2022年12月1日木曜日

 251 喉元に熱さがあればリソースは回らない

 2022年も、COVID19の感染爆発が繰り返されました。3年近く感染爆発が繰り返されて、慣れっこになってしまいました。しかし「慣れ」が生じないようです。そこにはどんな理由があるのでしょうか。


 どんなに危機的状況に陥っても、同じ状況が続けば、人は慣れるものです。これは、つらい状態が続いても、慣れることで耐えやすくなり、気持ちに余裕ができます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざ通りのことが起こります。その結果、どんなに大変な状況であっても、慣れることで心の余裕が生まれます。どんな苦境でも継続すれば、心の余裕から、精神的なリソースを他のことに使えるようになります。この仕組みは、非常に優れた機構といえます。
 今年も師走となりました。COVID19の第8波の感染爆発が現在も起こっており、感染者数は非常に高い値で推移しています。特に北海道では、次々と最高記録を更新しています。2020年2月からの2年間のコロナ禍と比べると、最近の感染者数は大変な事態といえます。それなのに騒ぐ人も減っているようで、警告するメディアもなおざり感があります。これは、明らかに「慣れ」という状態に陥っているのでしょう。
 大学でも、学生の感染による担当講義の欠席の届けも、毎日何名も受けています。かなりの数の感染経験者もいます。COVID19が身近にある感じ、いつ感染してもおかしくありません。それでも一時期のような感染への恐怖や緊迫感を感じません。これも明らかに「慣れ」という気持ちによるものでしょう。2022年も感染爆発が繰り返されても、社会活動や大学の対面講義も復活してきました。それもコロナ感染への「慣れ」を促したのでしょう。
 では、「慣れ」た状態になったのであれば、精神的リソースに余裕が生まれたのでしょうか。そしてそのリソースを他に回せたでしょうか。どうも難しかったようみ見えます。どうしてでしょうか。「慣れ」と精神的リソース発生の間には、まだなにか他の要因が潜んでいるのでしょうか。考えていきましょう。
 同じような感染症にインフルエンザがあります。インフルエンザは高熱、節々の痛みや喉など、コロナ感染と似た症状がでます。感染するとつらい思いします。インフルエンザに感染したら、自宅療養となり出勤や登校は禁止になります。COVID19とは日数や対処は違いますが、インフルエンザの危険性は日常化して「慣れ」ています。
 コロナ禍でここ2、3年はインフルエンザの話題も聞かなくなりました。インフルエンザの危機感は日常化していますが、今でのワクチン接種で対処しています。ここ10年ほどインフルエンザにかかったことがありません。それ以前には何年に一度ほどはかかっていましたが、予防接種を受けていたたので、重篤になることはありませんでしたが、やはり闘病はつらかったですが。
 厚生労働省によると、日本では、例年インフルエンザの死亡者は1万人程度と推計されています。例年、インフルエンザの感染が広まっても、自身や身近な人が感染しても、危機感は感じずにいます。これも「慣れ」でしょう。
 今回のCOVID19では、日本の死者数は5万人になろうとしています。年平均にすると1万8000人ほどになっています。感染当初と比べても、死亡者数も感染爆発ごとに増えています。数で見ると、インフルエンザの倍近くの死者がでているので、危険な感染症であることは確かです。例年のインフルエンザでの死亡者数はあまりに話題になりませんが、これも「慣れ」でしょう。
 COVID19ははじめての感染症だったことと、当初から死者も多いことで大きなニュースになりました。加えて、COVID19が次々と変異種が生まれることで、症状も変化してきました。一方、COVID19に対処できるワクチンもでき、接種も進み、対処もしてきました。それでもいまだに感染爆発も繰り返しています。
 すべての感染症でも同じ現象が起こるのかもしれませんが、この3年近くの間、COVID19の感染状況の変化、死者の増加、成否は別に行政も次々と新しい対処もなされてきました。はじめてのことが次々と起こり、そこからの状況も激しく変化する事態となっています。まだ変化の最中なので「慣れ」ができていないのかもしれません。そのために、心の余裕がなかなかできないのでしょう。
 最初に「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざをだしましたが、COVID19は次々と新しい変化が起こっているため、喉元をいったりきたいしているようです。そのため、精神的リソースが他に回せないようです。

・マスク・
以前は、自身が風邪にかかっていない限り
マスクはしまでせんでした。
しかし、現在ではマスクをつけるのが
デフォルト、日常になっています。
研究室と自宅だけが、マスクのない状態となります。
人前に出る時は、マスクをつけた状態が日常となっています。
学生も顔の上側だけで見分けなければなりません。
私は顔識別が苦手なので困ります。

・晴れない気持ち・
今回が今年、最後のエッセイとなりました。
今年はCOVID19の話題は常に流れていました。
それ以外の話題もあったはずですが、薄まっているようです。
今年になって、危機管理レベルや自粛が緩るみ、
社会活動、観光、大学の対面授業などが
復活してきました。
一方で感染爆発も繰り返しています。
インフルエンザの感染爆発があっても、
あまり気にならないのですが、
COVID19はいまだに気にしています。
そして、気分もパッと晴れることはありません。
そんな気持ちの今回のエッセイしました。

2022年11月1日火曜日

250 地層の上下判定にある論理性と感性

 論理性と感性とは、異なったものです。論理性は知識を学び、身に着けために実地での体験が重要です。感性を鍛えるにも、実地での経験が必要です。手段は同じですが、相反する結果となっていくようです。

 論理的と口でいうのは簡単です。しかし、物事や発言が、論理的に正しいかどうかを確かめるのはなかなか大変です。論理学という学問があります。言語や文章の概念や言葉を記号にし、数学的演算の規則性を適用していくものです。記号化できる文章や言葉(述語論理といいます)であれば、論理的かどうかを判定することができます。
 このような論理学的作業が、日常生活の場でおこなわれることはありません。会話をしている時など、内容の論理の真偽を考えることはありません。話し手の意図や心情などを汲み取り、意味を考えながら、会話の流れや連続性に注意が向いているはずです。普段、形式的な論理を追求することはないでしょう。論理の真偽より、話しの「内容」を理解したり、その整合性に注意を払っているはずです。直感的、感覚的に対話をしているはずです。
 場合によっては、会話の内容が正しいかどうかを、じっくりと考えて判断していかなければならないこともあるでしょう。しかし、その判断は、論理的形式の真偽ではなく、時には論理形式的には間違っていても、意味している内容の真偽が重要になるはずです。
 内容が正しいかどうかは、証拠や根拠があるかどうか、そして証拠や根拠が正当かどうか、が重要になるはずです。そのような判断を短時間で、会話では瞬時におこなっているはずです。
 高度な判断、多様なプロセスを瞬時にするという訓練が積まれ、できるようになっています。ただし、思考の方法や判断の結果は、人それぞれの知識や経験、視点、思考によって大きく左右されてしまいます。
 そんな例として、水平な地層について考えていきましょう。「この水平な地層は、下の層が先に溜まって、上にいくほどより新しい地層になっている」、と言った人がいたとしましょう。この会話で、話している文章上の形式的論理性を考えることはないでしょう。実物を見て、会話の意味を考え、その内容が正しいかどうかを考えていくことになります。その時、自分が地層を見た直感的判断と合致しているかどうかが、判断基準となります。
 地層に詳しくない人同士の会話なら、それで終わるかもしれません。もし聞いた人が、地層をよく知っているのであれば、「現在の上下は、できたときの上下とは限らない」ということに気づくはずです。多くの人は、地層が海底で堆積し、陸地で見えるようになるためには、地質学的変動を受けていることを知識として学び、理解しているはずです。
 その知識から、変動過程は、ゆっくりとしたものですが、激しいもので、海底に溜まったものが陸地に持ち上がっているということは、その間に激しい変動があったことが、想定できるはずです。水平な地層であっても、海底の堆積状態が、そのまま保存される場合は、稀であることもわかるはずです。その結果、見かけの上下と、形成時の上下の一致は保証されない、と判断できるはずです。自身で気づかなくても、上述の簡単な説明で理解できるはずです。
 地層の現在の上下関係はかりそめののもで、形成時(真)の上下関係は、別の証拠を求める必要があります。真の上下を確認するには、さらに知識と経験が必要になります。
 上下判定には、ひとつの地層内での粒子の大きさの変化、また上下に非対称の構造、地層間では地層境界の状態、境界部の構造などの手がかりがあります。一般的地層の形成モデルをもとに、上下の判定に必要な知識を動員して、野外の地層の上限を論理的に見極めていきます。
 上下の判定のための証拠を探す時、知識とその応用において論理性が発揮されます。その論理性は訓練によって身につけることになります。そして熟練すれば、どんな地層を見ても、上下を判定できる証拠を探すことができるようになります。
 ある露頭では、上下が逆転していることも見抜けます。このような逆転地層は、地層のこと知らない人には、常識に反し、非論理的に見えるかもしれません。しかし、逆転を示す論理と証拠を示せば、納得できるでしょう。これは説明されている人も、論理性を共有しているからです。それは形式的な論理ではなく、証拠や根拠などが正しいと判断する論理的能力を持っているということです。これは広い意味の教養になるのではないでしょうか。
 さらに重要なのは、現在の露頭にある地層に至るには、流れている長い時間と激しい大地の営みがあることに気づくことです。現在の地層の背景にある悠久の時間、激しい変動を感じることは、感性や感慨に当たるもので、論理性から導かれるものではありません。
 地層をより深く理解するためには、感じる感性が必要になります。地層の逆転現象は、地質学的に重要な意味を持つことがありますが、逆転地層から感じる思いを持つためには、実体験をもって感性を鍛えなければなりません。
 論理性を身につけるのとは、異なった訓練が必要になります。まずは、野外でいろいろな地層を見ることで、いろいろな自然に触れることでしょう。そして、多様な地層があること、多様な自然があることを体験し、その感じる力を養っていくことではないでしょうか。
 論理性と感性は目指す方向性は異なっていますが、野外での経験を積むという方法は同じです。

