2026年4月15日水曜日

293 仏教哲学 2:仏教は、宗教か、哲学か

 仏教は世界三大宗教のひとつで、多くの信者がいます。日本では、仏教を多くの人が信じています。仏教には宗教としての面だけでなく、哲学的側面も強くあります。このシリーズでは哲学側面をみていきます。


 世界の三大宗教とされているのは、キリスト教、イスラム教、そして仏教です。西洋から中東では、キリスト教やイスラム教の信者が多く、東洋では仏教の信者が多くなっています。キリスト教とイスラム教が一神教であるのに対し、仏教は多神教(?)となっています。それぞれの特徴をみてきましょう。
 ここで、仏教を「多神教(?)」と示したのは、仏教にはもともと神という概念がないのですが、仏を神扱いして布教していおり、大乗仏教では仏が多数存在するので、このような表現をしました。
 キリスト教は、ユダヤ教を源流とし、現在では世界で最大の信者をもつ宗教です。キリスト教は一神教なので、神は唯一神(一性・Unity、父とも呼ばれています)のみとなります。人であるイエス・キリストが敬われているのは、エルサレムで十字架で処刑されて死んだ後に復活したことから、神の子としてメシア(救済者)とされているためです。また、唯一神(父)の内在的な力を「聖霊」としています。神は唯一神だけなのですが、父・子・聖霊を三位一体(Trinity)として信仰されています。三位があるので、多神教にみえますが、あくまでも父だけを唯一神としています。三位一体についても、神学的問題として議論されてきましたが、キリストという人格をもった神を偶像として崇拝対象にしています。
 イスラム教は、預言者ムハンマドからはじまっています。アッラーを絶対的唯一神として、ムハンマドはその使徒になります。ムハンマドが天使ジブリールを通じて聞いた神の言葉を、アラビア語でまとめたものがクルアーン(コーラン)になります。クルアーンは、神の言葉(アラビア語)そのものになります。この点でキリスト教の聖書とは異なっています。五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)を実践していくことが信仰の中心となり、偶像崇拝は禁じられてます。
 仏教の源流はインド哲学にたどり着きます。インド哲学自体は、バラモン教において紀元前1500〜1200年頃から形成されたヴェーダ(Veda)と呼ばれる宗教文献群に端を発しています。ヴェーダは4つ(リグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァ)からなり、そこには宇宙を貫く秩序・真理・正義の原理があると考えられていました。
 祭祀中心のバラモン教から、紀元前800〜200年頃に、哲学的思索を重視するウパニシャッド(Upaniṣad)がでてきました。ウパニシャッドは、苦しみからの解放(解脱)のための方法を探ることを目的としました。その時、宇宙の根本的実在、究極的原理となるブラフマン(梵、Brahman)と、個人の内なる永続的自己や霊魂であるアートマン(我、Ātman)が重要だと考えました。
 その後、アルニ(Uddalaka Aruni)は、ブラフマンがアートマンと同一であるとし、ヤージュニャヴァルキヤ(Yajnavalkya)はアートマンがすべてであると説きました。そこから、ブラフマンとがアートマンが同一(一如)であるという「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という概念ができました。
 8世紀頃、シャンカラ(Śaṅkara)は、梵我一如をさらに進めた二元論的に分けることができないという「不二(ふに)」という哲学的概念を示しました。不二とは、「一つ(一元)」とはいわず、「二つではない」という否定的な表現を用いました。不二は、仏教、特に禅などに取り入れられ、広く東洋哲学の重要概念となっていきました。
 釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、ウパニシャッドの目的である苦しみから自己を解放(解脱)していく(涅槃に至る)ことを目指しながらも、異なった道を進みました。聖典や権威、祭祀主義、苦行などを否定し、出自を問うことなく目指せる思想としました。また、アートマンを否定して無我になること、縁起という相互依存的な因果などの概念を導入して、四聖諦や八正道という実践体系を構築して解脱を目指しました。
 苦しみは誰もが経験していることなので、始点は明確に存在しています。苦から解放(解脱)も、誰もが望むことなので、目標もはっきりしています。目標に達するために、聖典も苦行も不要で、出自も不問としました。ただし、苦は個人の経験に属するものなので、自身で実践していくことのみで解脱できるという方法論になります。筋道は、非常にわかりやすい体系となっています。
 仏教は、時代と経ることで、個人の修行によって解脱するという伝統的方法論を重んじる「上座部仏教」と、修行で悟りを開いた宗教家が衆生(生きとし生けるもの)の救済(利他的救済)を教義して展開する「大乗仏教」に、大きく分かれてきました。修行で悟りを開いた宗教家を仏陀(ブッダ、Buddha)や如来、縁覚(えんがく)など呼び、上座部仏教では阿羅漢(あらかん)、大乗仏教では菩薩(ぼさつ)と呼びます。ただし、上座部では完全な悟りをした人は釈迦のみを仏陀と呼び、それ以外のひとは阿羅漢を目指します。大乗では多数の仏を認めています。
 実践(修行)により解脱を達成した人が、自身の思想(教義)で民衆を導くために活動し、信頼を集めていくことで、人が集まることで宗教的行為へと移行していきます。
 日本は大乗仏教に属し、日本固有の多くの宗派があります。信者数は浄土真宗が多く、浄土宗、曹洞宗、日蓮宗が続きます。日本では、古くからあった神道と仏教が神仏習合という歴史的背景があり、キリスト教などの行事も取り込まれ、複合的な宗教文化が根付いています。冠(結婚)や年始行事は神道、葬(葬儀)や年末行事は仏教、またイベント(クリスマス、バレンタイン、ハロウィーンなど)としてキリスト教の行事も普及しています。日本は、宗教的には非常に特異な地域といえます。そのため、宗教の影響も受けにくいという国民性ともいえるかもしれません。
 キリスト教やイスラム教と、仏教では、一神教と多神教という大きな違いがあります。それだけではなく、本質的な違いがあります。
 キリスト教は信仰という行為を通じて神からの救済を受け、イスラム教では神への服従を行動として実践していきます。
 仏教では、基本的に神への祈りはありません。苦しみという自身の経験をもとに、実践的に(八正道や瞑想)で克服する(解脱)していく思考法をとっています。その過程で、諸法無我、諸行無常、縁起、空などの固有の概念が生まれ、さらに言語や概念の限界も自覚されていきます。仏教には宗教的側面もあるのですが、苦を深く考え、解脱を追求していく哲学的側面を強くもっています。そのような思考法や方法論が、科学と調和しやすいものだと考えられます。
 このシリーズでは、仏教の思索を「仏教哲学」と位置づけて、論理や思考法を、抽象化し普遍化していき、地質学や科学における不可知領域への方法論に転用できるのではないかと考えています。

