2020年12月1日火曜日

227 仮説と演繹と斉一と

 機能と演繹という方法は、多くの科学の営みの中で、当たり前に利用されています。しかしそれらが、不完全であることを意識されていません。すべてが検証不能の仮説だったのです。


 最近、執筆している原稿の中で、地質学の学問的特徴を考えています。地質学の特徴はなんといっても、過去の素材から過去を探る、ということが一番でしょう。過去の素材とは、過去の形成されたもの(岩石や地層、化石など)のうち、いろいろなプロセスを経て、現在入手できるようになったことになります。古い時代ほど、そのプロセスは長く、そして複雑になっていきます。そのため、過去の情報が失われてきます。そのうち現在まで残ったものだけが、入手でき、研究できる素材となります。

 化石を例にしましょう。化石は、過去のある時代の生物の一部が石化したものです。生物の一部、つまり部分から全体として、その生物の生きていた時の姿(全体像)を想像していきます。その姿から、生活していた行動や営み(生態)を推定することもできるでしょう。その生態から、他の生物の関係(食料や住処など生態系)や生活の場(海陸空や寒暖などの環境)などへと、想像を巡らすことができるでしょう。

 歯の化石が一つ見つかったします。その歯を現在生きている生物と比べると、肉食動物の歯と似ていたとしましょう。化石の歯の大きさから、顎の大きさが推定でき、顎の大きさから頭部の大きさが、頭部から全身が推定できるでしょう。肉食獣であったら、その全身に見合った、餌となる大きさの草食獣がいたことになります。その草食獣の数は肉食獣よりは多かったでしょう。その大きさの草食獣が多数いたということは、それらを支える多くの植物が必要になります。サイズの異なった草食獣もはたずですから、それらが食べる多様な植物もあったはずです。当然、サイズの異なる草食獣もいたはずで、それらを専門に狙う肉食獣もいたはずです。たったひつの歯の化石から、このような類推が可能となります。

 このような類推を支えている考え方は、現在の生物、現在の生態系の知識を転用、援用しているもので、「斉一説」と呼ばれるものです。斉一説は、生物だけでなく、物理学や化学の法則を過去に適用する時に使われる考え方です。例えば、水は高いところから低いところへ流れます。水は氷点下では氷になり、水は暖かいと水蒸気になります。水が多く暖かいところでは、蒸発も盛んになり、雨もたくさん降ります。水が少ないところでは乾燥していきます。

 このような当たり前と思える法則を、過去の適用しようとするのが斉一説です。今当たり前のことは、昔も当たり前だという斉一説も、当たり前のことをいっていると思えます。

 物理学や化学の規則は、現在の検証可能な現象から帰納的に求められたものです。それを、過去にも適用してこうというの斉一説です。斉一説が正しければ、先程の歯の化石一個からの類推の正しさが保証されることになります。斉一説は本当に正しいのでしょうか。

 斉一説には落とし穴があります。それは、過去の事象への適応という一番根本の点です。「化石=過去の生物」は、だれもが「正しい」と思っているのですが、科学において、「正しさ」とは、検証されてはじめて確かなものになります。化石が過去の生物であるということを証明するためには、化石が生物であるという前提が必要になります。しかし、化石は石なので、生きていません。ですから、化石からは、生物であったことは検証はできないし、その前提がないと、現在生きている生物の比較による類推もできないことになります。

 化石の例をだして説明しましたが、過去の起こった事象は、岩石から読み取った情報から、どのようなことが起こったのかを推定することはできます。しかし、その推定が正しかったかどうかは、検証できません。なぜなら、私たちは過去に戻れないからです。これも当たり前のことですが、斉一説には適用限界があることが落とし穴になります。

 斉一説に適用限界があるのは、時間が一方向にしか進まない、不可逆なものだからです。こんな当たり前のことを、つい忘れてしまいがちです。なぜなら、物理学の法則や方程式では、時間の変数があっても、その時間をどこにおいても成り立つものが多いからでしょう。化学では可逆の反応(反応がいったりきたりできる)も多数あります。このような法則や現象では、その現象は時間において可逆であることになります。それが自然科学では多く目にする法則だからでしょう。

 しかし、長い時間の流れ、複雑なもの、大きなものという視点で見れば、時間が可逆でないことは明らかです。エネルギー(石炭、石油、天然ガスなど)も使えば劣化(二酸化炭素になる)していき、同じエネルギーを永遠に使い続けることはできません。熱力学的にはエントロピー増大の法則と呼ばれるもので、時間経過ととものエントロピーが増加し、不可逆であることがわかっています。

 ですから、地球の歴史という視点で見れば、時間変化に伴って、物理学、化学の法則が働く前提となる地球の環境や条件が異なっているため、現在の環境から考えた法則は、無条件には適用できないことも多々あるはずです。つまり斉一説も、制限付きでしか適用できないということです。

 上の例で出した肉食獣の歯の化石で用いた考え方は、斉一説でしたが、もっと広い見方をすると、現在の生物との類似を過去へと演繹したものだといえます。歯から顎、顎から頭部、頭部から全身などは、演繹を繰り返して利用していました。

 演繹法は、正しいと考えられる規則を、別のものへ適用していく方法です。演繹法から新しい法則は生まれません。一方、いくつもの事実から規則性を見出す帰納法からは、新しいアイディアを生み出せるので、創造性がある方法です。帰納されただけの法則は、集めた事実は説明できますが、他の事実に当てはまるかどうかはわかりません。検証する必要があります。検証作業が終わるまで、その法則は仮説となります。仮説が正しいかどうかは、演繹をして、検証していく必要があります。この帰納と演繹で科学は進んでいきます。

 しかし演繹の検証過程に、時間の不可逆性が入ることで、検証不能になります。さらに現在の仮説においても、検証は自然界のすべてに対しておこなうべきですが、それは不可能です。ですから自然科学の仮説には、常に反証の出てくる可能性があります。自然界では帰納法に限界があるということになります。

 上の述べた化石からの類推は、限られた事実から仮説を立てて、その仮定を新たな事実へ演繹して検証しようとする方法なので、「仮説演繹法」と呼ばれ、アブダクション(abduction)と呼ばれることもあります。実は、自然科学の法則は演繹の適用限界があるため、完全な検証ができないため、すべれ仮説となります。ですから自然界の法則はすべて仮説で、科学の営みでは仮説演繹法が使われていることになります。

 完全な検証はできないのですが、少ない事実から仮説を立て、その仮説を演繹することで正しさを増すというものです。その中に斉一説も含まれています。仮説演繹法とは、多くの人が無意識に利用しているものでもあります。危険ですが、利用価値のあるものです。


・不確かさ・

多くの自然科学の法則の背景に、

帰納と演繹、仮説演繹法、斉一説があります。

それを考えると自然科学の不確かさがわかります。

でも、科学は留まることはないので

日夜、仮説が生まれ、演繹が繰り返されています。

そして、科学や技術は進歩しています。

科学する人は、この不確かさ、危うさを

常に意識しておく必要があるでしょうね。


・コロナが近くにいる・

11月は寒い日も温かい日もあり、

その差が大きかったような気がします。

着実に冬が来ています。

通常の風邪やインフルエンザの流行もはじまりそうです。

そして、新型コロナウイルスの感染者数が

わが町でも増加しています。

町には4つの大学がありますが、

多くの大学で学生の感染者の報告が増えてきています。

我が大学では、遠隔授業に切り替えましたので、

学生と教職員との接点がなくなりました。

学内での感染は押さえられているはずです。

しかし、どこかに漏れがあるかもしれませんので、

感染が広がらないことを願うしかありません。