2015年12月1日火曜日

167 地質の唯物史観

 地質学という学問は、唯物史観にそって進められているようにみえます。唯物史観の背景になっている唯物論や弁証法は特別なものではなく、ごく普通にある、当たり前の考え方でもあります。

 唯物史観という考え方があります。「唯物論的歴史観」の略で、史的唯物論と呼ばれることもありますが、ここでは唯物史観と呼ぶことにします。唯物史観は、19世紀にカール・マルクスの唱えた歴史の見方です。マルクス本人はこの用語を使用することなく、後に用いられるようになったそうです。マルクス主義に基づいた歴史の見方のことなので、思想的な背景もあり、なかなか使いづらい用語かもしれません。しかし、本稿では、「唯物論的歴史観」という原意にそって使うことにします。政治的、思想的な考えをもっているものではありませんので、ご了承ください。
 そもそも唯物史観は、唯物論と弁証法を背景にしています。
 唯物論とは、すべての根源は物質にあるという考え方です。現在の自然科学は、基本的に唯物論の立場をとっているといえます。自然現象は、根源が精神や心にあるという観念論に立つと、科学的論証や検証が難しいためです。観念論では白黒がつかないものが多く、自然科学の方法論には馴染みません。唯物論であれば、事物や事象が論証の対象となるので、成否や正誤の区別がしやすくなります。
 自然科学だけでなく、科学技術も唯物論的立場で進んでいることになります。科学技術に依存している現在社会も、かなり唯物論的状況にあると言えるのでしょう。ところが人文科学や社会科学は、かならずしも唯物論的ではありません。デジタルやインターネットを通じたバーチャルの世界もかなり比率を占めています。そこで使用しているのは科学技術なのですが、営みは社会性、人間の関与、精神への反映などもあり、唯物論ではすまない観念論的部分も多くなります。金や資本が大きな要素になっている経済や人の集合にかかわる政治や社会もまた、唯物論では治まらないようです。
 本題にもどりましょう。唯物論とは古くからある考え方で、古代インドや中国にもありました。また、古代ギリシアの哲学者の唱えた、万物は原子や元素からできている、という考え方は、明確に唯物論といえます。知覚・思考すら元素に還元しました。したがって唯物論は、観念論にたっているキリスト教とは相容れず、批判する立場になっていきます。その後の近世では、フランスのデカルトらの機械論なども唯物論の継承しています。そして、ヘーゲルなどの哲学に取り込まれるようになり、唯物論の重要性が認識されてきました。つまり、現在までさまざまな形態をとりながらも、人の思考には唯物論は絶えず現れている考え方といえます。
 次に弁証法をみていきます。弁証法とは、ものごとの発展様式のことです。ある事物や思考(テーゼ、定立)があったとき、やがてそれと相対するもの(アンチテーゼ、反定立)が出てきて、それら対立、矛盾したものを解消するためによりよいもの(アウフヘーベン、止揚)へと発展していくというものです。それを哲学的構築したのが、ヘーゲルでした。この考え方は、変化しながらも発展、継続していくものに適用可能です。変わりゆくものは、弁証法的変化はよく起こるものです。
 マルスクは、歴史を唯物論的に捉え、弁証法的に発展していくものだとして、唯物史観を考え出しました。現状の国家運営では社会主義がすたれ、共産主義が崩壊しそうで、唯物史観はあまり話題になりませんが、唯物論も弁証法も実は、あちこちに見え隠れしている気がします。
 地質現象も、その好例となっていると思います。
 例えば、地層です。ある時に海底にたまった土砂が、長い時間かかって堆積岩となります。土砂は、過去の時空間で占めていたものが、堆積岩という物質として現在に残されます。それを地質学では、過去を知る研究素材としています。堆積岩は、現在の時空間に存在する「物質」に過ぎません。過去の時空間において形成された「物質」ですが、過去の時空間を形成場としてているもので過去の時空を見ているのではありません。あくまでも物質で、時空間そのものではありません。しかし、地層は、時空間を読み解くために唯物論的アプローチが適用されています。また、土石流のような土砂と水の混じった未固結の物質から、固結した岩石へと変化したものです。物質としても、変化したものから、変化前(過去)の堆積場、堆積環境や後背地を読み取る素材とみなしています。これは堆積岩を唯物史観的視点で見ていることになります。
 化石も似た見方がされています。過去の生物の一部が石化して堆積岩に取り込まれたのが、化石です。化石は堆積岩の一部の構成物であり、「生きている生物」ではありません。論理的には「化石=過去の生物」は検証不能です。なぜなら化石に生物の定義をまったく適用できないからです。しかし、「過去の生物」の一部だったとみなして、過去の生命を探る素材にしています。化石に対して、唯物論を適用しています。さらに、現在見つかっている化石を、過去の生物の一部とした上で、過去の生態、環境を探る手段として利用されています。化石から、過去の生物、そして暮らしていた生態系へと、弁証法的見方があります。化石の研究にも、唯物史観があるように見えます。
 火成岩にも唯物史観が適用されています。過去の既存の岩石が、温度圧力などの条件変化によって溶融したものがマグマです。マグマが固まったものが火成岩です。固体(既存の岩石)から液体(マグマ)を経て、別の固体(火成岩)になるという過程は、弁証法的変化です。火成岩を用いて、マントルや地殻下部の様子や地球の過去の状態を探るのは唯物論的です。
 さらに、岩石の成因として、火成岩、堆積岩そして変成岩があります。3つの成因の中で岩石の多様性を広げる作用として、火成岩が一番大きくなります。それは一番弁証法的変化が起こっているためです。また、地球でできた最初の岩石を考えるとき、弁証法で突き詰めていくことが可能です。地球オリジナルの岩石として最初にできたのは、マグマオーシャンからできた火成岩となります。詳しくは別の機会にしましょう。
 地質学は、過去の時空間で形成された物質から、過去を読み取ります。研究者は、現在手に入る岩石を通じて過去を読み解きます。時間に伴ってさまざまに変化した岩石を扱うので、常に唯物史的視点で岩石を見ていることになります。その手段として、たとえ物理学、化学、数学などの原理を使っていても、過去へ適用するときには、唯物史観が働きます。地質学者は、無意識に唯物史的に自然現象を眺めていることになっています。

・走り続ける・
火成岩の弁証法的変遷については、
以前論文に書いた内容でした。
その後、最初の岩石についても考えを進めていますが、
その前に考えなければならないことが多々あり、
なかなか研究が進みません。
アイディアを簡単に述べるのは楽なのですが、
深く考えていくと、いろいろなことが頭をよぎり
なかなか一筋縄ではいかないテーマだと思えます。
それでも、どこかで割りきって
進めていくほうがいいのでしょう。
完璧主義では、終わりがないからです。
走りながら考えましょう。
ということは、私はこれからも
ずっと走り続けなければならないということでしょうね。

・根雪か・
今年も最後の月、師走となりました。
慌ただしさはいつもなります。
11月末には、激しい雪となり、
その後雨に変わったり
目まぐるしく変化した月末でした。
そして雪で師走ははじまりました。
まさか根雪にはまだならないと思いますが、
心配したくなる雪景色です。

2015年11月1日日曜日

166 凡百の才能は手作業を

 科学や技術が進み、非常に便利な世の中になってきました。そんな最新の世界を切り拓いているのは、研究者たち、技術者たちですが、実はそんな世界にも凡庸な人も多数います。凡庸な研究者の生きる道もあるのです。

 科学や技術の進歩により、多くの分野で分業化が進み、それぞれの成り立ちや仕組みを知らなくても、その恩恵を受けることができるようになりました。たとえば、本を一つでも、多くの分業がなされています。まず、本は何からできているかというと、紙からです。紙にインクで印刷され、製本されているものが本です。では紙はどうしてつくられるかというと、木を材料として、繊維状にほぐして平らに、白くしたものです。インクはかつては鉱物や生物などから色素(染料)を抽出したもので、今では化学的に合成されているものです。そのインクを活字や刷版にぬり、紙に押し付けて印刷します。印刷されたものを、かつては手作業で、今では機械により製本していきます。これが本の構成と製造過程の概略です。
 素材は、技術の進歩に伴って、天然自然のものから人工、化学合成のものへ、作業工程も手作業から、機械やコンピュータ制御の自動機械に、そして高精度に大量に安価に作成できるようになってきました。そこに従事する人も、機械の運転、運用、監視、管理などの作業が中心になり、人の労力を要する工程が減ってきました。もちろん本を書く人は編集する人は、特別な能力を持った人も必要でしょう。ただし、生産する側の人は、複雑な装置の原理を理解することなく、ルーティンなっている作業や、コンピュータによる制御を、日々の業務としてこなすことになります。このような作業員は、全貌を知ることなく生産をすることも可能です。
 便利さの陰には犠牲になっているものもあるはずです。それは人が体を使ってこそ得られる感覚や体験などでないでしょうか。人は、生物であり、動物でもあります。動物は、外から栄養を取り入れ、いらないものを体外へ排泄します。栄養を摂るためにエネルギー、労力を使って行動します。採食行動が報われると、満足感が得られます。行動と快楽の繰り返しが、生命活動を維持しているのでしょう。
 現代人は、生きるために体を使うことが減りました。しかし、動物的本能を満たすように、人はスポーツやレクショーンなどで肉体を使い、運動をしています。運動して汗をかくと疲れますが、そのかわり達成感や爽快感があります。人は、本能的に体を使うことの大変さとその後にくる爽快さを知っているのです。
 現代社会では、製造業では多くの部分で肉体的な労働は機械が肩代わりし、機械操作、制御操作、あるいはデスクワークが多くなっています。現場労働者は、通勤、通学などで動くだけで、ほとんの仕事が机の上、あるいはパソコンですむようになってきました。
 会社だけでなく、科学の世界でも似た現象は起きています。分析装置、測定装置は、機械化、コンピュータ制御が進んでいて、いかにそれを使いこなすかが、研究者にとって重要な技能になっています。しかし、それは研究というより、分析技術や実験手法であり、それだけでは独創性のある研究ができるわけではありません。
 もちろんテーマによっては、従来のデータを用いて新しい成果を生み出すことも可能でしょう。そもそも科学のおいて、そのプロセスではなく、結果の新規性、独創性などによって、評価されるべきものです。素晴らしい着想で、最小の労力でスマートに、独創的な成果をエレガントに出すことが、本当は一番素晴らしい成果です。そんな画期的な成果を、一生のうちにいくつもだせる人は、本当に優秀な一握りの研究者でしょう。
 私を含めて凡百の研究者は、泥臭い手作業による研究をしていくことになります。手作業の多い研究は、才能がなくても、努力し手間をかければ、それなりの成果を挙げられます。基礎的な記載には、今でも多くの部分で手作業がなされています。新規性や独創性が少なくても、成果は、その分野の基礎データ、記載データとして必要な情報になります。泥臭く見えますが、多くのデータを得ることは、基本的で重要な作業です。幸いなことに研究には、まだまだ手作業が必要なもの含まれています。そのような分野であれば、愚直に淡々と進めるしかない研究もあるのです。
 例えば、地質学でいえば、広範囲を丹念に歩いて調査したり、範囲が狭くても大量の試料を採取し大量の分析したり、ひとつのテーマにそって多数の地域で試料を集め比較検討したり、大量の文献をまとめるなど、手間がかかる研究があります。大量の野外調査や試料数、データ数などをそろえた研究成果を見ると、圧倒されてしまいます。地質学者の多くは自分もそんな苦労をしてきたので、その研究の背景には手作業を伴う、多くの苦労や労力、強い精神力が払われていることが想像できるのです。その労を知っているからこそ、多くの手作業の必要な研究は尊ばれます。基礎データ、記載データの持つポテンシャルだけでなく、その背景にある労働への畏敬の念も含まれているのでしょう。
 研究者となるため、最新の装置の使い方とともに、泥臭いですが手作業の必要なもの(野外調査、試料の準備、単調な記載)、精度を上げる苦労(装置の維持、調整、長時間の分析)も一緒に修行していくことになります。この修行により、潰しのきく研究者となっていけるような気がします。手作業を能力、個性に応じて進めれば、研究者として生き残っていけるということです。この苦労を端折った人は、恵まれた才能がないと、なかなか生き残れないのではないでしょうか。
 ある人は修行時代、駆け出し時代に苦労した手作業の部分を、少しでも楽にするために技術開発を、苦労して達成した精度を維持したり簡便化するための工夫、手作業の部分を改善することも成果として、科学へのささやかな貢献となります。それは、手作業による大変さを知っているからこそ、改善をしたいという発想が生まれるものです。これらが積もり集まって、現在の技術の礎となっていきます。
 もう少し才のある人は、従来の使い方、従来の装置ではできないような、新しい分析、測定、観測などによる研究をしていきます。時には、手作りの装置、手作業による測定、思考錯誤の観測などを行います。このようなことも、今までの方法の少しの改善、改良、別の使用のしかたなどの応用によるもの多く、少しの発想があれば、あとは時間と労力をかけて成果を上げることになります。これも凡百の研究者の進む道です。
 研究者の道は、一部の才能のある人だけの世界ではなく、普通の能力しかない研究者であっても、手作業で努力をしたり、手作業の部分を少し改善したり精度の向上させていくことで、その凡庸さ補えます。あるいは、大量の手作業が必要な研究もあるので、そのような場こそ凡庸な研究者の力の発揮できる道ではないでしょう。私もそんな凡百の研究者ですから、淡々と汗を流して努力すること、デスクワークでも手間のかかること、大変な作業量を要することに対して、逃げることなく取り組んでいきたいと思っています。

