2007年6月1日金曜日

65 ものづくりの基本:天地材工(2007.06.01)

 産業革命以降、科学と技術の飛躍的な進歩によって、大変便利で快適な生活を送れるようになりました。その半面、自然や環境に大きな影響を与えるようになりました。そのような科学や技術のありようを考えてみました。

 私が担当している大学の実習で、近隣の小学生を集めて、子どもができて、楽しめるイベントを、企画し、実施するというものがあります。イベントでは、科学の原理をつかった実験を2種類することになっています。どのような実験にするのかを、学生全員が案を出して、そのうち4つに候補をしぼりました。実際に4つの実験を試してみて、どれにするかを決めるという手順をとりました。
 それぞれの実験は、本やインターネットで調べたものを参考にして、準備し、おこなうのです。マニュアルどおりにすれば簡単にできそうに見えて、実はなかなか思うようにできません。ダメになった理由を考え、対処しなければなりません。そのような試行錯誤の時、人は、知識や智恵を目いっぱい使っています。そして問題が解決し、実験が成功した時の喜びは、何事にも変えがたいものです。次には、いろいろ工夫をして、よりいいもの、より面白いものを考えていくようになります。
 人は、ものづくりをしている時、一見単調な仕事をしてるいるようにみえるのですが、智恵を使うこと、新しい工夫をしていくことを学んいるのだとわかります。
 そのようなものづくりを通じた一連の学習プロセスは、現代人だけでなく、人がものをつくるということをはじめたときから、生じたことではないでしょうか。つまり、進化してヒトとなった時から、ものづくりと智恵とは密接に関係してきたと考えられます。
 職人、あるいは技術者は、ものづくりの最先端にいる人たちです。彼らは、単に上手にものをつくるだけでなく、よりいいもの、より完成度の高いものを目指して、日夜、努力しているはずです。職人の智恵の結晶ともいうべき言葉があります。「天地材工」というものです。あまり聴きなれない言葉だと思います。
 たて15cm、横15cm、高さ20cmの石に文字の彫りこまれた石印が、中国の福建省から発見されました。その石印には「天地材工」と彫られていました。その石印の横面には、「天有時 地有氣 材有美 工有巧 合此四者 然後 可以 為良」という文が刻まれていました。「天に時有り、地に氣有り、材に美有あり、工に巧有り、此の四者を合せて、然る後に、もって良と為すべし」と読み下せます。
 石に彫られた文は、周禮(しゅらい)の一節をとったものでした。周禮とは、儒家が重視する十三経の一つで、儀礼と礼記と共に三礼の一つとされるものです。周禮は、周王朝時代に書き残したものとされているのですが、実際には戦国時代以降のものと見られています。
 周禮は、官僚制度を記述しています。官職を天・地・春・夏・秋・冬の六官に分け、さらに細分され、合計360の官職について述べているものです。冬官篇はなくなっているのですが、代わりに「考工記」で補われています。その考工記の中に、石印の一節があります。
 石印の文の意味は、次のようなものです。
「天には時(時代や時期、季節)があり、地には気(地域の影響や風土)があり、材料には良好なものがあり、工匠(技術や職人)にはすぐれた技がある。これら4つが合わさったとき、必ずや良いものができるのであろう」
という意味です。
 つまり、天地材工がひとつになったとき、はじめてすぐれたものができるというのです。石印は、職人の心得、あるいは心意気のようなものを彫っていたのではないでしょうか。この考え方は、ものづくりをするときの真髄ではないでしょうか。
 例えば、日本の家屋をみても、地域ごとの特徴のある形式を持っています。それぞれの地で、季節変化や風土に合わせて、職人がその地でとれる最適な素材を用いて、最良の技術を用いて作り上げてきた集大成のはずです。
 ところが、現代の日本の都市、いや世界中の近代都市では、どれも似たようなビルディングになっています。ビルディングの素材は、鉄とコンクリートを主としています。
 かつて日本では、鉄は砂鉄が主たる起源で、産出量はそれほど多くはありません。ですから、鉄は道具のために利用されていました。現在のように大量の鉄が使えるようになったのは、海外の鉄の産地から輸入できるようになったからです。そのためには輸送手段および経済の発達が不可欠です。その背景には科学と技術の発展は不可欠です。
 コンクリートのもとはセメントで、セメントは石灰岩からつくられます。石灰岩は日本にもたくさんある資源です。しかし、石灰岩は、かつては石積みや石材として利用されることはありましたが、加工してセメントにされることはありませんでした。そのためには科学や技術の進歩が不可欠です。
 セメントと鉄によるビルディングは、科学と技術の進歩、そして世界中との交易が活発になったために、可能となったのです。それが全世界で行われるようになったため、都市にはビル群ができるようになったのです。
 現代のコンクリートと鉄の建造物は、天地材工とは、違った思想のもとに造られている気がします。現在の技術とは、世界中を流通する資源を用いて、大型の機械を使ってなされるものです。
 天地材工とは、産業革命以前の農業に基盤を置いた手工業の時代背景の下に生まれています。19世紀前半の産業革命以降、科学や技術が進歩し、効率、経済性、便利さなど追求した結果、量産可能な機械工業が可能となりました。そうなると手工業時代の思想は利用できなくなります。工業時代の新しいものづくりの思想が必要となります。しかし、そのようなものは、まだできていないようです。
 進歩は必要です。技術の粋を集めた建築物は、何年使えるでしょうか、どれくらいもつのでしょうか。法隆寺のように木造でありながら、地震や雨などの湿気に耐えて、1000年以上もつものがあるのでしょうか。ピラミッドや万里の長城のように何千年も残るでしょうか。これらはすべて人力のみによって作り上げられたものです。
 ここで挙げた例は、もちろん例外的なものかもしれません。日本の多くの木造建築は、せいぜい100年しか持たないでしょう。しかし、古来からある日本、あるいは世界各地の住居は、天地材工で作られてきました。
 日本では、100年しかもたない木と紙と土の住居でも、100年すれば、木や紙は植物として復元しています。土は、水の豊かな日本では、土壌として十分形成されます。材料はすべて自然界で循環し復元しています。自然に摂理にかなったものづくりです。これは、天地材工という思想を象徴するものでしょう。
 20世紀後半になって、産業革命以降目指してきた工業化社会が目指す方向性に疑問が生まれてきました。利便性を追求することで生じたいくつも問題が、顕在化しました。人に優しい、本当の豊かさを考えた、環境や自然への負荷に配慮したものづくりが必要だと気づくようないなりました。
 かつての天地材工で象徴されたように、21世紀にふさわしいものづくりの思想転換が必要となったのです。産業革命以降200年間目指してきた科学と技術の集大成として、目指すべきものづくりの思想は、どのようなものでしょうか。
 ビルディングは、工業的に作られて均質な資材、機械、そしてそれを実行する費用があれば、特別な熟練がなくても、天地材工でなくても、どこでも同じ品質で同じ強度のものがつくれます。それが科学や技術のすぐれたところです。職人の手先の技術だけでは、もはや巨大なビルディングはつくれません。大型機械を用い、多くのコストとエネルギーをつぎ込まなければなりません。工業時代の技術は、天地材工という特殊性を排除することを目ざしてきのかもしれません。
 工業時代の是非を問う以前に、結果として現代はそうなっています。これをいまさら否定しては、現代社会はなりたちません。現在の科学や技術は、今までものづくりのためだけに、手順書やマニュアルはつくっていました。しかし、それでは充分でないことに気づいたわけです。
 非常に広範な自然や環境まで配慮した工法を考えるようになりました。そのための知識は増えてきています。知識は蓄積され一方で、要約されることなく、どこを探せはいいのかわからなくなるほどです。
 現代の科学技術の叡智を、天地材工のようなわかりやすい言葉にできないでしょうか。均質な資材、機械、そしてそれを実行する費用によって、同じ品質ものができます。そしてこれに加味して、人間や自然を強く意識したものづくりを目指しつつあります。現代の科学や技術で必要なことは、現代の「天地材工」のような叡智を集約し、ものづうくかかわる多くの人がわかる形にすることではないでしょうか。
 考工記には、上で示した文章の後に「材美工巧 然而不良 則不時 不得地氣也」と続きます。これは、「良質の材料があり、工匠に技があっても、良いものができるとは限らない。時代や適していなかったり、その地の風土があわなかったりするからである」という意味です。
 もしかするとこれは、現代にも当てはまるのではないでしょうか。「時」と「気」とは、時代、季節、風土、気候など、自然や人間と広く解釈して、それらに配慮したものづくりが必要であると読めば、天地材工は今も活きている言葉なのかもしれません。

