球の一番外側にあるのが、地殻と呼ばれるところです。地殻は海では5km、陸でも50kmほどの厚さしかありません。地球全体と比べれば、地殻は本当に薄いものに過ぎません。
 さて地殻では、地下になるほど地表の温度変化を受けず、暖かくなります。10mの深くなれば、年中一定の温度なります。しかもその温度は、地球の内部にいくに従って上がります。・・・・
 という説明をしていました。ここまでは前置きで、本題は次からです。
 健常者に説明するときは、言葉よりイラストを描いた方が分かりやすいので、イラストを用いて説明していました。そして、そのイラストを描くとき、色をどうつけるかで、よく迷っていました。
 地球の深部になるつれて、温度が高くなります。ですから、イラストの色をだんだんと濃い赤にしていくべきなのか、それとも赤からだんだん白っぽくしていくのかとなどを、悩んだりしていました。しかし最終的には、実際には地下の岩石の色など見えないのだから、何色でもいいのだと考えていました。
 問題はそこでした。地下は暗いところだと思っていたのです。
 地下の鉱山や鍾乳洞は、太陽の光が当たることなく、人工の明かりなしでは、真っ暗なところです。これは、多く人が経験的に、そして常識的に知っていることでもあります。そんなところを自由に動き回れるのは、視覚障害者のような光のないところに馴れた人だけだと思っていました。
 そこに落とし穴がありました。太陽光のとどかないところは暗い、という常識に惑わされたのです。私達の経験している地下とは、地殻のほんの浅い場所だけです。ですから、ほんの一部の経験や情報を、地球のような大きなもの全体に当てはめるのは、非常に危険であることは、ちょっと考えればわかるはずです。でも、深く考えず、ささやかの経験による常識によって、地中は暗いと思い込んでいたのです。
 さらに、科学的知識とも結びつけることができませんでした。
 物質は、その温度が上がるに伴ってエネルギーを放射をします。それは、現実には物質の性質によって多少変化しますが、黒体と呼ばれる理想的な物質では、温度と放射エネルギーは相関があります。厳密にいうと、黒体表面の単位面積、単位時間当たりに放出される電磁波のエネルギーは、黒体の絶対温度の4乗に比例するというものです。これは、シュテファン=ボルツマンの法則と呼ばれています。
 高温のものは、温度に応じて似たような色の光を発することを、知識として私は知っていました。また、太陽もその原理で温度に応じた光を放射していることも知っていました。しかし、そのような科学的知識が使われず、地下は暗いところという常識で、先入観を持ってしまっていたのです。
 自分のほんの少しの経験に基づいた間違った常識をだったのです。そして、その常識が先入観となって、科学的知識を使うことができなくなっていたのです。知恵が足りませんでした。
 太陽の光が届かないところでも、温度が高ければ光を放射しているのです。地球内部でも、高温であれば、その温度の応じた放射をしているはずです。ですから、地球内部になるほど明るく色を変えていくはずです。
 地殻下部からマントルになると、800から1000度くらいの温度になり、岩石もオレンジ色になります。マントルの深くなると岩石の色は、オレンジ色から黄色、青っぽい色にまでなっていたはずです。地球の一番深部では鉄は6000度にも達します。そこで太陽のようにまばゆさに、目も開けられないほどでしょう。
 これが私の気づいた落とし穴です。この落とし穴は、深くなればなるほどまばゆく輝いていたのです。

・移動の季節・
いよいよ4月になりました。
移動された方は、忙しい日々を過ごされていると思います。
私は、大学の学部再編で移動することになりました。
そこに配属され、今までの学部から、
別の学部の新設学科に新しい配属されます。
昨年の夏から予定されていて、
昨年後半はその準備に明け暮れました。
やっと新学科で新入生を迎えることになります。
でもこれからが、私たちの本当の仕事のはじまりです。

・待ち遠しい春・
今年の冬は体調不良の連続でした。
つぎつぎと風邪をひいていました。
重いのを3回、軽いのを2回ほどひいたようです。
今年の冬は雪も多く、寒いものでしたが、
暖かさも早くやってきました。
すぐに春になるかと思っていたら、
3月下旬には、北海道で湿った大雪となり、
ぐずついた天気となりました。
早く春になればと思っていますが、
入学式の方が早く来てしまいそうです。
今年は、春が待ち遠しいですね。

2006年3月1日水曜日

50 捏造:科学と人の心(2006.03.01)

 高名な研究者が捏造事件を起こし、マスコミを騒がせています。なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか。考えてみました。

