2003年5月1日木曜日

16 「本当のこと」と「信じること」(2003年5月1日)

 まず、最初におことわりします。ここでは、「本当のこと」などというものなど、あるのかという議論はしません。「本当のこと」あるいは「本当のこと」に類するものがあるかもしれないという仮定をおきます。その前提のもとで、それを求める方法として、どれがいちばんいいものか、考えていきます。
 ある「本当のこと」があったしましょう。でも、その「本当のこと」を、すべての人が、信じるとは限りません。何を信じ、何を信じないかは、人がそれぞれ個別に判断していくものだからです。ある人が信じるものがあったとき、その信じるものは、ある人にとって「本当のこと」といえるものになるはずです。
 たとえば、ここに石ころがあるとしましょう。その石ころの中には、化石があります。その化石は、恐竜の歯の一部で、ティラノザウルスのものと同定されています。ティラノザウルスとは、ご存知のように、白亜紀後期に生存していたの肉食の恐竜のことです。
 ここまでが、ある専門家が太鼓判を押している「本当のこと」だとしましょう。でも、これを信じるかどうか、また別の問題です。すこし詳しく見ていきましょう。
 まず、石ころがあるところまでは、誰もが直接確認できることですから、真理としましょう。さらに、石ころの中に、人のものではないが歯のようなものがあるところまでは、これも、確認できるから真理としましょう。
 でも、石ころの中の化石についていは、それが化石というものかどうかは、別の判断が必要です。例えば、化石というものの概念を知っていたとしても、その概念が、この石の中にある異質なもの場合に適用できるかどうかが問題です。
 この場合は、化石と判断できたとしましょう。化石と判断できたとしても、これが、歯であるかどうかは別問題です。専門家でも、意見違ってくることだってありえます。いや専門家になればなるほど、いろいろん例外があることを知っています。ですから、この化石に関しては、素人や専門家の区別なく、異論が生じえます。つまり、ある専門家は、一見歯に似ているけれど、違う生物の化石の一部、例えば魚の骨の一部としましょう、であると判断したとしましょう。
 最初のティラノザウルスと判断した専門家が信じていることと、別の専門家が信じていることは違っています。つまり、考えが積み重なっていくにつれて、「本当のこと」というものが不確かになっていきます。
 疑う気になれば、この化石の入った石だって、どこから取ってきたものか不明だし、誰かが作った贋物かもしれません。ですから、「本当のこと」などというものは、最終的には、それを「本当のこと」だと思うかどうかに、収斂できるのかもしれません。
 最初に「本当のこと」があるという前提を設けました。しかし、その前提をここでは撤回しなければなりません。「本当のこと」などというものは、不確かで、最終的には、ある人が「本当のこと」と思うかどうかにかかっているのです。
 さらに「本当のこと」とについて考えを進めましょう。「本当のこと」とは、主観的にみるか、客観的にみるかか、よって、おおきくわかれていきます。
 主観的に「本当のこと」とは、「自分」が「本当と信じること」です。一方、客観的に「本当のこと」とは、「多くの人」が「本当と信じること」です。
 主観的に「本当のこと」とは、ウソであろうが、本当であろうが、自分が「本当のこと」と「信じること」です。その内容の評価は、自分の評価だけで、ほかの人がなんと評価しようと、関係ないわけです。
 例えば先ほどの化石の例でいえば、その化石がほとんどの専門家はティラノザウルスの歯の一部だと判断しました。でも、そうではなくじゃないという一人の専門家にとっては、自分の判断の方が「本当のこと」と信じているのです。
 本当の「本当のこと」は、どちらか、あるいは、別の生物の化石かも、あるいは誰かがいたずらで作った偽者かもしません。でも、それを知りえない人にとっては、本当の「本当のこと」は藪の中です。
 主観的に「本当のこと」とは、これ以上、議論は進めません。議論できなのというのは、否定するのではなく、それを認めているからです。個人の思想、信条の自由にあたります。そして、他者の主観的「本当のこと」を認めるということは、自分の主観的「本当のこと」を認めてもらうことにつながります。
 どんなに客観的と判断しても、最終的に自分が信じなければなりません。「信じる」ということは、最終的は主観的なものです。客観的に本当でなくても、客観的にウソでもいいわけです。本当だと思い込み、疑わなければ、それは「本当のこと」になるのです。つまり、客観的に「本当のこと」も、主観的に「信じること」にできないと、「本当のこと」とはならないのです。
 ちょっと、言葉上のいいまわしがむつしくなっていますが、個人の主観的「本当のこと」を認めるという前提がないと、客観的な「信じること」も存在できないと考えられるからです。
 では、客観的「本当のこと」とは、どのようにして評価すればいいのでしょうか。その方法として、
・証拠があるかどうか
・論理的に正しいかどうか
という調べ方があります。
 「証拠があるかどうか」とは、客観的「本当のこと」が、「事実」で裏づけされていることです。多くの人が認めるような「事実」という証拠をもっているかどうかです。
 ところが、「事実」とは、言い換えると「本当のこと」という意味です。でも、ここでは客観的「本当のこと」を考えているので、この「事実」とは、同義反復になってしまいます。つまり、あいまいになってしまいます。ですから、ここでは、「事実」とは、実験、実物、現象など、なんでもいいですから、他人が客観的に判断できるための証拠を提示することとしましょう。
