2003年12月1日月曜日

23 軽石から危うい普遍的認識へ(2003年12月1日)

 石狩川の河口に砂をとりに、家族でいきました。場所がわかりにくいところだったのですが、なんとか河口にたどり着きました。そこは、釣りの人が何台かの車を乗り入れていましたが、昼前には釣れなくなったのか、みんな引き上げていきました。私は砂の採集のために、家族は石狩川の河口の砂浜で遊ました。そのときに思いは巡りました。

 石狩川の河口で、漂着物の中に多くの軽石を発見しました。いろいろなものが混じっているようでしたが、もはや転石となっているので、その由来は定かではありません。軽石は、産地から移動することによって、その由来が不明になってしまいます。その由来がもし確定できるとなると、軽石自身に由来を示す何か強烈な個性、特徴、つまりは情報が記録されていることになります。このようなことは、当たり前に起こるのことなのでしょうか。
 もし、由来が記録されているとしても、人間が読む努力をしなければ、読み取れないでしょう。そのような努力を費やすからには、なんらの目的が必要でしょう。その目的が大きければ大きいほど、ささやかな情報でも読み取られる可能性があります。当たり前のことかもしれませんが、目的があると、軽石自身は何の変化もしませんが、軽石から読み取れる情報は、多くなってくるのです。
 情報とは、目的によって量や価値が変動するのです。軽石は軽石として語りはしません。人が読み取る努力をどの程度するかによって、読み取れる情報量が違うだけなのです。これは、人間の認識のレベルが目的によって自由に変化させることができるからなのでしょう。
 だから、私が、この軽石に由来だけではなく、なんらかの目的で情報を読み取る努力をすることによって、軽石に対する私の認識のレベルが上げられることになるのです。もしその認識において、他の人があまりなさないが、面白い認識があるとすれば、私の軽石に対する認識を他の人に伝えれば、それは価値ある認識となるのではないでしょうか。目的とその到達認識の価値、これが重要です。
 では、軽石をきっかけとして、より普遍的な認識が得られたとしたら、もはや目的すらその普遍的認識の前には重要性をなくしているということだって起こりえます。すると、軽石と目的も、たんなる普遍的認識へのきっかけにしか過ぎないのかもしれません。では、その普遍的認識となんでしょうか。多くの人がその重要性を認められるものであるはずで、なおかつそれは一朝一夕にはたどり着けないようなものであるはずです。
 そんな目で、もう少し、軽石に目を向けてみましょう。
 地質学も科学技術の進歩によって、化学分析の技術も上がってきています。最新の技術を使えば、元素によっては、n(ナノ)のレベルの成分量でも認識する精度に達しています。ナノとは、1グラムの石の中に、10億分の1グラムの量の成分も分析できるということです。
 このような、微量の元素や化合物までを正確に測ることによって、もしかすると、その軽石しか持たない情報ににたどり着けるかもしれません。あるいは、んもっと一般的に石ころごとの個性を記述することができるかもしれません。そのような個性を見つけることは可能かもしれません。つまりは、それぞれを個体識別ができるかもしれないのです。
 では、そのような個体識別に番号をつけたら、どの程度の番号の数が必要でしょうか。すべてのものに個体識別番号をつけるとしましょう。すべてのもとは、さまざまなものがあるでしょうが、平均1グラムであると仮定しましょう。もっと小さいもの、もっと大きいものがあるかもしれません。問題があるようなら、この平均質量を変えてやり直せばいいのです。桁数を考えてみるのです。これで、問題はいった何グラムくらいのものがあるだろうかという問いに変換できました。
 ここで、指数というものを使うことになります。指数とは10の2乗とか3乗とかいうもので、10の2乗とは100のことで、10の3乗とは1000のことです。つまり、乗(じょう)とは、1の後ろにいくつゼロがつくかということを意味しているわけです。ここでは、テキストだけで記述する必要があるので、10の2乗を10^2、10の3乗を10^3と書くことにしましょう。
 では、地球について考えていきましょう。地球の質量は6×10^24キログラムです。これをグラムであらわすと、6×10^27グラムとなります。つまり、6×10^27個の個体識別番号があればいいことになります。
 次に、地球よりもっと大きな存在である太陽系について考えてみましょう。太陽の質量は、2×10^33グラムです。太陽系には惑星やその衛星、彗星、惑星間物質などもあります。でも、太陽系物質全体として、太陽の質量の0.1%くらいにしかなりません。ここでの話は、個体識別番号がどれくらい必要かという問題なので、多めに見積もって太陽の2倍ということにしておきましょう。太陽系の質量は、4×10^33グラムとなります(ここでは桁を考えていますので有効数字を1桁で考えます)。太陽系には4×10^33個の個体識別番号が必要となります。
 さらに広げましょう。私たちの銀河はどれくらいの質量をもつのでしょうか。銀河には、数千億個の恒星があるとされています。だから多い目に見積もって一桁多く1兆個としましょう。また、まだ見つかっていない暗黒物質もあるようですから、さらに一桁増やし10兆個の恒星分の質量があるとしましょう。指数で書けば、1×10^13個となります。太陽は、ごく普通の平均的恒星とされています。でも、多い目に見積もり、太陽系の10倍が平均的な恒星の質量としましょう。4×10^34グラムの質量となります。私たちの銀河には、4×10^34グラム×1×10^13個で、4×10^47グラムとなる。つまり、私たちの銀河には、4×10^47個の個体識別番号があればいいことになります。