 人の営みを考えると、大半の人は、善良に暮らしています。悪いことをしそうなときも、理性や良心、心が止めます。しかし、人の行為ですから、中には、悪意を持って、あるいはやむにやまれぬ事情があって、悪いことをする一握りの人がいます。悪いことをした人が、罰せられるのは当然です。
 数例の悪い人の行為をもって、そのグループ、そのコミュニティが悪いと決め付けるのは、間違いです。しかし、世論をつくるのも人ですから、少数の例を持って、そのグループ、コミュニティを悪者に仕立てることがあります。これも、人の営みなのもしれませんが、当事者以外を、必要以上に追求するのは、大きな労力をかける割に、得るものは少ないはずです。
 湯川秀樹、朝永振一郎などのノーベル賞受賞者たちを育てた仁科芳雄は、「日本の現代物理学の父」と呼ばれることがあります。仁科芳雄は、中央公論社「自然」(1971年3月20日発行)の中で、「科學は呪うべきものであるという人がある」からはじまる「ユネスコと科學」いう文章を掲載しています。
 「呪うべき」理由として、仁科氏は次のように書いています。
「原始人の鬪爭と現代人の戰爭とを比較して見ると,その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある.個人どうしの掴み合いと,航空機の爆撃とを比べて見るがよい.さらに進んでは人口何十萬という都市を,一瞬にして壞滅させる原子爆彈に至っては言語道斷である.このような殘虐な行爲はどうして可能になつたであろうか.それは一に自然科學の發達した結果に他ならない.」
 確かにこの理由には、一理あります。科学が「呪うべき」悪であれば、その科学を生み出し、運用している科学者も、悪のコミュニティの一員といえます。科学者も人間ですから、時には悪いことをすることがあるのです。
 そんな例として、最近の論文の捏造事件が、韓国や日本でも、ニュースをにぎわしています。
 2005年末に発覚した韓国の黄禹錫教授の捏造事件は、共同研究者が「卵子を違法に入手している」と公表したことから発覚しました。黄教授は、ヒトのES細胞(胚性幹細胞)の研究を世界に先駆け成功させ、「韓国の誇り」ともいわれていました。2006年1月10日、韓国のソウル大学調査委員会は、黄教授の2004年と2005年の論文が「ES細胞作成に成功したといういかなる科学的根拠もない」という最終調査結果を発表しました。その結果、研究は捏造であると結論付けられました。
 東大の多比良和誠教授らのおこなったRNAに関する研究で、12の論文について、日本RNA学会は、異例のこととして2005年4月に「実験結果の再現性に疑義がある」として、東大に調査を依頼しました。東大調査委員会は2006年1月27日「現段階で論文の実験結果の再現には至っていない」とする報告書を発表しました。つまり、同じ結果が得られず、研究に信頼性がないことになりました。まだ捏造につていは灰色ですが、研究室の学生全員の移籍も正式に公表され、研究活動は事実上、停止することになりました。
 少し前になりますが、2000年11月5日の毎日新聞朝刊がスクープした旧石器捏造事件は、アマチュア考古学研究家の藤村新一氏によるものでした。彼は、次々と前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡を発見していきました。しかし、それがすべて捏造だと判明しました。その結果、登録された遺跡の抹消や教科書の書き直しなど、大きな社会問題になりました。
 このような捏造事件は、今回の韓国と日本のことだけではなく、世界各地でも、起こっていることなのです。
 2002年には、「超伝導」の捏造事件がアメリカの名門ベル研究所でおこりました。シェーン氏は、超伝導に転移する温度の最高記録を次々と塗り替え、2年間で「Science」と「Nature」という権威のある雑誌に16の論文を含む、4年間で80本あまりの論文が報告されました。一時はノーベル賞確実とまでいわれながら、捏造事件として決着しました。
 過去にも、このような捏造事件は、繰り返しありました。有名なところでは、ピルトダウン事件でしょうか。
 1912年11月にドーソンらがイギリスのロンドン郊外にあるピルトダウンで発見した人類頭骨が発見されました。一緒に発見された化石などから、その人骨は旧石器時代のものとされました。しかし、同年代の人類化石と共通点が少ないことから、議論の的になっていました。その後、1949年に大英博物館による年代測定で、その骨が1500年より新しいものであることが判明しました。1953年にはオックスフォード大学の調査で、オランウータンの頭骨が加工がされたものと判明しました。40年もたった後、人骨化石の捏造が発覚しました。
 このような捏造事件の背景には、ねたみ、名誉欲、愉快犯など、いろいろな理由があるのでしょう。大規模な研究費投入によって研究の成果を迫られる状況、大学の研究に対する評価など、やむにやまれぬ事情もあるでしょう。科学も人の営みですから、間違いもあるでしょう。しかし、間違いでなく、捏造を行うということは、あきらに良心、つまり自分の心に反することを行っています。韓国の黄教授、東大の多比良教授、考古学の藤村氏、ベル研究所のシェーン氏は、繰り返し捏造の作業をおこなっています。
 このあたりの心理的な作用はよくわかりませんが、一度でも不正を行うと、何度も行うとことになってしまうのは、人間の性なのでしょうか。もしそうなら、人間とは弱く、悲しいものです。
 仁科氏はいいます。「われわれ科學者の中には今日までただ科學の進歩を目指して進み,その社會に與える結果に對しては比較的無關心なものが多かつたのであるが,今後はその結果が如何に使用されるかについて監視する必要がある.」と。
 科学者とは、ある国、ある時代、人間の知性をリードすべき階層に属する人たちです。そんな人は、進歩的と考えられる国からたくさん輩出しているはずです。高等教育も受けているはずです。それでも、捏造は起こるのです。事実かどうかは分かりませんが、ある人に言わすと、このような科学における捏造は氷山の一角だといいます。
 捏造した個人を罰することは必要でしょうが、個人が属したグループやコミュニティを批判することは、生産的な道ではないでしょう。再発を防止する対策として、仁科氏のいうように、監視を強くすることも必要でしょう。しかし、監視も人間の営みですから、どこから抜け道があるでしょう。そんな抜け道がないように、監視を一層強化することになるでしょう。これではイタチゴッコで、結局は自分たち自身が、科学をやりづらくなることでしょう。
 それよりも、「科學者の中には今日までただ科學の進歩を目指して進み,その社會に與える結果に對しては比較的無關心なものが多かつた」という反省の方を重視すべきでしょう。捏造は、もはや科学者の倫理のレベルではないかもしれません。人としてやっていいこと、やっていけないことの正常の判断をどんな状況でもできること。やむにやまれぬ事情があっても、悪いことはしないという、強い心を持てること。いってみれば、人間として基本的資質を問うことが必要なのではないでしょうか。
 間違いや誤解は、人間ですから起こります。どんなに慎重に見直したつもりの論文でも起こります。私も何度か論文や本でミスをしたことがあります。でも、間違いや誤解は、自分の心を欺いていません。捏造は、人を欺く前に、自分自身の心を欺きます。自分の心を人間として基本的資質と位置づけるべきではないでしょうか。当たり前の結論ですが、自分の心を基準にすることが、科学者としてはもちろん、人間として一番大切なことです。
 捏造事件から学ぶべき教訓は、一度でも心を欺くと、二度目の捏造は一度目より心が楽になり、三度目は当たり前になり、四度目は繰り返さなければ存在できない自分がある、という人間の弱さではないでしょうか。ですから、最初の一回目の捏造と良心の葛藤で負けない心が重要になります。
 最後にまた、仁科氏の言葉を引用しましょう。
「科學を呪うべきものとするか,禮讃すべきものとするかは,科學自身の所爲ではなくて,これを驅使する人の心にあるのである.」
科学者も人間です。人間ですから弱い心もあります。でも、越えてはいけない最後の一線を越えない心だけは、なんとしても持ち続けたいものです。

