2018年12月1日土曜日

203 不可知の肩に立って

 巨人の肩の上に立って眺めると、遠くの景色が見えます。そこからは、実は言語化できる景色だけが、見えているのではないかもしれません。言語化できない不可知の肩からは、どんな景色が見えるのでしょうか。

 Google Scholar という学術論文を探すサイトがあるのですが、検索の窓の下に「巨人の肩の上に立つ」という一文が、さり気なく添えられています。「巨人の肩の上に立つ」という文は、ニュートンがフックに宛てた手紙で、
 If I have seen further it is by standing on the shoulders of giants.
(もし私が遠くを見れならば、それは巨人の肩の上に立っているからだ)
(ニュートンの英語表記は、古いもので、If I have seen further it is by standing on ye sholders of Giants. となっています)
と書いたものだそうです。1676年のことでした。
 この一文は、先人の知識の上に新たな発見をしていくことをいったものです。先人の業績なくしては、新しい発見はなし得ないということです。私たちは、これまで多大な先人の知的資産を受け継いできました。そのような先人からの学びを土台として、新たにささやかな知見を発見し、付け加えてきました。しかし、多数のささやかな知見が、大きな知的体系へと成長してきました。
 先人の知的資産は、論文や書籍など文章して残されてきました。現在でも、科学の成果は、学会誌や専門書の文章、もしくは学会の講演やポスターなどで発表され、言語化され報告されます。現在では、インターネットを通じたデジタルでの報告も多くなりましたが、そこでも文字や言葉が使われています。
 現代の科学の成果は、媒体はいろいろと変化してきましたが、古くから文字での、報告、公開がされてきました。知は、いずれかの手段、なんらかの媒体で報告、公開しないと、科学の成果とはなりえません。知として残るためには、時間の風化にたえる媒体(たとえば石や紙)に記録され、保存されなければなりません。それらの媒体に文字として記録されてきました。最近ではデジタル化された情報として多くは文字として保存されています。はたしてデジタル情報は、時間の風化にどの程度耐えられるでしょうか。
 もうひとつ知を伝承する方法があります。それは人を介したものです。現代社会では、先人の知的資産を、教育として教師が伝えることができます。教師は、先人の知的資産を教科書、専門書、論文など文字もあるでしょうが、先輩の教師からの言葉を通じて教わってきました。このような知的資産の文字と言葉による連鎖が続いてきました。言葉は消えますが、ものに転写された文字は残ります。
 これまで、言葉と文字は、知の伝承には不可欠の存在でした。しかし、知というものは、文字や言葉に変換できたものがすべてでしょうか。もし、できない知があったとして、それが非常に重要なものだとしたら、その知はどうなうでしょうか。その知は、伝承されることなく、その人のみ一代で、その存在は継承することができないものになるのでしょうか。技術の極意、芸術などの表現方法などは、その例の最たるものでしょう。その人固有の高度な技術や表現は、言葉や文字では、伝えることができないものもあるかもしれません。
 さらに、思考にも言葉にできないものがあるかもしれません。インドでは、概念的思索、あるは単なる現象や出来事も、言葉では捉えきれない、「不可知」ものがあると考えられていたそうです。不可知の概念を知るために、修行法や真言を唱えるなどの手段は、いろいろ考案され、不可知へ至るルートだけは示されてきました。得られた知は、悟りや大日などとして、大乗仏教として体系化されてきました。ただし、その知は言語化できないものでした。宗教的な概念だけでなく、深い思索には言葉にできない不可知のものもあるかもしれません。
 言語化不能の知があったとして、ある人の得た知と、他の人の知とは、比較することはできないでしょう。知の差異や変化・変遷、進化なども、客観的に示すことはできません。そのような知は、積み上げていくことはできないものでしょう。ひとりひとりの知の高みがわかりません。知の高みと人間性、人徳と比例するということも判別できません。肩の高さは、巨人なのか、子どもなのか、普通の人なのか、比べることはできません。ひとりで、ただただより高みを目指すし、景色を変化を感じるしかありません。
 知には、不可知の部分もあるという考え方は、不可知論と呼ぶのですが、英語では、agnostic、あるいは agnosticism と呼びます。agnostic は、gnostic に a をつけているので否定の意味となります。gnostic は、ギリシア語を語源として、知恵や知識という意味です。その否定なので、知識にできない、理解できないという意味合いになり、上で述べたのと一致しています。
 人が認識できるのは、ある限られた領域(実証可能な現象の世界や経験可能な世界)であり、それ以上の超越的、超経験的な世界は、認識不可能だとされていました。キリスト教的社会では、神は超越者で、神が司る世界は超経験的世界であるとされています。
 科学者が、神の存在について考えた時、科学的に証明できそうもないので、証明不能、不可知という立場を表明することになります。そのような立場を不可知論、不可知論者といいます。不可知論(者)を英語では、agnostic といい、ダーウィンの進化論を弁護したハクスリーが、自分の宗教上の立場を表明するのに初めて用いたとされています。以降、不可知論とは、神の存在は不可知である、という宗教上の立場を表明するために持ちられるようになりました。
 一方、神の存在を否定する、無神論の立場もあります。無神論、atheist 呼ばれています。theist が有神論ですので、a がついて否定となる言葉になります。有神論と無神論は、神が存在するかしないかを証明できれば、決着を見ます。現状の科学では検証不可能です。ですから、不可知論という立場が生じるわけです。
 もし上述したように、言語化できない領域があり、そのでの存在(例えば神)が、悟れる人のみが知り得るものとすると、他人には真偽のわからない存在となります。不可知の領域で、無神か有神の決着をしても、それを検証することはできません。悩ましいものです。
 さて、ここまで、不可知の事柄について、言語化、文章化してきたのですが、本当に私の考えている概念が、完全に文章化できたとな思えません。また私の伝えたい内容が、私の本当に考えた通りに、あなたに伝わったでしょうか。それが、非言語的不可知の領域です。その肩の高さは、そこに立って見ている人にしかわかりません。

・厳冬期仕様・
わが町では、何度か雪が降りました。
時には激しい吹雪となった日もありました。
いよいよ冬が本番となってきました。
車のタイヤは、早めに冬用にしています。
着るもの、履くものも、厳冬期仕様にしました。
そして、季節は、師走を迎えることになります。

・授業体制・
大学の後期の講義も終盤となってきました。
1月下旬まで講義はあるのですが、
冬休みを挟むので、集中が途切れます。
また、教員はセンター試験も含めて
各種の入試が進行しています。
教員も講義への集中が途切れそうになります。
この授業体制の集中を途切れさせることは、
多くの大学での問題と思います。
常々思っているのですが、この学期と、
長期休み、月曜び振替休日、大学行事(主に入試)は、
なんとかならないものでしょうかね。

2018年11月1日木曜日

202 縁とやりあて

 南方熊楠の世界は、非常に広いものです。まだまだその広さは、私には理解できません。でも、そのうちのほんの少しのキーワードですが、縁とやりあて、tactの3つが、理解できた気がしました。これら3つについて考えていきます。

 私は、ここ数年、南方熊楠に興味をもっています。破天荒な生き方だけでなく、彼の哲学的世界観に、いろいろ学ぶところがあると思っています。ですが、文献を読むのが、なかなか進みません。
 進まない理由は、最近はデジタル書籍の便利さを謳歌しているため、空き時間で紙の本を読む機会が減ってきためです。紙の本でしか出版されていないものも、いっぱいあります。日本の専門書や特定作家、古い書物などは、紙でしか出版されていません。南方熊楠に関するものは、紙の書籍が多いのですが、少しはデジタルになっているものもあるので、ついついてそちらを優先して読んでいます。本来の優先順とは異なっているので、読むべき文献がなかなかこなせなくなっています。
 さて、熊楠の思想的背景に密教があることは、知られています。日本での密教の始祖は空海です。熊楠と密教の関連で、空海に関する本も読み出しました。やはり紙媒体が多いのですが、デジタル版のものを主として読んでいます。まずは、空海の小説や入門書を読み、現在は熊楠の小説に移っています。ただ、熊楠に関する短い文献であれば、忙しくても目を通すことができるので、気分転換に読んでいます。
 熊楠の思想に惹かれているのは、私が考えている科学的方法や科学哲学の考え方に、合い通じるものを見いだせるからです。
 熊楠の思想的背景は、大乗仏教の密教なので、大日の森羅万象の理(真理)を説く胎蔵と、大日の真理や悟りを智慧として説く金剛を用いて説明しています。その考えを図示しています。図では、大日がすべての中心です。大日の胎蔵の部分は、因と果が関係し、因と起が関係し、因と起の間に縁があると示しています。もうひとつの大日の金剛には、心が中心で、心と物、心と事、事の物が三角の関係を持っています。そして、事は名と関連します。名は印と弱い関係があります。そして印は心を意味する。そんな図があります。
 その意味するところは、なかなか難しいので、私はまだ十分理解できません。それぞれの語の意味がわからないと、熊楠の思想を理解できません。熊楠の自身の思想を、土宜法竜への手紙で伝えています。これを理解することが、熊楠の重要な思想を理解することになると考えています。
 そのような熊楠の思想の一部を、「縁」や「やりあて」、「tact」というキーワードを使って説明しています。
 「やりあて」という言葉は、辞書にはなく、熊楠の造語のようで「やりあてる」の名詞となっているようです。「発見ということは、予期よりやりあての方が多いなり」と熊楠はいっています。「やりあて」というより「tact」と呼んだほうがよいともいっています。「tact」は、分別、思慮、気配りなどの意味で、異なるものを同士を結びつける力、臨機応変の結合力のようなものなのでしょう。つまり、因果のずっと奥に存在するものであるようです。異なるものを結びつける力が、「やりあて」や「tact」で、その結びつきのことを、縁と呼んでいます。縁とは、「諸因果総体の一層上の因果」と熊楠はいっています。これは、「メタ因果」を意味しているようです。
 私は科学的方法について考えています。一般的な科学的方法として、帰納法と演繹法があります。帰納法は、多数のデータから規則性を導くもので、演繹法は既存の規則を適用することです。帰納法は新たな規則性を創造でき、演繹法は規則の適用範囲を決めたり、確かさの検証に使えます。
 ところが、帰納法は用いたデータ内でつくられた法則ですから、そのデータの範囲での確かさは保証されますが、その範囲外では確かさの保証はなくなります。また範囲内であっても、例外が一つでも見つかれば、その規則の正しさは否定されます。「カラスは黒い」や「白鳥は白い」という規則が、たったひとつの白いカラスや黒い白鳥の発見で、否定されてしまいます。これは、自然の帰納法の限界となっています。
 演繹法は、規則の正しさを検証できます。調べられる範囲で、正しさをいくらでも精密に検証することができます。ところが、規則を検証するだけで、新しい規則性を生み出す創造性がありません。
 現状の科学では、帰納法と演繹法を、ぐるぐる回しながら科学は進められています。これが科学的方法であり、そこから逸脱することは、科学的な正確さを満たさず、科学的論証とな見なされません。しかし、そこには反例一個の出現で、いつ何時、否定されるかという不安や、不確かさが存在し続けます。
 私が考えている方法として、昔からあったのですが、「アブダクション(abduction)」が重要ではないかと考えています。アブダクションとは、帰納法のようはデータがそろってからはじめるのではなく、事前に「やりあて」や「tact」のように根拠はなくてもいいから、とりあえず考えて試してみようすることです。じつは、仮説や見通しとして、科学をおこなうときに、多くの研究者が無意識にしているものでもあります。「カン」とも呼ばれているものですが、それが熊楠のいう「やりあて」や「tact」でしょう。
 統計学では、このようなやり方としてベイズ統計学があります。ベイズ統計では、データがその後でてくることで、統計学上の検証できます。でも取り合えず何らかの「やりあて」の値を入れて、考えていこうとするものです。検証は、統計データを得たら、その仮定を修正していきます。後からデータが出てくることで、成り立つ方法です。データがないと、科学的には成立しません。
 アブダクションやベイズ統計の方法の重要性を、100年以上も前に、熊楠が「やりあて」や「tact」として見抜いていました。さらに、因果の先にある、因果のより上の因果、メタ因果を、「縁」という考えがあることを示しています。それらの考えを密教として、中国で短期間に集大成したのが、空海です。
 先哲の頭脳は、すごいものだと思います。空海の本も読みたくなりますが、深入りはしないようにしにないと・・・。

