2017年9月1日金曜日

188 規矩不可行尽

 昔の賢者たちは、多くの名言を残しています。その名言は、現在においても十分役立つものも多々あります。「規矩不可行尽」という名言を、現在の社会情勢に適用していくと、どのようなことが見えるでしょうか。

 中国の宋の時代に、法演(ほうえん)(?~1104年)という禅師がいました。法演は、弟子の仏鑑が寺の住職になることが決まった時に、4つの戒(いまし)めを与えました。それを「法演の四戒」と呼んでいます。そのうち3番目が、
 規矩不可行尽 行尽人必之繁
 規矩(きく)行い尽くすべからず
 行い尽くせば人必ずこれを繁(はん)とす
というものです。規矩とは、規則のことです。あまりに規則を厳格に決めて、その通り実行しようとすると、人は息苦しくなってしまいます。また、規則さえ守っていれば、それ以上のことはしなくなります。このようなことを戒めとして、弟子に与えました。
 「法演の四戒」には、今回のエッセイとは関係がないのですが、他の3つは次のものを上げておきましょう。
1 勢不可使尽 使尽禍必至(勢い使い尽くすべからず 尽くせば禍(わざわい)必ず至る)
 勢いにのりすぎると、周囲に災いを生じる。
2 福不可受尽 受尽縁必孤(福受け尽くすべからず 受け尽くせば縁(えん)必ず孤(こ)なり)
 福を受け尽くすと、縁がなくなり孤立する。
4 好語不可説尽 説尽人必之易(好語(こうご)説き尽くすべからず 説き尽くせば人必ずこれを易(あなど)る)
 良いことばかりいっていると、周り人は深く考えなくなったり、感服しなくなる。
 いずれも、どんなに良いものであっても、度が過ぎると良くないということです。まさに「過ぎたるは猶及ばざるが如し」でしょうか。こちらの言葉は、孔子が弟子の師(子張)と商(子夏)の二人を比較して言った言葉で、中庸がいいという考えを示したものでした。
 さて、話題は変わります。
 近年、メディアの放送姿勢に対して、報道内容が偏っていることを指摘する声もあります。一方、権力側の報道規制や、メディア内での報道倫理などの規制も厳しくなって、報道の自由が束縛されているような状況を危惧する論調もあります。規制が進んでいくと、是々非々両面が生まれていきます。たしかに一昔前の自由な番組作りは、乱暴で一部の人や組織を根拠もなく批判したり、良識を欠くようなこともあったので、規制して抑制することは多くの人が納得するでしょう。
 規制が行き過ぎて、不自由になっていくのは問題です。現在の状況は、不自由で「統制」されているような気がするのは、私だけでしょうか。このようなメディアが置かれている状況は、もしかすると氷山の一角かもしれません。
 あちこちの分野や場面で、自由が制限されているように見えます。自由の規制が問題というより、規制が優先されたいる事態が長期化することにより、規制の中でしか発想することができなくなり、自由だけでなく、独創性、創造性も奪われているのではないかと危惧しています。
 例えば、研究において、起こっているように見えます。本来好奇心によって、自由にテーマを選んで、研究を進めていくのが理想です。でも、それは昔の話になったのでしょうか。かつて、研究者の中には、研究も教育もいい加減にしか行っていない人もいました。私もそのような大学教員を何人か見てきました。なんとかならないかと思っていました。
 そのような教員を反面教師にして、研究者たるもの、成果や業績を出すべきもの、と強く望まれくるようになりました。ここまで良いでしょう。しかし、本来優先すべき好奇心よりも、業績、論文になるものを優先して研究することが多くなっていきているようです。論文を量産することが、研究者のステイタスとなってきています。論文の数だけではだめで、引用数や重要度などを重視する風潮が強くでてきました。本当に現在重要な論文だけが、人類にとって有用な資産なのでしょうか。もっと長い目で、研究成果を蓄積するという視座はとれないでしょうか。
 業績を出している人は、少なくとも数の上での自己満足を得られます。しかし、研究が本人の好奇心に基づいて行われずに、成果を出すことのためにおこなわれているのは主客転倒です。研究者が、業績のために自分の心身を馬車馬の如く酷使して、走り続けさせているような状況になっていないでしょうか。走り続けている研究者は、マグロのように止まれば息絶えるという脅迫概念にの襲われながら、業績のために研究に明け暮れているということはないでしょうか。本当にその研究は、自分のすべきこと、自分が望んでいるものでしょうか。一度立ち止まって、研究者としての自分の来し方、行く末に思いを巡らしてはどうでしょうか。
 メディアは、研究の成果に対して、「それはどんな役に立つのでしょうか」と聞いてきます。それは、研究者が考える必要もあるのでしょうが、その成果を社会がどう利用するのかを考えるのは、市民と研究者をつなぐ、メディアが果たすべき役割ではないでしょうか。メディアももっと見識をもって研究を見ていく必要があるでしょう。そして、研究成果が社会にとって危険なものであれば、抑止する機能も持つべきでしょう。これは、政治や権力に対する抑止力と同じ構図でしょう。
 研究の分野を例に見てきましたが、いろいろな場面で、暗黙、あるいは明瞭な圧力、世論などで、規制が生まれてきています。その規制が、「良識」の範囲でなされ、健全なレベルであればいいのです。ただ、その「良識」は、人それぞれで違っています。どのあたりを規制のラインとするのかの兼ね合いが難しいところです。まして、「良識」という名のもとに、前例や「より良く」ということで、実質的に規制を強めていくのは、良識のないやり方ではないでしょうか。
 まさに「規矩不可行尽 行尽人必之繁」、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。
 規制には、悪い方向に進まない、多くの人に災いをもたらさないという視点が色濃くあります。そのようなマイナスを生まないという考えも必要ですが、規制を受ける側に不自由を強いるようでは、これも主客転倒です。好奇心を満たし、純粋な研究目的を達成し、創造性を生む方向に進むことが望ましいはずです。規制をするには、本当の良識が必要です。でも、本当の良識があれば、規制などいらないのかもしれませんが。