・論理学・
論理学はなかなか難しく、奥深いものです。
原理原則はわかるのですが、
いろいろ公理からの展開や証明など
応用がなかなか難しくて
何度か挑戦したのですが挫折しています。
科学の考察や証明過程には
論理学は必要になるかもしれません。
背理法や対偶は真などを
日常生活で利用することはないでしょう。

・冬近し・
10月下旬から北海道は一気に寒くなってきました。
山はもう何度も白くなり、
峠の雪情報も何度も聞きました。
いよいよ冬がはじまりました。
今年は、紅葉もまだらに進み、
雪虫も大量発生をみていません。
いつもの冬の訪れとは少し違っているようです。
でも、こんな季節の移り変わりもあるでしょう。

2022年10月1日土曜日

249 中心仮説を諦めない:抽象化の果に

 研究とは仮説を検証、証明していくことになります。仮説ができても、解けそうもないものは研究対象にされません。解けそうなものを仮説にしていきます。仮説を解くために要素還元主義が不可欠になりそうです。


 先日、週刊メールマガジン「Earth Essay 地球のささやき」で、ある論文を紹介していました。その論文では、始原的なタイプの炭素質コンドライトを地球の材料と考えて議論を進めています。この考えは、多くの研究者が受け入れています。次に、あるモデルを用いて現在の地球の平均的は組成を推定しています。これも、多くの研究者が受け入れています。炭素質コンドライトと現在の地球の成分と比べています。すると、表層の大気や海洋を構成している成分が、枯渇していることがわかってきました。
 地球の全体的な変化は、地球の初期、形成期の激しい変動時に起こったのではないかと、一般的に考えられています。その論文でも、多くの一般的に信じられている前提の基づいて、初期に起こったもっとも大きな異変として、マグマオーシャンを設定してシミュレーションを用いて検討されました。枯渇した成分に対して、いろいろな過程が考えられましたが。ところが、マグマオーシャンの出来事だけでは、枯渇の様子を説明できません。
 そこで初期に起こった別の出来事を考えていきました。マグマオーシャンが固化した後、小天体が激しく衝突し天体が集積する事件(後期爆撃と呼ばれています)があります。この事件も、これまでの研究で検討され、定説となっているものです。論文では、後期天体爆撃事件を想定してシミュレーションがなされました。その結果、衝突によって、ある成分が剥ぎ取られることで、現在の比率になることがわかってきました。また、大気を効果的に剥ぎ取るためには、サイズの小さい天体が、多数衝突することで、現在の枯渇状態が再現できました。この論文は、それが新知見として報告しています。
 この論文を紹介しながら、研究姿勢、抽象化、そして課題について考えました。
 まずは、研究(者)の姿勢です。この論文を書いた研究者たちは、結論が出るまで(成分の違いが説明できる)諦めることがなく、次々と可能な仮説を立てながら、検討(シミュレーション)を続けました。求めるものがえられるまで、諦めない気持ちが、研究では大切だという好例です。
 次に、物事の考え方を抽象化していく必要性です。上の論文の方法論で抽象化していきましょう。現在の物質(この論文では、地球、以下同様)と材料(炭素質コンドライト)を比べたところ、成分には違いが見つかりました。その違いは、物質が現在に至る過程のどこかで生じたと想定されます。物質の変化過程で、もっとも変化の激しい時期は、形成初期だと考えられます。最初の事件(マグマオーシャン形成、核と揮発性成分の分離)で起こる変化を仮定しました。ところが、それだけでは違いがすべて説明できませんでした。次の事件(後期天体爆撃事件)を仮定して考えを進めました。その事件で起こる元素の再配分(剥ぎ取り)を考えたところ、違いを説明できました。
 このように抽象化して方法論を考えていくと、地球だけでなく、材料と形成後の物質の違いを考えるとき、思考の方針になるはずです。ここまでは、エッセイで書いた内容でした。
 エッセイを書いたあと、もやもやした気持ちが残っていました。後に考えていくと、もやもやは、自身の思索がもっと深められたはずだ、もっと抽象化を進めれば違う見方もできたはずだということに気づきました。そのもやもやを、研究姿勢と抽象化として考えていきましょう。
 まず、研究姿勢についてです。論文では、ひとつの事件では変化を説明できず、次の事件へと探究を進めて解決しました。もし2つ目の事件でも解決できなければ、彼らは次なる事件へと進めていったはずです。その諦めない気持ちが重要ですが、その進め方への疑問です。
 地球の歴史でいえば、長い時間が経過しているので、つぎつぎと事件と求めて原因探しができます。もし、ひとつの事件でしかある変化が起こらないと想定されるのであれば、その事件で説明できれなければ、どんなに諦めない研究者でも、その事件での解決は諦めなければなりません。
 もし多数の事件があり、その順に起こるか不明の場合、事件の組み合わせは膨大になります。そのような膨大な数に対して、どんなに諦めない気持ちがあっても、解ける見込みは小さくなります。それでも諦めずに進めていくでしょうか。そもそも数に圧倒されて、虱潰しに順番に当たろうなどという研究方針はとらないでしょう。
 つまり、諦めない気持ちも、限りある対象で、順番に進めればやがて解けるだろうという期待感があったため、それがモチベーションになったのでしょう。
 次に、抽象化をさらに進めることができます。材料と現在の物質との違いの発見とその探究という抽象化しました。現在の物質と材料には、大雑把には似ているという前提があり、詳しく調べると、違う点が見つかりました。物質には、置かれている条件が異なっていたり、長い時間が経過すると、変化するものがあります。一般に、自然界の物質は、地球や宇宙が変化していているので、それぞれがそれなりに変化しているはずです。つまり、「自然界で長く置かれたものは変化する」という前提は置けそうです。
 変化の発見(材料と現在の物質)は、変化前後での比較によって、類似と相違の区分ができるということです。類似は、材料(原因)と現在の物質(結果)の因果関係を示す重要な根拠になっています。また、相違の発見は、原因(材料)と結果(現在の物質)には違う点、つまり変化自体の発見を意味します。変化を発見し、その過程を探究することは、材料から現在の物質へ至る履歴を探ること、時間軸とつけて変化を見ていくことになります。
 ここまで抽象化を進めれば、原因と結果の比較は、変化の発見につながり、変化の探究は時間変化の解析につながる、という抽象化ができます。これは、普遍的な命題になりそうです。
 さらに上で述べた研究姿勢と抽象化を合わせたものにたいして、ラカトシュの研究プログラムの構図が、あてはまるのではないかと思い浮かびました。
 研究プログラムとは、「堅い核」と呼ばれる中心命題と、その周辺につくられる「防御帯」となる補助命題群からなります。研究プログラムでは、中心命題を反例から守るための考え方でした。
 研究プログラムと、上述の論文あるいは抽象とは、方向性が違っています。しかし、中心命題を「証明したい」仮説、補助命題群を「複数の事件で説明する」という仮説と考えると、議論の進む方向は異なっていますが、構図(抽象化したもの)が似ています。
 論文では、証明したい変化(中心仮説)を、重大な事件(補助仮説)を次々古いものから順にと用いて説明しよう(反例から守る)という方法論です。中心仮説は周辺仮説で解決できる、変化は事件の組み合わせで説明できる、という期待のもと研究が進めました。
 これは要素還元主義的方法論になっています。この方法論を選んだ時点で、諦めなければ、解けるという期待ができます。研究者も人間です。無数の組み合わせであれば、チャレンジしないでしょうが、限りあれば取り組みます。
 研究で成果を上げるとは、要素還元できるかどうかにかかっているような気がします。あまりに抽象化しすぎでしょうか。

・シルバーウィーク・
シルバーウィークは、台風の影響を受けた地域も
多かったのではないでしょうか。
私がいつもの生活をしているので、
我が家も特別なことはなしです。
連休の初日に、二人分の寝具の更新のために
街へ買い物にいきました。
テイクアウトは時々していますが、
ここしばらく外食はしなくなりましたが、
その時、久しぶりに外食をしました。
街での昼食と買い物を楽しみました。

