2004年12月1日水曜日

35 区切られる時間(2004年12月1日)

 いよいよ師走です。2004年もあと一月で終わろうとしています。地質学の世界で慣れ親しんでいた、ある時代も、終わろうしています。今回は、そんな話題です。

 人は、色々なものを分けて名前をつけてきました。そして、一見、分けようのない連続しているものにも、区切りをつけ、名前をつけています。時間の流れが、そのいい例でしょう。
 物理的な時間の流れは、連続していて、切れ目がありません。ところが、人は時間の流れを、時計の秒針のように一様で均質に流れるとは感じていません。淡々と正確に一様に流れる時間を、人には単調すぎて、もしかするとうまく感じることができないのかもしれません。
 人は、時間の経過に伴って起こる変化を、いくつかの感覚器官を通じて感じ、その変化した感覚を脳内で時間と感じているのでしょう。つまらない時は、ほんの1分でも長く感じ、早く終わらないかと思ってしまいます。ところが楽しいときは、1時間でもあっという間に感じて、もっと続けばいいと思うほどです。人は、時間をそのときに体験している内容や出来事として感じているのです。ですから、人の中で、時間は一様に流れていないのです。
 しかし、人間ですから、生活をしています。生活をしているとどうしても、生活によって時間が区切られます。トイレに行ったり、食事としたり、睡眠をしたり、人が生きている限り、どこかで生活に区切りが入ります。その区切りを時間の区切りに利用するのが、いちばん手っ取り区切りとなるはずです。
 生活の中で流れる時間としては、夜と睡眠を利用して区切る1日が大きな単位となります。そして1週間、1月、1年などが、時間区切りの単位となっていくでしょう。物理的な時間は、午前0時の1秒目も、大晦日の午後11時59分59秒からの1秒も同じものです。しかし、人は、そこに区切りとしての意味を待たせます。
 人間の感覚や生活に基づいた時間のほかに、もうひとつ別の時間を知る方法があります。それは、過ぎ去ってしまった時間、過去の時間です。それは、時間を理解するとでも言った方がいいかもしれません。過去は、現在に生きる私たちには、もはや再び体験できないものです。しかし、過去であっても時間が流れていたというなんらかの「手がかり」から理解することはできます。その手がかりとしては、自分自身の記憶がいちばん身近なものでしょう。
 ところが自分が生まれる以前で、体験しようもない古い過去もあります。いや、今まで流れた来た時間からすると、経験した過去の時間より、経験していない過去のほうが圧倒的に長いのです。でも、そんな古い過去であっても、なんらかの出来事があったという手がかりを見つけることができれば、そこに、時間の流れを感じることができます。
 古文書に記された出来事や事件などは、過去を読みとる重要な手がかりとなります。そんな手がかりをたくさん集めて過去を再構築することができます。そんなとき、人は、時間の区切りをつけ、名前をつけます。その出来事や事件が大きければ大きいほど、過去の記録が多くなり、その事件は時間の流れのなかで重要な意味合いを持ってきます。つまり、大きな時代区分となっていくはずです。
 地球の歴史でも同じように過去の手がかり、つまり証拠から時の流れを感じることができます。過去に起こった事件が、地層や岩石の中に記録されます。過去の手がかりとして、化石などはわかりやすい例でしょう。また、地層や岩石ができること自体が事件ともいえます。事件が大きければ大きいほど、その区切りは大きく扱われるべきでしょう。
 事件の大きさは、生物種の絶滅の数、あるいは新しい種の出現の数、地層の岩石の変化、火山活動の規模、変動の起こったの範囲などで、区別することができます。例えば、同時代の地層を世界中で調べ、絶滅した種が多いということがわかったとすると、その時期に全地球的に異変が起こったということを示しています。それは、ある海域の消滅、大陸の分裂、巨大火山の噴火、隕石の衝突、環境の変化など、なんらかの全地球的異変に起因しているはずです。たとえその原因が特定されていなくても、絶滅の規模から、地質学的事件のランク付けすることは可能です。
 このように過去の記録を色々な視点から読み取ることによって、地球の時代を、事件の規模によって区分することできます。これは地質時代区分と呼ばれるものです。
 地球の地質時代区分は、古いものから順に、太古代、原生代、顕生代となります。それぞれの時代は細分されていきます。その区分は、階層深く、細かくなされています。
 顕生代は、古いものから順に、古生代、中生代、新生代となります。新生代は、第三紀と第四紀に分けられています。第四紀は一番新しい時代ですから、現在を含んでいます。
 さて、つい最近、この新生代の区分が変わったのです。昨年あたりから、その改定案はホームページで示されていたのですが、今年の8月、イタリアで開催された第32回万国地質学会で、時代区分の検討結果が紹介されました。この新しい時代区分は、国際層序委員会(ICS)で承認されているものです。
 それによると、新生代は2つに分かれます。古い方から、パレオジン(Paleogene)とネオジン(Neogene)の2つです。以前は、その上の区分として、第三紀(Tertiary)がありました。ですから日本語訳として、第三紀に対してパレオジンは古第三紀、ネオジンは新第三紀と訳されていました。ところが第三紀がなくなったのですから、パレオジンとネオジンは、新名称にすべきなのかもしれません。中国では、パレオジンを古近紀、ネオジンを新近紀と訳しているそうです。日本語で読むとごろが悪いので、日本でもいい訳を考えなければならないでしょう。
 しかし、今回の改変の重要な点は、なんといっても第四紀という時代区分が消えたことです。これまで第四紀は2つに細分されていて、古い方から更新世と完新世に区分されていました。第四紀という名称がなくなり、更新世と完新世はすべてネオジンに入れられています。
 年代区分の検討は、国際的におこなわれています。前回おこなわれたのは1989年のことでした。実はそのときに第三紀という時代区分も正式な時代名称からははずされており、非公式に使用可能という状態でした。でも、1989年の地質時代区分図には、第三紀という名称はまだ記入されていました。
 しかし、今回、示されている図には、第三紀も第四紀も使われていません。今回の時代区分の検討結果は、第三紀そして第四紀をなくす方向性を強めながら進んでいるようです。
 しかし、「はいそうですか」と簡単にいかないのが世の中です。すでに、第三紀や第四紀などは、日本だけでなく、世界的に定着している時代名称です。教科書にもいたるところに、これらの時代名は使われています。それも地質学や地学だけでなく、歴史の教科書などにも使われています。今回の変更がそのまま進むと、その影響は非常に大きいといえます。
 例えば、日本では第四紀学会というものがありますし、国際第四紀学連合(INQUA)などもあります。それらの組織は、時代名称がなくなったら名称変更すべきなのでしょうか。どうすればいいのでしょうか。
 ただし、INQUAの層序年代委員会の委員長は、この提案を承認する文章を出しています。でも、同じINQUAの執行委員会は反対しているようです。まだまだ混乱中のようです。多分、これからあちこちで議論が活発に起きると思います。そして次回の改定作業は、2008年に短い期間に集中して行われる予定です。そのときには、決着をみるのでしょうか。
 この問題の根源は、時間の区分が人為によることに由来していると考えられます。本来時間という区切りのないものを、人の都合によって分けてきたのです。ですから、過去の記録に対する蓄積が起こると、今までの区分では説明できないこと、別の大きな区切りが必要になることなどが生じることがあります。そして、より多くのことをもっともらしく説明できる時代区分へと整理、改定がおこなわれます。今回はそんな時期に当ったのです。
 データの蓄積は、学問が進歩すと共に、必然的に起こるのことともいえます。例えば新しい年代測定技術が生まれると、新しい時代データが爆発的に増えてきます。ですから、変更がたびたび起こることは、仕方がないことかもしれません。
 しかし、定着した名称が、あるとき突然消えるというのは、やはり混乱を招きます。特に当事者たちは混乱をするでしょう。最終的にその区分が定着するかどうかは、多くの人がそれを使っていくかどうかによります。変更の程度が大きければ大きいほど、定着には時間がかかるかもしれません。
 区切りのない時間というものを区切り、そして知識が増えたらその区切りを変更する。その変更で混乱する。さてさて、人間というものは、困ったものです。本当に進歩しているのでしょうかね。

・葛藤・
 人は、いろいろなものを分類して、名前をつけてきました。これは、人として言葉というものを持ち、コミュニケーションをするがために、仕方がないことのなのでしょう。今回は、ものに名前をつけるということによって生じた不都合なことを示しました。
 でも、区分して名前をつけるということは、人間でないとできない能力を示しています。区分するとは、多数あるものから、特徴と違いを見分けるということです。そして、その区分が多くの人が納得するものであれば、それは、ある分類の名前として定着することになります。
 多くの場合、その名前は最初に区分して名前をつけた人にその命名権が与えられます。あるいは、命名権とは言わなくても、最初にその名称を使って広められると、定着してしまいます。しかし、定着したからといって、その名称は科学的に合理性があるとは限りません。
 今回取り上げた第三紀と第四紀は、それぞれ違った由来をもっています。
 かつてヨーロッパでは第一期(primary)と第二期(secandary)という地層名称が使われていました。1760年に、アルデュイノが、イタリアの地層に対して、第一期と第二期にならって、第三期という名称を使いました。これが第三紀の始まりです。また、第四紀は、1829年にデノイヤーが第三紀にならって使ったものです。
 その後、大本の第一期と第二期は使われなくなったのですが、第三紀は第四紀とともに残り、現在まで使われていました。しかし、その三番目や第四番目という言葉には、もはやその本来の意味は、用をなしていません。
 第四紀も第三紀も対等に扱うべきのような名称に見えますが、じつはそうではありません。新生代(6550万年)として考えたとき、時間的にはほとんどが第三紀(6369.4万年)が占め、第四紀(180.6万年)の中でも更新世(179.45万年)が大部分を占めています。
 今まで第四紀を区分していた根拠を用いると、かつての第三紀の最後の時代である鮮新世の一部を含み、更新世と完新世という、いくつかの時代をまたぐものとなります。これでは、新しい時代区分を採用して、第四紀と併用すると、混乱をきたします。また、第四紀は、現在を含み、私たち人類の進化を考えるには重要な時代なのですが、科学において、人類や現在を特別扱いするの理由はありません。
 学術的には第三紀とともに第四紀もなくしてしまい、統一の取れたものにした方が合理的です。ですから、今回の変更によって、よりよく改定されたわけです。でも、研究者とはいえ人間ですから、感情もありますし、変化を好まない、今まで通りがいい、という考えももちろんあります。そのような葛藤が今、まさに起こっているのです。

2004年11月1日月曜日

34 試される日本(2004年11月1日)

 今年は台風や地震など自然災害が多発しています。そんな自然災害を間近にで体験したり、報道番組で見たりして感じたことは、どうも私たちが試されているのではないかということです。

 自然災害は避けることができません。台風や地震は自然災害なので、その地に住む限り、台風が来ること、地震が起こることを避けられません。そんなときは、ただじっと、自然の猛威の去るのを耐えて待つしかありません。
 昨年、北海道の日高や十勝地方は十勝沖地震と台風10号によって大きな被害を受けました。昨年の台風10号が四国を襲う直前まで、私は愛媛県西予市城川(その当時は愛媛県東宇和郡城川町でした)にいて、台風に追われるように北海道に戻りました。その後、地震と台風10号によって被害を受けた沙流川と鵡川沿いの日高と十勝地方へあえて調査に入りました。その結果は、「地球のつぶやき」の「22 災害と倫理:北海道の被災地を調査して(2003年11月1日)」で紹介しました。
 昨年滞在していた城川で、私が去ったあと襲った台風10号で2人の死者を出しました。そのうちの1人は、城川に住んでいる友人の同級生でした。
 今年は、台風がたくさん日本に来ています。10月までに日本に上陸した台風は10個にもなり、史上最高だそうです。上陸した台風は、多くの被害を出しました。
 私は今年も9月2日から9日まで、愛媛県西予市城川に滞在しました。そのときに台風18号に遭遇しました。その直前に襲った台風16号の被害も収まらぬうちに、台風18号の来襲でした。その後台風18号は北海道にも大きな被害を与えました。私がいった数日前まで城川は停電していたそうです。山に調査に入ったのですが、植林された木がいっぱいなぎ倒されていました。16号による道路の倒木が片付けられた直後にまた多数の倒木が道路をふさぎました。周辺は林業の町なので、その被害は大きかったと想像されます。
 台風18号で北海道で一番の被害があった積丹に9月10日から12日訪れました。そこでも、自然の猛威の爪あとを目の当たりしました。その様子は週刊メールマガジン「地球のささやき」の「4_46 積丹半島1:災害の直後に(2004年9月16日)」で紹介しました。
 さらに、先日10月の23日から24日に、今年の台風18号で大量の木が倒れた支笏湖周辺に行きました。道路の倒木は処分されていましたが、大量の倒木が森の中には倒れていました。そうして道路も一部不通のところもありました。
 本州では、台風23号の被害がさめやらぬうちに、新潟中越地震です。余震が長く続いています。この地震は直下型で被害も大きく、度重なる台風で地盤の緩んだ山間部では地すべりなどの土砂災害が起こっています。地震と台風は何の関係もなく起こるものですが、地表に住むものには、台風による大雨と地震が重なると、災害が大きくなります。
 ライフラインが切れた状態で、被災者が長期間孤立すると、体力のない人には、自然災害に次ぐ二次災害が起こります。北海道では初雪が平野部でも降りました。暖房装置がないと、この寒さの中では、生きていけないかもしれません。積丹の浜辺の人たちは、隙間風に苦しめられていないでしょうか。新潟の被災地でも、どう寒さを凌いでいるのか気にかかるところです。余震が怖くて外にいて、夜は車のエンジンをかけて過ごしている人も多いと聞きます。
 何度もの台風の襲来と新潟の地震は関連はないのですが、天災が重なると多くの人は疑心暗鬼になり、デマや迷信、風聞などが起きるかもしれません。それを面白おかしく取り上げるマスコミがあったりするとますます不安が広がるかもしれません。被災地ではそんなデマに惑わさせれずに、復旧作業を続けていくしかないでしょうし、被災していない人は復旧作業を応援するしかありません。離れている私たちは、せめて現地のためになるように、義捐金を送ったり、暖かい眼差しで支援を続けるしかありません。
 北海道も含めて日本各地が、今、自然災害にあえいでいます。日本中が、もがき苦しんでいるような気がします。自然災害は、なにも日本だけでないかもしれませんが、とにかく去年から今年にかけて、日本は、災害が続いています。
 そんな状況をみていると、私は、日本がそして日本人が試されているのではないか思いました。金銭的な繁栄を求めている日本が、これでいいのかということを問われているのではないかと思いました。金や技術、科学を信奉している日本が、その頼りにしているもので、この災害にどう立ち向かうのか試されているのではないでしょうか。この試練に、間違った答えるすると、日本は取り返しのつかない方向に進んでいくような気がします。
 営利や技術より、その日の食べ物、その夜の暖、復旧のための人手、心のケアをしてくる人たちが求められています。今までの日本が置き去りにしてきたことが、本当にそれでいいのかと試されているような気がします。この試練にどう立ち向かえばいいのでしょうか。
 今までのようにマスコミの報道が終われば、被災地以外の人たちは災害を忘れ去っていき、日々の営利、技術の世界に戻っていくのでしょうか。それでいいのか試されているような気がします。
 災害を復旧するのにお金や技術はもちろん必要でしょう。他人の支援どころではない人、自分が生きることに精一杯の人もたくさんいるでしょう。それでも、必要な何か、しなければならない何かがあるような気がします。それは今の日本が、日本人が、どこかに忘れてきてしまったものです。昔から日本のどこにでもあって、日本人なら誰でも持っていたものです。心とか思いやりなどという正体のない、得体の知れないものです。でも、だれもが、それを感じることかできるものです。それを今の日本は忘れ去ろうとしています。
 そんなどこにでもあった心を忘れていいのかのと、度重なる自然災害によって、日本が、日本人が、試されているような気がします。救援に向かえといっているのでありません。営利を求めること、技術的進歩を求め進むこと、それのみを最優先していいのかということが問われているような気がします。営利、進歩を望むあまり、心を亡くしていいのかと問われているような気がします。立ち止まって考えることを求められているような気がします。
 一人の被災者にとって自然災害の大小は関係ありません。自分の生死が問題です。メディアや行政は、一人一人の人命が大切なことは承知しているでしょうが、多くの被害者のある方に精力を傾けます。それは、予算、人材、効率を考えるとそうならざる得ません。でも、四国台風の災害では、近所の助けあいが、老婆を救ったという報道がありました。そんな気持ちは、少し前まではあふれていました。お金のない家でもある家でも同じだけ持っていたものです。そんな一人の被災者を救えるのは、近所の人の温かい心ではないハイでしょうか。それは、ある日突然生まれるのではなく、そこに生活することによって育まれていくものです。その絆が強ければ、頼り頼られる関係が成立すると思います。
 そんな近所の心のつながりが、都会生活では消えつつあるような気がします。時代の流れだからしょうがないのかもしれませんが、それをなくしていいのか問われているような気がします。このようは日本が過酷な状況にあるからこそ、皆で考えなければならないのではないしょうか。

