2014年2月1日土曜日

145 ハーヴェイロードの賢者はいずこ

 かつて、イギリスのハーヴェイロードには賢者がいました。日本にも都のはずれの竹林に賢者がいたようです。賢者という言葉は、現代の日本では死語となっています。しかし、乱れた世の中だからこそ、賢者を待望します。そして、賢者の思索を活かす指導者も必要です。

 今の日本社会は、ひどく混乱をしているようにみえます。国民の気持ちや願いが、政治に反映されているようにはみえません。経済や金が重要課題として、政策がつくられています。一方で、拝金的な行為を蔑み、幸福や満足度などを重視している多くの個人がいます。社会的弱者や若者を守り育てる社会であるべきだとわかっていながら、しわ寄せがいく仕組みが、日本では徐々につくりあげられています。
 テレビや紙面ではコメンテータや評論家が、好き勝手な意見を述べますが、だれもその発言に責任は負いません。責任を問われるようなジャーナリズムは、横並びの報道や意見、あるいは社の方針に基づいた考えしか述べていません。発言に責任を持つべき政治家も、言葉尻やささやかな不祥事は追求され、ポストを追われます。しかし、政治生命を立たれることなく、発言力を持っています。国を危険に陥れるようなもっと大きな政策の誤りに対しては、だれも責任を取りません。みんなが、このような間違いに気づいているはずです。
 かつての世界には、賢者と偉大なる指導者がいました。偉大なる指導者が、賢者の判断に基いて、混乱した世の中を治めていたことがありました。日本でも、偉大な武将にはよい軍師が、革命の英雄には賢者の思想がありました。そのような賢者が存在したのは、明治維新から明治ころまででしょうか。その後、歴史に名を残すような賢者はみあたりません。現在の日本では完全に消えてしまったようです。
 国政にかかわるような場面では、多くの専門家がブレインとして意見を述べていると思います。しかし、政府の決定が賢明なものに見えてきません。そこには賢者はいないようです。これは私だけの見識不足でしょうか。
 もし、今の日本社会で賢者がいるとすると、科学の世界ではないでしょうか。例えば、iPS細胞の山中伸弥教授は、強い信念に基づき臨床への応用、人を救うことを第一の使命として、営利や利潤を求めない研究をされています。筑波大学の山海嘉之教授は、ロボットを弱者を支援する道具として、人のために研究されています。自然科学、工学などの分野の研究者には、賢者のような人はいるようです。いずれも重要な研究テーマですが、日本の国政や国民生活にすぐに影響を与えるような意志決定に結びつくものではありません。
 さて話しは変わって、「ハーヴェイロードの前提」という言葉をご存知でしょうか。ハーヴェイロードとは、イギリスのケンブリッジにある通りや住所の名称です。閑静な住宅地です。「ハーヴェイロードの前提」とは、地名に由来するものです。これは、政治判断をするときの前提のことを意味しますが、少々説明が必要となります。
 「ハーヴェイロードの前提」は、経済学者として有名なケインズ(John Maynard Keynes)にちなんでいます。ハーヴェイ・ロード6番地は、ケインズが生まれ育ったところです。経済学者のハロッドが、「ケインズ伝」の中で用いた言葉で、ケインズの政策提案、あるいは政治思想をあわらすものです。
 ハーヴェイロードは、イギリスの知識階級が集まり議論をしていたところでもありました。ケインズの考え方も、知識階級の議論で生まれてきたそうです。そこから、自由な立場で考える賢者たちの議論が重要性が指摘されました。ハーヴェイロードの前提とは、少数の賢人が合理性に基づいて判断するという意味で用いられました。
 「ハーヴェイロードの前提」を、経済学や経済政策にとどまらず、もっと広く意思決定の方法と捉えると、どうなるでしょうか。民主的に選ばれた人ではなく、考えるべきコミュニティーと関係のない自由な立場にある人たちであることが重要です。何にも束縛されない利害関係のない議論や判断が必要になるからです。そして、多数決などではなく、小数の賢者が、議論つくして決定を下すという流れになります。そのような議論を経て得られた結論は、用いるに値するものとなります。