・紅葉・
9月下旬になり一気に涼しくなってきました。
朝夕はそろそろ暖房が欲しくなってきました。
ストーブの準備を考えています。
紅葉もはじまってきました。
落ち葉を使う実習があるのですが、
まだ落葉していいなので
講義を一週休校にして拾いに行く予定を組んでいますが
今年の紅葉はどうなるでしょうか。

2022年8月1日月曜日

247 虹の解体:センス・オブ・ワンダーは深く

 自然の謎を科学的に解明していくと、その自然からは、詩情が消えていくのでしょうか。詩情は消えることはなく、センス・オブ・ワンダーは、より深くなっていくのではないでしょうか。

 地質学では、野外調査が重要な手段となっています。野外にでかけて露頭を見ること、岩石に触れることから、地質情報や試料を収集していきます。地質情報や試料は、いろいろな室内実験を通じて深く解析、分析されていきます。そして、自然の謎を解明していきます。
 地質学は、自然科学の中でも、野外調査を通じて、自然に直接接することが多くなります。地質調査は、今では、3Kの仕事になるのでしょう。しかし、地質学者の多くは、野外調査は大変ですが、やりがいや、魅力を感じています。多分、海岸の連続露頭に圧倒されて、山の道路の切り通しの岩石に触れながら、あるいは沢を歩きながら、自然にセンス・オブ・ワンダー(sense of wonder 驚きの気持ち)を感じているからではないでしょうか。地質学という学問的興味はもちろんであるですが、それ以上に、地質学が対象としている自然への畏怖が生まれているからではないでしょうか。
 リチャード・ドーキンスの著書に「虹の解体」があります。副題の「いかにして科学は驚異への扉を開いたか」が、本来の書物の内容、あるいは主張したかったことでしょう。この書で「虹の解体」という言葉を主題として用いたのは、「詩人ジョン・キーツらは、“虹の持つ詩情を破壊した”とニュートンを非難した」ことへの反論をするためとしています。
 「虹の解体」という言葉は、キーツ(Keats)の詩集「Lamia, lsabella, The Eve of St. Agnes, and Other Poems」の中の「Lamia」の「PART II」に、その節があります。【本文の最後にキースの詩(英文)と、拙いですが対訳をつけました】
 キーツは、虹を科学的に解体していったことで、虹のきれいさや「詩情」、荘厳さが、なくなっていったと詩の中で述べています。虹の「織り方」を「定規と線」で謎を解くことで、平凡なものにしてしまったと、書きました。哲学(自然科学全般の指しているのでしょう)は、荘厳なる虹の魅力をなくしていった、と考えていました。
 虹を解体したのは、ニュートンでした。「光学」の実験をして、太陽光(白色光)をプリズムを通すことで、虹のような光に分けられることを実験で示しました。そこから、光や虹の原理を、科学的に解き明かすことになりました。
 プリズムを通して光を解体するように、科学では、ものごとや謎を調べていく時、単純な要因や要素に解体していき、仕組みや原理を探究していくという方法論をとります。「要素還元主義的方法論」と呼びます。それぞれの要素を解明していきながら、全体像を探究していく方法です。現在の科学は、要素還元主義的方法で、自然現象を解体していきます。現在のほとんどの科学的手法は、要素還元的主義に従っているでしょう。
 キーツは、虹の解体で、虹の荘厳さが消えていくと考えました。科学の要素還元的なやり方で、自然が解体されることを嫌ったようです。ただし、詩で表現されているので、本当の気持ちかどうかは不明ですが。
 ドーキンスは、イギリス人で有名な生物学者で、一流の教養人でもあります。ですから、キーツの詩もよく理解していたはずです。そのドーキンスが、キーツが詩で、「虹を解体」したとして、科学を非難(?)したことへの反論を試みています。虹が解体されても、詩情も消えることなく、センス・オブ・ワンダーはあるのだと、科学の素晴らしさを擁護しています。
 ドーキンスと同感です。自然は解体していったとしても、その先には姿形を変えた、新しい自然が広がっています。自然は、限りなく広く、奥深く、解体してもさらなる謎を提示し、荘厳さと保っています。自然は、解体しても自然であり続けます。
 科学は自然の中の多くの謎を明らかにしてきました。しかし、自然の謎は増えはしても、減ることはありません。自然は、多層構造や複雑な相互関係をもっています。
 それぞれの階層のどこにおいても、上位や下位の階層と相互作用が起こります。例えば、露頭は岩石から、岩石は鉱物から、鉱物は元素から形成されています。岩石同士の関係が、露頭の産状を生み出しています。鉱物の組み合わさり方、織りなすつくりが岩石組織を形成しています。それぞれが上下の階層と複雑に関係しています。
 ひとつの階層の中においても、他の要素と相互作用をしています。例えば、岩石を構成している鉱物では、岩石が形成されるとき、隣接する鉱物同士で、元素のやり取りには一定の関係があります。このような関係を、元素の鉱物間の分配係数と呼びます。岩石全体としても、全体の化学組成、温度、圧力、酸素濃度などの条件によって、分配係数の変化が起こります。それを逆手に取って、分配係数の変化から、温度や圧力を推定することができます。
 自然には複雑な仕組みが働いています。同じ階層でも多数の要素が複雑に相互作用をして、それらが多層的にさらに複雑な関係を生み出しています。ですから、自然のひとつの謎を解き明かしても、謎は尽きないはずです。
 ドーキンスの「虹の解体」をさらにオマージュして、「地質学的野外調査の解体: 地質学への新しい方法論の導入」という本を執筆中です。地質学における野外調査を解体していくことで、新たな世界が拓かれていくであろうことを、新しい方法論を導入することで、自然へのさらなる「センス・オブ・ワンダー」が生まれると考えたからです。
 さて本当に、野外調査は解体できるのでしょうか。解体できなくても、「センス・オブ・ワンダー」は残っているはずです。もし解体できたとしたら、きっと「センス・オブ・ワンダー」はもっと深まっていると信じています。現在、鋭意執筆中です。

【付録】
キーツ(Keats)は生前に3冊の詩集を出版しています。その最後の3冊目が25歳の時に出版した詩集「Lamia, lsabella, The Eve of St.Agnes, and Other Poemsは」の中の「Lamia」の「PART II」に次の一節があります。独自に訳しています。

Do not all charms fly
  すべての魅力が飛ぶのではないか?
At the mere touch of cold philosophy?
  冷たい哲学に触れるだけで、
There was an awful rainbow once in heaven:
  天国にはかつて荘厳なる虹があった。
We know her woof, her texture; she is given
  私たちは、その横糸やその織り方を知っている。彼女は与えられる
In the dull catalogue of common things.
  平凡なものというくすんだ一覧になっていく。
Philosophy will clip an Angel's wings,
  哲学は、天使の翼を切り取り
Conquer all mysteries by rule and line,
  定規と線ですべての謎を征服する
Empty the haunted air, and gnomed mine-
  精霊が飛ぶ空や、そして精霊の住む山もカラになる
Unweave a rainbow, as it erewhile made
  虹を解体する、かつて作られたように
The tender-person'd Lamia melt into a shade.
  優しい人、ラミアは陰に溶けていく。

(WIKISOURCE
https://en.wikisource.org/wiki/Keats;_poems_published_in_1820/Lamia
より)

・盛夏・
7月は涼し日が続いていたのですが、
下旬からはやっと暑い日が来ました。
北海道の短いの盛夏の訪れです。
湿度が低ければ北海道らしい夏になるですが、
湿度が高いと本州と変わらない夏となります。
今年はどうなるでしょうか。

・例年の忙しさ・
いつものことですが、
8月は例年忙しく過ごしていますが、
今年も同様です。
上旬は、定期試験、採点、面接練習がはいっています。
8月中は卒業研究の添削がずっとつづきます。
後半には集中講義と校務出張と研究出張が
重なっていきます。
その合間に、本の執筆、推敲を進めていきます。
まあ、休むは定年になってからでいいでしょう。
走れるうちは走っていきましょう。

2022年7月1日金曜日

246 新しい解法:算数的アプローチ

 今回は地質学ではありませんが、課題解決の方法論を考えていきます。生きていく上で、解けようか解けまいが、どうしても対処しなければならない課題があります。そんな課題に対して、算数的アプローチを紹介します。


