2018年3月1日木曜日

194 不確かさの楼閣

 科学は、信頼性のあるもののように思っています。しかし、すべてのものが必ずしも確かではなく、「不確かさ」はどこにでも紛れ込んでいます。「不確かさ」への心構えも、持っているべきでしょう。

 「空気のような存在」という言葉は、ごく普通に使っています。そのもの(人)は存在するけれども、その存在を感じさせないという意味です。空気は地球の大気を構成している酸素が2割、窒素が8割の気体のことをいいます。でも、酸素の起源や二酸化炭素の行方などを調べている専門家にとって、地球の空気、大気は決して「空気のような存在」ではありません。
 日常的に使っている言葉には、自身の関心をもっている言葉が入っていると、ついつい気になってしまいます。中には専門語もあり、その分野の研究者にとっては気になります。
 例えば「溶けたマントルからきたマグマ」という間違いをよく聞くのですが、それは明らかに間違いで、地質学者にとっては気になります。マントルは固体の岩石からできています。ただ特別な条件ができた場合にのみ、岩石が溶けてマグマができることがあるのです。「宇宙に生命はいるのか」という言葉もよく聞きます。これは宇宙に生命の存在を問うものですが、宇宙に生命は存在します。地球は、宇宙の中に存在します。地球には生命がうじゃうじゃいます。ですから、「宇宙に生命はいる」は問うまでもない質問なのです。でも、先程の「宇宙に生命はいるのか」という問いは、地球生命を除いて「いるのかいないのか」を問うているのでしょう。ですから、正確には「宇宙の地球外生命はいるのか」という問いにすべきでしょう。宇宙という言葉の扱いは、どうもいい加減な気がします。
 では本題です。「それは誤差の範囲だ」という言葉は、日常でも使っています。統計学では誤差を厳密に扱っています。ですから、統計学を学んでいる人や専門家には、「それは誤差の範囲だ」と気軽にはいってほしくないはずです。数値や分析値を扱うような立場の人は、つねに誤差が気になります。
 私も統計の専門家ではないのですが、誤差は気になります。誤差というより、統計にはかからない不確かさ全般でしょうか。
 岩石学では、岩石のいろいろな成分の化学分析をし、分析値を用いて研究を進めていきます。例えば、ある露頭でえられた岩石と、他の露頭や他の地域の岩石と比較検討をおこないます。また、化学的類似性から形成場を類推することなどもよくします。
 分析値を扱う時は、注意が必要になります。同じ岩石できている露頭で試料をいくつかとって分析しても、分析値はある程度のばらつきが生じます。これは自然物の分析では、必ず生じるものです。自然は理想的ではなく、なんらかの不均質さがあります。あるいは分析は人や機械を介しておこなうので、そこに不確かさが紛れ込みます。同じ露頭から同じ岩石とみなされる試料を多数とって大量に分析していくと、ある統計的なばらつき(正規分布)で分析値が集まっていきはずです。そのときの平均値が、もっと信頼できる値(岩石の化学組成)となるはずです。ただし、分析値の正規分布には幅があり、平均値の誤差として判明しているので、その誤差が分析もしく岩石組成の精度となります。その誤差は、先程いった不確かさに由来しています。実は、統計処理できない不確かさが一杯紛れ込んでいます。
 まず、毎回こんな分析をして検討を加えることはありません。研究テーマがそこにはないからです。露頭を代表していると考えられる試料ひとつを採取します。もちろんいくつもタイプがあれば、多数採取することもあります。このような作業を露頭ごとに繰り返して、調査地域の代表的な岩石のすべて集めて、分析できる試料にしていくことになります。その作業量が、かなりのものになります。それを考えると、露頭の試料選択は慎重におこないますが、代表となる一個としたくなります。その試料は、研究者自身の判断で、見た目で、経験上一番いいと思えるものを選ぶことになります。
 自然の露頭には、必ず変質や風化が起こっています。そんな部分は避けて採取したり、分析の前に除去していきます。でも、本当に除去できているかという不安はあります。時には、代表的な露頭が、すべての分析に適した岩石ばかりとは限りません。風化が激しい、変質が激しい露頭であっても、そこにしかないタイプの岩石だとすると、試料として採取し分析するしかありません。もちろんできるだけ本来の岩石の組成になるように、変質や風化部分は除去していきます。統計的に処理したとしても、本当に正規分布になっているかどうか不安もあります。正規分布だったとしても、誤差が大きくなったり、その試料がたまたま端の方の試料だったらという疑念が常にあります。でも分析精度を正規分布しているかどうかを、毎度チェックすることは不可能です。
 私は、そんな岩石を相手にしていたので、分析値の信頼性には常に悩まされていました。自然物の分析値に適用する場合、自然物から分析に至るまでの間に「不確かさ」が必ず紛れ込んでいます。統計処理する以前の段階での「不確かさ」です。統計的に評価できない「不確かさ」のある分析値で、どの程度を差異とし、どの程度を同等、類似とするかが悩ましい判定となります。
 それでも、分析誤差、あるいは統計的誤差の範囲内で一致している場合は同じとしていいいでしょう。多数の中の一つになっていくのですから。ところが、化学組成が似ているという範囲から外れる場合が問題になります。ある岩石の分類の定義の範囲の外ですが、その違いがわずかだったり、ある化学組成にだけ明らかに誤差以上の差異が認められる場合です。
 その成分が変質や風化で動きやすいものであれば、検討に加えるべきではないでしょう。もし動きにくい成分で明らかな違いがあれば、「違う」と判断するでしょう。でもその違いの「不確かさ」の評価はできていないのです。それを論文では記載で明示していて、研究者の倫理には則っていたとしても、そこには「不確かさ」が紛れ込んでいるので、不安が残ります。
 その違いから、何故違いが生じたのかという、原因を探る研究になることもあります。その原因を前例、典型として、他の地域の岩石全体の成因を考えいく研究者がでてきます。その成因を利用して、このタイプのマグマの成因論として一般化していくという研究者もいることでしょう。親ガメ(最初の判断)の上に、子ガメ(地域の岩石全体に成因)の上に、孫ガメ(マグマの成因の一般論)へと話が進むのです。いつしか「不確かさ」が、見えなくなっているのかもしれません。本当にその論理は、信頼できるのでしょうか。
 信頼できそうな岩石試料を用いた化学組成で、ほとんどの成分が同じでも、どれかひとつの成分で全く違うものが見つかったら、違いがあることにして議論を進めていきます。その違いはどうしてできたのかが、問題となるわけです。主成分では同じでも、微量成分や同位体組成が明らかに違う場合は、その原因を追求することは、岩石学では重要視されて研究が進みます。でもそこにもきっと何らかの「不確かさ」が紛れ込んでいるはずです。
 多くの自然科学では、どこかに「不確かさ」を持ちながら議論が進められていきます。別の人や別のところで、同じような作業によって検証されていけば、その「確かさ」は増していくのでしょうが、その作業は人海戦術となります。自然物を対象にした科学には、そのような難しさと「不確かさ」があります。
 科学とは人の営みでもあるので、人が作り上げていくものでもあります。自然の科学とは、不確かさに満ちた楼閣であることを、心しておかなければなりませんね。

