2017年7月1日土曜日

186 サイクロプス:神話の根拠

 架空の話と思われているものにも、世界各地に似た話があります。少々不思議な気がします。もしかすると、そこには何らかの事実に基づいた、根拠があるかもしれません。

 ギリシア神話に卓越した鍛冶技術をもつキュクロプス(Cyclops)がいるのですが、英語読みはサイクロプスとなり、日本でも英語読みの発音が知られています。ここでも、サイクロプスを用いましょう。
 サイクロプスは、ギリシア神話に登場する巨人です。神話によると、天空の神であるウラノスを父として、大地の神であるガイアを母にして、二人の間に3人の男の子がいましょうた。その3兄弟の一人としてサイクロプスがいました。兄弟は父に嫌われ、奈落に落とされました。その後、弟の一族であるクロノスが権力をにぎったのですが、奈落から出されませんでした。
 サイクロプスは、奈落で鍛冶屋として働いていたのですが、ゼウスらの時代になり開放されました。そのお礼として、ゼウスには雷霆(らいてい、激しい雷のこと)を、ポセイドーンには三叉の銛(もり)を、ハーデースには隠れ兜(かぶると姿が見えなくなる)を送ったとされます。その後も、サイクロプスは鍛冶業を続けたといわれています。
 サイクロプスは、巨人であるだけでなく、一つ目という特徴もあります。一つ目の巨人という非常に奇異な容姿を神話として作りだす昔の人の空想の力にはすごさものがあります。他にもサイクロプスだけでなく、いろいろ変わった姿の神や怪物などもいるので、空想が豊かだったのでしょう。
 サイクロプスですが、不思議な類似が、日本の神にも見られます。製鉄と鍛冶の神として、日本の神話にも、アメノマヒトツノカミ(天目一箇神)とアマツマラ(天津麻羅)がいるのですが、両者とも一つ目です。また、ダイダラボッチという大入道も、一つ目とされることがあるそうです。
 神話ですから、現実と関連がある必然性はありません。神話ですから、架空の話にすぎないはずです。でも、別の国に似たような異形の神がいるのは、偶然にしては不思議です。本当にその空想は偶然の一致でしょうか。
 もし、そのような神を思い浮かべるような何かの「キッカケ」があり、そしてその「キッカケ」が、あちこちにあるとすれば、それは単に架空ではなく、実在のものに起因することになるかもしれません。
 サイクロプスはさておき、動物の頭骨(頭蓋骨)に話題を変えます。
 専門的な話は抜きで、単純化して考えましょう。動物とはいっても多様ですから、哺乳類にしましょう。頭蓋骨は、いくつかの骨からできています。まず下顎の骨が分かれます。上顎側も、いくつかの骨からできていますが、多くが縫合線でくっついています。
 下顎と上顎の間が口に当たります。口は、頭蓋骨に空いた穴となります。他にも、頭蓋骨にはいくつかの穴があります。解剖学的には、多数の穴があるのですが、わかりやすいものとしては、目(眼窩、がんか)と鼻(鼻腔)、耳(内耳孔)の穴です。これらの穴の形や位置が、頭蓋骨の大きな特徴となり、生物種ごとの違いとなります。
 頭蓋骨の穴の位置やサイズが違っていると、目や鼻などを見誤ることもあるかもしれません。例えば、ゾウの頭蓋骨では、目が横に小さくついています。その代わり、目に当たる位置には、長いハナを支えるために大きな穴(鼻腔)がひとつ空いています。ゾウの頭蓋骨をはじめて見た人は、大きな目がひとつしかない生物のように見えたはずです。もちろんゾウですから、頭蓋骨のサイズは巨大になります。
 解剖学の知識のない人にとって、ゾウの頭骨の化石を発見したら、その骨から、どのような生物を想像するでしょうか。もちろんゾウの存在は知らないとします。見たことのない大きな頭蓋骨で、目の位置に大きな穴がひとつあいているだけの生物を思い浮かべます。それを、一つ目の巨人の頭蓋骨に見誤っても、仕方がないでしょう。
 実は、サイクロプスがゾウの頭蓋骨化石に由来するのではなかという説があります。もし、この説が本当なら、サイクロプスの神話に信憑性が生じることになります。
 単眼巨人のサイクロプス像が、ロンドン自然史博物館に展示されています。博物館のエントランスの一つにモニュメントとして飾られています。もちろん神話の一つ目の巨神ですから架空の姿です。なぜ、自然史博物館に神話の像が飾られているのか。実は、象徴的なモニュメントは、サイクロプスがゾウの頭蓋骨化石に由来するという人類の歴史を示しているのです。
 ゾウの頭蓋骨化石からサイクロプスへという考えを、一般化していけば、神話や伝説での、異形の神や怪物などは、単に架空ではなく、根拠があったのではないかと考えられます。巨神は、大型動物の化石に由来するのではないか。小人伝説は小さな動物化石から生まれたのではないか。未知の動物化石から怪物伝説が生まれたのか。そのような化石が見つかる地域では、似た異形の神が想像されるのではないでしょうか。
 次のステップとして、異形の神や怪物が、どのような生物の化石に対応していくのかを考えていくことになるのでしょうか。それは神話や化石の専門家におまかせしましょうか。

・西高東低・
ギリシア神話は、西洋においては基礎知識になるでしょう。
西洋の文献を読もうすると
神話の内容を前提にした話題も多々あります。
ですから教養として東洋人にとっても
ギリシア神話は基礎知識なります。
一方、東洋の文献では、
四書五経や古事記、日本書記の内容は
基礎知識として必要になるものも多くあります。
学校の授業では一部ですが、学んでいます。
では、西洋人にとって東洋の古典や神話は
基礎知識といえるのでしょうか。
東洋の文献を読む人には必要でしょうが、
それ以外に一般人には、
あまり必要ではないのでしょうか。
知識は西高東低になっているのでしょうか。