・知恵と人との和・
 私の住む北海道の町では、10月27日に初雪が降りました。先日雪虫が飛び交ったと思ったら、やはり虫たちの予測どおりに、初雪が降りました。被災された人たちがこの寒さの中、どのように過ごされているのか心が痛みます。
 北海道では、冬用の靴やタイヤがあります。防寒着も厳冬期用の分厚いものを持っています。長靴も暖かいものがあります。もちろん暖房も大きなストーブを焚いています。
 今までその地で暮らしてきた人たちが蓄えてきた知恵を総動員して、この災害に立ち向かうしかありません。災害時には、今まで使えた電気やガスなどが使えなくなるかもしれません。水道も出なくなるかもしれません。ライフラインがなくても、立ち向かう知恵を出さなくては生きていけません。
 私は、初雪の降った日の寒さには、電気や灯油を使うことでしか、対処できません。昔からこの地で暮らしてきた人たちには、きっと自然の恵みを利用して、この寒さから身を守るすべをいっぱい持っているはずです。そんな昔からの知恵も、金で買える技術によって、今忘れ去られようとしています。
 緊急事態に対処できるのは、そのような昔からその地にあった知恵ではないでしょうか。そしてなによりも、そこに住む人たちの協力、共同が最大のものではないでしょうか。老人が持っている知恵を若い人たちが実現していくことによって、緊急事態を乗り切ることができるのではいでしょうか。
 昔からその地に出育まれたきた知恵と人との和ともいうべきものが、どんなときでも一番頼りになるものではないでしょうか。そんなことをつくづく考えています。

2004年10月1日金曜日

33 科学と心と宗教(2004年10月1日)

 宗教と科学は、なかなか相容れないことがあります。また、心の問題を、なかなか科学的に解くこともこともできません。心の問題は、科学と宗教のどちらに分類されるのでしょうか。宗教と科学は、考え方によっては相容れたり、融合することもあるのではないでしょうか。そんな科学と心と宗教について考えました。

 日本では、科学と宗教の論争がそれほど表立って行われることがありません。しかし、欧米では、キリスト教などの宗教を信じる人が多く、今も生命の起源や生物の進化について宗教家と科学者の論争が行われています。また、生物進化を教えることは問題であるということで裁判になったことも何度もあります。S.J.グールドがエッセイに書いているので、有名ではないでしょうか。
 欧米では、宗教が、政治問題や裁判、時には戦争を引き起こすこともあります。現在、多くの交際紛争や民族闘争の背景には宗教に関係した問題があるではないでしょうか。現在社会においても、宗教は科学と同様重要な役割があるようです。
 ところが、日本人は宗教に関しては、オウム真理教で少し敏感になりましたが、まだまだ無頓着のような気がします。これは、日本の宗教観と欧米の宗教観の違いではなのでしょうか。あるいは、キリスト教やイスラム教などの一神教と、仏教や神道などの多神教による違いなのでしょうか。それとも、単に国民性の違いなのでしょうか。よくわかりません。
 かつては、自然やこの世の真理を探るために、科学も宗教も区別なく考えられてきた時代がありました。共存していたといってもいい時代もありました。しかし、いつのころか、科学が一方的に進歩を続け、科学的方法論が確立されて以来、両者が相容れることがなかなか難しくなってきました。
 ここでいう科学的方法とは、論理性とそれを裏付ける根拠のことです。根拠とは、客観的事実、実物、標本、現象、実験結果など、だれでも手にできる素材、情報、データを基にしたものです。それらの根拠を元に、論理をくみ上げていきます。この根拠によって論理が正しく構築できれば、科学的に論理は成立します。これを科学的方法と私は呼びます。
 ただし、同じ科学的手法を用いても、人によっていろいろな論理が生まれる可能性があります。そんなときは、論理の優劣は、議論によって、根拠の多い少ない、論理の詳細なるチェックなどによって判断されます。ただし、優劣が付かないことも多いですが。
 同じ科学的手法に則っていれば、論理を提唱した研究者のキャリアや肩書きに関係なく対等の立場で議論されるべきものです。科学的方法は、大変フェアで、客観性のある方法です。しかし、実際のところ、科学も人間の営みですから、偉大な学者、著名な研究者の論理や説が、通りやすいことが往々にして起こります。これは、科学の極めて人間的な部分です。まあ、これは今回の論旨とは関係がないので、ここまでとしましょう。
 さて、科学的手法において重要な点は、新しい根拠がでてくれば、古い根拠によっていた論理は、いとも簡単に捨て去られるということです。科学は、常により確からしいものへと新陳代謝をしつづけています。どんなに偉大な研究者の成果でも、捨て去られます。ニュートンやアインシュタインも例外でなく、不備が指摘されています。ですから、科学において真理などというものは、存在しないのかもしれません。
 宗教は、かつては科学と同じような土俵で論争していましたが、現在では、人の心や生き方の指針として重要な役割を果たすようになってきました。私は、宗教が人の心の問題をサポートするという役割において必要だと思います。
 もちろん、上で述べたように同じ土俵で科学と宗教で論争されることもあります。しかし、これは、私にしたら、不毛な論争になりかねないことだと思います。
 こんな例を出しましょう。「幽霊は、いるか、いないか」ということについて「いる」派と「いない」派に分かれて論争することを考えてみましょう。
 「いる」派は、どうすれば「いない」派を説得できるでしょうか。それは、幽霊が「いる」という証拠を、科学的に検証できる、あるは誰もが納得するような論理で提示ですればいいのです。逆に「いない」派は、どうすればいいでしょうか。論理的に「いない」ということを証明するには、ありとあらゆるところやものの中に、「いない」ということを、検証していく必要があります。つまり、この世に幽霊がいないということを示すことは、論理的に不可能なのです。この議論で有利なのは、もちろん「いる」派です。なぜなら、たった一つの幽霊の証拠を見つけてくればいいのですから。でも、それが出せないわけです。ですから、この論争は決着を見ない、不毛なものになってしまいます。
 この議論を、「神がいるかいないか」論争に置き換えると、どうなるでしょうか。もし、神というものが、役に立たない存在であれば、とやかく言うのは無駄なことです。しかし、神は、人間の生活、特に精神性生活、心の営みの中で重要な役割を果たしています。ですから、神は多くの人たちにとって、いようが、いまいが、必要なのです。ですから、いるか、いないかという決着を見ない不毛な論争をするのではなく、お互いに相手の存在理由を認めた上で、共存すべきではないでしょうか。
 生物の誕生の様子や、生物の進化の科学的理論は、まだまだ不十分です。でも、科学はその領域へと手を伸ばしています。心のありかについても、脳の科学はかなり核心に迫っていると思います。かつては神の領域であったものが、今では科学の領域となってしまったものがたくさんあります。
 でも、どんなに分子生物学が進歩して生物を理解したとしても、美しいという気持ちや、それを大切にしたい思い、守りたいという心、共に生きていきたいという願いなどは、科学的論理から導き出せないでしょう。あるいは、人間としてして、もはや手の出せない段階、たとえば、すべての準備が整ったロケット打ち上げを待つエンジニアや宇宙飛行士、故障によって墜落する飛行機の乗客は、何もできません。そんなときある人は神に祈るでしょう。祈っても結果に影響がなくても祈ります。そんな人の振る舞いは、決して科学の領域で、決着の見ないものです。そんな時、人にとって神は必要なのです。だから、多くの人が宗教を信じ、すがっているのでしょう。
 日常的な行動指針として、宗教は重要な働きをします。だれも見ていないとき、悪いことをする心をいさめるのは、自分の心しかありません。日々の地道な努力や、失敗したときの慰めをしてくれるのは心です。そんな心を鍛えてくれるのは、人によっては宗教かもしれません。
 宗教が科学的でないから不要という論理は、短絡的で論理的でありません。科学の世界のある場面では、科学的手法は正しいかもしれません。でも、もっと広く、人間の世界では、その論理は真ではありません。科学は人間が生み出した極めて人間的な営みです。かたや宗教も、極めて人間的な営みです。その点では両者は対等ですし、人によってはどちらかの方が優先するかもしれませんが、いずれか一方で人間の世界が成り立たないのです。人間の心の問題を解決するには、宗教はまだ必要なのです。だから存在し、意義があるのです。
 私の尊敬する科学者である、S.J.グールドやカール・セーガンは、宗教には否定的です。でも、私は、科学と宗教が相容れないものではなく、共存すべきだと考えています。あるいは、宗教を心の営みと呼び変えていいかもしれません。宗教や心を拠り所とするかしないかは、人それぞれです。
 私は、生きる上で宗教を利用しません。私は、地質学者と科学を信奉し、無宗教です。でも、心は理性より人間とって、重要な働きをすると思っています。以前の私は理性至上主義の立場でした。しかし、心の発露というべき感情に左右される自分の理性を経験したことによって、私にも、心の重要性がわかってきました。その延長線に宗教が位置すると思っています。ですから、私は宗教を信じていませんが、宗教の存在とその必要性は認めます。もちろん周りの人が宗教を信じていることも容認します。そして、できうれば、科学の宗教の縄張り争いはやめ、時代と共にその住む領域を変化させながら、共存していけばと思います。

・心は手ごわい・
 このエッセイはある読者から、受けた意見に対するものです。
 10年ほど前であったら、私はこのようなエッセイは書かなかったでしょう。なぜなら、かつて私は、宗教が必要悪だと思っていました。聖書や般若真教、禅の本、神話、古事記、論語など教養と思って読みました。経典は科学的でなく、信じるに足るものでないとして、単に読み物として面白いと思うに過ぎませんでした。旧約聖書など、SFとして読めばすごいなどと嘯いていました。
 しかし、父の死を契機として、私は、理性と感情、そして心の問題を考えるようになりました。そして出した結論が、理性(科学)と感情(心)とは一人の人間の中で共存すべきだということでした。そのあたりには、以前のエッセイにも少し書きました。
 宗教を信じること、あるいは無宗教であることは、恥ずべきことでないし、かといって人に強制すべきことでもありません。たとえそれが教師であっても、親であっても、強制すべきではなく、最終的に人それぞれ、自分で判断すべきことだと思います。
 私の場合は、常日頃は理性を重んじて行動し、最終的には自分の心の命ずる判断に従うということが行動指針になりました。どんなに抵抗しても、自分の心は手ごわく、最終的には理性が妥協するしかありませんでした。でも、おかげで、人が見ていようがいまいが、自分の心に恥じないように生きるようになりました。例えば、些細なことでいえば、返ってきたつり銭が多ければ、得した思うのではなく、自分の心は戻すことを選びます。日々のこととしては、つらい毎日を手を抜かずに過ごすための監視役は自分の心です。どんなに結果がうまくいっても、その過程で手抜きをしていれば心は満足しません。正直者が損をすることとわかっていても、正直に生きることを心は選びます。
 私の中で、科学と心の共存を悟ってから、日々心に恥じないように生きることを目指すようになりました。これは、宗教に帰依し、その戒律を守ることに合い通じる生き方ではないでしょうか。ですから、誠実に真摯に日々を生きる手法として、私のように無宗教ですが心を大切にする生き方でもいいし、宗教の教えを守ることによって生きる方法もあると思います。
 Nanさん、少し話題は違いましたが、宗教に対して出した私の結論は、このようなエッセイになりました。いかがでしたでしょうか。よろしければ、ご返事をください。

2004年9月1日水曜日

32 アースネーム(2004年9月1日)

 北海道では、小・中・高校の夏休みは短く、8月20日に終わっています。それとあわせるかのように、9月になれば北海道の短い夏は終わり、秋がはじまりつつあります。そんな四季ぞれぞれの北海道の自然を満喫して2年半がたちました。私たち家族が、自然を求めて経験してきたことを紹介しましょう。