・空海の景色・
空海の小説といえば
司馬遼太郎の「空海の景色」が有名です。
私は、かつて紙の本を読み出して
挫折した経験があります。
それまで司馬遼太郎氏の小説は多数読んでいたのですが、
この本だけは異質に感じました。
「空海の景色」にはデジタル版があるので、
ダウンロードしているので
再挑戦をしてみたいと考えています。

・老後に・
熊楠や空海、密教などの哲学的考察は
私には、まだまだ先のテーマになると考えています。
まずは、地質学的な概念で思索を深めていくことが先決です。
地質哲学が最優先のテーマで、
それだけでも現役中のライフワークになります。
熊楠の文献はかなり集めているのですが、
小説を読むことで、お茶を濁しておきます。
熊楠は、退職後に楽しにとっておきましょうかね。

2018年10月1日月曜日

201 非決定論の世界に生きる

 いつおこるかわからない自然現象の前には、対応不能に思え、無力さを感じます。自然現象は、非決定論的だからなのでしょうか。非決定論的への対処は、ひとりでも行動することです。カオスで大きなうねりになるもしれません。

 世界の情勢の不安定さの荒波を受けて、日本の世情も激しく揺れ動いています。IS、イスラエル、トルコ、北朝鮮、トランプ大統領など、さまざまな要因ですが、予測不能な変動が起こっています。
 日本の舵取り役も、安定政権といいますが、市民感覚とはかけ離れた、人事られないことを次々とおこなっています。だれのための政府なのか、どこに向かっているのか、国民としても不安が募ります。
 そこに天変地異ともいうべき、地震、台風、洪水なども繰り返し日本列島を襲っています。大きな自然現象の不安定を抱えた状況になっています。政治も迷走しているので、予測不能な国際的な危機もありそうです。そんな世の中で暮らす一市民は、どうすればいいのかわからなくなります。
 社会や政治は予測不能ですが、科学、数学や論理の世界は、もっと厳密であるはずで、予測も成り立ちそうな気がします。未来が予測できる世界は安心感があります。
 例えば次のような方程式があるとしましょう。
  y=ax+b
aとbは定数で値が決まっているとします。もしxが与えられれば、必然的にyは決まっていきます。xにどんな値を入れても、yを求めることができます。このような数学的な方程式は、xが与えられればyも必然的に決まってしまいます。この方程式で示され直線上につねにあるので、何度計算しても、予測できます。このような数学の世界は、決定論の代表ともいうべきものでしょう。
 小学校の算数、中学校の数学には答えがあり、答えにたどり着く筋道はいろいろあったとしても、答えは決定論として存在することになります。算数や数学は、そのような正しい、間違いが決定論的に存在する世界であることを、教えていくことにもなります。このような数学、論理の学問こそが、信頼の拠り所になることも、理解していくことになります。
 物理学も決定論の世界になのでしょう。特にニュートンの打ち立てた力学の世界は、今でも多くの運動を記述する上で、自然科学の基本法則となっている決定論となります。
 ただし、自然科学では、法則が確定するまでは、測定値などの事実を集積し、それらの事実をもっと説明できる近似として、方程式をつくっていきます。その方程式が正しいかどうかは、検証を経なければなりません。近似や方程式とは「仮説」です。仮説は、決定論にはまだなりません。
 仮説に基づき、多くの検証作業がなされていき、正しさが判明してくると、信頼性をもった法則や理論へと昇格していきます。法則や理論があれば、そこから出される予想は、決定論として信頼できます。
 しかし、法則も理論も自然現象を扱っている限り、決して決定論とはなりません。なぜなら、物理学は自然現象を記述するものなので、自然界からその法則に反する事例がひとつでも見つかれば、その法則は破綻します。これが、自然科学には、自己修正機能を内蔵している強かさと、現状の非決定論的危うさとが、混在しています。このような危うさは、「帰納法の限界」として理解されています。
 法則であっても、たとえ大科学者の主張であっても、事実の前には、謙虚でなければなりません。ただ、科学者も人間ですから、ついつい自分の信じているものは、守りたくなります。そんな例が、アインシュタインという大科学者にもありました。
 数学の中で、統計学は不確かさを確率で見ていく手法を編み出しました。その結果、不確かさを決定論として記述するという分野を作り上げられました。確率的な世界でしか記述できない世界を受け入れた自然科学の分野が、量子力学でした。量子力学に対して、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と抵抗を示しました。これは自然界の現象は、確率ではなく決定論的に起こると考えたのです。
 アインシュタインも学問の進歩には勝てませんでした。微小の世界で、神様はサイコロを振り続けたのです。その後も、量子力学は、大きく成長し、微小の世界を探るには、かかせない重要な学問分野となりました。ただし、偉大なアインシュタインが量子力学に投げかけたいくつもの疑問は、真摯に対応され、量子力学を発展させると契機になるという皮肉もありました。
 数学的世界でも、「不確かさ」が発見されています。統計ではなく、方程式で記述できる純粋な理論の世界においてです。ロジスティック写像と呼ばれるものがあります。例えば、
  y=ax(1-x)
という方程式があります。
 この方程式は、aが定数で、xに値を入れれば、yが決まります。そのyの値をxに入れて再度計算します。その作業を繰り返していくと、例えば100回目の値は、99回目の値がわかれば決まります。99回目は98回目が・・・となります。単純方程式ですから、予測可能なある値が出てくるような決定論的な世界に見えます。
 ところが、この方程式で、0 こんな単純な方程式の中に、非決定論的なカオスが紛れ込んでいたのです。20世紀中頃から、不思議な振る舞いが、数学だけでなく、いろいろな方程式に紛れ込んでいうことがわかってきました。決定論だと思われていた数学の方程式に、ある日から非決定論が紛れ込んでいることがわかってしまったのです。これまで信頼を置いていた数学の理論体系が、予測という点で一気に信頼性に疑問が生まれることになったのです。
 今ではこのようなカオスを含めて非決定論的な振る舞いは、「複雑系」と呼ばれる学問になってきました。予測不可能な方程式が、自然現象の中には、あちこちにあることがわかってきました。その結果、天体運動などニュートン力学で大きな信頼を勝ち得ていたものにも、複雑系が紛れていることがわかってきました。気象現象や天気予報にもカオスはありました。
 人の行動などは自由に振る舞っているはずなので、その集合である社会や経済などは、非決定論的になっているはずです。しかし、大きな影響力や強い権力が加わっていくと、少しずつその力の方向に向かっていくように見えます。つまり力をかけ続ければ、その方向に向かう傾向が強いのです。その力をもっているのは、冒頭で紹介した一部の強国や権力者たちでしょうか。しかし、そんな国も人も、非決定論的な振る舞いの集合体なので、ほんの少しの変動や行動から、大きな変化が起こることもありえます。たった一言の発言、たった一人の行動が、もしかするとカオスを発生し、大きな変化へと向かうこともあるかもしれません。そんな意志を一人でも持ち、行動を続けることが、予測不能の時代には重要なのかもしれません。もちろん、その結果は予測不能ですが。

・秋めいて・
北海道は今年の秋は少々遅めのようです。
しかし、着実に秋は迫ってきています。
日が短くなるとともに、
朝夕の冷え込みの強くなってきます。
朝夕で冷え込んでいる時は
コートを着てちょうどいい気候です。
まだ被災している人もいるので、
冬の到来は、もう少し遅めがいいのですが。

・議員たるもの・
現代社会での生活は、
グローバル化、盛んな国際交流、
円高・円安による原油価格、観光への影響など
日本だけの挙動で左右できない事態にもなっています。
なかなか一国の舵取りの難しい時代だと思います。
しかし、国選議員は、少なくとも国民の幸福を
最大限に考えるべきだと思いますが、
どうも別の方に目が向いているように見えるのですが。

2018年8月29日水曜日

200 乾坤只一人:唯一さ

 どれだけ多くの人がいても、自分自身は、「只一人」の存在となります。その「唯一さ」は重要です。地質学でも、特異性や唯一さが重要になります。しかし唯一さを理解して、普遍性を探っていきます。