・重要なエッセイ・
このエッセイは、実は別のテーマで書き始めました。
しかし、書いていく途中で別の方向に話がそれいきました。
気づいたら、私のような凡庸な研究者は
手作業が重要な研究手法をとっている
という話になりました。
このエッセイを書いたことで、
自分の進むべき道、とるべき態度を
再確認することができました。
興味のない人には迷惑かもしれませんが、
この回は、私にとって重要なエッセイとなりました。

・いよいよ冬へ・
通勤途中から見える山並みでは
もう何度も冠雪がありました。
北海道は寒波の到来で里にも雪が降り、
冬の様相に一旦はなりました。
その後、冬型が収まり、晩秋にもどりました。
残った木々で紅葉が進んでいます。
名残の秋を楽しんでいます。
いよいよ北国の季節は冬に向かいます。

2015年10月1日木曜日

165 Ubiquity:遍在する冪乗則

 ある現象が起こったら、その現象は結果となり、その現象を起こした原因があるはずです。今、その因果関係がわからないのなら、調べることは立派な研究となります。しかし、そこに因果関係がないこともあるのです。

 "Ubiquity"という語はあまり聞き慣れない、難しい英語です。コンピュータに詳しい人は、OSのLinuxの一種(Ubuntuと呼ばれるフリーソフト)で動くプログラムの一つに、この名称を持つものがあり、それを思い浮かべるかしれませんが、かなりの少数派でしょう。Ubiquityは、「遍在」、「至る所に存在する」という意味で、平たくいえば「どこにでもある」ということになります。「遍在」は、同じ発音で「偏在」とは全く反対の意味を持ちます。Ubiquityは、ラテン語のubiqueを語源していて、「everywhere、至るところ」という意味です。
 遍在とは、どこにでも存在していることなのですが、その存在が知り得るかどうかはわかりません。今回は、気づきにくい遍在した存在について考えていきましょう。
 その偏在している存在は、だれもがなんとなく存在を感じているのですが、その存在に実態には気づきにくいものです。まったく関係ない現象に遍在するもの。同じ現象でもスケールが大きく違ったものに、見かけの全く違ったものに偏在するもの。存在する対象がかけ離れれば離れるほど、そんな遍在は気づきにくいものです。さらに偏在の本質となると、なおさら見抜きにくいものになるはずです。
 例えば、大規模な地震は多く、小規模なものは少ないという規則性。売れている商品には、爆発的に売れるがしばらくすると売れなくなるというもの、爆発的ではないが少しずつ長く売れ続けるものがあるという規則。一定量の砂を上から落とし続けると砂山は大きくなるが、あるとき突然崩れるという規則。株価の日々上下していますが、大きな崩落、激しい乱高下は稀にしかないが必ずあるという規則。インターネットのサイトで数個からリンクされているものは無数にあるが、100ヶ所から、1000ヶ所から・・・とリンクされている数が多くなるほどサイトの数は著しく減るという規則。などなど。
 ここで示した例は、スケールも性質も、自然現象だったり経済活動、消費行動だったりし、一見するとなんの関係もないように見えるものです。また、予測は不可能なのですが、きっと起こるものです。しかしそれがいつ、どこでかはわかりません。こんな多様でバラバラの事例ですが、個々の事例内には、何らかの規則性が存在しそうにみえます。
 実は、このような事象、事物には、すべてに共通する、遍在する法則があります。それは、冪乗則(べきじょうそく)と呼ばれるものです。指数の形式、あるいは対数で示されているものは、すべて冪乗則と呼ばれます。非常にいろいろな規則があります。その関係が法則や規則となっているものも多いです。ところが、規則性がわかっているからといっても、その原理や因果関係がわかっているとは限ならいものも多数あります。
 法則の原理がはっきりしているものとして、万有引力の法則は距離の2乗に反比例します。電磁気力も光の減衰も同様に逆2乗の法則になります。これらは、作用する場を面として捉えると、距離の2乗に比例して面は増えるため、作用力は2乗に反比例し減少するということになります。
 一方、まだ原理が定かでないものもあります。先ほどの示した例の多くはこちらです。他にも、乱流のエネルギーは長さの5/3乗にに比例し、動物の代謝は体重の3/4乗に比例しているという規則性が知られていますが、その理由はまだ不明です。
 規則性があるのがわかっているもので、原因がまだわかっていないものは、立派な科学となるはずです。研究されている人や分野もあるはずです。しかし、それが徒労に終わるかもしれないのです。
 マーク・ブキャナンは、冪乗則を「歴史の方程式」(ISBN4-15-208528-2 C0040)という書籍にしました。副題は「世界が考えているよりずっと単純なのはなぜか」というものでした。書名を「歴史は「べき乗則」で動く―種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学」と変えて、文庫化されています。この本の原著のタイトルが、実は”Ubiquity”となっています。複雑な歴史、世の中、現象に偏在している規則性、冪乗則があるというのです。現象とそこから導かれる冪乗則は、グラフ化、統計処理をすれば、導き出されるものです。それは、単純で、一目瞭然で、明快です。そして、それらの多くは、コンピュータによるシミュレーションとも一致していきます。
 ところがブキャナンは、冪乗則になる現象が、フラクタルの臨界状態から起こることであり、現象自体には原因がないといいます。フラクタルとは、部分と全体が自己相似になっているもので、規則は簡単なのですが、起こる現象は複雑になります。フラクタルで臨界状態(安定が崩れる寸前)になっていると、どの部分が、その規模で、あるいは全体が崩壊するかは、まったくわからなくなります。どこか壊れてもおかしくないという状態なのです。ただし、頻度は小さいものは多数起こり、大きいものは稀だという冪乗則が働きます。
 もしこのようなフラクタルな臨界状態が本質なら、原因は現象の中に見出されないことになります。地震の時期と規模などが、この臨界からの崩壊によるものだと考えられています。また、生物の大絶滅の同じだと考える人もいます。自然現象だけでなく、人口集中や経済活動などの人間活動にも冪乗の規則性があります。それらの現象には、原因が現象の中にはないことになります。現象を調べても、事実の記載はできても、因果が見いだせないことになります。このような不思議なことが、冪乗則の中にはあるというのです。
 通常の研究では、いろいろな現象で繰り返し起こることには、原因がありはずだと考え、調査研究が進められています。もしその現象が、冪乗則であれば注意が必要となります。その現象には因果に基づかないものがあるからです。自然現象だけでなく、あらゆる冪乗の規則性の現象には、原因を調べてもわからないものが紛れ込んでいます。これは、科学が「すべからく因果関係あり」として研究を進めていくことに、待ったをかけていることになります。冪乗則は、かなり恐ろしい遍在則なのかもしれません。

・それでも調べる・
上のように原理を述べたとしても、
科学者は現象を調べていくでしょう。
そして予測、予知もしていくでしょう。
地震、火山、山崩れ、洪水などは、
現象の頻度は冪乗則になっているのですが、
調べないわけにはいきません。
なぜなら、その現象は災害になり
起これば困る人がいるからです。
行政は災害への対策を考えなければならないし
科学者、技術者も災害を防ぐことは
社会的責務として対応しなければならないからです。

・中秋の名月・
9月末、北海道は冷たい空気がはってきたので
急に冷え込みました。
今年は、27日が中秋の名月でした。
私は忘れていたのですが、
メールで見られてた方がおられ知らせていただき
思い出すことができました。
中秋の名月は9月27日ですが、
翌28日に満月になり、月が地球に最も近づき、
最も大きく見えるスーパームーンになりました。
みなさんはご覧になられたでしょうか。
このメールマガジンは、28日に配信しますので、
残念ながら、見えたかどうかはお知らせできませんが。

2015年9月1日火曜日

164 三樹の教え:人を育てる

 計画的にものごとを進めることは、重要だし、達成する可能性を上げるためにも、必要不可欠でしょう。計画的に進める上で、人を育てることは、重要ですが、これほど難しいものはないかもしれません。

