2007年7月1日日曜日

66 本当のこと:真理は本当にあるのか(2007.07.01)

 「本当のこと」とは、どういうことでしょうか。本当のこととは真理と呼べるのでしょうか。哲学的なことではく、実用的に、そして役に立つ「本当のこと」について考えてみました。

 ある人が、今まで誰も見たことがないこともの、例えば生きている恐竜を見たとします。自分自身が見たことですから、恐竜が本当に存在していること、自分は「本当」だと信じているわけです。しかし、その恐竜を見たことがない人にとっては、「現代に恐竜なんでいるはずがない」、「ありえないこと」、「信じられないこと」となり、信じるはずがありません。
 この自分の他人の間には、大きな境界というか壁がありそうです。その壁を乗り越えるためには、どうすればいいでしょうか。
 「本当のこと」というと、あまりに漠然としすぎています。でも、真理というとあまりに哲学的過ぎるような気がします。自分の考えていることが「真理」と呼ぶには、多く人が少々抵抗があるはずです。
 まあ、抵抗していてもしかたがありませんから、「真理」の意味を、国語辞典でひくてみました。
1 本当のこと。間違いでない道理
2 意味のある命題が事実に合うこと
3 論理の法則にかなっているという形式的に正しいこと
これら3つが、真理の意味としてありました。少々複雑な言い回しですが、一応、内容は理解できそうです。でも、整理していきましょう。
 今まで述べてきた「本当のこと」は真理としていいようですが、「間違いでない道理」かどうかは、少々難しい問題です。道理とは、「論理」ともいうべきことです。論理があっているか間違っているかは、論理の構成が正しいかどうかで確かめることができます。
 しかし、スタート、つまり最初の情報や証拠が不確かだと、どんなに論理の過程が正しくても、間違った結果になってしまいます。いってみれば、論理以前の問題が、そこにはあるのです。
 「本当のこと」かどうかは、まず自分の感性、つまり主観的が、あるものことを、今回の例では「生きている恐竜を見た」ですが、それを受け入れられるかどうかがスタートとなります。恐竜の場合、「私は見た」ということが、スタートになります。
 「私は見た」は、自分にとっては主観的なことなので、本当はウソであろうが、マコトであろうが、「本当のこと」と「信じること」さえできれば、スタートすることができます。このスタートを、他人がとやかくいう筋合いではありません。
 実は、これが非常に大切なことだと思います。他人にとっては荒唐無稽なことでも、自分が信じることができれば、「主観的に本当のこと」は存在します。「生きている恐竜を見た」から、「恐竜はいる」と自分は信じることができます。
 新発見も大発見も、すべてここからスタートします。ですから、他人は、ある人の主観に基づく考えを、ヤミクモに否定すべきではありません。まずは聞くこと、そして論理に間違いがないかをよく考えるべきです。論理に間違いなければ、一応論理、道理としては成立しえます。
 そのような「他人の主張を聞く」という土壌がないと、新しいことがなかなか受け入れられませんし、生まれません。進歩や革新的な発見、発明は、案外非常識なことから生まれることがあるからです。
 とはいえ、「主観的に本当のこと」として自分だけが信じていることであっても、できれば他人にも信じてもらいたいはずです。あるいは、自分にとっても信じがたい「生きている恐竜」を見てしまったとき、自分自身でそれが目の錯覚や見間違いでないと納得するためにも、客観的な視点は重要となります。
 客観的に「本当のこと」にするためには、多くの人が信じられるように、できればすべての人が本当だと思えることにすることです。こうなれば、より普遍的「真理」というべきものに近づけるでしょう。もちろん自分自身ももっと信じられるものになるはずです。
 では、「客観的に本当のこと」とは、どのようにして決めたり、評価すればいいのでしょうか。
 その方法として、先ほど示した辞書にあった2つの意味、
2 意味のある命題が事実に合うこと
3 論理の法則にかなっているという形式的に正しいこと
を用いれば、検証できそうです。
 「意味のある命題が事実に合うこと」とは、ある命題(論理)が、「事実」で裏づけされているかどうかを、検討していくことです。論理が「事実」にあっているかを、演繹的に調べていくということです。
 ところが、この「事実」というのが、あいまいなのです。「事実」とは、実物、実験、現象などなんでもいいから、他人が客観的に判断できるための情報があり、それが事実といえる「証拠」なることを示せばいいのです。いくつか一般的な例をみていましょう。
 化石のような実物なら、他人にその実物を示し、自由に調べられるようにしてあげればいいのです。実物さえあれば、誰でも納得するまで検査や分析できます。もし、ひとつしかない化石なら、遠くの第3者が追試や分析しなくても、客観的に正当に評価できる測定値、写真、統計など定量的データを示せばいいのです。もちろん、そこには捏造などあってはなりません。「生きている恐竜」なら、恐竜を見つけて捕まえてくるとか、見つからないのなら、足跡、糞、食い跡、巣や卵の殻など、「生きている恐竜」でないと残せないような実物を探して示すことができればいいのです。もしそのような実物の証拠が見つかれば、自分も納得できますし、他の人も説得できるでしょう。
 実験による「証拠」は、第3者が同じ実験を別のところでして(追試といいます)も、同じ値や結果が出てくるものでなければなりません。つまり、再現性があるものでなければいけないのです。なんらかの現象を証拠とするなら、第3者が追試や分析可能な再現性がある現象でなければいけません。もし、一度しか起きなかった現象なら、実物と同じように、第3者が追試や分析できませんから、客観的に評価できる定量的データを提示したものでなかればなりません。
 証拠の提示とは、再現性のあるものか定量的データによって、第3者が客観的に判断できるようにすることになります。このような証拠があれば、「客観的に本当のこと」にできるようになります。
 次の「論理の法則にかなっているという形式的に正しいこと」とは、あるものごとや考えが、論理という形式を満たせば、それは、「真理」としていい、ということです。
 論理性をもつかどうか、つまり、論理的であるかどうか、という点だけを重視して評価する方法です。これは、比較的簡単に評価できます。論理学のような学問もあり、論理構造をみれば、論理的かどうかを、見分けることができます。
 以上まとめると、「客観的に本当のこと」、つまり「真理」は、
・証拠の提示
・論理性
によって、見分けることができるということです。
 ただしそれは、まさに「真理」という「形式をみたしている」のであって、本当に「真理」かどうかは、長い時間を経て、歴史のなかで、多くの人が検証して、裏づけをする必要があります。
 私は、普遍的に「本当のこと」など、存在しないと思います。なぜなら、「証拠」は、かなり主観的な提示のされ方をします。そして、その「証拠」が「客観的」かどうかは、その「証拠」を見た人が「主観的」に判断します。そこには、残念ながら、論理は介在しません。ですから、前に述べたように「主観」が重要になるのです。
 現状では、どんな「真理」でも、「本当の真理」に近いだけの「一番もっともらしいもの」にすぎないのです。しかし、当面は、それを「真理」とするしかないようです。人は、まだまだ賢くないのですかね。

