2008年6月1日日曜日

77 帰納法のトラップ:間違った直感(2008.06.01)

 科学でよく用いられる帰納法という手法があります。しかし、この帰納法は、論理的に正しい手法ではないことが分かっています。今回は帰納法について、考えていきましょう。

 ごく普通の方法やよく使っている方法だとしても、その方法が正しいとは限りません。さらにいうと、それらの方法によって得られた結論が、直感的にも正しく思えるものであっても、正しいとはいえないことがあります。そのような方法のひとつに、帰納法があります。身近なところに落とし穴があります。それに気づいていない科学者も結構いるようです。
 岩石を分析し、得られた化学組成データを扱う時の話を、以前にもしたことがあります。今回も、その話を使って考えていきます。
 火山岩はマグマが固まったものです。ですから、岩石はマグマの組成をそのまま反映していているはずです。一連のマグマから形成された火山岩から、もとのマグマの化学組成の変化を探ることが可能になります。
 厳密にいえば、火山岩の化学組成は、マグマ「そのもの」ではなく、揮発性成分とよばれる固体にならないガスや液体は抜けています。その揮発成分だけが足りない化学組成を火山岩は表しているわけです。しかし、抜けていく量は固体なったものに比べると微々たるものだったり、成因を考える上で重要でなかったりします。それに火山岩からは抜けてなくなっているし、ないものを調べることができませんので、特別な場合を除いて、あまり考慮されません。
 さて、ある火山から代表的な火山岩をいくつかとってきて、化学分析をしましょう。火山岩の化学組成は、含有量が多い成分から、10種類程度の元素で代表することができます。多くの火山岩の場合、珪素、チタン、マグネシウム、マンガン、鉄、カリウム、ナトリウム、リン、水素、酸素などで、ほぼ100%近くになります。岩石を構成する鉱物は、すべて酸化物になっています。ですから化学組成も、それぞれの元素に酸素をつけた酸化物の形式で示されます。SiO2、TiO2、MgO、MnO、FeO、Fe2O3、K2O、Na2O、P2O5、H2Oとなります。鉄は、酸化状態で2種類あるので2種類の成分として表現されることがあります。
 今回とってきた火山岩で、それぞれの化学組成が得られたとします。SiO2の値を横軸に、縦軸にFeO/MgOの比をとって、それぞれの火山岩の値を図示していきます。すると、SiO2の増加にともなって、FeO/MgOの値が増加していくようにデータが並んだとします。
 その並び、つまりきれいな直線状の関係が見えました。このデータの並びを研究者が見たら、マグマに起こった変化が、火山岩の化学組成に反映したものだと考えるはずです。SiO2が少なくFeO/MgO比が小さい岩石は、マグマの温度が高い時にでき、マグマの温度が下がると共に、SiO2が多くFeO/MgO比が大きい岩石が形成されてきたと考えます。
 岩石学を学んだ研究者ならそう考えます。なぜなら、マグマから生じる結晶は、高温ではSiO2が少なくFeO/MgO比が小さいものであるという一般的な傾向があるからです。
 一般化すると、ある成分Xと別の成分Yを軸にしてグラフを作ります。その図で、データはきれいに並んだとしましょう。研究者がこの図をみたら、何らかの傾向や規則性があると考えるはずです。このようにあるいくつかの例から、一般的な傾向や規則性を見抜くときに用いる方法を、帰納法と呼びます。
 帰納法とは、ある限られた実例(今回の場合は分析された化学組成)から、規則性を導き出したものです。そして、その規則性を検証しながら、法則化していきます。上の例は、帰納法によって「普遍的法則」を見出すというものでした。科学の現場では、帰納法は、ごく普通に使われている方法です。
 では、帰納法は論理的に正しい方法なのでしょうか。実は正しいとはいえないのです。
 「普遍的法則」となった科学の法則は、「すべての○○は、××である」という普遍命題の形式で示されます。上の場合では、○○には「同じマグマからできた火山岩」が入り、××には「一連の化学組成の変化」という内容がはいります。
 その規則に合うもの(合致例)として、「A火山の噴火でできた火山岩は、一連の化学組成の変化が認められる」や「B火山の噴火でできた火山岩でも、一連の化学組成の変化が認められる」、同様に、CでもDでも・・・・となります。このような合致例を増やせば、その法則の確からしさは増していきます。多くの人(研究者も含めて)そう考えます。これを、「確証性の原理」と呼びます。これは、直感的にも正しいものと思えます。
 ドイツの論理実証主義の哲学者カルナップは、「帰納法が、蓋然性(がいぜんせい)を高める」という「帰納論理」を提案しました。蓋然性とは、「いろいろの点から見て、そうなることが十分に予測できること(度合)」という意味です。