・6月は・
もう6月です。
北海道はいい季節になってきました。
地元の農作物で路地ものがではじめてきました。
いまはグリーンアスパラがシーズンとなっています。
大学生協の食堂でもアスパラガスを使ったメニューが並んでいます。
北海道は祭りのシーズンとなります。
ヨサコイ祭り、ライラック祭りなどがはじまります。
学校の1年生、新入社員も新しい環境になれて、
落ち着いてきたころかもしれません。
でも、気を抜いてはいけません。
馴れてきたからこそ、充実されていくべきときです。
それを怠ると、進歩は望めません。
これから力を蓄え、実力を付けていく時期です。

・模索の時代・
本エッセイも書いたように
現代のものづくりは、20世紀後半あたりから、
大きな岐路に立っているような気がします。
利潤、快適さ、経済性の追求などの強烈な目的意識から、
人間にとっての本当の価値や豊かさ、
地球や自然全体にとっての総合的な評価などを
深く考えるようになってきました。
どうも人間自身が19世紀から20世紀にかけて
科学と技術を用いて追求してきた価値観が
大きく変化してきているようにみえます。
今はまだ模索の時代です。
19世紀から20世紀へのあまりに急激な変化を振り返り、
もう一度原点に立ち戻る必要があるのかもしれません。
そのものづくりは、なぜ必要なのか、なんのためなのか、
ものづくりによって起こるはずのまわりへの影響を配慮すること、
などなど、昔から人が持っていた心を前面に出して
使うことが必要なのでしょう。
今はその方法を模索をしているのでしょう。