・仁科芳雄・
 ここで引用した仁科芳雄の「ユネスコと科學」の文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られたものを、利用させていただきました。青空文庫を、私は時々利用させてもらっています。デジタルとして文章が必要なときや、手元に古い書籍がないときなどに、ここで読みたいものが見つかることがあるからです。
 それに原典を読むと、あるフレーズしか覚えてなかったことが、ある時代のある社会状況で書かれたいたことが、文脈からよくわかります。
 私も、「科學は呪うべきものであるという人がある」というのをどこかの本で読んだのですが、うろ覚えでした。今回、原典を読んで、いろいろ思うことがありました。そして、今回のエッセイのタイトルの副題である「科学と人の心」という言葉も、そこから出てきました。仁科氏は、この文章を、UNESCOの設立趣旨を戦争と科学の関係で述べていました。
 しかし、この文章の趣旨は、現在日本で話題になっている捏造事件のニュースを聞くものにとっては、新鮮に感じるのは私だけでしょうか。

・雪解け・
 北海道だけでなく、全国的に雪が降る冬でした。今年は北海道も、昨年の冬に続いて雪の多い年でした。しかし、北海道にも暖かい日がめぐってきました。雪の多い年だっただけに、春が待ち遠しいものです。まだ大学は入試を行っている時期なのですが、雪解けを見ると、ついついその先の春を思い浮かべてしまいます。しかし、目の前の大切なことをまず、ひとつひとつ行っていきましょう。