 中国の禅の書に「嘉泰普灯録」というものがあります。「嘉泰普灯録」は、中国の南宋の時代に成立した禅宗の歴史書で、「五灯録」と総称されるもののひとつです。他に、「景徳伝灯録」、「天聖広灯録」、「建中靖国続灯録」、「宗門聨灯会要」があり、すべてで20巻になる書です。
 その「嘉泰普灯録」の五巻に、
  僧問。如何是君。曰。宇宙無雙日。乾坤只一人。
という問答が示されています。
「僧問う、君是いかなるか。曰く、宇宙に双日(そうじつ)無く、乾坤(けんこん)にただ一人(いちにん)」
と読み下します。宇宙には、日(太陽)はふたつとしてなく、天と地の間にも、自分はただ一つである、ということです。太陽と自分を比べて、どちらも「唯一さ」があること点が重要であることを諭す言葉でしょう。「君」はこの問いにどう答えるのか、気になるところですが、このエッセイでは、この「唯一さ」に注目します。
 禅の世界では、「唯一さ」を極めていくことが重要になっているようです。では、他の分野では、「唯一さ」の位置づけはどうなっているのでしょうか。
 そこで、話題が地質学になります。
 地質学が研究対象にしているものは、一度しか起こらなかった事象や、ひとつしか存在しなかったものなど、特異で稀なものが、素材になっていることがよくあります。いや、地質学的にありふれているように見えても、後述するようには、それは唯一の存在といえます。
 そのようなただ一つしかないものは、どのように扱っていくのでしょうか。「唯一さ」を重視して特別な取り扱いをしながらも、そこから普遍性を見出す方向で地質学は進められていきます。
 例えば、地球史では、超大陸の形成され、その後に離散がありました。似たような離合集散の現象は、地球史において2、3度起こっています。それぞれの超大陸は、その時の地球の表層環境や気候、生態系などは、同じ状態のものは2つとしてなく、似た現象と一括りにすると、細部の違いを無視してしまいかねません。ですから、「唯一さ」を重視して、そこにはどのような個性があったのか、そしてその影響下にあったものへ「唯一さ」の伝播を知ることが重要です。その上で、数少ない超大陸の離合集散における普遍性を見出すべきでしょう。事例が少ないので、もしかすると、普遍性の検証が十分ではないかもしれませんが。
 例えば、同じ種類の化石が、同じ地層から多数見つかったとしましょう。同じだから典型的な化石以外は、学術的には不要でしょうか。そうではありません。個々の生物には、個性(個体差)があるはずです。その個性に着目して記載すれば、種内の多様性を把握することにつながります。そこには、個々の個性の「唯一さ」に着目するという考え方があります。そして次の段階として、個性の「唯一さ」と多様性を違う時代の地層でもおこなうことで、多様性からの逸脱を見出します。それが生物の進化などの普遍性が抽出されていくことになります。化石の例では、類似物が時代をまたがって多数あれば、普遍性の検証を可能にすることになります。
 ある超大陸の個性、多数の中のひとつの化石の個性を、自分自身に置き換えると、どうなるでしょうか。
 たとえ、どれだけ多数の同種の中であっても、自分を特徴づけるのは自身の個性です。たとえ人類70億人の同種が存在していても、たとえ自身が他とは劣っていても、たたえ自身に弱点があっても、その個性を持った自分は、「唯一さ」をもっています。「唯一さ」をもっとも身近に感じる存在になります。しかし、自身の「唯一さ」から普遍性へと向かうのでしょうか。禅では、自分自身を深めていくこと、「唯一さ」を深めていくと、哲学や心理学へとつながるのでしょうか。
 ところで、自然界で「唯一さ」を生み出しているのは、宇宙に流れている不可逆な時間です。不可逆な時間とは、エントロピーの法則に従っているものです。エントロピーとは時間とともに常に増加していくもので、熱力学第二法則になっています。一方向にしか流れない時間は、「時間の矢」とも呼ばれます。この「時間の矢」が自然界の「唯一さ」を生み出します。同じように見える現象、出来事であっても、時間軸、つまり時代が異なれば、違ったエントロピー状態になるはずです。時代が違っていても、同じようなものがあったり、同じような現象が起こるのであれば、エントロピーの法則を破る理由があるはずです。その理由を解明していく必要があります。
 地球に流れる時間の「唯一さ」を考えるのが、地質学です。地質学の素材からは、「唯一さ」を知り、そこから普遍性を考えていくことも、地質学の重要な方向性となっています。これは地質学だえでなく自然科学全般の方向性かもしれません。一方、自分自身の「唯一さ」に深く分け入っていくのは、禅であり、哲学、心理学でしょう。これは、人文科学の方向性かもしれません。

・帰省・
1週間ほど、京都に帰省していて、本日、帰札する予定です。
台風の後、京都は暑いというニュースがありました。
すごく暑いと思って、覚悟して帰省したのですが、
思っていたほどではありませんでした。
この時期だけ少し暑さも和らいでいたので、ほっとしました。
仕事を持って帰省していたのですが、
仕事をする場所も机もないので、
母のテレビを見ている部屋で、
気を散らせながらも、ぽつぽつと仕事を進めました。
実は急ぎの校正があったのですが。
仕事を思う通り進めようとしても
場所が変わると、なかなか難しいですね。

・母の老化・
毎日のように母とは電話で話はしていたのですが、
電話で声を聞くのと、実際に会って話すのには、違いがあります。
久しぶりに会うことになるので、
容貌の変化にはすぐに気づきます。
そして、何日も一緒にいて話を続けていると、
言動から、その老化の様子もよくわかってきます。
母は、後期高齢者になってだいぶたちますが、
独居でがんばっています。

2018年8月1日水曜日

199 誤謬の混入:目の前の真実

 ファクトが目の前にあっても、脳が見ようとしなければ、フェイクが頭の中で形づくられます。そして他者の批判に、自身の主張をオルタナティブな真実と弁護します。悪循環です。真実は、目の前にあるのです。

 アメリカのトランプ大統領が使った言葉で、フェイク・ニュース(fake news)やオルタナティブ・ファクト(alternative fact)という言葉が、メディアでよく聞ききました。
 フェイク・ニュースとは「偽のニュース」という意味です。これは、トランプ大統領が、自分に批判的な報道を「フェイク・ニュース」だと何度も口にしたり、2018年1月、就任1年目に「フェイク・ニュース大賞」を発表して話題にもなりました。
 オルタナティブ・ファクトとは、「代替の事実」が直訳になり、「もう一つの事実」などという言葉も使われています。オルタナティブ・ファクトは、トランプ大統領就任式(2017年1月)の群衆の数が、空撮写真でみると「過去最少だった」と報道されました。それに対して、スパイサー・ホワイトハウス報道官が「観客は過去最多だった」と反論しました。2017年1月、その発言が「明らかな虚偽」ではないかというメディアのインタビューに、コンウェイ大統領顧問は、「嘘ではなく、もう一つの事実だ」と反論したことで有名になりました。そのために、大統領側は、いろいろな理由を示したのですが、メディアがそれらをすべて論拠を示して否定していきました。
 トランプ大統領は懲りることなく、重要な影響のあるよう政治や外交判断をいまだにSNSで発信しています。民主主義を無視した、非常に乱暴なやり方です。似たような乱暴な議論の進め方が日本の政府でも起こっているように見えます。かなり不安です。
 今回のテーマは、トランプ氏側の主張の中で、あえて「真実」の部分を抽出すると、「見えているものだけが、真実ではない」という点ではないでしょうか。「見えないものは、存在しない」というのは、写真に写っている人の数のように見るべき対象が限定されていれば、それは真か偽かは判断できます。一般化して「見えないものは、存在しない」と定言にすると、明らかに偽となります。科学は、見えないものでも、存在していることを証明しています。
 例えば、小さいもの、細菌やウイスルなどは、肉眼では「見えない」のですが、光学顕微鏡や電子顕微鏡などを用いれば、その姿かたちを「見る」ことができます。今では、高倍率の電子顕微鏡を用いれば、原子を一粒一粒を「見る」ことができます。
 重要なことは、肉眼では見えないものであっても、道具や装置を用いることで、「見える」視覚の範囲を拡大することできます。小さいものだけでなく、遠くのものも性能のいい望遠鏡を使えば見ることできます。また、人の代わりに探査機を送り込むことで、深海や他の天体(月や火星、冥王星、地球近傍小惑星リュウグウなど)を「見る」ことができます。
 私に「見えない」ものが、子どもが「見えた」経験があります。地質見学(巡検と呼ばれています)に参加していたとき、学生時代は火成作用に興味あったので、地層や化石にはあまり興味がありませんでした。だから私は、なかなか化石を発見できませんでした、でも化石に興味のある同級生には見えていました。また、博物館内の観察会で、館の石材を見学しているとき、「化石が見つからないとされていますが、頑張れば見つかるかもしれません」といって案内しました。私は、この石材から見つからないという先入観を持っていました。しかし、なんと子どもが小さな巻き貝の化石を発見しました。見る気がない人には、真実は見えないのです。
 素直に「見れ」ば、事実だとだれもで判定できるのに、トランプ陣営の人のように、その事実を見ようとしなけば「見えません」。皆さんにも、似たような経験があるのではないでしょうか。そこに視覚情報、正しい情報があったとしても、それを素直に見よう、判断しようとする気持ち、姿勢がなければ、真実が見えなかったり、偽に見えたりするのでしょう。
 これは、脳が見ていることに起因しているのです。脳が見ようとしないものは、視覚に情報が入っていても見えせん。脳は、持ち主の考えて簡単に「オルタナティブ・ファクト」を見てしまいます。
 このような誤謬は、人の脳には簡単に入り込んでいます。常識、当たり前だ、面倒だ、などが、誤謬の入り口はささやかなものでしょう。ですから、素直に、ありのままを見ることが、誤謬を除く一番簡単な方法でしょう。
 誤謬の混入は、視覚だけではありません。すべての感覚器官で同じような誤謬が入り込んでいる可能性があります。例えば、マジシャンは、このような視覚トリックを意図的に操作しています。VRのアトラクションでは、イスを傾けることで平衡感覚を惑わして、スリルを味わう仕組みが取られています。ゲームセンターのレーシングカーのアトラクションなども、体勢感覚の錯覚を操作しています。聴覚も、左右の音でステレオ効果をきかせれば、目の前を車が通り過ぎたように思えます。
 これらの例は、感覚器官を通じて情報は正確に取り入れているのですが、脳が騙されているのです。それが、エンターテイメントや楽しみであれば、問題はありません。ですが、民主的な結論、重要な政治判断、より確かな規則性などを見つけたいときには、自分の意を反映した脳が、邪魔をすることがあるはずです。そんな誤謬を最小限にするために、素直に「見る」必要があるでしょう。自身の考えも重要ですが、「見えていること」にこそ「真」があるはずです。