 なにかを成し遂げるとき、目的に応じた期間で計画を立てます。私の周りだけでしょうか、最近はどうもいろいろな場面で、計画作成を命じられることが多いように思えます。もちろん何かを成すならば、強制的であっても、計画がないよりは、あったほうがいいでしょう。
 特に長期に渡るもの、複雑なもの、多人数での進めるものには、計画は不可欠です。強制された計画でも、集団として取り組んでいたり、業務として厳しいノルマがあれば、十分な効果は得られるでしょう。
 では、個人のレベルで計画を考えると、どうなるでしょうか。
 そもそも個人がやる気もないのに、他者から計画を義務付けられ、実施を強制されたら、どれだけ実効性があるでしょうか。特に創造性を強要されたら、本当にいいものが生まれるでしょうか。形だけのもの、とりあえずのものしかできないのではないでしょうか。
 計画もなく、ものごとを遂行することは可能でしょうか。計画を立てないと、ものごとはなかなか進まないものです。個人であっても、自主的に立てた計画を持ったほうがいいはずです。ところが、自主的に立てた計画であっても、実施できるかどうかは、個人の気の持ちようや、状況にも依存するでしょう。
 私は、若い時からいろいろ計画を立ててきました。さんざん失敗してきたせいでしょうか、歳を経るにつれ、実効性のある計画を建てられるようになってきたように思えます。ただし、時には無謀だと思いながら、自分への動機付けのつもりで計画を建てることもあります。これは、自己弁護でしょうか。
 次に、計画の立て方を考えていきましょう。
 計画には、その期間によって、長期、中期、短期の区分ができるでしょう。この期間の区分は相対的なものであって、場面によって違ってくるでしょう。
 例えば、それぞれの一日の仕事の場合です。一日でも、この3つの区分が可能です。一日でも、いろいろな仕事があるはずです。仕事の手間にしても、数分でできるもの、1時間ほどかかるもの、数時間かかるものなど、いろいろがあります。そんな時は、一日の全体の仕事量と、その仕事の重要度、あるいはこなすに必要な集中度も重要になるでしょう。そんな区分をしてから、仕事に取り組んだほうがいいでしょう。私は朝型なので、集中して行うべきものは、朝、早めにスタートして、頭が働くうちに終わらすようにしています。午後は、作業量や時間がかかるのですが、集中力があまりいらないものに取り組むように心がけています。
 仕事の中には重要度の低いものがあります。時間に余裕があるときは、ついついだらだらと進めがちで、集中すれば一日で終わるはずのものも、終わらなかった経験は、だれもであるのではないでしょうか。気づいたら締め切りが目前だったりとか。仕事は計画的に進めていくべきでしょう。
 例えば、一週間ほどの野外調査の場合です。目的地までの移動に二日かかるとすれば、正味は五日分が調査日となります。その中には、調査地域内での移動時間も含みます。私は欲張らずに、一日に一、二地点の重要ポイントを定めて見るようにしています。また、全体として優先順位をつけ、最優先のものをできるだけ最初に調べるようにします。もし、天気が悪かったり、条件が悪ければ、再度調査できる可能性を残しておくためです。それでもだめなときは、別の機会に、再度訪れるようにしてます。
 では、年や一生のように長い期間に及ぶ計画は、どのように立てればいいのでしょうか。ある教えがあります。「三樹の教え」と呼ばれるものです。「管子」(かんし)で示された考え方です。
 一年之計、莫如樹谷
 十年之計、莫如樹木
 終身之計、莫如樹人
というもので、読み下すと、
 一年の計、谷(穀)を樹う(う)るに如(し)くはなし
 十年の計、木を樹うるに如くはなし
 終身の計、人を樹うるに如くはなし
となります。
 農村に暮らす人の考え方なのかもしれませんが、ここから学ぶべきことは、期間に応じて目指すものを変えるべきである、ということではないでしょうか。一年で収穫(達成)できるもの、10年で収穫できるものを考えろ、ということです。さらに重要なところは、最後の一文にあるのではないでしょうか。生涯をかけて、人を育てる重要性を説いています。人材の育成は、なかなか難しい目標です。
 教員は、人を育てるのが仕事です。私は大学の教員ですが、小・中・高校の教師、各種の塾や講座の先生、など人に教える職業は多様です。長くひとつ場で経験を積むと、職場やクラブ、なんらかの組織に後輩や後進が出現し、育てる必要性が生まれるはずです。あるいは質問に対する回答であっても、答えるときは教える立場になるはずです。多くの場面で教える側、先生は、生じます。それに見合った教わる側、学生も多数いることになります。
 ある場面であなたは、先生として、本当に人を育てているといえるか、ということを問われている気がします。先生側は一生懸命に教えていたとしても、教わる側は、身についていない場合も多々あるはずです。一方、教師の何気ない一言が、学生には重要な教えとして伝わることもあるかもしれません。あるいは、教えの場では気づかなかったとしても、後々に響いてくる場合もあるかもしれません。私には思い当たることがあります。多くの教育現場で、似たことが起こっているのではないでしょうか。
 一人の人を手塩にかけて育てるということは、現在社会では少なくなったように思えます。短時間、長くても数年の単位での教えの場面が多くなりました。ですから、教える側は、いかなる時も手を抜くことなく、精一杯に励み、教える努力を怠ってはならないのです。
 では、人を教える人がいない場合、この「三樹の教え」は無用のものでしょうか。そうではないと思います。他人を育てるのではなく、自分を育てると読むことが可能でしょう。一生をかけて、自分を育むのです。これは、誰にでも適応可能です。
 しかし、これはなかなか難しいことには変わりはないのですが、自分にとって自分は一番大切なものでしょうから、欺くことのできない存在です。取り組む姿勢、集中度、本心がわかり、いつもサボってないかを監視し、いくつになっても見守ることができます。努力はすべて自分に跳ね返ってきます。
 自分を育てるためには、一生かけて取り組むべき作業です。そのためには、10年の計、1年の計が必要になるのでしょうね。

・管子・
現在の中国の山東省を中心にして、
昔、斉(せい)という国(紀元前1046年から386年)がありました。
斉は有名な太公望によって建国されました。
その斉の第15代の王、桓公を補佐する宰相として
管仲(かんちゅう)がいました。
管仲に由来する書物として
「管子」(かんし)があります。
その中に「三樹の教え」が説かれています。
重要な教えは、時を越えて残るのでしょうね。

・野外調査・
9月4日から10日まで野外調査に出ます。
上で述べた例がそのまま当てはまります。
6泊7日ですが、移動に2日、調査は正味5日間です。
泊まるところはすでに確保しています。
大分から宮崎、熊本にかけて移動しながら
野外調査を進めていきます。
最重要ポイントは、数カ所があり、
それに次くものもいくつかあります。
今回は移動範囲が広いので
重要ポイントが時間が足りないときは、
翌日に再度みることにしています。
それでも足りない時は、次回とします。
天候だけは、どうしようもないので、
悪天候の時は、諦めて、次なる機会を待ちます。

2015年8月1日土曜日

163 はじまりの石:成因のジレンマ

 地球の「はじまりの石」はどんなものか、という素朴な疑問について考えています。多分、その石は地球には残っていません。今は亡き石がどのようなものかについて、思いを巡らせています。真夏の夜の夢として、見てください。

 最近、昨年書いた論文から派生した課題について考えています。考えがまとまったら、来年度に報告する予定です。その課題とは、地球に最初にできた岩石はどのようなものか、ということです。いいかえると、地球の「はじまりの石」は、どんなものかという問いです。論文を書いていた時は、簡単に答えが出たように思えました。ところが、論文を書きながら、かなり複雑であることとわかってきました。ですから、趣旨の違うその論文では深入りしせずに、次なる課題としました。
 地球の岩石の成因や多様性の形成のプロセスは複雑ですが、その素過程はかなり解明されてきました。もちろん、まだわかっていないことも、いろいろありますが。
 古い岩石を考える場合、深刻な問題があります。地球深部が本当に予測通りなのか、過去に起こったことが本当に推定されたシナリオや原因だったのか、などは、なかなか実証できないことがあります。地質学には、科学的、あるいは論理的に、実証不可能なことを探るという難さが、宿命としてつきまといます。そこには、確からしさを増すことはできても、証明が完結しないというジレンマがあります。これは、時間経過、あるいは歴史性を内在する自然科学、人文科学のどの分野にもある悩みだと思います。
 さて、「はじまりの石」です。「はじまりの石」とはどんなものかということについて、石の名前を定めるのではなく、もっと単純に成因を探るところからスタートしました。石の成因には、火成岩、変成岩、堆積岩の3つがありす。私は、「はじまりの石」は火成岩だと考えました。その理由は、地球の形成過程を考えるとそうなったからです。
 地球は、材料物質である隕石が、衝突、合体して形成されました。形成直後の地球は、隕石の混合物であったはずです。これは、地球をつくった石が集まったもので、地球固有の石ではありません。そして、混合物を3つの成因に区分すると、一種の堆積岩になるのでしょうか。ただし、集積の過程を考えると、そこには変成作用や火成作用も働いていたはずです。成因で考えると、堆積岩の中に、変成岩や火成岩も混じっていることになります。
 そこで私は、「はじまりの石」は地球の固有の石と限定しようと考えました。地球形成の後、衝突時の重力エネルギーの開放と揮発性ガスによる厚い大気により、地球表層は加熱され、温室効果が強烈に働き保温されることで、表層部が溶けてマグマオーシャンが一定期間、形成されたと考えられます。隕石の衝突がおさまると、重力エネルギーの供給がなくなり、地球は徐々に冷却してきます。やがてマグマオーシャンは冷え固まり、地面ができます。この地面を構成していたものが、「はじまりの石」になると考えました。
 その石は、今は存在しませんので、実証はできません。しかし、マグマオーシャンの表層は固まれば火山岩になり、玄武岩や超塩基性岩(ピクライトとも)と呼ばれるようなものになるはずです。深部でゆっくり冷えたものは深成岩になり、斑レイ岩やカンラン岩になったと推定されます。つまり「はじまりの石」は、マグマからできた、火成岩だということは確からしく見えます。
 このようなシナリオであれば、単純でいいのですが、マントルが問題となります。地球全体を考えると、マントルは地殻と比べると非常に多くの比率(体積、質量)を占めています。マントルを構成している岩石は、カンラン岩です。マントルが顔をだしているところ(アルパイン型カンラン岩やオフィオライト)や、深部でできたマグマが途中で取り込んできたマントルの捕獲岩(ゼノリス)、海洋深部掘削計画で掘られたものなどから、カンラン岩であることが、検証されています。
 マントルは、隕石とは化学的に明らかに違ったものです。隕石に含まれていた鉄の成分は、核の形成に使われたため、抜けています。地殻の岩石も、マントルからマグマとして抜けていったものです。量的に考えて、マグマオーシャンはマントルの上部のほんの一部でしょうから、マントルの大部分は地殻形成には関与していないはずです。
 隕石の混合物からマントルができるとき、鉄が大量に抜けていったことが重要です。ですから、マントルも地球固有の石ではないかと考えられます。ということは、「はじまりの石」の候補でもあります。
 その前に、核の話をしておきましょう。核にも「はじまりの石」の候補があります。核は、地球では大きな比率を占めています。外核は液体ですが、内核は固体の鉄です。内核は、液相から形成された固相です。これは地震波探査からわかっています。
 火成岩を広義(汎用的)に定義にすると、液相(マグマ)から固相(火成岩)ができる、といえます。ですから液体の鉄からできた固体の内核は、火成岩の一種と考えられます。そうなれば、「はじまりの石」と呼べるかもしれません。
 では本題にもどって、マントルです。マントルでは、地球形成初期に、地球の化学的な再構成が起こりました。地震波のデータや捕獲岩、火山岩の化学組成をみると、マントルの比較的均質に見えます。地震波は大きなスケールでみていますので、詳細な不均質はみえていません。また、火山は小さなスケールで、さらに溶融や固化という過程を経たもの(火成岩)からみています。そのため、マントルに複雑な化学的多様性があったとしてもが、見えていない可能性があります。いずれにしても地球深部の多様性、複雑性があったとしても、現在の情報からは、うかがい知れないものとなります。しかし、得られている情報から、マントルはある程度の均質性があると考えられています。
 均質なマントルは、地球初期に、地殻だけでなく核の成分が抜けて化学的再構成が起こった結果ですから、地球固有の石と考えられます。このような石は、「はじまりの石」と呼べるのではないでしょうか。
 ところが、マントルの岩石は、3つの成因のどれにあたるか、よくわからないのです。
 隕石の混合物から、鉄(多分液体として)が抜けていったと考えられます。マグマオーシャンは表層部分だけの出来事です。深い部分になる大半のマントルの石は、溶けてはいないはずです。マントルは、隕石の混合物から、固体のまま、ある成分が液相として選択的に抜けていったことになります。まあ、出がらし、抜け殻の石といえます。このようなタイプの石は、3つの成因には当てはまりせん。
 ですから、マントルも「はじまりの石」と呼べそうですが、石の成因に区分できないというジレンマがあります。「はじまりの石」には、最初の地殻、内核、深部のマントルと、3つの候補が挙がってきました。少々迷っています。再度考えていきたいと思っていますが、なかなか面白いテーマではないかと考えています。