・賢者・
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉は、
「論語」の「先進」の項にあるものです。
孔子の弟子である子貢が、他の二人の弟子である
師と商について、どちらが優れているかを問われた時の答えです。
師は「過ぎたり」、商は「及ばず」と評価しました。
子貢は、それなら師が勝っているのですねと尋ねると、
孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と答えました。
これは、やり過ぎも及ばずと同じということです。
昔の賢者は、短いやり取りで核心をついていますね。

・秋めいて・
9月になりました。
北海道は、お盆前後から、
一気にぶ涼しくなってきました。
8月下旬になるとさらに秋めいてきました。
夜は窓を閉め、タオルケットでは寒いので
薄い掛け布団に変えました。
暑いより、涼しいのは助かるのですが、
大学が休みのうちに
調査や研究を進めなければならないのですが、
野外調査は日程を入れれば、出ることになりますが、
研究の方が、校務に追われて滞っています。

2017年8月1日火曜日

187 AIとの付き合い方

 近年のAIの進歩は著しく人の楽しみの世界へも侵入してきました。AIとどう付き合っていくかは、人の問題です。AIを否定するという方法もあるかもしれませんが、うまく付き合っていくことが、今後は必要でしょうね。

 将棋の世界では、藤井聡太四段の連勝がニュースになり、その行動が細々と報道されました。少々加熱にしすぎに見えます。一方、電王戦というものもその頃おこなわれていました。
 電王戦とは、コンピュータの将棋ソフトとプロ棋士の対戦です。将棋電王トーナメントというコンピュータの将棋ソフト同士の対戦による勝者と、叡王戦というプロ棋士の優勝した叡王です。叡王戦は全棋士参加棋の対戦で、正式なタイトル戦となっています。つまり、最強のプロ棋士という称号を持った人を選ぶことになります。
 2016年はソフトがponanzaで山崎隆之叡王(八段)が対戦しました。この対戦は先手後手を入れ替える二番勝負でした。2016年はponanzaが2連勝しました。2017年はソフトがponanzaで、プロ棋士は佐藤天彦叡王(名人)でした。この対戦でも、やはりponanzaが2連勝しました。また、他の将棋のタイトルホルダーとの公式な戦いは行っていません。たとえは羽生名人などとの公式対戦はまだありません。ですから、どちらが最強かの結論はまだ出ていません。将棋では、まだ完全な結論は出ていないのですが、多分近いうちに人間を越えていくでしょう。
 現代の情報科学は、一段と進歩が著しく見えます。中でも、ビックデータとデープラーニング(deep learning)などの手法を取り入れて、コンピュータ自身が試行錯誤で学んでいくAI(Artificial Intelligence)の進歩が話題になっています。AIがチェスと囲碁の世界では人を越えました。
 人の進歩のスピードには、生物として勝負にかけられる時間や、肉体的、精神的努力には限りがあります。また、人が脳を働かせている時間やスピードにも限界があり、疲れたり時間に追われるとミスもしていまうからです。ところがAIには、疲れるもなく、装置やソフトも日進月歩で進歩し、それを休みなく働かせることができ、ミスもしません。
 AIは、記録が残されている多数の対戦を短時間にすべて学ぶことができます。それらを学び終えて、もし足りないとすれば、AI同士の対戦をこなうことが可能です。そして対戦事例を指数関数的に増やすことも可能です。自身に学んでいくことができます。AIはゲームでは非常に強くなります。ですから、AIを人の訓練に用いるには打ってつけでしょう。
 AIが自学自習で学んたことには、人が知っていることも、もちろんあるでしょう。しかし重要なのは、AIの出す答えの中には、人が考えもしない、本当かなと思えるようなものもあることです。そのような予想外の考えや結論は、もしかしたら宝の山かもしれません。
 囲碁や将棋などAI対戦で、プロ棋士が今まで考えてもいない手を打つことがあることがわかってきました。その結論に至る理由や道筋は、まだわからないのですが、その手が、結果としてそれがいいことが、次々とわかってきました。そんなAIが予想外の答えを出す例が、多々でてきました。
 AIの予想外の結論で、もし有用なものがあれば、利用すれば役立つ場面もあるはずです。囲碁や将棋の手もそうですが、CT画像を用いたガンの早期発見などは、人の社会ですぐにも利用できる例でないでしょうか。
 ゲームという人が楽しむ世界にAIを導入すると、良き友人、相手として、自分にあったレベルの相手になってくれて楽しむことできるでしょう。しかし、AIの導入で身近な人の楽しみに対する考え方が変化するかもしれません。AIの将棋が、すべての一流のプロ棋士に勝って、最強になったとしましょう。囲碁や将棋を他の人と対戦して楽しむ人にとっては、ゲームとしての楽しさはそのまま維持できるでしょう。最強が人のプロ棋士からAIに変わっただけですから。
 競争意識と導入すると、すでに最強のAIが存在するという事実を抜きに、その競争を楽しむことができるかという問題です。たとえ人対人の対戦であっても、観戦を楽しむ人がどれくらい残るでしょうか。指した手の良し悪しを解説をするプロの存在は必要でしょうか。AIの答えを見たほうが優劣が明瞭でしょう。AIの将棋が強くなってきたことで、タイトル戦の楽しみ方が、今後の大きな課題になるでしょう。
 予想外の結論が、有用かどうかわからないようなもの、有用かもしれないがその対処が予想外の場合など、実施は慎重にならなければなりません。今まで人しか判断してこなかった政策判断や人物評価などに導入するのは、注意が必要です。因果関係などがはっきりしていないことへの導入も、注意が必要なります。
 もし、その関係にカオスなどの複雑系が存在していると、初期条件の小さな違いによって、結論が大き変わってくることがあります。またフラクタルのような構造があると、一見簡単な規則に思えるのですが、似て非なる類似が発生しているだけで、本当に起こるという保証もありまでん。
 人の行動が絡むと、さらにややこしくなります。AIの判断であるという付帯条件がつくと、ある人は完全に信用するかもれしれません。ある人はひねくれて想定外の行動、思考をすることもあるかもしれません。そんなとき、AIの想定した結論になるとは、限りません。もしかすると、そのような変化する条件をAIに入れてやると、次々と結論が変化することがあるかもしれません。
 AIの予想外の結論は、よく考えて取り入れなければなりません。チェスはIBM社が開発をしていました。囲碁をソフトを開発したGoolgeでした。いずれもその時代のIT化関係の巨人が人と費用をかけて開発してきました。Goolgeは、囲碁で人に勝ったことから目的を達成したとして、今後のその分野での開発を止めました。一方、将棋ソフルは市民が開発を進めてきました。これは、日本の特徴でしょうか。趣味を突きつめていくという方向性は、日本の国民性に合っているのでしょうか。日本の将棋ソフトのように集合知による開発は、今後の技術の世界で重要な考え方かもしれません。ただ、ひたすら目的のために手段だけを進めていくと、群衆心理が働き、過激な方向、行動へとなることもあるので注意が必要です。
 AIの将来を考えると人に危険性があるから、AIの開発を止めるという選択もあるかもしれません。Googleのような目的意識をしっかり定めて、終わりどきを見極めることも必要でしょう。AIは失敗した時の責任をとれないので、採用した人の責任になります。またAIの対処を採用することで、絶対的な信頼感が生じると、人の思考力が鈍っていくこと、思考停止が起こるのではないかという不安もあります。
 AIは有用です。これからもまだまだ進歩していくはずです。人はAIは、どのような付き合いをすればいいかを考えていく必要がでてきました。AIもやはり道具として捉えるべきでしょうか。あまりにも便利すぎる道具とのその付き合い方には、注意が必要です。気をつけないと、AIに使われていることがありそうですね。