・自然災害・
今年は、西日本では、地震、大雨、猛暑、
台風の逆行など、例年とは違った気候で
自然災害が多発しています。
北海道も日照時間の短い冷たい初夏から、
一気に蒸し暑い夏になったり、
変動が激しいようです。
自然の変化に一番影響を受けるのは農業でしょう。
北海道では大規模農場が多いので、
その被害は全国的に影響を受けます。
まだあまり影響のニュースを聞かないので
ひと安心ですが。

・定期試験・
現在大学は、前期の定期試験期間中です。
毎年思うのですが、祝日などのやりくりで
講義が終わるのが7月末になるので、
停止危険が8月に入ります。
北海道でもこの時期は一番暑くなります。
試験の条件としては最悪の時期です。
それでもスケジュールをこなさなければなりません。
大学は文科省の指示に従っています。
規則ではそうなっているのですが、
もう少し学生の立場でものごとが進みませんかね。

2018年7月1日日曜日

198 充足理由律と旅

 久しぶりにゆったりとした旅ができました。これまでの旅では目的を達成を重視していました。旅には過程にこそ意義ある場合があります。旅の行程や、ゆったりとした時間の流れを味わっていくことも、旅の意義ではないでしょうか。

 先日、学会で長崎に出張しました。会場は、都市からは離れていたのですが、巨大観光施設ある付近なので、交通や宿泊などには便利なところでした。学会は2日間でしたが、前泊と後泊をすることになり、3泊4日の旅となりました。そのため、時間的には余裕がありました。近県や関西、関東から来た人は、1泊2日での参加だったようです。北海道からの学会出席は、遠距離というハンディもあるのですが、今回のように急がないときには、非常にのんびりとゆったりとした「旅」ができました。それまでの研究の旅と比べながら、いろいろ考える機会となりました。
 今回の旅は、時間的余裕があっても、あえてあちこちを見て回ることはせず、時間をたっぷりかけて、行程の付近をぶらぶらと寄り道しながら、一服しながら、移動しました。目的地への移動の行程も、旅として楽しむことにしました。
 江戸時代の旅のように、自力、自分の足で移動していた時代、旅の大部分は移動行程を意味していてたはずです。目的地での目的を達成することは、中間地点に位置しています。帰りの旅も同程度の時間をかけることになります。
 移動手段の発展にともなって、目的を果たすことが最優先になりました。移動時間は少なければ少ないほどいい、移動速度は速けば速いほどいい、という「移動」になってきた。その結果、私たしは「忙(せわ)しなく」なりました。旅ではなく、目的達成のための「移動」となりました。いまや「旅」は、校務や公務、仕事しておこなうときは、なくなってしまったようです。
 今まで忙しなく働いていた私は、移動しかしていませんでした。学会も自分の発表だけが最優先になっていき、その後は論文を書いて発表してればいいのでは、となりきました。野外調査は続けていたのですが、そのときでも調査目的が最優先で、露頭から露頭へと「移動」していました。
 そんなとき、今回の「旅」をすることになりました。移動か旅、点から点へと見るか、点と点の間に線を見るか、行程や過程が無駄と見るか、重要とみるかの違いではないでしょうか、もっと大きな違いは、旅にはその過程を味わう心、気持ちに大きな影響を与えることがあります。
 さて、ここから本題です。「充足理由律」という言葉を御存知でしょうか。17世紀のドイツの哲学者ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)が唱えた考えで、「どんな事実についても、それが事実であるべき理由がなければならない」となります。いいかえると、何かの事象が起これば、それが起こるには原因がなければならない、あるいは真であるためには、それが真である理由が充足されなければならないというものです。論理体系を保証するためにも、必要不可欠な原理となります。
 充足理由律とは、なにかの事象が起こったら、つまり結果があれば、それを起こした原因が必ずあるはずだ、というものです。因果律、因果関係ということもできます。ただし、充足理由律とは、因果関係が解明できていなくても、理由はきっとあるはずという前提になっている考えです。
 充足理由律は、要素還元主義と時間の不可逆性にも関係します。
 要素還元主義とは、ある事象という総体は、いくつかの要素に還元でき、それぞれの要素を解明していけば、総体としての事象も解明できるという考えです。複雑な事象であっても、要素に還元し、ひとつずつ解決していき、すべての要素が理解できれば、複雑な総体も理解できるということになります。現在の科学や技術は、そして人文学や社会学も、およそ論理を用いる学問体系であれば、要素還元主義を用いています。因果関係が成り立てば、原因があれば結果が必然的に起こり、結果は原因があったからだ、ということになります。原因追求はできる。結果はついてくる。これは人のモチベーションを生み出す原動力にもなります。これが要素還元主義の意義でしょう。
 原因が先にあり、その後に結果が生じます。この順番は入れ替えることはできません。これが、時間の不可逆性を導きます。目的を達成するためには、要素還元主義や時間の不可逆性を前提として、過程は簡単、明瞭、短い、最小の方がいいわけです。そしていったん、定理、法則、定式ができれば、過程は持ち出す必要もなくなります。そのような成果や学問実績の積み上げが、科学を進め、技術を発展させることになります。
 充足理由律は論理学の世界では当然のことなのですが、世の中、論理だけでは成り立っていません。人の感情の世界です。感情では、因果関係がなくても、理由や原因は不明であっても、心が充足することがあります。それが先に述べたような、目的よりも過程を重視する「旅」に象徴されるものではないでしょうか。

・主催大学・
学会の開催校は学長の方針で、
茶道を重視していました。
1年生全員が必修で1年間履修しているそうです。
上級生も履修する学生もいるとのことです。
学会でもお茶が振る舞われていました。
私の一服いただきました。
まったく作法を知らなかったのですが、いい雰囲気でした。
接待くださった先生も穏やかでいい方でも
おもてなしもいただきました。

・人柄・
学会は小さいもので、
参加大学は百校ほどで、出席者は百数十名程度でした。
この学会のホストの代表の先生が明るく
しゃきしゃきとした方で楽しい方でした。
学会を手伝っておられた職員とも仲が良さそうで
この大学の人的交流がうまく行っている
ということが感じとれました。
学会も施設見学会も、有意義なものとなりました。

2018年6月1日金曜日

197 赤いニシンが蔓延

 赤いニシンとは、イギリスの食べ物のことです。赤いニシンは、違う意味にも使われることがあります。最近は、世界中に赤いニシンが出回っています。そして一番身近にたくさん見かけるの日本のようです。

 科学の世界では、研究成果を報告をするとき、その仮説や説明には論理性がなけければ無効であるという、当たり前の条件があります。ところが科学者が全員が、論理学の訓練を受けているわけではなく、経験的に学んでいくところもあります。もし論理の使用間違いが起こっても、それは故意でないはずです。
 研究成果の報告に、間違いをなくすためのいくつかの歯止めが用意されています。研究者になるための訓練の中で、指導教員によって論文の書き方、添削をかなり厳しく受けていくことになります。指導教員が連名の場合は、変な論文を投稿すると、自身の指導力が問題視されれしまうので、非常に丁寧に添削がなされていきます。指導教官も善意のもとに添削指導を行っています。
 このような善意のもとに成果報告のために、さらに査読というボランティア制度があります。学会誌でも商業誌でも論文を掲載する雑誌は、査読制度を厳重にすることで、間違いを減らす努力がなされています。雑誌によっては、査読制度で、論理の正しさだけでなく、その雑誌への掲載のふさわしかどうかも判断されることがあります。これはいい面と悪い面の両方があるかと思います。
 いい面として、印刷物は紙面が有限で印刷費用も有料ですので、無制限にどんなものでも掲載するわけにはいきません。査読制度により、質の順に掲載が制限されることになります。その制限が厳重であれば、雑誌への掲載が困難となってきます。雑誌の掲載の難易度が上がれば、そこに投稿しようする人も当然、そのような心づもりで内容は厳密さを整えて投稿していくことになります。ここで好循環がおこれば、掲載される論文のレベルや重要度が上がり、ひいては雑誌の品位、格も上がっていくことになるでしょう。
 他方、あまり厳格だと、その雑誌が敬遠され、質の確保ができなくなりかねません。さらに、投稿されたものが、常識はずれの結果や、今までにない奇抜な考えや説は、査読者に受け入れなければ、掲載されないことになります。つまり、あまり雑誌の難易度を上げすぎると、そこからは大きな独創性やユニークな考えが、こぼれ落ちていしまうことが起こります。これは雑誌にとっても人類の知的資産という面からも、大きな損失になります。
 もっと問題は、査読とは、人が人の成果を評価することです。査読者も人ですから、いろいろな感情が渦巻きます。故意に査読結果を曲げしまうことはないでしょうか。高名な研究者が著者、あるいは共著に加わっていたいり、親しい研究者が著者の場合、その査読はゆるくはならないでしょうか。さらに、査読者は、投稿した研究者には悪意はないものとして、論文の査読をおこないます。
 もし悪意をもった研究者が論文を投稿すると、網の目をくぐり、虚偽の混じった論文が、一流雑誌に論文が掲載されることになります。2012年の森口尚史のiPS細胞事件、2014年の小保方晴子のSTAP細胞事件などは大きなニュースになりました。他にも毎年のように、研究者の論文不正事件が発覚して、ニュースに取り上げられます。そのような不正行為をしたら、研究者としての将来がなくなります。それがわかっているはずなのに、故意にやってしまうのは、研究者にも、性悪説がありそうな気もします。
 近年、新聞やテレビでも政治や大きなニュースではあまり見たくないものが多いのですが、性悪説で振る舞っているように見える人が多くなってきているような気がします。政治家の不誠実は、本来、メディアが歯止めをするはずなのでしょうが、メディアの力も落ちているようです。選挙でしか意思表示ができない国民としては、少々無力感があります。
 答弁している政治家や官僚の論理展開を聞いていると、欧米の「red herring」という言葉を思い浮かんできました。
 red herringとは、「赤いニシン」という意味です。赤いニシンという魚がいるわけではありません。またニシンの身が赤いわけでもありません。イギリスの塩漬けや燻製にしたニシンは、独特のくさい臭いがして、身が赤くなるので、「赤いニシン」あるいはキッパー(kipper)とも呼ばれています。
 この「赤いニシン」という言葉は、19世紀のジャーナリストのコベット(William Cobbett)が使ったとされています。猟犬の訓練手法に「赤いニシン」という表現があると述べて、「政治的なred herringの効果は、ほんの一瞬のものでしかない。土曜には、その臭いも石のようにさめきってしまった」という言い回しを使ったそうです。コベットは、政治家が「赤いニシン」しても、週末には効果がなくなるといったのです。
 なぜ、「赤いニシン」という言葉を使ったのでしょうか。これは、ウサギを追う猟犬の訓練に「赤いニシン」を使い、猟犬が「赤いニシン」の臭いに惑わされないようにしたことに由来すると説明されています。しかし、実際の猟犬の訓練にはこのようなことはしないそうですが。
 red herring、「赤いニシン」は「燻製ニシンの虚偽」と訳されています。「赤いニシン」は、日本だけの状況ではなく、世界的に蔓延しているように見えます。
 幸いなことに、科学の世界では、「赤いニシン」はあまり蔓延していないようです。なぜなら、科学における論証は、論理的でなければならないからです。疑惑に対しても論理で反論しなければなりません。そして自然科学で再現性を持った分野であれば、真偽の確認が可能です。ですから、故意に虚偽の論文を作成しても、ことが重大であれば、検証されてきしまいます。これが論文不正事件として発覚するのです。それがあるので、心理的にストッパーがかかるはずです。そこには性善説があります。でも政治の世界ではそれはないようです。ここで示した論理は「赤いニシン」ではないでしょうか。
 さらに、科学者の素読制度とred herringの話題に、「赤いニシン」は紛れ込んでいなかったでしょうか。賢明な人の判断におまかせします。