・時の過ぎゆくままに・
7月です。
今年も半分終わりました。
同じ言葉をあちこちで聞けます。
多分多くの人が、
時間の流れが速いとを思っているので
そんな感想がでるのでしょう。
私も例外ではなく、時の流れを速く感じています。
多忙なほど時間が速くなっていくようです。
時間を意識できないような日々を送っていると、
ふと振り返った時に、
過ぎた時間の長さに思い至るのでしょうか。

2017年6月1日木曜日

185 ディープラーニングは君のスピードで

 コンピュータの進歩は、とどまることを知りません。その進歩にはいくつかブレークスルーがありました。ディープラーニングはその一つになります。でもそのスピードは、立ち止まって考える必要がありそうです。

 コンピュータの性能の向上により、今までできなかったことが、コンピュータによって楽にできるようになりました。さらに、人にもともとある能力の記憶力、計算力、検索力などは、コンピュータが圧倒的に凌駕してしまいました。思考力や想像力など、人固有の能力と思われてきたものも、コンピュータが越えていくかもしれません。
 実は人固有の能力とは、今まではアルゴリズムやプログラムにすることができないため、コンピュータに行わせることができなかっただけではないでしょうか。そこを突破するために、AIやディープラーニングなど手法が開発されてきました。
 AI(artificial intelligence)は人工知能のことで、コンピュータが人と同じような知能を持てるようにする技術です。昔からSFでは「2001年宇宙の旅」のHALなどで、人を越えるほどの能力をもったコンピュータがありました。しかし、なかなか現実には出現してきませんでした。
 20世紀末にはSFではなく、現実化したことありました。チェスでのコンピュータとの対戦でした。当時、チェスのチャンピオンであるガルリ・カスパロフと、IBN社のチェス専用のコンピュータ(ディープ・ブルー)が対戦しました。1996年2月に3勝1敗2引き分けでカスパロフが勝っています。ところが1997年5月に再度対戦して、ディープ・ブルーで2勝敗3引き分けでカスパロフに勝っています。
 このときデープ・ブルーは、次の手を次々と考えていきよりより一手を見出すという手法で、コンピュータの得意とするやり方でした。これは、AIではなく、ひたすら計算していくというもので、コンピュータの性能が実力を示すことになります。いつかわわかりませんが、コンピュータが人を超える可能性は想像できます。でも、比較的ルールが簡単なチェスなので、実現できたのでしょう。
 ところが、碁や将棋はルールなかなか複雑で、次々と手を考えていく方法では可能性が多くなりすぎて、かなり困難でした。ところが、近年、AIのひとつとして、ディープラーニング(deep learning、日本語訳深層学習)という手法がでてきました。その結果コンピュータは、人の知能の迫ることになってきました。
 ディープラーニングとは、視覚的にものごとを捉えいく方法です。人が視覚情報をどう処理するのかということを研究から、入ってきたデータは脳内で別のところに転送されるうちに、各場所(層と呼ばれる)で学習がおこなわれ、データの「特徴量」が抽出されていきます。この特徴量を、今までは人が手動で設定していたものを、コンピュータにかってにおこなわせるようにしました。特徴量とは、データを特徴づける変数、ゲームの場合は有利になる局面などとなります。この特徴量をコンピュータが発見すれば、ゲームに有利に導く次の一手が考えられます。この特徴量を、過去の対戦をひたすら見せて「学習」あるいは「自習」することで、コンピュータ自身が勝つ方法を考えていくという手法です。
 ディープラーニングでは、過去の対戦を、コンピュータならではの超高速で休むことなく、ひたすら学習し続けることができます。データさえ提供をすれば、コンピュータ自身が勝手に強くなっていくのです。その上達スピードは驚異的なものです。
 Googleの子会社のGoogle DeepMind社が開発した「アルファ碁(AlphaGo)」は、ディープラーニングによって、囲碁を学習しました。そして2016年3月には、アルファ碁はチャンピオンのイ・セドルと対局し、4勝1敗した。このアルファ碁は、インターネット対局場で公開されました。すると、匿名で数人のトップレベルのプロ棋士とされる人たちが参加し、早碁(1手60秒未満でさす)では、アルファ碁が60戦全勝をしたそうだと話題になりました。日本でも、世界最強の囲碁AIを目指そうそうとする「DeepZenGo」ができ、現在力をつけているようで、人のトッププロのレベルに達しています。
 将棋の世界でも、もともとプロ棋士のトップレベルにいたponanzaというソフトがありました。2017年に「Chainer」というディープラーニングの仕組みを導入して「Ponanza Chainer」に進化しました。このソフトとの対戦は、今年行われるはずですが、多分以前よりかなり強くなっているでしょう。
 今まで人しか達しない複雑なゲームの世界に、まったく新しいディープラーニングという学習手法をもったコンピュータが導入されました。これは革命といえます。人しかできなかった思考や、熟練者がカンや無意識におこなわれていた技法が、コンピュータによってできるようになり、よりよいものへとなっていくかもしれません。
 いったんディープラーニングのような手法が見つかれれば、これはあらゆる場面での導入がはじまるはずです。もしかすると音楽や映像など感性に依存したものも、多くの人が共感できるもの(ヒット曲、売れる商品)などをも見つけてしまうことができ、人の出る幕がなくなるかもしれません。もちろんAIは、有効利用すれば、人にとって大きな恩恵をもたらすはずです。
 でも少し落ち着いて考えると、人の頭や心が追いつけない状況が、今、出現しはじめているのではないでしょうか。コンピュータの性能や機能がすごいスピードで進んだため、社会にコンピュータが広く普及して、多くの人が恩恵を受けました。しかし、今回の進歩は、能力や知性にかかわるものです。コンピュータの能力や知性があまりに早いスピードで進むと、人がついていけない状況が起こっていくるのではないでしょうか。もしかするとゲームの世界ですが、起こりつつあるように見えます。
 科学や技術の進歩が著しすぎることは、もしかすると人の感情や倫理、感情、知性などにおける危機が起こっているのでないでしょうか。ゲームの必勝法をコンピュータがすでに持っていると知ったら、人はそのゲームを面白いと思えるでしょうか。あるいは、そのゲームの世界にプロなどが存在できるのでしょうか。
 すべてのものごとに、白黒の決着ついている世界は、つまらないものになりそうです。思いもよらないこと、予想外、そこにはもっと別の世界が広がっている可能性を考えることもできなくなります。その世界には、福も災いも混在しているでしょう。紆余曲折、試行錯誤、いろいろあるから、人生が面白いのではないでしょうか。
 一方、科学の世界でも、研究者は業績や成果に追われ、科学の進歩のみを考え、その行く末を考える余裕がなくなってきています。そのためには、自分にあったスピードで歩き、考えることも必要でしょう。これ以上は人智を越えるからという理由で、開発や研究をストップするという選択も必要なのではないでしょうか。
 私たちの世代で、吉田拓郎はカリスマでした。彼の音楽からは、多大な影響を受けました。吉田拓郎の「君のスピードで」という歌があります。
  僕にはけしてないものを
  君が持っている
  生まれかわる事は
  出来ないから
  すべてをひとつにしなくていい
  君の好きなスピードで
  僕のテンポで
心にしみます。
 人の理性や倫理観が伴うスピードで、社会の進歩をコントロールして進めることも必要ではないでしょうか。