・人の知恵・
もうご存しでしょうが、AIは人工知能とも呼ばれ、
「アイ」ではなく「エーアイ」と読みます。
かつては、AIはあまり使いものになりませんでした。
インターネットの発達、IT化、デジタル化により
良質のビックデータを入手することが可能になりました。
コンピュータの処理能力や並列処理などの技術も
格段に進歩してきました。
その結果、ビックデータの大量の処理処理も可能になりました。
それらを背景にして、デープラーニング、
深層学習という手法がでてきました。
AIの進歩は止められないでしょう。
AIとの付き合い方、AIの先のことを考えるという
人の知恵が重要となることでしょう。

・夏休み・
8月は北海道も暑いですが、
ここ数日は天候が悪く、蒸し暑い日が続いています。
大学は、定期試験の真っ最中です。
私が大学生のことは、7月下旬が夏休みで
9月に前期の残りがあり、テストもそのあとにありました。
しかし、最近は、夏休み前にすべて終わらせるために、
一番暑いときに、試験となっています。
教員はその後に採点、評価をします。
夏休みとは、なんのためだったのでしょうかね。

2017年7月1日土曜日

186 サイクロプス:神話の根拠

 架空の話と思われているものにも、世界各地に似た話があります。少々不思議な気がします。もしかすると、そこには何らかの事実に基づいた、根拠があるかもしれません。

 ギリシア神話に卓越した鍛冶技術をもつキュクロプス(Cyclops)がいるのですが、英語読みはサイクロプスとなり、日本でも英語読みの発音が知られています。ここでも、サイクロプスを用いましょう。
 サイクロプスは、ギリシア神話に登場する巨人です。神話によると、天空の神であるウラノスを父として、大地の神であるガイアを母にして、二人の間に3人の男の子がいましょうた。その3兄弟の一人としてサイクロプスがいました。兄弟は父に嫌われ、奈落に落とされました。その後、弟の一族であるクロノスが権力をにぎったのですが、奈落から出されませんでした。
 サイクロプスは、奈落で鍛冶屋として働いていたのですが、ゼウスらの時代になり開放されました。そのお礼として、ゼウスには雷霆(らいてい、激しい雷のこと)を、ポセイドーンには三叉の銛(もり)を、ハーデースには隠れ兜(かぶると姿が見えなくなる)を送ったとされます。その後も、サイクロプスは鍛冶業を続けたといわれています。
 サイクロプスは、巨人であるだけでなく、一つ目という特徴もあります。一つ目の巨人という非常に奇異な容姿を神話として作りだす昔の人の空想の力にはすごさものがあります。他にもサイクロプスだけでなく、いろいろ変わった姿の神や怪物などもいるので、空想が豊かだったのでしょう。
 サイクロプスですが、不思議な類似が、日本の神にも見られます。製鉄と鍛冶の神として、日本の神話にも、アメノマヒトツノカミ(天目一箇神)とアマツマラ(天津麻羅)がいるのですが、両者とも一つ目です。また、ダイダラボッチという大入道も、一つ目とされることがあるそうです。
 神話ですから、現実と関連がある必然性はありません。神話ですから、架空の話にすぎないはずです。でも、別の国に似たような異形の神がいるのは、偶然にしては不思議です。本当にその空想は偶然の一致でしょうか。
 もし、そのような神を思い浮かべるような何かの「キッカケ」があり、そしてその「キッカケ」が、あちこちにあるとすれば、それは単に架空ではなく、実在のものに起因することになるかもしれません。
 サイクロプスはさておき、動物の頭骨(頭蓋骨)に話題を変えます。
 専門的な話は抜きで、単純化して考えましょう。動物とはいっても多様ですから、哺乳類にしましょう。頭蓋骨は、いくつかの骨からできています。まず下顎の骨が分かれます。上顎側も、いくつかの骨からできていますが、多くが縫合線でくっついています。
 下顎と上顎の間が口に当たります。口は、頭蓋骨に空いた穴となります。他にも、頭蓋骨にはいくつかの穴があります。解剖学的には、多数の穴があるのですが、わかりやすいものとしては、目(眼窩、がんか)と鼻(鼻腔)、耳(内耳孔)の穴です。これらの穴の形や位置が、頭蓋骨の大きな特徴となり、生物種ごとの違いとなります。
 頭蓋骨の穴の位置やサイズが違っていると、目や鼻などを見誤ることもあるかもしれません。例えば、ゾウの頭蓋骨では、目が横に小さくついています。その代わり、目に当たる位置には、長いハナを支えるために大きな穴(鼻腔)がひとつ空いています。ゾウの頭蓋骨をはじめて見た人は、大きな目がひとつしかない生物のように見えたはずです。もちろんゾウですから、頭蓋骨のサイズは巨大になります。
 解剖学の知識のない人にとって、ゾウの頭骨の化石を発見したら、その骨から、どのような生物を想像するでしょうか。もちろんゾウの存在は知らないとします。見たことのない大きな頭蓋骨で、目の位置に大きな穴がひとつあいているだけの生物を思い浮かべます。それを、一つ目の巨人の頭蓋骨に見誤っても、仕方がないでしょう。
 実は、サイクロプスがゾウの頭蓋骨化石に由来するのではなかという説があります。もし、この説が本当なら、サイクロプスの神話に信憑性が生じることになります。
 単眼巨人のサイクロプス像が、ロンドン自然史博物館に展示されています。博物館のエントランスの一つにモニュメントとして飾られています。もちろん神話の一つ目の巨神ですから架空の姿です。なぜ、自然史博物館に神話の像が飾られているのか。実は、象徴的なモニュメントは、サイクロプスがゾウの頭蓋骨化石に由来するという人類の歴史を示しているのです。
 ゾウの頭蓋骨化石からサイクロプスへという考えを、一般化していけば、神話や伝説での、異形の神や怪物などは、単に架空ではなく、根拠があったのではないかと考えられます。巨神は、大型動物の化石に由来するのではないか。小人伝説は小さな動物化石から生まれたのではないか。未知の動物化石から怪物伝説が生まれたのか。そのような化石が見つかる地域では、似た異形の神が想像されるのではないでしょうか。
 次のステップとして、異形の神や怪物が、どのような生物の化石に対応していくのかを考えていくことになるのでしょうか。それは神話や化石の専門家におまかせしましょうか。

