2009年10月1日木曜日

93 科学は道具にすぎないのか:道具主義

 科学は論理的に進められます。そして、何より多数のデータ(証拠)に基づいて、検証されています。もちろん間違いが見つかれば、修正できる機能も組み込まれています。しかし、科学の自明と思われている論理性のなかに、曖昧さがあります。それも土台となる部分に曖昧さがいくつも見つかっています。もはや科学は道具として便利なので手放すことはできません。そんな科学の曖昧さと道具と便利さをみていきましょう。

 秋めいてきました。秋の夜長をどう過ごしていました。大地や科学に思いを馳せみませんか。今回は、科学の曖昧さと便利さについてです。
 科学は論理的で、筋道が通っているので信じるに足るものだと、誰もが思っています。その証拠に、20世紀以降の科学技術進歩は、人類に多大な便利さ、利益、文化、情報、豊かさを与えてきました。身の回りを見れば、いたるところに、科学の恩恵があります。日本に住んでいる人は、科学の恵なしに一日たりとも暮らしていけないのではないでしょうか。
 多分、大半の人は、科学が長い時間をかけてつくりあげてきた体系を正しいと信じているはずです。でも、よくよく見ると、科学の一番の根っこの部分が、実は曖昧だということを知っていましたか。
 一番論理的だと考えられる数学の例をだしましょう。
 幾何学を体系化したユークリッドは、誰もが当たり前だと思っている点や線などを定義して、誰もが当たり前だと思う性質を公理(共通概念)とし、まただれもが受け入れられる前提を公準(postulate、仮定と呼ぶべきもの)として定めて出発します。
 定義では、点、線(曲線)、線分、直線、面などの23個の概念を示しています。5つの公理として、等しいものと全体と部分の性質を示しています。公準も5つで、線分、直線、円、直角、平行線の特徴、あるいは示し方、描き方を示しています。それらすべては、だれがも自明と思えるものです。
 ユークリッドは、それらの定義、公理、公準を基礎として、多数の定理を証明しています。それが、ユークリッド幾何学の「原論(Elements)」として残されています。
 ところが、この自明とされる定義、公理、公準が、本当に「自明」かというと必ずしもそうではありません。「自明」とされているだけであって、いずれも証明されているものではありません。
 一番怪しいのは、公準の5番目、「平行線の公準」と呼ばれるものは、「直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さいなら、この2直線は限りなく延長されたとき、内角の和が2直角より小さい側において交わる」というものです。三角形を意味するように見えますが、平行線の公準と呼ばれています。
 三角形を意味するといいましたが、三角形の内角の和が180度(2直角)なら(直角仮定)、平行線の定義になります。しかし、三角形の内角の和が180度以外は考えられないので、これいいことになります。
 しかし、三角形の内角の和が180度より小さい場合(鋭角仮定)や大きい場合(鈍角仮定)が想定できるとすると、同様の幾何学の体系が成り立つことが分かってきました。このことに最初に気づいたのは、ガウスで、1824年の手紙で、鋭角仮定でも幾何学が成立するのではないかと述べています。現在では、それぞれ3つの仮定のいずれでも、幾何学の体系が成立することがわかっています。この平行線の公準が、正しいとすると、ユークリッド幾何学となり、それ以外は、非ユークリッド幾何学となります。
 鈍角仮定の世界では、凸面(あるいは球面)空間で平行線できません。このような幾何学を、発見者の名にちなんでリーマン幾何学と呼んでいます。鋭角仮定が成り立つとする、それは凹面空間で、平行線は2本以上定義できることになります。
 非ユークリッド幾何学は非現実的な架空の世界の話ではなく、現実の世界はむしろ非ユークリッド幾何学的であると考えられます。鈍角仮定の世界とは、凸面(あるいは球面)空間のことです。地球の表面はまさに、鈍角仮定の世界です。ユークリッドの定義による平行線は存在できません。鋭角仮定の世界は、それは凹面空間です。現在の宇宙を記述するときに不可欠な一般性相対性理論をアインシュタインが作り上げるとき、リーマン幾何学を用いていました。そして現在の宇宙空間も非ユークリッド空間ではないかと考えられています。
 ここでは数学の世界を例にしてきましたが、論理の根源に探っていくと、必ずしもすべて根拠があるものから成り立っているのではなく、「自明」とされている「曖昧さ」からスタートしていることがあるのです。実は、自然現象を記述する物理でも、同じようなことが多々あります。
