2007年4月1日日曜日

63 過ぎ去った時間:過去を探るということ(2007.04.01)

 私たちが過去を知ることは、非常に困難なことです。それもとても古い昔のことを知るのは、多分、限りなく不可能に近いことかもしれません。それでも私たちは過去を知りたいのです。

 気の合った友達と話をしている時、楽しみにしているテレビ番組を見ている時、夢中でゲームをしている時などは、あっという間に過ぎさってしまいます。ところが、つまらない授業や会議、歯の治療、親や上司の説教を聞く時は、同じ時間でも非常に長く感じます。楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、つまらない時間はなかなか過ぎてくれません。人が感じる時間というのは、心の持ちようで、大きくスピードが変わるようです。
 もし、時間という概念がなければ、ある会合を楽しいと思って参加している人は、いつまでもこの会合を続けたいと思うでしょう。しかし、その会合を義理や付き合いで出ているため退屈だと思っている人とっては、一刻も早く終えて、別のことをしたいと思うでしょう。どちらの希望を優先しても、他方には不利や不満となります。そんなとき、時間という概念があり、決められた時間でその会合を行うことにすれば、両者の不満が最小限で会合を行うことができるはずです。
 感じる時間ではなく、客観的な時間は、人間生活にとって必要です。文明社会では特に重要です。時間とは、正確に一定のスピードで流れていくことが必要です。現在、時間の流れるスピードは一定で、場所や時代が違っても、変化することはないと考えられています。
 時間は、幸運なことに平等に流れています。貧富の差によらず、住む地域にもよらず、朝も夜も、いつの時代でも、一様に流れているはずのものです。人だけでなく、すべての生き物、そして宇宙全体で、時間は一様に流れているはずです。
 現在、時間は、2つの概念で使われています。一つは、時間の流れの中である点(時点といいます)を意味する場合です。日常的には、カレンダーで示されるような年月日や、時計から読み取れる時刻です。もう一つは、時間の流れにおける、ある期間を意味することもあります。時間の長さや時間間隔などということもできます。
 両者の概念をひとつの方法で表すために、時間軸というものを考えることができます。時間軸は、一次元の直線とみなせます。時刻とは時間軸におけるある点(座標)を意味し、期間とは時間軸における2つの座標の区間(間隔、範囲)を意味します。
 物理学では、時間が正確に定義されています。つまり物理学の時間軸は、非常に正確に定められているのです。国際単位系(SI系)では、1秒は、「セシウム133原子(133Cs)の基底状態にある二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の 9,192,631,770周期にかかる時間」と定義されている。つまりセシウムという原子がある条件で発する電磁波の周波数、つまり約100億回の波が伝わるの期間を、1秒としています。セシウムの放射は非常に正確で、原子時計としても利用されています。
 物理学で扱われる時間は、時間軸のどこでも、軸を逆に進んでも成り立つものがほとんどです。例えば、ニュートンの運動方程式は、どこをスタートにしても成り立ちます。これは時間に対して相対的であるといいます。また、方程式で示されるような現象をビデオに撮って見た時、正常な再生の映像と、逆回した映像とは区別できません。このようなものを時間に対して対称であるといいます。ニュートンの運動方程式だけでなく、相対性理論も量子力学も、物理学の基本法則の多くは、時間に対して相対的で、対称となっています。
 一方、年月日や時刻は、同じ厳密な時間軸でも、絶対軸として読み取られるものです。地質学は、時間の絶対軸を研究する学問といえます。絶対軸の時間とは、繰り返すことのない唯一無二の時間となります。過去のある時点と別の時点を入れ替えることはできません。このような絶対軸での時間の流れを「時間の矢」という表現をすることがあります。
 このような一方向に流れる時間を根拠付けるものとして、熱力学第2法則とがあります。これはエントロピー増大の法則とも呼ばれているものです。エントロピーとは、「乱雑さ」と表現されているもので、エントロピーは時間と共に増加するもの(あるいは不変)で、減少することはありません。ですから、自然界で流れる時間は、一方向にしか流れず、逆回しはできないということです。
 このような絶対軸における時間の流れは、私たちの実感に合います。絶対軸の時間は、人や自然の歴史としても現われます。二度と繰り返すことのないことの連続です。そこには、明瞭は時間の矢が存在します。
 以上述べてきたように、時間の流れは、誰もが感じ、誰もが存在を信じています。しかし、時間は、手で触ることはできません。目で見ることもできません。なのに私たちは、時間があると信じています。私たちは、なぜ、時間を信じているのでしょうか。本当に時間などあるのでしょうか。
 日常的な時間の流れは、太陽の位置などで感じ、。植物や季節の移ろいで、月日の過ぎていくのを知ります。時計も同じです。機械的な針の進み方が時間を示しています。時計の針の移動で正確に知ることができますカレンダーの日付が進むことで、1日、1月、1年の経過を正確に知ることができると思っています。
 このような時間は、すべて自然現象やものごとの変化を通じて感じていることになります。実は、私たちは時間を直接感じているのではなく、変化から間接的に時間を感じているのです。私たちが時間と思っているのは、変化なのです。
 その変化とは、自然の変化です。つまり、まず自然の変化があり、それを時間という座標軸で見ているということのなのです。人が時間という概念を導入したので、変化を絶対軸で並べようとしているだけなのです。
 人が絶対軸を用いて時間を記録していなかった頃、つまり自然の歴史の大部分の期間は、変化だけが存在したのです。
 ある時間軸の座標点で起こった自然における変化とは、物質の量や質が変わることです。その変化が記録され、現在まで残され、私たちの手に入ったものだけが、過去を知る素材となります。さらに、変化の記録が、過去の出来事して意味を読み取れたものだけが、過去の時間を読んだこととなります。私たちは、非常の多くのフィルター越しにしか、過去の時間を見ることができないのです。
 変化が自然において起こるのは、ある臨界状態を越えた時です。そのような変化は、定常的、連続的に起こることもあります。例えば、季節の変化による年輪や炭酸カルシウムの沈殿による鍾乳石の成長などは、定常的で連続的な変化が起こります。あるいは、不定期に、不規則に、程度もさまざまに起こる変化もあります。時々起こる海底地すべりでできる一枚の地層、地震によってできた断層、火山の形成などは、不定期で不規則で、規模もさまざまです。
 過去の時間は、このような変化の結果を素材して読み取るわけです。自然の変化で記録されているものは、どうしても断片的になります。連続的な時間、流れる時間などを読み取ることは不可能なのです。過去にもあったであろう流れている時間を知ることはできないのです。ですから、人が過去の歴史を完全に知ることなど、到底不可能なことなのです。
 ものごとの変化の臨界点は、いつ、どこで、どの程度のものが起こるは、必ずしも定まっていません。過去を探る素材は、人が望んで得られるものではいありません。現在に存在するものの内、人がなんとか手にできたものだけからしか、過去を探ることができません。私たちは、過去に対して、非常にわずかものしか手がかりがないのです。私たちが知ることのできる過去とは、記録に残った変化で、読み取れたものだけなのです。
 私たちは、現在という時間しか感じません。未来の時間を感じること、読み取ることは不可能です。過去の時間でも、上で述べてきたように、ほんの断片しか知りえません。
 流れ去った時間など、本当に存在したものなのでしょうか。時間など本当にあるのでしょうか。

