2003年7月1日火曜日

18 証拠と論理(2003年7月1日)

 地質学は、自然科学の一分野です。ですから、科学である限り、証拠と論理に基づいて、その論理体系は成り立っているはずです。しかし、証拠と論理によってなりたっている世界は、本当に正しいのでしょうか。そして、本当に正しい世界を見つけるにはどうすればいいでしょうか。

 セールスマンや言葉巧みな人のいうことにつられて、ついついその誘導にはまってしまうことがあります。ものごとを深く考えていても、どうしても、自分自身でそのわなにはまってしまうことや、あるいは、他人をだますためにその論理を意図的に利用することもあります。簡単な場合は、その論理のおかしさ、矛盾を見抜くことができますが、複雑な論理、あるいは、説得力のありそうな証拠、上手な話術、などが展開されると、ついついはまってしまいます。これは、誰でも陥るわなですし、だれもが逃れなれないものなのかもしれません。
 こんな例を出しましょう。恐竜の化石の発掘現場を見せられたとします。そこには、恐竜が横たわっている化石があります。そして、その恐竜のお腹には付近には、まるでその恐竜が守っていたように、卵の化石があります。こんな化石が見つかったとしましょう。
 この化石のでかた(産状)は、恐竜が子育てをしていたという有力な根拠、証拠となります。もし子育てしていた恐竜がいたとしたら、子供の教育をしていた、つまり、かなり高度な社会性を持っていた可能性があります。それが草食性の恐竜であれば、そのような社会性は、肉食性の恐竜から自分たちや仲間を守るために、群れとしてして行動をしていた可能性があります。肉食性の恐竜、つまり攻める側かららすると、これらの防御を打ち破って、食料にするには、ティラノザウルスのように、巨大で強力になるか、小型のものは、チーターのようにスピードで対処するか、オオカミのように群れをなして戦略で立ち向かうでしょう。
 などという、論理が展開されることがあります。でも、これは、たった一つの化石の発掘から展開されたものです。もし、この化石という証拠の解釈が間違っていたらどうなるのでしょうか。すべてのストーリーつまり論理は破綻してしまいます。
 化石となるときには、土砂に卵や恐竜が埋まらなければなりません。ですかた、たまたま卵の殻のあるところに、まったく関係のない恐竜の死体が埋まって、それが発掘されたとしらどうでしょうか。あるいは、化石になった恐竜は基本的には、草食性なのですが、卵なども食べることがあり、実はその卵をたまたま食べにきたとき、土砂に埋まったのだとしたら、どうでしょうか。上で展開した論理は、成り立ちません。あるいは、後者の場合だと、まったく逆の違う論理を立てなければなりません。
 これは、比較的簡単な例でしたので、反対の解釈がすぐに了承できますが、もっと、複雑に入り組んでいると、どうでしょうか。あるいは、別の証拠がたくさん提示されたら、どうなるでしょうか。実は、いったん信じてしまうと、あるいは信じれば、信じるほど、その論理からは抜け出しにくくなります。まして、そこに利害や、自分の心情などが絡んできると、もはや、反証を挙げた側を、根拠なく批判してしまうこともあるでしょう。
 これを強烈におこなたものが、洗脳でしょう。そこまでいかなくても、思い込み、確信、信念、常識などは、もしかすると、このような状態にあるのかもしれません。
 洗脳状態に陥らないようにするには、どうすればいいのでしょうか。やはり、証拠に対しては証拠、論理に対しては論理で対処するしかないようです。今まである証拠を根拠にしていたとき、その証拠を否定するような証拠が出てきたとき、どちらの証拠が、より証拠能力があるか、あるいは別の論理を用いれば、両者の一見矛盾する証拠を説明することができないか。論理的に考えて、今まで信じていた論理がおかしいとわかれば、間違った論理を捨てる勇気が必要です。そんなチェックを、常に行えるこころの柔軟性が必要です。あるいは、この柔軟性がなくなったら、もはや洗脳されていることになります。
 その教義と運命を共にするか、常に、正しいものを求めて、正しいほうへ転進できる姿勢を持ち続けるか。これは、その人の活き方にかかわることです。これ以上は、他人がとやかくいうものではないでしょう。それ以上いって、介入すると、こんどは、自分が押し売り、洗脳する側なります。
 さて、このような論理ですが、論理ですべて解決できるでしょうか。論理とは、皆がこれは絶対正しいということ(公理、原理、前提、仮定など)から出発して、正しい手順で証明されたことだけで構築されるものです。そんな論理的に組み立てられた世界(体系、システム、系など)は、もちろん正しいはずです。
 ところが、そんな世界が、その世界の中では、正しことは(無矛盾である)判定することができないとわかったのです。それも、数学のある分野でのことでした。
 ゲーデルという数学者は、ある数学体系では、どんなに論理的に積み上げられた世界であっても、その世界の中では、無矛盾ということが判定できないということを、数学的証明したのです。大変なことになりました。この証明は、「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれ、その数学の分野では、この証明の正しいことがわかっています。そして、その「不完全性定理」の世界は、いろいろなところで見つかるようになってきました。
 昔から知られている例として、自己言及のパラドックスというものがあります。
「この文章は、ウソである」
というよなものです。相互言及というものもあります。
A氏「B氏の言うことは、正しい」
B氏「A氏の言うことは、ウソである」
さて、これらの文章は正しいでしょうか。短い文章ですから、その異常さに簡単に気づきます。このようなパラドックスを、より論理的に、より深く考えていったのが「ゲーデルの不完全性定理」です。つまり、論理的に正しいものだけでできている世界でも、このようなパラドックスが含まれていることが証明されたのです。
 このようなパラドックスが、複雑な論理体系の中に仕込まれていたら、複雑でなくても、巧みに論理の中に組み込まれていたら、見抜けないかもしれません。数学という非常に論理的な世界でも、なかなか見抜けなかったほどですから。
 論理的に考えるということにも、限界があるということです。では、論理や証拠にだまされないようにするには、どうすればいいでしょうか。いまのところ、人類は、「完全」な論理の体系を手にしていません。数学の世界で不完全を見抜いたのも、やはり論理でした。ですから、論理と証拠を用いるという方法が、いちばんいいようです。この論理と証拠によって、論理体系のおかしさが判明しました。ですから、面倒かもしれませんが、「不完全」かもしれませんが、論理と証拠を用いるのが一番確実でしょう。そしてろの論理と証拠を扱うのは、人間です。それも不完全な人間です。ですから、論理と証拠を頼りにして、騙されながらも、こりずに、心の柔軟性を失うことなくいることが大切なようです。やはり、最後はこころの持ちようでしょうか。