 何事にも束縛されない自由な条件があるでしょうか。あるいは、このような人材が、今の日本にいるでしょうか。なかなか難しいかもしれません。現在のように、成熟し管理された社会では、利害の生じない自由な立場の知識人たちは、いないかもしれません。知識人は、単にもの知りであるだけではなく、賢者でなければならないのです。
 賢者とは、そもそも古代ギリシアの哲学者や日本の仏道の修行者のような人たちです。無私で大所高所から世の中を見て、合理的な判断を下せる人です。今の日本には、目的が明瞭で、その目的のためには世俗的なこと、金銭的誘惑に惑わされないような科学者に、かろうじて賢者の気配があるのかもしれません。しかし、彼らは目的を追求することが第一義で、目的以外のことには興味を抱かないはずです。彼らの専門は、世俗とかけ離れた自然科学の分野です。逆に、そのような名のある研究者が、知識もない専門外のところで、深い思慮もなく政治や社会に発言すると混乱を起こすかもしれません。
 ハーヴェイロードの前提は、そもそも理想的で架空のものだったのでしょうか。反ケインズ派の経済学者が、ケインズの経済理論を批判するとき、ハーヴェイロードの前提は、非現実的、貴族的、非民主的として攻撃の的にしました。このような批判がもっともであれば、ハーヴェイロードの前提は、空論に過ぎません。
 ハーヴェイロードの前提である、なにものに束縛されない条件など、現代のような情報化社会でありえるのでしょうか。信任を受けない人たちの議論による結論に、多数の市民が信頼を置くでしょうか。現代の日本には、賢者がいたとしても、住みづらいところなっているはずです。いたとしても、それこそ都を離れて竹林に隠遁してしまっているでしょう。
 イギリスのように長年にわたり貴族階層が存続し、彼らに対する英才教育が残っている国では、賢者が生まれるかもしれません。貴族階層の教育も、もともとはよき指導者育成を目指しているはずです。その階層の中で、努力をし、人徳を身につけた人たちが、賢者の候補になっていくのでしょう。
 日本のような平等教育からは、なかなか賢者は生まれないでしょう。日本で賢者が生まれる少ない可能性として、やはり研究者階層からではないでしょうか。ただし、前述のように自然科学や工学の分野では難しそうです。もし社会科学や人文学、特に哲学や倫理学、宗教学などを広く身につけた研究者で、人徳のある人がいるとしましょう。なおかつ、彼らのうち、俗世の金銭や利害から乖離しながらも、世情や日本の現状を把握しながら研究生活をしていたら、現代社会の賢者候補となりえるかもしません。これは単に理想論なのでしょう。現代の乱れた世の中では、そんな賢者がいることを、ついつい期待してしまいます。
 もし賢者待望論が実り、何人かの賢者が現れたとしましょう。次なる問題は、その賢者の意見を実行に移せる偉大なる指導者がいるかということです。彼らも、私利私欲があってはなりません。賢者育成のプロセスの中で、豪胆で指導力のある人が、偉大な指導者になっていくのではないでしょうか。つまり、賢者が生まれるような教育体制が必要ではないかということです。そのこには良き指導者も生まれてくるはずです。今の教育体制を改革するには、賢者と偉大なる指導者が必要なり、負のスパイラルへと落ち込みます。
 混乱した世の中だから、賢者を待望する気持ちも強くなりますが、現実の日本では、ないないづくしです。こんなエッセイを書いていると、ますます失望感が深まります。竹林に隠遁している賢者がいたとしたら、ぜひ日本が取り返しのつかないところに行ってまう前に、でてきてほしいものです。

・出張・
大学は、定期試験が終わり、
採点期間中です。
来週末には大学入試はじまります。
私は入試で出張になります。
冬の時期の出張はトラブルに備えて
余裕をある日程で出張が組まれていきます。
ですから、4日間の出張となります。
寒いのであまり出歩けないので、
どうなることでしょうか。

・校務と研究・
2月から3月にかけて、
大学は講義は終わっているのですが、
入試や卒業、新年度の準備などで
慌ただしくなります。
しかし、空き時間もできるので、
研究をする時間でもあります。
いくつかやりたいことがあるのですが、
今年は校務がいろいろあるので、
落ち着いてできるでしょうか。
それが心配です。