・西高東低・
ギリシア神話は、西洋においては基礎知識になるでしょう。
西洋の文献を読もうすると
神話の内容を前提にした話題も多々あります。
ですから教養として東洋人にとっても
ギリシア神話は基礎知識なります。
一方、東洋の文献では、
四書五経や古事記、日本書記の内容は
基礎知識として必要になるものも多くあります。
学校の授業では一部ですが、学んでいます。
では、西洋人にとって東洋の古典や神話は
基礎知識といえるのでしょうか。
東洋の文献を読む人には必要でしょうが、
それ以外に一般人には、
あまり必要ではないのでしょうか。
知識は西高東低になっているのでしょうか。

・時の過ぎゆくままに・
7月です。
今年も半分終わりました。
同じ言葉をあちこちで聞けます。
多分多くの人が、
時間の流れが速いとを思っているので
そんな感想がでるのでしょう。
私も例外ではなく、時の流れを速く感じています。
多忙なほど時間が速くなっていくようです。
時間を意識できないような日々を送っていると、
ふと振り返った時に、
過ぎた時間の長さに思い至るのでしょうか。

2017年6月1日木曜日

185 ディープラーニングは君のスピードで

 コンピュータの進歩は、とどまることを知りません。その進歩にはいくつかブレークスルーがありました。ディープラーニングはその一つになります。でもそのスピードは、立ち止まって考える必要がありそうです。

