2011年3月1日火曜日

110 ヒジの形の肱川:地理認識能力の喪失

 今回は、私が住む西予市の主河川である肱川がテーマです。肱川を鳥瞰的に眺めることができるでしょうか。肱川を遡上していくと、必ず錯覚してしまいます。昔の人も錯覚をしたかもしれませんが、正しい地理を認識をする能力を持っていたようです。そんな能力は、今の人がなくしたものの一つなのでしょう。

 今回のエッセイは、城川から発信する最後のものとなります。つまり滞在期間があと一ヶ月になったということです。この一年間に、いろいろな人との出会いがありました。いろいろなところへも行きました。いろいろな行事にも参加しました。つらいこともありましたが、過ぎてしまえば、すべていい思い出となります。いい一年を過ごさせていただいたと思っています。この一年間の経験を、将来に如何に活かしていくかが重要なのでしょう。ただし、あと一ヶ月ありますので、やり残したことをいろいろやるつもりですが。
 今回は、私が暮らす西予市の話をしましょう。西予市は、肱川(ひじかわ)の上流にあります。西予市の主河川(メインリバー)は肱川です。
 じつは、肱川は、不思議な川なのです。肱川を遡ってみるとわかります。
 肱川の河口は大洲市長浜の伊予灘にあります。肱川は、長浜から大洲までは、三波川変成帯の中を流れます。周囲は山間地で険しいですが、川は下流域なので広くゆったりと流れています。大洲の市街地はいくつかの河川が、肱川に合流するところで、氾濫原の盆地となっています。大洲の街をぬけて遡ると、山合を流れる川に変貌します。くねくねの山間地を縫う流れになります。肱川が西予市野村町に入っても、険しい景観は続き、より山奥の上流の様相になります。肱川は、小さな屈曲を繰り返しながら、大局的には時計回りに曲がり、西予市の中心地の宇和盆地の達します。さらに時計回りに曲がりながら、西予市と大洲市の境界の山並に達します。西予市宇和町久保の奥の溜池のあたりが、肱川の源流になります。
 上流域の開けた宇和盆地は、野村より海に近いのです。盆地を囲む山並みは分水嶺でもあり、海のすぐ近くになります。海は川の最後の到達点です。なのに分水嶺のすぐ近くに海があります。奇異な感じがします。
 肱川(大洲市肱川町)から野村(西予市野村町)にかけては、上流域の景観を持っています。その間には、鹿野川ダムや野村ダムもあり、肱川の上流部といえます。なのに上流域に開け宇和盆地があります。このようなことは、地図をみれば、頭では理解できるのですが、感覚的には混乱します。特に肱川沿いを車で遡上すると、そんな不思議な感覚、錯覚が起こります。
 野村や城川は全域が山地で標高も高く、宇和盆地のほうが標高は低くなっています。私が住んでいるところは、肱川の中流に注ぐ黒瀬川、その支流の三滝川流域です。家は、町内でも低い山裾にあたり、標高200m以上あります。宇和盆地も標高は200mほどです。一番上流の標高が、中流域とそれほど標高差がないのは、奇異な感じがします。
 源流部に降った雨が肱川の最初の一滴になります。源流部の尾根が分水嶺ですが、尾根の向こうに降った雨水は、肱川の下流部に流れ込みます。これも奇異な感じがします。
 もちろん川ですから、常に低いところに向かって流れています。肱川の流水面も、宇和盆地からは、標高のより低いところを流れているはずです。ですから奇異な感じというのは、錯覚です。でもこの錯覚は、私だけでなく、肱川の川沿いを走れば、だれものが感じるものだと思います。
 このような不思議な感覚は、西予市の地質に依存しています。西予市は、大部分が秩父帯の分布域です。秩父帯の中には、黒瀬川構造帯とよばれる岩石が、城川から野村にかけて狭い範囲で分布します。これらの岩石が分布する周辺域は、地形が険しく深い谷となっています。岩石の硬さや侵食への抵抗力に依存するのでしょう。
 ところが、宇和盆地では、黒瀬川構造帯が途切れ、秩父帯の岩石だけとなります。秩父帯の岩石でも、玄武岩類や石灰岩などを含むところは侵食に強く、砂岩や泥岩の堆積岩のところは侵食を受けやすいようです。もちろん他にも地質構造などの影響もあるでしょうが、西予市では岩石の分布と地形がいい対応をしています。西予市と大洲市の分水嶺付近は玄武岩類や石灰岩の多いところとなっています。宇和盆地の南の分水嶺は仏像構造線で盛り上がっていますが、仏像構造線沿いには、石灰岩や玄武岩類が点々と分布しています。
 さて、肱川という名称は、いくつかの由来があるそうですが、肱のように屈曲しているという説があるそうです。肱川を地図でみると、ひらかなの「つ」のような形になっています。それを肱の形と見なすことができます。
 地図もない時代に、川の全体の形状を、肱のようだと理解していたとすれば、すばらしい地理的な認識力です。これは、ある特別な能力を持った人が、たまたまいたからでしょうか。多分違うと思います。昔の人には、すばらしい地理的感覚があったのではないかと思います。そしてその能力は、今の人にもそもそもは備わっているものだと思います。ただ、現代生活の便利さのために、その能力が使われず、錆びつき退化しているのではないでしょうか。
 地図を持たなかった昔の人は、生活や旅をするために、地理的感覚は必要な能力だったのかもしれません。地図やカーナビもない時代の人にとって、どの方向に、どれくらい移動したのかということを、大局的につかまえる能力がなければ、長期にわたって旅をするのは、なかなか大変だったことでしょう。
 江戸時代に鳥瞰図を絵図を書いている絵師がいたり、西洋でも歪んではいますが形状は捉えている古い世界地図があります。今では、コンピュータを使って計算して鳥瞰図を作成していますが、昔の人は、空から眺めるような地理感覚をもっていたのでしょう。それは、特別な人の能力ではなく、地図のないところ旅をする人は、みんな持っていた能力ではなかったでしょうか。もちろん現代人の私たちにもその能力は秘めれていると思います。ただ、使う必要がないため、眠った能力にすぎないのです。
 渡り鳥、鮎や鮭などの魚類、草原を大移動する動物たちは、長距離移動しても、同じ場所に戻ってきます。他の生物が持っている能力を、人がもっていてもおかしくありません。かつて人も、アフリカから南アメリカの南端まで移動したり、コンパスもも持たず、大海原に漕ぎ出したりした人たちもいました。砂漠や草原を旅する人もいました。
 現代の漁師たちも、海原の上で海底下の漁場を正確に見つけるとができる人もいます。彼らも、自分はどの辺にいるのか、海底の様子を鳥瞰的にみることができるのだろうと思います。
 パソコンばかりで文章を書いていると、漢字が読めるけれど書けなくなってきます。計算も電卓や表計算ソフトばかりでしていると、暗算や筆算ができなくなります。ルートの筆算の方法を昔は知っていましたが、今では全く忘れてしまっています。ルートも累乗も、電卓ではキーを押せば、たちどころに答えがわかります。そんな便利さの陰で失われた能力があります。地図やカーナビが、地理的認識の能力を奪ったのかもしれません。
 もちろん、電卓、パソコン、地図のない世界に戻れとはいいません。しかし、そんな人が本来持っていた能力を維持する方法はないのかなと思います。もちろん、使わなければ退化するでしょうし、使わない能力を維持する努力は無駄です。でもそんな消え行く能力に、一抹の寂しさを覚えてしまうのは、私だけでしょうか。また、便利さによって消え行く能力は個人ものですが、これが過疎化によって失われゆく田舎の風習・行事、工業化によって失われゆく民族の文化などに連結しているような気がします。しかし、私には、現代人(私も含めて)の行為は、今の便利さ、今の快適さという個々の益、目先の得ばかりを最優先にして、周りを顧みない振るまいにみえてしかたがありません。その裏に、亡くしてはいけないものがあるのではないでしょうか。

