2013年3月1日金曜日

135 知性を信じるということ

 信じられないことも、信じるようになるのは、理論よりも、事実に裏付けられいるかどうです。事実があれば、信じられない理論も、今の私たちなら理解し、信じることができます。これが、今まで継続的に積み上げてきた知性の成果です。私を知性を信じるべきでしょう。

 世の中には、信じられないことが、多々あります。特に3.11以降、政府や多くのメディア、ある大企業が、その対象に加わったのは、嘆かわしいことです。信頼すべき政府が、情報を操作したり、故意に間違ったあるいは誤解を招く情報を流しました。多くのメディアも、生死に関わるような重要な情報を、検証もせず垂れ流したり、中立公平であるべきなのに政府発表を鵜呑みにして報道ました。ある大企業は、自己保身のために、虚偽の報告やデータの隠匿をしてきました。
 そんな経験して以来、政府やメディア、大企業の広報、報道、発言には、まずは不信感を持ってみるようになったのは、私だけではないでしょう。私にとって、その傷はなかなか癒えがたいものとなっています。すべての政府やメディア、大企業の情報に不信感を抱いたり、素直に信じられず、裏がないか考えてしまいます。
 ところが、政府や行政は、政策だけでなく、教育にまで、上意下達での影響力を出し、メディアがそれに追従しています。そうなると、多くの人は、なすすべもなく従うしかありません。そして、繰り返し同じことをいい続けられ、従って行くとと、あたかもそれが真実と思ってしまいます。「権威」から繰り返し情報が発信されると、ついつい正しいように思ってしまいます。注意すべきです。でも、これも世の常なのかもしれません。
 以下では、信じることとは、どういうことか、考えていこうと思います。まずは、簡単にするために、自分自身が信じていることからスタートしていきましょう。もちろん他人も自分も、嘘はつかないという前提の上での議論ですが。
 よく挙げられる怪しげな例として、怪奇現象やUFOなどがありますが、ここでは恐竜を例としましょう。
 恐竜がまだ知られていない時代、はじめて恐竜を発見した人の話です。仮の話なので、恐竜はティラノザウルスの頭骨化石だったとしましょう。現在のようにITやメディが発達していない、写真もなかった時代です。
 以下架空の話です。
 ティラノザウルスの頭骨化石を発見した人は、たいそう驚きました。自分自身が実物を見ていても、信じられませんでした。頭骨だとしても、あまりに巨大で、現在生きているどんな生物にも、似ていないからです。巨大だとはいえ、その歯は明らかに、肉食動物のものです。彼は考えた末、今は絶滅してしまっている大昔の大型の肉食動物だと推定しました。
 その恐竜の話を、ある学会で発表した。タイトルは「絶滅したが、超巨大肉食動物が存在した」というものです。彼が化石をみせて、自分の考えを示しました。すると、多くの人は、「絶滅動物」説に疑問をもっていたのですが、化石の存在によって信じるようになってきました。なぜなら、目の前に化石が存在し、厳然たる事実だからです。さらに、彼の指摘した化石の特徴を考えると、彼の推定がもっともらくし見えます。発表の終わりには、学会の参加者の多くが、彼の恐竜がいたという仮説を信じるようになっていました。
 さて、学会で話を聞いた人が、「恐竜という、信じられないような生き物がいた」ことを、他の人に伝えたとします。多くの人は、そんな荒唐無稽の話を信じないでしょう。なぜなら、また聞きの人は、化石を見ていないからです。
 以上の話から、「信じること」とはどういうことが考えていきます。