 今年の夏は北海道も5年ぶりの猛暑となりました。海、山や川などの涼しいところが大賑わいでした。我が家でも長男の希望をかなえるために、海に出かけました。車で1時間もかからずに、海には行くことができます。私は、自然のままの海岸が好きなので、以前調査で見つけていた、人があまり来ない砂浜に行きました。キャンプしていた人が1組、そして我が家のように海遊びに2組ほどの家族が来ているだけでした。あいにくその日は台風の影響で波が高く、海に入ることはできず、砂浜で遊ぶのが精一杯でした。でも小さい子供ですからそれでも充分楽しんでしました。風がありましたが、快晴の暑い夏の日を、海で一日を過ごしました。
 なぜ、安全でシャーワーなどの設備の完備された海水浴場にに行かないのかというと、私は、他の人にじゃまされずに見ることのできる、あるがのままの自然に接することが大好きですし、大切だと思っているからです。つまり、自然の中に一人で佇みたいのです。
 私が好きな自然は、山、森、川です。その象徴として、静かな森の中の清流が大好きです。私は、地質学を専門としてきたので、長年、野外調査のため、人が入らないような山の奥地まで踏破してきました。ですから各地の清流を思う存分味わってきました。野生の清流に接すると、私は、そこにいるだけで、心からほっとできるような、あるいは自然に畏敬の念をいだいてしまうような、不思議な気持ちがわいてきます。そんな時、自然と一体化したような幸せな気分になります。そんな自然に抱かれて、ずっとそこに佇んでいたいと思います。
 北海道に来て2年半が過ぎました。その間、私は自宅の近くで、山、森、川を味わえる場所がないか探していました。北海道に転職し、家族で引っ越してきたのも、実は、そんな自然に身近に接したいという気持ちを満たすことも大きな理由であったのです。ところがです、そんな野生のままの自然の接せすることのできる場所が、身近になかなか見つからないのです。大好きな山、森、川を求める我が家の旅の記録を紹介しましょう。
【山】
 大好きな山、森、川のうち、山はあきらめました。現在住んでいるところは、札幌市の東隣にある江別市というところです。この今住んでいるところは、石狩の低地帯のはずれで、地形からすると、山は遠いところにあるからです。ここに住んだのは、私と家族との妥協の結果でもあります。
 電気、水道、電話さえあれば、私は、田舎ほどいいと考えていました。家内も私の希望はある程度理解はしていたのですが、生活に不便なところは嫌だといいます。その両者の希望や、子供たちの生活環境を考えて、今の地に住むことを決めたのです。
 私は、山をあきらめることにしました。まあ今住んでいるところは、野幌丘陵というところですから、山ともいえなくもありませんが、私の思っている山とは程遠いものです。でも、子供たちが大きくなれば、あちこちの高い山に行きたいと思いますが、まだ、時期尚早です。
【森】
 次は、森についてです。北海道立野幌森林公園に隣接するところに私の職場である大学があり、そして自宅も森林公園に接するところを選びました。北海道立野幌森林公園という名前のとおり、森です。そして、公園ですので、まわりがどんなに開発、都市化されても、きっと森のまま残っていると信じています。
 長男も、その森のはずれにある市立小学校に越境入学し、毎日、数便しかないJRバスで通っています。その小学校は1学年1クラスで、10数人の少数クラスで、全校生徒100人ほどの農村地帯の小さな学校です。森を総合的な学習などで利用した教育を行っています。私も長男も望んで、その学校に決めました。この学校の生徒は、自分用の森歩き長靴と軍手を学校に常備しておくことになっています。
 こんな森に、四季折々、家族で出かけています。春は残雪の堅雪の中を長靴で歩き回ります。夏は森の中で、キャンプ、ハイキング、サイクリングなどを楽しんでいます。先日は、森のキャンプ場でキャンプをしました。また、自転車で森をつっきて長男の小学校まで1時間ほどかけてサイクリングにも行きました。秋の紅葉のころもいいです。森の中にはキノコがいっぱいあり、朝散歩していたら、キノコ採りに来ている人からおいしいキノコを教えていただき、採って帰って味噌汁の具にしたこともあります。冬の森は、残念ながらまだ味わっていません。雪の中を歩るくにはスキーやカンジキなど使わなければなりません。今年の冬、長男が歩くスキーを学校で習ったら、一緒に森の中をスキーで歩きたいと考えています。それを今から楽しみにしています。
 私の好きな自然のひとつの森は、身近に得ることができ、それを満喫しています。
【川】
 問題は、川です。これは、私の望む自然の象徴として川があります。ですからこればかりはあきらめることのできないのです。
 私の住んでいる家に近くには石狩川があります。石狩川はもともとはアイヌ語で「まがりくねった川(イ・シカラ・ペツ)」に漢字をあてたものだといわれています。北海道の開拓がはじまるまでは、アイヌ語の通り蛇行だらけの川でした。石狩川の全長は、もともと356kmあったそうです。現在、日本で一番長い川は367kmの信濃川で、2番目は322kmの利根川です。ですから、もともと石狩川は信濃川に匹敵する長さの川だったのです。ところが明治以降、治水事業として蛇行をショートカットする工事が各地で進められ、現在の石狩川は、100km近くも短くなり、268kmの長さになりました。かつて蛇行していた名残はいたることに三日月湖として残されています。
 石狩川では1981年には台風12号の被害で、私の住む江別市も堤防決壊で大きな水害となりました。実は、その1年前まで、私は札幌に住んでいたのですが、その被害のときには別の地に移っていました。また、記憶に新しい昨年8月の台風10号では、鵡川と沙流川の洪水で大きな被害を出しました。
 こんな被害は誰だって嫌です。ですから、治水はすべきですし、今までこれからもされていくでしょう。
 一級河川の管理は、国土交通省です。川での被害があると、国は、流域の管理を厳重にし、災害や事故を起こらないように警戒します。またダムなどの重要施設では、テロの危険性を考えて、一般の人がなかなか近づけないようになっています。先日看板にその旨が書いてあったので驚きました。
 このように、河川管理の一環として、石狩川は、蛇行がまっすぐにされて、河岸はことごとく堤防になっています。そしてその堤防から水辺へは限られたところしかいけません。つまり安全とされているところだけです。その多くは人工的に護岸をされた親水公園やゴルフ場のようなところです。
 このような対策は正当ですし、河川災害による被害は出すべきではありません。そのような理由は、充分理解できるのですが、やはり、私は、自然のままの川が好きです。だから、私は、自然の川に触れることのできる河原がないか探しています。でも、なかなか近くには見つかりません。車で1時間以上かけないとそのような河原が見つかりません。なかなか気軽に川遊びができないのです。
 今年の夏は、そんな河原を、石狩川本流ではなく、支流で探すことにしました。身近なところもあきらめました。車で日帰りができるところを条件としました。このような妥協のもとで、山、森、川の出会う場として山の清流を探しました。今年の夏、主に探したのは、自宅の北西にある当別周辺の山、西側の夕張周辺の山です。いずれも自宅から車で、1時間から2時間ほどかかります。
 当別の山にはいい川原がみつからず、夕張の山に目標を変えました。ここにはきっといい河原があるのではないかと思い、散々探しました。いい河原を見つけても、そこにいけなっかたり、立ち入り禁止だったり、思い通りになりません。たまたま森で地元の人にであって、いい場所を聞きました。車で入るのが怖くなるようなような道でしたが、なんとかたどり着きました。そこは、私が探していた理想に近い川でした。
 私が捜し求めたてた川のよさは、家内や子供たちにもすぐにわかったようです。皆その川の美しさに心を奪われました。前日に降った雨で本流は濁っていたのですが、上流のこの川は澄んできれいでした。川底の石ころがきらきら輝いて見えました。夏の暑い日でしたので、子供たちは、魚すくいに、水遊びです。全身ずぶ濡れで遊んでいました。長男がパンツ一丁になって泳ごうとしましたが、あまりの水の冷たさに、胸まで浸かっただけで、やめてしました。私は、石の調査と、化石探しです。
 この川の水は、飲めそうなほどきれいな水ですが、寄生虫のエキノコックスの危険性があるので、飲むことはしませんでしたが、それほどきれいな水でした。そこで、楽しい一日を過ごしました。
 数日後、そんなきれいな川に魅せられて、再度夕張の山の別の川原にいきました。その日は天気がよかったのですが、支流だと水が冷たそうなので、本流の河原にしました。予想通り、流れ込む支流の水は冷たいのですが本流の水は冷たくなく水遊びができました。そこで子供たちはパンツ一丁になって遊んでいました。
 こんな水遊びは、私が子供のころはどこでもできたのです。しかし、今では、ものすごく贅沢なことなのかもしれません。特に都会に住む人にとって、人のいないような清流の河原など、何時間もかけて出かけないと見つけられない貴重なものかもしれません。それを味わう贅沢と捜し求めて見つけた喜びを味わっています。
 遠出はしなければならないのですが、なんとか私が求める川は見つけることができました。
【アースネーム】
 考えてみると、川は山と海をつなぐものであります。川をつくっているものは水です。水は、海から来たものです。海の水が蒸発して雲となり、陸で雨として降ったものが、海に戻る過程として川があります。海は生命のふるさとです。すべての生命は細胞を満たす液体として海の水に似た成分をもっています。私たち人間も、生命の誕生の場である海をいまだに血液としてもっています。
 海に通じる水の流れてとして自然の川を求めるのは、私ひとりの思い込みではなく、人間のあるいは生物の本能のようなものかもしれません。自然の川に接したときに私がほっとするのは、もしかするとそんな生命としての本能が発する「海という故郷につながった」という安堵の吐息なのかもしれません。
 岸由二著「リバーネーム」と、それを題材にした川端裕人著の小説「川の名前」があります。そこで、「私の川」を決めて名前の一部に組み入れ、自分自身を自然の一部として結びつこうという発想です。素晴らしい発想だと思います。
 私は、それを少々改良して、「アースネーム」というものを提唱しましょう。
 地球をあるがままの姿を捉え、その姿を用いて自分自身を記述することがいいのではないかと思います。海、陸、川など自然物だけから、位置を記述するのです。海と陸の大区分で、その地点はどの大地に属しているのか、そして、その大地を流れる川は何というもので、その川のどのあたりに位置するのかを記述していくのです。このようは地域の記述の仕方を「アースネーム」と呼びましょう。
 自分の住でいる地球を宇宙から見たとき、まず、海と大地の織り成す模様が見えるはずです。私なら、北海道とよばれる大きな島に住んでいます。そして、その島を宇宙から見ると明瞭な目印なるのは、海に流れ込む川です。そんな大地を流れる川を使って、位置を詳細に記述していくのです。日本海石狩湾に通じる川として、石狩川があります。その石狩川水系に千歳川があり、千歳川の支流に早苗別川という小さな川があります。早苗別川の源流域は野幌森林公園にあたります。そして私の家はその源流の森の北はずれにあります。このように自分の位置を示せば、人工的な都道府県や市町村の行政区分や、意味のない番地などに頼らずとも、自分が大地のどこにいるのかを示すことができます。
 例えば私の経歴は、「本州瀬戸内海淀川水系木津川」で生まれ育ち、「北海道石狩湾石狩川水系豊平川」から「本州日本海天神川水系三徳川」、「本州東京湾帷子川」、「本州相模湾相模川」、「本州相模湾酒匂川」、「本州相模湾千歳川」、「北海道石狩湾側石狩川水系千歳川」へと移転してきた、となります。「北海道石狩湾側石狩川水系千歳川支流早苗別川源流の森の北」の住人というように、河川を支流にさかのぼっていけばいくらでも詳しく示すことができます。「アースネーム」のような自分の地球での所属を、海と大地と川の織りなす模様から示すというのは面白い発想だと思います。
 このような示し方をすると、その人がどのような自然観体験を持っているのかを他人に知らせ、理解してもらえるような気がします。もし、今自分が所属している川や流域が、人工的なコンクリートの川だと悲しく映りませんか。少しでも自然の姿を守りたい、蘇らしたいと思うようになれるかもしれません。
 また、自分の好きな自然があるところ、ほっとできる自然のあるところを探し求めて、見つけられたら、自分の心の所属としてその位置を「アースネーム」として記憶にとどめておくことがいいかもしれません。私は、これからも大好きな山、森、川をもとめて歩き回っていくと思います。そして、残り少ない自然のままの山、森、川に出会ったとき、やはり安堵の吐息を発していたいと思います。そんな「アースネーム」の数を増やすようにしてきたいと思います。もし、あなたがそんな自然の姿のみつけて、「アースネーム」として心にとどめることができれば、きっとそこを守りたい思うはずです。あなたも、そんな自然を、「アースネーム」を求める旅に出られてはどうでしょうか。

・化石採り・
 夕張の川で家族で水遊びを2度しました。お盆の休日とお盆明けの平日の2日です。それぞれ別の河原でした。ところが、人の来ないような川で、実は二度とも人に出会いました。いずれも、アマチュアの化石採りの人でした。別々の人でした。実はこの地域は、白亜紀の地層が出ているところで、北海道でも有数の化石の産地であります。
 化石採りの人はいずれも親切で、子供たちに化石の見つけかたを教えてくれました。そして一人の人は、別の場所においてある化石をわざわざ取りに行って子供たちにくれました。その人は、川の各地に化石をおいてあるそうです。いいのは持って帰るそうなのですが、それほどよくないのですが、すてるのももったいないので、おいて置き、化石の好きな人に出会ったら、あげるためだそうです。
 目が慣れてくると、子供たちでも化石の破片が入った石が見つかりました。もちろん完全なものではなく、破片ですが。アンモナイト、イノセラムス、そのほか貝化石をいくつか見つけました。
 いい夏の思い出となりました。

2004年8月1日日曜日

31 地層の記憶は、なぜか少ない(2004年8月1日)

 地層は、多くの人がどこかで見たはずです。でも、それを詳しく見た記憶はあまりないと思います。実際には、目を近づけて見ていることがあったとしても、記憶にあまりに残っていません。それはなぜでしょうか。そんなことに思いを巡らしました。