・人類の終焉・
BBCのインタビューに対して、
スティーブン・ホーキングは
「完全な人工知能を開発できたら、
それは人類の終焉を意味するかもしれない」
と答えたそうです。
私も、同感です。
人工知能の開発や思考領域をどこまでに設定するか
重要な課題だと思います。
いつまでもコンピュータにできない領域があるはず、
あるいは人がコントロールできる、
などという前提は、幻想かもしれません。

・ブレークスルー・
コンピュータの進歩には、いくつもの
ブレークスルー(breakthrough、飛躍)がありました。
真空管から半導体へ、半導体からICやLSIへ。
これらのブレークスルーによって
コンピュータの集積度と処理速度の飛躍的に向上しました。
おかげでだれもがコンピュータを身近に持って、
利用できる時代になりました。
ディープラーニングもブレークスルーのひとつです。
ビックデータもブレークスルーのきっかけなると思いますが
まだ十分活用できていません。
しかし、ビックデータとディープラーニングが合体すれば、
もしかすると、別の世界が生まれるかもしれません。
それは良い世界でしょうか、それとも、・・・・

・テーマを変更・
予定していた次回のテーマを変更しました。
申し訳ありませんでした。
そのうちにお送りします。

2017年5月1日月曜日

184 ネットと紙での検索

 インターネットの普及した現代、大量の情報にアクセスできるようになり、非常に手軽に調べものができるようになりました。ネット検索は現代社会において不可欠のツールとなってきました。でもその便利さの陰で、失われていくものもあるのではないでしょうか。

 少し前、ある術語を調べようとしました。元となったよく知っている科学哲学の術語と同じ意味の言葉の正確な意味を調べようとしました。その言葉をインターネットで検索してみると、今では生物学でよく使われているようで、生物学での意味ばかりがでてきます。見ると、かなり詳しい説明もあり、それはそれで面白く、同じ言葉でも、そんな使われ方をしているのだと感心しました。
 しかし肝心の私が探そうと思っていた知識になかなかたどり着きませんでした。まあ急ぐわけでも、すぐに必要でもなかったので、調べるのをいったん諦めました。
 でも欲しかった答えが見つからないで、少々気になったままで終わりました。そのためでしょうか、時々頭にその言葉が浮かぶことがありました。ある時、その言葉に関連した別のキーワードが思いついて、それで調べたら、見つけたい分野での意味が出てきました。この言葉は、本エッセイで別の機会のテーマとする予定ですので、お楽しみに。
 ここで述べたかったのは、検索という行為の持つ意味についてです。
 私の息子たちは、ネット時代に育ってきた人間なので、スマートフォーン(スマホ)をいつも手元においています。自宅でテレビを見ているときも、興味をもったこと、知らないことがあると、ささっと検索して、その疑問を簡単にその場で解消していきます。これは人類が思い描いていた理想の時代となってきたのではないでしょうか。
 私には、なかなかそこまでスマホを使いこなすことができません。まずは、面倒だと思ってしまいます。スマホもタブレットも持っているのですが、なかなか調べようという気になりません。調べだすと、テレビのほうがおろそかになっていきます。「ながら」がなかなかできない性なのです。
 現代人、特にネット社会に馴染んでいる若者たちは、何かに興味を持つと、それに関する情報をすぐに手に入れることができます。ネットで検索すれば、即座に興味を持ったことに対して、答えを得られます。ネットによる検索は、非常に便利で役に立つものです。
 ネットで得た知識は、その場の疑問を解消されるためでしょうか、すぐに忘れてしまうことが多いのではないでしょうか。もちろん、記憶のいい人は、興味を持った情報を憶えていて、自分の教養として身につけていくことでしょう。私や息子たちは、すぐに忘れてしまいます。なかなかネットで得た知識は身につかないようです。
 ネットがなかった頃は、紙媒体である辞書、百科事典、図鑑などで調べました。これれの書物は、自宅で手元にあれば、比較的簡単に調べることできます。それでも、重い辞書を持ち運び、ページを繰るという行動をしなければなりませんでした。もし、その項目内に知らない言葉あれば、再度ページを繰って検索するという行為が必要になります。今のように文章内のリンクをクリックするだけで、次の答えがでるという便利さはありませんでした。
 欲しい情報が手元の辞書になければ、図書館などで関連した本、時には専門書や論文をあたることになります。これは図書館まで出かけて、本を調べたり、司書を通じて文献に当たるなど、大変面倒な手続きを経ていくことになります。
 かつては、欲しい情報を、いつでもどこでも手軽に入手できることが、理想の未来として思い描いていました。今や、その時代となりました。調べたいことが、重たい何種類もの辞書や図鑑を当たることなく、日本中、世界中の知識が、玉石混交ですが、即座に手に入るようになりました。そんな知りたいことが簡単に調べられる夢に描いていた時代が来たのです。今時の学生で、紙の辞書を持つ人は見かけません。すべて電子辞書になっています。
 手軽に膨大な情報にアクセスできる時代になりましたが、本当にこれが理想の時代とえるのでしょうか。
 パソコンを使う人は、ワープロなしに、文章の作成は非常に煩わしく思うようになりました。その結果、手で漢字や熟語を書くことができなくなりました。電卓で複雑な計算もあっという間に、間違いなく答えを出せるようになりました。しかし、暗算ができなくなりました。このようなことと同じく、簡単に検索できることで、何かできなくなってしまったことがあるではないでしょうか。
 今と昔の情報検索の状況をみていくと、明らかに違いあります。検索にいくつもの手順や手間、行動を伴うのか、検索にどれくらいの時間がかかるのか、何処かに出かけてまで欲しい情報なのか、検索行動にストップするような心の隙間があるのか、などという違いあるように思えます。
 それらの違いの中に、なくしてしまったものがあるのではないでしょうか。
 検索でも、パソコンなら立ち上げてからなどの手間は必要かもしれませんが、スマホやタブレットがあれば、非常に手軽に調べられるという環境があります。この手軽さが、せっかく得た知識が身につきにくくしているのではないでしょうか。
 その知識を得るまで、手間暇かけてたどり着くという大変さ、そこまでして手に入れたい知識であること、という選別を受けるので、記憶として定着していくのではないでしょうか。そしてなによりも、その知識を追い求めながら、関係したものごと、よしなしごとを考えているはずです。探求の方法自体も考えているはずです。手に入れることが難しい資料かもしれません、あるかどうかも不明です、あてどもなく探しつづけていくかもしれません。でも、考えるというプロセスが私が別のキーワードを思いつかせたように、記憶に定着できるように知識の価値を高めていくのではないでしょうか。
 検索の「検」は、「多くの物や人を引き締めて、まとめること。わくをはずれないよう取り締まる」ことが原意です。「索」は、「ひもをたぐって中の物を引き出すように、手づるによってさがしもとめる」という意味です。検索とは、漠然とした知りたいことを、枠を決めながら、ある程度まとまったものにして、まとめたひもをたぐっていき、欲しいものを見つけていく行為となります。
 手間ひまをかけて調べていくことが、検索の本来の意味にそぐうものなのです。簡単な検索には、ひもでまとめられたものも小さくなり、得られることも小さくなるのかもしれません。人が強く欲して求め続けると、検索の答えにも貴重さが生まれ、価値もでてくるのでしょう。
 でも、多くの人が待ち望んだ、今のネット検索の便利さを捨てることにはならないでしょう。しかし、その陰で失われていくものもあります。失うものが出来る限り少なくなるように、時にはネットに流れていない情報の検索も必要かもしれませんね。