 「自分の目で見ないと、信じない」と多くの人がいいます。逆に、どんな不思議で、ありえないと思えることも、見たものであれば信じられます。自分が見た「信じられないようなこと」は「信じている」のに、他人が見て「信じていること」は「信じない」ということになります。一見、矛盾していますが、重要な点は、事実に接しているかどうかです。上で述べた恐竜はその例です。経験したことは、自分にとって疑いようのない事実になります。事実は、信じることに直結します。これが事実(一次情報)の重みです。
 自分の経験を信じて欲しいというのであれば、他人の経験も信じてあげなければならないはずです。でもそこに事実が介在しないと、どうしても「信じがたい」ことは、信じられません。そんな人や伝達のステップが多くなるほど、情報の質は劣化していきます。それをC. E. シャノンが理論化しました。伝達が経路が長くなると、誤謬が混入する危険性が増大します。シャノンは情報伝達にエントロピーという考えを導入しました。
 情報のエントロピーに対抗するには、事実、あるいは正確な一次情報の発信もしくは受信が重要です。どんなに情報が加工されたとしても、変質していない一次情報にアクセスできる手段を、常に設けておくのです。
 もし、一次情報の解読が難しいのであれば、経験や知識、見識をもった人たちが、それぞれの解釈をして、それを二次情報として自由に公開することです。組織やコミュニティの判断で、どの解釈(二次情報)を採用して行動するかを決めればいいのです。その判断の根拠も公開の場ですれば(この議論自体も一次情報となります)、公正ですし、間違いの修正もたやすいと思います。
 いつでも、だれでも一次情報に接触でき、二次情報への解釈が可能にしておけば、最小限の間違いですむことになるはずです。
 人は、十分な情報があれば、簡単にはパニックになりません。情報がなかったり、不信感をともなう情報によって、パニックが発生します。今や、人は、情報を適切に処理でき、情報に基づき独自の判断で行動できるほど、教育を受け、賢くなっているます。
 3.11の時、公表されていた情報に関する問題は、この点にあると思います。日本は、高度に情報化された社会で、それなりに訓練を受けた国民がいます。そんな教育を受けた賢い国民に対して、前時代的な情報統制、情報操作は、墓穴を掘ります。墓穴も3.11以降、枚挙にいとまがないほど見てきました。
 なぜ、政府やメディア、大企業が、情報を操作したり、ウソの情報を流したのがわかったのでしょうか。
 そこには、多様な、そして賢い人たちが介在したからです。真実の情報、一次情報を発掘した人。正確な一次情報を公開しようとした人。正確な一次方法から新たな解釈で二次情報を発信した人。間違いを犯した人を糾弾しようとする人。多数の多様な賢者がいたからです。そんな多様で賢い人たちは、政府にも、メディア、大企業にもいました。
 政府やメディア、大企業を画一的に「悪」という書き方をしましたが、そのようなさまざまな考えを持った人を、組織内に多様性として持っていたことは、まだ組織が健全である証拠です。そのような多様性が消えた時、最悪の事態、時代となるでしょう。今は、最悪ではありませんが、予断は許せない時期でもあります。心しなければなりません。
 日本人は、充分に訓練を受けた賢い国民です。その知性を信じて、一次情報の公開、知性をもった二次情報への加工と公開を自由化していはいかがでしょうか。それこそが本質的に重要で、次なる時代へのステップではないでしょうか。そろそろ日本人の知性を信じては、どうでしょうか。