2006年2月1日水曜日

49 化石:生命と物質の狭間(2006.02.01)

 化石は、過去の生物の姿や形を知り、生活を探り、生物の進化を考えるために重要な証拠となります。そんな化石について、今回は考えていきましょう。

 人は、いつの頃からかは分かりませんが、古くから化石を見出し、化石に関心をもってきたようです。古い記録では、クロマニョン人が化石に興味を抱いていたことは分かっています。それは、遺跡から出土した首飾りに貝化石が使われていることからもうかがわれます。今では、化石というと、過去の生物と誰もが思い描きます。でも、化石が過去の生物であったというのは、正しいのでしょうか。その点について、考えていきましょう。
 学術的な化石の定義は「過去の生物の一部や痕跡」(古生物学事典)となっています。この定義を少し詳しく見ていきましょう。
 まず、「生物の一部」というのは、化石は、生物そのものではありません。ですから、化石とは生物の体の一部だけが、残っているものです。例えば、歯や骨、殻、葉、種、花粉など、長い時間を経ても残りやすいものが石化して、化石となります。まあ、石化していなくても化石と呼びますが。
 次に「痕跡」とは、2つの意味合いがあります。まず、足跡、はった跡、巣穴、食べた跡、排泄物など、生物がつくった、成したものが残っている場合です。生物の体の一部ではないのですが、化石に含めます。もう一つは、もともとは体の一部であったのですが、例えば、貝殻が長い時間のうちになくなってしまったの場合です。もとの化石がなくなっても、その貝の形が地層に残ったり、別の物質や鉱物に置き換わったものも化石としています。
 このようにいろいろなものが化石に入れて定義されています。過去の生物を調べるために化石は、非常に重要な素材です。ですから、化石の定義を広くして、過去の生物を調べる手がかりを増やそうとという配慮されているからです。
 なんと言っても、化石では、過去の生物の一部ということが、重要な点であります。しかし、実はそこが一番問題でもあります。
 過去の生物とは、過去のある時点に生きていたものということです。つまり、化石のとは、過去に生命をもっていたものの一部であったかということです。単純化して書くと、「化石=生命」となります。この命題が正しいかどうか、ということです。
 少なくとも、化石は、現在、生きていません。だですから、現在、化石は生命ではありません。では、今は亡き生命を化石から探ることが可能でしょうか。言い換えると、化石という過去の生物らしき物質に対して、もともとその物質は生命を宿していたかどうかは、どうして調べていくのでしょうか。非常に困難です。現段階では、化石からその答えを出すことは不可能です。生命とは、現在生きている生物だけ有する属性で、死んだものは持ち得ないものだからです。ですから、化石から、過去のその物質に生命を宿していたかどうかを検証することはできません。つまり、知りえない不可知のことがらとなります。式で書くと「化石(不可知)生命」となります。
 生命論は、現在の生物学でも結論の出ていないものです。ですから不可知論的な議論を持ち込むと、訳がわからなくなるので、この方向で考えるのはやめましょう。したがって、以下では、生命よりは実態のある生物というもので、考えていきましょう。
 では、「化石=生物」という命題は本当に正しいのでしょうか。少なくとも、化石は、現在、生命を宿していないので、定義の上では生物ではありません。つまり、「化石≠生物」となります。
 では、化石の定義でもある「化石=過去の生物」という命題は、大丈夫でしょうか。実はこれも、論理的には、化石に対して、かつて生きていたかどうかを問うことになるので、論証不可能です。「化石(論証不能)過去の生物」となります。
 なにか堂々巡りしているようです。多くの科学者が「化石=過去の生物」と認めているのだからいいのではないかという人もいるでしょう。でも、こんな反論があったとしたらどうしましょう。
 今私たちが見ている化石は、すべて自然の営みによってできた、生物と関係のない、無機的産物にすぎないのではないか、というものです。いってみれば「偶然の産物」あるいは「自然のいたずら」で、化石の成因を説明しようという反論です。
 これは、実は、なかなか手ごわい反論なのです。この反論を、完全に否定するためには、化石が過去の生物であったという証拠を出さなければなりません。過去の生物とは、今はもういない絶滅してしまった生物です。絶滅したから、過去の生物なのです。だから、絶滅した生物を出すことはできない相談です。ですから上で述べた論証不可能な命題となります。つまり、「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説を否定しきれないのです。
 ここで出した「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説は、「造形力説」と呼ばれるもので、アリストテレスが唱え、西洋では長く信じてこられた考え方です。この考えは、キリスト教と結びついて、自然のかわりに神が使われていました。化石は、「神の戯れ」や「神のいたずら」と考えられていたのです。この造形力説に立てば、過去の化石として、何が出てきても不思議ではなかったのです。
 この造形力説は、最終的に決着をみていません。つまり、完全に否定されていないのです。ただ、ダーウィンの進化論やハットンの斉一説によって、長い時間をかけて生物は進化してきた、地球は今起こっている現象、作用によって過去も作られたという考えが受け入れられてきました。
 その結果、生物は進化してきた。生物の進化を調べるには、「化石=過去の生物」前提をおけば、化石を調べれば生物が進化してきたという証拠が集まると考えられてきました。化石は、進化論にとって、有力な証拠となりました。しかし、残念ながら「化石(論証不能)過去の生物」のままなのです。
 現在の科学は、この論証不能を切り抜けるために、いくつか苦肉の策を講じています。
 まず、大量の化石と現生生物を多くの観点での比較おこない、似ているという傍証を大量に提示します。その量を持って、「過去の生物であった」と仮定をもっとらしく見せています。量をもって、一見質的に正しいという錯覚を起こさせています。でも、論理的には、論証不能なのです。
 多くの科学者は論証不能なのですが、「化石=過去の生物」という関係を信じています。そして、多分これは正しいのでしょう。ですから、「化石=過去の生物」という関係を前提に築き上げられた体系は大丈夫でしょう。でも、どこかに一抹の不安が残ります。そんな不安を少々することが時々起こります。
 1996年、モージスたちが、グリーンランドにある約38億年前の堆積岩(地球最古の堆積岩)中の燐酸塩鉱物(アパタイト)中の炭素組成を調べて、生命活動の痕跡だと指摘しました。炭素組成とは、バイオマーカー(生物指標化合物)と呼ばれるもので、炭素同位体や化学的に安定(2006.02.01)
 化石は、過去の生物の姿や形を知り、生活を探り、生物の進化を考えるために重要な証拠となります。そんな化石について、今回は考えていきましょう。な炭化水素(炭素と水素の化合物)を、生物の指標にできると考えられているものです。
 このデータが本当の生物かどうかについては、いろいろ議論されました。なにせ、生物どころでなく、化石でもなく、化学組成だけで、過去の生物であったかどうかということを議論するわけです。そんなとき、生物とはなにか、生物の活動とは、何を持って証拠とするのか、などが問い直されます。しかし、これは、なかなか答えのでない、堂々巡りのような議論を生みます。
 この問題は、思わぬことから決着をみました。それは、2002年に出された報告で、モージスたちが分析した岩石は、マグマからできた火成岩で、堆積岩でないことがわかったのです。マグマからできた火成岩から、どんなデータ、証拠が出たとしても、それは生物の痕跡とは認定されません。これによって問題は一件落着しました。
 この例のように、生物の起源や初期の生物を考えるとき、やはり、「化石と生命」や「化石と生物」の関係や根拠ということが問題になります。化石とは、生物とは、生命とはという、原点にもどされるような問いを、どうしても突きつけられます。そんな時不可知論的な問題を考えざる得ない状態になっていきます。古生物学者で最古の生物化石を探すとき、いつもこの点が論点となっていきます。