 人は、いろいろな課題にぶつかります。あるときはその課題が解けずに打ちのめされたり、またあるときは解けて大いに満足したり、などいろいろな場面が生まれます。課題に時間制限がかかることもあり、それまでに解決できようができまいが、課題に向かわなければならないこともあります。課題の対処で、解けなくてもうまく終われる場合もあれば、解けても挫折感を味わう場合もあります。
 人が取り組む課題には、さまざまなものがあり、当事者にとっては重要であっても、周りにはどうでもいいこともあります。また逆に、当事者にはどうでもいいような課題でも、周りはその人が解決してくれないと大問題になることもあります。このような課題も、多々あります。
 どのような課題であっても、それに取り組んでいく姿勢は重要です。課題がそもそも解けるものなのか、解けるはずもないものなのか、それが不明な場合が多くあります。それでも課題には取り組まなければならいこともあります。
 数学であれば、多くの問題を解いていけば、いくつかのアプローチや解法が身につくようになります。問題のパターンを見抜いていき、アプローチや解法が使えないかどうかを、試していくことになります。訓練や練習を積めば積むほど、その解法やノーハウは増えていきます。
 一方、数学には、解けない問題、あるいは特別な条件がないと解がない問題もあります。解けないことがわかるというのは、証明されているということになります。解けないことが認識できるのは重要です。解けないものに取り組むのは、無駄だということ、取り組み必要がないことがわかります。
 解けないことがわかるのは、数学や論理学の世界の話で、それこそ特別な世界での話となります。一般の場合、その問題が解けるかどうかは、不明です。生活の場で起こる課題には、そのようなものが多いのではないでしょうか。
 解けないと思っていると、解こうという意欲がわきません。ですから、解けるはず、あるいは解かなければならないと思って、取り組むことになります。
 生活の中での多くの課題のうち、時間に迫られているものは、一定の努力をしていれば、時間が過ぎてしまえば、成功、失敗にかかわらず課題は、解消されます。多くの場合は、時間が来るまでは、心理的なストレスが高くなります。時間に制限がない課題は、あまり切迫していないものが多くなります。課題は嫌なことなので、ついつい後回しにして、やがては忘れていくことにもなるでしょう。
 しかし、忘れてはいけない、どうしても解かなければならない重要な課題もあります。そのような課題に対して、どのように対処すればいいのでしょうか。そもそもの方針として、どのようなアプローチをすればいいのでしょうか。解けようが解けまいが、取り組まなければならない事態になっている場合です。
 そんな場面に対して、学生に授業で伝えている方法があります。「算数的アプローチ」と呼んでいる方法を、覚えておきなさいと紹介しています。それは、算数の+、ー、÷、×をもとに考えようというものです。これらの算数的アプローチは、解法だけでなく、解く人の姿勢にも使えるものです。
 +とは、取り組んでいる課題の解法に、別の解法を加えて考えることです。ひとつの課題Aがあり、それを解く方法がわからない場合、似た課題Bで解けているBを参考にして、Bの解法をAに適用、応用できないかを考えていこうとするものです。また、解く努力をしつづける姿勢とることで、継続することで解決へのつながることもあります。
 ーとは、課題を整理して、本質的でないものを取り除いていき、もっとも本質的なものだけに絞って考えていこうをすることです。また、課題を全体を解くには大変な努力や膨大な時間が必要ですが、すべての解くことを望むのではなく、少しずつでも解いていくことで、着実に課題の量を減らしていくことです。
 ÷とは、課題となっている内容を、解けそうないくつかの小さな要素に分解していき、それぞれを解決していきます。それを繰り返すことで、最後には全体を解いていこういう方法です。一人では解けないことも、二人や仲間を募ること、あるいは要素還元主義的考えで解決に近づく姿勢です。
 ×とは、その課題単独ではなかなか解けそうもない時、仮に別の条件を導入したり、別の要素を掛け合わせることで、課題をいったん別の解きやすい形にすることで解いてみます。解けたら、その条件や要素を少しずつ取り除いていくことで、解がどう変わっていくことを考えることで、課題を解いていく方法です。また、同じ時間内であったとしても、2倍の集中力や努力をすれば、より早く解決できるということです。
 このような方法論は、抽象的な言い方ですが、だからこそいろいろな場面、課題に適用できるのはないかと思っています。課題に正攻法で淡々と努力すること(+の方法)は重要です。それは、すべての基本となることで、しかし、それでは解けそうもない課題や、時間がかかりすぎそうな課題もあるはずです。そんな時、このような方法論を、頭の片隅においておくと、どれかが解決の緒をえられるのはないかと考えています。

・天候不順・
夏至が過ぎましたが、
本州では暑い日が続いていると思います。
北海道は天候不順が続いています。
涼しかったり、雨だったり
蒸し暑い日があったりと不順です。
あまり夏の暑さが訪れていません。
これからでしょうか。
初夏の風物詩のエゾハルゼミは鳴いてきたのですが
いつもの夏の装いにもなかなかなれません。
どうしたものでしょうか。

・コロナからの脱出・
世界各地ではCOID-19からもう脱出して
普通の生活が戻ってきたようです。
日本はまだ危機管理された状態になっています。
毎日数百人ほどの感染者が出ています。
対策レベルとしては
なかなか下げられない状況が続いています。
大学も公の方針に従いますので
なかなか通常の状態にもどりません。
しかし、徐々にではありますが、
2年半前の状態に戻りつつあります。
一日も早い回復を願います。

2022年6月1日水曜日

245 自然の有限と数学の無限

 自然科学の研究をしていく時、数学的な処理をしなければならないときがあります。数学的処理がうまくいき、規則性が見えた時、自然の真理が見えたと考えてしまいます。しかし、その取り扱いには注意が必要です。


 コロナの感染が続いてきますが、機会を見つけては、野外調査にでかけるようになりました。昨年は互層している堆積岩を中心に調査をしていましたが、今年は、道内のいろいろな岩石成因の典型的な露頭を見ることにしました。先日は、新しい火山地帯にでかけました。目的は、岩石形成にかかわる基本的な素過程を露頭スケールで抽出していくことです。当たり前の過程になるはずですが、露頭から思索をはじめることが重要だと考えています。そんな思索のひとつを紹介しましょう。
 互層とは、規則的に繰り返され連なっている地層のことです。露頭で整然とした互層を見ると、自然界には何らかの規則的な現象が起こっているのを感じてしまいます。もし何らかの規則性を見つけたとしたら、次には規則を生み出した原因を考えていくことになるはずです。
 例えば、互層を構成している砂岩と泥岩の層厚の比率を計測したとしましょう。その時、砂岩の占める比率が上位に向かって減っていったとしましょう。その原因として、互層の堆積場が、沿岸からだんだん遠く深くなっていったとすればどうでしょうか。そのような場合、時間経過にともなって、砂岩があまり流入することなく、泥岩が多くなっていくという現象が起こりそうです。そのような作業仮説が構築できます。
 検証としては、示相化石など環境を反映する他の情報からおこなうことになります。示相化石から、その仮説を検証できたとしましょう。検証できたことによって、仮説に根拠が備わって、「正しさ」が示せたことになります。
 ただし、地質学固有の注意点があります。地質学的現象は、過去に起こったことなので、一回限りの出来事になります。そのため、どんなに似た現象、互層があったとしても、それは時代や地域が異なっているものなので、全く同じものは存在しません。そのため、互層ごとに先程の仮説の検証作業が必要になります。ある互層では示相化石があり検証できたとしても、もしなければ検証できないことになります。検証されていない互層で、どんなに似た現象が見つかっても、その「正しさ」には根拠がないことになります。
 地質現象は、過去に起こったことなので、ここまで述べてきた検証の有無による「正しさ」に関する評価はわかりやすいはずです。しかし、自然科学の分野では、その見極めがしづらくなってくる場合があります。
 地質学では、素材が自然物であるため、対象を詳しく調べ記載することが重視されます。自然の中で実物をとるときは、日時や位置、分類など質的データとともに、計測された量的データも集められることがあります。テーマによっては量的データを中心に集めることもあります。数値化された量的データは、統計的処理など数学的な扱いをすることになります。
 地質学に限らず、自然科学では多くの場面で数学的手法を用います。物理学などはその典型で、物理現象を如何に数学的一般則を導き出すか、あるいは物理法則がどこまで自然現象に適用可能かを探ったりすることも多く、そこでは数学的手法が使われています。
 自然科学では、規則性や普遍性を見出すことを目的としていきますが、基本的に実験、観測、観察できる範囲でしかデータを集められません。自然科学の規則性や普遍性は、あくまでも検証された範囲内での正しさになります。
 地質学はその露頭の分布する範囲内でし検証されますが、物理学では、実験観測できる範囲でより広大です。いずれの場合でも、検証できる範囲の外側は、推測はできても、「正しさ」が保証されないものになります。もし、技術が進み、検証できる範囲が広がったとき、これまでの規則に合わない事実、現象が見つかったら、これまでの規則性や普遍性は、捨てたり、修正されたりしなければならなくなります。
 このような例は過去に多々ありました。光速度は一定であることは実験的にわかっていたのですが、それを従来の規則の体系に組み入れることは、相対性理論が登場するまではできませんでした。相対性理論の検証のために、光の行路が重力場に応じて曲がること、速に近づくと時間が伸びることなどが観測され「正しさ」がわかりました。新しい理論による検証作業がおこなわれ、従来の理論が間違っていることが証明されたことになった例です。
 自然界を対象にしているので、検証範囲には限界があります。物理学でもそうであったように、自然科学の「正しさ」は、「現在のところ」という但し書きが常に付いていることを忘れてはいけないのです。
 さらに、自然科学で数学的手法を使いっていても、純粋数学とは決定的に違う点があります。天文学でどんなに遠くの対象を扱っていても、宇宙は「有限」のサイズしかありません。また、物質として素粒子という最小の単位が決まっています。一方、数学的には「無限」が存在します。数字は無限に大きなものがあり、無限に小さいものもあります。微分では無限に小さいもの、関数では無限に大きくなる値も許容されています。無限という概念の存在が前提で、論理過程が進められます。ですから、数学の論理は、未知の領域である無限にまで適用できることになります。
 自然からえられた事実は揺るぎないものです。たとえ整ったエレガントな法則があったとしても、泥臭い事実に従わなければなりません。自然科学は、真実は自然の中にあることを忘れてはいけません。有限と無限、事実の法則、科学と数学、これらの境目は注意しておかなければなりません。

