2006年10月1日日曜日

57 アリアドネの糸:還元主義の限界(2006.10.01)

 科学は客観的だと考えられています。本当に客観的でしょうか。客観的などというものは、存在しないかもしれません。そんなことを考えて見ました。

 ギリシア神話に「アリアドネの糸」というのがあります。次のような話です。
 クレタのミノス王の子供に、ミノタウロスというのがいました。ミノタウロスは牛頭人身の怪物でした。ミノス王は、迷宮ラビュリントスを作ってミノタウロスを閉じこめました。このミノタウロスが入れられた迷宮は、足を踏み入れたら出ることができないといわれていました。
 ミノス王はアテネ市民に対し、ミノタウロスのエサとして、9年ごとに7名ずつの若者と乙女を生贄を差し出すように命じました。
 それに抵抗するために、アテネの英雄テセウスが立ち上がりました。テセウスは生贄に混じって迷宮に侵入し、ミノタウロスを退治しました。このとき迷宮から出れるように、糸玉を入り口から伸ばしながら進んでいったのです。そして糸を手繰って無事迷宮から脱出しました。
 この糸玉は、ミノス王の娘アリアドネが渡してくれたものです。アリアドネはテセウスに恋していたため、助けるためにしたことです。彼女は、この糸玉を渡し、脱出の方法を教えたのです。
 この神話に基づいて、迷宮から抜けれるための方法を「アリアドネの糸」といわれています。
 さて、話は変わります。
 科学では、観察や実験が研究のスタートです。観察や実験をすることは、完全に客観的な行為だと考えられています。観察や実験なくしては、科学の素材、データ、証拠集めができません。科学では、このような観察や実験で、客観的なデータをとることが重要となります。
 しかし、本当の客観的な観察、実験、あるいはデータなどあるのでしょうか。
 観察するということは、観察している系に、観察者が関与することになります。
 例えば、ある程度知能の高い動物を観察するとしましょう。観察者の存在は、観察対象である動物は、認識するでしょう。すると、動物によっては、観察者を意識した行動をするはずです。
 このような問題点を解決するために、現在の野生動物の観察方法の一つに、観察者が繰り返し動物に接するようにして、動物に観察者を馴れさせるものがあります。最終的には、動物に観察者を意識させない状態にまでしてから、本格的な観察をすることになります。
 しかし、どんなに動物が観察者に馴れたとしても、やはり日常とは違った条件をそこに持ち込んでの観察となります。その非日常的条件に馴れてしまった野生動物は、本当に野生状態といえるのでしょうか。そこから得られたデータは、本当に客観的な観察とはいえないのではないでしょうか。
 地質学では露頭を観察をします。その時、写真をとるのはもちろんですが、重要な露頭ではスケッチをします。なぜなら、スケッチのほうが露頭の特徴を捉えやすいからです。しかし、そのスケッチとは、地質学者の目的に応じてなされます。必要となる地層境界、重要な岩石分布など、目的に応じた取捨選択がなされ、必要なものだけ描き出されます。このとき、客観的ではなく、研究目的に応じた取捨選択は、研究者の主観によるものではないでしょうか。
 また、露頭から、研究室で実験をしてデータを得るために、試料を採取します。その試料は、地質学者の目的に応じたものが、多数ある露頭の中から選択されます。その選択のときに、客観的におこなうとが可能なのでしょうか。高いところより手の届くところ、固くて岩石が取れないところより採取しやすりところからとるはずです。また、実験材料としてふさわしい試料や、経験的にいいデータがでない部分は選択肢から省かれています。もし本当に客観的におこなうなら、露頭全体でもれなく平均的に採取することが理想となります。しかし、現実的には不可能なことです。
 物理の実験でも、客観性を出すために、繰り返し実験をします。そのとき、原因は不明ですが、とんでもない値が出たとしましょう。そのデータは、たいていの場合は、測定ミスとして捨て去れます。特に分析機器を用いた繰り返し測定では、そのような処理が自動的になされることもあります。本当に客観的なら、原因が特定されない限り、すべてのデータは同等に扱うべきではないでしょうか。
 あるいは、ある規則や法則があり、その規則に目的の実験が合っているかどうかを確かめるとき、理想的な状態を考えて行われます。例えば、摩擦や空気抵抗などがないのようなものです。そのような条件で実験を考えないと、本当に知りたい法則が、誤差に埋もれて見つからなくなるからです。目的としない条件で、値を変化させるようなものは、誤差として方程式とのずれがおこっても、仕方がないと考えられます。つまりある程度の誤差は、目をつぶるのです。
 私たちの信じている多くの論理は、このような一見「客観的」にみえる前提の上に成り立っています。しかし、その実体は、主観や誤差などは入らない条件という前提を置いて、論理が組み立てられているのです。これは、明らかに還元主義的な考えです。
 還元主義的な考えでおこなえば、さまざまな未知のこと、複雑なことは排除されていきます。そして、非常に単純化された条件で得られたデータに基づいて、論理が組み立てられます。これでは、ありのままの自然を総体として捉えていないような気がします。
 科学が還元主義的は方法を用いている限り、論理を組み立てやすい条件を選択するに当たって主観が常に混入しているということになります。ですから、科学が客観的などというのは、非常に主観的な見方だということになります。
 しかし、実は科学が発展するには、このような還元主義的な手法をとらなければならないのです。なぜなら、最初に論理を見つけるとき、自然のありのままを総体として捉えようとするには、あまりにも複雑すぎるからです。複雑なものを最初から一つの論理で記述することは非常に困難なことです。ですから、どうしても還元主義的に簡略化した条件で、自然を見るしかありません。これは必要に迫られてやる応急的な方法ともいえます。
 自然という迷宮を知るためには、まずは「アリアドネの糸」として還元主義的な方法が不可欠なのです。還元主義的な方法で一番単純な道として最初の理論をつくっていきます。さらに、アリアドネの糸を手がかりに、迷宮の次の経路へも入ってきます。そんな繰り返しをして、自然の迷宮の奥へはいっていって、少しずつ全体を探っていく必要があります。
 現在の科学は、自然の迷宮のいろいろな部分へ入っていきました。そして、かなり迷宮を解明してきました。しかし、アリアドネの糸では、迷宮の全貌を知るには十分ではありません。イカロスの翼をもって、上空から迷宮の全貌を眺めなければならない時期に来ているのではないでしょうか。そう、自然をありのまま、総体としてとらえる視点です。