 コンピュータの性能の向上により、今までできなかったことが、コンピュータによって楽にできるようになりました。さらに、人にもともとある能力の記憶力、計算力、検索力などは、コンピュータが圧倒的に凌駕してしまいました。思考力や想像力など、人固有の能力と思われてきたものも、コンピュータが越えていくかもしれません。
 実は人固有の能力とは、今まではアルゴリズムやプログラムにすることができないため、コンピュータに行わせることができなかっただけではないでしょうか。そこを突破するために、AIやディープラーニングなど手法が開発されてきました。
 AI(artificial intelligence)は人工知能のことで、コンピュータが人と同じような知能を持てるようにする技術です。昔からSFでは「2001年宇宙の旅」のHALなどで、人を越えるほどの能力をもったコンピュータがありました。しかし、なかなか現実には出現してきませんでした。
 20世紀末にはSFではなく、現実化したことありました。チェスでのコンピュータとの対戦でした。当時、チェスのチャンピオンであるガルリ・カスパロフと、IBN社のチェス専用のコンピュータ(ディープ・ブルー)が対戦しました。1996年2月に3勝1敗2引き分けでカスパロフが勝っています。ところが1997年5月に再度対戦して、ディープ・ブルーで2勝敗3引き分けでカスパロフに勝っています。
 このときデープ・ブルーは、次の手を次々と考えていきよりより一手を見出すという手法で、コンピュータの得意とするやり方でした。これは、AIではなく、ひたすら計算していくというもので、コンピュータの性能が実力を示すことになります。いつかわわかりませんが、コンピュータが人を超える可能性は想像できます。でも、比較的ルールが簡単なチェスなので、実現できたのでしょう。
 ところが、碁や将棋はルールなかなか複雑で、次々と手を考えていく方法では可能性が多くなりすぎて、かなり困難でした。ところが、近年、AIのひとつとして、ディープラーニング(deep learning、日本語訳深層学習)という手法がでてきました。その結果コンピュータは、人の知能の迫ることになってきました。
 ディープラーニングとは、視覚的にものごとを捉えいく方法です。人が視覚情報をどう処理するのかということを研究から、入ってきたデータは脳内で別のところに転送されるうちに、各場所(層と呼ばれる)で学習がおこなわれ、データの「特徴量」が抽出されていきます。この特徴量を、今までは人が手動で設定していたものを、コンピュータにかってにおこなわせるようにしました。特徴量とは、データを特徴づける変数、ゲームの場合は有利になる局面などとなります。この特徴量をコンピュータが発見すれば、ゲームに有利に導く次の一手が考えられます。この特徴量を、過去の対戦をひたすら見せて「学習」あるいは「自習」することで、コンピュータ自身が勝つ方法を考えていくという手法です。
 ディープラーニングでは、過去の対戦を、コンピュータならではの超高速で休むことなく、ひたすら学習し続けることができます。データさえ提供をすれば、コンピュータ自身が勝手に強くなっていくのです。その上達スピードは驚異的なものです。
 Googleの子会社のGoogle DeepMind社が開発した「アルファ碁(AlphaGo)」は、ディープラーニングによって、囲碁を学習しました。そして2016年3月には、アルファ碁はチャンピオンのイ・セドルと対局し、4勝1敗した。このアルファ碁は、インターネット対局場で公開されました。すると、匿名で数人のトップレベルのプロ棋士とされる人たちが参加し、早碁(1手60秒未満でさす)では、アルファ碁が60戦全勝をしたそうだと話題になりました。日本でも、世界最強の囲碁AIを目指そうそうとする「DeepZenGo」ができ、現在力をつけているようで、人のトッププロのレベルに達しています。
 将棋の世界でも、もともとプロ棋士のトップレベルにいたponanzaというソフトがありました。2017年に「Chainer」というディープラーニングの仕組みを導入して「Ponanza Chainer」に進化しました。このソフトとの対戦は、今年行われるはずですが、多分以前よりかなり強くなっているでしょう。
 今まで人しか達しない複雑なゲームの世界に、まったく新しいディープラーニングという学習手法をもったコンピュータが導入されました。これは革命といえます。人しかできなかった思考や、熟練者がカンや無意識におこなわれていた技法が、コンピュータによってできるようになり、よりよいものへとなっていくかもしれません。
 いったんディープラーニングのような手法が見つかれれば、これはあらゆる場面での導入がはじまるはずです。もしかすると音楽や映像など感性に依存したものも、多くの人が共感できるもの(ヒット曲、売れる商品)などをも見つけてしまうことができ、人の出る幕がなくなるかもしれません。もちろんAIは、有効利用すれば、人にとって大きな恩恵をもたらすはずです。
 でも少し落ち着いて考えると、人の頭や心が追いつけない状況が、今、出現しはじめているのではないでしょうか。コンピュータの性能や機能がすごいスピードで進んだため、社会にコンピュータが広く普及して、多くの人が恩恵を受けました。しかし、今回の進歩は、能力や知性にかかわるものです。コンピュータの能力や知性があまりに早いスピードで進むと、人がついていけない状況が起こっていくるのではないでしょうか。もしかするとゲームの世界ですが、起こりつつあるように見えます。
 科学や技術の進歩が著しすぎることは、もしかすると人の感情や倫理、感情、知性などにおける危機が起こっているのでないでしょうか。ゲームの必勝法をコンピュータがすでに持っていると知ったら、人はそのゲームを面白いと思えるでしょうか。あるいは、そのゲームの世界にプロなどが存在できるのでしょうか。
 すべてのものごとに、白黒の決着ついている世界は、つまらないものになりそうです。思いもよらないこと、予想外、そこにはもっと別の世界が広がっている可能性を考えることもできなくなります。その世界には、福も災いも混在しているでしょう。紆余曲折、試行錯誤、いろいろあるから、人生が面白いのではないでしょうか。
 一方、科学の世界でも、研究者は業績や成果に追われ、科学の進歩のみを考え、その行く末を考える余裕がなくなってきています。そのためには、自分にあったスピードで歩き、考えることも必要でしょう。これ以上は人智を越えるからという理由で、開発や研究をストップするという選択も必要なのではないでしょうか。
 私たちの世代で、吉田拓郎はカリスマでした。彼の音楽からは、多大な影響を受けました。吉田拓郎の「君のスピードで」という歌があります。
  僕にはけしてないものを
  君が持っている
  生まれかわる事は
  出来ないから
  すべてをひとつにしなくていい
  君の好きなスピードで
  僕のテンポで
心にしみます。
 人の理性や倫理観が伴うスピードで、社会の進歩をコントロールして進めることも必要ではないでしょうか。

・人類の終焉・
BBCのインタビューに対して、
スティーブン・ホーキングは
「完全な人工知能を開発できたら、
それは人類の終焉を意味するかもしれない」
と答えたそうです。
私も、同感です。
人工知能の開発や思考領域をどこまでに設定するか
重要な課題だと思います。
いつまでもコンピュータにできない領域があるはず、
あるいは人がコントロールできる、
などという前提は、幻想かもしれません。

・ブレークスルー・
コンピュータの進歩には、いくつもの
ブレークスルー(breakthrough、飛躍)がありました。
真空管から半導体へ、半導体からICやLSIへ。
これらのブレークスルーによって
コンピュータの集積度と処理速度の飛躍的に向上しました。
おかげでだれもがコンピュータを身近に持って、
利用できる時代になりました。
ディープラーニングもブレークスルーのひとつです。
ビックデータもブレークスルーのきっかけなると思いますが
まだ十分活用できていません。
しかし、ビックデータとディープラーニングが合体すれば、
もしかすると、別の世界が生まれるかもしれません。
それは良い世界でしょうか、それとも、・・・・

・テーマを変更・
予定していた次回のテーマを変更しました。
申し訳ありませんでした。
そのうちにお送りします。

2017年5月1日月曜日

184 ネットと紙での検索

 インターネットの普及した現代、大量の情報にアクセスできるようになり、非常に手軽に調べものができるようになりました。ネット検索は現代社会において不可欠のツールとなってきました。でもその便利さの陰で、失われていくものもあるのではないでしょうか。