・文献について・
このエッセイは、論文にしていくためのに
考えを整理していくことを目標としていました。
そのため、学術論文や文献は示していません。
本来の論文では、文献を引用しながら
自身の論理を進めていくことになります。
このエッセイではそのような書き方はしていません。
今後、主張にあった文献を集め、
文献の内容を確認して、論文を修正したり、
時には主張を変更していきます。
その作業は、論文作成において重要になります。
その作業を、今後、1年かけて進めていくことになります。

・葬儀・
葬式仏教とも呼ばれていますが、
このような儀式があることで、
悲しみの中でも淡々と葬儀という儀式が
進むという利点もあります。
当事者は、突然のことで右往左往していても
淡々と儀式として手順が進んでいきます。
父の葬儀は、田舎の昔ながらの方法で
1週間ほどかけて儀式が進みました。
母の葬儀は、コロナ禍の時期でもあったので、
私たち家族と弟家族だけの家族葬になりました。
我が家の両親は仏教で葬儀もしました。
家の先祖代々の墓もあり、
地元の親族が墓守をしてくれています。

2026年4月1日水曜日

292 無限への挑戦

 いいことでも悪いことも、印象に強く残ったものは、記憶されやすくなります。日々の出来事が、記憶に残らなくなりました。年齢とともに、物忘れが激しくなってきています。人間の記憶について考えました。