・イカロスの翼・
アリアドネの糸の伝説には後日談があります。
糸玉の方法をアリアドネに教えたのは、
迷宮の製作者ダイダロスでした。
そのことを知ったミネス王は怒り、
ダイダロスとその息子イカロスを
迷宮に閉じ込めてしまいました。
しかし、父子は蝋で固めた翼で空へと舞い上がり、
迷宮からの脱出に成功します。
ところが、イカロスは、父の忠告をきかずに
空高く舞い上がりすぎました。
蝋が太陽の熱で溶けてしまい、
海に転落、死んでしまいました。
ですから、上空から迷宮を見るのもいいのですが、
あまり上がりすぎるとよくないという教訓です。
目的を忘れず、我を忘れずにということでしょうか。

・行事の秋・
10月となりました。
北海道では紅葉や初雪の便りを聞くようになりました。
日に日に、朝夕の冷え込みが深まります。
特に快晴の日の朝の冷え込みは格段です。
しかし、そんな日こそ快晴の朝のすがすがしさを味わえます。
昔は運動会といえば秋の行事でしたが、
今は多くの小中学校では、
春に運動会をして、秋には学芸会のようです。
大学では運動会はありませんが、大学祭があります。
しかし、これも春と秋に分かれているようです。
わが大学は秋にあります。
家の近くにある別の大学では春に行われます。
北海道の10月は、短い秋を惜しむかのように
いろいろな行事があります。
そして行事も、秋共にあわただしく過ぎていきます。