・野外調査・
5月の北海道は暑い日もありましたが、
月の初めや月末には寒い日もありました。
寒暖がいったりきたりしていました。
それでも5月は野外調査にはでかけることができました。
6月には2回の調査をする予定です。
中旬に校務出張もあるはずなので、
その日程が決まらなければ
調査日程も決めることができません。
でも、自由に調査に出かけられるようになったので
非常に助かっています。

・対面とリモートと・
大学は対面授業が当たり前になりました。
またリモート授業も利用できるので、
出張があっても休講にすることなく、
授業を継続することができるようになりました。
リモート授業は、学生の能動的な受講態度がないと
成立しないものです。
対面授業の中で、リモートでも
その雰囲気を醸造するのは
なかなか難しいですね。

2022年5月1日日曜日

244 A、非A、メタA:無限ループへ

 言葉について考える時、言語で考えます。言葉にできないものも言語で考えます。概念を考える時、概念的に考えます。このような入れ子状態のものごとに対して、どのような方法論で、切り込んでいけばいいのでしょうか。


 ある概念を誰かと共有するためには、文字や言葉にして表さなければなりません。概念が言語化ができなければ、共有することはできません。言語化はさまざまな場面で重要になります。
 ある例をみてきましょう。宝石の多くは、鉱物の結晶からできています。宝石には色があり、その色が宝石の特徴ともなっています。サファイアは青色、アメジストは紫色、ルビーは赤色など、共通の概念をもった色で言語化されています。色を特徴として、それぞれの宝石が識別できることになります。しかし、同じ種類の宝石であっても、多数集めて色を見ていくと、多様性があることがわかります。
 アメジストは、紫水晶ともいわれるように、紫色ですが、濃い色から薄い色まで多様です。薄くなると、青っぽくなったり、赤っぽくなったりします。自然の結晶ですから、その色合いは変化します。ただし、宝石となるのは典型的な色合いのものです。サファイアやルビーでも、同様の色の多様性があります。宝石の種類は異なっているのですが、色の多様性をみていくと、似た色になっているものあるはずです。並べて比べれば、色や結晶の違いがわかるかもしれませんが、似た色の違いを言語で示すことが難しくなってきます。
 現在では、色を数値で示すことができるので、数値化して違いを示すことは可能です。しかし、言語化と数値化とは違う概念ですので、ここでは考えないことにします。
 「紫色」が適用できる色と、「紫色」と似ているけれども違う色を比べると、「紫色」に似ている色のものが、圧倒的に多そうです。ここで出した例は宝石の色ですが、他にもいろいろなもので、言語化できる対象があるはずです。ひとつの対象で言語化されたものは、その対象の周辺にある類似のものの多様性と比べれば、ほんの一部に限られているのではないでしょうか。
 この例を抽象化していきます。まず、対象の宝石で言語化できた紫色を「言語化」紫色、と呼びましょう。そうなると紫色に似ている色で言語化できないものを「非言語化」紫色と呼ぶことにしましょう。すると、それぞれの対象内の量(数、種類などなど)は、
  「言語化」紫色 << 「非言語化」紫色
となりそうです。これを抽象化して表記すると
  言語化色 << 非言語化色
となります。さにら抽象化を進めていくと、
  A << 非A
となります。つまり、ある概念Aがあったとき、Aでない非Aの概念が圧倒的多くなるということを意味します。
 この例では色にしましたが、同様の例が多々あるはずです。しかし、ここで注目したいのは、量比ではなく、用いた方法論です。
 方法論として、強引に二分法を導入しています。二分法とは、対象が2つの分けられるものに適用する方法論です。2つに分けられるものとは、選択肢として2つが示されものに適応されます。例えば、好きか嫌いか、白か黒か、YesかNoか、など、対象が2つの選択肢に分けられ、いずれの選択肢も明確である時、適用されるべきものです。
 このAが非Aかの方法は、実は二分法が適用ができないものに、二分法を導入していることになります。なぜなら、一方は言語化できていますがが、他方が言語化できてないものです。言語化できないものを、「非言語化」と呼ぶことで、「言語化」しているわけです。宝石の例でいれば、「紫色」と似ているけれども紫色でない色を、本来ならば言語化できない色を、非「紫色」という名称を与えたことになります。
 さらに話を進めていくと、言語化可能な概念と非言語化(言語化不能)の2つの概念を、同じ土俵にまで上げて、言語化して議論しています。このような考え方を「メタ言語化」と呼ぶことができます。メタ言語化は、言語化や非言語化を含んでいるので、より大きな概念、あるいは言語化と非言語化が存在する階層より、上位の階層から見ていることになります。
 不思議な方法論ですが、うまく利用すれば、複雑なものや、曖昧なものへの対処法に使えそうです。
 これらも抽象化すれば、 A、非A、メタA という表記になります。この考え方は、認知、構造、数値化、論理、モデル、意味などの、難しい概念にも利用できるでしょう。認知、非認知、メタ認知などはよく聞く用語となっています。
 ひとつの概念があり、それでは表せない概念を、「非」概念としてラベリングすることで、同じ階層で対象化できます。そこで両者の特徴や類似点や相違点などを検討することができます。そのような同階層で対象化をすることで、メタ概念が生み出すことができます。
 これは、A、非Aで特徴化と差別化された「メタ概念」で示されるものに対して、さらに非「メタ概念」を定義することとができます。それらを合わせてメタ「メタ概念」ができます。このような構造のループが生み出せます。
 さてさて、このループはどこまで続くのでしょうか。この構造に意味があるかどうかは、考えなければなりません。その構造、意味で表せない非・・・・・。ここでもループがあります。
 今回紹介した非やメタの考えは、以前から何度となく考えていました。最終的に無限ループに入っていきます。そこにも無限ループと非無限ループとするという方法を適用することができます。非無限ループは有限の要素からなりますが、その数は無限です。無限ループおよび非無限ループも無限に存在します。無限ループと非無限ループの階層が、メタ「無限ループ」となります。
 ある階層内に無限があっても、その階層として捉えれば、上位の階層からは無限をひとつの集合、有限のものとして扱うことができます。しかし、この階層の捉え方が、無限ループを形成しています。
 カントールの無限の扱いに通じるもがありそうです。このような階層をどう扱えばいいのか、まだわかりません。思案中です。

・非とメタのループ・
今回考えた非とメタのループは、
なかなか答えの出ない問題で
以前から考え続けているものでした。
答えのない、アイディアの段階のものですが、
言語化することで、考えが少しは整理できるかと思い、
このテーマにしました。
考えならが書いていたのですが
やはり結論が出ませんでした。
難問であることはわかってきました。

・ゴールデンウィーク・
今年のゴールデンウィーク中は、
久しぶりに田舎にでかけて滞在しています。
ですから、このメールは予約配信しています。
移動しながら旅をするのもいいのですが、
時間があるときは、好きな場所に滞在して、
のんびりとしたいと思います。
今回はプラベートなので野外調査は抜きです。
1週間ほどいると、その地域の観光地ではなく
地元のささやかですがいいところを
見つけることができるかと思っています。
そんなささやかな発見をすることも楽しみです。