・露地もの・
6月の北海道は、初夏にあたり、いろいろ行事の多い月でした。
新緑と花々が咲き乱れる季節でもありました。
そして、露地ものの農作物も取れだします。
今年の札幌の6月は、非常に雨が少なかったように思います。
1度か2度は激しく降りましたが、総雨はが少ないように思います。
農作物に影響が出なければいいのですが、少々心配です。
そろそろメロンの季節です。
夕張のメロンは高くて我が家では買えませんが、
他の地域のメロンでも、おいしいものはあります。
それを母や親族に送るようにしています。
ですから、メロンのできも心配です。

・教員も待ち望む夏休み・
大学では7月になると、学生たちがそわそわします。
それは、前期の成績や評価がどうなるか。
自分の出席は足りているのか。
試験はどんなのがでるのか。
などなど、学業に関する心配で、学生はそわそわします。
もうひとつの理由は、8月から9月終わりまでの
2ヶ月に及ぶ夏休みをどう過ごすかが考えているからです。
アルバイトをするのか、どんなアルバイトにするのか、
ふるさとにいつ帰るのか、友人とどこに旅行にいこうか、
ふるさとの友人と会えるのだろうか、
などなど、夏休みのことを考えて、そわそわします。
しかし、一番夏休みの待ち遠しいのは、
学生より教員かもしれません。
私は夏休みでも毎日に研究室にでています。
しかし、授業がなくなり、校務も大半なくなるので、
自分のやりたいことを最優先にできます。
野外調査に出ることもできます。
今までやり残していたデータもやっと整理できます。
ですから、教員は学生以上に
夏休みを待ち望んでいるのかもしれませんね。