 「地層」を思い浮かべてください。ある人は海岸で連続して重なるものを想像するでしょうか。またある人は、山の崖にでているものを思い浮かべたでしょうか。それとも、道路わきにある切通しを思いついたでしょうか。どれも地層に違いありません。
 「地層」を思い浮かべてくださいというと、見たことがある人は、いちばんよく記憶に残っている地層を頭に思い浮かべたはずです。見たことない人は、教科書さ図鑑で見たものを思い浮かべたかもしれません。
 では、地層を見たことがある人は、もう少し思い出してください。その地層の色はどのようなもので、地層のひとつひとつはどのような成分からできていたかを思い出してください。いかかでしょうか。多分、多くの人は、なかなか細部を思い出せないと思います。もし思い出せたとしたら、それは、よくその地層を見て、なにか記憶に残るような出来事があったからに違いありません。
 地層は、すぐに思いつい出せるものですが、その中身をどうも詳しくは覚えていないようです。どうしたことでしょうか。概略は簡単に思いだせるのですが、詳細はなかなか思い出せない。これは、記憶においては、ごく当たり前に起こることなのですが、地層の場合は、もう少し違った側面があります。それについて、もう少し詳しく考えていきましょう。
 市民にとって地層をよく見ることは、そうそうないでしょう。普通の人は、眺める程度で、地層を調べている研究者や地層を相手にしている技術者でない限り、それほど詳しくみることはないでしょう。
 ところが、市民でも、地層を詳しくみている経験があっても覚えていないこともあるのです。それは、地層は良く見ているはずのですが、興味が他にいっている場合です。化石探しがそのいい例です。
 私自身の化石探しを思い起こしてみると、小学校高学年のころ、誰かに連れられて、山の小さな崖で化石を取った記憶があります。壊れた二枚貝の化石をいくつか掘り出した記憶がかすかに残っています。本当にかすかな記憶です。誰に案内にしてもらったのか、誰と一緒に行ったのかも思い出せません。そして化石を見つけたときの感動すら思い出せません。このような程度ですから強く記憶に残っていないのかもしれません。少なくもと私が地質学者になったのは、この化石採集がきっかけでないことは確かです。
 ところが、私の知り合いの地質学者には、子供のころ誰かに連れられて化石を発見したときの感動が忘れられずに、自分で化石をいろいろ探しにって化石少年となり、地質学の研究者となった人もいます。ですから、人によっては、化石採集が、まるで宝探しで宝物を発見したような感動として、記憶に残っていることもあるようです。
 もちろん市民にとっても、地層を詳しく見みているきっかけとしては、化石採集のような場合がいちばん多いはずです。最近では、学校ではなかなか化石採集には出かけませんから、博物館などの行事として、化石採集をすることが多いかもしれません。
 普通の市民は、化石採集でどう地層を見ているでしょうか。私が地質学者になって、市民を地層観察会で化石のでるところに連れた行った時の様子は、おおむね次のようなものです。
 最初は、だれでも闇雲に地層の中の化石を探します。自分でいくつか化石を手に入れると、その化石を確保しながら、よりいいもの、珍しいものを探すようになります。場所にもよりますが、よりいいものや珍しいものは、なかなか見つかりません。
 よりいいものとは、壊れてない完全なものや、より大きなものです。よりいいものは自分で判断できます。ですから、励めばいいものを自力で掘り出すことは可能です。
 一方、珍しいものとは、種類が少なく、なかなか見つからないものです。同行した地質学者が、これは珍しいといったようなものの中には、学術的に価値のあるというものも含まれます。そのような珍しい化石は、完全でなくても重要性があるということになります。
 珍しいものは、もしかするとほんのちっとした違いが見分ける決め手となることがあります。そんなときは、誰かが見つけた珍しいものをみせてもらい、覚えて、探しはじめます。そして、珍しいものが見つかろうとも、見つからなくても、一生懸命探しはじめます。まさに宝探しの醍醐味です。でも、ある程度探し続けると、たいていの人は、化石探しに飽きてきます。
 ひとつの場所で、化石採集が続けられるのは、せいぜい2、3時間でしょうか。化石採集にいったほとんど人は、この2、3時間の間、熱中して化石探しをしています。このとき、いい化石や珍しい化石を見つけた人は、大きな感動を得て、よく記憶に残ることでしょう。
 さて、熱中して化石探しをているとき、顔をくっつけるようにして地層を見ているはずなのです。化石を探すときは、それになりに地層を見ているはずです。地層のどこからたくさん化石はでるのか、いい化石や珍しい化石は、地層のどこから出てのか、などを考えながら探しているはずなのです。ところがどうでしょうか。化石を見つけた記憶はあるのに、なかなか地層は記憶に残りません。その理由は、興味の対象が化石にあるからです。
 自分一人で化石探しに出けるときのことを考えましょう。
 化石は地層からでます。ですから、化石は探しは地層のあるところではじめます。でも、どんな地層からも、化石が出るわけでありません。化石の出る地層と、まったく出ない地層があります。同じ地層でも、化石が出やすいところと、出にくいところがあります。
 例えば、ノジュールとよばれるものがあります。地層の中に、石灰分などが溜まって、丸く固くなっている部分があります。ノジュールの芯にあたるとこに化石が含まれていることがよくあります。同じ地層でもノジュールの多いところと少ないところがあります。化石を探すなら、地層のノジュールの多いとこから探すことになります。
 どんなところに化石が出やすいかを考えながら、そして経験をつみながら、化石について学んでいきます。そのようにして、やがて、化石少年へとなっていきます。
 いいたいことは、いい化石や珍しい化石を自力で探そうとするとき、まず地層を見ることからはじまるわけです。化石がどのようなところ見つかるかを知りたければ、地層についても思いを巡らすことが大切になってきます。観察会でも単に化石採集をするだけでなく、地層のことをもっと知ったもらいたいと考えています。ところが、化石採集を加えることによって、地層への記憶が消えていくのです。
 化石を発見したいという気持ちは誰もが持っています。観察会では、化石を採集を通じて地層を考えることが目的ですので、講師は化石のたくさん出る地層の場所に連れて行きます。講師は、化石を導入にして、化石だけなく地層を見て欲しいと思っているはずなのに、よく化石が出る地層に案内したために、地層をよく見れなくなるとジレンマが発生します。
 自力で化石を探そうとする場合だと、地層をよく見ることからすべてがスタートしてます。基礎として地層をみることを、化石をたくさん取るという代償のために払ったことになります。さてさて、化石採集は地層を観察するために、本当にいい方法なのでしょうか。化石という宝探しは、楽しいものですが、楽しいがゆえに、大切なことを忘れてしまうようです。困ったものです。でも、化石を自分で探したことがない人たち、実際に触ったことない人たち、肉眼で見たこともない人たちも増えています。自然の神秘を感じさせてくれる素材が身近にあるのに残念です。

・子供の集中力・
 我を忘れることは、大人にはなかなかありません。いや、我を忘れることがなかなかできなくなっているのかもしれません。それは、理性が抑えているのかもしれません。そのために、時々お酒を飲んで羽目をはずすしたり、祭りで集団的にハイの状態で我を忘れるのかも知れません。
 ことろが、お酒を飲まくても、子供は、瞬時に我を忘れるほど、のめりこめます。私の次男は4歳ですが、面白がことがあるトイレに行くことも忘れるほど、我を忘れて熱中してしまいます。そして、時々、手遅れになり、下着をぬらして、私や家内に怒られています。
 でも考えてみると、そこまで集中してものごとに取り組める子供をみていると、うらやましい限りです。
 ところが6歳の長男は、そんなことはあります。生理的な理由もあるのでしょうけれども、どうも人間は、成長するにつれて、ものごとにのめりこむための集中力が低下していくような気がします。ひとつのことだけでなく、他のことへも注意を払っているのです。その分、集中力は分散していきます。
 これはなにも人間だけでなく、動物にも通じることかもしれません。このような注意力を分散する能力は、生きていくためや社会生活を営むために必要なことなのでしょう。でも、どうも、重要な能力を、加齢と共になくしていくような気がします。これは成長でしょうか。少なくとも集中力においては、歳とともに衰えていくように見えます。
 生きていくということは、さまざまなことに対処する能力を持たなければなりません。でも、本来持っていた優れた能力をなくしていくのは、どうも納得できません。これは、私の思い過ごしでしょうか。

・キャンプ・
 今年の北海道は暑いです。私がきてから2回の夏を過ごしたのですが、冷夏で涼しい夏しか味わっていませんでした。私には久しぶりに暑い夏です。
 皆さんは暑い夏をアウトドアなど野外へ出かけられるでしょうか。我が家は山や川が好きです。でも、人の多いところかは苦手です。幸い北海道は広いため、場所さえ選べば、そんなに人の来ないキャンプ場もたくさんあるようです。そんなところを探すのも楽しみになりそうです。なんといっても、自然が一番の魅力ですから。
 キャンプは、私自身がしたいことでもあります。若いときからキャンプは、野外調査のたびにしてきました。それも自然の中で一人でするようなキャンプが多かったのです。私もしばらくキャンプはしていませんので、久しぶりにキャンプがしたくなってきました。
 今までは子供が小さかったのでできなかったのですが、次男がやっと外でトイレができるようになったので、今年からキャンプも可能になりました。
 大学は、今、試験期間です。冷房もない暑い条件で学生たちは試験に励んでいます。でも、彼らには試験の後は、待望の暑い夏休みが待っています。教員には採点の地獄が待っています。
 私は採点の合間を見つけて、家族でキャンプに行こうと思っています。今日(7月30日)、私の担当の科目の試験が終わったら、家族で近くのキャンプ場に出かけるつもりです。

2004年7月1日木曜日

30 都会の自然愛好家(2004年7月1日)

 今回は、川と自然愛好家が素材です。少し話が入り組んでいるので、ご注意ください。理解を助けるために【つぶやき】を入れました。

 川というと、どのようなものを思い浮かべますか。人によって川も大きな大河から、小さな小川を想像する人もいるでしょう。生まれ育った時代や環境によっても、家族の生活の仕方によっても違ってくるでしょう。
 私は、こんな河原を想像しました。一級河川と呼ばれる大きな川の中流です。川が少し蛇行していて、私は、石ころの多い河原に立っています。しかし、河原を見渡せば、砂のあるところ、草が生えているとろもあります。高さ10mほどあるような堤防が川の両側にはあります。しかし、堤防は草に覆われて、緑の丘のようにみえます。そして川の流れは、河原の近くには流れが穏やかで、奥には少し淀んだ淵があります。すぐ上流と下流に音と立て流れている瀬があります。
 さてこんな河原についたら、皆さんならどうされますか。もう夏ですから、泳いでみたいと思われますか。それとも事故がこわいから、眺めるだけにしますか。あるいは、魚釣りをしてみたいと思いますか。それとも汚いかもしれないから、河原で遊んでいますか。植物が好きだから、堤防や河原の草を眺めますか。虫取りでもしますか。
 河原に出たときに、何をするか、どうするかは人それぞれです。でも、河原にきたからには、何かしてみたいと思いませんか。都会で過ごされた方は、もしかすると、そんな気がおきないかもしれません。子供のころ、似たような大きさの川で遊んだ経験がある人は、この川は泳いでも大丈夫かはある程度、判断できるでしょう。
 私は泳ぎたいですね。私が子供のころは、京都の木津川の中流域で遊びました。木津川は自宅からは少し遠かったですが、自転車を使えば、子供でもいける距離でした。夏になると、木津川で泳ぐ人のために近鉄奈良線には臨時駅ができ、小さい頃に父に連れられて泳ぎに来った記憶もあります。深い淵は、父しか泳がなかったですが、小さかった私は、浅い所や瀬で遊んでいました。しかし、あの川の水泳場はいつの間にかなくなってしまいました。1960年代中ころにはなくなったようです。
 その頃から、高度成長期で建築用に川砂利がいたるところで採取されていきました。そのために、川が濁ったのと、人工の深い池や深みがあちこちでできたので、川での遊泳は禁止となりました。今はどうなっているか知りませんが、子供心に川が変わり果てる姿を見てしまったような記憶が残っています。
 都会の子供たちは、自然のままの川で遊んだ経験があるのでしょうか。親がアウトドアなど野外出ることの好きな家庭の子供や、田舎に古里がある子供たちは、私と同じような川の思い出ができるかもしません。そうすれば、春の小川やメダカの学校の歌を聞いても、情景が思い浮かぶのでしょう。しかし、都会だけで育った子供たちに、棚田の景色や、飛び交う蛍、川での魚釣り、川での水遊びに、ノスタルジーを感じるでしょうか。
【つぶやき:さてさて、ここまでの流れだと、自然の川を取り戻そうという趣旨に展開しそうですが、少し視点が変わります】
 戦後急激に、このような野生を残す川が、全国的なくなってきたような気がします。特に人口の多い地域での変化は激しいのではないでしょうか。しかし、これは、ある必然があったのです。蛇行をして、しょっちゅう流路を変えるような川の周辺は、農業だけでなく、住居としても不適切です。まして、人口が増えてくると、野生のままの川ではたまりません。これは川周辺で住むとき皆が望むことです。
 川の周辺に住むということは、いいときの川だけでなく、危険なときの川とも付き合っていかなければなりません。どちらかというと、人は危険なときにこそ備えているはずです。堤防も蛇行の直線化も、ダムの建築も、すべて治水のためなのです。平野を流れる川が、蛇行をしていて、流路を変えていくようでは、都市計画ができません。このような治水によって、日本は平野での人口の増加をすることができ、産業も発展したのです。
 しかし、治水による代償も大きかったと思います。野生の川から切り離された都会が至る所にできてしまいました。都会では川はもはや、強大なコンクリートの溝となってしまいました。あるいは、コンクリートやアスファルトの下に隠されているところさえあります。
 それと何といっても、川について、都会と地方の格差ができました。都会は野生からますます切り離されていき、今も進行中です。そして、田舎は、そのスピードが遅く、未だに野生が残されている反面、野生の脅威にさらされています。
【つぶやき:川の現状の矛盾に行き着きました。しかし、ここからは自己の矛盾に行き着きます】
 私は都会と田舎の中間に住んでいます。よく考えると、都会の生活をしています。私自身は野生が好きで、野生の中で過ごしたいと思っています。しかし、仕事ややりたいことを考えていくと、現状が妥協点となったわけです。私は、大いなる決断で自然に向かいましたが、中途半端に終わりました。そんな自分を見ていると、すごく矛盾を感じます。
 もしかするとこれは、都会に住む自然愛好家すべてが抱える矛盾なのかもしれません。自然が好きでそこに密接に関係して生きていきたくても、生活するには、都会からは離れられないのです。これが私たちがつくり上げた文明なのです。
 人間には、手付かずの川のような野生は不要でしょうか。もちろん必要だと応えるでしょう。しかし、それは、いいときの野性の川を想像して応えてないでしょうか。自然を守れ、野生の脅威を思い知れ、などという発言者が、都会に住んでいたるとしたら、その発言にどの程度の説得力があるでしょうか。人工的に作られた過ごしやすい環境、夜も煌々とした灯りの元、エアコンの中で、テレビやビデオ、パソコンを利用し、文明の益を享受している自然愛好家の発言は有効でしょうか。
 これが、私たちが求めてきた理想とする文明だったのでしょうか。もちろん求めなければ、こんな生活は手に入りません。そんな都会に住み、生活の糧を得ている人は、いくら野生や自然も求めても、生活基盤を野性の中に移すことはできないでしょう。勇気ある一握りの人しかできないでしょう。
 そんな都会に住む自然愛好家は、一時的に、ノスタルジーに浸るために、野性の中で過ごします。そのためには、休日に出かけるしかありません。でも。雨が降ると出かけるのをやめるだろうし、花や紅葉の季節なら見ごろのところを選ぶでしょう。つまり、いいときの野性しか味わうことをしていないのです。そんな野生は本当の野生ではなく、ある一面の野生に過ぎないことは、少し考えればすぐにわかります。
 しかし、そんなきれい、美しいなどのいい時の自然だけを考えて、その自然を残せとついつい主張してしまいます。都会に住む私のような自然愛好家は、都会の不夜城のような家にすみ、エネルギー大量に消費しながら、いいときの自然だけを味わっているのです。こんな都会の自然愛好家の意見は、本物ではあえません。私以外の多くの自然愛好家が、私のような堕落した自然愛好家でないことを祈ります。
 また、自然の中で生きているからといって、自然愛好家というとそうでもないはずです。
 自然の中で野性の川の周辺に生活している人は、いいときだけの野生の川だけではなく、凶暴な野生の川とも一緒に過ごさなければなりません。だから、ある田舎の人が、自分の地域の野生も都会と同じように、コンクリートで治水して欲しいと思っているかも知れません。それを非難する権利は、都会生活者にはないでしょう。
 情緒的に野生の川を残せというのも、実はそんな無責任なことを要求しているのかもしれません。彼らが、観光資源として野生の自然を利用すること、土産物屋に転進すること、商魂をたくましくすること、これは、必然なのかもしれません。田舎だから、野生の自然と付き合えというのは、無責任です。対等に自然のよさや驚異を分け合うべきです。でも生活基盤が違うのですから、対等というのは判断が難しいですけどね。
【つぶやき:さてさて、最後になって訳がわからなくなりました。川も野生をなくしていることは事実です。それは、すべて人間の生活が良くなるようにしたことです。もちろんそのためには何かを犠牲にしました。それを懐かしんでノスタルジーを味わえる、味わえないというのは、もしかすると無責任なことをいっているのかもしれません】