・紙媒体・
ゴールデンウィークの間の平日です。
私は野外調査にでています。
野外調査のための情報は、
書籍が5冊分から得ています。
内専門書が2冊あります。
多分、こらの情報の一部、あるいは全部が
ネットに公開されているかもしれません。
それは仕方がないことでしょう。
最新情報は、印刷物や書籍より
早くネットに公開されることも多くなりました。
それに専門情報の最たる学会誌も
デジタル化の波が進んでいるのですから。
これは時流としてしかたがないことなのしれません。
紙媒体でした大家だったものが読めないのは
ノスタルジーにすぎないのでしょうかね。

・サクラ・
北海道は桜の季節を迎えました。
しかし、私は、調査で山陰にいます。
もちろん山陰は桜はとっくに終わっているはずです。
5日には帰る予定ですが、
もしかすると、まだ桜をみることができるかもしれません。
実は、1月末に大分に行ったとき、
ヒカンザクラの咲いているのを見たことがありました。
咲き始めて多くはなかったのですが、
一足早い春を少しだけ味わいあじわいました。
まあ、これも巡り合わせでしょうね。

2017年4月1日土曜日

183 不如楽之者:活きた知識を得る

 インターネットには知識があふれています。知りたいことに対して、とりあえずの答えを、簡単に得ることができるようになりました。ありがたいことですが、活きた知識にするのには、それなりの工夫が必要でしょう。