・オフィオライト・
オフィオライトと呼ばれる岩石は、海洋底にあったものが、
陸地に持ち上げられた古い岩石群です。
私が研究していたものは、2億8000万年前ころの
古生代ペルム紀前期に形成されたものでした。
変成、変質、風化があり、激しいものもありました。
あるタイプの岩石は、特にひどいものでした。
でもその違いを、露頭では見分けることができずに、
顕微鏡で観察することでわかりました。
偶然に見つかったものでした。
そのタイプの岩石が、この地域のオフィオライトの
成因において重要な役割を果たしました。
多くの成分の分析を、その岩石でおこないました。
変成などで動きにくい、確からしいものだけで評価して、
成因論を組み立て、一般論化しました。
今でも、その成因論は正しいと思っていますが、
不確かさが、紛れ込んでいるのは確かです。

・梅はまだか・
3月になりましたが、北海道はまだ雪の中です。
以前住んでいた神奈川県の西部は、梅の名所があちこちにあり、
3月ともなる多くの人出となっていることでしょう。
神奈川から離れてもう16年になります
子どもたちは、生まれは神奈川ですが、
北海道で育ちとなります。
寒いところは嫌で、温かいところ、
本州志向が強くあるようです。
幸い小さい頃から、あちこち連れて行ったので、
ひとつの地域に固執することはなく、
好きなところを見つけて、出かけることことにも、
移住することにも、抵抗はないようです。
これは私も持っていた性質なので
子どもにも伝わったようです。