・矛盾・
 私は、自然と人間の共生を考えると、いつも上のような自己矛盾に落ちいり、どうしようもなくなります。今回は、自己矛盾を素直にぶつけることにしました。このようは問いには、答えがないのかもしれません。あるいは、割り切ってやるしかないのかもしれません。でも、この矛盾を見て見ぬ振りをしているのもいけないことだと思います。矛盾は矛盾として提示し、皆で解決の方法を探るのいいのではないでしょうか。そんなつもりのエッセイでした。
 しかし、こんな小ざかしい人間の営為や思考は、自然の脅威の下ではひとたまりもないのかもしれませんね。

・長良川・
 最近仕事で長良川によく出かけるのですが、長良川は日本でも有数の清流です。河口に堰ができて、残念がる人も多くいますが、まだまだ野生を残していると思います。
 先日出かけたときも、鵜飼が始まっていて、はじめて鵜飼を見学することができました。もちろん、屋形船からではなく、堤防の上からの見学でしたが。
 川はなにも穏やかなときばかりではありません。長良川を見ていると感じます。少しでも雨が降ると増水をして、堤防いっぱいに流れが起きます。そんな流れの時には、河原の石が動いている思いきや、ほとんど動いていないのです。不思議でしたし、先入観に囚われていることも知らされました。
 先日の台風で大雨が降ったとき、長良川も増水しました。堤防内の人たちは非難したそうです。年に何度か堤防内に住んでいる人が避難することがあるようです。しかし、住人はその準備も心積もりもできています。それに、堤防内に住んでいる人には、そのような危険な地域なので税金の優遇措置もあると聞きます。
 これが自然の川との付き合い方かもしれません。鵜飼という観光資源は、野性であるから残せることなのかもれません。でも、ひとたび大雨が降れば、その被害が起こり、輪中もそんな脅威から逃れるための生活の知恵だったのです。
 しかし、そんな人間の思惑からはずれる脅威も時には起こり、野生としての川を思い知らされるのです。これの繰り返しが、川と共に生きるということなのかもしれませんね。けっして科学や技術でねじ伏せられるものではないでしょう。いずれにしても謙虚に誠実に川と向かいあうことが必要でしょうね。

2004年6月1日火曜日

29 自然への回帰(2004年6月1日)

 先日の朝、大学に向かう中で不思議な感覚に襲われました。その日の朝、道を歩いていて、林の中を通っていこうと、木々の中に入った瞬間に、その感覚に襲われました。周りの音や景色から隔離され、木々の中を草を踏み分け歩ていった時でした。突如、感じました。安らぎとも違う、えも言われぬ感覚でした。それは、大学院時代、野外調査に行ったときに、山に入った瞬間に感じたものと同じものでした。
 大学院時代に、そのような感覚を感じるようになってきたのは、地質調査をはじめてだいぶたってからでした。学部学生のときは、感じなかったものでした。北海道の奥深い山の中に一人で地質調査に入るのは、初めの頃は、恐怖でした。学問という知的好奇心と、自然に恐れおののく自分の恐怖心と戦いながら、自然の中に分け入ってたのです。これから調査に入るという強い緊張感もありました。そんな時期には、こんな感覚は感じませんでした。
 5、6年ほど、野外調査を経た後、そんな感覚を感じるようになりました。今思い起こすと、同じような感覚を感じていたのを、指導教官の言葉からもうかがい知ることがありました。学部学生のとき、その指導教官と一緒へ山に調査に行くと、山に入った瞬間、その先生は、「ああー、山に帰ってきた」としみじみと独り言をいっているのを何度か聞いたことがあります。その時の私は、これからはじまる調査の緊張で、そんな感覚は理解できませんでした。
 山や自然の中で長い時間を過ごした結果でしょうか、そんな気持ちに自分もなっていることに、ある頃から気づきました。 たぶん、その先生と同じ境地に達したからではないでしょうか。
 そして先日、そんな感覚が約20年ぶりで訪れたのです。なぜでしょうか。
 私は、自分の自然への回帰が少しずつできてきたからだと思いたいのです。博物館に勤務しているときには自然を忘れていたと反省して、この大学に来た時に、自然への回帰を目指しました。その成果ではないかと思いたいのです。そのために、2年以上の時間が必要だったのです。
 今から数えると野外調査に費やした時間は、この2年半に115日になります。もちろん、その日数の中には、移動時間もふくまれています。ですから、生の自然に本当に接していた時間は、その半分にも満たないかもしれません。自然の中で費やした時間が、多いか少ないかわかりません。私の場合、それくらいの時間を自然の中で過ごしたら、忘れていたそんな感覚が戻ってきました。
 この感覚が自然回帰の証ならうれしいものです。そしてなにより、この感覚は、非常に心地よいものです。安堵、安らぎ、恍惚、リラックス、どれもぴったりと言い表していません。恩師の言葉を借りれば、 「ああー、自然に帰ってきた」という気持ちです。
 今回の感覚は、以前味わっていたものと同じですが、その目指しているのところは、以前と現在では、ずいぶん違います。
 以前は、地質学の専門家、研究者となるべく、修行ともいうべき野外調査をしながら、専門的な経験を積むべく、自然を見ていました。そして、そんな修行時代を越えて、自分なりの野外調査の仕方が身に付いたとき、そのような不思議な感覚が生まれたのかもしれません。自信ともいうべき裏づけで自然への接し方が固まったときなのかもしれません。
 でも、そのような専門的な見方は、ある一面でしか自然を見てない落とし穴であるということに、ある時に気づいたのです。
 地質学をはじめるまでは、山に行っても、その自然全体を、いろいろな面で楽しんでいました。花や昆虫、鳥、野生動物、景色、もちろん化石も石ころも、いろいろなものに興味があり、広く自然を楽しんでいました。
 でも、地層があったり、岩石が出ている崖は、素晴らしい景色とは、なぜかいつも反対側にありました。その崖を面白いと見るために、知識や好奇心を常に地層に向けなければなりませんでした。そしてやがては、景色なんかどうでもいい、地層や石のほうが面白く、興味深いものになってきました。もちろん自然中で野外調査をしますから、地質学以外の対象も目に入ります。しかし、地質学の対象以外は、すべて自然という背景になってしまいました。まるで灰色の背景のように色あせたものとしか映っていませんでした。
 研究者を目指しているので、そのような見方になっていくのは、仕方がないことかもしれません。でも、専門家になるに従って、だんだん大切なものを捨ててきてしまってきたような気がしたのです。専門家であった時は、それには気づきませんでした。
 博物館にいた時は最もひどい状態でした。博物館の学芸員として、自然の大切さを人に説きながら、自分は極端に自然への接触が少ないという、異常な状態になっていたのです。そのことを職を離れたときに、はじめて気づきました。さらに、自然から離れると同時に、野外に結びついた地質学も離れていきました。まさに机上の学問をしていました。その結果、自分自身が、自然を見る「いびつな目」しか持たないということに気づいたのでした。私は、このような状態を「Scienceに毒された」と呼んでいます。その頃の私は、まさに「Scienceに毒され」ていました。
 もちろん、研究者として、対象物に集中することは、決して悪いことではありません。でも、すべての地質学者が、崖しか見えないような目で自然を見ることが、恐ろしいのです。そして行き着く先は、そのような見方以外の見方をする人や考えが現れると、異端と見なす風潮です。
 多様な視点で考えることによって、より大きな展開や発展が起こることもあるでしょう。多様な視点は、一人の人間においても、地質学者の集団においても、必要なものです。地質学者の集団であれば、多様な地質学者の存在が必要で、その存在をみとめる集団であるべきです。しかし、現実はなかなか難しいものがあります。
 私は、この2年半で私なりの自然への接し方を学んできました。もちろん、その接し方も、人それぞれ、多様であるべきです。私のおこなっている方法が、すべてでもないし、ベストでないはずです。
 私は、ひねくれ者で、人と同じようなこををするのは好みません。それに、問題の一番の根元、興味の一番の根源までに遡り、考えていきます。できれば、自分流を創りたいと考えています。
 皆がコンピュータを駆使して、授業をよりわかりやすくするのを目指すなら、私は、自分の言葉と黒板だけを使って、授業を成立させようとします。そこから人の気づかない何かを見つけたいと考えます。地質学者が見向きもしない、河原の石ころや、海の砂、それをなんとかScienceにできないかと考えてしまいます。
 私の見方ややり方は、多数の専門家からすると、多分時代に逆行していたり、邪道に見えたりするでしょう。でも、そんな見方が、必要な時がくるかもしれません。そこから生まれた知恵がもしかすると、新しい大きなブレークスルーとなるかもしれません。多様さをその中に抱え込み、その存在を是認できるようなコミュニティになることを願っています。

・奇人の学説・
 ここで述べたようなことは、最終的には、結果で判断されます。これが科学のいいところであり、つらいところでもあります。でも、無名のものでも、どんなに奇人であっても、成果がでれば、評価されますし、大きな成果であれば主流へとなっていけます。一方、成果が出なかったり、評価が悪かったりすると、それは、ただの奇説、珍説にすぎません。歴史にすら名を残しません。
 多分、このような試みの多くは、成果が出ずに、変人、奇人の学説となっていったはずです。でも、もしかすると万に一つの可能性が見込めるなら、私は、それにチャレンジする側に進みたいと思います。だって、同じ一生を生きるなら、誰も考えていなかったことにチャレンジながら生きていきていた方が、ずっと面白と思いませんか。その方が、大変かもしれませんが、夢があるのではないでしょう。私は、平々凡々の3流科学者で終わるより、見果てぬ夢を追いかける奇人の科学者でいたいと思います。
 でも、そんな奇抜なアプローチこそが、大発見、大発明を生んだことは、歴史が証明しています。私が、大発見や大発明をするとは限りません。でも、もしこのようなやり方で、成果がでれば、誰もなし得なかったものとなるはずです。見果てぬ夢でしょうかね。

2004年5月1日土曜日

28 越境した学問(2004年5月1日)

 自分の目指すべき学問への道、あるいは学問の方法論について、いつも悩んでいます。何か新しいことをはじめたいときに、新しい分野の学問について、学ばなければなりません。そんなとき、特に強くこのような悩みがわいてきます。