 多くの人は、新しいことを知った時に喜びを見出します。特に予想外の知識や、思いもよらぬ知識を得ると、ワクワクして誰かに伝えたくなります。知った喜びを、伝えたい、分かちあいたいという気持ちが湧いてくるためでしょう。知識によって心が刺激され、知識の共有、伝播、コミュニケーションへと心が向かっていくのでしょう。知識を身につけるとは、得(え)も言われぬ快感があるようです。
 情報が流通していない時代には、知識とは、何らかの疑問を解くために、苦労の末、得たものでした。あるいは、誰かがもっている知識に至るまでには、努力や時間を手間暇をかければなりませんでした。そんな時代では、知識とは、一個人、もしくは限られた地域やグループだけで共有してきたものでした。
 文字の発明や本としての記述、印刷などの技術革新により、一人の人間が手にできる知識量は、膨大に増えていきました。ただし、特別な知識は、一部の職能集団や親族だけが、伝承していって、他の人には知らせませんでした。重要な知識は、秘密にして守るべきものでした。流通していたとしても、かつては高価な本を購入できる一部の恵まれた人、その本を読める能力、立場の人だけが、蓄積された知識を手に入れることができました。知識が力となりえ時代だったのです。
 いつの時代であっても、ひとりの人間が生み出せる知識の量は、そうそう増えるわけではありません。時代に進歩によって、多くの知識を流通させる条件は整って、共有する人や組織、コミュニティが広がっていくと、知識の量が爆発的に増えていきます。知識が増えてきたら、それを共有するため、得るために、基礎的な素養が必要になります。そのような素養を身につけるためには、訓練や教育が必要になります。
 かつては、それらの基礎訓練は、辛く理不尽なものも多かったのです。小さな子どもにひたすら素読をさせ、今はわからなくても、将来わかるはずだ、となんの根拠も検証もない方法で教えたこともありました。また、教えるのではなく、技術は見て盗み取れというような、伝承をする気もない方法もありました。人材を養成していくため、教えるための方法も、教育学として進んでくると、より効率的な知識の伝達方法が取り入れられました。
 子どもはものを覚えるのは早いのですが、理解ができる内容は、年齢に応じた脳の発達状況によって違ってきます。子どもや人の発達を理解して、発達段階に応じた手法を用いて教育する必要性もわかってきました。
 膨大な知識をひたすら博物誌的に羅列して示しました。量が質を生むと考えていまし。系統性を持たない、体系化がなされていない知識をひたすら与えたこともありました。このようなバラバラの知識は、なかなか活用できませんでした。しかし、知識の体系化がなされてくると、その体系を学ぶことにより、おのおのの知識の位置づけが理解でき、知識の吸収がしやすくなります。
 今では、学校での教育は非常に工夫を凝らされた体系だったものになってきました。ですから、義務教育として与えられる教育は、子どもでも効率よく、そして楽しみながら学ぶことができるようになってきました。
 年齢が上がるとともに、人ぞれぞれの嗜好が生まれ、望む知識体系も異なってきます。学ぶ側にとっては、一般的な学校教育では、必要と感じない知識も含まれています。しかし教育する側では、より広い教養と専門性が必要と考え、複雑な知識の体系を伝えようとします。現代の高度な技術や複雑な社会を生きていくためには、そのような体系が必要だと考えられているからです。高校から大学での学びが、これに相当するのでしょう。
 このとき生じるミスマッチが、学ぶ意欲の低下などにつながっているのかもしれません。同じ知識を得るにしても、好奇心や自発性がなければ、苦しみになってしまいます。試験や入試や資格テストなど、必要に迫られて身につけようとする知識は、苦痛となります。一方、好奇心、自発性や能動性をもっていれば、喜びをもって知識を身につけることができます。
 多くの人は、両方の経験を持っているはずです。基本的に、人は、学ぶことを好んでいると思います。この学ぶ喜びは、多くの先哲が述べています。
 アリストテレスは「形而上學」の冒頭に、「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」と述べています。12世紀のオック語抒情詩のトゥルバドール(Troubadour)と呼ばれた詩人たちは、自分たちの詩をつくる方法を、オック語で「la Gaya Scienza」と呼びました。英語にすると、“The gay science”となり、savoirやscienceは、科学でもいいのですが、より広く、学問や知識という意味になります。後に、ニーチェはこの言葉を「悦ばしき知識」(1882年)という大作にしました。澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)は、新聞紙上で「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう」としています。1968にはゴダールの映画のタイトル“Le Gai savoir”としても使われました。
 近年、スマートフォーンの普及により、簡単にインターネットを通じて検索することができるようになりました。現在では古今東西、世界中の人が蓄積してきた無尽蔵の知識が、瞬時に簡単に参照できるようになりました。大抵のわかないことには、答えを簡単に得、知ることができるようになりました。だから人はネットを通じて検索するのです。
 そのように瞬間的に得た学ぶ喜びは、その場限りのものになってしまうことが多くなってきたような気がします。また、知識自体も、その場限りの死んだ知識、あるいは泡沫(うたかた)の知識となってしまったようです。
 現在社会におて、知識はその気になれば簡単に手に入ります。しかし、知識とは活きて使えるものにしなくはなりません。そのために、学ぶことに楽しみをもっていなくてはならないはずです。回り道をしても、苦労しても、学ぶ喜びを経てこそ、知識の値打ちが生みだされるはずです。
子曰く、
知之者不如好之者
好之者不如楽之者
これを知る者は、これを好む者に如かず
これを好む者は、これを楽しむ者に如かず
『論語』雍也第六より

・入学式・
新年度になりました。
我が大学では、4月1日が入学式なっています。
区切りがよくてわかりやすい日にちの設定です。
北海道も、日に日に春めいてきました。
まだまだ雪は残っていますが
温かい春の日差しにもなってきて
入学式をするにふさわしい季節となりました。
新学期を迎える態勢も整ってきています。
1週間ほど、新入生のガイダンスなどがありますが、
授業もすぐにはじまります。
受け入れる大学のスタッフも心を一新しなければなりません。

・3月は・
3月は早く過ぎました。
そして、3月中旬からは、
ほとんど仕事がストップして進みませんでした。
まあ、いろいろ慌ただしい行事が続いきました。
ですから、仕方がないのでしょうが、
少々焦りを感じます。
授業がはじまってしばらくしないと
落ち着きは取り戻せないかもしれません。

2017年3月1日水曜日

182 歩くことと考えること

 初学者が、野外調査でどのように調査の能力を身についけていくのか。地質学では、歩くことが必須となります。研究目的を達成するため山野を歩きます。目的が腑に落ちて、調査に没頭できるのは、どのような状態でしょうか。

