2013年1月1日火曜日

132 因果と経験の敗退

 明けまして、おめでとうございます。今年最初のエッセイは、当たり前と思っていること、経験的に正しいと思っていることへの疑問です。3.11の地震を教訓として、科学があるべき姿を考えていきたいと思っています。

 科学が完全でないこと、科学には無力な場合があることは、科学者なら誰もが知っています。しかし、その事実を、2011年3月11日、そしてそれ以降に起きているさまざまな場面で見せつけられました。そこには、人や社会、政治の要素も加わっていますが、ここでは、科学と科学者自身のありようを考えていきたいと思います。科学的結果に、大きな瑕疵(かし)が見つかった時、問題の所在をどう見出し、問題にどう処するか、その後に向かうべき方向は、そんなことを考えています。
 私は、自然を対象にする科学(地質学)に興味をもち、科学の奥底にある特性(地質哲学)を深く考えています。そして職務上、科学を伝えるための手法(理科教育)も教えています。科学すること、科学を考えること、科学を伝える方法に興味があります。重要なことは、それらすべては、「科学的手法」から逸脱することはできません。その手法とは、「証拠」と「論理」に基づくべきものと考えています。そこから逸脱したら、科学的ではありません。
 「証拠」のない「論理」は、仮説というべきもので、その正しさが検証されてもいませんし、保証されてもいません。実用性は少ないと思えます。一方、「論理」のない「証拠」は、いくら大量にあったとしても、その規則性や系統性がわからないままでは、データを活用できないことになります。両者が関連をもって存在することで、はじめて科学が成り立っているはずです。証拠に基づく理論構築、あるいは理論の証拠による検証が、科学の基本的な方法といえます。
 証拠と論理の背景には、「因果関係」が存在するという前提が暗黙のうちにあります。因果関係とは、ある原因が発生すれば、論理に基づいた結果が起こる。あるいは、ある結果は、必ずやある原因に由来していることを意味します。因果関係は、証拠を整理した後にできた理論ともみなせます。これは、科学をおこなうための大きな前提となっています。
 因果関係を決めるとき、可能性の大きなものが優先されます。可能性99%のものと、1%ものがあったとしたら、だれでも99%の可能性のものを原因、もしくは予測される結果として選ぶはずです。もし、あえて1%の可能性を選ぶのであれば、そこにはさらなる証拠と論理が必要となります。因果関係の強弱は、可能性によって評価されています。
 さて、一般的な場合の話をしましょう。人災がでたような事故があったとしましょう。なにはさておき、原因究明がなされます。原因が判明したら、その原因に対処して、今後の事故、再発防止に努めるはずです。これも因果関係の事例といえます。事故が結果であれば、その最大の原因を究明して取り除けば、事故の再発は、かなりの可能性で防げるということです。
 事故だけでなく、原因究明はいろいろな場面に適応されています。
 コンパクトな製品(例えば携帯電話)をつくりたい時、サイズを小さくし、軽くするために、電源装置が一番の課題だったとしましょう。電源を小さくするために、さらに問題を突き詰めていくと、電源装置の効率化による小型化、全体の消費電力を減少させることで小さなサイズにできるとしましょう。電源の小型化を図りながら、システム全体で小さな電力しが使わないように再設計をして問題解決することになるでしょう。どちらか一方でも成功すれば、小さくなります。もし両方とも成功すれば、もっとも効果的に小さくなるでしょう。ひとつひとつ問題点を解決して、目的を達成するという方法は、事故のとき因果関係にもどついた考え方です。
 原因究明という方法は、一般的な対処法です。何かの目標があったとき、前に立ちはだかる問題点をひとつひとつ解消していくことで、目標を達成していきます。この手法は、実績があるものなので、「経験的」に多くのことに適応可能だと考えられます。科学的根拠がありませんが、目標達成のために原因を追求していくという方法は、「経験的」に使えると感じられます。
 次に、3.11の地震を例にしましょう。3.11の地震が「結果」とすれば、事故調査と同様に、地震を起こした「原因」を追求すべきでしょう。予測の失敗により、従来の地震予測は白紙に戻りました。少なくとも利用できるという根拠が消えました。従来の理論に基づいた、新たな地震予測も無効になってしまったはずです。実際の大きな事故では、原因追求が最優先で、対応はその後です。地震の予測も、そうなるべきでしょう。
 地震の発生メカニズムとその原理(プレートテクトニクスという理論)から、なぜ3.11の地震が起こったのかという原因を追求されていくべきでしょう。3.11という惨劇の現場は、地震の発生の可能性が特別に高い地域とはみなされていませんでした。これは明らかに科学の敗退でした。