 ある分野の学問の歴史や進歩の程度によって、初学者がその分野に入りやすいどうかが左右されます。つまり、適切な教科書やわかりすい学問体系、教育体系などがあるかで、大きな違いがあります。もちろん、体系立っていたり、適切な教科書がある分野の多くは、長い歴史があったり、研究が進んでいたり、多くの研究者がいたりします。
 もしそのような分野の研究者を目指すには、教育体系もありますから、そこもで学べばいいのです。ただし、すぐれた研究者になるには、なかなか大変です。学ばなければならないことも多いし、ライバルもたくさんいます。しかし、他の分野の人間がその分野の基礎知識を学びたい場合には、このような学問体系は便利です。数学や物理学、化学、生物学などの大きな体系は、その好例でしょう。
 ところが、まだ始まったばかりの分野や、研究者が少ない分野では、教科書や体系がなかったり、相談すべき専門家も見つかりにくかったりします。すると、初学者は、そのような体系を学ぶのには苦労します。苦労はするでしょうが、いったん基礎的な体系や視点を身につけると、その分野では、やるべき仕事がたくさん見つかり、いろいろなアイディアのもとに、自由で面白い研究ができるでしょう。環境学や複雑系などの分野がそのような例となるでしょう。
 私は、地質学を専門としています。ですから、地質学の分野の論文や動向などは、ある程度把握しています。また、少々その分野を離れていても、論文を読んだり専門家の人的ネットワークを利用すれば、最先端や最新の動向はつかむことができます。これがある分野で長年培ってきた財産でもあるわけです。
 でも、地質学から他の分野を目指そうとすると、なかなか大変です。そんなときは、まず、自分は別の分野の専門家であるということを、鮮明にして他の分野に乗り出すことがひとつの採るべき方法です。
 私は以前、廃棄物に関してあるめぐりあわせで関与することがありました。廃棄物は、環境学の一部で、工学の分野の人がその研究の中心となっています。ですから、廃棄物学会も、工学部や関連の企業に多くの会員を持つ学会となっています。私は、廃棄物に関して、一時研究をして、他の分野への関与する経験をしました。そのときの話を少ししましょう。
 ある企業が、焼却灰を還元的条件で溶融して固体化する試験的プラントを作っていました。ある時、その溶鉱炉の溶融物を出す出口が詰まって壊れてしまいました。溶鉱炉を停止しましたが、自然冷却をするしかありませんでした。冷えた後、壊れた溶鉱炉を解体すると、中から石のようになった焼却灰が溶けて固まったものが出てきたのです。その固形物がどのようなものかという鑑定を依頼されました。
 その固形物をよくみると、まるで火山岩のような見かけをしていました。考えてみると、融けた焼却灰はマグマと同じで、溶融物が自然冷却するというのは、マグマが地表で固まるようなものです。つまり火山岩のでき方と同じでした。もちろん、自然のマグマと焼却灰を還元的条件での溶融物とは、まったく化学成分は違っています。でも、マグマが冷却して、どのような結晶が、どのような順番でできるのか、というようなことは、私の岩石学の知識がそのまま使えるのです。
 私は、顕微鏡観察や、各種の化学分析をして、その固形物を調べました。そして、そのような石は、天然のものと化学組成は違っているのですが、溶融物が冷える条件を探ることが定量的に解明できました。またその固形物に似ているものが天然にもあり、安定していることや、鉱業製品として利用価値があることを示しました。そしてそのような固形物を、均質に作るには、ある組成を範囲であれば、少々の変化がおこっても、ある冷却方法をとれば、同質のものができることがわかってきました。
 また、固形物は、有害物質のチェックさえ通れば、自然物と同じですので、そのまま捨てることも可能ですし、商品としての使い道も出てきます。焼却灰の処理としては有望な方法であることがわかりました。
 たった1年ほどの間にでてきた成果です。私は、地質学という分野に立脚して、別の分野に乗り込んだのですが、廃棄物の専門家にとって、私のアプローチは新鮮に感じられたのでしょう。廃棄物学会で私が発表をしたときも、議長は、「演者は理学的背景で研究されています。工学的、あるいは応用に関しては、廃棄物学会のそのような分野のものたちが責任を果たすべきでしょう」という意見をくださいました。
 しかし、議長が会場に質問を求めたのですが、質問がなかったので、「ああ、やはり別分野の人間は発表は興味をもたれないのか」と思って講演を終わりました。その講演会場では、私の講演が最後でしたので、講演会は終わりました。すると終わったと同時に、多くの企業や関係分野の研究者の方々が私のところに集まってこられて、つぎつぎと質問されました。もしかすると、営利的な目的があったのかもしれませんが、内容がこの分野の人に興味をもたれていたようでした。
 もちろん、このような発表するために、私は廃棄物の勉強をしました。しかしまだ、学問の歴史が浅く、工学的な分野の集大成はいろいろありますが、理学的、あるいは純粋に理論的な部分は、まとまっていないように見えました。ですから、私のような初学者が、発表する場があり、関心もあったのでしょう。
 その後、この成果は、廃棄物学会の雑誌に査読を受けた後、学会誌に掲載されました。つまり、その成果が認められたのでした。環境地質学などの自分の専門に近いところでも発表しました。そして、2年ほどにわたるこの研究を終わりました。このような越境ともいえる学問を通じて、私は、他の研究分野へ、このような関与の仕方もあるのではないかという教訓を得ました。
 私は、地質学を背景として未だに研究をおこなっています。これからもそのような立場で研究をおこなおうと考えています。そしてできれば、誰もやったことのない地質学的成果を挙げたいと考えています。
 しかし、理学的な研究をおこなうだけではなく、地質学と他の分野を融合した学問を、2つ展開したいと考えています。ひとつは科学教育(あるいは地質学教育)、もうひとつは地質哲学です。
 科学教育は、もうすでに学会がいくつかあり、学問として体系が作られつつあります。私も地学教育学会に参加し、そこで共同研究などもしています。こちらは、はじめて、5年ほどたちます。ですから、専門家というべきなのかもしれません。
 一方、地質哲学は、まとまった体系も歴史もありません。地質学者で哲学的観点で、それを専門として仕事をされている方は、私は、知りません。過去には何人かの研究者がおられましたが、現役ではおられないようです。地質哲学は、私が自分で作る分野だと威張っています。そして、地質学という理学的背景を常にもって、関与したいと考えています。でも、これは目指すべき夢であってまだ、成果は出ていません。でも、今後の生涯をかけておこなってもいいほどの面白いものだと考えています。
 私は、地質学という科学も専門としておこない、さらにその学問に関する最適の教育方法を確立し、そして科学や教育、地球、自然、倫理などのすべての考え方の根本として地質哲学を作りたいと考えています。つまり、私がめざす理想の研究者像が、これなのです。ですから、これはライフワークになるのです。

・ゴールデンウィーク・
 今年のゴールデンウィークは、大型連休だそうです。確かに、休みだけを考えても、5月1日から、5日ほど休みが連続します。我が家でも、この大型連休を利用して出かける予定です。つまり、このメールマガジンは、事前に予約をして発行していますので、このメールマガジンを皆さんが読まれるころは、私は、旅行に出ています。
 ただし、大型連休ですから、観光地は混んでいることでしょう。混むところは大変なので、北海道でも、あまり人が行かない場所を選びました。道北地方です。
 自家用車を使って、海岸線を留萌から宗谷岬からサロマ湖あたりまで巡ります。もちろん、私は調査が目的です。海岸線で調査もします。川も、留萌川(再訪)、天塩川、渚骨川、湧別川を調査する予定をしています。
 天候や山の雪が心配ですが、行く前から悩んでいても、仕方ありません。行くしかありません。じっとはしていられない季節となりました。長く雪に閉ざされた北国の春は、格別です。やはり冬を乗りこえたものだけが感じる春のありがたさを満喫してこようと思っています。5月の北海道は花の季節を迎えます。
 皆さんの大型連休の予定はどうなっていますか。

2004年4月1日木曜日

27 時間旅行者(2004年4月1日)

 私は、最近、GISというものをかじっています。GISというのは、Geograhic Information Systemsの頭文字をとったもので、地理情報システムと訳されています。私は、まだ入り口付近で、うろうろしていますが。

 私がGISをかじろうとしているのは、GPSがそもそものきっかけでした。またまた、アルファベットですが、GPSとは、Global Positonig Systemというもので、カーナビに使われている位置を知るためのシステムと同じものです。人工衛星の電波をキャッチして、位置を正確に求める装置です。この装置を、私は、昨年の夏から地質調査に導入しました。
 ポケットに入るほどの小さな装置で、誤差15mほどの精度で位置を求めることができます。緯度、経度、標高などの位置情報を、GPS装置が作動中は連続的に記録していくことができます。つまり、自分がもって移動すれば、歩いたルートや車で走ったルート、飛行機で飛んだルートなどに沿って、ある時間間隔で位置情報が自動的に記録できるものです。このGPS装置のデータを、パソコンに送り読み取ることができます。
 もちろん欠点もいろいろあります。人工衛星のデータを取り込むのですから、空が見通せるところでないと作動しません。屋内、森の中など空の見通しのわるいところでは、人工衛星を捕捉することができずGPSは位置情報を正確に求めることができません。また、位置の精度が15m程度ですから、それより詳細な精度を要求する調査では利用できません。GPSは電源が必要です。私の使っているGPSは、単三電池2本で3日ほど作動します。ですから、3日以上連続して電池がなくなると記憶ができません。まあこれは予備の電池を持てば解決できますが、問題は、1台のGPSに記憶できる情報には、容量の限界があります。ですから、パソコンでそのデータを取り込む環境がないと長期の調査には利用できません。したがって、電気の供給ができないような地域では、発電機やパソコンなど大量の設備が必要となります。とても個人では、利用できません。
 でも、日本のように電気がどこでも自由に利用できる地域では、大いに重宝します。なんといっても、位置情報をデジタルで自動的に記憶しておけるので、非常に便利です。そして、そのデジタルデータをパソコンに取り込めれば、手間をかけずに、位置情報をパソコンで利用できるようになります。
 パソコンでは、GPSの位置情報を有効に使うために、地図をデジタル化した数値地図というものを利用します。この数値地図には標高データを加えることもできます。このような仕組みを統一的におこなっているのがGISというものです。私は、まだ、GISを扱うソフトは使っていません。数値地図とGPSのデータを扱えるソフトを使用しています。
 数値地図とGPSデータを一緒に表示すれば、デジタル化された位置情報が地図と一緒に扱い、表現することもできます。これは、私とっては画期的なことでした。まさに目からうろこが落ちた思いでした。
 今まで私は地質調査というと、アナログ地図を必要に応じて、使いやすい縮尺のものを用意し、その地図にどこを調査したか、どこで試料を採集したのかなどを手作業で記入していました。限りなくアナログ的な作業でした。
 そして、位置のデータを地図から読んで、数値化するときには、読み取り誤差ならまだいいのですが、読み取りミス、入力ミスをすることが起こります。このようなミスは、致命的でした。調査した人ならは、そのミスを修正することは、かつての調査資料や記憶を頼りに、何とか修正可能ですが、一人歩きしたデータは、もはや修正することはできません。破棄するしかありません。いずれにしても、人の手作業で大量の情報を処理するときには、ミスが起こりえます。これは、どうしようもないことです。
 私自身そんなことをいろいろ試行錯誤しているうちに、数値地図とGPSに出会いました。これらを用いることによって、今までの苦労から嘘のように開放されたのです。その使用した方法や考え方を論文に書いて、その効用を地質学者に知らせました。
 さらに余禄というには大きく過ぎる利益もありました。手作業によるミスからの開放だけでなく、ルートマップや位置のデジタル保存や、断面図をパソコンで作画したり、位置データの地図上で可視化もできます。また、共通のファイル形式で保存すれば、他のソフトでデータベースとして利用できます。そして、パソコンの得意とする複雑な計算や表示、修正や更新など自由に、たちどころにできます。
 GPSと数値地図は、位置(緯度と経度)の2次元情報だけでなく、標高データも持っているといいました。ですから、地形の3次元描写も可能となります。空から見たような図、いわゆる鳥瞰図を簡単に作成することができます。また、3次元描写の位置、つまり視点を少しずつずらしながら、作画していき、連続的に見せれば、それは動画となります。まるで、鳥が空を飛びならが地上を見ているような動画を、仮想ですがコンピュータ内で生み出すことができます。鳥の目だけでなく、飛行機や人工衛星からみたものも、同じ原理で作り出すことができます。
 さて、今までGPSのすごさと、地質学者の手作業の不便さを述べてきましたが、じつは、そんな手作業にも実は重要な側面があるのではないかと考え始めました。地質学者は、地質調査から地質図を手作業で作りながら、もっと高度のことをやってのけているのではないかと思い至ったのです。
 地質調査で、ある地点を調べたとしましょう。そこには、特徴のある火山灰層があったとしましょう。その調査位置は、地図の上では、点にしかなりません。しかし注意深くその火山灰の層を調べて、どのような広がりを持っているかは、地層面の面情報を詳しく読み取ることで、連続性を予測することができます。このような地層の面情報は、地質学では、走行と傾斜という測定値で示すことにしています。
 地質調査を、ルートにそって続けていくと、それは曲線として、2次元の線情報となっていきます。先ほどの火山灰が、一つ尾根を越えたところにあると予想でき、そしてその予測を現地調査で確認することができれば、他の地層も同様に広がっていることがさらに予測できます。ルート調査を周辺に広げていくと、調査していないところも、連続的に地層が続いているということを、火山灰のような証拠から正確に予測できるようになります。
 このような地層の連続性を精密に調べるために、地質図学という数学的根拠に基づく図学的手法を使うことによって、線的な情報を2次元でも面情報へと広げることができます。これは、完全な2次元情報として意味をもってきます。このようにして地質図はつくられていきます。
 地質図は、地層の面的な広がりだけでなく、3次元的な情報として読みとっています。ですから、地質図とは地表面だけの情報だけでなく、3次元的な表現も可能です。つまり、地下を考慮した断面図も作成することが可能です。ただし、あまり深くまでは、地層の連続性が保障されませんので、ある程度の深さまでしか断面は描かれません。
 ここまでなら、地質図も3次元表現をしているということで、話は終わってしまいます。パソコンにも当然できることです。ところが、地層には、時間も情報として持っています。地層からは、いつできたのかという情報を化石や年代測定から得ることができます。そして、その時間軸にそって時間を巻き戻したり、できた順に地層を付け加えていったりして、その地域の地質学的な歴史を知ることができます。このように考えていくと、地質調査とは、4次元世界を再現する作業だといえます。
 ただし、これを図示できるかどうかは、研究者の描写能力も必要です。また、連続的に時間経過を動画として表現することは難しいものです。文章でしか再現できないこともあります。その良し悪しは、科学とは違う個人の表現能力という別の問題となっていきます。あるいは、描写能力の不得手の研究者は、淡々とした論文を書いていきます。しかし、彼の頭の中では、すばらしい過去の情景が展開されているかもしれません。
 地質学者は、そんな他の人には見ることをできない時間旅行のようなことを楽しんでいるのです。もしかすると地質学者とは、科学という舞台で、時間旅行をするのが好きな旅人なのかもしれません。こんな楽しみは、コンピュータでは、今のところ味わえないものです。

