2014年1月1日水曜日

144 大局観をもった予防原則

 昨年は、いろいろな事件や事故がありました。周りに甚大なる被害を及ぼす事柄を考える時、因果関係が重要になります。しかし、因果関係が不明瞭な場合も少なくありません。そんな時、予防原則を用いて考える方法があります。ただし、大局観をもったものでなければなりません。

 正月早々から、暗い話題になりますが、昨年を思い起こしましょう。昨年は、身近に思えるところで、いろいろな事件や事故がありました。食品偽造事件、JR北海道の事故、2011年の3.11に端を発する福島第一原発の汚染水漏れ事故、天候不順など、世間をにぎわす大きな出来事が起こりました。記憶に新しいところでは、拙速にみえる特定秘密保護法(正式には「特定秘密の保護に関する法律」というもの)の成立もありました。また、原子力発電の可否を巡る議論はなおざりなり、どれを再開させるか、どう再開させるかなどと、どうも腑に落ちないことも進行しています。
 いつの時代にも、大きな事故や事件のニュースはあったはずです。しかしいずれも当事者以外は、時間が記憶を風化させていきました。過去の記憶は薄れやすいものなので、「今」を重視してしまうのかもしれません。穏やかならざる「今」は、つぎつぎと新しい事件の記憶を生み出していきます。
 事件や事故は、理屈の上では、原因が解明されれば、その原因への対策をすれば解決するはずです。現時点で解決は難しくても、解決する方向性は見えてきます。原因を克服するために、新しい技術を開発したり、合意を得るために、世論を調整したりすこともできるでしょう。
 ただし世の中は、そう単純にことが運ばないときも多々あります。因果関係や原因がはっきりしているのに対処できないものもあります。例えば、対処をする人間側に「原因」があったり、経済的、技術的な困難さが「原因」となる場合があります。時には、地震や火山噴火など対処できないほどの大きな原因があるでしょう。
 因果を巡る問題はなかなか難しいものです。一番の難しさは、因果関係が不明瞭な場合です。あるいは、因果関係の全く違った考えが提示されている場合、因果関係が不明だが重要な影響がありそうな場合、新しい技術を使用する上で大きな影響が予想される場合なども困難です。課題や技術を、因果関係が不明だから、あるいはまだ新しい技術で問題が発生していないから、などの理由で手をこまねいていていいのでしょうか。そんなとき、どう考え、どう振る舞えばいいのでしょうか。
 ひとつの目安になる考え方があります。予防原則、あるいは予防措置原則と呼ばれている考え方です。予想される危険性を「予防」という立場で考え、行動するというものです。「予防原則」(precautionary  principle)は、1970年代にドイツで使われたものだそうで、オゾン層破壊の問題でも用いられてきました。"precautionary"とは「予防」という意味ですが、"pre"は「予め」、"caution"は「注意、用心」です。因果関係の有無にかかわらず、予め用心して対処しておこうという意味です。
 ただし、運用には注意が必要です。予防措置を過度に適用すると「危険なものはすべて禁止」となり、ゆるく使うと「疑わしきは罰せず」となり、効力が発揮できなくなります。
 予防原則の運用は、人類の叡智、理性が問われることになります。科学には、因果関係を探るだけでなく、予測あるいは推定する力があります。人間には想像する能力があります。危険性が予想される場合、単に危ないと思えると場合も、もしものときの被害を最大限に見積もることも可能なはずです。そんな予想や想像をもとに、予防原則を活用すべきです。
 費用対効果を見積もることも重要でしょう。しかし、費用対効果より重要なのは、地域住民や利害対象者の局所的視点だけでなく、人として、あるいは地球に住まう一生物としての大局観も忘れてはいけないと思います。経済的な視点で考えると、短期的、局所的な収支を中心に考えてしまいます。数年の単位で経済的であっても、100年、1000年の単位で考えると、子孫や人類にとって大きな不利益を与えることもあるでしょう。他の生物、環境への負荷も考慮に入れなければなりません。当事者だけの経済的収支では、搾取されている場所、人、種などへの配慮が欠如することもあります。それをも考慮にいれるために、大局観をもった予防原則を適用すべきでしょう。
 祖先、先人、昨年までの私たちは、「自分たちのため」や「今の快適さ」を行動原理に動いてきました。ある時代、ある地域の人に、益をもたらす技術であっても、将来を見た時、発展よりも現状維持が多くの益を得ることもあるでしょう。そんな選択もあるかもしれません。あるいは、自分たちは負荷を負って将来のために我慢するという選択もあるかもしれません。そんな覚悟をもつべき時代になってきたのではないでしょうか。享受のみの生活ではなく、忍耐を伴った幸福を追求する生き方もあるかもしれません。それこそが大局観を持った予防原則ではないでしょうか。
 「おもてなし」の気持ちも大切ですが、日本人がつい最近まで持っていた気持ちで、ノーベル平和賞のワンガリ・マータイが思い出させてくれた「もったいない」は、実に奥深い言葉です。「ない」から不便、不幸ではなく、「ない」くても幸せ、「ある」ことに疑問をもつ生き方も必要でしょう。そんなことを、昨年を振り返りながら、新年に考えました。

・マネージメント・
昨年は、多忙で、精神的にも非常に辛かった1年でした。
今年以降、更に忙しさが増しそうです。
研究をしているときが、一番充実感を味わいます。
しかしマネージメントを時は
年齢とともに重荷になってきました。
若い頃は、マネージメントは好きではないが、
やればできたし、実際にやってきたものも多々ありました。
今思えば、若いから精神的負担に耐えられ、
充実感も味わえたのでしょう。
最近は、疲労感が増えています。
まあ、それが歳をとるということでしょうか。
愚痴をいわず、新年をはじめましょう。

・賀正・
明けましておめでとうございます。
このエッセイの前身は2001年からスタートしていますが
月刊のメールマガジンとしては、2002年から始めました。
もう13年目になります。
長かったかようですが、毎月のことですから、
ノルマのように書いてきました。
研究に直結しているもの、深く考えてきたもの、
時代に応じたもの、いろいろなものがあります。
私にとってこのエッセイは、
その時々の自分の考えをまとめたり、
新しいことを考えてみるきっかけにしたり
いろいろな背景のものがありました。
読み返すとその時の思いや状況とともに
思い起こすこともあります。
まだまだ、書きたいネタがあります。
次に書こうかと考えているとネタは、30個以上あります。
また、思いついたらネタを加えていきます。
気力が続き、事情が許す限り継続していきたいと思っています。
これかたもよろしければ、お付き合いください。