・若者のニュース離れ・
近年、新聞やニュース番組を見る気がなくなります。
幸いワイドショーの流れている時間帯は見ないので
嫌な話題、ひどいシーンの繰り返しは見ずにすんでいます。
どのチャンネルでも同じソースで報道することで
大切な情報が抜け落ちていくように思えます。
横並びの報道は、不要だと思います。
多く人はそう思っているのでしょう。
若者のテレビ離れや新聞離れは
このような状況にも一因があるのかもしれませんね。

・ネット情報・
うちの次男はテレビも新聞もほとんどみません。
しかし、興味ある話題は、
地上波のニュースには流れないようなものまで知っています。
インターネットを通じて最新情報をキャッチしています。
スマホで入手しています。
これが若者分化なのでしょうか。
私はインターネットは重宝して使っていますが、
スマホをそこまでの利用をすることはできません。
世代が違っているのでしょうか
それとも私が時代遅れになってきているのでしょうかね。

2018年5月1日火曜日

196 尤度:主観と尤もらしさ

 これまで何度か必要に迫られて統計学を学んできました。どうも科学的プロセスで、因果関係などの論証には、十分に効力発揮できないと思っていました。そんな時、ベイズ統計に出会いました。

 科学では、事実・観察をしたり、あるいはデータを集めて、そこから何らかの仮説を証明するという作業をおこないます。これが科学をおこなうための一般的な論理過程、論理構造であります。仮説検証のためには必要な手続きなのですが、これは帰納法となります。得られたデータから規則性(ここでは法則と呼びましょう)を、帰納法で導き出そうするものです。
 この法則は、一般化されたものに見えますが、枚挙的帰納法と呼ばれ、法則が保証しているのは、データの範囲、集めたデータの限りでは、という「ただし書き」が常に付きます。枚挙的帰納法から得た法則は、自然界には斉一性が働いているという、前提が必要になります。自然の斉一性を正当化するには、帰納的に調べていくしかありません。これは循環論法となっており、証明不能です。
 このような帰納法の弱点は、たったひとつの反例が出てきたら、法則は否定されたことになります。法則を破棄するか、それともその反例に合わせて法則を変更してツギハギ状態の法則にするしかありません。帰納法を常用する自然科学には、ここに弱点、限界があります。つまり、証拠がいくら増えても、正しさを保証することも、証明することもできないのです。
 百歩譲って、いろいろな法則が成立しているとしましょう。もし法則が適用可能なら、○○という条件では、□□が起こる、ということです。法則の適用範囲(○○)を調べることも可能でしょう。もし適用できない範囲がわかれば、法則の適用限界を把握することにもなります。このような使い方は演繹法となります。演繹法をうまく使うことで、まだ得られていないデータや、まだ起こっていない現象などを予測することができます。あるいは、出てきたデータが、なぜそのような値をもっているのか、その由来を知ることができます。
 演繹法にも問題があります。当たり前のことですが、法則の適用範囲であれば適用でき、それ以外では利用できません。ただそれだけです。演繹からは、新しい法則を見つけ出すことはできないのです。ただ実用するだけで、そこには創造性がないのです。
 「○○という条件では、□□が起こる」という言い方をしたのですが、見方を変えると、○○は原因で□□は結果です。因果関係とも言い換えられます。帰納法は因果関係を見出す方法です。演繹法では、因果関係を利用して原因から結果を、結果から原因を知ろうとしたり、法則の検証したり、拡大解釈を試したり、限界を決めたりすることができます。帰納法は時系列を守って適用されましたが、演繹法は時系列を行ったり来たりできるものです。
 結果から、「未知の法則」を仮定して、原因を探ることをアブダクション(abduction)と呼んでいます。これは演繹法の飛躍的な帰納法の適用ともいえます。ただし、未知の法則は、研究者が根拠もなく仮定するものです。そこには、不確かさや主観が入ってくるので、非常に非科学的、非論理的です。さらに、因果関係の時系列を乱すものでもあります。アブダクションという方法論としてあったしても、論理的はまったくおかしなもので、論理的保証はありません。
 ところが、科学では未知の法則を「作業仮説」として、時々用いています。作業仮説は、研究者の裁量次第、思いつきでも、思い込みでもいいのです。作業仮説はスタートに過ぎないのです。科学の現場では、よく使われていますが、論理的には間違った方法です。ですから、なかなか論文に現れないものとなります。
 アブダクションは、最終的に帰納法によっては法則化はされていくのですが、その過程には、問題があります。ただし、飛躍的創造性を生み出す手法でもあり、セレンディピティ(serendipity)と呼ばれているものです。セレンディピティもアブダクションの一種で、古くから科学者は用いてきました。
 私は、アブダクションにおける、このような主観的な「もっともらしさ」や、なんとなくの「確からしさ」などを追求するための方法論が必要性だと考えていました。このような内容は、以前にもこのエッセイで述べたことありました。なかなか進展もできず、なかなか学問として方法論にならないだろうなと思っていました。
 ところが、ベイズ統計というものの存在を知りました。実は統計学を学んでいる時、ベイズ統計の用語や式はみていました。深くは理解せず、考えていませんでした。ベイズ統計には、尤度(ゆうど、likelihood)と呼ばれるものがあります。尤とは、「尤(もっと)もらしさ」という意味です。尤度とは、観察された結果から、原因がどうであったかを推測するもので、その尤もらしさを表す値のことです。ベイズ統計には、尤度の他にも、事前確率(prior probability)、事後確率(posterior probabilit)、主観確率(Subjective probability)など、それまでの科学や統計学にはない概念が使われています。非常に興味がでてきました。
 ベイズ統計は、実は古くからあり、そして時々必要に迫られて使われてきました。近年、特に21世紀に入ってから注目されている学問分野です。ベイズ統計の基本は、ベイズの定理です。言葉でいうと、
  事後確率は事前確率と尤度の積に比例する、
というものです。事前確率は原因、事後確率は結果、尤度とは尤もらしさです。結果は原因ともっともらしさの積、で求められるということです。考えてみると当たり前です。どんな可能性(尤もらしさ)でも、その確率に応じた、結果の可能性があるはずです。このような考えた利用できるのは、非常に便利です。
 さらに、事前確率が不明の場合は、「理由不十分の原則」で、適当にあるいは主観的に値を入れていいというものです。それで何らかの結果が得られれば、その結果を次の事前確率して計算してしまえば、次の事後確率はよりもになります。このような考えを「ベイズ更新」といいます。実験や観察では次々とデータでてきます。それを順次、計算に組み入れていけば、理論の確からしさが確かめられるということです。これは数学的にも、いろいろ証明されてきており、自然科学では非常に有用な方法であるともいます。
 従来の統計学では、主観などはいることはなく、確率も客観確率となります。また、全体を見渡して統計を扱うので、実験の量も組み合わせも、最初に決めれた、一定量、決めた計画どおり進めなければ終われないのです。しかし、ベイズ統計では、気軽にスタートして、計算で満足できる評価がでれば、そこで終わっていいという保証がえられるのでのす。非常にいいものです。もちろんいろいろ批判はあるようですが、実用性は非常に高いようです。
 私は勉強中なので、ベイズ統計の本質は、まだ十分理解できていないかもしれません。しかし、そこに非常に大きな可能性を感じています。なにより、人の考える生理にあった方法論でもあります。あるいはついつい経験的にやってきたことが、確からしいという保証がえられるのです。これから、ベイズ統計に、もう少し深入りしていこうかと思っています。

・勉強中・
ベイズ統計に関する本を読んでいます。
計算方法については、入門書をいくつか読みました。
ベイズ統計の思想や哲学を理解するための本も
いくつか読んでいます。
なかなか難しい哲学なのですが、
そこには今までの科学的論証には足りなかったものが
ありそうな気がしています。

・家族サービスも・
いよいよゴールデンウィークです。
今日は間の平日ですが、私は現在調査中です。
このエッセイは送信予約しています。
道南地方の調査にでいていますが、今日帰宅します。
ゴールデンウィーク後半は
通常通りに仕事をするのですが、
家族サービスも必要でしょうね。

2018年4月1日日曜日

195 三友:実利とノスタルジー

 友人関係には、現在進行中のもの、実利関係で結びついているもの、実利がなく過去からの付き合いのもの、いろいろな関係があります。実利のない関係は、なかなか居心地がいいですが、注意も必要です。