 少し前、ある術語を調べようとしました。元となったよく知っている科学哲学の術語と同じ意味の言葉の正確な意味を調べようとしました。その言葉をインターネットで検索してみると、今では生物学でよく使われているようで、生物学での意味ばかりがでてきます。見ると、かなり詳しい説明もあり、それはそれで面白く、同じ言葉でも、そんな使われ方をしているのだと感心しました。
 しかし肝心の私が探そうと思っていた知識になかなかたどり着きませんでした。まあ急ぐわけでも、すぐに必要でもなかったので、調べるのをいったん諦めました。
 でも欲しかった答えが見つからないで、少々気になったままで終わりました。そのためでしょうか、時々頭にその言葉が浮かぶことがありました。ある時、その言葉に関連した別のキーワードが思いついて、それで調べたら、見つけたい分野での意味が出てきました。この言葉は、本エッセイで別の機会のテーマとする予定ですので、お楽しみに。
 ここで述べたかったのは、検索という行為の持つ意味についてです。
 私の息子たちは、ネット時代に育ってきた人間なので、スマートフォーン(スマホ)をいつも手元においています。自宅でテレビを見ているときも、興味をもったこと、知らないことがあると、ささっと検索して、その疑問を簡単にその場で解消していきます。これは人類が思い描いていた理想の時代となってきたのではないでしょうか。
 私には、なかなかそこまでスマホを使いこなすことができません。まずは、面倒だと思ってしまいます。スマホもタブレットも持っているのですが、なかなか調べようという気になりません。調べだすと、テレビのほうがおろそかになっていきます。「ながら」がなかなかできない性なのです。
 現代人、特にネット社会に馴染んでいる若者たちは、何かに興味を持つと、それに関する情報をすぐに手に入れることができます。ネットで検索すれば、即座に興味を持ったことに対して、答えを得られます。ネットによる検索は、非常に便利で役に立つものです。
 ネットで得た知識は、その場の疑問を解消されるためでしょうか、すぐに忘れてしまうことが多いのではないでしょうか。もちろん、記憶のいい人は、興味を持った情報を憶えていて、自分の教養として身につけていくことでしょう。私や息子たちは、すぐに忘れてしまいます。なかなかネットで得た知識は身につかないようです。
 ネットがなかった頃は、紙媒体である辞書、百科事典、図鑑などで調べました。これれの書物は、自宅で手元にあれば、比較的簡単に調べることできます。それでも、重い辞書を持ち運び、ページを繰るという行動をしなければなりませんでした。もし、その項目内に知らない言葉あれば、再度ページを繰って検索するという行為が必要になります。今のように文章内のリンクをクリックするだけで、次の答えがでるという便利さはありませんでした。
 欲しい情報が手元の辞書になければ、図書館などで関連した本、時には専門書や論文をあたることになります。これは図書館まで出かけて、本を調べたり、司書を通じて文献に当たるなど、大変面倒な手続きを経ていくことになります。
 かつては、欲しい情報を、いつでもどこでも手軽に入手できることが、理想の未来として思い描いていました。今や、その時代となりました。調べたいことが、重たい何種類もの辞書や図鑑を当たることなく、日本中、世界中の知識が、玉石混交ですが、即座に手に入るようになりました。そんな知りたいことが簡単に調べられる夢に描いていた時代が来たのです。今時の学生で、紙の辞書を持つ人は見かけません。すべて電子辞書になっています。
 手軽に膨大な情報にアクセスできる時代になりましたが、本当にこれが理想の時代とえるのでしょうか。
 パソコンを使う人は、ワープロなしに、文章の作成は非常に煩わしく思うようになりました。その結果、手で漢字や熟語を書くことができなくなりました。電卓で複雑な計算もあっという間に、間違いなく答えを出せるようになりました。しかし、暗算ができなくなりました。このようなことと同じく、簡単に検索できることで、何かできなくなってしまったことがあるではないでしょうか。
 今と昔の情報検索の状況をみていくと、明らかに違いあります。検索にいくつもの手順や手間、行動を伴うのか、検索にどれくらいの時間がかかるのか、何処かに出かけてまで欲しい情報なのか、検索行動にストップするような心の隙間があるのか、などという違いあるように思えます。
 それらの違いの中に、なくしてしまったものがあるのではないでしょうか。
 検索でも、パソコンなら立ち上げてからなどの手間は必要かもしれませんが、スマホやタブレットがあれば、非常に手軽に調べられるという環境があります。この手軽さが、せっかく得た知識が身につきにくくしているのではないでしょうか。
 その知識を得るまで、手間暇かけてたどり着くという大変さ、そこまでして手に入れたい知識であること、という選別を受けるので、記憶として定着していくのではないでしょうか。そしてなによりも、その知識を追い求めながら、関係したものごと、よしなしごとを考えているはずです。探求の方法自体も考えているはずです。手に入れることが難しい資料かもしれません、あるかどうかも不明です、あてどもなく探しつづけていくかもしれません。でも、考えるというプロセスが私が別のキーワードを思いつかせたように、記憶に定着できるように知識の価値を高めていくのではないでしょうか。
 検索の「検」は、「多くの物や人を引き締めて、まとめること。わくをはずれないよう取り締まる」ことが原意です。「索」は、「ひもをたぐって中の物を引き出すように、手づるによってさがしもとめる」という意味です。検索とは、漠然とした知りたいことを、枠を決めながら、ある程度まとまったものにして、まとめたひもをたぐっていき、欲しいものを見つけていく行為となります。
 手間ひまをかけて調べていくことが、検索の本来の意味にそぐうものなのです。簡単な検索には、ひもでまとめられたものも小さくなり、得られることも小さくなるのかもしれません。人が強く欲して求め続けると、検索の答えにも貴重さが生まれ、価値もでてくるのでしょう。
 でも、多くの人が待ち望んだ、今のネット検索の便利さを捨てることにはならないでしょう。しかし、その陰で失われていくものもあります。失うものが出来る限り少なくなるように、時にはネットに流れていない情報の検索も必要かもしれませんね。

・紙媒体・
ゴールデンウィークの間の平日です。
私は野外調査にでています。
野外調査のための情報は、
書籍が5冊分から得ています。
内専門書が2冊あります。
多分、こらの情報の一部、あるいは全部が
ネットに公開されているかもしれません。
それは仕方がないことでしょう。
最新情報は、印刷物や書籍より
早くネットに公開されることも多くなりました。
それに専門情報の最たる学会誌も
デジタル化の波が進んでいるのですから。
これは時流としてしかたがないことなのしれません。
紙媒体でした大家だったものが読めないのは
ノスタルジーにすぎないのでしょうかね。

・サクラ・
北海道は桜の季節を迎えました。
しかし、私は、調査で山陰にいます。
もちろん山陰は桜はとっくに終わっているはずです。
5日には帰る予定ですが、
もしかすると、まだ桜をみることができるかもしれません。
実は、1月末に大分に行ったとき、
ヒカンザクラの咲いているのを見たことがありました。
咲き始めて多くはなかったのですが、
一足早い春を少しだけ味わいあじわいました。
まあ、これも巡り合わせでしょうね。

2017年4月1日土曜日

183 不如楽之者:活きた知識を得る

 インターネットには知識があふれています。知りたいことに対して、とりあえずの答えを、簡単に得ることができるようになりました。ありがたいことですが、活きた知識にするのには、それなりの工夫が必要でしょう。