・サラとの対話・
このエッセイを書いていて、
一番最初に書いたエッセイ
「サラとの対話(2001.09.20)」
を思い出しました。
このエッセイは、失われゆく文化を嘆いている
イヌイットのサラの話でした。
時代の流れなのだから仕方がいないのかもしれません。
異国で感じたことを書いた最初のエッセイと
1年間の滞在で感じたことに結びつきがあるのは、
不思議な因縁を感じます。

・うろうろ・
2月中旬から暖かくなりました。
晴れの日は、春を感じさせる陽気となります。
最近は天気のいい日は、出歩くようになりました。
寒いときは、天気が良くても
出歩く気にはなりませんでしが、
今のよな暖かい陽気になると
動きたい気になります。
あとひと月、うろうろしていきたいと思います。

・ルートの計算・
ちなみにルートの計算の仕方ですが、
ネット調べれはすぐに見つかります。
簡単に紹介しましょう。
ルートの中の数を、小数点の位置から2桁ずつ区切ります。
上の二桁から、平方で最大の数を見つけます。
引き算をして、余りと次の二桁の数字をつづけた数にします。
その数に対して、(先程の商の数)・(ある数)×(ある数)
を考え、最大の数をさがします。
その数を計算して、引き算して余りを求めます。
この操作を繰り返します。
文章で書くと分かりにくいですが、
実際は操作自体はそほど難しくなく、
計算が面倒なだけです。
この方法を思いついた人はすごいと思います。
今更これでルートを計算しようとは思いませんが。