・最古の生命探し・
 グーリンランドは、約38億年前の堆積岩がでます。ですから、地球最初の生命を探すのであれば、グリーンランドとなります。ですから、1996年のモージスたちの報告が最初ではなく、過去に何度か調べられています。
 1978年に、ドイツのフラッグは、イースト菌状の丸いものをたくさん見つけ、化石と同定して学名までつけました。しかし、その後、その丸いものは、石英という結晶ができるときに取り込まれた液体であることが判明しました。これが最古の生命発見と間違いの物語です。
 ドイツのシドロウスキーは、グリーンランドの堆積岩から抽出した石墨の炭素同位体組成が、生物起源の炭素であるとしました。しかし、そのような炭素同位体は無機的(生物によらず)に合成できることが証明されました。また、最古の生命の発見は失敗となりました。
 そして、1996年のモージスたちの報告へとつながります。これが3度目の間違いでした。
 多分、今日も誰かが新しい手法や新しい考え方で、グリーンランドの堆積岩を調べていることでしょう。まだ、最初の生命痕跡の発見は聞いていませんが、いつその報告がでるかわかりません。楽しみでもありますが、また決着のみない議論がおこるのではなかというむなしさもあります。でも、プラス思考で、今度こそ確実なものができるのではないと期待していたいものです。