・蒸し暑さ・
いよいよ8月です。
北海道は、蒸し暑い7月末を過ごしました。
晴れても、湿度が高いため、
体力が奪われます。
しかし、夜には涼しくなるので、
睡眠が比較的とれるので、
なんとか体力維持ができます。
我が家には扇風機しかありませんので
帰宅後の夕方の蒸し暑さは、扇風機でしのぐしかありません。
大学では、うちわや扇子です。

・二次試験・
教員採用試験の一次試験の結果がでました。
学科の一次試験の成績はまずまずですが、
問題の二次試験があります。
模擬授業や集団面接、一般面接、
実技などがあります。
その対策を教員はボランティアで
代わりばんこに行なっています。
あとは、学生本人の努力となります。

2015年7月1日水曜日

162 層に秘められた謎:層状チャート

 日本列島には、全く違う環境、位置で形成された岩石が、多数集まって形成されています。まるで寄木細工のようです。寄木の重要な構成岩石として、層状チャートがあります。層状チャートは、一見、単純なチャートの繰り返しに見えますが、実はそこには解明されていない謎があります。

 チャートという岩石があります。多分、多くの人が目にしたことがある岩石です。透明感がある硬い石で、赤っぽかったり、白っぽかったり、時には緑や黒色を帯びることがあります。大西洋の海岸沿いでは礫状のチャート(フリントと呼ばれています)が多いのですが、日本列島では層状になっているチャートが主な産状となります。このようなものは層状チャートと呼ばれています。縞模様がきれいだったり、見栄えのするものは、庭石などに利用されることの多い岩石です。
 今回は、層状チャートの起源について紹介します。
 まずはチャートの素材からです。層状チャートの素材は、海洋のプランクトンです。プランクトンが死ぬと、その死骸が沈んでいきます。沈む途中、あるいは海底で、プランクトンの体をくつっていた有機物は、すべて分解されていきます。プランクトンの中には、硬い殻を持った種類もいます。殻の材料は、炭酸塩(方解石)や珪酸塩(オパール)などが主なものです。
 深海底では、有機物が分解しまい、残るのは硬い殻だけです。殻も海水の化学的条件によって溶けることがあります。珪酸塩の殻は、浅い深度(4000mまで)では溶けていきます。珪酸塩の溶ける深度は、珪酸補償深度(SCD)と呼ばれています。また炭酸塩の殻は、深い深度(深度5000mほど)で溶けて(炭酸塩補償深度、CCDと呼ばれます)しまいます。
 珪酸塩は深いところでは溶けないので、深海底では炭酸塩だけが溶ける条件となります。このような化学的性質の違いの結果、深海底では珪酸塩の殻だけが残ることになります。深海底に堆積したプランクトンの死骸は、有機物や炭酸塩も溶けていき、珪質の堆積物だけが残り、固まればチャートができると考えられています。
 層状チャートが層を成しているのは、チャートの間に薄い層が挟まって境界となっているためです。薄い層は、粘土岩です。この粘土岩は、赤色をしていて、頁岩状になっているので赤色頁岩と呼ばれます。境界には、何も挟まない(本当は見えないほどの細い層)で割れ目だけが形成されていることもあります。このような細粒の粘土は、大陸から風や海流に運ばれてきたものだと考えられています。
 先ほどのチャートの起源を考えると、頁岩がたまっているときは、プランクトンが供給されていないことになります。季節変化や一時的な異常気象などでプランクトンの活動が急激に衰えれば、このような薄層ができるはすです。このような基本的な原理は、わかりやすく納得できるのものです。ところが、チャートの形成の速度を調べていくと、一筋縄ではいきそうもないことがわかってきました。
 チャートはプランクトンの殻の集まりですから、化石の固まりのような岩石です。ただし、その後の変質、変成により、化石が消えて消えてしまっていることも多いのです。しかし、化石の種類によっては、年代がわかるもの(示準化石と呼ばれています)もあります。チャートは深海、あるいは海表面(プランクトンの生活場)、海洋全体の環境を記録している重要な媒体となります。それも、複雑な処理や分析装置をもちいる放射性年代測定とは全く違った方法での年代決定が可能になります。非常に優秀な記録媒体なのです。
 示準化石により年代がチャートの正確に決められる層があります。連続した層状チャートで年代が決められた層が2つ以上あれば、その間の期間と層の数がわかれば、一層あたりの平均的な堆積速度が見積もることができます。
 いくつかの地域、時代の層状チャートで求められた値が、1000年で数mmというものでした。古い時代の層状チャートからの値は、実際の深海底から採取された深海底の珪質堆積物の推定された値とも一致しているので、正しいと考えられています。頁岩の堆積速度も同じ程度、もしくはもっとゆっくりとしか堆積しないと推定されています。
 層状チャートでは、チャートの厚さは数cmから十数cm、時には数10cmもありますので、チャート一層が堆積するのに、少なくとも数千年、時には数万年かかっていることになります。
 通常はプランクトンが活動しているときはチャート層が堆積しており、数千年か数万年に一度くらいの頻度で、珪質の殻をもつプランクトン全種類がいなくなったことを意味します。珪質のプランクトンは放散虫で、植物性プランクトンを餌としており、自身も大型の動物の餌となります。海洋の生態系の基礎を担っています。頁岩の堆積時期は、チャートの堆積がおこっていないということです。堆積速度から考えられることは、海洋生態系の長期(数千年以上)にわたる停止、つまり大絶滅の記録とみなせるのです。
 繰り返し大絶滅があったことになります。チャート層の数だけ、非常に頻繁に大絶滅が起こっているということです。これは、私たちの生物進化における絶滅観を変えるくらいの意味を持っていました。そんなに頻繁に大絶滅が起こっているとは、だれも想像していませんでした。
 だたし、層の形成には他の説もあり、説によっては別の意味を見出すことになります。
 ひとつは、層が深海底での地すべり、深海底タービダイトと呼ばれるものによって形成されたという説です。深海底タービダイトであれば、一度の地すべりで短期間(数時間から数日程度)で、チャートから頁岩までのひとセットの層ができるわけです。通常のタービダイトの形成メカニズムで説明できることになります。古い時代の層状チャートでは、タービダイトの構造があるという報告もあります。
 もうひとつ説として、ミランコビッチサイクルによるプランクトンの大量発生によってチャートが一気にできるのだという説です。ミランコビッチサイクルとは、地球の天体としての周期(公転軌道の離心率の10万年周期、地軸の傾きの4万年周期、歳差運動の2.3万年周期)を計算して、太陽からの地球への放射の変動周期を総合的に見た結果です。そしてチャートにとって重要なのは、ミランコビッチサイクルの周期によって南極と北極の日射量が変動し、プランクトンが大量発生したと考えるわけです。つまり通常はチャートはあまり堆積せず、頁岩が堆積し、プランクトンの大量発生時にチャート層ができるという考えです。今までの見解と、まったく堆積速度が違ってきます。
 この説の根拠となっているのが、宇宙から降り注いている小さいな隕石(宇宙塵と呼ばれます)です。単位面積あたりの量は少ないのですが、宇宙塵は定常的に降り注いでいます。深海底のような堆積速度の遅いところでは、宇宙塵は、一層から検出できるほどの量あります。
 チャートと頁岩部分で宇宙塵の量が全く違うとことがわかりました。頁岩がチャートより10倍たくさん宇宙塵を含んでいるということです。チャートは2000年程度で堆積し、あとの2万年は頁岩が堆積していて、一層のチャートから頁岩の堆積期間は、2万3000年程度になり、このサイクルはミランコビッチサイクル(歳差運動)に対応しているとされています。
 後で述べた2つの異説はいずれも、違ったメカニズムで層形成がさなれていること、化石年代から見積もられた堆積速度は見かけのものであること、を主張しています。
 それぞれの説に、証拠や根拠があります。今まで、最初に紹介した説で説明できると考えられていたのですが、どうもそう単純ではなさそうです。それぞれの成因の層状チャートがあるのでしょうか。もしそうなら層状チャートの産状を詳しく調べれば区別できるのでしょうか。それともそれぞれの成因が複合して起こっているのでしょうか。あるいは、層状チャートの成因はひとつで、それ以外の説は間違っているのでしょうか。
 謎は、まだ解かれていません。今後に期待したのですが、層状チャートの謎解きは、今はあまり重要なテーマになっていないようです。

・天候不良・
北海道は夏の草の成長がはやく
牧草の一度目の刈り取りが終わりました。
もちろん、雑草の刈り取りも終わっています。
雑草は順調に伸びているのですが、
北海道では天候不順の日照不足と低温と、
農作物への影響が心配されます。
早く、北国らしい青空が
戻ってきてもらいたいものです。

・大学祭・
我が大学の大学祭が、今年から、
秋から夏に開催時期が変更になりました。
当初、学生たちは混乱をして、
一時は開催も危ぶまれました。
日程が一日減りましたが、
なんとか開催にこぎつけました
この間の週末に無事、終了しました。
7月からは、前期の終盤の講義が始まります。
あと少し頑張らねばなりません。

2015年6月1日月曜日

161 われは仮説をつくらず:仮説と時代

 ニュートンは「プリンキピア」のあるところで、「われは仮説をつくらず」という有名な言葉を用いました。その意味するところは、言葉通りのものでありません。時代の背景、またニュートンなりの意味も意図ももった言葉でした。

