2010年6月1日火曜日

101 田舎暮らし:実物と仮想

 現在、田舎暮らしをしながら、研究をしています。田舎暮らしの潤いの中で、ふと考えることがありました。おじさんバンドの懐かしい音楽をきっかけに、昔好きだった音楽の動画を見ました。そのとき、実物と仮想ということについて考えました。


 私は、今、田舎暮らしをしています。研究休暇ですから、田舎暮らしは手段であって目的ではありません。一番の目的は、研究することです。私は、この1年間の研究休暇にライフワークの骨子なるものを、つくり上げたいと思っています。そのために重要なのは、深く考える姿勢だと思っています。そんな気持ちで、私の日常生活を振り返ってみました。
 私の田舎暮らしは、日常的には自宅と職場(旧役場)の往復、そしひて夕方は、温泉プールで風呂を兼ねてひと泳ぎすることです。自宅では、寝ることと食べることなど、生活の基本的な部分だけをしています。まあ、日常生活といっても、研究を中心にするために、そぎ落としたものとなっています。大部分の時間は、職場で過ごしています。
 ちなみに、現在の生活ではテレビもラジオも持っていません。新聞も取っていません。自宅では、食事をして、あとは本を読みながら寝るだけです。夜9時には床に入っています。そして朝は4時か5時には目がさめて、また読書をしてから5時半ころ起きて食事をして6時過ぎに自宅を出るという、実に淡々とした生活をしています。でも、はこんな生活は、苦でもなく、快適です。私には、田舎暮らしが合っているようです。
 新聞はとっていないのですが、昼食が外食なので、そのとき店で読んだり、インターネットのニュースを見たりしているので、最新のニュースはそれなりに知っています。私は、テレビやラジオ、新聞がなくても過ごせます。逆にテレビやラジオをだらだらと見らり聞いたりしないので、時間が有効に使えるような気がします。
 でも、人間ですから息抜きも必要です。私の息抜きは、よく出かける野外調査と町の行事や、付近の名所を見て回ることです。
 先日行った祭の会場では、アマチュアのおじさんバンドのコンサートが行われていました。身内や友人は聴いていましたが、他の客は少し聞いては別のところを見に行ってました。彼らが歌っていた曲は、昔、よく聞いた曲で非常に懐かしい思いをして、私は長らく立ち止まって聞い入っていました。彼らをおじさんバンドと呼んだのですが、彼らと私は同世代で、自分も年をとっていることを感じさせます。
 音楽というのは不思議なものです。ある曲を聴くと、心が震えような思いがこみ上げたり、音楽があった時代の情景やその曲をよく聴いた友人などの記憶が沸き起こっています。音楽はいいですね。そんな昔の音楽や映像も、今ではYouTubeなどで見たり聞いたりすることができます。たとえそれがあまり上手でなくても、映像や音はそれほどよくなくても、心にしみることがあります。ふとした折にそんな映像を見ます。また、以前にデジタル化してあった音楽をパソコンやMP3プレイヤーで聞くことがあります。自宅と職場の間の山道の2km弱を歩いているのですが、そのときはMP3プレイヤーで音楽やPodcastを聞いています。アナログでもデジタルでも同じような感動を受けます。しかし、デジタルの便利さを田舎暮らしでは最大限に利用しています。
 今や電話回線(私はDOCOMOのデータ通信カードを使用)とIT機器さえあれば、都会でなくても、変わらない情報が手に入ります。買い物もインターネットを経由して、本も商品もたいていのもは手に入れることができます。外国からの買い物さえできます。最新の情報や商品が得られるとすれば、私のような田舎暮らしのほうがいいのかもしれません。
 ただ、問題は、実物を見ずに買うことになり、本などは思っていた内容と違っていたりすこと、あるいは以前購入していた本をタイトルをうろ覚えだったので再度買ってしまうということなどもあります。私の場合、本でよくあります。ひどいとき同じ本を3冊も買っていました。もうその本は読んでいたのにです。
 ですから、実物を見ずにバーチャル(仮想)だけの情報に頼りすぎるのもよくありません。特に自分の専門分野の地質学だけでは、野外の露頭で実物あるいは野外での体験、実感というものを重要だと思っています。そのために野外調査をしています。
 実物はすたれることのない重要性があり、仮想は非現実的で危ういところがあるのではないかと考えてしまいます。このような実物と仮想に対しする考え方は、多分、多くの人も持っているのではないでしょうか。
 でも、少し考えるとわかるのですが、言葉としては「実物と仮想」の対比は歴然としてあるのですが、実際はそんな単純ではないことが分かります。仮想と現実の境界がどこにあるのかは、非常に曖昧ではないでしょうか。