・移動の季節・
4月は、新天地への移動の季節です。
皆さん自身には、移動があったでしょうか。
私も現在の職場に来て、早6年目に突入しました。
物理的な移動は、しばらくはないでしょうが、
組織の改変などで、肩書きや立場は変わります。
私の移動は、昨春あったばかりなので、
少なくともあと3年は、この状態続くはずです。
しかし、組織では人が去り、新しい人が加わります。
新天地に向かうと不安や緊張もあるでしょうが、
そこが選んだ地であれば、希望や期待の方が大きい人もいることでしょう。
現状維持の人にとっても、周囲の人が移動すれば、
その組織自体も変化します。
いずれにしても、春のこの時期は変化がある年です。
今年は、北海道も暖冬だったので、
雪の中の移動ではなく、春らしい天気の中の移動となります。

・沖縄・
このメールマガジンが配送される頃には、私は、旅行から帰っています。
実はこのメールマガジンは、旅行に出かける前に書き、
配送手続きしたものです。
私は、3月25日から31日まで、沖縄に滞在していました。
自炊ができる長逗留専用のホテルに滞在していました。
私は、沖縄の付加体の地層と石灰岩(鍾乳洞)を
再度よく見て見たいというのが希望です。
家族は、美(ちゅ)ら海水族館と海水浴です。
長逗留ですので、それぞれの希望が満たせるといいのですが。