 今回の話題は、ニュートン(Isaac Newton、1642.12.25-1727.3.20)の「われは仮説をつくらず」という有名な言葉です。
 ニュートンは、イギリスのウールスソープ(Woolsthorpe)に生まれました。貴族の出身でもなく、恵まれた家庭でもなかったのですが、周囲の理解とアルバイト(今風の言葉ですが)や奨学金などによって大学に通い、良き師との出会いもあり、学問の基礎を身につけることができました。
 当時、ヨーロッパは、ルネッサンスが起こり、コペルニクスが地動説を唱え、ガリレオやケプラーは、天体を運動をかなり詳細に追いかけていました。イギリスではベーコンが経験主義を、フランスではデカルトが合理主義を唱え、科学的精神が整ってきました。そんな時代にニュートンは生きました。にニュートンと同時代に、ドイツでは万能の天才、ライプニッツが、微積分を開発していました。
 ベーコン(Francis Bacon、1561.1.22-1626.4.9)は、法則を導く帰納法が重要であることを示しました。実験や観察などの「経験」が知の源泉となるとしました。それを「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est)と表現しました。これが、いわゆる経験論の提唱になります。フランスでは、デカルトが合理主義を確立し、正しい推論方法として演繹法を提唱しました。また、デカルトは太陽系の形成を渦動説によって説明をしていました。
 イギリスで、ベーコンの帰納的法を最大限に活かしたのは、ニュートンではないでしょうか。ニュートンは全3巻からなる「プリンキピア」(自然哲学の数学的諸原理、Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica)で、引力の法則(いわゆる古典力学)を提示しました。ニュートンは実際に光や運動にかんする実験をしています。また、先人の多くの天体観測のデータを利用して、規則性を導きだしています。リンゴが木から落ちるのを見て万有引力をひらめいたという逸話も、観測から規則を見出す一例として象徴的ともいえます。本当は作り話のようですが。
 「プリンキピア」では、運動の3法則を公理として、そこから物体の運動や天体の運動、抵抗のある媒体内の運動などを命題として提示して、証明しています。証明のほとんどが、幾何学的になされています。微積分を部分的には使っていたり、事前に微積分で答えを得たものを幾何学的に証明しているふうもありますが、基本は幾何学的な証明で構成されています。
 「プリンキピア」の出版は、1687年、ニュートン45歳の時のことですが、実際の研究は、1665年、23歳のときになされています。この頃、ヨーロッパでペストが流行ったため、大学は閉鎖され、故郷のウールスソープに1年半ほど帰省していました。大学での雑事から開放されて、じっくりと思索を深めることができました。
 その時に、「プリンキピア」の内容、光の実験、二項定理、微積分などの素晴らしい業績をつくりあげたようです。いくつもの体系を構築するだけでもすごい能力なのですが、23歳の若いうちに、1年ほどの短期間に、独力でこれらの偉業をすべてを成し遂げてしまっているのです。素晴らしい集中力をもって研究に取り組みました。やはり、ニュートンは天才だったのでしょう。
 「プリンキピア」の初版にはないのですが、第二版(1713年)に「一般的注釈」が新たに付け加えられています。「一般的注釈」では、渦動説への反論がありました。渦動説は、太陽系形成のモデルとして、デカルトが提唱し、大陸では有力な説となっていました。「プリンキピア」の本文中でも万有引力では説明可能な現象が、渦動やらせん運動では説明できないことを証明しています。
 この注釈では、渦動説の批判をしているのですが、真空の宇宙空間で渦動は何によって伝えらるのかわかっていないという、ごく当たり前の疑問を提示しています。ところが、渦動を形成する媒体が不明であるという批判は、引力を何が媒介しているかという疑問にもつながります。現在でも、力を伝える「もの」は見つかっていません。多くの科学者が「重力波」や「重力子」などの存在を信じて、観測しています。
 ニュートンは、重力が質量に比例し、距離の2乗に比例して減少していくことは証明しました。ところが、重力は、不思議なことに、あらゆる物質の内部に減少することなく入り込み、あらゆる方向に、そしてどこまでも及びます。その理由は不明のままでした。さらに、惑星が同一平面上を、同一方向に運動し、衛星も惑星とほぼ同一平面上を同一方向に運動しています。これらは運動の法則から導き出せるものではありません。
 このような「壮麗きわまりない体系」が、「至知至能の存在」によって生まれたと考えました。ニュートンは、このような運動の法則で規定されない規則性を「至知の意図」や「唯一者」などという「神」に起因させたのです。そこで、有名な「われは仮説をつくらず」(Hypotheses non fingo)ということを述べました。
 ニュートンは、経験や現象から導き出せないものを「仮説」と呼びます。ニュートンのいう「仮説」とは、根拠のない前提、規則という意味です。そんな「仮説」はつくらないということです。これは、ライプニッツへの反論でもありました。
 運動の法則は、天体現象や物理現象から帰納によって一般化されたものです。観察や実験に基づいた事実からの帰納されたものは、確たる「法則」であり、「仮説」はないというのです。事実から帰納的「法則」であり、真理だと考えたのです。その意味で「われは仮説をつくらず」なのです。
 現在、私たちが使っている「仮説」とニュートンの使っている「仮説」では、意味合いが少々違っています。論理学や数学で証明されたもののみが法則たりえます。一方、自然科学における規則や法則は、やはり「仮説」になります。自然科学において確かさが保証されるような「法則」はほとんどなく、法則とと呼ばれているものも「現段階でもっと正しく見える」仮説にすぎないのです。それを前提として「法則」という用語は使われているはずです。ニュートンの力学の法則も、アインシュタインによって「よりよい法則」である相対性理論に書き換えられました。自然科学においては、これからもこのような改善、改革、革命は続くでしょう。これが自然科学の進歩でもあります。
 歴史の流れや他の学説、反論に影響されて、「プリンキピア」は改訂していきました。天才ニュートンも、時代の流れの中に生きていたのです。

・成功の鍵・
ニュートンは、23歳の時に
一気に多くの偉業を成し遂げました。
その時期に考える時間がたくさん持てたという
幸運さもあったのでしょうが
やはり才能が一番でしょう。
その才能こそが、
一番の成功の鍵になったのではないでしょうか。

・微積分学・
ニュートンのライプニッツの微積分に関する
優先権争いをしたことは有名です。
時代として基礎的な部分はできていて、
二人は、個別に微積分の手法を見つけ出したようです。
ニュートンは物理法則を解くために必要に応じてつくり、
ライプニッツは現在使われている表記法を開発しました。
いずれも二人の天才の努力によって
現在の数学や科学が発展させられてきました。

・YOSAKOIソーラン祭り・
いよいよ6月です。
北海道の一番いい季節でもあります。
ライラック(別名リラ)も咲きました。
「リラ冷え」も何度かありました。
5月下旬にはライラック祭りもありました。
6月になるとYOSAKOIソーラン祭りがはじまります。
今年は、10日~14日で開催されます。
大学でも、サークルがチームを作っていますので
出陣式が行なわれはずです。
昼休み時間なので
時間があれば見学したいものです。

2015年5月1日金曜日

160 時間は本当に存在するのか

 時間を哲学では、非常に難しい対象として研究されています。私は、地質学でどう扱っていくべきかを、重要なテーマととして取り組んでいます。時間は、自然科学でも地質学でも、難しい対象なのです。

 私は重要なテーマのひとつとして、地質学の素材を用いて、過去の時間をどのように、どこまで復元できるかなどを考えています。地質学的なアプローチとして、各種の地層に時間がどのように記録されているのかを、体系化、抽象化を試みています。
 日本列島によくみられる地層は、もともとは陸地から土砂として河口付近にたまったものが、地震や洪水をきっかけにして、大陸斜面を海底土石流として流れ下って、大陸斜面から海溝付近にたまってできたものです。海底を流れていく土石流はタービダイトと呼ばれています。水中を密度の違う物質が流れていくため密度流と呼ばれたり、いろいろな堆積物が混じっているため混濁流とも呼ばれています。
 タービダイトによって形成された地層はタービダイト層といいます。タービダイト層は、「タービダイト」がそのまま使われることもあり、混乱するので、ここでは地層を指す場合には「層」をつけることにします。
 日本列島でよくみられる地層の典型ともいうべきタービダイト層の形成は、上で述べたような成因を持つので短い時間で終わる現象です。小学校の理科で地層のでき方を、実験をしたことがあると思います。ペットボトルに土砂と水を入れて、よく振ります。しばらく置くと、濁りがとれて、土砂が大き粒から小さい粒へと整然とたまっています。これは、地層のできる様子を模擬実験(シミュレーション)としておこない、観察するものでした。
 タービダイトでは、これの作用が大規模に起こったものです。タービダイトは、ペットボトルと比べて大規模ですが、物理的現象ですから、水中での物質の移動がはじまり、混濁し物質の流れが形成され、重力流となり、やがて傾斜がゆるくなると、粒子が沈降します。ペットボトルと実際のタービダイト比べると、移動も、堆積も、何桁も違うものですが、時間としては、地質学的には大きな違いはありません。形成に要する時間は、タービダイトが発生してから、数時間、せいぜい数日で終わる現象になります。
 短時間でできたタービダイト層は、大陸斜面のくぼみや麓、海溝に付近にたまります。そこは、沈み込む海洋プレートが列島側に付け加える付加作用が起こっているとこでです。付加作用によってできたものを、付加体と呼んでいます。
 付加体の主要構成物は、陸側からはタービダイト層、海側からは海洋地殻の岩石や海洋底の堆積物、海山の残骸などがあります。付加作用は、プレートの境界域で起こる激しい地質現象なので、地層はひどく乱れたもの(メランジュと呼ばれます)から、整然としたものまで、同し岩石でも見かけの違ういろいろなものが形成されます。ですから、同じタービダイト層でも、陸地にある付加体では多様な見かけになります。
 このタービダイト層を体系化して、時間記録がどのようになされ、どのように変容するかということを整理しています。このとき私が着目しているのは、地層に記録されている時間が、地層という物質に置き換えられているという点です。過去の時間を直接観察しているのではないのです。地層には、物質という側面と、ある空間を占めているという側面もあります。地層は、過去の時間を空間に置き換えていると読み替えることが可能です。変ないい方に聞こえたかもしれませんが、実は普遍的な見方にも通じるものでもあります。
 物理学の重要な体系である相対性理論では、時間と空間は同じもの、変換可能とされています。時空という渾然一体化したものとみなされます。
 さらに、相対性理論では、光の速度が絶対不変のものになっています。光速度はどのようは状態で観測しても、一定であることは実証されていることから前提とされているものです。ですから、光速度一定の立場でみると、時間も空間も区別がなくなり、過去も未来も存在しないことになります。
 例えば光速で移動している光子からみると、空間は無限に縮み、時間も無限に縮みます。つまりビックバンのときに誕生した光子が現在に残っていたとしたら、我々には137億年もたっていたとしても、その光子には「時間は経過はしない」ということになります。あるいは質量を持たない素粒子(未発見の重力媒体素粒子の重力子、グラビトンなども同じ)の移動は、時間や空間は絶対的存在ではなく、速度こそが不変のものとなります。
 ところで速度は、長さを時間で割った次元を持ちます。長さは空間の単位でもあります。つまり速度とは、空間と時間の比、対応関係を意味しています。質量をもたない、物質ではない存在からすると、時空間を関係を速度で代表できることになります。
 一方、私が研究対象としている地層は、物質です。物質には質量があります。速度と質量を結びつける関係として、相対性理論では、
 E=mc^2
という関係があります。ここでEはエネルギー、mは質量で物質を意味し、cは光速度です。別の表現として、ニュートン力学では、
 F=1/2・mv^2
とも表現されます。Fは力で、mは質量、vは速度です。
 両式は記号は違いますが、形式が同じです。質量に着目すると、質量とは力もしくはエネルギーと速度の2乗との比を表していることになります。別の表現をすれば、エネルギーと質量の比、力と質量の比は一定、あるいは時空の比になるという関係です。
 時間は、光速、速度の中に現れますが、それは時空の比であって、質量を持たないものには単なる定数になります。これはいったい何を意味するのでしょうか・・・・。
 難しい問題です。物理的に考えても、複雑です。物理の実験では時間を観測しますが、それは時計の針の運動やデジタル表示(結晶の発振による)などの規則的に繰り返される運動を、時間と見立ているわけです。本当の時間ではなく、規則的、周期的運動をみているにすぎないのです。物質の運動の周期を数えているだけではなのです。そんな不連続な数、カウントを、時間とみなしているのです。私たちが扱っている時間は、離散的であって、決して連続した流れではないのです。
 時間について、いろいろ考えていると、人は本当に時間を認識すること、まして科学的に扱うことができるのか、過去を知ること、未来を予測することができるのか、などの疑問を感じてしまいます。