 地質調査には、ひとりでこつこつとおこなうものと、グループや共同で組織だっておこなうものとがあります。目的に合わせて用いられます。私は、現在では、ひとりでおこなう調査ばかりをおこなっています。自分の現在の研究テーマが、ひとり露頭や石に向きあって考えていくことが中心になっているからです。まれに友人たちと調査をおこなうこともありますが、それは現在のメインテーマとはなっていません。
 以前は、非常の大きな学術研究や海外調査のメンバーとして加わったり、自身が代表になっておこなった共同研究や海外調査などもありました。目的を同じくした人たちと共同研究をすることは、ひとりではできない広範囲や作業量、データ量などをこなしたり、メンバーの多様な専門性を活かしたより広範で学際的な研究もおこなえます。共同研究でないとできないものテーマも多数あります。
 最近は非常に大きな国際的な共同研究が、いくつもおこなわれるようになりました。論文でも、数十人が著者として名前を連ねることも珍しくありません。そんな巨大研究プロジェクトは、マネジメントする人たちは、非常に大変な苦労をしているだろうなと思います。それでないとできないような研究もあるのです。巨大な望遠鏡や、実験装置などを開発したり惑星探査をしたりするような研究は、大人数にならざるえません。
 共同研究をおこなうとき、同じような専門性を持った人たちなら、気の合った人たちを選びます。つまり、その研究に達成するために、その人の専門性や技量もさることながら、一緒に研究を進めていける人たるかどうかが、重要になります。
 巨大プロジェクトはさておいて、比較的少人数での共同研究、あるいは共同作業を考えましょう。他の人と何かをおこなうとき、そのメンバーをどのような基準で選ぶか、ということが今回の話題です。相手の専門性や能力は、共同する場合、重要になります。でも、相性の悪い人とは、共同研究は多分うまくいかないでしょう。なんとか進めても、精神的に非常に疲れたものになるでしょう。人数が少なければ少ないほど、相性の悪い人との共同は、難しくなるでしょう。しかしそれなりの専門性や能力がない人とは、共同作業はできません。
 ある人が他の人と共同研究をする場合です。Aさんは、専門的能力が秀でているが、自分とは相性が悪い。Bさんは、専門能力はそれほどではないが、まあまあ相性が合う。このような選択であれば、テーマに緊急性や実利性が強ければAさんを、それほどでなければ多くの人はBさんを選ぶでしょう。では、もうひとりCさんがいて、専門能力は一番劣っているが、一番相性が合うとしましょう。Aさん、Bさん、Cさんのうち一人を選ぶとすると、誰を選ぶでしょうか。
 実利的に考えればAさんを、気持ちよく共同研究をしたい人はCさんを選ぶでしょう。折衷案がBさんでしょうか。共同研究の目的、あるいは達成の優先度や切迫感、期間にも左右されるでしょう。早急に確実な成果を求められているのならAさん、成果も必要だが、あるていど長い研究期間が必要の場合はBさんでしょう。萌芽的なテーマで、非常に長い期間に及び、共同での野外調査などもあり、あれこれ相談しながら試行錯誤、修正しながら研究が進めなければならないのなら、Cさんでしょう。
 人対人の付き合いは、難しいものです。「持つべきものは、友」という言葉があります。私も、友人は大切だと思います。でも、そこに上で述べたような、利害や成果がからでくると、選択は悩ましく、どろどろした打算が芽生えてきます。最近の研究には、そのようなものが多くなってきているような気がします。ですから私は、個人できる研究を専らとしています。
 一般的な友人関係を考えてきましょう。私は高校を卒業してから、立場や職業、住居を転々と変えてきたので、長い付き合いしている人は、限られています。近所付き合いから発展したものはありません。しかし、最近、同窓会や定年、還暦などで、同世代の友人たちと連絡を取りあうようになってきました。私だけでなく、SNSの普及により、今まで連絡を取り合っていなかった友人たちと、連絡が取り合えるようになった方いるのではないでしょうか。昔懐かしい友人は、いいものです。でもその多くは、SNSやメール連絡が中心しているのではないでしょうか。
 私は、大学の学部の同期で、いち早く?還暦を迎えた仲間がいて、その人を中心に連絡を取り合うようになりました。そして、同窓会のメールでの連絡網が復活して、同窓会での飲み会も実現しました。今年の秋にも、また同窓会がありそうです。そんな友人関係は、自分にとって実利的な関係がないので、居心地のいいです。個人的に合う合わないのようなものがあるでしょうから、同窓でも合わなければ、連絡をスルーすればいいわけです。メールはそんな疎遠さを生み出すこともできます。
 一般に、どんな友人が良くて、どんな友人が良くないのでしょうか。孔子は、益者三友と損者三友としていっています。益者三友とは、役に立つ友人のことです。その三友とは、
  友直 友諒 友多聞 益矣
  直(なお)きを友とし、諒(りょう)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは益なり
といっています。これは、直きは正直なこと、諒は誠実なことで、多聞は博学のことです。そんな人を友とすること、自分の益となるといっています。
 損者三友とは、
  友便辟 友善柔 友便佞 損矣
  便辟(べんぺき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり
といっています。便辟とは体裁のことで、善柔とは人当たりがいいが誠意のないこと、便佞とは言葉巧み、口がうまいことです。そんな友人は損者となるといいます。
 孔子はもっとなことをいっていますが、ある人にとっては、損者かもしれませんが、別の人にとっては、益者となっているかもしれません。ある時は益者となり、またあるときは損者となることあるでしょう。研究という実利面があっても、Aさん、Bさん、Cさんの例のように、損者であっても、うまが合う方を選ぶこともあるでしょう。まして、研究などという実利的な絡みがないところでの友人関係は、もっと多様な選び方をされるでしょう。
 古い友人とは、ついつい思い出話に浸っていき、現実逃避になってしまいそうで、少々注意が必要です。過去のノスタルジーの世界は、なかなか居心地のいいところなので、長居をしなようにしなくては。

・新年度・
いよいよ新年度なります。
大学も新入生を迎え、学年をひとつ上がった学生となります。
最近は、大学のスケジュールもタイトになり、
我が大学では4月の初日に入学式がおこなわれます。
そして1週間でガイダンスをすませて、
翌週からは講義がはじまります。
学生も慌ただしいですが、教員も慌ただしくなります。
もう少し落ち着いて、
新年度のスタートができればいいのでしょうが、
そうもいかないようです。
これからは、ますますタイトになることあっても、
のんびりという時代には戻りそうもありませんね。

・夏靴夏タイヤ・
今年は、北海道では久しぶり雪解けも早いです。
暖かい日も多くなってきます。
全国的な傾向でもありますが、
今年は、暖かさと寒さの変動が激しいようです。
靴ももう夏グツに変えます。
車ももう夏タイヤでもいいかもしれません。
近々変える予定です。

2018年3月1日木曜日

194 不確かさの楼閣

 科学は、信頼性のあるもののように思っています。しかし、すべてのものが必ずしも確かではなく、「不確かさ」はどこにでも紛れ込んでいます。「不確かさ」への心構えも、持っているべきでしょう。

 「空気のような存在」という言葉は、ごく普通に使っています。そのもの(人)は存在するけれども、その存在を感じさせないという意味です。空気は地球の大気を構成している酸素が2割、窒素が8割の気体のことをいいます。でも、酸素の起源や二酸化炭素の行方などを調べている専門家にとって、地球の空気、大気は決して「空気のような存在」ではありません。
 日常的に使っている言葉には、自身の関心をもっている言葉が入っていると、ついつい気になってしまいます。中には専門語もあり、その分野の研究者にとっては気になります。
 例えば「溶けたマントルからきたマグマ」という間違いをよく聞くのですが、それは明らかに間違いで、地質学者にとっては気になります。マントルは固体の岩石からできています。ただ特別な条件ができた場合にのみ、岩石が溶けてマグマができることがあるのです。「宇宙に生命はいるのか」という言葉もよく聞きます。これは宇宙に生命の存在を問うものですが、宇宙に生命は存在します。地球は、宇宙の中に存在します。地球には生命がうじゃうじゃいます。ですから、「宇宙に生命はいる」は問うまでもない質問なのです。でも、先程の「宇宙に生命はいるのか」という問いは、地球生命を除いて「いるのかいないのか」を問うているのでしょう。ですから、正確には「宇宙の地球外生命はいるのか」という問いにすべきでしょう。宇宙という言葉の扱いは、どうもいい加減な気がします。
 では本題です。「それは誤差の範囲だ」という言葉は、日常でも使っています。統計学では誤差を厳密に扱っています。ですから、統計学を学んでいる人や専門家には、「それは誤差の範囲だ」と気軽にはいってほしくないはずです。数値や分析値を扱うような立場の人は、つねに誤差が気になります。
 私も統計の専門家ではないのですが、誤差は気になります。誤差というより、統計にはかからない不確かさ全般でしょうか。
 岩石学では、岩石のいろいろな成分の化学分析をし、分析値を用いて研究を進めていきます。例えば、ある露頭でえられた岩石と、他の露頭や他の地域の岩石と比較検討をおこないます。また、化学的類似性から形成場を類推することなどもよくします。
 分析値を扱う時は、注意が必要になります。同じ岩石できている露頭で試料をいくつかとって分析しても、分析値はある程度のばらつきが生じます。これは自然物の分析では、必ず生じるものです。自然は理想的ではなく、なんらかの不均質さがあります。あるいは分析は人や機械を介しておこなうので、そこに不確かさが紛れ込みます。同じ露頭から同じ岩石とみなされる試料を多数とって大量に分析していくと、ある統計的なばらつき(正規分布)で分析値が集まっていきはずです。そのときの平均値が、もっと信頼できる値(岩石の化学組成)となるはずです。ただし、分析値の正規分布には幅があり、平均値の誤差として判明しているので、その誤差が分析もしく岩石組成の精度となります。その誤差は、先程いった不確かさに由来しています。実は、統計処理できない不確かさが一杯紛れ込んでいます。
 まず、毎回こんな分析をして検討を加えることはありません。研究テーマがそこにはないからです。露頭を代表していると考えられる試料ひとつを採取します。もちろんいくつもタイプがあれば、多数採取することもあります。このような作業を露頭ごとに繰り返して、調査地域の代表的な岩石のすべて集めて、分析できる試料にしていくことになります。その作業量が、かなりのものになります。それを考えると、露頭の試料選択は慎重におこないますが、代表となる一個としたくなります。その試料は、研究者自身の判断で、見た目で、経験上一番いいと思えるものを選ぶことになります。
 自然の露頭には、必ず変質や風化が起こっています。そんな部分は避けて採取したり、分析の前に除去していきます。でも、本当に除去できているかという不安はあります。時には、代表的な露頭が、すべての分析に適した岩石ばかりとは限りません。風化が激しい、変質が激しい露頭であっても、そこにしかないタイプの岩石だとすると、試料として採取し分析するしかありません。もちろんできるだけ本来の岩石の組成になるように、変質や風化部分は除去していきます。統計的に処理したとしても、本当に正規分布になっているかどうか不安もあります。正規分布だったとしても、誤差が大きくなったり、その試料がたまたま端の方の試料だったらという疑念が常にあります。でも分析精度を正規分布しているかどうかを、毎度チェックすることは不可能です。
 私は、そんな岩石を相手にしていたので、分析値の信頼性には常に悩まされていました。自然物の分析値に適用する場合、自然物から分析に至るまでの間に「不確かさ」が必ず紛れ込んでいます。統計処理する以前の段階での「不確かさ」です。統計的に評価できない「不確かさ」のある分析値で、どの程度を差異とし、どの程度を同等、類似とするかが悩ましい判定となります。
 それでも、分析誤差、あるいは統計的誤差の範囲内で一致している場合は同じとしていいいでしょう。多数の中の一つになっていくのですから。ところが、化学組成が似ているという範囲から外れる場合が問題になります。ある岩石の分類の定義の範囲の外ですが、その違いがわずかだったり、ある化学組成にだけ明らかに誤差以上の差異が認められる場合です。
 その成分が変質や風化で動きやすいものであれば、検討に加えるべきではないでしょう。もし動きにくい成分で明らかな違いがあれば、「違う」と判断するでしょう。でもその違いの「不確かさ」の評価はできていないのです。それを論文では記載で明示していて、研究者の倫理には則っていたとしても、そこには「不確かさ」が紛れ込んでいるので、不安が残ります。
 その違いから、何故違いが生じたのかという、原因を探る研究になることもあります。その原因を前例、典型として、他の地域の岩石全体の成因を考えいく研究者がでてきます。その成因を利用して、このタイプのマグマの成因論として一般化していくという研究者もいることでしょう。親ガメ(最初の判断)の上に、子ガメ(地域の岩石全体に成因)の上に、孫ガメ(マグマの成因の一般論)へと話が進むのです。いつしか「不確かさ」が、見えなくなっているのかもしれません。本当にその論理は、信頼できるのでしょうか。
 信頼できそうな岩石試料を用いた化学組成で、ほとんどの成分が同じでも、どれかひとつの成分で全く違うものが見つかったら、違いがあることにして議論を進めていきます。その違いはどうしてできたのかが、問題となるわけです。主成分では同じでも、微量成分や同位体組成が明らかに違う場合は、その原因を追求することは、岩石学では重要視されて研究が進みます。でもそこにもきっと何らかの「不確かさ」が紛れ込んでいるはずです。
 多くの自然科学では、どこかに「不確かさ」を持ちながら議論が進められていきます。別の人や別のところで、同じような作業によって検証されていけば、その「確かさ」は増していくのでしょうが、その作業は人海戦術となります。自然物を対象にした科学には、そのような難しさと「不確かさ」があります。
 科学とは人の営みでもあるので、人が作り上げていくものでもあります。自然の科学とは、不確かさに満ちた楼閣であることを、心しておかなければなりませんね。

