2015年6月1日月曜日

161 われは仮説をつくらず:仮説と時代

 ニュートンは「プリンキピア」のあるところで、「われは仮説をつくらず」という有名な言葉を用いました。その意味するところは、言葉通りのものでありません。時代の背景、またニュートンなりの意味も意図ももった言葉でした。

 今回の話題は、ニュートン(Isaac Newton、1642.12.25-1727.3.20)の「われは仮説をつくらず」という有名な言葉です。
 ニュートンは、イギリスのウールスソープ(Woolsthorpe)に生まれました。貴族の出身でもなく、恵まれた家庭でもなかったのですが、周囲の理解とアルバイト(今風の言葉ですが)や奨学金などによって大学に通い、良き師との出会いもあり、学問の基礎を身につけることができました。
 当時、ヨーロッパは、ルネッサンスが起こり、コペルニクスが地動説を唱え、ガリレオやケプラーは、天体を運動をかなり詳細に追いかけていました。イギリスではベーコンが経験主義を、フランスではデカルトが合理主義を唱え、科学的精神が整ってきました。そんな時代にニュートンは生きました。にニュートンと同時代に、ドイツでは万能の天才、ライプニッツが、微積分を開発していました。
 ベーコン(Francis Bacon、1561.1.22-1626.4.9)は、法則を導く帰納法が重要であることを示しました。実験や観察などの「経験」が知の源泉となるとしました。それを「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est)と表現しました。これが、いわゆる経験論の提唱になります。フランスでは、デカルトが合理主義を確立し、正しい推論方法として演繹法を提唱しました。また、デカルトは太陽系の形成を渦動説によって説明をしていました。
 イギリスで、ベーコンの帰納的法を最大限に活かしたのは、ニュートンではないでしょうか。ニュートンは全3巻からなる「プリンキピア」(自然哲学の数学的諸原理、Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica)で、引力の法則(いわゆる古典力学)を提示しました。ニュートンは実際に光や運動にかんする実験をしています。また、先人の多くの天体観測のデータを利用して、規則性を導きだしています。リンゴが木から落ちるのを見て万有引力をひらめいたという逸話も、観測から規則を見出す一例として象徴的ともいえます。本当は作り話のようですが。
 「プリンキピア」では、運動の3法則を公理として、そこから物体の運動や天体の運動、抵抗のある媒体内の運動などを命題として提示して、証明しています。証明のほとんどが、幾何学的になされています。微積分を部分的には使っていたり、事前に微積分で答えを得たものを幾何学的に証明しているふうもありますが、基本は幾何学的な証明で構成されています。
 「プリンキピア」の出版は、1687年、ニュートン45歳の時のことですが、実際の研究は、1665年、23歳のときになされています。この頃、ヨーロッパでペストが流行ったため、大学は閉鎖され、故郷のウールスソープに1年半ほど帰省していました。大学での雑事から開放されて、じっくりと思索を深めることができました。
 その時に、「プリンキピア」の内容、光の実験、二項定理、微積分などの素晴らしい業績をつくりあげたようです。いくつもの体系を構築するだけでもすごい能力なのですが、23歳の若いうちに、1年ほどの短期間に、独力でこれらの偉業をすべてを成し遂げてしまっているのです。素晴らしい集中力をもって研究に取り組みました。やはり、ニュートンは天才だったのでしょう。
 「プリンキピア」の初版にはないのですが、第二版(1713年)に「一般的注釈」が新たに付け加えられています。「一般的注釈」では、渦動説への反論がありました。渦動説は、太陽系形成のモデルとして、デカルトが提唱し、大陸では有力な説となっていました。「プリンキピア」の本文中でも万有引力では説明可能な現象が、渦動やらせん運動では説明できないことを証明しています。
 この注釈では、渦動説の批判をしているのですが、真空の宇宙空間で渦動は何によって伝えらるのかわかっていないという、ごく当たり前の疑問を提示しています。ところが、渦動を形成する媒体が不明であるという批判は、引力を何が媒介しているかという疑問にもつながります。現在でも、力を伝える「もの」は見つかっていません。多くの科学者が「重力波」や「重力子」などの存在を信じて、観測しています。
 ニュートンは、重力が質量に比例し、距離の2乗に比例して減少していくことは証明しました。ところが、重力は、不思議なことに、あらゆる物質の内部に減少することなく入り込み、あらゆる方向に、そしてどこまでも及びます。その理由は不明のままでした。さらに、惑星が同一平面上を、同一方向に運動し、衛星も惑星とほぼ同一平面上を同一方向に運動しています。これらは運動の法則から導き出せるものではありません。
 このような「壮麗きわまりない体系」が、「至知至能の存在」によって生まれたと考えました。ニュートンは、このような運動の法則で規定されない規則性を「至知の意図」や「唯一者」などという「神」に起因させたのです。そこで、有名な「われは仮説をつくらず」(Hypotheses non fingo)ということを述べました。
 ニュートンは、経験や現象から導き出せないものを「仮説」と呼びます。ニュートンのいう「仮説」とは、根拠のない前提、規則という意味です。そんな「仮説」はつくらないということです。これは、ライプニッツへの反論でもありました。
 運動の法則は、天体現象や物理現象から帰納によって一般化されたものです。観察や実験に基づいた事実からの帰納されたものは、確たる「法則」であり、「仮説」はないというのです。事実から帰納的「法則」であり、真理だと考えたのです。その意味で「われは仮説をつくらず」なのです。
 現在、私たちが使っている「仮説」とニュートンの使っている「仮説」では、意味合いが少々違っています。論理学や数学で証明されたもののみが法則たりえます。一方、自然科学における規則や法則は、やはり「仮説」になります。自然科学において確かさが保証されるような「法則」はほとんどなく、法則とと呼ばれているものも「現段階でもっと正しく見える」仮説にすぎないのです。それを前提として「法則」という用語は使われているはずです。ニュートンの力学の法則も、アインシュタインによって「よりよい法則」である相対性理論に書き換えられました。自然科学においては、これからもこのような改善、改革、革命は続くでしょう。これが自然科学の進歩でもあります。
 歴史の流れや他の学説、反論に影響されて、「プリンキピア」は改訂していきました。天才ニュートンも、時代の流れの中に生きていたのです。

・成功の鍵・
ニュートンは、23歳の時に
一気に多くの偉業を成し遂げました。
その時期に考える時間がたくさん持てたという
幸運さもあったのでしょうが
やはり才能が一番でしょう。
その才能こそが、
一番の成功の鍵になったのではないでしょうか。

・微積分学・
ニュートンのライプニッツの微積分に関する
優先権争いをしたことは有名です。
時代として基礎的な部分はできていて、
二人は、個別に微積分の手法を見つけ出したようです。
ニュートンは物理法則を解くために必要に応じてつくり、
ライプニッツは現在使われている表記法を開発しました。
いずれも二人の天才の努力によって
現在の数学や科学が発展させられてきました。

・YOSAKOIソーラン祭り・
いよいよ6月です。
北海道の一番いい季節でもあります。
ライラック(別名リラ)も咲きました。
「リラ冷え」も何度かありました。
5月下旬にはライラック祭りもありました。
6月になるとYOSAKOIソーラン祭りがはじまります。
今年は、10日~14日で開催されます。
大学でも、サークルがチームを作っていますので
出陣式が行なわれはずです。
昼休み時間なので
時間があれば見学したいものです。