・サクラの開花・
サクラが咲きました。
一気に咲き誇るサクラは見応えがあります。
北海道だけではないかもしれませんが、
雪に閉ざされた冬から、春へ。
雪解けのあとに訪れる春の陽気とサクラ、
そして背景の春の青空。
北海道の青空は、本州のように霞んだものではなく
すっきりとした澄み切ったものです。
毎年のことなのですが
サクラの春はいいです。
日本人だからでしょうかね。

・リフレッシュ・
皆さんは、ゴールデンウィークは、いかがお過ごしでしょうか。
カレンダー通りで、5連休でしょうか。
我が大学は、29日を平常授業の日とし、
5月7日、8日を休講にしています。
そこは、大学の教職員は休みではないですが、
多くの職員は休みをとることでしょう。
学生は9日間の連休となります。
私は、この連休を知って、急に思い立ち、
7日から11日まで調査に出ることにしました。
本当なら6日にでたかったのですが、
運賃がかなり違うので平日に出発することにしました。
4泊5日ですが、移動に2日ですから、
賞味3日間を調査に当てます。
今回は、以前いったところばかりですが、調査としてきます。
なにより野外調査で、リフレッシュできればと思っています。

2015年4月1日水曜日

159 普遍を目指して:大きな知性

 研究をしている人間はだれもが、自分の成果が、より普遍的なものになるように望み、そのために弛まぬ努力をしています。しかし、日々の歩みは、苦渋に満ちています。そんなジレンマを紹介します。

 新しい年度がはじまりました。私は、2015年に入ってから、校務が急増してきました。つぎつぎと仕事に追われて、なかなか気の休まることがありません。手を抜きたいのですが、大事な仕事だとわかっているので、やるしかないと思い、こなしています。それでも、隙間時間をみて、自分の研究はしなければと、研究にしがみついています。すべてを投げ捨てて、野外調査にでも出たいものですが、なかなか行けません。今年度の学内の研究費に応募していて、今年度には2回の野外調査に出る申請をしています。当たるかどうか、また当たったとしても出れるかどうかが問題ですが、現状からの開放が調査によって必然的に生まれます。それを期待している日々です。
 愚痴はこれくらいにして、研究の普遍化について考えていきます。私にとって研究が一番興味があること、そして最優先すべきことです。2番が学生に対する教育、3番が給料分としての校務の順です。現在の研究は個人でおこなっています。一方、教育も校務の相手や組織があることなので、他者への対応、他者との面談、組織人としての会議、締め切りなど、個人の事情を斟酌しない強引さがそこには存在します。そんなとき、どうしても研究が犠牲になります。これが、サラリーマンでもあり、研究者でもあり、教育者である、といういくつものワラジを履いている現代人のつらさでしょう。
 またまた愚痴っぽくなってきました。研究をしている人間にとって、研究は自己満足的、自己完結的なところがあります。研究には、最終的にその成果を公表、公開し、学界や世間の評価を受けるところで、一つのサイクルが完結するはずです。ですから、テーマや内容、そして成果の重要性も重要なことになります。ただし、成果の重要性は即座に判断できるとは限りません。基礎的、あるいは画期的であれはあるほど、評価は後の時代になることも多いでしょう。
 評価はさておき、研究者は、自分の成果を普遍化することが重要だと考えています。普遍化は成果公表時に重要になります。普遍化によって、個別の成果が、汎用性を持ったものになります。普遍化には知性が必要です。個々のデータ、地域の記載、個別の現象から、「見えない何か」、「いままでにないもの」を見出すことが普遍化です。そこには、知性によってのみ普遍化がなされます。優れた知性による大きな普遍化が起こると、それは人類に大きな福音を与えてくれます。
 普遍化の評価は、時代が決めます。科学の成果には、ある時代には非常に役立っても、それが利用され尽くされ、より優れたものがでてくれば、その普遍化の成果の役割が終わることもあります。
 このような減少は科学技術にはよくあることです。例えは、真空管やブラウン管などは、ある時代、多くの人類に恩恵を与えました。しかし今では特別な用途をのぞき、ICやLSI、液晶ディスプレイなどにほとんど置き換わってきました。従来の技術を超える新技術が生まれ、その必要性が高くなると、需要が大ききくなり、経済原理で低価格化が進み、庶民に普及し「枯れた」技術となっていきます。やがて新たな技術への大転換が起こるのでしょう。そんな繰り返しが科学にはあります。
 個別の問題、局所的問題、地域性的問題の解決に用いるための成果にも、真空管とブラウン管と同じような運命になるものも多いのでしょう。いや大部分はこのような末路をたどるはずです。
 ところが科学の成果には、古びないものもあります。それは、普遍化の大きな原理や法則などです。そんな原理、法則も、個別、局所、地域の問題解決から抽出されることも多々あります。それを成しとげるのは、やはり研究者の知性に負っています。個別から普遍へという転換は、大きな知性が必要です。普遍性が大きいほど、その法則は長く生き残るでしょう。そして、法則には、人類の知性として永久保存される原理のようなものもあります。
 中には、だれもが無意識に利用しているものもあります。例えば、ギリシア時代に構築された三段論法などの論理、近世にはそれまで無意識に利用されてきた帰納法と演繹法などが体系化されました。これらは、考え方自体は多くの人が使っていたものですが、それを意識的に抽出して、体系化することによって、無意識による利用以上の使い道があることもがわかってきました。それが古典的論理体系となって今も活きています。日常の考え方から普遍性を抽出したという点で、偉大な知性が導いた業績となります。このような原理、法則を導いた、プラトンやアリストテレス、デカルト、ベーコンなどの知性は、人類を代表し、時代を超えるものといえます。
 ある研究者、あるグループが、今まで誰も気づかなかったものを、独自に構築していくこともあります。弁証法、唯物論、構造主義などの考え方、ニュートンの古典力学、ダーウィンの進化論、アインシュタインの相対性理論やシュレーディンガーやハイデルベルグなどの量子力学など学問も、普遍化された体系です。大きな知性によって普遍化されたものです。普遍性の大きな考え方、学問体系は、時代を越えて残るものでしょう。それを生み出した知性は、偉大な人物として、歴史にいつまでも刻まれているでしょう。
 基礎科学に携わる研究者の多くは、普遍を目指して研究しているはずです。地域や個別の素材、試料、題材を扱いながらも、自分の研究を進め、小さいながらも成果を普遍化をています。大きな普遍を生み出すのは、稀なことですが、小さいな一歩一歩の積み重ねから、少し大きめの普遍が生まれることもあります。校務や雑用に追い詰められながらも、研究を諦めることになく、日々進めています。進めているテーマ自体も個別で、ささやかなものであることも、多くの研究者は自覚しています。でも、何年かに一度は、ささやかですが普遍化された成果が出ることもあります。そんな喜びを糧に、次なるテーマへと歩を進めていく日々です。
 愚痴からはじまったこのエッセイですが、どこもで似たような不平不満、愚痴をいっている研究者がいることでしょう。日々の生活、仕事から生まれる不満は、そこには普遍化に時間を費やせない苦しみが反映されているのかもしれません。もしかしたら、その不満には自分才能のなさの嘆きも含まれているかもしれませんね。

・春には・
今年の北海道は、雪解けが早かったです。
12月や1月の積雪は、例年を上回っていたようですが、
繰り返しの暖気が、早めの春を呼んだようです。
北海道の人間にとって、
春が一番待ち遠しく、嬉しい季節です。
そこに卒業や入学が重なるので、
春はひとしお、思い出深くなります。

・入学式・
我が大学は、昨年から4月1日が入学式になりました。
今年度から学科長になり、
新入生の前で挨拶をしなければなりません。
ストレスがたまります。
年齢的に、そして組織の人員構成上、
仕方がないことも理解できます。
だから、どこにもいえない、訴えられない
不満が生まれてくるのでしょう。
しかし、学生は可愛く思えます。
いろいろ問題を起こす学生も多々います。
でも、彼ら、彼女らが卒業すれば、
過去のトラブルもすべて帳消しになり
すべて思い出になっていきます。
そんな卒業式もだいぶ前に思えてしまいます。
まだ、2週間もたってないのですが。

2015年3月1日日曜日

158 理と質:学問の本質

 自分が研究している学問分野が、どのような視座をもっているのかは、研究者には暗黙知となっています。研究者は、そんなことに疑問を感じないかもしれません。新たな分野で研究をスタートする時、学際的共同研究をする時など、視座の違いは不協和音を生むかもしれません。

