2004年7月1日木曜日

30 都会の自然愛好家(2004年7月1日)

 今回は、川と自然愛好家が素材です。少し話が入り組んでいるので、ご注意ください。理解を助けるために【つぶやき】を入れました。

 川というと、どのようなものを思い浮かべますか。人によって川も大きな大河から、小さな小川を想像する人もいるでしょう。生まれ育った時代や環境によっても、家族の生活の仕方によっても違ってくるでしょう。
 私は、こんな河原を想像しました。一級河川と呼ばれる大きな川の中流です。川が少し蛇行していて、私は、石ころの多い河原に立っています。しかし、河原を見渡せば、砂のあるところ、草が生えているとろもあります。高さ10mほどあるような堤防が川の両側にはあります。しかし、堤防は草に覆われて、緑の丘のようにみえます。そして川の流れは、河原の近くには流れが穏やかで、奥には少し淀んだ淵があります。すぐ上流と下流に音と立て流れている瀬があります。
 さてこんな河原についたら、皆さんならどうされますか。もう夏ですから、泳いでみたいと思われますか。それとも事故がこわいから、眺めるだけにしますか。あるいは、魚釣りをしてみたいと思いますか。それとも汚いかもしれないから、河原で遊んでいますか。植物が好きだから、堤防や河原の草を眺めますか。虫取りでもしますか。
 河原に出たときに、何をするか、どうするかは人それぞれです。でも、河原にきたからには、何かしてみたいと思いませんか。都会で過ごされた方は、もしかすると、そんな気がおきないかもしれません。子供のころ、似たような大きさの川で遊んだ経験がある人は、この川は泳いでも大丈夫かはある程度、判断できるでしょう。
 私は泳ぎたいですね。私が子供のころは、京都の木津川の中流域で遊びました。木津川は自宅からは少し遠かったですが、自転車を使えば、子供でもいける距離でした。夏になると、木津川で泳ぐ人のために近鉄奈良線には臨時駅ができ、小さい頃に父に連れられて泳ぎに来った記憶もあります。深い淵は、父しか泳がなかったですが、小さかった私は、浅い所や瀬で遊んでいました。しかし、あの川の水泳場はいつの間にかなくなってしまいました。1960年代中ころにはなくなったようです。
 その頃から、高度成長期で建築用に川砂利がいたるところで採取されていきました。そのために、川が濁ったのと、人工の深い池や深みがあちこちでできたので、川での遊泳は禁止となりました。今はどうなっているか知りませんが、子供心に川が変わり果てる姿を見てしまったような記憶が残っています。
 都会の子供たちは、自然のままの川で遊んだ経験があるのでしょうか。親がアウトドアなど野外出ることの好きな家庭の子供や、田舎に古里がある子供たちは、私と同じような川の思い出ができるかもしません。そうすれば、春の小川やメダカの学校の歌を聞いても、情景が思い浮かぶのでしょう。しかし、都会だけで育った子供たちに、棚田の景色や、飛び交う蛍、川での魚釣り、川での水遊びに、ノスタルジーを感じるでしょうか。
【つぶやき:さてさて、ここまでの流れだと、自然の川を取り戻そうという趣旨に展開しそうですが、少し視点が変わります】
 戦後急激に、このような野生を残す川が、全国的なくなってきたような気がします。特に人口の多い地域での変化は激しいのではないでしょうか。しかし、これは、ある必然があったのです。蛇行をして、しょっちゅう流路を変えるような川の周辺は、農業だけでなく、住居としても不適切です。まして、人口が増えてくると、野生のままの川ではたまりません。これは川周辺で住むとき皆が望むことです。
 川の周辺に住むということは、いいときの川だけでなく、危険なときの川とも付き合っていかなければなりません。どちらかというと、人は危険なときにこそ備えているはずです。堤防も蛇行の直線化も、ダムの建築も、すべて治水のためなのです。平野を流れる川が、蛇行をしていて、流路を変えていくようでは、都市計画ができません。このような治水によって、日本は平野での人口の増加をすることができ、産業も発展したのです。
 しかし、治水による代償も大きかったと思います。野生の川から切り離された都会が至る所にできてしまいました。都会では川はもはや、強大なコンクリートの溝となってしまいました。あるいは、コンクリートやアスファルトの下に隠されているところさえあります。
 それと何といっても、川について、都会と地方の格差ができました。都会は野生からますます切り離されていき、今も進行中です。そして、田舎は、そのスピードが遅く、未だに野生が残されている反面、野生の脅威にさらされています。
【つぶやき:川の現状の矛盾に行き着きました。しかし、ここからは自己の矛盾に行き着きます】
 私は都会と田舎の中間に住んでいます。よく考えると、都会の生活をしています。私自身は野生が好きで、野生の中で過ごしたいと思っています。しかし、仕事ややりたいことを考えていくと、現状が妥協点となったわけです。私は、大いなる決断で自然に向かいましたが、中途半端に終わりました。そんな自分を見ていると、すごく矛盾を感じます。
 もしかするとこれは、都会に住む自然愛好家すべてが抱える矛盾なのかもしれません。自然が好きでそこに密接に関係して生きていきたくても、生活するには、都会からは離れられないのです。これが私たちがつくり上げた文明なのです。
 人間には、手付かずの川のような野生は不要でしょうか。もちろん必要だと応えるでしょう。しかし、それは、いいときの野性の川を想像して応えてないでしょうか。自然を守れ、野生の脅威を思い知れ、などという発言者が、都会に住んでいたるとしたら、その発言にどの程度の説得力があるでしょうか。人工的に作られた過ごしやすい環境、夜も煌々とした灯りの元、エアコンの中で、テレビやビデオ、パソコンを利用し、文明の益を享受している自然愛好家の発言は有効でしょうか。
 これが、私たちが求めてきた理想とする文明だったのでしょうか。もちろん求めなければ、こんな生活は手に入りません。そんな都会に住み、生活の糧を得ている人は、いくら野生や自然も求めても、生活基盤を野性の中に移すことはできないでしょう。勇気ある一握りの人しかできないでしょう。
 そんな都会に住む自然愛好家は、一時的に、ノスタルジーに浸るために、野性の中で過ごします。そのためには、休日に出かけるしかありません。でも。雨が降ると出かけるのをやめるだろうし、花や紅葉の季節なら見ごろのところを選ぶでしょう。つまり、いいときの野性しか味わうことをしていないのです。そんな野生は本当の野生ではなく、ある一面の野生に過ぎないことは、少し考えればすぐにわかります。
 しかし、そんなきれい、美しいなどのいい時の自然だけを考えて、その自然を残せとついつい主張してしまいます。都会に住む私のような自然愛好家は、都会の不夜城のような家にすみ、エネルギー大量に消費しながら、いいときの自然だけを味わっているのです。こんな都会の自然愛好家の意見は、本物ではあえません。私以外の多くの自然愛好家が、私のような堕落した自然愛好家でないことを祈ります。
 また、自然の中で生きているからといって、自然愛好家というとそうでもないはずです。
 自然の中で野性の川の周辺に生活している人は、いいときだけの野生の川だけではなく、凶暴な野生の川とも一緒に過ごさなければなりません。だから、ある田舎の人が、自分の地域の野生も都会と同じように、コンクリートで治水して欲しいと思っているかも知れません。それを非難する権利は、都会生活者にはないでしょう。
 情緒的に野生の川を残せというのも、実はそんな無責任なことを要求しているのかもしれません。彼らが、観光資源として野生の自然を利用すること、土産物屋に転進すること、商魂をたくましくすること、これは、必然なのかもしれません。田舎だから、野生の自然と付き合えというのは、無責任です。対等に自然のよさや驚異を分け合うべきです。でも生活基盤が違うのですから、対等というのは判断が難しいですけどね。
【つぶやき:さてさて、最後になって訳がわからなくなりました。川も野生をなくしていることは事実です。それは、すべて人間の生活が良くなるようにしたことです。もちろんそのためには何かを犠牲にしました。それを懐かしんでノスタルジーを味わえる、味わえないというのは、もしかすると無責任なことをいっているのかもしれません】