・オフィオライト・
オフィオライトと呼ばれる岩石は、海洋底にあったものが、
陸地に持ち上げられた古い岩石群です。
私が研究していたものは、2億8000万年前ころの
古生代ペルム紀前期に形成されたものでした。
変成、変質、風化があり、激しいものもありました。
あるタイプの岩石は、特にひどいものでした。
でもその違いを、露頭では見分けることができずに、
顕微鏡で観察することでわかりました。
偶然に見つかったものでした。
そのタイプの岩石が、この地域のオフィオライトの
成因において重要な役割を果たしました。
多くの成分の分析を、その岩石でおこないました。
変成などで動きにくい、確からしいものだけで評価して、
成因論を組み立て、一般論化しました。
今でも、その成因論は正しいと思っていますが、
不確かさが、紛れ込んでいるのは確かです。

・梅はまだか・
3月になりましたが、北海道はまだ雪の中です。
以前住んでいた神奈川県の西部は、梅の名所があちこちにあり、
3月ともなる多くの人出となっていることでしょう。
神奈川から離れてもう16年になります
子どもたちは、生まれは神奈川ですが、
北海道で育ちとなります。
寒いところは嫌で、温かいところ、
本州志向が強くあるようです。
幸い小さい頃から、あちこち連れて行ったので、
ひとつの地域に固執することはなく、
好きなところを見つけて、出かけることことにも、
移住することにも、抵抗はないようです。
これは私も持っていた性質なので
子どもにも伝わったようです。

2018年2月1日木曜日

193 若者よ、失敗を恐れるな、糧となる

 どんなに偉人、天才と呼ばれた人であっても、皆同じような苦労や失敗をしています。失敗を恐れず、立ち向かうことです。失敗こそが今後の人生で大きな糧となります。これは自身で経験から学ぶことなのでしょう。

 大学の教員をしていると、常に若者と接すっしています。若者が大学の4年間での学びを手助けするのが、教員の仕事でもあります。しかし、大学に来る若者の中には、実家を離れての一人暮らしの自由さで弾けていくもの、新しい友人関係やクラブやサークル、趣味など興味のあることにのめり込むもの、アルバイで得たお金に魅力を感じているもの、そんな若者も結構な比率で見かけます。学生は、大学では学びという本業があるので、そのような目先の楽しいものについついのめり込んで、本業をなおざりにする若者もいます。それがもしかすると将来の本業になることもあるかもしれません。でも、なぜ大学にいるのでしょうか。高い授業料はなんのためなのか。アリストテレスは、「私は敵を倒した者より、自分の欲望を克服した者を勇者と見る。自分に勝つことこそ、もっとも難しいことだからだ」といっています。目先の楽しさは、人生においての大敵になります。それに打ち勝ち、本業に向かうことこそ、大学生の本分でしょう。
 大学は最高学府なので、学びの手助けをするのが、教員の主たる仕事です。しかし近年では、多くの時間を、挫けそうな若者に手を差し伸べるために費やしているように思えます。それは、決して無駄ではなく、若者が成長し、変化し、立ち直っていくのを見るのが、やり甲斐にもなり、楽しみでもあります。もしかすると、失敗体験は、その若者にとって、学問以上に、重要な人生の学びになるかもしれません。アインシュタインも「失敗をしたことがない人間は、新しい挑戦をしたことがない人間である」といいます。私も、挑戦することが重要で、失敗を恐れてチャレンジしないと、何も得られないことも学んできました。
 若者は、大学の4年間で、それぞれの目標に向けて、いろいろな学びや経験を積みながら、成長して、卒業していきます。大学の学びが、今後の人生でどの程度役に立つかわかりませんが、若い時苦労して得たものは、将来きっと役に立つと思います。ゲーテはいいました「若くして求めれば、老いて豊かである」と。私も、長い人生で多くの失敗をしてきました。その苦労は現在の自分を支えています。
 大学の教員の目は、常に在学中の若者に向かいます。その繰り返しが、大学教員の日常となります。私自身は変わらないのですが、若者が常に変化していくので、常に新鮮な気持ちにさせられます。ただし、私は着実に年齢を重ねていきます。気づかぬうちに還暦も過ぎてしまいました。
 私が教員として若者たちに接する時に誇れることは、多様な失敗を経験している点にあるのはないかと思います。年齢とともに失敗は多くなるので、これが、老人の誇れる点です。現在の若者の悩みと同じものはないのですが、多数の失敗経験があると、そこには似た経験があります。ですから、そちらにいくと失敗するよ、というアドバイスはできます。それでも、どの選択をするのかは、若者自身に託されています。苦労しない側、逃げる側に失敗が多くあるので、ついつい若者はそちらを選択してしまいます。そして、失敗をします。アインシュタインは、「常識とは、18歳までに積み重なった偏見でしかない」といっています。私もそうでした。でもそこから、何を学ぶか、が重要です。
 私の失敗体験から些細な余談を。忘れ物とスケジュール管理のミスです。修士課程に卒業式の日にちを間違えて会場にいったこと、免許の書き換えにいって免許証を忘れていったこと。手痛い失敗は、二度としたくないので、防止策を講じました。忘れ物をなくすために、身につけるもの(財布:常に免許証はここに、スマホ、カギ類、ペン)は、いつも衣類の同じポケットに入れること、帰宅後、それらは、自宅でいつも同じところ保管し、自宅を出る時に同じポケットに入れることにしています。スケジュールは、自作のカレンダーにすべてを記入し、管理してます。カレンダーは、ノートと共に常に持ち歩くようにしています。記憶に頼ることは止めて、記録で対応することにしました。デジタルにしようとしましたが、うまくいきませんでした。余談でした。
 私にとっても大学の4年間は、将来もわからないのですが、受験から開放され、好きなことを学びたいという気持ちに溢れてました。しかし、なかなか自力では学べませんでした。4年間の大学の生活の中でも心に残っていることは、大変な思いが多かったのですが、学びの苦労と楽しみと師との出会いがありました。大学での学びに対しては、それなりの努力をしました。学びの苦労の末の楽しみの体験が、私を研究者の道へと導きました。考えると学びの苦労と楽しみは、苦労することが方が多く、楽しみの方が少なかったと思います。ゲーテは「『やる気になった』というだけでは、道半ば」といいます。苦労して、努力を継続した先に楽しみがあります。そして、何人かの師との出会いも重要でした。学部時代、修士課程時代、博士課程時代、オーバードクター時代、特別研究員時代、博物館時代、それぞれの時代に師に会いました。その出会いで学問の面白がさ継続され、その道を進むことができました。
 学ぶために苦労することに、どうも麻薬的な魅力を感じているようです。そして今の私の学びでは、日常的に苦労を継続することが当たり前になり、楽しみの方を感じるとすぐに、次の苦労を求めているような気がします。大学の後期の授業終わった当たりから、苦労しながら研究することが楽しみになってくる時期です。毎日が、研究できることでワクワクしています。一種の躁状態なのかもしれません。
 若者は、4年間の大学生活の後、期待と不安に胸を一杯にしながら、社会にでていきます。若者にとっては、大学とは人生のいち場面、長い人生の一部にしかすぎません。しかし、その期間での学び、失敗の経験、仲間と師との出会いは、私にとっては、非常に重要なものになっています。私は、その大学生だけでなく、さまざまな時代、多くの師に手助けをいただきました。私が大学教員になり、若者と接するようになったのは、師への恩を若者へと返していくことになっているのかと思うようになりました。
 若者よ、失敗をすることは、痛い。だが、それを恐れてはいけない。アインシュタインはいう「チャンスは、苦境の最中にある」と。