 多くの人は、新しいことを知った時に喜びを見出します。特に予想外の知識や、思いもよらぬ知識を得ると、ワクワクして誰かに伝えたくなります。知った喜びを、伝えたい、分かちあいたいという気持ちが湧いてくるためでしょう。知識によって心が刺激され、知識の共有、伝播、コミュニケーションへと心が向かっていくのでしょう。知識を身につけるとは、得(え)も言われぬ快感があるようです。
 情報が流通していない時代には、知識とは、何らかの疑問を解くために、苦労の末、得たものでした。あるいは、誰かがもっている知識に至るまでには、努力や時間を手間暇をかければなりませんでした。そんな時代では、知識とは、一個人、もしくは限られた地域やグループだけで共有してきたものでした。
 文字の発明や本としての記述、印刷などの技術革新により、一人の人間が手にできる知識量は、膨大に増えていきました。ただし、特別な知識は、一部の職能集団や親族だけが、伝承していって、他の人には知らせませんでした。重要な知識は、秘密にして守るべきものでした。流通していたとしても、かつては高価な本を購入できる一部の恵まれた人、その本を読める能力、立場の人だけが、蓄積された知識を手に入れることができました。知識が力となりえ時代だったのです。
 いつの時代であっても、ひとりの人間が生み出せる知識の量は、そうそう増えるわけではありません。時代に進歩によって、多くの知識を流通させる条件は整って、共有する人や組織、コミュニティが広がっていくと、知識の量が爆発的に増えていきます。知識が増えてきたら、それを共有するため、得るために、基礎的な素養が必要になります。そのような素養を身につけるためには、訓練や教育が必要になります。
 かつては、それらの基礎訓練は、辛く理不尽なものも多かったのです。小さな子どもにひたすら素読をさせ、今はわからなくても、将来わかるはずだ、となんの根拠も検証もない方法で教えたこともありました。また、教えるのではなく、技術は見て盗み取れというような、伝承をする気もない方法もありました。人材を養成していくため、教えるための方法も、教育学として進んでくると、より効率的な知識の伝達方法が取り入れられました。
 子どもはものを覚えるのは早いのですが、理解ができる内容は、年齢に応じた脳の発達状況によって違ってきます。子どもや人の発達を理解して、発達段階に応じた手法を用いて教育する必要性もわかってきました。
 膨大な知識をひたすら博物誌的に羅列して示しました。量が質を生むと考えていまし。系統性を持たない、体系化がなされていない知識をひたすら与えたこともありました。このようなバラバラの知識は、なかなか活用できませんでした。しかし、知識の体系化がなされてくると、その体系を学ぶことにより、おのおのの知識の位置づけが理解でき、知識の吸収がしやすくなります。
 今では、学校での教育は非常に工夫を凝らされた体系だったものになってきました。ですから、義務教育として与えられる教育は、子どもでも効率よく、そして楽しみながら学ぶことができるようになってきました。
 年齢が上がるとともに、人ぞれぞれの嗜好が生まれ、望む知識体系も異なってきます。学ぶ側にとっては、一般的な学校教育では、必要と感じない知識も含まれています。しかし教育する側では、より広い教養と専門性が必要と考え、複雑な知識の体系を伝えようとします。現代の高度な技術や複雑な社会を生きていくためには、そのような体系が必要だと考えられているからです。高校から大学での学びが、これに相当するのでしょう。
 このとき生じるミスマッチが、学ぶ意欲の低下などにつながっているのかもしれません。同じ知識を得るにしても、好奇心や自発性がなければ、苦しみになってしまいます。試験や入試や資格テストなど、必要に迫られて身につけようとする知識は、苦痛となります。一方、好奇心、自発性や能動性をもっていれば、喜びをもって知識を身につけることができます。
 多くの人は、両方の経験を持っているはずです。基本的に、人は、学ぶことを好んでいると思います。この学ぶ喜びは、多くの先哲が述べています。
 アリストテレスは「形而上學」の冒頭に、「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」と述べています。12世紀のオック語抒情詩のトゥルバドール(Troubadour)と呼ばれた詩人たちは、自分たちの詩をつくる方法を、オック語で「la Gaya Scienza」と呼びました。英語にすると、“The gay science”となり、savoirやscienceは、科学でもいいのですが、より広く、学問や知識という意味になります。後に、ニーチェはこの言葉を「悦ばしき知識」(1882年)という大作にしました。澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)は、新聞紙上で「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう」としています。1968にはゴダールの映画のタイトル“Le Gai savoir”としても使われました。
 近年、スマートフォーンの普及により、簡単にインターネットを通じて検索することができるようになりました。現在では古今東西、世界中の人が蓄積してきた無尽蔵の知識が、瞬時に簡単に参照できるようになりました。大抵のわかないことには、答えを簡単に得、知ることができるようになりました。だから人はネットを通じて検索するのです。
 そのように瞬間的に得た学ぶ喜びは、その場限りのものになってしまうことが多くなってきたような気がします。また、知識自体も、その場限りの死んだ知識、あるいは泡沫(うたかた)の知識となってしまったようです。
 現在社会におて、知識はその気になれば簡単に手に入ります。しかし、知識とは活きて使えるものにしなくはなりません。そのために、学ぶことに楽しみをもっていなくてはならないはずです。回り道をしても、苦労しても、学ぶ喜びを経てこそ、知識の値打ちが生みだされるはずです。
子曰く、
知之者不如好之者
好之者不如楽之者
これを知る者は、これを好む者に如かず
これを好む者は、これを楽しむ者に如かず
『論語』雍也第六より

・入学式・
新年度になりました。
我が大学では、4月1日が入学式なっています。
区切りがよくてわかりやすい日にちの設定です。
北海道も、日に日に春めいてきました。
まだまだ雪は残っていますが
温かい春の日差しにもなってきて
入学式をするにふさわしい季節となりました。
新学期を迎える態勢も整ってきています。
1週間ほど、新入生のガイダンスなどがありますが、
授業もすぐにはじまります。
受け入れる大学のスタッフも心を一新しなければなりません。