・教員とは・
 大学は、昨年暮れの推薦入試に続いて、これから一般入試がはじまります。国立大学の入試は3月ですが、私立大学は2月が山場です。そこで、応募者がどれくらいか、受験者は、合格者は、入学手続き者はと、数字を見ながら一喜一憂するわけです。
 しかし、そんな数字は事務サイドの関心事で、教員は入学した学生をいかに育てるかが問われているのだと思います。学生たちが、大学を卒業して社会に巣立つとき、この大学で学んでよかった思えるような教育をしてきたいものです。
 でも、すべての学生に対して達成することは困難です。毎年退学者がある一定の比率いることが、その困難さを示しています。これは、私立大学だけでなく、国公立や一流大学でも同じことが起こっています。
 でも、困難だからといって、教員は手の抜くわけにはいかないのです。卒業する学生にはこの大学を選んでよかったと思えるものがきっといるはずだからです。言葉として聞けなくてもいいのです。教員はそんな学生がいることを信じて教育しているのですから。そして、一人でも多くの学生に満足できるように努力するしかないのですね。

2006年1月1日日曜日

48 未来を目指して:未来予測は可能か(2006.01.01)

 明けまして、おめでとうございます。一年のはじめには、その年に何をしようか、どう過ごそうかなどいろいろ思いを巡らせます。これから来る一年という未来を予測しながら立てられた目標もあるでしょう。今年は未来予測の話題からはじめましょう。