・頑張れ、若者たち・
2月です。大学も後期試験が終わりました。
2月から3月にかけて、大学4年生が公式行事は
卒業式だけです。
ただし、実際には4年生は、いろいろことに向かっています。
ある時は、卒業旅行や最後の自由を謳歌します。
それは、大学生活を最後まで味わいつくそう
としているのでしょうか。
企業の研修に参加したり、
教員となるものは、スキルを少しでも身につけようとします。
社会に出る時に不安を少しでも解消するためでしょうか。
どんな2ヶ月を過ごしても、
若者には、4月は同時にきます。
そこからは大学や教員の助けはありません。
自身の力で生きていくことになります。
頑張れ、若者たちよ、と、
この時期いつも思ってしまいます。

・ジレンマ・
一人の人間に与えられた時間や
できることは限られています。
大学教員が、問題を抱えた若者に真摯に対応するということは
それだけ多くの時間と精力を、
ひとりに注ぎこむことになります。
その分、他の若者への時間や精力が減ってきます。
もし、少しの手助けをしてあげるだけで、
大きく変われるかもしれない若者が多数いるかもしれません。
時間や精力の配分のジレンマに常に悩まされます。
答えのないジレンマなのでしょうね。

2018年1月1日月曜日

192 夢のはなし:若い頃の私に

 今年は、少々長い夢の話ではじめましょう。年齢のせいでしょうか、過去を振り返ることも多くなりました。過去の自分の生き方を考え、今の自分のあり方、残された時間の使い方を、考えるようになりました。

 初夢とは、元旦に見る夢のことです。元旦は大晦日が終わった0時からはじまります。大晦日には夜更かしをしていることも多く、元旦になってから寝る人もいることでしょう。その時に見た夢は、初夢とはいわないそうです。元旦の夜から2日にかて見るのを、初夢というそうです。私はこのエッセイを2017年の年末に書いています。ですから、2018年の初夢は、まだ見ていません。以前見た夢で、妙に記憶に残っているものがあります。それを紹介していきましょう。
 それは、若い時の私自身を、高所から見ている自分がいるという不思議な夢でした。博士課程の大学院生の頃でした。研究を進めることにもがき苦しみ、将来に不安を抱えて、こんな生き方、こんな日々を過ごしていいのかという不安に苛まれている時期でした。その時期は、研究テーマに強く興味があり、少しずつですが成果を挙げていました。しかし、周りのいろいろな大学院生と比べると不安がありました。すごく優秀で能力のある先輩たち、こつこつと成果を挙げ続けている同輩、すごく精力的に研究を進めている後輩たちもいました。周りの優れた大学院生たちをみていると、研究者としてやっていけるのかという不安を抱えている時期でもありました。
 話題が変わります。
 このエッセイは、2002年1月からはじまりました。16年目となりました。その間に、博物館から今いる大学に転職をしました。そして、少し前に還暦も迎えました。転職の前と、還暦前後など人生の節目節目で、人生を深く考えることになりました。いずれの時も、生活の安定した時期でもあったのですが、今後の自分の生き方を、深く考えたり、岐路であったり、人生設計を再考することにもなりました。
 それまで自分のやってきたことや興味を持ってきたテーマを振り返り、自身の今後の進む方向を考えました。自分にどのような能力があり、自身にはどのような研究に向いているのか、これまでのキャリアを活かしながら、自分の興味も満たすものは何か、という過去と今、そして将来について考えました。
 大学院生(夢で見た時代の自分)の時、研究の面白さと大変さ、そしてその道で食べていくことの難しさにも気づいた頃でした。地質学で自分が興味をもって分野で、能力と適正があるのかに疑問が生じていました。また、研究者として定職を手に入れる大変さ(オーバードクター問題があった時期)も感じていました。特別研究員の頃は、先端の研究を進めていく楽しみを味わっていましたが、一方では世界を一流の研究者を相手にする時の体力、精神力の消耗の激しさも感じていました。
 その後、博物館の学芸員として勤めることになり、これからも地質学も進めていく覚悟を決めたのですが、職務上、市民への地質学に関する科学教育を行う必要性がありました。科学教育も片手間ではできるものではなく、それなりに精力も時間をかける必要ありました。そんな時、科学教育で新しい試みをしてみたいというテーマもでき興味を覚えてきました。さらに、科学教育を進めるにあたって、他の学芸員や地域の人々と共同研究として研究することの楽しさ、新しい研究手法(インターネットの利用、障害者と連携、子どもへの長期教育など)を使うことへの興味も生まれました。地質学とは全く違った、科学教育という新しい分野で、研究をしていくことへの好奇心も湧いてきました。
 大学の教員に転身するとき、年齢的にこれが最後の転職となる考え、どのような地域、どのような環境で、何をするかを、深く考えました。
 地域として、私は都会が嫌なので、自然の残っている田舎で職を探しました。ただし家内との相談が必要で、都会と田舎の折衷した地域となりました。
 環境としては、学生がいて教育の実践ができるところ、理系ではなく人文系の大学が希望でした。なぜ人文系かというと、次の地質哲学を始めたいということがあったからでした。
 何をするかは、地質学と科学教育の他に、新たな研究分野として、地質哲学(地質学が扱っている素材、概念への深い思索)を進めたいと考えていました。ですから、科学(地質学)、教育(科学教育)、哲学(地質哲学)という3つの大きな興味を並行して進めていくことが、残された研究者人生でのライクワークとなるテーマにしたいと考えました。
 10ヶ所以上の応募の末、30人以上の応募者をくぐり抜けて、今の大学に運良く就職できました。でも世の中は、なかなか思い通りに進みません。
 大学では、似た分野で興味を持つ人がいなかったので、共同研究という形態はとれないことがわかってきました。一人で研究を進めることになりました。もちろん理系の設備はないので、純粋な地質学をすることはもともと諦めていました。そのかわり、地質学もシンプルな野外調査を中心としたものを考えていましたが、そのテーマは大学の生活が落ち着いてからとしました。このような状況で大学の教員としての生活が始まりました。
 テーマは考えた結果、博物館で進めてきた自然史学に基づいたものをすることにしました。素材としては、石や砂です。それらが存在する川(一級河川を中心)、海岸、火山(活火山を対象)としました。川原の石や川、海などにある砂を扱うことにしました。これらは地質学的素材ですが、これまで研究対象にあまりならないものでした。しかし自然史学の対象としては、一番ふさわしいものと思えました。
 地質哲学という、だれも考えていない分野を進めていこうと張り切ってました。それは、地質学で重要な成果をもたらした地層や露頭を見ることで、地質学的概念を深く考えていきたい思っていました。
 このような研究の興味を継続して、大学に来て15年が過ぎたとき、還暦を迎えました。そこでまた、自身の行先を深く考えました。大学教員として残された8年間を、いかに過ごすかということでした。
 研究論文は、これからもテーマのある限り書き続けるのですが、それを集大成していきたいと考えました。できれば毎年成果をまとめて本を執筆していこうと考えました。無謀かもしれませんが、とにかくやってみようと思いました。出版は、PDFの電子書籍にすれば、手軽に公開もできます。また少しの部数であれば、少額でオンデマンド印刷できることも知りました。成果を本にしていくことが、還暦になった時に考えたことでした。
 ライクワークとして「地質学の学際化プロジェクト」として可能な限り出版していこうと考えました。昨年度(2016年)には、第1巻地質哲学1「地質学における分類体系の研究」、そして昨年度末には第2巻総説(科学教育1)「自然史学の確立と自然史リテラシーの育成を目指して」を出版することができました。幸い研究費がついて製本して上梓することができました。
 本一冊をまとめるのは大変な作業なのですが、内容は自分の興味をもって進めてきたことなので、楽しい作業でもあります。そしてなにより、個人でも、ライフワークの成果を出版できる時代になったことは、非常にありがたいものです。
 さて、最初の以前見た夢に、話はもどります。
 若かりし頃の自分を見ていた私は、夢の中で、自分自身に向かって「そのまま進めばいいんだ」と届くはずのない声をかけていました。そして、「悩むことも大切だ」とも、声をかけていました。悩んでいること、そこには深く考えるという姿勢があります。「それが大切なんだ」と。そして、目が覚めました。その夢は、今もはっきりと覚えています。
 地質学の研究としては、興味が変わってきたこともあって、ほとんど学界に貢献できませんでした。しかし、興味を持っていることを一所懸命におこない、成果を出し続ければいいのです。興味を持っているものが変わってきても、一所懸命にやり続ければいいのです。そうすれば、一生楽しめることを、若い時分に伝えたかったのです。
 今までの人生の経験から、私は科学的な新知見を見出すことより、新しことを取り込み、面白いと思えることは、長く継続することをしてきました。科学教育の一環として、文章を書くことに楽しさを覚え、熟練してきました。興味のあることを、わかりやすく文章化していくという能力が身につきました。
 優れた才能のある研究者たちには、かなわないことはわかりました。しかし、幸いなことに自身の得意とすることを見つけることができました。それは大学院の時代に、なにより地質学の道を進むこをと諦めなかったこと、努力を継続してきたこと、深く悩むことで深く考える力が身についたからでし。さらに、何度も転身して新しいことを始めるのが楽しくなったこと、書くことができるようになったことでした。現在の自分は、若い頃から歩んできた集大成として、存在しているのだということを教えてくれる夢でした。
 夢の中の若い頃の自分と、今の自分、そしてこれまで人生を振り返るという昨年みた私の夢の話でした。

・年賀状・
明けまして、おめでとうございます。
皆さんは、年賀状をそれくらい書かれているでしょうか。
今でも私は、紙の年賀状を出しています。
少しずつ減らしているのですが、
今年から、縁の薄くなりそうな方には、
今後年賀状を出さない旨の年賀状をお送りしました。
今まで出していた多くの人に、
その年賀状を送ることにしました。
人生の終わり方を考えたためです。
もし気になるようでしたら、
ホームページを見ていただければ
その一部を公開しています。

・一所懸命・
人生を考えるということは、
納得のできる生き方をすることだと思います。
でも、納得は後にすることですから、
今は、与えられた条件で、
一所懸命に考えるしかありません。
その結果がどうであろうと、
次の段階、条件で、一所懸命を
繰り返していくしかありません。
それが私の生き方となりました。