Letter
・節目の季節・
 多くの組織では、4月は変わり目です。4月1日を境目にして、組織を離れる人、新しく加わる人、いろいろなドラマがあります。組織自体は変わらないとしても、構成員の入れ替わりがおきると、もともといた組織構成員も、やり気持ちが変わってきます。
 我が家でも、この節目に、長男が幼稚園を卒園して小学校に入学し、次男が幼稚園に入園します。私が属する組織では、自身の身分に変化はありませんが、大学とは学生が出入りするところですから、否応なく年度の変わり目を感じさせます。そんな変わり目の季節を、人それぞれに感じているのでしょう。
 こんな変わり目を、自分自身の目標達成のために、一つの区切りに利用することもは、誰でもしていることでしょう。意識しないでおこなっているかもしれません。新しく来た人にはこんなことをしてみよう。この1年は何をしようか。何ヶ年計画の何年目だから、どこまで進もう、新しい年度からはこんな取り組み方をしてみようなどということを考えていることでしょう。
 そんなことを、この3月末に、エッセイを書きながら考えていました。

2004年3月1日月曜日

26 少ないものと多いもの:シニョール・リップス効果(2004年3月1日)

 このごとを調べるには、調べているものの性質をよく理解しておく必要があります。「何を、当たり前のことをいっているのか」と思われるかもしれませんが、これが、難しい場合もあるのです。そんな話をしましょう。

 こんな調査をしたとしましょう。一般の道路を通る車の調査です。朝の7時から9時までの時間帯をビデオ撮影して、その映像から、どのような車が通ったかを調べるのです。たくさんの車(全部で4,000台とでもしおきましょうか)が、この道路を通ったのをビデオに記録されていました。統計量としては、十分な量でしょう。
 その結果は、乗用車、トラック、バイク、自転車、「その他の車両」の順で多かったとしましょう。「その他の車両」とは、救急車、パトカー、消防車、霊柩車としておきましょう。
 ある人が、このビデオを見ていて、「その他の車両」が気になりました。そして、よくビデオを見てみて、統計をとったところ、つぎのようなことに気が付きました。救急車とパトカーは、7時から9時までの間に、時々通りました。ところが、消防車は、7時から8時までは何度か通ったのに、8時以降は一台もとおりませんでした。逆に、霊柩車は、8時までは通らなかったのが、8時から9時までの間には通りました。
 このような結果から、その人は、「この道路は、消防車は8時まで通り、霊柩車は8時からしか通らない」という説を出しました。あなたはどう思いますか。この説は変だ、と思われる方が多いと思います。
 この説は、上で説明したようなデータに基づいて述べられたものです。どこがおかしいのでしょうか。それは、調べている個々のデータが、一般道を走る車であるという性質を考慮に入れなかったからです。車というものは、特殊なものは台数が少なく、統計的に十分な数を得られないせいでしょう。
 では、どうすればいいのでしょうか。時間帯を限定しているため統計量が少ないのあれば、何日も、たとえば1ヵ月間同じ時間帯の記録をして統計をとれば、十分な数になるでしょう。時間帯を区別してないなら、何時間も、たとえば、48時間記録をとれば、いいのではないでしょうか。このような調査をすれば、たぶん、上のような間違った結論は出ないのではないでしょうか。
 でも、このような調査を実際におこなうとなると、非常に大変です。よっぽどの目的意識がないとできない作業です。もしかすると、思い通りの結果が出ないかもしれません。それに、上で変だと思った説と同じ結果がでるという確率も、ゼロではないのですから。
 ものの性質を考えるべきだということを冒頭で述べましたが、上の例を、次のように展開してみましょう。ビデオテープを地層に、車を化石に置き換えるとどうなるでしょうか。同じような結果を素直に信じてしまいませんか。ものの性質を十分考慮に入れているでしょうか。
 恐竜は、白亜紀の終わり(K-T境界といいます)に絶滅したということを多くの人は、信じています。その絶滅は、K-T境界に向かって、少しずつ種類を減らしていたのでしょうか。それとも、白亜紀の終わりまで生きていて、K-T境界でいっせいに絶滅したのでしょうか。現在は後者だと、多くの研究者は考えています。その原因は、隕石の衝突によるものだとされています。恐竜の隕石による大絶滅は、多くの人が知っていることです。ところが、隕石衝突による絶滅説にいたるまで、ものの性質を考えなければならないという問題が生じたことを知る人はあまりいません。
 恐竜の化石は、どの地域でも、どの時代でもたくさん出るというものではありません。まして、白亜紀の終わりの地層が連続してある地域で恐竜の化石がでるところは限られています。世界でもいくつかの地域でしか見つかりません。恐竜の化石は、最初の例でいうと「特殊車両」なのです。ですから、白亜紀の終わりよりだいぶ前から恐竜の化石がみつかならないとしても、それは、上の「特殊車両」の効果の可能性があります。
 化石における「特殊車両」の効果を、そのようなことを調べたふたりの研究者、シニョールとリップスの名前を取って「シニョール・リップス効果」と呼んでいます。いいかえると、突然の絶滅があったとしても、化石の証拠からは少しずつ絶滅していく(漸進的といいます)ように見えることがある、ということになります。
 それと、もうひとつ重要なことは、「ない(不在)」を証明することの困難さです。特に、頻度の少ない特殊車両や珍しい化石は、ある時間以降「ない」ということを証明することは、論理的には不可能となります。
 もし、存在と不在の関係が方程式化されていれば、「ない」は証明できるかもしれません。確率で表されていたとしても、確率がゼロでなければ、「ない」は証明できないのです。ところが「ない」の否定、つまり「ある(存在)」の証明は非常に簡単です。一個の「ある」という証拠を見つければいいのです。特殊車両、珍しい化石を、一個でも、ある時間以降にみつければ、「ない」という説を否定することができるのです。
 「ない」派がすべきことは、確率的に可能性をできるだけ下げるということしかないのです。たとえば、たくさんある車両や化石で、時間の境界の事件を調べて、その事件の実態を明らかにすれば、特殊車両が通らなくなることや恐竜の絶滅も、同じ事件で説明できるかもしれません。
 白亜紀の終わりに絶滅したもので、たくさん出る化石でそのようなことに、挑戦されたことがありました。恐竜以外にも白亜紀の終わりに絶滅した化石として、アンモナイトがあります。アンモナイトはタコやイカの仲間(頭足類といます)で、古生代のデボン紀にオウムガイの仲間から進化したもので、白亜紀の終わりに絶滅するまで生きていたものです。約3億年間も栄えていたことになります。その間に、1万以上の種が生まれました。ところが、このアンモナイトは、白亜紀の終わりに絶滅するのです。
 アンモナイトの化石は、ヨーロッパの大西洋岸の崖などで、大量の化石が地層からみつかります。アンモナイトの化石がたくさんでるスペインのビズケー湾とそれにつづくフランスの海岸にもよく出ました。その地域を調べていたピーター・D・ウォード(Peter Douglas Ward)は、アンモナイトの研究の一人者でありました。彼の今までの研究をまとめて、最後のアンモナイトは、K-T境界より、10mも下からみつかったと発表しました。つまり、アンモナイトは、K-T境界より前に絶滅していたのです。アンモナイトの化石からは、隕石衝突説が否定されたのです。
 彼の偉いところは、「証拠の不在は、不在の証拠ではない」といっていることです。化石が見つからないからといって、その生物がいなかったとはいえないということを、彼は知っていました。ウォードにとって、化石が「ある」ことにならないかぎり、この研究には終りがないのです。彼は、自分の研究成果を証明することはできませんが、自分の結論の確率を上げることはできます。論理的に「ない」を証明できなくても、確率を上げることによって、研究者を納得させれば、成果となります。また逆に、アンモナイトの化石が時代境界で見つかることは、自分が前に出した結論を否定することになります。どちらにしても、忍耐つよい野外調査が必要になります。彼は、それを続けたのです。10年間、アンモナイトの化石探しの調査をつづけました。
 その結果、1994年に「最後のアンモナイトはK-T境界粘土層の直下で回収された」と報告しました。アンモナイトは、K-T境界まで生きていたのです。彼は、偉大でした。自分の名誉よりも真実を求めることを選んだのです。
 特殊車両にあたる恐竜でも、同じようなことが行われました。確率の低いものは、広範囲を大人数で調査することによって、確率の低いことを補うことができます。そのような調査は各地でなされました。
 その結果、K-T境界の地層の中から恐竜の化石が見つかったのです。インドのデカン高原では、K-T境界の地層の中から、恐竜の卵の化石が発見されています。多分これが最後の恐竜の化石でしょう。また、コロラド州のレートン層では、時代境界の下37cmで、ハドロサウルスの化石が発見されています。これは、K-T境界の2000から3000年前まで恐竜が生息していたことを示しています。中国でも、K-T境界のすぐ近くで、恐竜の化石発が見されています。
 ここまで、各地で調べられると、K-T境界まで恐竜が生きていたのことの確かさがでてきます。そして、多くの研究者も納得するようになってきたのです。
 このように、恐竜の隕石衝突による絶滅説が科学的に根拠をもって語られるようになったのは、ある種の化石が稀なものであるという性質を知った上で、それを努力と知恵で補ってきった結果であるのです。

・統計学・
 統計の勉強をしています。集めたデータの確かさ、不確かさを如何に論理的に理解するかということを知るためです。そして、あわよくば、目では見えない何かを統計から導き出せないか、という下心もあります。
 統計学は、自然科学の基礎として重要です。自然界にある目的のものすべてを調べることは不可能ですから、ある代表的なものをサンプリングします。そのサンプルから全体を「推測」したり、調べているものの中で違いを「検定」することによって「相違」があるかどうかや「関連性」があるかどうかを知ることは重要です。1つや2つの変数なら、直感的に感じ取ることも可能かもしれません。しかし、もし感じ取れたとしても、定量化しないと、人は説得できません。
 また、変数や関連性が多数になってくると、もはや直感には頼れません。多変量解析となります。このような手法を知っているということは、重要な武器となります。
 まずは理屈さえわかれば、今はいろいろなソフトウェアがあるので、それを使えばいいのです。その理屈を知るために勉強をしているのです。
 統計学は一般化、定量化していきます。抽象化の極致として、「推測」、「検定」、「相違」、「関連性」などが数値として示されます。統計が示していることは、あくまでも、数値化された一般的なことです。一般化のときに、個々の個性は剥ぎ取られます。統計の結果は、一般化されたものであって、その結果を個々に当てはめるときは注意が必要です。統計値は、個々を語るためのものではないからです。これは大きな落とし穴です。
 統計をとるための調査、統計処理の結果をどう判断するか、あるいは仮説として提示し、自然で検証すること、そんないちばん大切なことは、やはり研究者自身がすべきことでしょう。それに、心のどこかで、統計よりも自然への直感が大切だろうなという気持ちもありますから。

2004年2月1日日曜日

25 大英自然史博物館(2004年2月1日)

 ロンドンのハイドパークのすぐ南側にある自然史博物館を2003年秋に見学した。科学教育担当の人と、鉱物の研究者に館内の案内を頼み、いろいろ見せてもらいました。そんな自然史博物館で感じたことを紹介しましょう。

 大英博物館のはじまりは、サー・ハンス・スローン(1661~1753)が集めた8万点のありとあらゆるコレクションが、彼の遺言によって国に寄贈されたことでがはじまりでした。その遺言に基づいて保管する場所として、モンダギュー・ハウスが購入され、1759年に一般公開されました。
 その後も各種のコレクションや収集物が集まり、手狭となった建物を、バガート・スマークの設計によって大増築工事が行われました。その結果、現在の大英博物館となりました。
 収集資料はその後も増え続け、何度かの増築と、新聞や図書、人類などが、別の場所へ移転されました。移転した中に、自然史分野もあり、1880年、自然史博物館が独立しました。
 ハイドパークの南側のアルフレッド・ウォーターハウスが設計した壮大なラインラント・ロマネスク様式の建築物がそれであります。骨組みは鉄骨で、内装も外装も表面は灰色と黄褐色の2色の素焼きのテラコッタで仕上げられています。幅200メートル以上ある巨大な建物です。
 1909年には、自然史博物館から科学博物館が、独立しました。現在も、自然史博物館は改修中であります。アースギャラリー(Earth Galleries)が新しくつくられ、ダーウィンセンター(Dawin CentreのPhase 1)が現在公開されています。
 自然史博物館では、1920年から集めた資料数が2200万点で、総資料数4億点で、毎年30万点ずつ増えているそうです。かつては代表的な生物標本は、世界中からすべて大英博物館に入っていました。今でも、標本は送り続けられています。
 人類の知的な蓄積がここには面々と続いています。長い歴史と知的資産を集め続けた歴史の重みを感じさせます。30万点という資料数は、日本の大規模な博物館の総資料の何割かにあたります。それが1年間に収集されているというのは驚きです。そんな資料点数を処理できる能力にも驚かされます。
 現在の自然史博物館は、従来の古典的な分類展示と新しい現代風の展示が混在しています。地質関係では鉱物の展示が圧巻です。広い部屋に累々と鉱物の分類展示がなされています。その展示点数は1万2000点です。現在見つかっている4000ほどの鉱物種の内、2000点が展示されているのです。4000種の鉱物の中には、顕微鏡で見なければならないような小さな鉱物もたくさん含まれています。ですから、目で見える主な鉱物は、ほんとんど網羅的に展示されていることになります。実物と物量の迫力です。
 そしてこの広い一般向けに展示されているのは、全鉱物資料の10%に過ぎないということです。気の遠くなるような量です。そして収蔵庫には、ダーウィンの液浸標本、南極探検のをしたスコットの岩石標本、歴史に名を成した研究者たちの標本がつぎから次への出てきました。それらの貴重な資料が、公共の施設にきっちりと保存されています。圧倒的な時間の重みと科学をリードしてきたイギリスならではの知的財産でしょう。
 世界最大のダイヤモンドの原石カリナンのレプリカ、そこから作り出された宝石のレプリカもあります。世界最大の金のナゲットのモデルも展示されています。世界一がさりげなく展示されているのです。宝石類も原石とカットしたものをたくさん展示してあります。もちろん、イギリスの各地の鉱物も展示されています。
 隕石の展示物は少しですが、分厚い本ができるくらいのコレクションも持っています。見えるところで展示されているのは、博物館の持っている資料のほんのごく一部にすぎないのです。ですから収蔵庫にある資料を想像すると、その量に圧倒されます。
 地質関係の展示は、Earth Gallerisで新しい展示がされています。資料の質は申し分なく立派です。教育に配慮された展示です。アトラクティブにするために、動く装置、操作できる装置などが、各所においてあります。ストーリーを説明するために、資料を量ではなく、重要なものを少数それも効果的に演出して見せています。このような展示は効果絶大です。「見た」という印象を強く与えます。
 でも、これは私には、どうもいただけません。できてすぐならよかったかもしれませんが、時間がたつとあちこち動く装置が壊れています。それに、ストーリー中心の展示は、一度見れば満足します。一方、膨大なる物量をもって展開された展示は、面白みは少ないかもしれませんが、あきが来ません。
 自然史博物館は、2つの方式が混在しているので、全体としては統一にかけます。ですから、全体を見た人は、混乱を起こします。私としては、自然史博物館は大量のすばらしい資料を持っているのですから、それを淡々と分類展示しているだけで、十分迫力のある展示なっていると思えます。
 そのような分類展示は、100年以上にわたって人々に見せるということを実践してきた歴史、実績があるのです。しかし、新しいタイプの展示が長い目で見たとき、それが維持できるかという保障がありません。短期間なら効果があるという実績はあります。しかし、せいぜい10年もすると陳腐化して、みすぼらしいものにあるという失敗例は各所にあります。なぜ、大英自然史博物館ともあろうものが、このような展示に切り替えつつあるのか不思議です。
 鉱物の研究者に研究室を見せてもらったのですが、そのときに新しい展示室は展示業者が考えたのだといってました。新しい展示を暗すぎるし、ディズニーランドのようだと批判していました。展示を作る人と資料を管理している人、研究者がそれぞれ考えが違うのだといってました。
 そんな批判もあってか、展示場が当初より明るくなっていました。5時を過ぎると急に展示場の明かりが暗くされました。それは、そろそろ閉館時間であることを知らせるためでしょうか。しかし、おかげで、もともとの設計どおりの明かりで展示を見ることができました。するとやはり当初の意図された展示効果はあります。代表的な資料が薄暗い展示場で効果的に浮かび上がってきます。しかし、鉱物や岩石が良く見える明るさではありません。
 ダーウィンセンターは、収蔵庫を公開して、研究者がライブで講義をおこなっています。これには感心しました。液浸標本のために、8階建ての収蔵庫を建てているのです。Phase 2では、昆虫と植物のために、地下1階、地上7階の巨大な収蔵庫が、2007年には完成させるそうです。
 収蔵庫の公開として、ガラス張りにされた収蔵庫が見られるのと、収蔵庫のツアーがあります。ライブは、300人以上いる研究者が毎日午前と午後の2回、公開で講義をしています。私は2つの講義に参加しましたが、ひとつは海の微生物の研究者と海洋環境の研究者が出演していました。別のところにある海洋博物館にきている小学生とインターネットでつないで双方向のライブ講義をしていました。もうひとつは鳥の研究者で鳥の調べ方を講義していました。
 多くの研究者がいるので、ノルマとしては、1年に1回講演をすればいいわけです。それほど負担ではないはずです。もともと研究者の研究成果を発表するのも仕事の一部ですから。市民向けであると必ずしも慣れていない人もいるでしょうが、それもしかたないことです。でも、これは非常にいいことだと思いました。