 さて、最後に宇宙全体に、この話を広げておきましょう。宇宙には、銀河が多数あり、それが模様をなしていると考えられています。その銀河の数は、やはり数1000億個とされています。ここでも、多い目に見積もり、1兆個としましょう。すると宇宙の質量は、銀河の質量×銀河の数でから、4×10^47グラム×1×10^12個、つまり4×10^59グラムとなります。宇宙、つまりこの世の個体識別には、4×10^59個の数があればいいのである。
 このさい、徹底的に増やしていきましょう。つまり、個体識別番号をの最大値を考えておき、その数がとてつもなく大きくて扱いきれないようなものなら、私たちには、この世のすべてを個体識別して記述する術はないということなります。では、そんな最大値を推定しておきましょう。
 この個体識別の話は、もともとは、1グラムの石に細分することからはじめました。しかし、石ころには、多くの鉱物があり、鉱物は原子のきれいに並んだ結晶である。だから、この際、原子ひとつずつに個体識別番号をつけ、その数と並びを記述すれば、鉱物が記述でき、そして鉱物の集合が1グラム石ころとなります。
 つまり、宇宙のすべての原子ひとつずつに個体識別番号をつけてしまえばいいのです。宇宙には何グラムの物質があるかは上の話でわかった。次にすべきことは、1グラムの石が何個の原子からできているかという問題なります。
 ここでも、多い目の数を見積もっておきましょう。一番軽い原子は、水素です。その重さは、6×10^-24グラムほどです。マイナスのついた指数は、小数をあらわし、ここでもゼロの数を意味しています。0.1は1×10^-1、0.01は1×10^-2となります。
 したがって、1グラムの石の中には、1グラム÷(6×10^-24グラム)で、2×10^25個となります(ここでも桁数しか考えていません)。これを、先ほど求めた宇宙の質量にかければ、4×10^59グラム×2×10^25個で、答えは、8×10^84個となります。つまり、10^85個ほど個体識別番号を用意しておけば、この世のすべてのものに対して個体識別が可能となります。
 この世のすべてにものについて個体識別番号は85桁の数があればいいいのである。これは、私たちが馴染みある数字で考えました。つまり10進法です。もし、アルファベット(26文字)と数字(10文字)とをあわせて36文字を使用すると、つまり36進法にすると、55桁ですみます。
 もしこれを二進法であらわすと282桁となります。これくらいの大きな桁になると、少々の見積もりに誤差があっても、大きな違いとは見えなくなってきます。だから、コンピュータで扱いやすい二進法にすればよいのです。
 282桁の数は、考えてみれば、少ない数のように思えます。技術計算や暗号など、コンピュータがあつかっている数は、もと大きなものもあります。だから、現状のコンピュータでも十分処理可能なものといえます。
 私が拾った軽石すべてに個体識別をつけるの簡単です。そして、技術の進歩によって、その由来もわかったとしたら、個体識別番号にその氏素性をいっしょにして記録することも可能でしょう。しかし、問題は最初の話に戻ります。目的、つまり何のためにそれをするのかということです。
 私は、今回拾ってきた軽石は標本として、試料番号をつけました。それは、石狩川河口で2003年11月1日に見つけた試料として、他の軽石と識別するためにでした。他との識別のために番号をつけるのです。それは、アルファベットと数字の入った11桁の数であす。55桁の数と比べたら少ないものです。でもその識別番号がないと、情報と試料が一致しなくなります。試料と結びつかない情報は、私の場合、価値がなくなります。
 さて、ここで次の問題が出てきました。試料から情報を読み取ることができます。しかし、その情報は試料を扱っているものにとっては、実物から遊離しては価値のないものとなります。したがって、実物と情報はつねに対応しておかなければなりません。
 ところが、普遍的認識にいたるとき、たとえば、石ころをつかって、地質学の論文を書くとき、研究者自身は試料と情報は決して遊離させていけなのですが、普遍化するとき、情報の素性さえ確かであれば、情報は試料から遊離していいのです。あるいは、試料の個別の存在が薄ければ薄いほど普遍性が大きいともいえます。
 「情報の素性の確かさ」は、研究者の良識、あるいは倫理が保証しているものです。これがなければ、普遍的認識は崩壊してしまいます。じつは、こんな危ういものに私たちの認識が依存しているということになります。いってみれば、研究者の性善説に乗っかった上での普遍化なのです。
 この研究者の性善説という神話のごときものは、何度も崩壊しています。最近の日本で誰もが知っている例では、考古学の石器偽造事件です。この事件は、ひとつの事件ではなく、日本の考古学全体の体系に疑問視されるようになったのす。あるいは、科学者の自体の倫理も問題にされるべきであるとうことになのです。
 さてさて、インターネット時代になり実物をもってない情報発信、倫理感をもたない人からの情報発信がはじまっています。こんなとき認識を深めるためには、なにをよりどころにすればいいのでしょうか。問題です。
 軽石の話題は、まだまだ巡りそうですが、ここまでにしましょう。多くは「名もなき」軽石なのでしょう。そんな名もなき軽石のささやきから、聞こえたのは、こんな人類の危うい認識への警鐘であったのです。