 たとえば石が出ている露頭は、実物です。それは人間の意志や意図とは関係なく存在します。では地質学者が露頭記録のために、試料を採取し、露頭をスケッチ、カメラで記録したとしましょう。試料は後に実験室で薄片にして顕微鏡でみたり、化学分析をしていきます。
 露頭は実物で、自然のままのものです。それを地質学者はある目的で調べているわけです。露頭こそ自然の実物そのものです。では標本は、露頭の一部ですが、すべてではありません。また、地質学者が採取するものですが、目的に基づいて標本をとります。ですから、自然そのものではなく、意図された切り取り方をされた実物となります。
 地質学者が行うスケッチは、手書きですからアナログ的ではありますが、実物ではありません。地質学的情報が中心となり、自分の目的にあったものをみて、それを中心にスケッチされます。目的になくても、大きな構造などは記入されるでしょうが、小さな構造、目的に沿わないものは、たとえ見えていたとしても、スケッチには残さないことがよくあります。こんな目的にそった間引きしたスケッチは、仮想の範疇に入りうると思います。
 デジタル写真はどうでしょうか。露頭を機械的に忠実にデジタル化したものです。最終的に、0と1に変換された情報となります。デジタル写真とアナログカメラでとった写真は一見すると違いがないのですが、もとをたどると違うものです。アナログ写真を拡大していくと、だんだん像がぼやけていきます。
 一方、デジタル写真は、パソコン画面で拡大していくと、最終的にぎざぎざの一つの色のついたドットとなります。ひとドットの色情報を0と1の連なりで記録しているわけです。そんなドットを見ていたら仮想にしか見えません。
 アナログ写真もデジタル写真も記録手法や原理は違いますが、自然から明らかに情報を抽出しています。抽出という点で言えば、スケッチも同じです。試料も、露頭からの抽出という作業を経ています。その試料から得た薄片、分析値は、非常に高度な抽出作業を加えたことになります。
 そんなことを考えていると、自然のもの、実物から少しでも抽出作業をすると、もはやそれは実物とはいえなくなる、という解釈ができます。その一線は重要でしょう。でも、地質学をするには、自然の中で自然を自然のまま受け入れてばかりいては研究は進みません。上のいったような抽出をして、抽出した情報から、その露頭はどのような起源、履歴があるのかなどを調べることができます。自然(露頭)から抽出した情報から、その自然の素性を調べることになります。そして、自然の深い理解につなげていくわけです。
 自然としての露頭は、厳然とした自然といえるます。そこから人間がなんらかの意図をもって情報を抽出したら、それは仮想化になるとみなせる。人間の能力が限られているので、抽出した情報からしか自然の本質が見抜けません。仮想化は、仕方がないプロセスなのかもしれません。
 実物は重要です。しかし、実物からの抽出の仕方や、抽出した情報も、実物の理解のためには、必要不可欠です。人間にとっては、両方とも優劣の付けがたい重要性があります。自然だけが大切で仮想はよくないという主張は、人間の本質を理解していない不自然なものといえるかもしれません。
 さて、私が接している田舎暮らしは限りなく実物的です。一方、IT化された生活も送っていますが、それは限りなく仮想的です。おじさんバンドのアナログ的な音楽に感動して、インターネットの動画やMP3プレイヤーから昔懐かしい音楽をデジタルで聞いて懐かしんでいるのです。どちらも私の日常生活です。そのんな日常生活を背景にして、いろいろなことを考えている日々です。

・臨場感・
このメールマガジンが届くころ
私は1週間ほど野外調査の最中です。
この調査も、実物からの仮想化作業となります。
しかし、私の野外調査において忘れてはいけないのは、
自然の中でしか味わえないもの、
臨場感、実感、体感を
実物や野外から味わうことです。
そんな繰り返しは、
自然から逃れることのできないはずの人間が
IT化の波に飲み込まれないための
ささやかな抵抗なのでしょうか。

・変わることを受け入れる・
私が若いころに聞いていた音楽は
フォークソングでした。
そのころの歌い手が今も歌っているのは
幸せなのかもしれません。
なぜなら、同じ時代の空気を味わったものとして、
共感できるなにかを
彼らから感じることができるからかもしれません。
長い年月のうちに、彼も変わっていきます。
あるときはその変化を受け入れることができず
離れたこともありました。
でも、何らかのきっかけに
また受け入れることができます。
彼らは、同じ曲でも、昔と今とでは違った歌い方をしています。
これは私が変わったからでしょう。
人間は変わるものです。
その時々で感じることも変わってきます。
その変化を受け入れ、
その変化を再度周りを見なおすると、
違ったものが見えてくることを
彼らから教わりました。