 実験による証拠とは、第3者が追試(同じ実験を、別の人が、別のところで試してみること)をしても、同じデータや結果が出てくるものでないといけません。つまり、再現性があるものでなければいけないということです。
 実物による証拠とは、他人がその実物を手にでき、追試や分析できることです。1個しかない実物で、第3者が追試や分析できないのなら、客観的に評価するための写真、スケッチ、測定値などの定量的データを示すことで代用することもあります。
 現象による証拠とは、何度も起きることなら、第3者が追試や分析可能な再現性があるものでなければなりません。一度しか起きなかった現象や、めったに起きない現象ならなら、1個しかない実物と同じように、客観的に評価するための写真、スケッチ、測定値などの定量的データを示すことが必要です。
 客観的「本当のこと」は、証拠の提示をすることで確かめられます。証拠とは、再現性のあるものか、定量的データなどによって、第3者が同じデータを得て、第3者独自の判断できるようにすることです。そして、どの第3者からも、同じ結果がでてくれば、それは、客観的「本当のこと」となります。つまり、客観的真理といえます。
 もう一つの「本当のこと」を調べる方法は、「論論理的に正しいかどうか」です。あることやある考えが、論理という形式を満たせば、それは、「本当のこと」としていい、ということです。論理的であるかどうか、論理性をもつかどうか、という点だけを重視して、評価するのです。そして、多くの人が、論理的であると認めたら、それは、「本当のこと」となります。
 以上、まとめますと、客観的に「本当のこと」とは、「証拠の提示」と、「論理性」によって、見分けることができるのです。
 もし、すべての人が、「自分自身の信じること」をもち、それぞれが違っていたり、統一がとれてなかったり、ウソや、デタラメだったりすると、社会は成り立ちにくく、あるいは成り立たなくなります。社会的なレベルでは、ある共通する統一的な「信じること」が必要です。
 それは、常識、世間の目、法律、憲法などの、理性に訴えかけるような何かによって、トンでもないことを「信じない」ための、ハドメとして働いているのです。
 ところが、法律によって治められている社会で、「本当のこと」とされていることでも、別の時代、別の民族、別の国、別の社会では、「本当でない」「正しくない」、「間違っている」、「違反している」ということだってありうるのです。
 昔の日本では、今ではいけないようなことが正しいこと、今はよいことが悪いこととされていたときが、ありました。
 たとえば、生まれながらに身分の違いがあったり、侍は人を殺してもゆるされたり、戦争は正しいとしていたり、動物は食べてはいけない時代があり、犬が人間より大切にしなければならない、など、今とは違ったことをしていました。でも、その時代では、それは社会的に信じるべき「本当のこと」だったのです。
 社会的レベルの「本当のこと」は、どんな時代、どんな社会、どんな国、どんな民族にも通じる「本当のこと」とはかぎらないのです。
 もっと、普遍性をもった「本当のこと」があるはずです。普遍性とは、時代、社会、国、民族の違いも越えた、つまり、どんな時代、どんな社会、どんな国、どんな民族にも共通するのでなければなりません。普遍性とは、その時点で、一番「本当のこと」らしいことといえるものです。
 上で述べたように、「本当のこと」は、「証拠の提示」と、「論理性」によって、見分けることができることができます。ただし、それは、形式をみたしているだけの確かさであって、本当に「本当のこと」かどうかは、検証できません。それに本当の「本当のこと」があったとしても、長い時間を経て、歴史のなかで、多くの人が検証して、裏づけできなければなりません。本当の「本当のこと」の追求には、長い知的検証の期間が必要です。
 いろいろなレベルの「本当のこと」を考えてきました。ここでは、個人のレベルのほうが、劣っているように感じられたかもしれませんが、それは、違います。
 一人ひとりにとっては、いうまでもなく個人の「本当のこと」が、一番大切なものです。そして、普遍的「本当のこと」においても、個人の「本当のこと」が存在するから成立するのです。
 個人のレベルでは、何を信じても、何を信じなくても、それは、自由だということです。また、他人がなにをいおうと、自分の信じることを押しとおすこと、あるいは守ること、それが、個人のレベルでは重要です。社会的にもそれを守ることが大切です。なぜなら、それが、個人の自由を守ることにつながるからです。
 自分の「本当のこと」が、一番大切な「信じるべきこと」なのです。それは、人生において見つけるべき目標でもあり、もし見つけたとしたら、自分で一番は大切なこととして、なにをさしおいても優先すべきでこととなりうるのです。
 もし、個人レベルで、「何を信じればいいのか」という疑問が生まれたとき、ここで「本当のこと」追究につかった手法は役に立ちます。
 「本当のこと」に近づく有用なやり方は、上で述べたように、
・証拠があるのかどうか
・論理的であるかどうか
を充分、吟味することです。そうすれば、その時点で、個人のレベルにおいても、重要な意思決定の方法になるに違いありません。あとは、もはやそれは個人のレベルとなった自分の判断を「信じて」、その道を進むのみではないでしょうか。