 未来とは「未だ来てないとき」ですから、どうなるか分からないものです。でも、未来を知りたいのは誰でも同じです。避けることのできない未来で、自分に不利になるような未来ならあまり知りたくないと思うでしょう。未来とは、知りたいような、知りたくないような、それでも怖いもの見たさで覗きたい気がする不思議なものではないでしょうか。
 もし、未来が知ることができ、その未来を変更できる可能性があるのであれば、知りたい気がします。いや、悪い未来なら早めに知っておいて、回避する努力をしたほうが賢明ではないでしょうか。
 では、現実に未来予測はできるのでしょうか。ここでは、未来予測というのは、占いや超能力者の予言などではなく、科学的に可能な予測について考えていきましょう。しかし、不確かさも、そこにはもちろんあります。それも考慮したものです。
 実は、未来予測は、ある状況下では、誰でもしていることなのです。ある状況下とは、因果関係がはっきりとしているときです。
 信号のない道路を渡るときを考えてみてください。普通の人は、道路を渡るときは、車が来ないか左右を確かめてから渡ります。このとき何をしているかというと、自分が道路を渡る間に車とぶつからないかを予測しているのです。遠くに車が見えても、自分が渡る間に近くには来ないと予測できれば渡るはずです。大抵の人はこれをしているはずですから、未来予測を無意識にしていることになります。
 そのような予測ができない人は、道路をいつまでたっても渡れないか、車は来ないものと決めて渡っているはずです。予測が不得意の人は、道路をいつまで経っても渡れないので、行動範囲は非常に狭くなっていくでしょう。また、予測などしないで生きている人は、今はもう事故で死んでいるか、今生きている人は非常に幸運な人生を送っていることになります。
 この例だけでなく、人が行動するとき、あるいは動くというときは、誰もが未来予測をしているといえます。階段を登るときも、段を予測して足を上げています。曲がり角があれば、その位置と角度を予測して曲がっているでしょう。そうしないと行動できないといえます。
 このような未来予測は、人間だけがしていることではなく、動物や生き物でも、極普通におこなっていることなのです。肉食獣が向かって迫ってくる状況の草食獣を想像してください。このとき草食獣は、肉食動物に向かうものはいないはずです。そんな草食獣は、肉食獣の格好の獲物として、この世からもういなくなっていることでしょう。肉食獣が迫ってくれば、草食獣は逃げます。少なくとも向かってくる方とは反対側には逃げるでしょう。もっと予測をうまくするものは、肉食獣が追いつきにくように進路の変えながら逃げるでしょう。これは、未来予測です。
 哺乳類だけではありません。土の中の種が芽を出すとき、重力を感じて重力の方には根を伸ばし、芽は重力と反対側に伸ばすでしょう。種は、重力を感じて、養分や太陽の光がどこにあるのかを予測しているのです。生物の感覚器官の多くは、未来予測のための道具ともいえるのはないでしょうか。
 遠くの車を意識しないで行動すると起こる未来は、自分にとって不幸であることを直感的に予測しています。その不幸な未来を回避するために、遠くの車のスピードを予測し、自分の道路を渡る時間を予測し、それら予測の基づいて行動することができます。敵から逃げないと起こる未来予測は、不幸な未来です。それを避けるために、草食動物は相手のスピードと自分の脚力から逃げる方向を本能的に判断して行動します。種にとって太陽は光合成をし、栄養をため、子孫を残すために不可欠です。また、同時に水や土壌にある栄養も不可欠です。そのような生きるために不可欠なものを得るには、自分のおかれている位置を重力から上と下を判断できるということを、種は利用しているのです。
 このような例は、因果関係がある程度はっきりしている場合です。因果関係が明らかな場合は、未来予測ができるということを示しています。因果関係がはっきりとした未来なら、予測はある程度可能ですが、予測された未来は、確定したものではありません。予測された未来が自分の望むものであれば、よりよいものへと改善できるし、望まないものであれば、いいものへと変更することも可能です。予想される因果関係を破ることも可能なの場合、未来予測が有効となります。
 因果関係のはっきりしないものは、予測が難しくなります。しかし、複雑で予測不可能な未来であるからこそ、そんな未来の予測を、多くの人が昔から望んでいたのでしょう。それが占星術や各種の占いなどを発展してきた原因でしょう。
 科学で扱う未来には、因果関係がはっきりしているものから、不明瞭なものまであります。でも、それなりの確かさや不確かさを持ちながらも予測することは可能となっています。
 因果関係がはきっりとしているものとして、理論予測があります。時間変化の理論がわかっている場合です。過去から現在まで、一定の計測可能な状態で変化しているものごとで、その理由あるいは理論がはっきり分かっているものです。一定の計測可能なというのは、検証可能という意味です。そしてその理論は、未来に延長しても維持されると考えられるものであれば、未来予測は可能となります。
 物理法則には、そのような理論予測できるものがたくさんあります。しかし、その予測も、理想的な条件を設定していることがあり、現実には誤差や不確かさが紛れ込んできます。摩擦や空気の抵抗、重心の位置、物質の表面の状態、物資の均質さなど、現実にはさまざまな誤差が紛れ込みます。ですから、長時間かかる現象、何回も繰り返される現象では、理論は正しくても、誤差が蓄積していって予測からだんだん外れることも起こります。
 個々の生物が関係する現象や、地質学、気象学、海洋学などが扱う自然現象は、個々の原理は物理や化学に起因する原理でも、大きな自然としてみると、なかなか一筋縄でいかないものがたくさんあります。つまり、誤差や関与する条件が多すぎて、非常に複雑になり、理論化ができない現象です。
 しかし、もし地球に関する科学で精度のよい理論予測ができれば、それは、非常に面白いものとなるはずです。そんな理論予測の例としてプレートテクトニクスというものがあります。プレートテクトニクス理論に基づくプレートの移動は、非常に精度良くできる予測です。それは、年間数センチメートルという非常にゆっくりとした観測された動きに基づいています。小さいな動きの積み重ねが、何百万年、何千万年という単位の未来予測を可能とします。その予測の時間単位が長すぎて、有用なのかどうか分からないほどです。
 その他に、傾向予測というものがあります。理論ははっきりとしていないですが、そうなる傾向が、経験的に起こりそうだと分かることもあります。地震や火山は、いつ、どこで、どの程度ものが起こるかを、事前に正確に予測することはなかなか困難です。正確な規模や日時、場所がわからなくても、だいたいの検討はつけられます。
 地震ならば、大地の圧力が常にかかっている地域で、ある場所で大きな地震があり、別のところではまだ大きな地震がないときは、おなじ圧力がその地域の岩石に蓄積されているはずです。その圧力が岩石の強度の限界に達っすれば、破壊が起こります。まだなのに地震が起こっていないのであれば、いつ起こってもおかしくありません。また、過去の現象からもその事実は裏づけされるでしょう。そこから、どの程度の地震が、どの程度の時間間隔で、その程度の確率で起こるかを予測しています。あまりに誤差が大きくて対処ができないほですが、これは、地震発生の危険度として考えることができます。
 火山でも、一般的な火山は、あるプロセスを経ながら、火山として一生を過ごします。そのプロセスに要する時間や規模は、まだ詳細は十分解明されていませんが、概要は分かっています。例えば、富士山のような大きな成層火山は、やがては山体崩壊を起こすような噴火をして、カルデラを形成し、あとは中央や外輪山での火山活動となります。しかし、火山のある場所、プレート運動などによって、地域差もあり、本当にそのような一生を送るという保障はありません。あくまでも一般論としてです。でも、一般論に基づいて、富士山は今後もまだ活動する火山であると考えておいて対処した方が、危険回避できる可能性が大きくなります。
 今問題になっている温暖化や温暖化を原因とする気候変動は、理論ではなく、傾向といっていいものかもしれません。本当に温暖化が起こっているのか、温暖化によって本当に気候変動が起こるのかなどは、まだ不確か部分がたくさん含まれています。研究者によっても気候変動の予測もかなり違いがあります。そもそも温暖化自体も疑っている研究者もいます。しかし、危険が予測できるのであれば、たとえ起こるかどうかわからなくても、予想に基づいて回避策をとったほうが安全でしょう。
 その対策が間違っていれば困りますが。現在の温暖化の対策は、二酸化炭素の排出量の削減です。二酸化炭素こそが、温暖化という未来予測の重要な根拠となっており、現在もこの傾向は続いています。つまり、二酸化炭素は、実際に人類は大量に排出しているので、化石に燃料の使用を減らそうという考えが間違っていません。たとえ未来予測が間違っていても、問題はなく、化石燃料の温存につながります。
 最後に、未来予測は不能なのですが、確率的に、歴史的にきっと起こりそうなものがあります。もちろん理論はありません。そんな現象として、地磁気の逆転、隕石の衝突、生物の絶滅などがあります。
 地球の地層に記録された歴史を見ていくと、地磁気が何度も逆転しているこがわかります。その原因はまだ十分解明されていませんが、今後も地球は地磁気の逆転を起こしそうです。なぜならこれから地磁気の逆転が起きないという兆候はどこにもないからです。そのとき、どんなこが起こるか、あまり十分は予測はされていません。また、研究者の間でも、あまり議論されていないことです。ですから、現在、地磁気の逆転という現象の予測も対策も、公的には誰も対策していません。
 また、隕石の衝突も小さなものは、しょっちゅう起こっています。日本でも数年に一度は、ニュースになるような隕石落下の事件が起こります。もし、このような衝突が、大きな隕石によるものであったら、その被害は甚大なものになります。恐竜の絶滅を思い起こしてください。恐竜の絶滅は、直径10kmほどの隕石が地球にぶつかったため、起こったと考えられています。もし同じ規模ものが起きれば、人類も滅亡することでしょう。しかし、その対策は、まだとられていません。観測体制すら未だ完備されていません。
 生物の絶滅も必ず起こると考えられます。何億年も生き続けてきた生物は稀です、多くの種は、絶滅してきたことを地球の歴史は教えてくれます。その中で、人類だけを例外だと考える甘い人はそうそういないでしょう。しかし、生物がなぜ絶滅するのかは、本当のところはよく分かっていません。生存競争、環境変化、いろいろな原因があるのでしょうが、この生物はこの原因で絶滅したというのが分かっているのは、案外少ないのです。ですから、人類もあるとき突然絶滅へと向かうことだってあるかもしれません。それに対して私たちは、今のところ、何もするすべをもっていません。
 このような科学的な未来予測は、まだまだ不十分です。しかし、もし科学的に未来予測ができたとすると、非常に論理的であるが故に、その結果は感情や温情などない非常の厳しいものとなります。そして、その予測された未来が、自分や人類に対して、過酷で耐えがたいものであったら、なんとか現在から、その危機を回避する手段を講じるべきでしょう。それこそ人類の知恵の見せ所ではないでしょうか。