 初学者が。、野外調査を通じて、研究をはじめる場合を考えましょう。地質学の初学者にしましょう。基礎的な知識を持ち、野外調査のやり方も実習などである程度身につけています。研究目的は指導者から事前に与えられており、関連する専門的文献も読んでいるとしましょう。
 知識も技術も一応は身についているはずなので、野外調査はスタートできます。ただし、長期間、ひとりで野外調査するのははじめてです。ですから、たとえ意欲はあっても、かなりの不安があるはずです。
 自分一人での調査となると、今までの実習とは全く違うことがわかり、戸惑いも起こり、肉体的にも精神的にも疲労します。歩きはじめは、体が馴れていないので体力的にきつく、雨で休める日があるとホッとします。雨は調査が遅れるので、雨の日は歓迎すべきでないはずです。
 また初めての地域では、実習の時とは地質も岩石の種類も変わるので、記載の仕方、データのとり方、試料の採取の仕方など、すべて自分なりのやり方や基準を決めていかなくてはなりません。精神的にも疲れます。
 調査の仕方も、もがくような試行錯誤をしながら、自分なりのやり方を決めながら、だんだん石を見る目も熟練してきます。データや採取した試料も増えてくると、研究目的(例えば、オフィライトの起源を地質調査と岩石記載から明らかにする)にどう結びついていくのかが、少しわかってきます。さらに歩いていくと、体も慣れてきて、体力的な不安がなくなってきて、楽しくなってきます。
 やがて、研究目的に沿って、記載の仕方もよりよいものへと変わっていくことになるでしょう。多分、初期に歩いたところや重要なところを、再度見直す必要があります。研究目的が腑に落ちてくると、野外調査のスキルもついてきたことを実感できます。卒業論文の調査は、まずは歩いて、それから考えていました。
 ここまでの話しは、私がはじめて卒業論文で日高山脈で野外調査にでたときの経験です。あっさりと書きましたが、私がこのように歩くことに楽しみを覚えるまで、ひとシーズン(3ヶ月ほど)を要しました。調査が楽しくなるころに、雪のためシーズンが終わりました。歩きたいと思っても、次のシーズンまで待たなければなりませんでした。
 卒業論文は4年生ですので、冬には卒業論文をまとめて、提出しなければなりません。卒業論文提出後、私は大学が変わり、指導教員も変わり、研究目的も変わりました。次シーズンは、全く別のところで野外調査をはじめました。「所変われば品変わる」で、すぐには石を見る目ができず、苦労しました。もちろん、昨シーズンの経験は、次なる調査地で活かされていました。早い段階で、調査に専念できました。卒業論文のときの調査は、野外調査の方法自体を身につけるということもありました。その結果、時間をかけた割には、調査の内容も目的の深め方にも不足や不満を感じていました。
 修士論文は、岡山県のある地域だったので、1年に春と秋の2シーズンの調査ができました。ただし1年目の春は、調査地を決めるために、指導の先生と各地を歩き周りました。ですから、野外調査は、修士課程1年目の秋、2年目の春の2シーズン(3シーズン目の秋は少しだけ歩く)を集中的に歩きました。
 この地域での新たな研究目的(オフィオライトの起源を調べる)のために、岩石や鉱物の化学分析という手段を利用することにしていました。適切な試料を採取しながら野外調査を進めていきます。もちろんはじめての地域なので、地質学の基本的な調査もおこないます。修士論文の調査は、新しい調査地でしたが、我ながらよく歩いたと思います。まさに野外調査に没頭していました。修士論文の調査は、手段も目的もはっきりと定まっていたので、その目的にあったものを探しながら歩いて考えていました。
 博士論文の目的としては、修士論文の地域を基準にして、中国地方から近畿地方まで、類似の岩石がでているところを、広域に比較対象することにしました。野外調査の拡大して車やテントで寝泊まりしながら、4シーズンほど調査しました。もう3年も野外調査をしているので、要領を得ています。あらかじめ定めたひとつ地域で、目的に必要なルートで露頭を見つめては集中的に調査しました。そして、効率的に必要なデータや試料を集めることができるようになっていました。博士論文の調査は目的を達成することが優先されました。しかし、長期間、野外で調査していると、楽しく没頭できました。博士論文ではまずは、考えてから、効率的に歩くことにしていました。
 卒業論文、修士論文、博士論文と野外調査のスキルは上がってきています。研究の成果も、この順に上がってきています。いずれも野外調査は大変ですが、楽しさもありました。しかし、研究目的を理解するために、もがきながらひたすら歩いていた時、アセリもありましたが、はじめての野外調査のせいかもしれませんが、達成感が一番あったような気がします。
 このような達成感は、野外調査や研究だけでないはずです。体を動かし、手を使い、深く考え、納得し、腑に落ちで、肉体的にも精神的にも苦労したものほど、達成感が大きいものでしょう。

・3月は・
北海道は、暖かい日があるかと思ったら、
翌日は積雪という繰り返しがはじまりました。
今年は温度の変動が大きいように感じます。
いよいよ3月です。
大学は後期の入試と卒業や進学の判定、
また、新学期に向けての準備となります。
慌ただしい時期となります。
卒業生は社会に対して、
新入生は大学に対して希望と不安を抱えて、
新天地に向かいます
健闘を祈ります。

・たゆまぬ努力・
2月から3月上旬にかけて、
研究を進めたいと、時間と努力をかけてきました。
内容が多いため、手こずっています。
かといって、手を抜いていらたますます滞ります。
ただひたすら時間をかけて、手間をかけて
着実に進めていく必要があります。
たゆまぬ努力のみが解決手段です。
大変ですが、エッセイでも述べましたが、
「苦労したものほど、達成感が大きい」
はずです。

2017年2月1日水曜日

181 熊楠の腹稿

 「腹稿」について考えます。腹稿という言葉を聞いたことのない人でも、文章の中で使われれば、意味がわかるはずです。また、腹案と似た意味だといえば、納得できるはずです。「腹稿」について考えていきます。