 一番大きな可能性が原因になるという「経験」がくずれたのです。この予測は、地震発生に関するプレートテクトニクスという理論から導かれたもので、その理論の確からしさは、今回の予期できなかった地震によって、少なくとも万全ではないことが露呈しました。謙虚にスタート地点に戻って、理論の点検をすべきでしょう。
 理論における原因とは、つまり予測できなかった理論のどこが悪かったのか、それとも理論ではなく扱う研究者のミスだったのか、そもそも地震予測が可能なのか・・・などを原点にもどって見極めるべきでしょう。原因究明がなされない限り、今後の理論に基づく予測には、大きな不確実さがあるはずです。
 その原因は、それなりに追求されています。しかし、プレートテクトニクスの不備、地震予知の不可能性など、理論の原点にもどって追求されているようには思えません。
 根本的追求がなされているのなら、学界で多くの研究者がそれぞれの研究領域で再度検討して、問題点の洗い出し、それらの解決がなされ、その結果の報告があり、公開の場(論文や学会など)で議論され検討されなければなりません。そのような場や機会は、震災が多く設けられています。ただし、結論を出すには、長い時間が必要なはずです。
 ところが、「従来の方法により仮に作成された全国地震動予測地図2012年版を付録として添付」とはされていますが、地震調査研究推進本部事務局(文部科学省研究開発局地震・防災研究課)から「全国地震動予測地図・全国を概観した地震動予測地図」が、2012年12月21日に公開されました。これは、問題解決の方法においても明らかに勇み足です。市民を混乱させるだけでしょう。予算を使ったから、その証拠に成果とを出したといわれてもしかたがありません。
 根本的な原因究明として、科学的方法である「因果関係」に対しても適応しましょう。科学は、因果関係に依存しているのですが、因果関係という考え方が正しいかどうかは、実は科学的に証明されていませんし、科学の対象である自然現象が因果関係に基づいて営まれている検証もありません。因果関係については、以前、何度かこのエッセイでも紹介しましたが、因果関係は科学的理論ではありません。経験的に正しいと思っているだけのものなのです。
 経験的に大きな可能性を選ぶと上でいいましたが、小さな可能性も起こりえるから可能性となっているはずです。その可能性を無視すること、重きを置かないことは、本当に正しいのでしょうか。リスクにおいては、小さな可能性であっても、その被害が大きければ、十分検討に値するはずです。小さな可能性も、見逃してはいけない場合もあります。まして、理論が破綻したとなれば、可能性の見積りも白紙になるはずです。予測が市民の安全、安心の指標になるのなら、破綻した論理での予測を提示することは、大きな誤解を生むことになります。
 自然現象に対しての因果関係の究明は、まだまだ不十分です。科学は、依然として不完全な体系なのです。その不完全な体系に基づいて、私たちの社会は動いています。そこから生まれる予測や予想は、その限界と危険さを理解しておく必要があります。
 因果関係は有力で方法であることは確かです。その信頼は、それが一番もっともらしいという「経験」に基づいているからです。地震予知では、その経験が当てにできないことがわかりました。では、経験を超える「想定外」の現象に、私たちはどのように対処すべきでしょうか。真摯に考え、取り組みべき課題です。
 天気予報のように日常的に、予測の確率を実感できるものであばいいのですが、地震のように実感できないものを、「経験」的な評価に基づくのはあまりに無謀な気もします。
 3.11は、科学の限界を教えてくれました。3.11は、科学的手法の限界を再確認させてくれました。3.11は、予測は可能性であって大きな不確かさを含んでいることを教えてくれました。3.11は、科学者の研究における姿勢を問い直しました。3.11は、人の大局観のなさを露呈させました。
 3.11から、まだまだ学び、実践すべき点があります。

・試練をチャンスに・
因果関係、因果律は、知性を持った生き物に
固有に悩みではないでしょうか。
原因と結果の関係を論じるなど、
明らかに感性に反すものです。
感性が当たり前に思うものに対して
異を唱えることができるのは理性だけです。
ただし、理性も大所高所の視点をもたないと
重箱の隅の論理で動いてしまうでしょう。
3.11の地震は、あらゆるところに批判や、反省をもって
見直すきっかけを与えてくれました。
「想定外」の試練ともいえます。
ただし、その試練を活かせるかどうか、
日本人、あるいは人類の知性の問われるところでしょう。
まだまだ知性をもった取り組みが
足りないように見えるのは、私だけでしょうか。
試練をチャンスにできるかどうかが問題です。

・身近な思い・
昨年は、社会状況も芳しくなく、
今年もあまり期待できそうにありません。
願わくは、自分の身の回りは健全であって欲しいものです。
政治や社会は、一人の思いではなかなか通じませんが、
身の回りの家庭や職場など小さい世界であれば、
叶えられることもあるでしょう。
そんな思いで、身近な思いを健全にしながら
今年は過ごしていきたいと思っています。