 しかし、18世紀、スコットランドのエディンバラ出身の経験主義の哲学者ヒュームによって、帰納法による推論は、たとえ前提が正しく(真)ても、必ずしも結論が得られるという論理的な必然性がないことを示しました。
 その論理は、案外簡単に理解できます。論理学では、ある命題が真なら、その命題の対偶(たいぐう)も真になります。「すべての○○は、××である」の対偶は、「すべての××でないものは、○○ではない」となります。
 上の化学組成の例で言えば、すべての「一連の化学組成の変化」をしないものは、「同じマグマからできた火山岩」ではない、となります。こんな例は、でたらめな岩石をとってきて、その分析値を示せば、大抵は、「一連の化学組成の変化」はせず、ばらばらになります。ですから、「同じマグマからできた火山岩」ではないというのは真です。対偶の例を挙げることは、実は余り意味がないのです。少々わかりにくかもしれませんね。もう少しわかりやすい例を挙げましょう。
 例えば、「すべてのマグマは、熱い」という命題が真だとします。するとその対偶は、「すべての熱くないものは、マグマではない」となります。少々複雑な言い回しですが、述べていることは正しいです。
 「火山岩」は冷たいから、「マグマではない」。「冷たい深成岩」、「冷たい玄武岩」、「冷たい花崗岩」・・・とマグマに関連する仲間を考えて例を増やしていくと、正しさを増しているように見えます。これが、確証性原理や帰納論理です。
 しかし、この対偶の「すべての熱くないもの」とは、温度をいっているだけですから、マグマだけでなくてもよいわけで、何でもいいのです。「ぬる目のお風呂」、「冷たいプール」、「人肌のお燗」、「よく冷えたリンゴ」もマグマではありません。これらすべて、対偶の例を出したことになります。しかし、こんな例をいっぱい出して、確証性や蓋然性が増すでしょうか。もちろん増しません。つまり、いくら帰納法による例を増やしても(データを増やしても)、その確かさが増すとはいえないのです。
 有名な例として、「ヘンペルのカラス」というものがあります。ドイツの科学哲学者カール・ヘンペルがいったもので、「すべてのカラスは黒い」という命題からはじまります。この命題を証明するために、カラスを調べることなく、証明しようと考えます。この命題の対偶は「すべての黒くないものはカラスでない」となります。こんな例は、いっぱい挙げていけます。それこそ、山ほどあります。「白い白鳥」、「鶯色の鶯」、「赤いリンゴ」、「青い空」、「白い雲」・・・など。いくら例を増やしても、もとの命題の確証度を上げる役には立ちません。もし、この世のすべての黒以外のものをチェックできるのなら、この方法で確証度を高めることができますが、明らかに黒いものより、黒くないものの方が多いですから、現実には不可能です。つまり、対偶で証明はできないのです。
 帰納法は、あくまでも仮説を導くための手段にすぎず、仮説を検証するための方法ではありません。ただ、帰納法から、仮説を否定するための方法は導き出せます。先ほどは、合致例を出しましたが、合わない例(反例)を一つでも出せば、仮説を葬りさせられます。帰納法自身で、帰納法の正しさは示せませんが、間違いを示すことはできます。
 案外、このようなことを科学者たちは知りません。科学的な論文でも、帰納法の誤用が見られます。データから帰納的にある規則性が見えたとき、その規則性の原理を見出すことが、論文の本当の意義になるはずです。しかし、規則性を見出したことの重要性や、その規則性の意義を論じる論文もよく見受けられます。科学的意義がないとはいいませんが、中途半端で科学的な結論をいったわけではありません。
 帰納法は、インスピレーションを得たり、何らかの仮説を立てるためには、非常に効果を発揮します。しかし、その次のステップとして、その仮説を証明することが重要です。それが、実は科学の本質なのかもしれません。帰納法は科学において、武器ともなりますが、大きな罠、トラップともいえます。諸刃の刃です。使い慣れた帰納法のトラップには、くれぐれもはまらないように注意が必要ですね。

・反証可能性・
イギリスの哲学者ポパーは、
反例をだすことが可能かどうか(反証可能性)を、
純粋な科学的方法の必要条件だと提唱しました。
ポパーのいう意味では、
帰納法は科学的方法としては、
間違いを知るのに役立つ方法ですが、
帰納法自身には、証明を完結できる能力がないとなります。
一種の不完全性を示しているようにみえます。
私は、まだ、論理学の初学者なので、
この見方が正しいかどうかよくわかりません。
でも、これは重要なことだと思います。

・演繹法・
帰納法と対になって使われるのが、演繹法です。
演繹法は、論理的には正しい方法です。
しかし、演繹法には前提となる原理や法則
つまり正しいとされているものが必要になります。
では、正しい原理や法則をどのようにして導けばいいのでしょうか。
それは、実は重要な問題だと思います。
そのような原理や法則が確立されていないから、
科学は変化していくのかも知れません。
これについては、別の機会に考えたいと思っています。