2022年4月1日金曜日

243 総体を総体としてとらえる

 地質学では、自然科学の中では、法則や規則を見つけることが、難しい分野です。総体を総体としてとらえなければならない事象が、多くふくまれているからでしょう。


 物理学や化学では、規則性を見出すことが重要な目的としあります。見出した規則性は、数式や化学式など、数学的な形式で示されます。いったん普遍化された規則性は、適用範囲であれば、未知の場面でも演繹できます。地質学においても、物理学や化学に関与してる部分は、数式化、普遍化された規則性を見い出せ、演繹できます。例えば、結晶形成の熱力学的振る舞いは物理学が、結晶の微量化学成分など化学が適用でき、演繹され、利用されています。
 自然科学で規則性を帰納する場合には、要素還元的手法をとっています。要素還元的手法とは、因果関係を調べたい時、原因と考えられるものを、最も単純な要素まで還元していき、それぞれの要素が、どのような因果にどの程度関与しているのかを調べていきます。多数の要素の中から、もっとも大きな影響を及ぼしているものを限定していきます。これが原因として考えていきます。このような過程を経た進め方が、要素還元的方法となります。
 一方、地質学には、経験や主観に基づいた判断がされている場面もあります。例えば、露頭で岩石種を区分したり、貫入岩や溶岩、地層の堆積、形成順序を考えたり、岩石の変形過程を考えたりなどは、かなり複雑な思考が必要になります。露頭で検証作業がなされるとは限りません。経験が豊富な地質学者であれば、短時間で的確な判断を下せることでも、初学者ではなかなか判断できなかったり、間違うことも起こってしまいます。
 要素還元的方法が使えない、経験的にしか規則性を抽象できない場合は、どうすればいいのでしょうか。事象をばらばらにすることなく、総体としてとらえていく方法があります。事象をばらばらにすることなく、全体としてどのような特徴があるのか、刺激や条件に対してどのような反応や変化が起こるのか、など、総体としてとらえていく方法です。
 総体を総体のまま扱うには、これまでにない新しい考え方や方法論が必要になります。要素還元的方法が適用できない事象なのもかしれないし、そもそもそのような決めつけることも危ういかもしれません。
 わからない総体をそのままとらえようとする考え方が、いくつかあります。例えば、クオリア、アフォーダンス、複雑系などが挙げられます。
 クオリア(qualia)とは、感覚としてとらえているもので、意識や主観で感じたり経験したりすることをいいます。感覚なので、視覚、聴覚、臭覚、味覚、痛覚などいろいろなクオリアがあるとされています。感覚なので、同じ事物、刺激に対して、自分と他者が同じ感じ方をしているかどうかの比較ができません。また、物理的、生理学的、脳科学的など要素還元はできそうです。しかし対象から脳が感じて人が認識するまでのすべてを、クオリアは総体としてとらえることになります。クオリアの実体を要素還元的に検証をしていくことは困難です。
 クオリアとは、わかりにくい概念ですが、人が感じる感覚という実体がありそうな総体を扱っています。要素還元できないので、難しく「感じる」のではないでしょうか。
 アフォーダンス(affordance)とは、アメリカの心理学者のギブソンが提唱した造語によると考え方です。「供給する、与える」という意味のaffordから、事物にもともと備わった性質が、人(動物や生物でもいい)が関わることから生まれる関係、性質もあります。そのような人が物に関与することで生まれる関係性のことをアフォーダンスと呼びました。人からすると、事物によって行為を知覚させていることになります。
 例えば、川沿いで調査をしていると、石を乗り越えていくことがあります。その石を見て、不安定か、安定しているかを判断しています。不安定だと思えば、揺れるかもしれないと予測し、慎重に揺れても対処できそうな状態で足を置いてきます。安定していると思えば、安心して足を置くことになります。石から、人の行動、行為がアフォードされています。
 このようなものと人との関係をアフォーダンスと呼んでいます。アフォーダンスとは、科学への適用な難しそうですが、デザインや設計では、人の行為を自然に誘導するために利用されているようです。アフォーダンスも、なかなかわかりにくい概念です。
 複雑系は、言葉通り複雑な関係、変化をする系のことです。その関係は、要素還元的には示せないものです。例えば、単純な方程式、同じ繰り返しをしても、結果が予測できないできないものもあります。例えば、気象現象にも複雑系があることがわかっています。短期的な天気予報はできても、長期になると予報が当たらなくなっていきます。
 どこか入道雲や高積雲(うろこ雲やひつじ雲と呼ばれます)、巻雲などは、どれも似ているところがあるので、ひとつひとつを見ると違っています。
 あるいは、総体は要素の集合と考えてしまうことが多いのですが、すべての要素を調べても総体がわからないことがあります。例えば、生物は細胞からできています。細胞はDNAをもとに作られています。人のDNAはすべて解読されいます。では、DNAの情報から、人、あるいは生物の挙動や行動はわかりません。
 このような複雑系は、規則があるのに結果が予測できなかったり、不規則になったり、なんとなく規則性があるように見えのに、規則がみえなかったりたりします。要素の集合が総体ですが、総体がもっている特徴や総体が起こす事象のすべてはわかりません。複雑系にいろいろなものがあり、要素還元的方法では対処できそうもありません。
 ここで紹介したのは、要素と総体の関係を考えるための概念、あるいは姿勢のようなものですが、わかりにくいものです。わかりにくさとは、要素還元できないということなのかもしれません。総体の存在にこそ、意味があるのではないでしょうか。
 私たちは、総体を考えるための概念であるクオリア、アフォーダンス、複雑系とは何か、という意味や定義を聞きたくなります。そこまでまだ大丈夫でしょう。しかし、その先の「原理や法則は」と聞くのは、要素還元主義的思考になっています。ついつい聞きたくなってしまうのですが、それこそが総体を総体的にとらえていくことの難しさなのでしょう。
 地質現象は、総体として語るべき内容がいろいろ含まれています。岩石や化石を分類、区分、識別するとき、最終的に物理化学的、あるいは生物学的に要素の還元できますが、クオリアを読み取っています。
 地質調査をするとき、クリノメータやハンマー、ルーペなどの使い方は、当初はぎこちないものですが、何度も使っているうちで、使い方を覚えていきます。一旦覚えると、以降、使い方を考えることを意識することなく、ただ、必要な操作を無意識にしていきます。これら道具と操作の関係は、アフォーダンスの概念が当てはまります。
 地質現象には、複雑系も多々紛れ込んでいます。地層は、サイズや構成物が異なっていても全体として層構造として認識できます。地下水がタレてできる鍾乳石にできる模様も、サイズが異なりますが、全体として似た繰り返しになっています。水の流れが作る地形は、大河や河川から、小さな雨水の流れなど、スケールが違っても似ています。そこには複雑系の特徴がみられます。
 地質学は、要素還元できない現象や対象を多数扱っています。地質学者は、総体性を重視すべきでしょう。要素還元できない総体にこそ、自然や地質現象の重要な「なにか」があるのかもしれません。
 地質学者だけではありません。私たちは、総体にある複雑系を見抜いて、総体のクオリアを感じ、アフォーダンスで総体として馴染んで暮らしています。総体を総体としてとらえる人の能力は素晴らしいものです。それらを意識することがなく暮らしているのは、総体を総体的にとらえることをメタ的にアフォーダンスとして身につけているためでしょう。

・新学期・
いよいよ新学期となります。
大学では、対面が復活します。
もちろんコロナ対策をして臨みますが、
対面講義ができるようになります。
2年間、多くの講義が遠隔となっていました。
2講義連続て立って板書する授業が
週2日あり、それが来週からはじまります。
久しぶりなので、体力と声が少々心配です。
しかし、対面講義があるのはいいことです。

・雪解け・
今年は積雪が多かったので、
根雪が、なかなか、なくなりません。
しかし、3月下旬になり、暖かい日が続き
一気に雪解けが進んでいます。
幸いないことに、雪が多かったため、
除雪が行き届いているので、
道には雪がない状態なので
例年の泥沼のような雪解けにはなっていません。
雪解け水が、道路を横切って流れ
川になっているところもあります。
これも例年にない現象です。

2022年3月1日火曜日

242 守破離はできたのか

 ものごとを身につける方法として、守破離という考え方が日本ではあります。長年、従事し実践していくことで、はじめて守破離が有効になります。長年、地質学に携わってきたのですが、どのような守破離があったのでしょうか。