 ニュートンによる力学は、物質の運動を記述しています。力学の理論体系は、日常的に利用されています。また、学校の物理の実験によって得られたデータでも、力学の法則に則っていることが確かめられます。力学のどこに「曖昧さ」などあるのでしょうか。
 それは、力学の根源となっている重力や引力です。重力や引力は、運動や現象としては確認できていますが、そのものの実態は何なのかは不明なのです。そこに曖昧さがあります。重力は、何がどのように伝えるのでしょうか。重力を伝える素粒子(重力子、グラビトンと命名されています)、あるいは空間のゆがみによって形成される重力波があるのではないか、などと考えられています。科学者は、重力の根拠を見つけようとしていますが、いまだに未発見です。
 そもそも科学の方法自体が論理的には正しいとは証明できないのです。科学が当たり前に用いている帰納法は、データから法則性を導き出すというものです。しかし、帰納法は、仮説を立てるには便利ですが、論理的には、データが増えたとしても、正しさが増すわけではありません。帰納法で正しいと示すには、この世のありとあらゆる場合を調べ、例外はないというしかありません。ところが調べ残しがあり、そこに一つの反証があれば、今までの説は崩壊してしまいます。
 つまり、物理の基礎中の基礎ともいえる力学は、未知の原因、根拠に基づいて理論体系が組み立てられているのです。帰納法も論理的に正しさを保障するものでありません。論理を重んじるのであれば、こんなあいまいな物理学などを信じてはいけないとなります。もし一つでも根拠が否定されたら、今まで安心、大丈夫とされていたものが、すべて崩壊するのかもしれないのです。そのような不安があるとすると、おちおち日常生活が送れないことになります。
 実は、数学や物理のいたるところで、このような根拠が危うい部分、根拠のないところなどが知られています。でも、科学者は、それを承知で、見て見ぬ振りをしながら科学を続けています。なぜなら、その根拠を突き詰めても、つぎつぎと同じような問題が生じるからです。
 ですから、「まあまあそこまで深刻にならなくても」、あるいは「論理に厳密にならなくてもいいのではないか」という考えもあります。たとえ根拠がなくても、ニュートン力学はいたるところで実用されていて、なんの不都合もないわけです。また、多くの実験もなされ、多くの場面で正しいというデータが出されています。実用という点でみれば、根拠があろうがなかろうが、使える、すでに使っているということなのです。足元の深みに嵌るよりは、実用的な点だけをみて進んでいこうという姿勢です。
 科学とは論理体系でもあるのですが、もうひとつの役割として、技術と結びついた実利的な側面もあります。ある程度実証された法則や原理があれば、そこから予測が導きだせ、その結果に信頼性がもてます。つまり、道具として、科学は十分、役に立っているのです。
 科学は人間の生み出したものです。ですから科学も、使えればいい、役に立てばいいのではないかという立場があります。このような考えかを、道具主義、あるいは広い意味でのプラグマティズム(Pragmatism)と呼ばれています。
 論理を重んじれば信じられないし、実用を重んじれば論理性の不備に不安が生じます。科学は、論理と実利の間を行き来しているようです。科学が論理と道具の間で価値を行き来させているのは、人間の考え方によるものなのです。人間が論理を求めながらも実利を必要とするから、科学にその両面が転写されているのではないでしょうか。科学は、実は人間の心を映しているです。

・ガウスとリーマン・
リーマンは、ガウスの教え子でもあります。
ガウス(1777.4.30-1855.2.23)は、19世紀を代表する
天才的数学者で、天文学や物理学など非常に広い分野で活躍しました。
小学校のころから天才的な数学の才能があり、
1から100までの足し算を計算方法を工夫することで、
すぐに答えを出して、教師を驚かせたという逸話があります。
15歳では素数定理も発見しています。
19歳には、ギリシア時代から定規とコンパスで作図できるのが
正三角形と正五角形だけと考えられて生きた正素数角形に
正17角形が作図できることを証明しました。
ガウスは、若い数学者をあまり評価しなかったのですが、
リーマンを高く買っていたようです。

・最後のあがき・
いよいよ10月です。
北海道は秋めいて初雪の便りもききます。
日中は穏やかですが、
朝夕は涼しくなりました。
まだ、暖房には早いようですが、
時期的には、もうそろそろ
暖房の用意も考えなくてはなりません。
私は、雪が降る前に、野外調査に出たいと考えています。
しかし、土・日曜日にしかチャンスがなにのですが、
なかなか時間が取れません。
でも、なんとか一度は隙をみて
出かけられないかと考えています。
夏の最後のあがきでしょうか。