・残雪の春・
北海道も3月末になる
だいぶ気温も緩んできました。
今年は、まだたくさん残雪があります。
また、あちこちの脇道で、ぬかるみが残っています。
気をつけないの、車が埋もれそうです。
しかし、着実に春は来ています。

・退官・
先日、退官されたC先生が退職辞令ために出校されたので
最後に昼食一緒にとりました。
二人だけのお別れ会です。
我が家の近所のレストランで、
そこの奥さんのお父さんがC先生の友人で
よくいくそうです。
ただ、お互いはその店では会ったことがなく、
今回初めて会い、私も挨拶しました。
今後もC先生と連絡はするでしょうが、
会う機会は少なくなりそうです。
第二の人生についていろいろ話を聞きました。
ある大学のデータベースのプログラミング作業を
依頼されているようです。
それに関する研究会も定期的あるようです。
あとは別荘で農作業をするとのことです。
お元気過ごされることを祈っています。

134 いろいろな時間

 同じ事象、対象、次元でも、見方を変えると違ってみえることもあります。今回は、時間について考えていきます。学問分野で、時間や時間の流れをどうとらえているのでしょうか。ちなみに、地質学では、「歴史的時間があるが、一般化可能な時間はない」と考えています。

 以下の議論は一般論めかしていますが、あくまでも個人の意見ですので、ご了承ください。では、時間について考えていきます。さまざまな学問の分野では、時間をどのように捉えているのでしょうか。私は、自然科学での捉え方を、とりあえず、こう要約します。
   数学には、時間はない
   物理学には、理想的時間があるが、特徴のない可逆的時間
   化学には、可逆的時間と不可逆時間のはざま
   生物学は、不可逆時間と歴史的時間のはざま
   地質学では、歴史的時間があるが、一般化可能な時間はない
 この要約は、独善的で説明しないとわからないと思います。これを説明してきましょう。
 学問も多様化しており、ひとつの分野でも学際化していて、異分野の研究者が入ってきていることもあり、上の要約のように一概にいえない面もあるはずです。でも、時間は非常に重要なテーマで、学問領域において、時間に関する見方には特徴があります。
 哲学においても、時間は重要なテーマです。根本的な疑問として、物理的に定義される時間と実感できる時間とはズレがあることは、多くの人が感じています。感じる時間は、物理的時間とはズレています。楽しい時は時間の流れが早く、つまらない時は時間はゆっくりと流れます。若い時は一日は長く、年齢とともに時間の流れは早くなります。
 哲学でも、感じる時間と物理的時間のズレは大きな問題としています。他にも、現在に生きる自分にとって過去や未来は実在するのか、変化のない世界で時間は存在しうるのか、などと重要な問題があります。
 カントは、刺激を外的感覚器官によって空間的に受け取り、それを内的な感覚器官で時間的に受け取り時間が認識されるとしました。空間的感覚を通じて時間を感じとるということです。ベルクソンやバシュラールは、自然科学で用いられる「空間化された時間」は人が経験しているものではないといいます。ベルクソンは「純粋持続」が時間、バシュラールは「瞬間の連続」が「現在」という時間であるとしています。人間が感じる時間は、常に「現在」の瞬間でしかないからだそうです。いずれも興味深い考察ですが、少々難解で、形而上すぎる考察にみえます。
 ところが、日常生活や社会の営み、自然科学では、時間は、上述の哲学者たちが否定している物理的時間を用いています。物理的時間は、時計や天体運動などの現象、運動を手がかりにして、計測可能なものにしてます。その結果、時間に、客観性や再現性をもたせている。
 時間は、厳密に定義もされています。1秒とは、「セシウム133の原子の基底状態で電子が遷移によって放射する電磁波の周期の91億9263万1770倍の継続時間」とされています。この定義は、SI基本単位として国際度量衡総会で決定されたものです。世界のすべての時間は、この定義が用いられています。
 時間とともに、時間の流れも、なかなか難しい問題をはらんでいます。時間は、過去から未来へ流れているのか、それとも未来から過去へ流れているか。意表をつく問いですが、考えようによってはどちらもありそうです。
 自然科学では、時間は過去から未来へと流れていると考えています。