・矛盾・
 私は、自然と人間の共生を考えると、いつも上のような自己矛盾に落ちいり、どうしようもなくなります。今回は、自己矛盾を素直にぶつけることにしました。このようは問いには、答えがないのかもしれません。あるいは、割り切ってやるしかないのかもしれません。でも、この矛盾を見て見ぬ振りをしているのもいけないことだと思います。矛盾は矛盾として提示し、皆で解決の方法を探るのいいのではないでしょうか。そんなつもりのエッセイでした。
 しかし、こんな小ざかしい人間の営為や思考は、自然の脅威の下ではひとたまりもないのかもしれませんね。

・長良川・
 最近仕事で長良川によく出かけるのですが、長良川は日本でも有数の清流です。河口に堰ができて、残念がる人も多くいますが、まだまだ野生を残していると思います。
 先日出かけたときも、鵜飼が始まっていて、はじめて鵜飼を見学することができました。もちろん、屋形船からではなく、堤防の上からの見学でしたが。
 川はなにも穏やかなときばかりではありません。長良川を見ていると感じます。少しでも雨が降ると増水をして、堤防いっぱいに流れが起きます。そんな流れの時には、河原の石が動いている思いきや、ほとんど動いていないのです。不思議でしたし、先入観に囚われていることも知らされました。
 先日の台風で大雨が降ったとき、長良川も増水しました。堤防内の人たちは非難したそうです。年に何度か堤防内に住んでいる人が避難することがあるようです。しかし、住人はその準備も心積もりもできています。それに、堤防内に住んでいる人には、そのような危険な地域なので税金の優遇措置もあると聞きます。
 これが自然の川との付き合い方かもしれません。鵜飼という観光資源は、野性であるから残せることなのかもれません。でも、ひとたび大雨が降れば、その被害が起こり、輪中もそんな脅威から逃れるための生活の知恵だったのです。
 しかし、そんな人間の思惑からはずれる脅威も時には起こり、野生としての川を思い知らされるのです。これの繰り返しが、川と共に生きるということなのかもしれませんね。けっして科学や技術でねじ伏せられるものではないでしょう。いずれにしても謙虚に誠実に川と向かいあうことが必要でしょうね。