・イギリス・
 イギリスは、面積が24万4000km2(日本の約2/3)、人口が6000万人(日本の約半分)、ロンドンの人口は700万人(東京の約半分。)、緯度が北緯50~60度(日本の北海道稚内の45度より北)で、ロンドンは北緯51度(樺太の中央部あたり)です。しかし、メキシコ湾流がきているため、冬も温暖で夏も涼しい気候で、雨が年中一定量降ります。でも、天気がめまぐるしく変化します。今年の夏は、ロンドンは猛暑だったようですが、私がいった9月上旬は気持ちのよい秋の初めの気候でした。

・アッテンボロー・
 自然史博物館を見学しているとき、入り口付近に人が行列をつくっていました。博物館にアッテンボロー氏が新しく著書を出して、サイン会をするという広告が博物館のショップにありました。もしかしたと思って、よくみると、やはり、アッテンボロー氏が新しく出した著書のサイン会をしていました。さすがに自然史博物館です。有名人がサイン会を開くのです。本には興味がなかったのですが、アッテンボロー氏には興味があってので、しばらく見ていました。写真も撮らせていただきました。

2004年1月1日木曜日

24 一流の研究者(2004年1月1日)

 新年にあたってある研究者の話をしていこうと思います。私が尊敬している研究者です。そんな研究者とのやり取りを私のメモと先生への手紙から再現したいと考えています。
 ある日、自宅に帰るとO先生から別刷り(雑誌に掲載された論文のコピーのこと、抜き刷りともいいます)と挨拶の手紙が届いていました。以前から、一緒に地層境界について、論文を書きましょうという話をしていたのです。
 それは、今考えると2年前のことです。中国の調査に2度一緒に行くことになり、そのときに、私の考えている地質の哲学に関する考えと、そのはじめの取り組みとして、地層における時間と境界に関することを取り組むという話をしていました。その考えに先生も共鳴いただき、一緒の研究しましょうという話をしました。私は、概念的な部分を論文にし、そして先生は現実の先カンブリア紀とカンブリア紀境界(V-C境界とよばれています)の境界についての考えをまとめ、できれば新しい境界を提唱するという約束でした。
 先生は、昨年は体調を崩されたのですが、復調なされ、また研究を始められました。もう70歳はとうに過ぎておられます。そんな高齢にもかかわらず、こつこつと研究を続けられ、約束の論文を書かれたのです。その報告の別刷りが送られてきたのです。
 正式版は、近々学会の雑誌に投稿される予定だと書かれていました。この別刷りと手紙を読んで、自分自身のふがいなさを思い知らされました。目標としていた地質哲学に関する研究が進んでいないのです。データは集め、アイディアは漠然と持っていました。しかし、なんの形にもまだまとまっていないのです。
 高齢の先生は、大学も定年されて、研究室も持たないのに、しかも大病の後なのに、あきらめることなくこつこつと研究を続けられたのです。すばらしいことです。研究者の目指すべき真の姿を見せ付けられたような気がします。一流の研究者とは、O先生のような人のことをいうのではないでしょうか。一流とは、こういう不屈の精神力、継続性をいうのではないでしょうか。そして目指したものは、ものにしてしまうのです。
 研究条件や体調がよくなくても、その環境に応じて研究を継続されているのです。このような精神性の高さが一流の証ではないでしょうか。この別刷りのお礼と、私の近況と約束がまだ守られてないお詫びと、そして約束の履行のための決意を込めて、次のような手紙を先生に書きました。

Oさま

拝啓
(時候の挨拶は略)
 昨夜、論文の別刷りを頂戴いたしました。ありがとうございました。早速読み始めましたが、大作なので、読むのにもう少し時間がかかりそうです。ところで、昨日の北海道新聞の夕刊で、カンブリア紀の生物たちのイラストつき解説が2面の見開きカラーで展開され、O先生やTさんの名前を見かけました。なんという偶然でしょうか。また、すでにご存知かも知れませんが、8億年前の氷河期に関して、かなりの科学的な進展がおこっています。「全地球凍結」"Snowball Earth Model"というものについてです。ナミビアが舞台となっています。Paul Hoffman博士を中心に研究が大きな展開を見ています。その様子に関して、川上紳一氏が「全地球凍結 」(集英社新書)という本を書かれました。ご参考になれば。
 約束の論文に関してお詫びします。まだ、私が書くといっていた部分ができていません。この大学に来て、2年目で、その間に書いた論文が、2編しかありません。自分の環境の変化というのは、言い訳に過ぎませんが、昨年投稿して今年の春に掲載されたのが、博物館時代の長期科学教育に関する仕事で書いたものです。また、こちらに来て一人ではじめた科学教育に関する仕事は、途中経過ですが、論文を紀要に書き、昨日渡したばかりです。あと2編ほど科学教育に関する論文を、この半年ほどで書く予定をしています。
 「地層境界」に関する論文に関しても、気にはしていますが、なかなかはかどりません。O先生は大病をされたのに、仕事をされているので、頭が下がります。私も、忙しいという言い訳をすることなく、O先生を見習って、こつこつと仕事をこなしていきたいと思います。
 私の近況をお話します。言い訳ではなく、このような仕事も大切であると考え、多くの労力を注いでいるということです。
 私は、この1年半に、カナダのニューファンドランドのV-C境界をみました(2002年7月)。その他に、イギリスのスコットランドの古生代(2002年9月)、ウェールズの古生代をみました(2003年9月)。どれも、アパラチアンのIapatus海の両側の古生層を見ることになりました。私は、現地にいっても、本格的な地質調査をするというより、その地層にじかに触れ、なにか感じるものがないか、あるいは地質の典型とされるところを、現代風の地質学を身につけた私が見たとき何を感じるか、ジェームス・ハットンがみたものと同じ地層を今の私が見たらどう感じるか、そんなことに注目してフィールドワークをしています。
 これは科学ではないというそしりを受けそうですが、これには私なりの理由があります。今まで還元主義的に科学が進んだおかげで、多くの自然の真理を解明しました。しかし、還元主義的に自然を見すぎたせいで、総合的、総括的、全体的あるいは感覚的に自然をみるという姿勢を、現代の科学者がなくしてしまったような気がします。科学者全員がそんな姿勢をとれというのではありません。誰もする人がいないから、だれかがそんな姿勢で自然、地質をみる研究者がいてもいいのではないかという気がしています。
 もしそんなことをしたとき、その地質学者はいった何を見るのでしょうか。そんなことを還元主義の弊害や限界が議論されているときにこそ、そんな総合的視点でみることが必要な時期が来ているのではないでしょうか。
 しかし、現在の業績至上主義の風潮な中にあって、このような悠長なことをしようという奇特な研究者がいるはずもありません。ですから、あえて、私がやろうと考えています。もしかするとそこからなにか新しい、地質哲学の芽が生まれるのではないかと考えています。
 このような経験を伝えることは、市民にとっても非常に新鮮ではないでしょうか。そんな考えの下に、ERSDACという組織が管理するASTERという地球観測衛星の画像と、私が撮影した地表写真、そして地質紀行文をあわせてホームページで公開するということを、今年の1月から、月一回のペースでおこなっています。これも、12月で区切りになります。
 大学の教育に関しても、生涯学習に関してもっと寄与すべきであると、私は考えています。大学の教養をもっと公開すべきだと考え、こちらに赴任してすぐに、私が担当している講義を、市民向けに公開する方法論に取り組みました。2年計画で、4コマ分の講義を毎週メールにして公開しています。これは、現実の大学の講義と同時進行しています。大学の講義で行った内容をテキストにして、メールで配信しています。大学の講義1回分が、テキストにすると2週分くらいの量になります。ですから、休みなく毎週メールを送り続けると、ちょうど半期で現実の講義と同じ分量を送ることができます。現在、このメールを約2500名の人が読んでいます。このような試みを昨日投稿した論文では方法論として提示しています。これも、毎週欠かさず継続し、来年3月で区切りとなります。
 もうひとつの試みは、視覚障害者の方とメールを交換し、障害者との協力によって、科学教育の方法論に何らかのフィードバックをするという試みを行っています。これは、まる3年ほどになりますが、毎週メールで雑誌を配信しています。その間、相手の視覚障者は、別の人に代わりました。100名程度の方がこのメールを読まれています。これもそろそろ区切りにしようと考えています。こんな内容を、終了後、論文にする予定でいます。
 さらに、北海道の地質について新しいテーマに取り組んでいます。それは、上で述べた内容とも関係があるのですが、どうせやるなら誰もやってないものを目指しています。誰もやってないことで、やっている自分が面白いもの、そして誰もが私がやっていることを面白いものと思え、自然科学でもちゃんとした科学になるようなものがないか考えています。
 贅沢な目標ですが、そのためには、今まで地質学者が素材にしてこなかったものを取り扱おうと思っています。それは、川原の石ころや砂です。堆積学や水理学ではある程度扱ってきましたが、自然科学として地質学者が取り組みは、最近みかけません。市民にとって川原の石や砂は、無条件にわくわくさせられるものです。動植物と同等の面白さがあり、市民にも魅力があるものです。この面白さを損なうことなく、科学にできないかということです。
 岩石の薄片はみんながきれいだと思いますが、同定や岩石鉱物の説明となると、とたんにつまらなくなる。星座や惑星は見ていて楽しいのですが、詳しい説明となると、とたんにつまらなくなる。そんなつまらなさをなんとか乗り越え、面白いまま伝えることができないかという挑戦です。
 そのために、素材は北海道の1級河川(13あります)すべての砂と石を系統的に収集するつもりです。3年計画で進めています。まだ、今年の春からはじめたばかりです。5つの1級河川を今年は調査しました。その実物データを収集し、デジタルデータをホームページで公開しています。問題は、それが科学にできるかどうかです。これには、今、知恵を絞っています。
 こんなことを、大学の講義以外に取り組んできたため、忙しくしています。でも、楽しくやっています。地質哲学の序章にあたるところは、大学の講義で取り組み、メモができています。それだけで、本4冊分くらいの量になりそうです。
 長々と私の近況を書いてきましたが、「地質境界」について、興味はまだ続いています。ですから、なんらかのまとめを早いうちに行いたいと考えています。
 これから寒くなってきますが、ご健康にはくれぐれもお気を付けください。
敬具

・謹賀新年・
 私はO先生に、上のような手紙を書きました。この手紙から2ヶ月ほどたちましたが、残念ながら、まだ「地層境界」の論文は書いていません。しかし、この手紙のあと、予定の論文を一つ投稿し、もう一つは論文も書き上げ、現在共同研究者に回覧中です。あと一つは、半分ほど書きました。予定通り、研究は進んでいます。
 でも、私は残念でなりません。自分自身の不甲斐なさをつくづく感じています。私自身が誰もやっていないことをやろうと考え、私の考えに共鳴されたO先生が、それにあわせて貴重な時間をこの研究に捧げておられています。申し訳ない思いでいっぱいです。しかし、これは中途半端にやっつけ仕事のようにこなすことは、O先生にもっと失礼だと思います。時間がかかっても、私なりに満足のいく内容に仕上げたいと考えています。これは、私の新年の決意でもあります。
 皆さんの新年の思い、一年の計はありますか。別に一年の計をもって計画がスタートするものばかりではありません。でも、なんとなく改まった気持ちで行うときには、元旦のような「きっかけ」を利用するのも手かもしれません。要はなんとか計画や夢を実現させることです。そのためには、それに向けての気持ちや集中力、モチベーションを高めることです。
 では、この一年もよい年になるように。