 現在の科学は、非常に細分化されています。その欠点を補うために、領域横断的な学問の必要性が唱えられ、実践もされています。それでも、先端で進められている研究になると、少し分野の離れた研究者には内容や進捗を知り得ないことも往々にして起こります。特に最新の技術や手法、装置などを利用する分野では、顕著だと思います。
 これは、最先端の科学の話です。学問には、非常に基本的な原理や原則と呼ぶべきものがあります。その学問、あるいは対象に対する原理のようなものがあり、その理解なくしてはその学問や自然科学を進められないような内容があります。たとえば、物理学では、古典力学や電磁気学などの分野が基礎をなし、もっと本質に遡れば、元素や原子などの特性、性質、解析するときの数学的手法、議論を進める上での論理学などは、さらなる基本的な原理となります。
 原理以上に重要だと考えられるものがあると、私は思っています。それぞれの学問体系に固有の研究手法、考え方ともいうべきものが、それに当たるのではないでしょうか。少々わかりに言い方かもしれませんので、説明しなければなりません。
 物理学と哲学、地質学をとりあげてみていきましょう。学問の考え方、進め方にどんな違いがあるのでしょうか。そのとっかかりは、学問の名称、漢字の意味の違いにあらわれている気がします。文字から、含蓄をもった背景が見えてきます。
 物理学の「理」は「り」と読みますが、「ことわり」とも読みます。「理」とは、世界大百科によると、もともとは璞(あらたま、掘りだしたままでまだ磨いてない玉)から、美しい模様を磨きだすとの意味だそうです。その後、「鄭(てい)人、玉のいまだ理(みが)かざるものを謂いて璞となす」(戦国策)のような使用から、「ととのえる」あるいは「すじ目をつける」という意味が生じてきたようです。さらに後には、中国思想の中心的な道徳的規範として、抽象化された秩序、理法、道理などの意味として使われるようになってきたようです。
 学問体系の用語として「理」は、物理学の他にも、広く「理学」から、「地理学」や「心理学」などにも使われています。地理学は地(地球)の理を、心理学は、心の理を調べる学問であるということになります。理とは、なかなかいい言葉ではないしょうか。
 理(こわり)とは、璞(今まで知られていないものごと)から、有用なものを磨きだした(見出したりした)玉(体系)なのです。物理学という言葉は、「物」(ものごと)の「理」(こわり)を調べる「学」問となります。物理学を表すのに、非常に適切な用語だといえます。ただし、「物」あくまで実態のある自然、あるいは自然を成り立たせている作用、現象など、自然に直結している対象となります。これが、物理が自然科学である所以でもあります。
 一方、私が今興味をもって進めている哲学も、今まで取り組んできた地質学は、理の文字を用いていない学問です。これは、少々気になるところであります。
 哲学の「哲」は、「あきらか」と読むこともあります。「哲」は「折」と「口」が合わさってできた字です。「折」は断ち切ることで、「口」が合わさって「哲」になると、言動が明快に断ち切れる、適切であるという意味になります。そこから物事の筋道が通っている様や人に対して用います。「哲」は、「理」よりもっと筋を通している、より抽象化しているような語感があります。やはり、これも哲学という学問の本質を表しているように見えます。哲学では、対象はものから概念、人の思考まで、なんでもありで、そこから筋道、道理など、より本質的なものを抽象していくことを目的している学問です。
 次に、地質学の「質」です。「質」は、「しち」、「しつ」、「たち」などの読み方があります。「しち」は、本物・本人の代わりで、同等の機能、価値をもつもので、「身代」(むかわりとも読む)という字が与えられることもあります。「しつ」と読めば、内容や中味のことで、ある対象を他と区別する特色という意味です。「たち」と読めば、人やものごとの性質や特徴を意味します。いずれの「質」においても、ある対象の本質を全体的、総体的、大局的、包括的にとらえることを意味しています。
 哲学は、対象を限定することなく、道理、真理を追求することに重きをおています。極限まで抽象化していくことで残ったものが哲学の原理となるります。一番の本質のみを求める学問が、哲学の本来の姿なのかもしれません。
 理(ことわり)とは、自然のままの璞(あらたま)から、いらないものを、磨いて捨て去ることでもあります。これは、還元主義的手法を象徴しています。物理学がおこなっているような学問は、本質に関わらないものをそぎ落とし、中核となるものだけを抽象していく作業です。ただし、対象は自然です。見える自然だけでなく、磁気や電気、電波、力、熱、エネルギー、エントロピーなど見えないものでも、自然を構成し、科学の俎上に乗るものであれば、すべて対象となります。ただし、抽象化することを究極の目的としています。求めるているのは、すべてから抽出された究極の原理(統一場理論などと呼ばれています)です。まだまだ、先は長いようですが。
 地質学は、何ものも削り取ることなく地(球)全体の質を探る学問です。もちろん、その手法として物理学や数学、化学、生物学など多様な手法を適用しています。物理学や数学を導入するときには、還元的に処理を進める必要があります。ただし、還元的手法でえた結論の成否は、対象である地(球)に照らし合わせていくことになります。広い地域(空間)、長い時代(時間)になればなるほど、原理原則より大局的、包括的な整合性が重要になります。
 今回とりあげた3つの学問体系は、ぞれぞれ目指す方向、用いている手法は違っています。もっとも抽象化の著しい哲学と、還元化されていますがあくまでも自然を対象にしている物理学、そして自然を包括化という方向性をもった地質学がありました。物理学と地質学の間に、化学と生物が位置します。もちろん生物学の方が地質学よりです。
 それぞれの学問の中には、質的(総合化、包括化)な部分と理的(還元的、抽象化)な部分が混在しているでしょう。たとえば総合的な地質学においても、モデル実験や合成実験、化学分析を中心手段にしているような分野は、抽象度の強いものとなります。物理学でも、天文学など観測を中心にしている分野は、理論より観測事実の探査、現象を捉えることに主眼をおいている分野もあります。天文学のような観測分野は、抽象化より総合化、包括化が強くなります。物理学や地質学と学問を大括りにするのは、少々乱暴かもしれません。しかし、これまで述べてきたように、学問の言葉が表している中味には、それなりの真理はありそうです。主たる専門として地質学を進めてきた私としては、地質学が理の学問でないことには、それなりの意義を見出しています。

・次なるテーマへ・
いよいよ3月になりました。
2月中にすべきことがあったのですが、
ほとんどできませんでした。
ただし、空いている時間があれば、
少しでもいいから進めることはしていました。
それは面白いテーマや作業になることは
少し進めておかげてわかってきました。
ただし、もはや時間切れです。
3月には別のテーマの仕事を進めなければなりません。

・卒業・
3月は卒業のシーズンです。
私の所属する学科でも、
例年より多くの卒業生が巣立ちます。
それぞれの思いを持って社会に旅立ちます。
寂しい反面、喜ばしい思いもあります。
卒業式はまだ少し先ですが。
それまでは4年生は在学生です。

2015年2月1日日曜日

157 noblesse oblige:覚悟と献身

 ノブレス・オブリジュという聞きなれない言葉があります。意味は本文で詳しく紹介しますが、指導者への警句とも読めます。少し前の時代であれば、これを重要な警句と考え、実行に移した人もいたでしょう。今の時代では、この言葉通りに振る舞うのは、なかなか難しいようです。そんな時代に、指導者はどうすればいいのかを考えました。

 若い時、その分野で偉大な成果を出した科学者がいたとしましょうた。彼が、その後も科学の世界にとどまり、研究を続け、それなりの業績を挙げていけば、一流の科学者へと成長していきます。研究の傍ら、後進の指導をおこない、年齢とともに、自分の仲間や弟子たちが科学の世界(コミュニティ)に進出していくことでしょう。彼やその仲間たちは、学界内でそれなりの勢力を持ち、発言力が増していきます。やがて彼は、指導的立場に立つことになっていくことでしょう。
 彼が、指導的立場になればなるほど、研究に従事する時間よりも、学界の運営や学界からの情報発信に多くの時間を割かれていくようになるでしょう。ただし、弟子たちの共同研究として業績は増え続けるでしょう。師を立てることにより、弟子たちも資金や研究環境もよくなり、学会内での認知度や発言力も上がっていき、ギブエンドテイクの関係が成り立ちます。彼は、中枢に入り込み、運営や政策、提言など学界の利益代表として重要な役割を果たすでしょう。
 しかし、科学者の中には、常に研究を続けていたい人もいることでしょう。現在の日本では、なかなか研究だけに専念できる条件を維持続けている人は少なく、誰もが学界内の中枢で運営にかかわって働く必要があります。時には、指導的立場にはなじまない人、トラブルを起こしたり、人的軋轢があるような人は、それなりに免除されることにあります。ただし、そのような人は、資金的に社会的に冷遇されたりすることもあります。円満に学界中枢から離れている研究者は少数派でしょう。
 さて、コミュニティの中枢の指導者の話です。科学の世界だけでなく、政治や経済の世界でも、中枢的な立場に立つ人って貢献できる人は、それなりの資質が求められるのではないでしょうか。それは、どんな資質でしょうか。
 その世界での業績、業界での実績が、あるにこしたことはありません。業績や実績のある人は、それなりの努力や苦労をして、経験も豊富であることは確かでしょう。しかし、実績、業績の優劣が、指導的立場の立つための、必要条件ではなさそうです。いい選手がいいコーチとは限らないし、上で述べたように、大きな業績を挙げた人すべてが指導者に適しているとはいえません。
 コミュニティの中枢に立つためには、実績、業績だけでなく、指導者特有の能力や見識が必要になるでしょう。そして、対人関係が発生する場面では、人が精一杯働ける意欲を沸かせるだけの、指導力が必要でしょう。そうでなければ、人は動きませんし、大きなコミュニティを動かせないでしょう。
 指導力や見識は、残念ながら上に立つすべて人に備わっているとは限りません。指導力や見識がない人も、時には指導的立場に立つことがあるでしょう。そんなとき、コミュニティの指導者において必要不可欠な資質とは、なんでしょうか。
 まず前提として、そのコミュニティへの帰属意識、「愛」といっていのかもしれません。その上で、指導的立場に立つという「覚悟」を持って、その世界に「献身」することが必要なのではないかと思います。愛、覚悟と献身は、すべてのコミュニティの運営における、指導者の要件となるのではないでしょうか。小さなコミュニティであれば、構成員全員が愛を持ち献身的でなければ組織は動かないでしょう。構成員の献身が担保されていれば、指導者はみんなのために働くという「覚悟」だけがあれば、最低限の条件を満たせることになります。小さなコミュニティであれば、これで運営はできるでしょう。
 そこには時間や労力だけでなく、指導者の資産の持ち出しもあるかもしれません。指導者の「愛」と「覚悟」があれば、資産を投げ打ってでもコミュニティで「献身」するでしょう。指導者としてそんな覚悟できるかどうか、これからはその覚悟が問われるのかもしれません。
 先日、CNNのニュースで、イギリスにある貧困と不正を根絶するための国際支援団体オックスファム・インターナショナル(Oxfam International)の調査結果が報道されました。「2016年には富裕層上位1%の富は、その他99%の人々の富を上回る」といいます。つまり、1%の富裕層が、世界の富の半分を持つことになるということです。
 このユースを聞いて、直結はしないのですが、「ノブレス・オブリージュ」という言葉が思い浮かびました。その意味は後で紹介します。
 富めるものと貧するものの格差、貧富の差がますます広がっていることを示しています。社会主義や共産主義態勢の崩壊に続き、グローバル化による資本主義の行き詰まりが生じてきました。その中で、富めるものは労働者階級から合法的に、国によっては非合法に資本を搾取することに専念しています。国ごとに、個人ごとに、経済の格差がますます広がるということです。
 バブル崩壊以降、21世紀になって、世界が持っている資本は、アフリカ以外の途上国の分を除くと、ほとんど出尽くしているのではないでしょうか。あとは、毎年生まれてくる少ない再生可能な資本と、限りある「化石」資本を運用するだけです。それを覚悟していく時代になったのではないでしょうか。
 限られた資本を、均等に再分配する共産主義、社会主義は崩壊しました。途上国のアフリカが、これからの資本の狩場となるのでしょうか。持てるものは、持たざるものから、搾取を繰り返すという構図がスタートしてきたようです。この構図は何時の時代もあったのですが、最近富に激しくなってきたよに見えます。そんな時代に突入したのでなかいかというのが、CNNのニュースをみた私の思いでした。
 もしそうなら、金(かね)や経済を社会の中心におく資本主義は、もう限界が見えてきたことになります。このような格差拡大を是正するためには、小さなコミュニティで、金銭によらない豊かさを求める生き方、暮らし方がが一つの解決策ではないでしょうか。そのようなコミュニティを認める覚悟と、構成員全体が他者やコミュニティに献身的であることが、これからの社会では必要ではないでしょうか。
 さて、ノブレス・オブリージュは、フランス語のnoblesse obligeで、英語ではnoble obligationと訳されることがあります。直訳としては「高貴さの責任」となり、意味としては、高貴さには責任が伴うということになります。一般には、権力や地位につくにはそれなり責任が伴うという意味で使われているようです。
 富を持つ人が、政治や権力を握ることとは、完全なイコールではないでしょうが、庶民や貧困層よりは明らかに結びつきは強いと思います。上で述べた文脈でいうと、中枢にいる指導者、特に富める権力者は、それなりの責任が伴うということです。その責任にはいろいろなものがあるでしょうが、重要な資質として、覚悟と献身だともいいました。しかし、現在の世界をみると強力な指導者で、指導力と見識のある人は、極端に減ったように見えます。小数いたとしても、他が独善的であれば、複数の大きな国家、民族規模のコミュニティでは、指導力も見識も通用しなくなります。
 もしそうなら、世界を小さなコミュニティに再編して、成長、金銭的利益より心の豊かさなどを目標を定め、その中で全員が覚悟が決まれば、大きな指導力がなくても献身だけで社会が動くのではないでしょうか。ノブレス・オブリージュという一部の特権階級の指導力や見識に期待するのではなく、だれもができる組織運営が必要ではないでしょうか。ノブレス・オブリージュに対抗して、common devotionとでも呼びましょうかね。