 日本では体系化されたものを、修行しながら身につけるとき、「守破離」という考え方があります。研究履歴を守破離に沿って紹介していきましょう。
【守】
 大学で地質学を志したのは、偶然に左右されていました。大学に入って2年間ほど、ひとりで近隣の低山を日帰りでのんびりと歩いていました。北海道の自然に浸ることを好きでした。大学での専攻は、教養部の成績によって決められていました。勉強をしなかったので成績は悪く、なかなか希望のところへはいけそうもありませんでした。唯一、山や野外へ出ていける専攻として地質学があったので希望しました。幸い最下位でしたが、潜り込むことができました。
 地質学は、高校の地学のいち分野にすぎませんでした、天文学や海洋学には興味があったのですが、地質学には興味はありませんでした。専攻として学んでいくので、最下位ですので、専門分野の講義を熱心に聞くことからはじめて、教科書などでも勉強もしました。最初はチンプンカンプンであった地質学も、専門語の意味もわかり、語彙も増えてくると、地質学の面白さがわかるようになってきました。
 なにより大好きな野外調査の実習や、自主的な野外見学会(巡検といいます)に参加することができました。そこで、知識と体験が結びついてきました。教科書で学んだことが、自然界で適用される場面だけでなく、教科書通りでないことも多々あることも知りました。大学院の先輩や先生たちが、露頭を前に、専門的なテーマで議論しているところを見て、非常に刺激を受けました。露頭と先端の研究が結びつくことが面白かったのです。
 そんな座学での知識体系と野外の実体験を経て、研究テーマとして卒業論文や修士論文、博士論文を作成してきました。その間、地質学を研究していく基本的スキルを身につけました。また、ポスドクとして研究費の支給を受けながら研究を継続して、研究者の道に入りました。
【破】
 ポスドクを経て、職業に就いたのが博物館の学芸員でした。博物館では地質学の担当となりましたが、研究だけでなく市民への教育も業務に含まれていました。それまで、学部の専攻も入れると、12年という長い年月を地質学に従事し、研究者となりつつあったのですが、市民教育には全く注意を払ってきましせんでした。それなりの研究歴や研究実績はあったのに、市民へ専門的知識を伝えることがうまくできないということにショックを受けました。
 そこで、地質学を市民に伝える方法を、これまでの方法にこだわることなく、自身が試行錯誤しながら、新しい方法論を開発していくことにしました。博物館の他の学芸員とも協同して、地質学や教育に興味を持っているいろいろ階層の人たちや、私たちの活動の共感していただいと人たちと協同することができました。小中学校の教員、不登校学級の教員、障害者、役所の防災関係者、プロバイダーなどのICT技術者、デザイナーの人など、さまざまな人と連携しました。子どもから大人まで、「いつでも、どこでも、だれでも、いくらでも」学べるという方法論を模索していきました。その成果は、博物館活動へと反映できました。
 博物館で、科学教育の重要性を学びつつ、私自身は地質学を専門として、それを教育にどう結びつけていくかについても、同等に興味を持つようになりました。その後、興味は、地質学と地学教育を一人の研究者が連携しながら進めていくことに移っていきます。広い意味では自然科学と科学教育(自然史学教育)、科学と教育を進められる研究者を目指すということになりました。
 科学と教育を進めていくうちに、それだけでは足りないと思うようになりました。博物館では教育が業務の重要な一環で、興味もあったのですが、もうひとつの展開をするには、考える時間や試行錯誤する自由が不足していると考えるようになりました。
【離】
 そして、現在の大学に職を移しました。人文・社会系の大学で、教養科目として地学を担当するという立場でした。理想のポストでした。なぜなら不足していたことを学び、考え、実践できる条件ができたためです。
 私がもっていた理想の研究者像とは、ひとりで科学、教育、そしてそれらを実施するための哲学をもった人物でした。教育の対象は市民です。広く科学教育です。興味は科学(地質学)、科学教育(地学教育)、そして科学哲学(地質哲学)を総合的に実施できるように努力しています。
 転職当初、専門の地質学を置かれたポストでどう進めていくかを考えました。地質学において、野外調査で露頭をみることは、最も重要な行為だと考えていました。しかし、専門を以前のように進めるには、条件もなく、何より興味も薄れていました。野外調査を通じて地質学の本質的概念というのは自然科学の中でも、固有であり、重要だと考え、それを地質学のテーマとすることにしました。地質学の本質を見つけ考え、その考えを検証するために野外調査をすることにしました。
 科学教育は、自然史素材を利用していくこともいろいろ試みましたが、なかなかうまくいかなったのですが、ICTの利用に関してはいろいろ試みができ、教育に活かす方法論を進めることができました。現在、大学の改組により、教員養成の学科に在籍していますが、それも今までの経歴によるものでした。
 現在、地質哲学を展開しているのですが、これがなかなか難しいのですが、現在だんだんと形作られつつあります。地質学の本質的概念、例えば、過去の時間の記録様式、過去のできごとをどう検証していくのか、時間の不可逆性の中で信頼性をどう高めていくのか、過去へ思考法としてアブダクションや数学的概念の導入など、このエッセイで紹介してきたものをいろいろ試みてきました。
 それらを「地質学の学際化プロジェクト」として成果を毎年まとめていくことできるようになってきました。現在6巻まで進んできましたが、あと数巻になりそうです。

 以上、「守破離」の例として、研究の履歴を紹介してきました。理解できなかったことと思います。守破離の意味を紹介しておきましょう。「守」とは、基礎を身につけるために教えを守ることです。「破」とは、自身の従事している教えにこだわることなく、いろいろな考え方を取り入れて発展させていく段階です。「離」とは、教えなどすべてのものから離れて、独自の世界や新しい考えを確立する段階です。
 さてさて、研究の履歴と守破離に位置づけて述べてきましたが、本当に達成できているのでしょうかね。

・三寒四温・
温かい日が訪れてきました。
三寒四温のはじまりでしょうか。
本来なら春の訪れを喜ぶべきでしょうが、
今年はそうもいかないようです。
豪雪続きのあと、まだ排雪が間に合わない状況の中
温かい日が来ると、雪解けで道が
泥沼ののような状態になりそうです。
例年よりひどい状態になりそうで、
少々心配です。

・入試と卒業と・
大学入試の多くが終わりましたが、
ただ、別日程の入試も、これからもおこなわれます。
COVID-19の感染に対する入試上の配慮も
いろいろとあるはずです。
今年の大学入試の状況は、
複雑な状況になっています。
3月は、卒業のシーズンです。
今年は学位授与式だけはおこなわれますが
式典だけで、謝恩会や祝う会など
宴席はありません。
いつになったら平常に戻るのでしょうかね。

2022年2月1日火曜日

241 地質哲学:メタと哲学と

 地質学に関する哲学として地質哲学が考えられます。また、大局的に考えるメタ的方法はすべての対象に適用できるので、メタ地質学も用語としてできます。両者は同じなのでしょうか。それとも違っているのでしょうか。


 「メタ」という概念があります。「メタ」とは、その後につく語句自体を対象としたり、もう一つ上の階層から考えていくことになります。「メタ地質学」とは、地質学とはどんな学問なのか、他の自然科学とはどこが同じで、何が違うのか、など、地質学をより大局的に迫ることです。あるいは、より高次、より上の階層からみることを意味します。ある概念をその概念に適用するような場合です。ある物事を大局的に考えるとき、その物事例えば、論理学という学問をひとつの概念としてとらえ、その論理学全体を論理学的に考えていくことになる。そのような論理学を「メタ論理学」ということになります。「メタ」的な見方は、その概念、体系、学問をより俯瞰的に考えるために重要な視点となります。
 現在、私は、地質哲学に取り組んでいることを、何度が述べてきました。そもそも地質学に関する哲学的なアプローチがあることを知ったのは、3人の先達の存在でした。いずれも直接合うことはなく、著書を通じての薫陶を受けました。
 ひとつは、井尻正二の「科学論」(古生物学論, 1949より改訂)でした。哲学が自然科学の考え方に影響を与えられることを知りました。井尻氏の一連の哲学的思索は、ヘーゲルが中心になっていることに少々疑問を感じました。
 もうひとつは都城秋穂「科学革命とは何か」(1998)でした。「地質学の巨人」都城氏が、科学哲学の方法論を整理し、モデル化できる物理学とは地質学は異なっていること、地質学は複雑で検証できないので傾向的法則になるということを指摘しました。地質学の学問的特徴を、このように哲学するというメタ的取り組みがあることを知りました。
 そして3人目が、ステファンJグールドでした。グールドの一連の地質エッセイでの思索の深さ、一次資料への執念、教養のすごさを知りました。そしてその教養を受けいられる欧米人の知的レベルの高さにも圧倒されました。グールド最後の大作「The Structure of Evolutionary Theory」(2002)は入手していたのですが、英語での壁もあるのですが、圧倒的な物量で読めていませんでした。しかし、最近翻訳され「進化理論の構造 I ダーウィン以前から現代総合説まで」と「進化理論の構造 II 断続平衡説と大進化理論」(2021)として出版されました。翻訳のおかげで読める状況になったのですが、その分厚さにただ圧倒されてまだ読めずにいます。
 このような3名の地質学の巨人の影響を受けて、地質哲学を目指しています。
 「地質哲学」を用いた研究は学術論文検索サイトで検索してみたのですが、科学史的なものはいくつか見つかるのですが、哲学的思索は見つかりません。少なくとも日本では、地質哲学に学術的に取り組んでいる報告はあまりなさそうです。
 では、地質哲学とはどのようなものでしょうか。それを考える前に、まず、哲学と科学の関係について見ておきましょう。
 自然に関する深い思索は自然哲学と呼ばれ、古くは古代ギリシアからはじまっています。古代から中世にかけては、主に哲学者が自然に関して考えていました。近世になるとルネサンス(15世紀)にはダ・ヴィンチやコペルニクスが出てきて、近世の後半(16世紀)になるとガリレオやケプラー、ニュートンなど物理学(天文学)が科学として出現し、17世紀にはパスカル、ホイヘンス、ボイル、ドルトンが化学を、ハーヴェーやレーウェンフックが生物学をはじめます。同じ頃、ベーコンが帰納法をデカルトが演繹法を唱え、科学的方法論が生まれます。しかし、彼らはすべて自然哲学者と呼ばれていました。
 なぜなら科学者という言葉がなかったためです。ヒューウェルが1834年に科学者(scientist)という造語をつくるまでは、自然に関する科学的営みは、哲学的営みの一貫とされ自然哲学者がおこなっていることになっていました。デカルトは太陽系の形成を宇宙論として、光学や気象学を論じています。またパスカルは「パンセ」などで哲学的な思索をしていました。
 同じ人がするしないは問わず、科学と哲学は一連の営み、近接したものであったのです。しかし、現在では区分され、携わる人も分科してきました。科学と哲学が別々に営まれるようになって、200年も経っていないのです。
 科学と哲学を合わせて考えるために、科学哲学というものがあります。当然、個々の科学分野で、物理哲学、化学哲学、生物哲学がありますが、最初に述べた地質哲学はありません。
 では、科学哲学とは、どのようなものでしょうか。それは、科学(物理、化学、生物など)という学問を対象とする哲学的思索です。その内容は、科学の本質、科学の限界、科学的方法に関する思索、あるいは哲学的観点の違い(還元主義、構造主義、構成主義、実証主義、論理実証主義など)で論じるものなど、さまざまなものがあります。地質学に関するものはありません。
 地質学は基礎科学(数学、論理学)と手段として物理学、化学、生物学を用いる総合的、学際的な体系になります。しかし、哲学的思索が不要なのでしょうか。地球環境、地球と人の関係、宇宙における人類の存在、などを考える時、地質学は必要な学問になるはずです。そこには哲学的思索も含まれています。ですから、地質哲学は必要なはずです。
 しかし、私が目指しているのは、地質学がもっている本質的ですが、地質学固有の視座、例えば、過去の時間や過去の記録となにか。地球に流れる時間の不可逆性について。地質学の扱う時間には再現性があるのか。化石から生命活動を読み取るとはどういうことなのか。異常な現象(火山噴火、大洪水、大絶滅など)のみが記録され、日常は記録されない。そんな地質学的記録から、過去の本質を読み取っているのだろうか。化石が過去の生物と証明できるだろうか。こられは、地質学で科学的方法を用いて進める上で、地質学者を常に悩ませている課題です。それらの課題に哲学的思索を進めていけば、地質哲学になっていくではないだろうかと考えています。
 最初に述べた「メタ」という用語から、「メタ地質学」という言葉ができました。では、地質哲学=メタ地質学でしょうか。
 私は違っていると思います。地質哲学は、上で述べたように、地質学という学問において、固有の基本的概念、本質的な属性を抽出して、深く考えていくことだと思います。メタ地質学には地質哲学の内容も含んでいいのですが、外側や上位階層から見ることが主眼になっており、地質学の学問としての本質を探求してるわけではないように見えます。つまり目指す方向性が異なっていると思えます。だから、私は地質哲学を目指します。

