地球誕生直後の冥王代のはじめには、さまざまな現象が起こったはずです。しかし、その実体は不明です。なぜなら、通常の科学的方法での検証が困難だからです。そんな時代を、どのように探っていけばいいのでしょうか。
最近、仏教の密教について調べています。それには、二つの理由があります。
一つ目は、検証不能な時代へのアプローチをするとき、未知、あるいは不可知のものへのアプローチとして、西洋の科学的手法が限界になっているように思えたからです。
最近の研究テーマは、冥王代(45.6億から40億年前)の様子を探ることです。43億年前以降の冥王代後期から太古代のはじまり(40億年前)まで、岩石は見つかっていないのですが、太古代の地層に中の砂粒となった鉱物(砕屑性ジルコン)が、世界各地から見つかっています。ですから、冥王代後期は、かろうじて、検証の可能がある時代となっています。
科学は、仮説を立てて、それを検証していく作業となります。その検証には証拠が不可欠になっています。しかし、43億年前より以前の冥王代前期は、地球上では証拠がえられない時代となっています。
一般に自然現象には、何らかの原因が生じれば、それに対応した結果が生じると考えます。その因果関係を解き明かしていくことが、科学の重要な目的となっています。科学は、その因果関係の存在を前提として進められています。
ところが、冥王代前期は証拠がないので、そのような科学的手法が使えない時代となります。そんな時代へのアプローチとして、かすかな手がかりや、他の情報からの外挿や類似、対比などから推定していくために、宗教的な方法論が使えないかと考えています。
二つ目の理由は、これまでの科学では、検証過程や論理過程、あるいは因果関係、結果を、すべて言語化して示してきました。言語化できない内容は、科学にはなりえません。言語化できない真理もあるのではないかと考えたからです。
人の知的営みとして、思考の過程には、ひらめき、思いつきなど、言語化できない過程を経ている部分あります。言語化しているのは、最終段階のアウトプットにすぎません。思考の言語化できない過程は、科学の成果や結果には示されることはありません。
新しい思いつき、突飛な考えが、重要な方向性を示したり、無関係に見るものが連関したりすることで、課題解決の糸口になることがあります。しかし、そのような言語化できな過程は、科学者の訓練過程(大学院の学び)にも組み込まれていませんし、科学の結果としては示されていきません。そんな言語化できない過程を、研究者は経験することで、存在することを認識していきますが、いつ起こるかは不明なので手法にすることは困難です。
そんな言語化できない思索の方法論については、仏教で追求している「悟り」にヒントがあるのではないかと考えています。一部の宗教では、いくつもの儀式を「悟り」を開く過程として用意しています。言語化できない「悟り」への過程は重要で、そこには考えるための技術や考え方などの方法論が参考になると考えています。もちろん科学の過程においては、そのようは儀式にはこだわりませんが。
仏教の基礎に、発想へのヒントを探っていきましょう。
仏教用語に「縁起(えんぎ)」という言葉があります。これは、「因縁」により事が起こることを意味し、仏教の基本的な考え方です。「因縁」の「因」とは直接の原因のことで、「縁」は間接の原因のことです。それらの「因縁」により、何かが生じることをいっています。
「大蔵経中部経典」に、次のように書かれています。
これあるとき、かれあり
これの生じることによって、かれが生じる。
これなきとき、かれなく、
これの減することによって、かれが減する。
この短い文章は、「縁起の法」と呼ばれ、重要で深い意味があるとされています。その意味を考えていきましょう。
「これあるとき、かれあり」とは、「これが存在するとき、かれが存在する」ということです。「これ」が存在するためには、関連する「かれ」(別の原因や条件)が存在している必要がある。全てのものは、単独で存在するのではなく、互いに関わり合い、支え合っているという「相互依存」を示しています。
「これの生じることによって、かれが生じる」は「これが生じることによって、かれが生じる」ということです。「これ」(あること)が生じることによって、それと関連する「かれ」(別の結果や現象)が生じるということです。全ての現象には原因があり、原因が変化すれば結果も変化するという「因果の連鎖」を意味しています。
「これなきとき、かれなく これの減することによって、かれが減する」は、「これが存在しないとき、かれも存在しない これが減することによって、かれも減する」ということになります。「これ」の原因や条件がなくなったり、弱まったりすれば、それによって生じていた「かれ」の結果や現象もまた消滅したり、弱まったりすることを示しています。永遠に変わらないもの、つまり「不変」のものはなく、全てのものは常に変化し続けているという「無常」を意味しています。
すべては相互に依存し合って存在し、あるいは生まれ、あるいは滅びる、という関係があるということです。この言葉の中には、相互依存、因果、そして無常(不変はない)という仏教の重要な思想が凝縮されていることになります。この「縁起の法」がブッダの悟りの基本となっています。
すべての存在は、移り変わり、常住不変のものはないことを、「諸行無常」といいます。すべては相依相関において存在し、固定的で永遠不変の実体(我)が存在しないことを、「諸法無我」といいます。この諸行無常と諸法無我が、ブッダの悟った真理だといいます。
これらは、「普遍則」を目指す現在の科学とは、まったく異なった前提に立っています。
ブッダの悟りには、他にも「一切皆苦」と「涅槃寂静」があります。一切皆苦とは、永遠の存在を求めて不変を願えば、不変など存在しないものを求めることになるので、それはすべてが苦しみとなります。えられるはずもない「不変」を求めるなということです。涅槃寂静とは、正しい智慧によって苦の原因を知り、煩悩の脱して悟りの境地(涅槃)に達する、という意味です。縁起をわきまえ、不変を求めず、ということです。
冥王代前期へのアプローチの方法論を見つけるのには、まだまだ時間がかりそうです。涅槃に達するのは、なかなか難しそうです。しかし、不変を求めず、冥王代の縁起を少しでも理解していきたいと考えています。
・長期旅行・
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久しぶりの5泊6日の長期旅行で
沖縄にでかけています。
家族連れで、2004年と2007年に訪れて以来、
久しぶりの沖縄滞在となります。
だいぶ、様変わりしていると思いますが、
都会から離れて、自然の中で、
のんびりとした滞在を
楽しんできたいと思います。
・退職祝い・
自身の退職祝いのつもりで
早くから沖縄への旅行の予定を立てていました。
4月下旬に、突然、眼の調子が悪くなりました。
以前にも2度ほど発症しており
その時は1年近く治療を続けていました。
そのため、一旦は旅行を諦めかけました。
幸い、少しずつ回復してきているので
様子を見ながらですが、
無理せずに、でかけることにしました。
久しぶりの沖縄ですので
のんびりと楽しめればと思っています。