・新プロジェクト・
あっという間に1月が終わりました。
そして2月です。
大学は定期試験と入試が重なりかなり忙しい時期です。
私も入試に伴う出張や校務がいろいろとあります。
しかし、講義がない時期なので、
一番まとまった時間を使えるので、
新しい学問をまとめて勉強したり、
次の論文の準備をしたり出来る期間でもあります。
今年は、新しいアイディアに基づいた
プロジェクトをスタートしようと考ええています。
新たな研究のスタートというより、
今までの研究の集大成を行なっていくというものです。
しかし、そのプロジェクトを1ヶ月で
終わらせたいと目論んでいますが、
どうなることでしょうか。
大変で苦しいものが、楽しくもあります。
そのためには、校務を順調にこなさなければなりませんが。

・卒業旅行・
4年生の卒業研究が全て終わり、
あとは、成績評価で、私の作業になります。
ゼミの打ち上げも先日行いました。
その中には、卒業旅行にいって不在のものもいました。
羨ましい限りです。
これから社会にできていく前に
最後の学生生活を謳歌するのでしょう。
心置きなく楽しんでもらいたいものです。
あとは、卒業式まで逢えません。

2015年1月1日木曜日

156 碩学:無限の可能性

 明けましておめでとうございます。新年最初の話題は、知恵のある大人物についての話です。少々難しい熟語ですが、碩学鴻儒(せきがくこうじゅ)という言葉があります。碩学への道を目指して、精進していこうと考えています。

 今年最初のエッセイで、私がこれからの目指そうしている道を紹介しようと思います。人生の残された時間を使って、碩学への道を目指すことです。
 まず、サバンから話をはじめます。サバン症候群という障害をご存知でしょうか。
 私がサバン症候群について一番最初に知ったのは、「レインマン」という映画でした。父の遺産を大半を兄のレイモンド(ダスティン・ホフマンがやっていました)が相続しました。弟のチャーリー(トム・クルーズ)に残されたとは車とバラだけでした。兄のレイモンドがサバン症候群の自閉症であるという設定でした。弟は遺産を手に入れようとして兄を施設から連れ出して、自分の住む街まで旅行をしていきます。旅行中に、兄の障害から生まれるさまざまなトラブル、驚異的な計算能力など驚き、それをギャンブルに悪用したりなどの出来事を通じて、やがて弟が兄を受けていくというストーリーでした。
 この兄のレイモンドには、モデルがありました。サバン症候群のキム・ピーク(Kim Peek、1951.11.11ー2009.12.19)という人です。キムを取材したテレビ番組を何度か見たことがあるのですが、その能力には驚かされました。キムは、ボタンをとめたり、靴下をはくこともできないような先天性脳障害による発育障害をもっていました。
 しかし、キムは、驚異的な記憶力をもっています。1ページを数秒で写真のように記憶し、9000冊以上の本を読み、その内容の98%は瞬時に検索して思い出すことができます。歴史と地理の情報も連動しています。地図や電話帳もすべて記憶しているので、地名を聞けば、道路と郵便番号をすぐに答えます。その地の過去の歴史もすべて教えてくれます。数学における抽象的概念を理解できないですが、算数的計算能力やカレンダー計算が驚異的です。彼の能力は、50歳をすぎても発展中で、記憶や計算だけでなく、晩年にはピアニストとしての才能を開花させていたそうです。
 サバン症候群の人の話、特にキムの話を聞くと、人の脳が秘めている可能性を思い知らされます。脳は、記憶に対していくらでもキャパシティはあるのです。脳の新しい能力は、いつもで開花させられるのです。脳は、もっともっと、いろいろな用途に使えるのです。キムはそれを教えてくれました。
 さて、サバンという言葉です。英語ではsavantと書き、語源はフランス語で、原意は「知る」ということです。日本語では碩学(せきがく)と訳されます。碩とは「大きい」という原意で、「頭が充実している」とか「中身が優れている」という意味になっています。ですから、碩学とは、学が優れているということになります。
 碩学は、「碩学鴻儒(こうじゅ)」という熟語で使われることがあります。鴻とは「大きい水鳥」という原意で、「ひしくい」という雁の仲間で最も大きい鳥のことです。そこから転じて、抜きん出た才能という意味で「鴻才」や、儒教に優れた「鴻儒」という言葉があります。碩学も鴻儒も、学問の優れたという意味で使われ、碩学鴻儒としても使われています。
 人間の能力において、記憶力と検索力は非常に重要な機能です。キムの能力が、人に驚嘆を与えたのは、記憶力と検索力であったことを見てもわかります。
 記憶力とは情報量の多さです。情報量は、人でいえば知識量です。知識と知恵は同じものではありません。多くの人は、知識より知恵を重視しています。でも、知識のない知恵は、本当の知恵といえるでしょうか。大人物の賛辞として、博覧強記といい言葉があります。膨大な知識が大人物の重要な要素となっています。知恵を発揮するためには、ある程度の知識は不可欠でしょう。多ければ多いほど、いいはずです。
 では、知恵とはなんでしょうか。一つには、必要な知識を有機的に結びつける力ではないでしょうか。知識を有機的に結びつける力とは、まさに検索能力です。知恵は、膨大な知識を操れる検索能力の上に構築されているのではないでしょうか。では、人は、キムを碩学と呼ぶでしょうか。少し、疑問があります。記憶力と検索能力の他にも、何かが必要なのでしょう。
 私は、10代後半だけは記憶能力が旺盛でした。好きな分野であった科学に関しては、一度見れば意識することなく簡単に覚えられました。それ以外の分野は、努力しないと覚えられませんでした。しかし、20歳過ぎてからは、興味あることでも、なかなか覚えられなくなりました。
 記憶力の低下への自衛のために、外部記憶を利用することにしました。外部記憶とは、今もで毎日持ち歩いている単なるノートです。毎日、必要なことをメモしています。スケジュールもデジタルではなく、アナログのノートで管理しています。それに加えて、パソコンのハードディスクも重要な外部記憶として利用しています。
 ノートは、少しの記憶力を頼りに時間軸で検索していくために、原始的ですが非常に有効です。保存能力も高いです。一方、ハードディスクは、私が記憶したいもので、私が記憶をさせなければならないので、私の本来の記憶の延長といえます。今では、パソコンのハードディクスは、私の記憶力を遥かに凌駕しています。もちろん、トラブルに備えて、5重にバックアップをとって保護しています。
 検索力は、パソコンを利用すれば、ハードディスクは非常に優秀です。どのフォルダーに納めているのがを覚えていれば、簡単に膨大な記憶にアクセスできます。収納様式さえ定めておけば、記憶力が衰えても有用です。どこにあるかを忘れていても、ハードディスクをすべて検索することも、少々時間をかければ可能です。
 しかし、検索能力の威力は、インターネットを通じた世界中の記録へのアクセスと検索です。インターネットのサイトには、私の以外の人の記憶が膨大に保存されています。
 今では私でも、キム並みの記憶能力と検索能力を持てるようになったのです。必要な情報を、いくらでも記憶でき、いったんハードディスクやインターネットのサイトに保存された情報は、キーワードさえ与えれば、瞬時に検索することができます。つまり、パソコンとインターネットさえあれば、碩学の必要条件は、誰にでも与えられたことになります。
 インターネットを使う人なら今では誰もが利用しているWikipediaの知識を並べ立てるだけでは、碩学にはなれません。もちろん、Wikipediaの知識は今では侮ることができないほどの膨大になっています。Wikipediaを使うことはいいでしょう。キムは、生きたひとりWikipediaなのです。では、私が、キムを超えるには、何が必要でしょうか。
 問題は、Wikipediaの先にあるはずです。いくら検索能力に秀でていても、その先がなければなりません。知識の使い方、つまり知恵が必要となります。では、知恵とはどのような能力でしょうか。知識を検索することの次に、自分なりに検索した知識を活用し、応用し、新しいものを創造していく能力ではないでしょうか。キムを超えるためには、膨大な知識量への検索に加えて、活用、応用して、新たなものを創造することが重要なのでしょう。碩学の十分条件は、創造力という知恵を持つことに至るだと思います。
 キムは、無限の知識と検索の可能性を示してくれました。時代は、私たちにキムに至る必要条件を与えてくれました。キムの可能性の先を、目指すことが重要です。その先にこそ、碩学への道があるのです。

・賀正・
明けましておめでとうございます。
今年は、皆様にとっていい年であるようにお祈りしています。
旧年の私は忙しく、
なかなか落ち着いて自分のことができませんでした。
実は、春から2年間は校務が忙しくなりそうで、
ますます時間が少なくなりそうです。
効率よく時間を使う必要があります。
碩学への道は、遥か先です。
でも、一歩でも歩むこと、道を進むことが
大切だと思っています。

・Wikipediaへの感謝・
インターネットで検索をする人で
GoggleやYahoo、あるいは調べもので
Wikipediaを使わない人はほとんどいないでしょう。
GoogleやYahooは、ネット上でビジネスを展開して、
営利を生み出しています。
一方、Wikipediaは、寄付のみで運営されている非営利団体です。
Wikipediaへの寄付が、今年も募られています。
使用するときに表示がでるはずです。
多くの人は煩わしく思い、無視するでしょう。
しかし、私はそれを見ると、寄付をします。
多くの人はインターネットの情報は
無料だと思っているでしょうが
その情報の背景には多くの努力と善意があります。
このメールマガジンは、私が無料で配信しています。
私も、いくつかのメールマガジンを読んでいます。
そして、私が配信することは、
他者へのなんらかの貢献になると思っておこなっています。
私は、Wikipediaを書くことより、
自分での情報発信をすることを選びました。
なぜなら、私は2000年9月20日に、
メールマガジンの発刊をはじめていたからです。
それから、早、14年以上にたっています。
このメールマガジンは、
1年遅れの2001年9月20にスタートしました。
Wikipedia(英語版)は2001年1月15日からスタートし、
そして早くも2001年5月20日には日本語版がスタートしました。
同じ時期に私のメールマガジンとWikipediaはスタートしました。
それに数年前に気づきました。
それから、自分自身の初心や志を改めに思い起こすため、
そして、外部記憶たるWikipediaへの感謝の気持ちとして、
私は少額ながら毎年寄付をしています。