 聞いたことのない言葉であっても、その意味がわかることがあります。ただ、その言葉が自分にとって重要な意味を持つことがなければ、見過ごされていくことになります。一方、言葉には、意識していなくても、その言葉の通りに行っている行為自体に先進性があることもあります。ただし、言葉の意味や役割を、本人が残す意図がないのであれば、多数の言葉の中に埋もれて消えていくことが多いはずです。
 偉大な先哲が、自分のアイディアを生み出したり、まとめるために、さまざまな工夫をしてきたはずです。しかし、それらの工夫は、アイディアができれば、目的を達成して不要となってしまい、残ることはありません。アイディアを生むための素晴らしい方法が、いろいろあったはずです。先哲のアイディアを生む手法が、言葉や文章にして残されていないとしても、先哲の工夫がなんらかの形や記録として残っていれば、後世に伝わることがあります。抽象的な話し方をしましたが、今回の話題は、そのような言葉と行為についてです。
 「腹稿(ふっこう)」という言葉をご存知でしょうか。私は知りませんでした。でも何らかの文脈で使われていれば、意味はある程度読み取れます。
 福沢諭吉が「学問のすすめ」の中で、「同僚の噂咄(うわさばなし)はわが注文書の腹稿となり」というような使い方をしています。この文章での意味は、「すでに買っている人がいるのなら、その人の意見を、自分がこれから注文するときの参考になる」という意味になります。これは、「腹案」とも言い換えることができるます。
 本筋とは離れるのですが、諭吉の「腹稿」と言う言葉を用いた文章は、物欲について語っているところです。人はより多くのものを求めることになっていく。ものが欲しいがため、金を手にするために働くことになっていきます。物欲は、主客転倒をおこしていくといいます。物欲のために、分不相応なことをしている人がいる。それを諌めるための文章です。そこで本筋とは関係なく「腹稿」という言葉が使われています。特別に重要な意味がある用法ではありません。
 「腹稿」は、辞書によると、古くは唐書の「王勃伝」にも見られるようで、「ものを書くとき心の中で案を練り上げる」ことを意味しているようです。古くからある言葉なのですが、見たことがないとしても、文字の組み合わから容易に、その意味が推定できます。
 腹稿は、原稿を書くとき、事前に心の中で考えていくことです。腹稿は頭のなかでつくられるだけでなく、ときにはメモとして文字化されることもあったでしょう。古い言葉ですから、先哲も腹稿を利用していたはずです。
 現代では、腹稿のために、いろいろな考えを整理する手法が、ブレインストーミングとして提案されてきました。私が学生の頃は、川喜田二郎氏が考案したKJ法があり、その方法に感銘して、活用したことがありました。付箋や小さな紙切れに思いつくことをなんでも書いていきます。考えが出つくすまで付箋を作成していきます。できた多数の付箋をグルーピングしたり、階層化していくことで、全体の考えを整理していく方法です。特に内容が多く多岐にわたる博士論文を書く時、KJ法にはお世話になりました。また、集団で討論をしてくときの考えを整理するときにも、利用させていただきました。
 別の方法では、キーワードや思いついた言葉を線で結びながら書くクモの巣状の図(Web Map)があります。Web Mapと同じなのですが、連想を重視したマインド・マップなど、さまざまな方法が提案されてきました。今ではパソコンで簡単にWeb Mapを作成するソフトもあるので、私も腹稿作成に使っています。長期計画を立てたり、ものごとを構想するときに役に立っています。
 現代では、腹稿のための思考整理の方法にもいろいろなものがあるので、自分に合ったものを見つけることができます。昔は、文章化することが重要でした。腹稿も文字が主だったのでしょうか。他の方法を考案していた先哲もいたはずです。素晴らしい腹稿の方法があったとしても、文章を書くことが目的のためなので、文章ができれば、そのような腹稿は不要になり、消えてしまうことになります。
 ところが、私は、腹案を実体化し、皆が見られえる形で残されたものを知りました。南方熊楠が作成した腹稿でした。南方熊楠顕彰館を訪れた時、熊楠が原稿を書くとき用いた図を「腹稿」として展示されているのを見ました。実はこの時、初めて私は「腹稿」という言葉を知ることになったのです。
 その腹稿はすごいものでした。大きな和紙に、熊楠特有の極めて小さな文字で、大量のキーワードや短文が書き込まれていました。キーワード同士で関連があるものは線でつないであり、グルーピングされたり、執筆順をメモしたり、赤のスミを使って区分しているところもあったりしました。展示されていたのは、「十二支考」用の腹稿で、ひとつひとつの干支に対して一枚の腹稿が示されていました。ときには裏面にも書き込みが続くこともあります。
 熊楠が文章の構成を考えるために、非常にいろいろなキーワードを自分の頭から引っぱり出して、それをまとめる工夫をしていました。現在のいうところの、KJ法やマインド・マップに通じるものです。熊楠は誰に教わるでもなく、自分で編み出した方法です。もし、このような展示がなければ、この方法は知られることなく、埋もれていたはずです。現在のマインド・マップの提案より、数十年も先駆けていました。
 このような緻密な作業をする傍ら、熊楠は手紙では奔放な書き方をしています。着地点も考えず、思いつくまま、話が行ったり来たりしながら、書き連ねられます。気心の知れた人への手紙は、長く、より一層その奔放さが増します。彼の頭の中にある自由闊達な思考形態を、そのまま書き連ねているようです。
 「十二支考」のようにしっかりとした文章を書く時は、腹稿のように入念な準備がなされたようです。英語の論文を書くときは、このような腹稿はないようです。ある時から、あるいは複雑なアイディアをまとめる時、この方法を考案して使いだしたのでしょうか。
 自分の考えを長文の文章化するとき、頭のなかで構想してそのまま書き出す人もいるはずです。今では、ワープロで修正加筆が簡単にできるので、書きながらアイディアをまとめていくこともできるようになりました。アウトライン機能を持っているエディターやワープロもあるので、それを利用することもできるでしょう。これは技術の進歩でもあり、よい手法の共有化が進んでいるためでしょう。
 一部の能力あった人だけでなく、だれものが長文を書いたり、アイディアをまとめることができるようになってきました。おかげで、私のような凡才でも、長文が書けるようになってきたのです。世間にとってはの駄文の長文で迷惑でしょうが。

・有効利用・
大学は後期の授業終わり、
定期試験のシーズンとなっています。
そしていよいよ入試がはじまります。
教員は、いろいろ校務は続くのですが、
講義が終わると、時間に余裕はできます。
まとまった時間とれるので、
研究をすすめる重要な時期となります。
私もこの時期にしたいことがあり、
有効に使ってきたいと考えています。
その研究のまとめには、腹稿が不可欠になります。
利用させてもらっています。

・野外調査中・
このエッセイは、実はかなり前に書いて
予約発送の手続きをしています。
それは、1月下旬に九州に野外調査に出かけるためです。
昨年のゴールデンウィークに熊本を中心に
調査に出かける予定でしたが、
熊本地震のために、中止にしたものです。
今年度になんとか行くべきてだったのですが、
時間がとれずに、この期間にぎりぎり行くことになりました。
そのため、事前に書いて発行しています。

2017年1月1日日曜日

180 悦ばしき知恵:生涯学ぶ

 明けましておめでとうございます。今年最初のエッセイは、「悦ばしき知恵」というめでたいタイトルです。ただし正月早々、熊楠とニーチェの登場となります。難しい内容ではありませんので、お付き合いただければと思います。