 妻との会話で、過去の思い出話しが、お互いに何度も繰り返しされています。いったん長期記憶におさまった思い出は、忘れることはないようです。そして、話すことでさらに記憶が定着していきます。
 年齢とともに、最近のことや、日々当たり前にしていることほど、記憶に残らず、忘れていきます。そして問題は、重要なことも、長期記憶になることが少なくなり、すぐに忘れてしまうようになってきました。記憶力の衰えは、老化なのでしょうか。
 さて、話題は変わります。科学には帰納法と演繹法という考え方があります。帰納法は、データを集め、そこから一般則を導き出していきます。演繹法は、未知の現象に法則を適用していくことで、その法則に則った現象か、それ以外の因果によるものか、あるいは法則を検証していくことができます。
 両方法には、それぞれに特徴があります。帰納法には、新たな法則を見つけられる創造性があります。演繹法は、法則の検証でき、因果関係を確定でます。利点だけでなく、弱点もあります。帰納法では、法則を導き出したデータの範囲では、法則の確かさが保証されていますが、範囲外では確かさは不明で検証されていません。演繹法では、法則がすでに存在していなければならず、法則が存在しないときは使い道がありません。そのため創造性や新規性がありません。
 それぞれ単独で用いるには、問題がありそうです。そこで、両者を組み合わせて、帰納法で法則(仮説)を導き、演繹法でその法則を検証するという「仮説演繹法」が用いられています。現在の自然科学では、すべて研究において、仮説演繹法が用いられています。自然科学で新しい仮説を提唱するとき、あるいは仮説の検証をするとき、この手法を用いないものは、科学論文としては、問題があることになります。
 では、仮説演繹法には、問題がないのでしょうか。実は、上記に示した帰納法と演繹法の弱点が、克服されたわけではありません。ですから、論理的正当性は保証されていません。
 仮説を演繹法で検証する時、検証できる範囲は、自ずから限定されています。可能な限り範囲を広げようとしても、装置や測定の限界、データ収集の範囲などには、限界があります。また、地球内であればデータや資料が収集でき、検証可能ですが、地球外、あるいは過去や一度限りの事象などになると、証拠をすべて入手することは不可能になります。そのため、仮説演繹法を用いた規則性、あるいはすべての自然科学の結果は、「仮説」の域は越えられないことになります。なぜなら、自然界ではデータが入手できるの範囲が有限で、「すべて」を調べることが不可能だからです。自然界は「無限」なのに、人間あるいは科学は、有限の中でしか営めないからです。
 広い視点で考えると、科学の方法論の限界とは、「無限」を相手にして、法則を「普遍化」していこうしている点でしょう。「普遍化」とは、すべてに対して適用できることを保証しているのですが、「無限」を相手にすべてを検証できないかたです。科学において、「無限」は不可知領域に存在しているといえます。
 話を人間の記憶に戻していきましょう。人間は、脳内で記憶をしてきます。記憶のメカニズムはかなり明らかになっており、情報を記憶(銘記)し、保持(維持)し、想起(思い出す)するというプロセスがあり、海馬が情報の重要性を仕分けし、大脳皮質へ長期的に保存していくことになります。神経細胞の結合(シナプスと呼ばれます)で、情報の伝達効率を高めたり(強化)、結合の数を変化させたりすることで、脳内に情報を定着させることで記憶されていきます。
 脳のサイズ、あるいは細胞、シナプスは有限なので、人間の記憶には限界があるはずです。しかし、シナプスの結び付きで記憶されていくのなら、数は有限でも、組み合わせは膨大な量なので、無限と呼べないでしょうか。さらに、シナプスの組み合わせだけでなく、結合にも26の異なった強さがあり、その変化も記憶に反映してできることがわかってきたので、ますます記憶量は増えていくことになります。そうではあっても、シナプスの数が有限であれば、組み合わせも有限でなので、記憶量も有限となるはずです。
 記憶の謎を考える時、いつもひとりの人間を思い浮かべてしまいます。キム・ピーク(Kim Peek、1951 - 2009)です。キムは、人類の記憶の限界を限りなく広いことを教えてくれた人です。
 キムは、1歳半のころから、読み聞かされた本を、暗記できたそうです。字が自力で読めるようになると、1ページを10秒ほどで、完全に記憶できました。直観像、あるいは写真記憶とも呼ばれている能力です。キムは、ほぼ毎日の午後を図書館で過ごし、ありとあらゆる本を見て覚えていきました。45歳頃の時には、12,000冊の本を記憶していました。
 単に覚えるだけでなく、その情報を検索し、自由に組み合わせて、答えることができました。尋ねると、記憶の連想が止まることなく、語りは永遠と続いていったようです。
 キムは、サバンあるいはスーパー・サバンとも呼ばれています。キムは会話でのコミュニケーションは可能ですが、行動や会話のコントロールがうまくいかず、能力を実験的に調べることも難しかったようです。
 キムの能力は、広く知られていて、脳の検査をうけて、脳が平均よりも30%ほど大きいのですが、左右の脳半球を繋ぐ脳梁と前後の交連がなく、小脳にも障害のあることがわかりました。脳の神経繊維レベルでは、連携があることがわかっています。脳梁がないことから、左右の脳が連携をとりずらいので、別々に機能していると想定されています。
 テレビ番組で茂木健一郎氏が、キムを訪問し、インタヴューしているものを見たことがありました。お父さんが、ひとつの図書館の本は覚えてしまったので、別の図書館に通いだしたといったのを覚えています。映画「レインマン」で、ダスティン・ホフマン演じるレイモンド・バビットのモデルにもなっていました。
 キムは、日常生活にも支援が必要で、父が補助していました。2009年12月19日、心臓発作のため58歳で死去したましたが、父の方が長生きだったので、最後まで支援をうけることができました。58歳の短い人生だったのですが、少なくとも、人間の脳には、図書館がまるごとはいるくらの記憶容量があることが示してくれました。現在のコンピュータがもっている記憶容量や検索能力を凌駕するほどの機能が、脳にあること、そしてそれはまだだれも満杯にできず、使い切っていないことを、キムは示してくれました。
 もし、キムがもっと長生きしていたら、彼の記憶能力、記憶の検索、連携、あるいは記憶量などはどのように変化したのでしょうか。老化と記憶の関係もわかったのかもしれません。

・努力すること・
人間の記憶は、不思議です。
私たち夫婦は、記憶ができなくなり、
物忘れが多くなったと嘆いています。
しかし、記憶する努力を継続すると、
高齢になっても記憶力が維持できるということを
渡部昇一氏がエッセイで書いていました。
渡部氏は80歳を越えても、
記憶することを実践されていました。
記憶する努力することが、重要なのでしょう。
容量は十分あるはずなので。

・新年度・
新年度がはじまりました。
4月が年度のはじまりの季節ということを、
退職とともに薄れてきていきます。
今年度も、大学で非常勤講師をしていくので、
年度のはじまりは、かろうじて感じています。
非常勤講師の仕事がなくなると、
年中行事が少なくなりそうです。
そうなると季節感が薄れないか心配です。