・3月は・
3月は早く過ぎました。
そして、3月中旬からは、
ほとんど仕事がストップして進みませんでした。
まあ、いろいろ慌ただしい行事が続いきました。
ですから、仕方がないのでしょうが、
少々焦りを感じます。
授業がはじまってしばらくしないと
落ち着きは取り戻せないかもしれません。

2017年3月1日水曜日

182 歩くことと考えること

 初学者が、野外調査でどのように調査の能力を身についけていくのか。地質学では、歩くことが必須となります。研究目的を達成するため山野を歩きます。目的が腑に落ちて、調査に没頭できるのは、どのような状態でしょうか。

 初学者が。、野外調査を通じて、研究をはじめる場合を考えましょう。地質学の初学者にしましょう。基礎的な知識を持ち、野外調査のやり方も実習などである程度身につけています。研究目的は指導者から事前に与えられており、関連する専門的文献も読んでいるとしましょう。
 知識も技術も一応は身についているはずなので、野外調査はスタートできます。ただし、長期間、ひとりで野外調査するのははじめてです。ですから、たとえ意欲はあっても、かなりの不安があるはずです。
 自分一人での調査となると、今までの実習とは全く違うことがわかり、戸惑いも起こり、肉体的にも精神的にも疲労します。歩きはじめは、体が馴れていないので体力的にきつく、雨で休める日があるとホッとします。雨は調査が遅れるので、雨の日は歓迎すべきでないはずです。
 また初めての地域では、実習の時とは地質も岩石の種類も変わるので、記載の仕方、データのとり方、試料の採取の仕方など、すべて自分なりのやり方や基準を決めていかなくてはなりません。精神的にも疲れます。
 調査の仕方も、もがくような試行錯誤をしながら、自分なりのやり方を決めながら、だんだん石を見る目も熟練してきます。データや採取した試料も増えてくると、研究目的(例えば、オフィライトの起源を地質調査と岩石記載から明らかにする)にどう結びついていくのかが、少しわかってきます。さらに歩いていくと、体も慣れてきて、体力的な不安がなくなってきて、楽しくなってきます。
 やがて、研究目的に沿って、記載の仕方もよりよいものへと変わっていくことになるでしょう。多分、初期に歩いたところや重要なところを、再度見直す必要があります。研究目的が腑に落ちてくると、野外調査のスキルもついてきたことを実感できます。卒業論文の調査は、まずは歩いて、それから考えていました。
 ここまでの話しは、私がはじめて卒業論文で日高山脈で野外調査にでたときの経験です。あっさりと書きましたが、私がこのように歩くことに楽しみを覚えるまで、ひとシーズン(3ヶ月ほど)を要しました。調査が楽しくなるころに、雪のためシーズンが終わりました。歩きたいと思っても、次のシーズンまで待たなければなりませんでした。
 卒業論文は4年生ですので、冬には卒業論文をまとめて、提出しなければなりません。卒業論文提出後、私は大学が変わり、指導教員も変わり、研究目的も変わりました。次シーズンは、全く別のところで野外調査をはじめました。「所変われば品変わる」で、すぐには石を見る目ができず、苦労しました。もちろん、昨シーズンの経験は、次なる調査地で活かされていました。早い段階で、調査に専念できました。卒業論文のときの調査は、野外調査の方法自体を身につけるということもありました。その結果、時間をかけた割には、調査の内容も目的の深め方にも不足や不満を感じていました。
 修士論文は、岡山県のある地域だったので、1年に春と秋の2シーズンの調査ができました。ただし1年目の春は、調査地を決めるために、指導の先生と各地を歩き周りました。ですから、野外調査は、修士課程1年目の秋、2年目の春の2シーズン(3シーズン目の秋は少しだけ歩く)を集中的に歩きました。
 この地域での新たな研究目的(オフィオライトの起源を調べる)のために、岩石や鉱物の化学分析という手段を利用することにしていました。適切な試料を採取しながら野外調査を進めていきます。もちろんはじめての地域なので、地質学の基本的な調査もおこないます。修士論文の調査は、新しい調査地でしたが、我ながらよく歩いたと思います。まさに野外調査に没頭していました。修士論文の調査は、手段も目的もはっきりと定まっていたので、その目的にあったものを探しながら歩いて考えていました。
 博士論文の目的としては、修士論文の地域を基準にして、中国地方から近畿地方まで、類似の岩石がでているところを、広域に比較対象することにしました。野外調査の拡大して車やテントで寝泊まりしながら、4シーズンほど調査しました。もう3年も野外調査をしているので、要領を得ています。あらかじめ定めたひとつ地域で、目的に必要なルートで露頭を見つめては集中的に調査しました。そして、効率的に必要なデータや試料を集めることができるようになっていました。博士論文の調査は目的を達成することが優先されました。しかし、長期間、野外で調査していると、楽しく没頭できました。博士論文ではまずは、考えてから、効率的に歩くことにしていました。
 卒業論文、修士論文、博士論文と野外調査のスキルは上がってきています。研究の成果も、この順に上がってきています。いずれも野外調査は大変ですが、楽しさもありました。しかし、研究目的を理解するために、もがきながらひたすら歩いていた時、アセリもありましたが、はじめての野外調査のせいかもしれませんが、達成感が一番あったような気がします。
 このような達成感は、野外調査や研究だけでないはずです。体を動かし、手を使い、深く考え、納得し、腑に落ちで、肉体的にも精神的にも苦労したものほど、達成感が大きいものでしょう。

・3月は・
北海道は、暖かい日があるかと思ったら、
翌日は積雪という繰り返しがはじまりました。
今年は温度の変動が大きいように感じます。
いよいよ3月です。
大学は後期の入試と卒業や進学の判定、
また、新学期に向けての準備となります。
慌ただしい時期となります。
卒業生は社会に対して、
新入生は大学に対して希望と不安を抱えて、
新天地に向かいます
健闘を祈ります。

・たゆまぬ努力・
2月から3月上旬にかけて、
研究を進めたいと、時間と努力をかけてきました。
内容が多いため、手こずっています。
かといって、手を抜いていらたますます滞ります。
ただひたすら時間をかけて、手間をかけて
着実に進めていく必要があります。
たゆまぬ努力のみが解決手段です。
大変ですが、エッセイでも述べましたが、
「苦労したものほど、達成感が大きい」
はずです。