・進化理論の構造・
グールドの「進化理論の構造」の翻訳が
昨年11月に出版されていましたが。
12月まで知りませんでした。
これで日本語で読めると早速注文しました。
ところが、その分厚さは圧倒的でした。
読む前に写真に取ってしまいました。
英語版と比べてみたのですが、
文字のサイズもあるのでしょうが、
日本語版のほうが厚くなっていました。
紙版しかないのですが、
できればデジタル版があればいいのですが、
まで出ていないようです。
もしかするとこれまで私が考えてきた思索が
この本の中にすでに書かれているかもしれません。
少しずつでもいいので読んでいきましょうか。

・除雪と排雪・
大雪で道が狭く、あちこちで車が埋もれる
トラブルが頻出していました。
しかし、先週末、わが地区ではやっと除雪が入ました。
道路の轍と雪のぬかるみが解消されました。
これで、安心して車を出すことができます。
地区によってはまだのところもあります。
狭い道に入り込んだら、先の状況も不明で、
戻ることもままならないところも
まだ残されていそうです。
排雪がはじまってきたので
後しばらくすれば、安心できるのですが。

2022年1月1日土曜日

240 first half billionと劫

 明けましておめでとうございます。今年こそは、いい年になりますよう願っています。まずは縁起のいい寿限無を取り上げ、それと関連した今後の研究テーマを紹介しながら、今年はじめのエッセイとします。



 年のはじめなので、縁起のいい話からはじめましょう。落語の「寿限無」があります。子どもが生まれた夫婦が、縁起のいい名前をつけたいというので、和尚さん(あるいはご隠居さん)にいろいろと縁起のいい言葉を聞いていきます。寿限無の次に「五刧擦り切れ」という言葉がでてきます。「五刧擦り切れ」るまで、幸せにという意味です。ただし、落語では、候補をすべてを名前にしてしまいます。
 さて、この「劫(こう)」ですが、古代のインドのサンスクリットのカルパ(kalpa)の漢訳だそうです。長い時間を意味しているのですが、その長さはいろいろな比喩があります。落語でも、いくつかの説明があるのですが、一般的なものを紹介しましょう。
 天人(天上界に住む超自然的な存在)が3000年(100年というものもある)に一度下界に下りてきて、岩を衣の袖で撫でます。岩が擦り切れてなくなるのを「一劫」とする時間のことです。長い時間であることがわかるのですが、どれくらいに時間でしょうか。調べるといろいろな解釈の時間がでてきます。
 ヒンドゥー教の考え方で示すと、1劫は、1000マハーユガというものになるそうです。1マハーユガ(mahayuga)は、神々の1万2000年に当たります。神々の1年は、私たちの360年に相当します。これを用いて計算すると、1マハーユガは4ユガ(yuga)にあたり、4つのユガはばらばらの長さで、1ユガは神々の1万2000年分にあります。神々の1年=360年(太陽暦の年)です。ですから、
  1劫=1000x12000x360年=43億2000万年
と計算されます。多くの資料ではこの計算結果が示されています。
 五刧擦り切れは、その5倍ですから、216億年になります。五劫は、あまりにも長い時代です。しかし、3劫は129.6億年です。これは宇宙の誕生の137.98 ± 0.37億年前に近い値となります。宇宙は、太陽系の3世代分の時代を過ごしているようです。
 1劫は、地質学に携わっているものには、いろいろ興味を沸かされる時間、年代となります。地球最古の物質の年代に近いからです。地球最古の時代は、冥王代(めいおうだい)と呼ばれ、40億年前から地球の誕生までです。その時代に、地球最初の出来事がいろいろ起こっています。
 現在のとろこ、最古の岩石は40.3億年前のもので、最古の鉱物は43.74億年前のものです。43.74億年前までは、断片的ですが、岩石や鉱物などの物質としての証拠がある時代となります。それ以前は、地球の物質としての証拠がない時代となります。
 地球の材料となった隕石が現在も存在し、地球に落ちてくることがあります。その隕石を調べると、45.50億年前ころの年代にそろっていますので、地球や火星の誕もその頃にできたと考えらます。
 さらに隕石の中の構成物でも年代を調べていくと、衝突による変成作用が見つかり、そこから「原始惑星」は45.58万年前にできたと推定されています。太陽系形成初期にあった微惑星の内部の核を形成していたと考えられる鉄隕石を調べていくと、熱変性が起こっており、そこから微惑星形成の時期は45.63億年前になりそうです。隕石の中でも最初に固化してきたのはCAIと呼ばれる鉱物の混合物なのですが、それは45.66億年前になる推定されています。さらに太陽系誕生の場の分子雲は45.70億年前となりそうです。
 以上、隕石から探ってきた太陽系形成のシナリオから、45.70億年前から45.50億年前までは、隕石の中に証拠がみつかりそうです。最古の鉱物の43.74億年前以降は地球に証拠となる物質があります。ですから、45.50億年前から43.74億年前の1億7600万年の期間は、証拠のない時代となりまが、最古の岩石の40.3億年前から、かろうじて証拠ある時代45.70億年前までの5億4000万年前が、地球のもっとも変動の激しい誕生の時期だといえます。
 今後の数年間の研究テーマを「first half billion of the Earth」というものに設定しようと考えています。billionは10億年のことなので、half billionは5億年のことです。「first half billion of the Earth」は「地球のはじまりの5億年」のことになります。先程述べてきた誕生のための変動の5億年間を、今後の研究テーマにしていこうと考えています。
 最初の5億年には、地球の誕生の場や条件、素材が定まります。そして、それらを反映した個性をもった、地球の誕生の物語がはじまります。誕生の激動の中で、マグマの海ができ、地球の表層で最初の固体となった大地ができます。その後、大気や海など地球の固有の特徴も明瞭になります。激動の時期が落ち着いてくると、地球の表層環境も整っていきます。その中で生命の誕生の物語もはじまります。そんな地球のはじまりの物語を地質学的にまとめていこうと考えています。
 実は、このテーマには、博物館にいるときに取り組んだことがありました。それから20年、地質学だけでなく、天文学、惑星科学も進んできました。その進歩を加えて、再度、地球最初の5億年を考えていこうとしてます。想定している時代は、冥王代の証拠が少なくなる40億年前から、地球や太陽系の形成がはじまった45.7億年前あたりまでを意味しています。
 現在から1劫前、43億2000万年前は、地球形成後の重要な期間です。地球に証拠がなくなる時代です。あったとしても限られた証拠、間接的な証拠やモデル、シミュレーションなどから推定していくことになります。わからない時代です。でも、だからこそ面白いそうです。

・新年・
今年こそは、新型コロナウイルスに
「打ち勝った」年になればと思います。
そんな気持ちとは裏腹に、オミクロン株が
国内でも感染も広がってきました。
全国的に3回目のワクチン接種が始まりそうです。
しかし、8ヶ月たってからですので、
もしかするとオミクロン株の感染爆発が
終わってからかもしれません。
効果はどれくらいかわかりませんが、
安心のためにも早く接種ができればいいのですが。

・サバティカル・
現在の大学の退職まで、3年3ヶ月となりました。
その間にすべきことを考え、
どのように達成していくかの計画を立ています。
その中で2023年度前期に研究休暇(サバティカル)があります。
サバティカルは非常に重要になりますが、
その不在の期間の講義調整を考えています。
2022年度から講義なども変動があります。
それも含めて研究計画を立てています。
その間、ここで紹介した研究テーマを
大学での最後の仕事として進めていくことにしました。