2023年5月1日月曜日

256 知足知止:貨、身、名

 城川に来てひと月がたちました。日常生活も落ち着いてきました。あとは、目標を達成するために、日々精進していくだけです。ただし、足るを知ることも、大切にしなければなりません。


 サバティカルがスタートしてから早ひと月が過ぎ、日常の生活パターンもできてきて、落ち着きました。4月下旬には一度調査にもでています。
 来たばかりの4月初旬、新しい環境に慣れるために、いろいろな試行錯誤もしました。北海道の自宅から、必要最低限のものは持ってきたつもりですが、新しい生活がはじまると、やはり足りないものがあります。借りている古い民家にも、不足しているものもあり、気がつくたびに少しずつ買い足して、生活環境を整えてきました。それも4月中旬くらいまでなんとか終わり、日常と呼べる生活ができるようになりました。
 我が家は贅沢を好む風はなく、衣食住、すべてに最低限足りていれば満足できます。私自身も、質素、粗食であっても苦を感じることなく、かなり不自由であっても慣れればなんとかなると思っています。それよりも、やりたいことができる自由、それに時間や精力を使うことを重視しています。
 このサバティカルの半年間は、人生の中でやりたいことのできる充実した時間がとれる、最後のチャンスになります。半年間、研究に集中したいと考えています。四国各地の野外調査をすること、精神的な余裕をもって、静かな環境で、束縛なく自由に思索を巡らせる時間をもつことを重視しています。悔いのない時を過ごしたいと、日々、努力しています。大学にいるときよりも、多くの時間を研究に充てています。
 今回は家内も同伴しているので、週に2度ほどは、近隣に散策に出かけること、健康のために夫婦で温水プールに通って、毎日運動しています。これは、家内のためでもありますが、自身の望むところでもあります。今のところ、順調に日常生活が営めています。
 先日、平日の午後に、大洲の臥龍(がりゅう)山荘を訪れました。山荘にはいくつかの建物がありますが、豪華や華美を求めたものではなく、侘び寂びを重んじたつくりでした。いずれの建物も、粋を凝らし、手間暇を惜しむことなくつくられたものです。静寂なる環境の中で、心地いい時間が過ごせました。
 山荘の中の建物のひとつに、「知止庵」という小さな茶室がありました。そこには音声案内があり、もともとは浴室だったものを、戦後に内部を改装して茶室にしたとのことでした。庵の名称の「知止」とは、ホームページには、陽明学者の中江藤樹の説いた教えからとったとありました。調べると、「知止」のもとは、老子第44章の一節にでてきます。原文と書き下し文は、次のようなものでした。

 名與身孰親 名と身と孰(いず)れか親しき
 身與貨孰多 身と貨と孰れか多(まさ)れる
 得與亡孰病 得ると亡(うしな)うと孰れか病(うれい)ある
 是故甚愛必大費 この故に甚(はなは)だ愛(おし)めば必ず大いに費(つい)え
 多藏必厚亡 多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡う
 知足不辱 足(た)るを知れば辱(はずか))しめられず
 知止不殆 止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず
 可以長久 以って長久なるべし
(私訳)
名と身のいずれが重要だろうか、
身と貨のいずれが大切だろうか
得ると失うのいずれが問題があろうか
これゆえ惜しめば、必ず大きく失う
多くを持てば、必ず多く失う
足るを知れば、辱められず
とどまるをしれば、危うくももならない
もって、長く久しくあるべし

 全体として、貨より身を、身より名を重んじなさいという意味でしょう。なにより、貨への注意、蔵を戒めています。損得やお金に固執したり、蓄財を戒めています。同感です。無駄遣いをする必要もないですが、身や名のために、使うときは使いなさいといっています。
 山間の小さな地域では、人のためには惜しむことなく使うという風習が今も残っているようです。地縁関係を大切にして暮らしていくということでしょう。私の故郷でも、おこなわれていたものです。地縁的な付き合い、風習の考えは、嫌なことだと思っていました。まして、地元を離れたものには、儀礼ばかりで、面倒だし、お金もかかり、できればしたくないと思っていました。
 サバティカルでこの地に暮らすために、郷に行っては郷に従えということで、少しずつ馴染むように努力しています。このような地縁的な付き合いは、もしかすると、貨を惜しむより、名のために有効に使うことを実践しているのではないかと思いました。他者、みんなのために、祝、祝儀として、餅をまいたり、旅人を接待したりします。
 貨より身を重んじた行為、さらには名を大切にしろといっています。考えると、これらの解釈も難しいものです。身とは身体だけでしょうか、心身、そして精神まで拡大していくのでしょうか。身を重んじるということは、身体に苦痛を伴うような禁欲を説いているわけでもなさそうです。また、名とは、名誉のことでしょうか。それとも、自尊心、自己肯定感、アイデンティティまでいくのでしょうか。
 貨、身、名を考えることの重要性はわかります。しかし、まだ腑に落ちていません。老子第46章には、同じような言葉があります。

故知足之足 故に足(た)るを知るの足るは
常足矣 常に足る
(私訳)
故に足るを知るの足るとは、常に足りているということ

 知足とは、本来は人の欲を戒めたものでした。そして、足るを知っているということは、常に足りているというも意味するということのようです。どこまでで足るのか、どれ以上になるとどまるのか、その境目が難しいです。少なくとも我を忘れることなく、冷静に過ごしていくべきでしょう。
 このエッセイでの思索もここでとどめます。なぜなら、このような考えを巡らすことにも、足るを知り(知足)、とどまることを知り(知止)なければならないでしょうからね。

・知足・
ゴールデンウィークの最中に
このエッセイをお送りします。
執務室で通常と変わらず仕事しています。
COVID-19が終わった大型連休なので
多くの人はあちこちを観光したい、
買い物や遊びたいと思っていることでしょう。
自粛した3年は、あまりに長かったです。
そこから開放されるのは、いいことでしょう。
しかし、足るを知ることも忘れてはいけません。

・知止・
私は、ゴールデンウィーク前に調査にでかけ、
後にも調査にでかけます。
COVID-19の自粛とサバティカルによる校務からの開放、
なんの束縛もなく調査に
専念できるありがたさ痛感しています。
なにより休日や祝日など、
人出の多い時期を外して
出かけられるのはいいです。
以前、博物館にいた頃は、
月曜日休みだったので
その時のように混まない状態で
いろいろなところに出かけられるがいいです。
しかし、必要なものことだけにしたほうがいいですね。
あまり羽目を外さないようにしないといけません。
とどまるを知ること(知止)です。