 昨年は例年にない異常気象がつぎつぎと起こり、不安定な気候状況でした。今年は穏やか一年であることを願っています。
 新年早々のエッセイでは、今興味の持っていることを、少々深めて書こうと思ったのですが、少々専門的すぎるので、関連するのですが皆様に興味を持ってもらえそうな話題にしました。最初から優柔不断な話ですが、皆様にとっても「悦ばしき」話題になればと思っています。
 私は、南方熊楠(1867.5.18-1941.12.29)に以前から興味をもっていました。昨年から熊楠自身の文献、関連する文献を可能な限り集め、少しずつ読み始めています。このあたりの事情は、昨年11月のエッセイ「178 南方マンダラ」で書きました。
 熊楠は、不思議な人物で奇人変人扱いをされているのですが、調べていくと、なかなか面白い人で、共感覚えます。熊楠は、思索を深めながらも、フィールドワークを非常に重要視していました。その思索も独自のものを展開しています。世界を相手に一歩も引けを取らない気概も感じます。私が共感を覚えるところはこのような点です。
 フィールドワークで粘菌類や菌類の採取をして、自宅で詳細なスケッチと記載をしています。資料提供はするのですが、自身では粘菌の論文は、あまり書きませんでした。一方、思索では伝承や伝説などの民俗学については、特に日本、東洋の思想を西洋の思想を比較研究するという分野で大きな貢献がありました。一流の科学雑誌である「Nature」誌にも51本の論文が掲載されており、他にも国内外の研究誌に非常に多くの業績を残しています。熊楠には抜群の記憶力と語学力があり、若い時代に14年に及ぶ海外生活があり大英博物館に出入りしました。そのような能力、人脈を持っている上に、持ち前に負けず嫌いの正確で、超人的な研究者生活を送っています。
 彼の持ち味は、膨大な書翰にあります。送る相手に合わせて、いろいろな思想を展開しています。以前、熊楠の曼荼羅は紹介しましたが、土宜法竜との手紙は圧巻です。ただし、読むのは熊楠の癖を理解していないと、なかなか大変作業ですが。
 手紙でも、研究でも、いずれも大変だと思うような方法をとっているのですが、いったてオーソドックスな正攻法で研究を進めています。素晴らしい姿勢です。熊楠のさらにすごい点は、そんな大変なフィールドワークや文献調査なども、楽しんでいるところです。晩年も衰えを感じながらも、生涯学び続けています。学ぶことに常に悦びを感じているところこそが、熊楠の魅力です。
 ここから、話題が変わります。
 ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844.10.15-1900.8.25)が登場します。ニーチェは、ドイツの哲学者です。名前を聞いた人も多いのではないでしょうか。彼の偉大さは、神、真理、理性、自我などの概念を、従来のものとは全く違った解釈をしました。さらに、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰など、ニーチェ固有の概念を提示しました。
 ニーチェを出したのは、1882年に出版した「悦ばしき知識」という書籍を話題にするためです。私は読んだことがないのですが、この本では、永劫回帰説と、宗教からの別離を意味する「神は死んだ」という有名な主張をしています。
 さて今回のエッセイで注目したいのは、本のタイトルでもある「悦ばしき知識」という言葉です。「悦ばしき知識」とは、「gai savoir」とも書かれ、もともとはフランス南部プロヴァンスで使用されているプロヴァンス語「la gaya scienza」に由来するもので、思索法を表すものだそうです。英語では著書名は、「Gay Sicence」、あるいは「Joyful Wisdom」と訳されています。「悦ばしき知識」とは、如何なるものでしょうか。
 澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)によりますと、ニーチェの「悦ばしき知識」とは、「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう。」と述べています。同感です。
 学ぶことは、元来、面白いもののはずです。そして、知ったことは他の人に伝えたくなるものです。正確によく伝えるには、深い理解が必要になります。断片的ではなく、体系的な知識。ただし、体系的に学び、理解するときには、難解な書物の読破、ときには基礎知識の吸収からはじめなければならないかもしれません。しかし、辛さの先には、学ぶ「悦び」が待っているのです。澁澤は、これこそが「悦ばしき知識」の意味だというのです。
 そこに最初に述べた熊楠の学問の姿勢の通じるものがあります。熊楠は、多数の書翰を書いています。膨大な彼の著作(全集の12巻+日記4巻+その他)があるのですが、そこには書翰も多く再録されていますが、本来の量はその何倍にもなると考えられます。近年でも熊楠の書翰が発見され、新たし本や論文として紹介されています。
 書翰にも、いや書翰にこそ、彼の思想のさまざまな展開がなされています。相手により議論や思索の内容を変えています。書翰ですから日の目を見ないはずのものであっても、思索には手心を加えていません。高尚に深く思索がめぐらされています。そんな書翰を、熊楠は、興が乗れば、不眠不休で書き続けます。澁澤は、そんな様子を、「南方熊楠は生まれながらにして、この「悦ばしき知恵」の体得者であったように思われる。」としています。私もそう思います。私は、しばらく熊楠を読むつもりです。

・終わりなきもの・
熊楠の書籍を読んでいると、
自分は、まだまだ学び足りないと思ってしまいます。
特に学ぶ姿勢が不足していると思います。
どんなにつらい状況であっても、
フィールドワークを続けようと思います。
学ぶ内容には貴賤やタブーはなく、
すべての知識は「悦ばしき」ものとして
対等に同じ姿勢で取り組んでいきます。
自分が面白いと思えることは、
最大限の努力と誠意をもって取り組むべきでしょう。
いくつくになっても、与えられた状況で
与えられた自身の能力で、精一杯に学んでいくべきです。
現在の私が与えられた職業、環境として
大学教員というものがあります。
この職業は、「悦ばしき知恵」を具現化できるものであります。
学ぶことは「悦ばしき」ことで、終わりなきものです。

・悔いのない日々を・
今年こそとは、思うことはなくないのですが、
それを全面に出すことはないでしょう。
やるべきことを、計画を立て、修正しながらも
淡々と進めていくことが大切です。
ただし、私に残された時間はあまりないことは確かです。
ただし、終わりを心配しながら生きていくのではなく、
どんなときに終わったとしても、
悔いのない日々を送ることが重要ではないでしょうか。
そんなことを年のはじめに考えています。