 自然現象には、可逆なものと、不可逆なものがあります。不可逆とは、一度起こった現象が元に戻れないことで、可逆とは元にもどれることです。理想的な状態、条件を仮定すれば、可逆な変化は存在します。しかし、理想的な状態は、現実にはあまりなさそうです。摩擦や拡散熱伝導などによるロスが必ず生じるので、厳密に、あるいは微視的にみれば、現実の現象では、ほとんどが不可逆は変化ということになります。
 熱力学によって、エントロピーというものが定義されています。エントロピーとは「乱雑さ」を定量的に示す物理量とされていますが、不可逆な変化が起こるとエントリピーは増大します。現実のすべての系では、エントロピーが増えています。つまり、不可逆な変化が進行しつづけいていることになります。可逆の変化にしても、現実にはエネルギーを供給しなければ、継続しないことが多くなります。一見可逆でも、実はエントロピー増加をエネルギーを供給を補って抑えていることなります。
 宇宙全体をみると、どの瞬間をとっても、過去はエントロピーが小さく、未来に向かってエントロピーが常に増大するということになります。これを「時間の矢」といっています。さて最初の
   数学には、時間はない
   物理学には、理想的時間があるが、特徴のない可逆的時間
   化学には、可逆的時間と不可逆時間のはざま
   生物学は、不可逆時間と歴史的時間のはざま
   地質学では、歴史的時間があるが、一般化可能な時間はない
に戻りましょう。
 まず、数学ですが、数学には、論理の世界、理想状態の世界なので、時間というものは、定義可能です。その時間は、どこをとっても同質で、ひとつの次元に過ぎず、現実の時間があたるものが存在するようには見えません。それが「数学には、時間はない」という意味です。
 物理学では、時間を扱い、その理論体系の中に存在しています。ただし、流れている時間はあるのですが、体系化された法則に基づく時間です。論理的時間ともいえます。理想的時間ですから、論理的に可能であれば、可逆的時間も存在しえます。物理学では、特定の歴史的特異性(時代)をもった時間は扱いません。物理学では、「理想的時間があるが、特徴のない可逆的時間」となります。
 化学は、分子レベルの化学反応を扱いますから、不可逆性という方向性をもる「時間の矢」があります。化学のあつかう化学反応には、エントロピー増大の法則が大きな束縛条件となります。化学は再現性を重視しますから、歴史性をもった時間の流れはありません。理想化すると物理的な時間になり、現実に即すると時間の矢が明瞭になります。化学は、「可逆的時間と不可逆時間のはざま」にいるようです。
 生物学では、時間の矢が、「過去」を生みだします。つまり、不可逆な時間ん矢が流れています。その典型が、生物進化です。進化は、生物の変化が過去から生じ、現在にいたっていることをいっています。進化の原理はかなりわかってきましたが、一般化はなからずしも成功していません。なぜなら進化論は、いまだに論理的に証明されていないからです。生物学は、「不可逆時間と歴史的時間のはざま」にあるようです。
 地質学では、過去から歴史を編んでいます。一過性の再現性のない歴史的時間を扱っています。一般化していますが、時代や地域の特性に大きく左右され、一般化の信憑性もなかなか証明が難しいものです。地質学では、「歴史的時間があるが、一般化可能な時間はない」となります。
 うまく説明できませんが、時間の流れの特徴をみていくと、それぞれの学問の個性が現れると思います。ここで述べたことは、よしあしではなく、学問の特徴でもあります。さてさて、みなさんはここで紹介した説明を、どう思いますか。それも、時間が解決することでしょうか。でも、そこには、時間の矢があり、エントロピー増加の法則はあります。

・めぐる春に・
いよいよ3月です。
寒く、積雪の多い2月も終わりました。
2月末には、天気がいい日は、
路面の雪も溶けるようになって来ました。
長く厳しい冬も終わりそうです。
季節はめぐるのですね。
近づく春に、長く厳しい冬のあとは
期待が大きくなります。

・アイディア紹介・
このエッセイで、私は時間を、
理想的時間(可逆的時間)、不可逆的時間、歴史的時間
に分けました。
それぞれの自然科学では、
扱っている時間に違いがあることになります。
このような見方は重要だと考えています。
まだ、充分に考えをまとめきれていませんが、
今後も継続して、考察を深めていくつもりです。
ここでは、まずはアイディアの紹介をしておきます。