・私にとってのメールマガジン・
 明けまして、おめでとうございます。
 2002年2月より、このメールマガジン「Terra Incognita 地球のつぶやき」はスタートしました。しかし、その前身は、2001年9月20日から「地球のつぶやき Monolog of the Earth」として、不定期ですが、100名限定の読者に配信し、7回まで公開していました。その頃から数えると5回目の新年となります。
 思い起こせばいろいろな状況を経ながら、このマガジンを発行してきました。月に一度のことですから、それほど大変でないように思えます。確かに時間的余裕があり、書きたいことがあれば、2、3時間もあれば、発行できます。しかし、忙しさにかまけて、ついつい時間がない時もあります。そんなときは、あせりながら書いたこともあります。
 現在では、いくつもネタ、つまり書きたいことが溜まっています。ただ、時間があるかどうかは、別です。その時その時の状況によって、発行の状況は違ってきます。このような状況の違いが、私にとっては思い出深いものとなっているのでしょう。
 メールマガジンは、もちろん読者がいるので成立するシステムです。しかし、もしかすると、書くことを義務付けられることによって、自分自身が一番儲けているのかもしれません。
 私にとってこのメールマガジンは、深く考えるということをいろいろ試行錯誤する場となっています。ですから、私は少なくとも毎月一つのことは、深く考えることを義務付けられているのです。どんなに忙しいときでも書き続けるということは大変ですが、そのノルマを果たせることを意味しています。だから、このメールマガジンは、私にとって非常にありがたい存在であります。そして、その先には読者がいるという緊張感が、いい加減さを戒めます。
 年頭にそんなことを考えました。これは、未来予測ではなく、現状の確認でしょうかね。